伊25とは、大日本帝國海軍が建造・運用した巡潜乙型/伊15型潜水艦6番艦である。1941年10月15日竣工。通商破壊で米油槽船3隻とソ連軍潜水艦を撃沈した。最も有名なのは二度に渡ってアメリカ本土爆撃を成功させた事であろう。1943年9月3日、エスピリトゥ・サント島方面で消息不明となる。戦果は撃沈4隻(2万5493トン)、1隻撃破(7126トン)。
概要
帝國海軍一の特異な艦
伊25は、巡潜乙型に属する大日本帝國海軍の一等潜水艦である。
1936年にロンドン海軍軍縮条約から脱退した日本は、巡潜三型をベースに戦隊旗艦用の巡潜甲型と量産型の巡潜乙型の二本柱で潜水艦戦力の拡充を図った。巡潜乙型は甲型から旗艦設備を撤去しつつ若干の簡略化・小型化を施して生産性を高め、また広い太平洋上で侵攻してくるアメリカ艦隊を捕捉するため長大な航続距離と水上機運用能力を持つ。故に通商破壊、航空偵察、輸送任務など多種多様な任務に従事する事が可能だった。ただ甲型より小型化した弊害で魚雷搭載本数が18本から17本に減少、甲型が持っていた九三式水中聴音機と九三式水中探信儀は装備しておらず、25mm連装機銃も1基のみに減らされている。加えて量産型と言えど乙型を完成させるには2年以上の時間が必要であり、戦時急造に向かないため戦争中期からは簡略化が進んだ巡潜乙型改一、改二、丙型改へとバトンタッチしていく事となる。それでも乙型は帝國海軍潜水艦最多の20隻が竣工、計画では32隻まで生産されるはずだった。潜水艦が挙げた戦果のうち44%は巡潜乙型が占めている功労者の家系でもある。
中でも伊25は特異な記録を複数持っている。史上初のアメリカ本土爆撃を皮切りに、日本潜水艦最多(19回)の航空偵察、日本の艦艇で唯一ソ連艦艇を撃沈、「アメリカ本土の」軍事施設を唯一攻撃がある。もはや特異記録のデパート。直接的な戦果以外にも、アメリカ本土爆撃を成功させた事で伊400型や水上攻撃機晴嵐の開発に影響を与え、戦略爆撃機富嶽の設計がスタートするなど、兵器開発面においても多大な変化を及ぼした。ちなみに日本潜水艦が敵潜水艦を撃沈した例は三つしかない(伊166による蘭潜水艦K-XVI撃沈、伊176による米潜コーヴィナ撃沈、そして伊25によるソ連潜水艦L-16撃沈)。
要目は排水量2198トン、全長108.7m、全幅9.3m、喫水5.14m、速力23.6ノット(水上)、8ノット(水中)、重油774トン、乗員94名、安全潜航深度100m。零式小型偵察機1機を運用可能。武装は95式魚雷17本、53cm魚雷発射管6門、40口径14cm単装砲1門、25mm連装機銃2丁。
どの潜水艦もそうだが、沈没すれば艦長から一兵卒まで根こそぎ戦死のため、一蓮托生の意識が強かった。伊25は特にその意識が強く、乗組員同士の間には確かな絆や礼儀が存在し、階級の垣根を越えて全員が良好な関係を築けていた。故に鉄拳制裁や理不尽な暴力が全く無く、士官用・兵員用のトイレも階級の区別無く使用。この事が乗組員の能力を極限にまで引き上げて数々の困難な任務を可能とした。
艦歴
開戦前から厳しい訓練
1937年に策定された第三次海軍軍備補充計画(通称マル三)において、乙型一等潜水艦第42号艦の仮称で建造が決定。1306万2460円の予算が捻出された。
1939年2月3日に三菱重工神戸造船所で起工。1940年6月8日に進水式を迎え、水上・水中・武器・重心査定などの終末試験を行う。対米英戦争の足音が迫りつつあった1941年4月28日に艤装員長として田上明次(たがみあきじ)少佐が着任、5月1日に艤装員事務所を設置する。艤装員は造船所の一角にある木造の二階建てを宿舎とし、工員の仕事に立ち会うのだが、いちいちラッパの音が鳴り響かない上に日課もそんなに忙しくない事から、艤装員も工員もゆったりとした雰囲気だった。艦内と甲板には足の踏み場も無いほど赤褐色の鉄板や鋼材が置かれ、ガスバーナーのホースがツルのように広がっている。工員たちは作業着を油まみれにしながら朝から晩まで働き、門が閉まる22時までに造船所を出て宿舎へ戻り、それから風呂と食事を済ませて就寝。これが1日のサイクルであった。仕事がキツい訳でもないから艤装員は夜遅くまで呑んでは財布をスッカラカンにしてしまう。
そして1941年10月15日に竣工を果たした。完成した艦体は神戸造船所で海軍に引き渡され、軍艦旗の掲揚と乗組員の発令が行われる。伊25は横須賀鎮守府に編入されるとともに姉妹艦の伊24と第4潜水隊を編成し、第6艦隊第1潜水戦隊へ部署。母港の横須賀に向かった。
伊25が竣工した時には既に日米開戦は避けられない状況と言えた。10月25日に艤装員長だった田上明次少佐が初代艦長に着任し、すぐさま出撃準備に取り掛かる。田上艦長は常に呑気な性格だがいざとなると機敏に適切な命令を与える人物だったという。竣工後は艤装中の時とは打って変わって忙しくなった。食糧品や生活必需品などあらゆる備品が積み込まれ、兵装と機械の作動検査も並行して実施、毎日出港しては潜航訓練・戦闘訓練・魚雷の調整を行った。仮に不備や故障が確認されれば即座に修理となる。特に厳しく行われたのが急速潜航訓練だった。潜水艦は、いかに潜航までの時間を短くするかで生死が分けられると言っても過言ではない。急速潜航訓練はいつでも出来る事から、港内の桟橋に横付けしている時でさえ、突如として「両舷停止」「潜航急げ」の号令を合図に開始される。艦橋の見張り用の潜望鏡にフタをして固定し、乗組員がハッチから艦内に飛び込んでいく。最後の者がハッチを閉めると「ハッチ良し!」と声をかけ潜水艦は潜航を始める。訓練中はここまでの事を繰り返すのだ。最初こそ時間が掛かっているが、訓練を重ねるごとに20秒、10秒と次第に所要時間が縮まる。飛び込む際にしくじると怪我をするので回を重ねるごとに工夫も重ねていく。こうして見る見るうちに彼らは練度を高めていった。
10月31日、第4潜水隊の司令潜水艦に指定され、小田為清大佐が伊25へと乗艦。
11月5日の御前会議で遂に開戦が決まり、同日中に大海令第一号が発令された。伊25が所属する第6艦隊は南雲機動部隊によるハワイ作戦の支援を命じられ、偵察、敵艦隊への襲撃、通商破壊の任務を受け持つ。また、開戦日が12月8日に定められた事でそれまでに作戦海域へと進出する必要があった。11月7日、宿毛湾にて艦載機となる零式小型水上偵察機と、岩国航空隊から来た搭乗員2名を収容。そのうちの1人は後に大きな武功を立てる藤田信雄海軍飛行兵曹長がいた。乗艦した藤田飛行兵曹長は、狭い艦内と空気の悪さに驚かされる。岩国航空隊時代の広々とした環境とまるで違っていたからだ。同時に艦内の至る所に走るパイプや機械と計器、それらを無駄なく狭い空間に収めている設計に感嘆したという。瀬戸内海で水上機の発進訓練を行ったのち横須賀へ回航。11月8日、第6艦隊司令部より軍隊区分が発令され、伊25は先遣部隊第1潜水部隊に編入、ハワイ作戦の支援及び敵艦船の監視と攻撃を命じられた。
横須賀に寄港中、狭い艦内には長期航海3ヶ月分の食糧が積み込まれた。その量はトラック十数台分。艦内には米麦庫、味噌醤油庫、野菜庫、冷蔵庫、漬物庫などがあったが容量は十分ではなく、あっと言う間に倉庫は満杯。通路にまであふれ出てしまった。やむなく缶詰めの上に薄い板を置いて強引に通路とした(ちなみに設計の段階からこうする想定だったとか)。士官用テーブルの下にはイカの塩辛、酒、ビール、カルピスなどの嗜好品を積載。伊25の食糧とも言うべき真水と重油も当然満載した。普段は炸薬が入っていない訓練用の魚雷を積むのだが今回その訓練用魚雷を陸揚げし、実戦用の本物魚雷6本を発射管に装填、発射管室に11本を収容する。防暑服から防寒服まで積載された上、食糧品の中には熱糧食と呼ばれるカロリーの高い菓子類や嗜好品も含まれ、海図類は東南方面や南方方面のものが積み込まれるなど単なる航海にしては異様とも言え、乗組員は言い知れぬ違和感を覚えていた。というのも彼らには行き先や任務内容が伏せられていたのだ。したがって、彼らは「おそらく南洋長期行動(南洋の委任統治領へ訓練航海)だろう」と思っていた。毎日のように魚雷、食糧品、重油が積載される中、購入した58冊の書籍も積載されている。燃料35トン、108人分の食糧30トン、真水24トンなどを積み込み、伊25の排水量は3000トンにまで膨れ上がる。ただでさえ狭い艦内が物資で埋め尽くされてより窮屈となり、背中を曲げて中腰で移動しなければならない苦痛が常について回った。思わず突起物に頭をぶつけて屈強な男が涙をポロポロ流す光景は日常茶飯事だったとか。
11月15日、第6艦隊司令の清水長官が参謀長を伴って横須賀を来訪し、第1及び第2潜水部隊と作戦の打ち合わせを行う。11月19日には伊25の視察をしている。
主要幹部は出撃前夜から伊25に寝泊まりして生活必需品を積載。出港の4時間前にジャイロを起動させ、出港2時間前に迫ると機械部員が主機の試運転と暖気を開始、1時間半前に「出港準備」が下令されると乗組員が移動物や音が出そうな物の固縛を行ったり、味方識別用の日の丸と艦名を記入する。最後の仕上げとして潜航長が艦内を見回り、異常が無い事を先任将校に告げる事で出港準備は整う。11月21日の横須賀の空はどんよりとしており、午前10時頃から冷たい秋雨が降り始めた。出港15分前、「航海当番配置につけ」の号令とともに田上艦長や航海長が艦橋に上がり、機関科が配置に就いて、手すきの者は整列して待った。そして定刻を迎える。
いざ、ハワイへ
11月21日14時15分、伊15や伊17とともに横須賀を出港。出港用意のラッパが鳴り響く中、見送りの人々が一斉に帽振れを行う。舫いを離した伊25はゆっくりと岸壁から離れてゆく。潜水艦隊旗艦の練習巡洋艦香取の甲板上には清水光美司令長官を始めとした幕僚が整列して帽振れをし、停泊中の戦艦や巡洋艦、駆逐艦からは旗流信号または手旗信号で「ご成功を祈る」「貴艦の武運長久を祈る」といった激励の言葉が投げかけられた。田上艦長は双眼鏡で針路を確認する傍ら、信号員が旗流信号を掲げて返礼する。これがまた忙しい。こうして多くの仲間に見送られながら伊25は荒れた海へと漕ぎ出す。
海上はかなり時化ていて霧雨が降っていた。その日のうちに風も出るようになり、荒波に揉まれながらの航海となる。出港から2時間ほどが経過した16時、「三直哨戒配備、一直哨兵残れ」との号令が下された。田上艦長から「東京湾を出た辺りから時化になるようだ。夕食は早めにしよう」と提案があり、総員手洗い準備と食事準備の号令が下る。しかし潜水艦では真水は大変貴重なので手を洗わずボロキレで手を拭うだけである。夕食は出撃を記念してビールや清酒に加えて刺身まで出る豪勢なものだったが、東京湾を出ると波浪が更に激しくなり、さすがの猛者たちも船酔いを発症。夕食をまともに食べられた者は殆どいなかった。食べられた者も艦の揺れで胃の中を戻しそうになり、「卑しく食べなきゃ良かった」と後悔したとか。空も、海も、墨で染まったかのような黒さだった。
出港から数日の間は暴風雨に見舞われ、29mもの大波と強風が伊25を食べ尽くさんと覆いかぶさる。過酷極まりない環境下で、司令塔ではゴム製の雨合羽を着た見張り員9名が、四方八方に注意を向かわせている。当直時間は通常3時間だが敵との遭遇が考えられる現在は2時間となっていた。
11月25日にようやく風が止んだ。艦内から聞こえてくるのはエンジン音と先任将校の筑土龍男大尉の号令だけだったが、相変わらず波が高い。この日、艦長の田上少佐から真珠湾攻撃に向かうとの説明があり、乗組員たちはようやく航海の目的を知る事となった。「12月8日を目途として開戦を決意しあり、ただし目下は外交交渉の途上にあり、開戦の実施は改めて発令せらる。このような命令を受けて出撃したのであった。その時外交交渉が成立した場合の暗号は――筑波山は晴れたり――であった」。詳細こそ伝えられなかったが、それでも電信員からの情報で概要は把握できた。暴風雨が止んだ太平洋は実に平穏で、やっと艦橋から上甲板へ降りられるようになったため、艦尾の軍艦旗を降下。艦橋の舷側に書かれた「イ25号」の艦名も塗り潰して“国籍不明”の潜水艦となった。ミッドウェー島の飛行哨戒圏を避けるため北方へと迂回し、艦はグングンと東に向けて進撃していく。ただ、いくら東に進んでも現地時間ではなく日本時間を使い続けたため、実際の光景と時刻に乖離が生まれて感覚が狂い始める。日の出は午前4時、日の入りは14時10分頃であり、太陽が真上にある状態で朝食を取る。感覚のズレから食欲が湧かない者も現れた。まだまだハワイまでは遠く、日中でも敵に見つかる可能性は低いので水上航行で進み続ける。敵に見つかる危険性が無い夜間はのんびりと過ごす事が出来、艦橋に集まってスパスパとタバコまで吸えた。外に出て新鮮な空気が吸えるのは喫煙者だけで非喫煙者はずっと艦内で勤務である。中には出港から入港まで一度たりとも陽の目を見なかった乗員までいた。潜水艦乗りになると喫煙者になると言うが、むべなるかな。夜間は煙草を吸っているとはいえ灯火管制は完璧であり、隣の者の顔すら分からないくらい真っ暗だった。11月29日午前6時、日付変更線を通過。来る日も来る日も空と海は変わらず同じ風景であり、見張り員を退屈させた。一方で平穏な海は乗組員の食欲を回復させ、投棄される残飯の量が減ったと主計長を喜ばせた。
12月2日、連合艦隊より「ニイタカヤマノボレ1208」の暗号文が届く。もはや日米開戦は避けられない事態となった。12月4日午前2時、敵地に近付いてきたため昼間は潜航して航行する方針に。水中速力2~3ノット、1時間あるいは2時間おきに潜望鏡を出して海上の様子を窺う。今まで使われていなかった聴音機も作動を開始した。きたるべき決戦の時に備え、聴音機のクセや感度などをよく調べ、調整しておかなければならない。日没後の午後12時45分、敵影が無い事を確認したうえで浮上。開けられた艦橋のハッチから新鮮な空気が流れ込んでくる。「喫煙許可す」の号令が下り、見張りの邪魔にならないよう3人ずつ、所要時間3分で艦橋にのぼって煙草を吸う。潜航中は一切吸えないので、喫煙者にとってこの時が至福の一時であった。12月5日、伊25は深度18mまで浮上。潜水艦では奇数の時刻になると司令部から電波が発せられるため、これを受信するために20m~18mまで浮上する必要があった。翌6日、潜望鏡を出して海上の様子を窺ってみると、遠くの空に黒点のようなものが確認された。14時30分、オアフ島の北西で東進するアメリカの偵察機8機を発見。こちらに向かってきている。すかさず田上艦長は「急速潜航!深度40!」と命令、探知を防ぐため海中に潜航退避した。幸い、敵機には気付かれなかった。航行中、特に暇なのが軍医長田沢大尉と飛行長の藤田飛行兵曹長であった。基本傷病者が出るまでは軍医の出番は無く、飛行長も航空機発進の場面が来るまでは退屈である。いつしか2人は非番の者を艦橋に集め、トランプに興ずる役目を担うようになった。
他国に悟られる事無く、12月7日に伊25はオアフ島付近の指定配備地点に到着。潜航して開戦の時を待った。伊25、伊9、伊15、伊17でオアフ北東の哨戒線を形成し、伊25は最東端に配備された。用事の無い者は艦内の空気を汚染しないよう寝るのが務めだった。夜半、伊25は浮上して電報を受信する。電信員によれば真珠湾に停泊している敵は戦艦6隻、空母1隻、重巡6隻、駆逐艦6隻、その他多数在泊との事だった。しかし艦隊とは生き物である。今日在泊していても明日いるとは限らない。我が国最大の大博打、どうか在泊していてくれ…。
大東亜戦争
そして1941年12月8日、大東亜戦争の幕開けとなる真珠湾攻撃を迎える。夜明け前に伊25は潜航、外の様子に耳を傾ける。午前5時、潜望鏡を上げて「総員配置」の号令が下る。艦内神社には新たな御神酒と榊が供えられ、ろうそくにも火が灯された。いずれ来るであろう「湾口に突入せよ」という突撃命令に備え、総員緊張な面持ちで命令を待った。しかし、2時間ほど経過しても命令は来ない。筑土大尉が電信室に行き、電信員を急かしたその瞬間だった。午前8時15分(午前7時49分とも)、爆発音や戦闘音を探知。ついに南雲機動部隊による攻撃が始まったのだ。激しい爆破音は潜航中の伊25にまで届き、「やったぞ!」「大成功だ!敵艦全滅か!?」と万歳の声で溢れかえった。だが伊25に出番は回ってこず、田上艦長はつまらなさそうな顔で一人トランプを切っていた。ちなみに湾内の敵情が不明瞭な場合、南雲機動部隊は伊25の搭載機を使って偵察するつもりだった。しかし直前になってホノルル領事館の森村正書記生によって在泊艦艇の情報がもたらされ、中止となった。水偵による偵察は敵に発見される危険性が高いため、もし発令されていれば伊25は撃沈されていたかもしれない。
午前8時30分、港内から脱出してくるであろう敵艦船の襲撃を命じられる。伊25は臨戦態勢に入ったが、激しい戦闘音に阻まれて発見できなかった。午後12時45分、オアフ島から幾つのかの爆発音が聞こえてきた。艦内では聴音員が二台の整相器を使って音源を捕まえようとするが、推進音ひとつ拾う事が出来ない。調節を続けても全く聴音出来ず、次第に故障が疑われ始めた。いつしか聴音室の周りには人だかりが出来、湾口から出てこない敵艦の事情をあれこれ妄想した。30分、1時間と時間が過ぎていくも、状況に変化なし。そうこうしているうちに昼食の時間となり、攻撃成功を祝して赤飯の缶詰めとウナギの蒲焼きが出された。昼食後も聴音員は耳を澄まして音源を捜す。結局一日中探し続けたが、1隻たりとも捕捉する事は叶わなかった。同日夜、伊25は浮上。バッテリーの充電を始める。19時、南雲機動部隊の戦果が伊25に届けられた。同時に「港外に停泊せる敵空母2隻は奇襲を逃れ、逃走中なり」という情報が寄せられ、その敵空母を伊74潜が追跡しているという。味方が活躍しているのを聞いた乗組員は一様に羨ましいと思った。夜空には満天の星空が広がり、真珠湾のある方向の空が心なしか赤く染まって見える。このまま魚雷1本も撃たずに帰るのは少々物足りない感じがした。翌9日、再び潜航。深度30mの地点で敵艦船を待ち伏せたが、やはり敵は来ない。「いちばん貧乏くじを引き当てたか」と愚痴がこぼれる。既に南雲機動部隊は凱歌を上げて帰国の途についており、潜水艦だけがポツンと残された。夕刻、浮上してバッテリーを充電する。この時、第6艦隊の旗艦香取からの新たな命令を受信。伊6がレキシントン級空母と2隻の巡洋艦を発見したらしく、その追撃を命じられる。
敵艦上機と初戦闘
12月10日夜、浮上してみるとハワイ南西D地点への移動命令を受信した。全員小躍りし、決戦を求めて水上航行を始めた。夜光虫から白い航跡を青白く光らせる。ところが午前4時15分、オアフ島北方でエンタープライズ艦載機が出現。伊25の頭上を航過したと思いきや、バリバリと機銃を撃ち込んできた。間もなく艦後方にも着弾を示す水柱が築き上げられた。田上艦長の「両舷停止、潜航急げー!」の声とともに急速潜航の準備に取り掛かる。日頃の成果を見せる時だ。最後の信号員がハッチを閉め、潜航。わずか30秒で水中に潜り込んだ。「艦内各部、浸水箇所は無いか報告せよ」と言われ、各部署で調査が始まる。やがて司令塔へ「異状無し」の報告が次々に寄せられた。敵機はまだ上空を旋回しており、狙いを定めずに爆弾を投下しまくっている。何も見えない暗闇の海では狙いを定めたくても出来ないのだろう。爆撃は執拗だったが、やがて止まった。しばらく様子を見たのち、夜間用の潜望鏡を上げるべく水深15mまで浮上する。潜望鏡で周囲を確認したところ、敵影は無し。
午後12時45分、艦は海上に顔を出した。次の瞬間、至近で爆弾が炸裂。ズシーンという重低音とともに艦が持ち上げられるような震動が走った。まだ敵機が残っていたのだ。慌てて再度急速潜航を行い、海上から姿を消した。敵機の姿が見えなくなった後、浮上。気を取り直してレキシントン級の追跡を再開、全速力で波を蹴った。ところが再度爆撃を受け、潜航を強いられる。思わぬ足止めを受け続け、ついには夜明けを迎えてしまった。執拗を極める敵機の攻撃から逃れるべく、伊25は重油を放出した。敵機に撃沈したと思わせる策である。航続力を考慮して放出できた量は少なかったが、これを機に爆撃音が止まった。上手く引っかかったのだろうか?恐る恐る浮上してみると、左舷の至近距離で大爆発が起きた。敵機は引っかかっていなかったのだ!爆風で艦は右舷側へ押し倒されそうになる。幸い浸水は無く、わずかな損傷さえ負わなかった。12月11日13時、潜航中にバシャバシャという変な騒音が聞こえ始めた。魚群がぶつかった訳でもない。田上艦長が潜望鏡を上げてみると、スコールの音だと判明。スコールは敵機の目から守ってくれる天然の隠れ蓑だ。敵機に散々追い回された伊25にとって天佑神助であり、すぐさま浮上。浮上してみると海上は大荒れであり、搭乗員、砲兵士官などが割れたガラスの破片で負傷した。間もなくスコールの庇護下に入り、敵の哨戒網から脱出。生死の境目をさまよい続け、ようやく生を掴み取った瞬間だった。余談だが近海では伊70が敵艦載機の攻撃で沈められている。
12月12日、ハワイから東方400海里の地点まで到達。昼間は潜航し、夜間のみ水上航行をする方針で西海岸沖を目指した。ちなみにこの辺りは敵の哨戒区域外らしく、敵機の姿は見受けられなかった。
アメリカ西海岸で通商破壊
12月13日になってもレキシントン級空母を捕捉出来なかったため連合艦隊は第1潜水戦隊に対し、敵空母の追跡を続け、引き続き米西海岸方面で作戦を行うよう命令。西海岸沖で作戦を行う潜水艦群は「先遣支隊」と呼称され、新たに伊10潜が加えられた。命令を受領した伊25は東進を続け、逃走した敵空母を追ってアメリカ西海岸沖へと進出。潮書房光人社出版「伊号潜水艦」によると旗艦より「伊25潜はアメリカ西海岸の通商破壊とともに、12月25日に西海岸の砲撃を行い、1月12日頃にクェゼリンへ帰投せよ」と命令を受けた事になっている。12月14日午前8時45分、浮上航行中に見張り員が白色灯を発見。攻撃態勢に入ったが、まだ夜明け前で暗かったため敵船を見失う。20分後、右舷艦首方向にタンカーの船影を確認。田上艦長は魚雷攻撃を命じ、油槽船L・P・セントクレアを炎上させる。燃え盛る敵船を見て2本目の魚雷は必要無いとして伊25は引き上げたが、実際にはL・P・セントクレアに命中しておらず、コロンビア河まで逃げ込んでいる。乗組員は潜水艦から攻撃された事を報告した。攻撃後、格納庫の一部が浸水している不具合が確認された。この日のうちに進出中の各艦は燃料残量の報告を行い、伊25は480トンと報告している。
12月15日夜、伊25は浮上。周囲はめっきり寒くなり、寒暖計は14℃を指している。乗組員は防寒服に着替えて見張りに付いた。そろそろ敵の哨戒区に突入するため、見張りも厳重だった。翌16日午前3時30分、シアトルの西方600マイルを航海中に「クリスマスの日に艦砲射撃を実施せよ」との命令を受領した。潜航中でも寒くなり、壁には冷たい水滴が浮いている。まるで艦内が冷蔵庫そのものになってしまったかのよう。騒音が出るから冷暖房の類は無く、小型ヒーターだけだった。12月18日、通商破壊に備え、潜航中に水雷科員が魚雷の調整及び発射準備を整える。そしてこの日の夜、浮上。ここはサンフランシスコに通じる河口の沖合い30海里だった。アメリカの山々が海岸線に迫り、ゆっくりと明滅する灯台が確認できる。まるで今が戦争中だとは思えない穏やかな風景だった。しかし水中測探儀で海底を探ってみた所、この海域は水深20mしかなく、敵に発見された時の逃げ場がないため慌てて沖に出た。海図の上ではそんなに浅くなかったはずだが、河口付近はよく洲が出来るので油断大敵である。夜光虫の数もやけに多く、艦の航跡を光らせてくるので困り者であった。午前11時30分、東の空が明け始めた。間もなく夜明けのようだ。敵に見つからないよう、潜航してから朝食を取る。潜航中は米を炊く事が出来ないので、乾パン、食パン、缶詰めの赤飯、稲荷寿司、五目飯、餅などを食べる。潜水艦は過酷な環境ゆえに食糧は優先的に良い物が支給される。このところずっと潜航食糧ばかり食べていたため、残量が心もとなくなってきた。そこで夕食を少し遅らせ、日没後の浮上時に米を炊く事になった。
西海岸には10隻の伊号潜水艦が進出。伊25は北部のアストリア沖に配備された。ちなみに最北は伊25の一つ上、フラッタリー岬に配備された伊26である。さっそく伊25はコロンビア河口付近で通商破壊を開始した。12月19日、潜航中にトリムが振動して「カチカチ」という異音がするようになった。調べてみると、格納庫に浸水が認められた。
12月20日午前4時45分(18時16分とも)、日没後に突如艦橋の前方見張り員が声を上げた。「右10度、白灯1個、動静不明!」これはサンフランシスコの沖合い30海里で米1万トン級タンカーエミリオ(6912トン)の舷窓から漏れる光だった。直ちに「前進微速」の号令がかけられ、艦がゆっくりと動き出す。続いて「艦内配置につけ」「魚雷戦用意」の号令が飛び、第二戦速で接近する。開戦後初の獲物を前に、冷静沈着な田上艦長は興奮気味であった。実は艦長を含め、全員が魚雷戦が初めてなのである。敵船の側面に回り込み、雷撃体勢を取ろうとする伊25。転舵によって敵の白色灯が右へ左へ揺れる。田上艦長は微動だにせずに白色灯を凝視している。獲物を狙う狩人の目だ。ところが、突如として白色灯が見えなくなった。「取り舵!」「もどせー」「面舵」と次々に転舵しながら闇夜の中を走る。辺り一面は真っ暗闇で、どこへ隠れたのか皆目見当が付かない。
静寂の闇が包む中、「目の前に突然黒い岸壁のようなものが現れた!」と艦橋の皆が騒ぎ出した。「船だッ!」と誰かが叫ぶ。田上艦長は「ぶつかるぞ、取り舵一杯」と下令し、艦は35度急転舵を行った。危うくエミリオの船腹に衝突するところだったが、何とか回避に成功。急速に旋回したため乗組員は床に投げ出され、あらゆる物がひっくり返った。天井ではドーンという音が聞こえた。おそらく艦載機が壁にぶつかったのだろう。どうやらエミリオは伊25の存在に気付いていないらしい。ホッとしたのも束の間、また敵商船を見失ってしまった。艦内では今か今かと、鉢巻姿の魚雷員が発射の命令を待つ。相手は商船という事なので、伊25は浮上航行のまま約20分間捜索。再びエミリオの白灯を発見し、相手の右舷側に位置を取った。今度こそ逃がすものか、と距離を縮める。距離も良し、角度も良し。田上艦長は自信のこもった声で魚雷の発射準備を伝える。ここでエミリオが伊25の存在に気付き、全速力で逃走を図ろうとするが、間に合わない。「撃て!」の号令とともに、ゴクーンという音が鳴り響いた。艦首から発射された魚雷1本は、エミリオに向かって伸びていった。2秒、3秒、5秒、10秒、20秒……息が詰まるような静寂を経て、耳をつんざく轟音が艦内に鳴り響いた。命中だ。闇夜を縦に切り裂く火柱が立ち上がり、爆風で艦が揺さぶられる。艦内では「命中だ」「万歳」「万歳」の声が上がり、大騒ぎとなった。雷撃を受けたエミリオは大破炎上。甲板上を右往左往する人影、ボートを降ろす乗組員、中には海へ飛び込む乗員の姿も見受けられる。次第に敵船は右舷へと傾いていき、甲板線が水面すれすれにまで沈んだ。しかし、それ以降はなかなか沈まない。田上艦長は「もう1本撃ち込みますか?」と第4潜水隊司令の小田為清大佐に尋ね、小田大佐は「大丈夫、1本で沈む」と返した。艦長と航海長が戦果を確認すべく艦橋から双眼鏡で今際のエミリオを観察していたが、突然爆発が起こり、艦と人を赤々と照らし出した。衝撃で巻き上げられた破片が艦橋と甲板に降り注ぎ、ドタンバタンと音を立てる。火だるまと化したエミリオは船尾から沈没を始める。敵船の甲板上にはまだ乗組員がいるようで、衣服に炎が燃え移って絶叫している乗員の姿もあった。エミリオが沈没すると、辺りは静寂の闇に戻った。こうして伊25は初の戦果を挙げ、艦内は沸き立った。ただアメリカ側の資料に撃沈記録は無く、エミリオも伊17が仕留めた事になっている。一方で伊25の元乗員は異口同音に、この日に「何か」を沈めたと証言している。
計画ではクリスマスの日に、沿岸に展開した伊号潜水艦群が一斉に30発分砲撃する予定だった。ところが敵機の警備が厳重なのと、クリスマスの日に死傷者を出せば敵の戦意を煽るとして中止された。伊25は今まで通り通商破壊を続行した。
初戦果から2日後の12月22日、旗艦より「パナマ運河を通過してロサンゼルスに向かう戦艦ニューメキシコ、アイダホ、ミシシッピをサンフランシスコ沖で捕捉・撃滅せよ」と命令を受け、第二戦速で南下。伊9や伊17とともにロサンゼルス・サンフランシスコ間の海域に移動する。敵がいない夜空では無数の星が光を放ち、幻想的な景色を演出していた。そんな夜空が白んできたので、夜が明ける前に潜航した。そんな中、突如アクシデントが発生する。20時頃、艦が浮上し始めたのである。現地は真っ昼間で、今浮上する事は自殺行為そのものだった。艦内は大騒ぎとなり、異状を知らせるブザーが鳴り響いた。先任将校の筑土大尉が負浮力タンクに注水するが、入らない。次に横舵と潜舵を下げ舵にして電動主機を全速にするが、一向に潜水できない。田上艦長は素早く潜望鏡を上げ、海上に敵がいないか確認する。もし白昼に顔を出せば、航空機や水上艦にすぐ発見されてしまう。それはすなわち死を意味した。あらゆる手段を尽くし、約20分後にどうにか沈降する事が出来た。間一髪である。このアクシデントの原因は解明できなかった。少なくとも機械類は正常だったらしい。異変はまだまだ続く。潜航中、「ゴトリ、ゴトリ」という重苦しい異音が聴き取れるようになった。異常箇所が無いか艦内を調べまわったものの、原因は掴めなかった。潜望鏡で辺りを探ってみるも、何も分からない。「敵が本艦に爆薬を仕掛けに来た」「沈めた商船の亡霊が憑りついた」など突拍子も無い理由が挙げられたが、それくらい理由が判然としない。日没を待ってから浮上し、上甲板を調べる。あちこち探しても異状は無かったので、最後は飛行機格納筒を調べる事に。扉を開けてみると、中には分解された零式小型水上偵察機の胴体が転げ落ちていた。どうやら何らかの事情で止め具が外れ、壁にぶつかって異音を発していたようだ。異音騒ぎはこうして終結した。
12月25日は西海岸を砲撃する予定だったが、取りやめて南下を続行。潜航中、右方向より僅かな音を捉えた。感度は次第に大きくなっていき、音源は艦首方向に向かっている。何者かを確かめるために水深18mまで浮上、潜望鏡を上げる。相手は潜水艦の天敵、駆逐艦であった。「潜望鏡下ろせ」「配置につけ」「目標は敵駆逐艦」と矢継ぎ早に指示が飛ばされ、敵の針路の前に出ようと移動する。しかし水中では2~3ノット程度しか出せない潜水艦と、高速で航行できる駆逐艦とでは足の速さが違いすぎた。攻撃の機会すら得られないまま逃してしまった。日没後、浮上した伊25は追い風に乗って敵海軍の一大拠点サンフランシスコに向かう。目標地点に到達すると再度潜航し、ゆっくりと港口に近づく。ここで敵艦隊を待ち伏せるのだが、サンフランシスコの眼前なので潜望鏡は上げられない。索敵は聴音機に頼る他ない。命令を受信するため危険を冒して浮上すると、どうやら敵艦隊がパナマ運河を通過したというのは誤報だったらしく、12月26日にクェゼリンへの帰投命令を受けた。午前11時(夜明け前)、潜航。後ろ髪を引かれる思いでサンフランシスコ沖から退却した。水深30mのところを潜航しているにも関わらず、艦が左右に揺さぶられた。海上は相当荒れているらしい。潜望鏡深度まで浮上しようとした時、うねりに押し出されて海面近くまで浮上してしまった。まだ西海岸からそんなに離れていない場所で海面に顔を出そうものなら、すぐに哨戒機がすっ飛んできてしまうだろう。哨戒長の努力で何とか伊25の船体は海中に押し留められた。日没後、再び潜望鏡深度へ浮上。だがまたしてもうねりに押し出され、今度は海上まで押し上げられてしまった。風浪によって艦は横倒しになるほど傾斜。艦橋や上甲板には波濤が叩き付けられた。今にも転覆しかねない危険な状態だ。早く完全浮上状態にしなければならないのだが、ぐらぐらと揺れる艦内ではバランスを取るだけでも大変だ。やっとの思いで信号長がハッチを開け、待ち構えていた信号員が艦の外へと飛び出した。海へ放り出されそうになりながらもディーゼルエンジンの始動に成功し、艦の動揺は収まった。
帰投命令を受けた日の夜、筑土大尉がアイスクリームを持って藤田飛行兵曹長のもとへとやってきた。ちょうどクェゼリンに参謀が打ち合わせに来ており、その会議に参加する筑土大尉から「何か伝えたい事は無いか?」と尋ねられた。ここで藤田飛行兵曹長は前々より抱いていた腹案を明かした。水偵に爆弾を搭載し、ある程度の自衛能力を付与するというものだった。興味を持った筑土大尉は文章にまとめるよう命じ、彼は具体案やチャートを練り始めた。まさかこの案が、のちのアメリカ本土爆撃の遠因になるとは夢にも思っていなかった。12月27日、コロンビア河口沖10海里で米商船コネティカット(8684トン)に魚雷1本を放つも命中せず。コネティカットは撃沈を避けるため意図的に座礁し、のちに回収された。ちなみにコネティカットは1942年4月22日にドイツ仮装巡洋艦ミシェルの手で撃沈されている。だいぶ敵地から離れたので、溜まりに溜まっていた残飯や糞尿を海中へ投棄する作業を始める。この投棄作業は急いでやらないと、浮遊物によって敵に艦の所在を教える事になる。全ての掃除が終わると、一服する事が許された。敵地から600海里西進したところで年末の大掃除を行う。真水は無いので、石鹸を付けた手でゴシゴシした後は海水で洗い流した。神棚には注連縄を飾り、松飾りの代用品として半紙に墨で「松」と書いたものを供える。
12月31日にはカタチだけでも身を清めようと洗面器3杯分の真水が支給され、出港以来初の水浴びを行った(とはいえ水で体を拭く程度だった)。艦長により、聴音室と探信儀室に御神酒として月桂冠が1本ずつ供えられた。朝、伊25の船体にトビウオの群れがぶつかった。左右からトビウオが打ち上げられ、ピチピチと跳ねている。しかし今は警戒航行中であるから、誰も司令塔から離れる事は出来ない。見張り員が口惜しそうにトビウオを見ていると、田上艦長が「これは幸先が良い。敵群捕捉の前に魚群捕獲をまずやるか、取って来い」と大口を開けて笑った。待ってましたと言わんばかりに若い見張り員が垂直ハシゴを降り、トビウオを捕獲する。両手だけでは足りない。ザルを投入し、いっぱいになるまで捕獲した。この「漁」を支援するため、田上艦長は速力を落とさせた。やがて艦長の指示で甲板から退避する事になり、漁は終わった。速力も第二戦速へと戻された。捕獲されたトビウオの群れは元旦のご馳走にした。一連の通商破壊により、撃沈または擱坐5隻(3万370トン)、撃破5隻(3万4299トン)の戦果を挙げる。本土の鼻先で通商破壊が行われた事は敵国に十分な恐怖を与え、12月23日以降、急激に同方面の警備が厳重になった。戦果こそ不満足だったが、心理的効果はあったと日本側は判断した。
出撃から1ヶ月が経つと、艦内の食事事情も様変わりする。生鮮食品は無くなり、食事が全て缶詰めと日持ちする漬け物だけになる。水煮や乾燥野菜は総じて同じ味、同じ匂いとなり、食欲を減退させる。栄養を補うべく各種ビタミン剤が支給されるが、外側の砂糖だけ舐めて捨てる不届き者もいた。狭い艦内での運動不足、精神的ストレス、空気の汚濁、高温多湿など潜水艦特有の劣悪な環境が乗組員が食欲を奪っていった。
謎の鳥と謎の空母
1942年の元旦を、ちょうどアメリカ本土とハワイの中間で迎えた伊25。ここはまだ敵の勢力圏内であったが、見張りを厳重にすれば昼間でも水上航行が出来た。当直以外は全員上甲板に整列し、遥拝式を挙行。久しぶりに掲げられた軍艦旗が、潮風に触れて揺らめいている。田上艦長が「最敬礼!」と叫ぶと、乗組員は一斉に遥かなる祖国に向かって遥拝。続いて各々の故郷に向かって思い思いに頭を下げた。缶詰めの餅を使った雑煮が振る舞われ、新年を祝った。南下するにつれ気温が上がってきたため、ジャケットを脱いで防暑服へと着替える。この日、オアフ島西南で伊3が敵機動部隊を発見。攻撃のため移動を開始する。1月3日午前5時30分、哨戒機に発見されて急速潜航。安全を確認して午前11時に水上航行へと移った。夕方頃、艦橋にペリカン大の鳥が飛来。見張り員の頭を小突いてきた。怒った見張り員が手を伸ばすと偶然にも捕獲してしまった。異説では彼の頭の上に止まったところを捕まえたとしている。「大方オマエがぼやっとしていたから、電柱か何かと間違えたんだろう」とみんなに冷やかされたとか。この鳥は神武天皇のトビになぞらえて、大切に飼う事にした。純白の羽毛に、黄色くて細長いクチバシ、大きくて赤い水かきを持つ謎の鳥は普段使わない洗面所に入れられた。艦長でさえ私室が無いのに、この鳥は私室を持ったのだった。残っていた缶詰めの肉を与えると、美味しそうに食べた。たくさんの乗員がこの珍鳥を一目見ようと集まってきた。その日の夜、伊25の頭上を青白い光の大流星が尾を引いて落ちた。その幻想的な光景は、乗組員の心身を癒した。一方、急に狭いところへ閉じ込められたせいか、一晩中悲しそうな声で鳴き続けた。筑土大尉が「大空が恋しいんだろう、放してやろうよ」と言った事で逃がす運びとなった。翌朝、鳥を艦橋まで連れ出した。ところが鳥は逃げようとせず、甲板と艦橋を行ったり来たりしてはキョロキョロしている。そこへ「左60度、敵機!」の声が響き、雲ひとつ無い青空に黒点6つが現れた。田上艦長が急速潜航を命じ、急いで艦内に退避。さすがの鳥も飛び立っていった。約2時間の潜航を経て、浮上した。1月4日午前8時45分、哨戒中のカタリナ飛行艇3機を発見。敵に気付かれる前に潜航し、やり過ごした。ジョンストン基地から飛来した哨戒機だと推測され、西の彼方へと消えていった。約2時間後に浮上した。
1月6日、「ハワイとクェゼリン基地の中間にある敵軍飛行基地ジョンストン島の東方250海里付近を航行するため、いっそう見張りを厳重にせよ」という命令が出された。またジョンストン・クェゼリン間に敵艦隊が通過するとの情報が入った。午前7時(日本時間、現地は深夜)、右30度に探照灯らしき光芒を確認。双眼鏡は一斉に右30度に向けられ、田上艦長も双眼鏡を覗く。そして面舵を命じ、光源に向けて突撃を開始。艦内は一斉に慌しくなり、「総員配置」を意味するブザーが鳴らされる。電信室では「我、敵らしき光芒を発見、この目標に向け急行す」と第1潜水戦隊の僚艦に向けて打電。いよいよ敵主力発見か、と乗組員は小躍りした。しかし天を貫くように伸びていた光芒は左にググッと倒れるようにして消えた。再び約30秒ほど光芒が現れ、そしてまた消えた。伊25は光源に向けて驀進していたが、敵影らしきものは確認できなかった。やがて空は明け始め、視界がクリアになる。決死の思いで敵艦を探したが、それでも見つからなかった。ふと艦尾の方を見ると、50m後方から巨大な魚影が追跡しているのが見えた。大きさは9mくらいだろうか。牛みたいな頭があり、目は小さい。試しに伊25に7丁だけ積載されていた真新しい小銃で撃ってみる事にした。銃弾は命中したものの、出血すらしていない。海水に阻まれたのだろうか。その後もゆらゆらと謎の魚に追いかけられたが、これと言って被害は無かった。1月8日16時、方向探知機が敵影らしきものを捉えた。いよいよ捜し求めていた敵空母か。取り舵の号令に従い、伊25は大きな弧を描いて転舵。まだ見ぬ敵を求めて突進を開始するも、その前に日没を迎えて真っ暗になってしまった。こうなれば聴音機の出番である。音源を捉えようとするも、努力むなしく反応は無くなった。逃げられたか。失意の伊25の艦体には、いつしか小雨が打ち始めていた。諦観を抱きながら見張りを続けた。
1月9日午前3時45分、見張り員が左10度に黒い島のようなものを発見。光差さぬ暗雲と鉛色の波の間に、黒い島のようなものが見える。堤防のようにも見えたが、雲間が開いた瞬間、別の見張り員が「空母です!」と叫ぶ。潜航を知らせるベルが鳴り響き、艦橋にいた全員が艦内へと飛び込むと、伊25の船体は沈降していった。艦は僅か45秒で深度30mに達し、ただちに潜航して魚雷戦に移行した。「空母発見、魚雷戦用意」「使用魚雷4本」「聴音用意」「深さ18」と矢継ぎ早に指示と命令が飛ぶ。あっと言う間に魚雷の発射体勢が整ったが、肝心の音源が探知できない。空母がいるなら推進音が聞こえるはずだ。それが聞こえないのはおかしい。潜望鏡を上げてみても艦影を発見できない。午前6時、田上艦長が潜望鏡で確認してみると前方右20度の方向に空母を確認。飛行機を収容しているようだ。上甲板にはデリックと3本の煙突が立っている。潜望鏡一杯に映る空母から目を離さず、ひたすら相手の動きを観察。田上艦長は「電信室、敵空母は漂泊にて飛行機揚収中、駆逐艦音に注意せよ」と情報を送ってくれた。漂泊…機関を止めて海に揺られているのであれば音源が無くて当然である。直ちに探信儀をおろし、目標との距離を測定。距離は、4000m。午前6時40分には3000mに縮まった。そして2000mまで距離を詰め、位置取りに成功。満を持して魚雷4本を発射。ズシン、ズシンと振動を残して艦首から離れていく。敵の反撃を警戒し、伊25は左回頭。水深40mまで潜航した。秒時計が45秒を差した頃、轟然たる命中音が聞こえてきた。1発、2発、3発……。合計3本が命中した。4本目は外れてしまったようだ。聴音で水上の様子を探ってみたが、何の音源も捉える事が出来なかった。これにより単独で航行していた敵空母を撃沈と判断した。潜望鏡深度まで浮上し、潜望鏡で確認してみると木片らしい浮遊物が浮いていて艦影は見えなかった。15時、浮上して第一戦速でクェゼリンに向かった。攻撃後、米国海軍艦艇図表で調べたところ、沈めた相手はラングレー型と判断された。
針路180度、クェゼリン基地へと急ぐ。撃沈を記念してか、その日の夜は士官だけ「シャワーの試運転を兼ね洗身」したという。日本潜水艦にもシャワーがあった事を示す貴重な一文である。入港が近く、また真水も余っていたので思い切って使ってみたのだろう。翌10日13時、「A海域に敵空母遊弋中なり」との電信が入る。もう1隻空母を仕留めてやるぞ、と士気は高まった。針路245度に変更、敵空母を探しながら帰路につく。味方の哨戒圏に入ったので、誤爆を避けるために艦名を書き入れる事になった。艦内から運び出した白と黒の塗料を使い、「イ25」と「日の丸」を書き込む。空は雲ひとつ無い晴天で、容赦の無い陽射しがジリジリと皮膚を焼く。作業が終わると軍艦旗を掲げ、所属を明白にした。もう間もなくクェゼリン基地である。この戦果は直ちに報告され、大本営発表で「ラングレー型空母撃沈」と公表された。しかし当時ラングレーは東南アジアに所在しており、しかも健在だった。このため空母撃沈は見間違いによる戦果誤認とされている。ちなみに本物のラングレーが撃沈された時は特設空母として発表され、公式記録上では伊25がラングレーを撃沈した事になっている。戦後、アメリカ側の資料と照らし合わせてみるとラングレーの位置が食い違っている事が判明。防衛庁防衛研修所戦史室が引き続き調査したが、該当艦なし。では伊25が沈めたこの敵船は一体何だったのか。未だに謎に包まれている。
クェゼリンに入港
1月11日、風にそよぐ緑の島々が見えてきた。艦長の「島が見えたぞ、味方の島だぞ」という声が伝声管を伝って響く。長く辛い初航海か終わりを告げた瞬間だった。モグラのような生活をしてきた乗組員にとって無上の喜びであった。島に向かって進み続けていると、艦首方向に黒い点を認めた。味方だと思うが、念のため注意深く監視する。相手は味方の潜水艦であった。「何号だろう?」「よく無事に帰ってきたなあ」と僚艦の力強い姿を見て口々に語る。実に懐かしい。温かみさえ感じられる。島に近づくにつれ、ヤシの林が見えてきた。木の間には軍艦や商船が停泊しているのが見える。伊25は静かに港の中へ入り、指定された錨地に移動。午前11時30分に投錨を終えた。ここはマーシャル諸島に位置するクェゼリン環礁。日本の潜水艦基地であり、伊25が所属する第6艦隊の根拠地でもある。水深41mの海は大変透き通っており、色とりどりの魚群が回遊している。横須賀を出港して50日余り、乗組員たちは久々に緑の大地を目にした。島全体にはヤシの林が群生し、その中にバラックが点々と立ち並んでいる。島の中央部にある白い建物が第6艦隊の司令部のようだ。しかし短期間の入港であるため、休養する間もなく整備が始められた。
投錨が済むと内火艇が近づき、内地の家族や友人が出した手紙が届けられた。藤田飛行兵曹長が書いた意見書は、艦長を通じて参謀に提出されていった。エミリオを攻撃した時に搭載機を壁にぶつけてしまったため、午後からその修理をする事になった。まず担当の米村整備兵曹長が格納筒の前扉を開けようとするも、ビクともしない。見かねた奥田省二飛行兵曹がレンチで手伝おうとした瞬間、勢いよく扉が開き、2人も跳ね飛ばされた。米村兵曹長は胸を強く打って即死、奥田飛行兵曹は頭を打って気絶。頭部出血の大怪我を負った。米村兵曹長の胸ポケットからは、まだ未開封の手紙が落ちかかっていたという…。内部で揮発油が漏れていて圧力が上昇していた事が原因だった。遺体は特設潜水母艦平安丸に移送され、会議室に安置された。翌朝に告別式が行われ、夜になってから米村兵曹長の遺体はヤシの林へ運ばれた。従軍僧の読経が林の中に響き、遺体は火葬。数時間かけて遺骨になられたそうだ。この日、士官限定で風呂に入ったという。この事故で伊25の出港は延期となってしまった。
1月14日、メインタンクの整備を実施。手入れが終わると聴音員が配置につき、浮上聴音を行った。クェゼリンは最前線基地であり、敵の潜水艦がいつ侵入してきてもおかしくないからだ。水上艦艇は見張りで水上の敵を探せるが、海中の敵は潜水艦にしか探知できなかった。ところが港内では常に内火艇や大発、小発などが動き回り、聴音を困難なものにした。夕方16時、無事入港できた事を祝して発射管室で宴会が開かれた。久しぶりに許された飲酒に参加者は大喜びし、思い思いに飲んだ。あっと言う間に一升瓶がカラになった。通風が無い艦内は蒸し風呂のように暑いから、みんな褌一丁になる。まさに男だけの祝宴であった。1月17日早朝、給油船東亜丸に横付け。燃料補給が終わるまでの間、乗組員は平安丸の風呂に入らせて貰った。平安丸からは魚雷の補給を受けた。翌日、食糧品を積載。1月20日は修理用部品や兵器の手入れを行った。この日、哨戒中の味方機から「敵偵察機を発見せり。空襲の算大なり、厳重なる警戒を要す」という警告を受け取った。伊25では短波マストを降ろし、二連装25mm機銃に要員を立たせて上空見張りを厳にする。予想された空襲は無く、時間だけが平和に過ぎていった。夜、平安丸で映画鑑賞会が行われた。「ターザン」と「愛より愛へ」という2本の映画が上映され、スクリーンに映る日本の女性が懐かしくて愛おしかった。1月21日、故障した艦載機をぶらじる丸に返納。航海糧食のビール、菓子類、果物を積載した。1月26日には船体を黒色に塗装。この日、入院していた奥田飛行兵曹が復帰したが、頭に包帯を巻いた痛々しい格好となっていた。夜には退院祝いの宴会が開かれた。1人につき12個のリンゴも支給された。翌日の1月27日朝、田上艦長は「出港準備完了」の旨を司令部に打電した。この日より食事は上甲板で行われるようになった。いつ敵襲があっても良いように、準備は簡便なものだ。1月29日にメインバラストタンクの修理が完了。午後、零式小型水上機1機を受領して戦闘訓練を行う。作業も終わった夕方、上甲板で輪投げ大会を行う。負けると額にデコピンされるお仕置き付きだ。また階級差関係無しに行われるため、下級者が上級者を合法にお仕置き出来るほぼ唯一の機会だった。乗組員が家族のように結託している潜水艦ならではの習慣と言えよう。このため気合の入れたデコピンを喰らわされ、目に涙を浮かべる下士官も出た。日没後は真水の補給を受け、衣類の洗濯を行った。
空襲
1月31日午前3時51分、敵艦上機2機がクェゼリン上空に出現。停泊中の潜水艦に沈降命令が下る。午前4時、9機の敵艦爆が現れ、対空戦闘開始。「配置につけ!」「空襲だ!」の絶叫がこだまする。4発の至近弾が炸裂し、伊25の艦体を揺さぶる。奇襲を受けた格好で、どの艦も哨戒員だけが応戦している状態だった。放たれた対空砲が白い尾を引いて敵機を追いかけるが、どれも機体後方を通過しているだけだ。18分後に14機の敵艦爆が出現し、高度3000mから投弾。在泊艦艇に襲い掛かる。伊23の艦尾と靖国丸に爆弾が命中し、黒煙が噴き上がる。襲撃時、伊25はタンカーに横付けして補給を受けており、甲板の上では生鮮食品やビールを運び込む作業が行われていた。甲板上に乗組員がいるため潜航出来ず、ドーントレスから機銃掃射を受ける。更に爆弾を携えたドーントレスが迫り、グングンと距離を詰めて来る。攻撃される寸前、何とか急速潜航に成功。強引に沈降したため、前方に45度傾斜した状態で海底に突き刺さってしまった。積み終えた食糧品や備品、要具がガラガラと音を立てて艦首の方に転がっていった。乗組員が艦尾に避難した事で、傾斜は35度に減じた。午前6時、旗艦より「沈座をやめ、浮上せよ」と水中信号で伝えてきたのでメインタンクブローの号令が下る。艦内の高圧空気を浮力タンクに放出し、タンク内の水を艦外に排出して浮上するのである。前が沈んでいる状態だった伊25は、尻上がりのまま浮上。四苦八苦の末、どうにか姿勢を水平に戻して海面に顔を出した。気が付くと、甲板に乗せていた生鮮食品とビールは全て無くなっていた。嗜好品を全損させられ、乗組員は大変悔しがったそうな。
沈降している間、水上艦艇はどうなったのだろうか。まず第6艦隊旗艦の香取は無事な様子だった。旧式艦常磐も無事だった。間もなく潜航していた他の潜水艦も続々と浮上してきた。艦尾を損傷した伊23も小破で済み、7~8名の乗員が損傷箇所を確かめていた。損害と言えば、島の中心地にある第6艦隊の司令部が炎上している事だった。伊25のもとへ、1隻の内火艇が近づいてきた。空襲時、たまたま艦を離れて旗艦にいた小田大佐、田上艦長、機関長の倉持昌信大尉が乗っていた。艦が無事だと知り、みんなニコニコしている。午前5時、「本島近海に接近せる主力3隻よりなる敵機動部隊を発見せり」と報告を受け、第6艦隊は伊9、伊15、伊17、伊19、伊23、伊25、伊26、呂61、呂62に敵艦隊の追撃を命じた。各艦は勇んで出港準備を始めたが、暗雲が垂れ込める北方の水平線から6機の敵機が出現。急速潜航をするため、前甲板にいる人員を急いで艦内に収容する。水上艦艇が応戦する中、敵機はグングンと迫り、雷撃を仕掛けてきた。上手く潜航した伊25であったが、その周囲を魚雷が過ぎ去っていく。1本でも当たれば即死は免れない。激しい対空射撃の音が止まったのを確認し、浮上。「本艦は只今より、敵機動部隊追じょう撃滅のため出撃する」と号令伝達があり、午前7時、錨を揚げ切る前に出撃。錨鎖がゴトンゴトンと舷側に当たる。クェゼリンから出た伊25は指定海域を哨戒。2月1日、次なる任務として第6艦隊よりオーストラリア及びニュージーランド方面での威力偵察と奇襲を命じられる。自由に動けるという事で、田上艦長は上機嫌であった。また第4潜水隊に伊23が加わり、3隻体制となる。2月3日午前8時、威力偵察任務のため索敵を切り上げて帰路につき、2月4日21時にクェゼリンへ帰港した。同時に部隊の再編制が行われ、伊25は第4潜水戦隊へ編入。乙型潜水艦3隻で統一された部隊だった。2月6日午前6時30分、タンカー東西丸から燃料補給を受ける。予定では第19航空隊に搭載機を渡すはずだったが、緊急出撃の要から省かれた。
オーストラリア方面を偵察しに長駆
2月7日16時15分、伊25はオーストラリア方面偵察のためクェゼリンを出港。旗艦香取、母艦靖国丸、新玉丸、平安丸、東亜丸、旧式艦常盤、伊19、伊26などの乗組員が上甲板に整列しながら見送ってくれた。真紅の夕日が西の水平線に近づく頃、南水道を通過して外洋に出た。大本営はアメリカ・オーストラリア間の補給路を遮断し、敵国オーストラリアを脱落させる米豪遮断作戦を企図。その準備として伊25にオーストラリア後方の敵情偵察を命じたのだった。翌8日、伊25は赤道を越えて北半球から南半球に突入。平時であれば仮装をして赤道祭を盛大に催すのだが、戦時ではそうは言ってられない。「赤道って言うのは、赤い線が引いてあるんだってな」と軽い冗談を言いながら、みんなデッキから赤い線を探したという。もちろん、何の変哲もない海原だった。
天気は快晴、波は静か。第二戦速、針路89で艦は進む。赤道を越えてすぐに右30度方向に黒い漂流物を認めた。双眼鏡で確認すると、材木のようだった。表面にはビッシリと貝殻が付着し、海苔がコケのように付いていた。しばらくすると右手に再び浮遊物と出くわした。タタミ1枚分の大きな亀だ。「この真下が竜宮城なんだよ」と冗談を言いながら亀とすれ違った。艦から発生した波のうねりで驚いたのか、甲羅から顔を出して乗組員に笑いを提供した。日没後、針路198度に変更。夜空には下弦の月が輝き、鏡面のような海に反射している。突然、右舷10度方向に浅瀬のようなものを発見し、見張り員が叫んだ。鏡のような水面の一部に、きらきらと月光を跳ね返す細かい波立ちが見えた。もし本当に浅瀬なら危険だが、田上艦長は「あれは魚群だよ」と冷静に返した。敵の哨戒区域外なのか、平穏な航海が続いた。日の出は午前3時半頃で、ひとたび太陽が昇ると艦内の温度は35℃に上昇。蒸し風呂のようになった。みんな褌一丁にタオル1枚の格好だ。汗がぶわっと噴き出し、タオルが手放せない。
2月10日午前11時半頃、艦首の方に一筋の水柱が上がった。2頭の夫婦クジラが悠々と泳いでいる。その間には子クジラの姿も見られる。艦が近づくと驚いたのか、子クジラを先に行かせて海の中へと消えていった。ソロモン諸島とニューカレドニアの中間を南西へ進み、シドニーを目指す。2月11日、この日は紀元節である。甲板に乗組員が整列し、君が代のラッパとともに本土がある北方に向けて最敬礼。天皇陛下のご安泰と皇室の弥栄(いやさか)を祈り奉った。終了後、全員で艦内神社に参拝して豪勢な料理に舌鼓を打った。2月13日、そろそろ寒くなってきたため艦橋の見張り員は毛糸のセーターを着込んだ。17時以降、25mm対空砲の試射を行った。同日夜、シドニー港まで60海里の地点で浮上。空には南十字星が輝いていたが、風は強く波が高い。これではカタパルト発進は出来ても、着水は難しい。飛行不適と判断した田上艦長は中止を命じた。夜明けとともに水深30mまで潜航し、水中を這って移動。木立が見えるくらいにまで湾口に接近した。
2月14日16時半、右艦尾方向にかすかな音源を探知。音源の正体は英商船コールドブルックだったが、伊25に気付かないまま港の中へと消えていった。艦は沖合いに移動し、18時半に浮上した。今夜は新月であり、夜の帳が伊25を覆い隠してくれた。湾口の両端部にはニューカッスルの灯台があり、青白い光が旋回している。明日の発進に備え、漂泊に近い速力で移動を始める。22時25分、シドニー港の沖合い20海里の地点で右20度方向に大型商船を発見。赤青の舷灯を付けながらまっすぐ向かってくる。伊25は敵船の針路から逃れるべく、面舵一杯で退避する。偵察任務でなければ格好の獲物だったのに、と誰もが歯がゆい思いをした。シドニー市街地から発せられる夜光は、伊25からもハッキリと見る事が出来たという。艦載機は小型の偵察機なので、波が高いと飛び立てない。辛抱強く待つ必要があった。
2月17日未明、伊25はシドニーの山影が見える所にまで接近。昨日までの大荒れの海が嘘のように静まっている。午前5時、田上艦長は大声で「飛行機発進準備、作業かかれ!」と命令。待機していた水兵たちが一斉にデッキを降り、格納筒から零式小型偵察機を引っ張り出す。組み立て作業をする作業員のうち、専門の整備員は3名のみ。他は全員素人である。列車の天井ほどしかない甲板上で器用に組み立て作業を行う。赤布で遮光した懐中電灯だけを頼りに、ビスやナットを取り付けていく。波は静かと言っても波濤が艦体に当たり、動揺を生み出す。そんな中でも作業員は苦も無く仕事を進めていく。日頃の訓練の賜物である。作業はわずか8分で完了。今度は整備兵が作業を行い、エンジンを始動させる。発進準備を終えると、搭乗員の藤田飛行兵曹長と奥田飛行兵曹が乗り込む。空は白み始め、夜明けを迎えようとしている。艦首にいる筑土大尉が合図の赤ランプを2回振り、2人を乗せた零式小型偵察機が長さ16mのカタパルトから射出される。機は黎明の空に打ち出された。左旋回しつつ徐々に上昇、オーストラリア大陸がある西方へと飛び去った。針路25度で水平飛行に移行。間もなく仄暗いオーストラリアの町並みが見えてきた。灯火管制はされておらず、絶好の飛行日和だった。やがて高度2500mでシドニー湾の南方に到達。25分後、水平線より太陽が顔を出し、機体を朱色に染める。南部のラペルーズからボタニー湾を飛行し、港内に停泊している23隻の艦船を確認。そのまま北上し、更に軍艦1隻、駆逐艦2隻、潜水艦5隻を視認した。視認を容易にするため高度を落としていたが、ふと高度計に目をやると1000mを指し示していた。この高さは高射砲に撃ち落とされる危険がある。一刻も早く立ち去りたい思いを抑えながら、奥田飛行兵曹に敵の防御施設を詳しく図版に書き込ませる。記入漏れが無い事を確認し、機は海上へと踵を返した。時速180km/hで一路母艦を目指す。道中でシドニー方向に向かう2隻の大型敵商船とすれ違い、無電を打たれたのではと心配になる。一方、伊25は湾口の偵察を行い、防材の設置や哨戒艇2隻の存在を確認。4条のサーチライトも視認された。午前11時、零式小型偵察機は洋上に出ていた。しかしいくら探しても母艦の姿は無い。いかに大型潜水艦でも、海原では米粒程度でしかない。藤田飛行兵曹長は耳と目の神経を集中させ、母艦を探す。このまま見つからなければ自爆…死が待っている。13時になっても伊25を発見できずにいた。燃料タンクのゲージがついに「赤」を示した。その頃、予定の時間を過ぎても戻ってこない艦載機を心配した伊25は敵に発見される危険を冒して発煙筒を発射。迷子の艦載機は白煙を確認し、10分後に無事帰投。天測がずれ、母艦の位置を見誤ったのが主な原因だった。再発防止のため、田上艦長は空からでも発見しやすい目印を用意する事にした。航空偵察の結果、甲巡1隻、駆逐艦2隻、潜水艦5隻、商船複数が停泊しているのを確認した。午前7時30分、艦載機を収容。14ノットで南に向かった。
2月18日、針路200度に変更。偵察のためメルボルンへと向かう。オーストラリアの2月は日本の9月と同じ気候で、暑くも寒くもない過ごしやすい環境だった。終日、純白の大きな鳥が伊25の頭上や周辺を旋回しながら追ってきた。とても美しかったが、何と言う鳥からは誰も知らなかった。前回の失敗を防ぐため、田上艦長は岬の灯台を目印に出来る所を合流地点に定めた。翌日の19日午後11時半、360度に変針。タスマニア島を迂回してキング島の内側に入った。風が強くなってきたので、見張り員は防寒具を重ね着した。前方に複数の黒い浮遊物が発見され、浮遊機雷かと緊張が走ったが、甲羅干しをしている亀の群れだった。なんとも平和な光景である。タスマニア島をぐるりと一周し、2月20日にメルボルンの沖合い160海里の地点までやって来た。オーストラリア大陸とは50海里しか離れていないので、そろそろ敵の哨戒機が出てくる頃だと思われた。しかし波が高く、航空機の発進に適さなかった。長らくここで足止めを食う羽目になる。
2月26日午前5時、波が低くなったのを見計らって艦載機を発進。射出された零式小型偵察機はグングンと高度を上げた。発進を見送った伊25は直ちに反転し、第三戦速で沖合いに脱出。キング島の島影に隠れて揚収準備に取り掛かった。高度1500mに差し掛かった頃、突如として視界が閉ざされ、機体がガタガタと揺れ始めた。積乱雲に入り込んでしまったようだ。水偵のような小型機では空中分解の危険性もある。四苦八苦のすえ、どうにか雲外へ出る事に成功。上には綺麗な星空が、眼下には雲のじゅうたんが広がっていた。偵察のため高度を落とし、機を雲海に沈める。高度300mまで降りたところで雲を抜け、戦闘機と爆撃機がズラリと並んだ飛行場が目に飛び込んできた。どうやら敵陣のド真ん中に出てしまったらしく、藤田飛行兵曹長は慌てて上昇。雲の中に隠れた。隠れるには不自由しない雲量があるので、たびたび隠れながらポートフィリップ湾を目指した。メルボルン上空で針路を変え、再び高度300mに降下。湾に沿って低空飛行を行っていると、様々な色の光で彩られた街が見えてきた。市街地を抜けると、東京湾の2倍ほどの大きさを誇るポートフィリップ湾が見えてきた。フィリップベイ港内に商船20隻以上の停泊を確認。母艦へ帰投しようとしたその時、眼下を単縦陣で航行する大型巡洋艦1隻、軽巡5隻を発見。メルボルンのドックに向かっている様子だった。貴重な情報を抱え、合流地点の目印であるキング島の岬の灯台へ移動。伊25はウィッカム灯台の東6マイルの地点で浮上しており、今度は簡単に帰投する事が出来た。母艦の上を旋回しながら着水。急いで揚収作業を始めた。作業の最中、「水平線にマストが見えます!」とうわずった声で報告が寄せられた。田上艦長は「揚収急げ、何艦か確かめろ!」と指示を飛ばす。司令の小田大佐は「揚収が間に合わねば飛行機を捨てて敵を撃沈する」と艦長に命令。しかし艦載機の投棄は今後の偵察任務を全て捨てる事を意味し、小田大佐も気を揉んだ。幸い、相手の正体は軍艦ではなく商船だった。敵に気付かれる前に潜航を済ませ、危機を脱した。こたびの偵察はオーストラリア軍のオーブリー・オートン上等兵に目撃されており、基地司令に報告された。もし基地司令が即断で戦闘機を派遣していれば伊25の物語はここで終わっていたであろう。しかし司令は優柔不断で、国防軍本部にお伺いを立てた。すぐに撃墜命令を受け、15分後にバッファロー戦闘機5機が出撃したが、既に湾の上空に零式小型偵察機の姿は無かった。また別の場所ではオーストラリア軍が2機の戦闘機をスクランブル発進させたが、発見できずに取り逃がしている。地上の対空陣地が飛び去る零式小型偵察機を発見していたが、発砲の許可が無かったため見逃した。
その後、タスマニアの西海岸を南下。2月28日にタスマニア島南端ホバート湾の沖合い2海里の地点に到達した。3月1日、夜明けの2時間前に零式小型偵察機が発進。オイスター湾を南下してホバート港を航空偵察。灯台の光は消されていたものの、市内は灯火管制されておらず偵察を容易なものにしてくれた。港内を偵察した結果、商船1隻と小型船舶6隻を確認。軍艦の停泊は見受けられなかった。市の北東に飛行場を確認したが、格納庫は発見できず。煙突から赤い炎を吐き出す製鉄所と、山の頂上まで続くハイウェイをスケッチして帰投した。この日の偵察で零式小型偵察機の翼が折損したため、修理を行っている。
3月3日、ニュージーランドのウェリントンを目指して昼間水上航行を開始。いくぶんの余裕が生まれた事により、僚艦が今どこで戦っているのか気になるようになった。先任将校に尋ねてみたが、新聞電報程度の戦況しか分からなかった。翌4日、敵の哨戒圏内に入った。午前5時45分より試験潜航に入り、ウェリントンまで60海里のところまで接近した。3月6日早朝、一旦浮上して見ると辺りは濃霧に包まれていた。再び潜航し、潜望鏡で陸地を探す。午前8時過ぎ、ようやく視界が開けると富士山にそっくりな山が姿を現した。田上艦長と藤田飛行兵曹長は潜望鏡を通して見物した。この日も偵察する予定だったが、折悪く風が出てきた。しかも徐々に強くなり、風速は20mに達した。晴天とはいえ、これでは飛行に適さない。田上艦長は偵察を中止した。20時15分、赤々と舷灯をつけた敵商船と遭遇。攻撃が任務ではなかったので第三戦速でやり過ごした。ところが22時30分、艦首方向から赤色灯を点けた敵商船が接近。やむなく反転して退避する。偵察任務は隠密にやらなければならない。そういう意味では商船ですら強敵だ。伊25がいる海峡は船舶の往来が多く、最も狭い所では幅18kmしかなかった。23時20分には南から北上する重巡と駆逐艦を発見。痺れを切らした伊25は攻撃に移ろうとしたが、よく見ると相手は商船2隻であり中止となった。「今晩だけで4隻撃沈できたのに、残念です」と見張り員たちが悔しがる。
夜陰に隠れて陸地2kmにまで接近し、3月7日午前4時に艦載機の発進準備を開始するも強風に煽られてカタパルト発進ができず。やむなく水上発進に切り替えたが、デリックで吊り上げている時に風に煽られ、主翼が艦橋に接触し破損してしまった。今夜の偵察は急遽中止となり、潜航偵察に変更。海峡内を頻繁に往来する敵商船を確認した。艦内では乗組員の不断の努力によって主翼を修復し、偵察飛行を可能にした。3月8日、ウェリントン港5海里の地点まで接近し、午前3時に浮上。1時間の準備を経て、艦載機を発進させる。今度は無事成功し、山に囲まれたウェリントン港を高度1500mから偵察。月明かりに照らされた停泊中の中型商船2隻と、入港しつつある1万トン級米国タンカーを確認。軍艦はいなかった。灯火管制は行われておらず、灯台の光も灯ったままだった。湾口からはサーチライトの光が固定照射されていた。東の空が白み始める頃、零式小型水偵が帰還。揚収作業に取り掛かった頃、一番列車と思しき汽車が白煙を吐きながら海岸線を過ぎていった。敵の警備隊に見つかる前に陸岸から離れ、水上航行で遠ざかる。すると前方から敵の商船が接近。急速潜航をして回避を行う。艦長が潜望鏡を上げてみると、ネズミ色の中型の商船が悠々と過ぎ去っていった。雷撃をする時は、2万トン級以上の商船のみと決められているため見逃した。
3月12日16時30分、陸岸から5海里の地点で推進音を探知。間もなくソナー音が聞こえてきた。まずい、敵に発見されている。直ちにブザーが鳴らされ、総員配置につく。聴音の結果、敵は3隻いるようだ。魚雷戦用意の号令が掛けられ、6本の魚雷が装填された。交戦が避けられない時は3隻に向けて放つか、四方八方に撃って敵の聴音を欺いて逃げるか。どちらも危険な賭けであった。ソナー音は4秒間隔で放たれており、こちらの位置を特定しようと躍起だ。そしてソナー音が止まり、敵の駆逐艦が迫ってきた。どうやら位置を知られたらしい。「爆雷防御、防水扉閉めー!」の号令とともに各区の厚い鉄の扉が閉められた。敵艦が頭上を通過する。投下であろう爆雷に恐怖する乗組員たち。……しかし、いつまで経っても爆雷は投下されなかった。またソナー音が鳴り始める。どういう訳か敵は伊25を見失った様子だった。だが、すぐに位置を特定し直すと今度こそ爆雷を投下してきた。数秒後、艦内に激震が走った。轟然たる連続破裂音が伊25を痛めつけ、電灯は一斉に消滅。棚の中の物は飛び散った。艦内は暗闇に支配され、夜光時計の文字盤だけが青白く光っていた。誰もが次の一撃でトドメを刺されると直感、死を覚悟して待った。ところが、敵の駆逐艦3隻は仕留めたと勘違いしたのか立ち去っていった。九死に一生を得た瞬間だった。早速艦内では故障箇所の確認や電灯の交換が行われ、夜になるのを待ってからこっそり浮上して沖合いに脱出した。3月12日夜、海上休火山という島の影で月明かりを頼りに艦載機の組み立てを行った。
3月13日午前2時30分、ニュージーランド北島のオークランド港を航空偵察すべく艦載機が発進。港内に中型及び小型商船4隻の停泊を認めた。相変わらず灯火管制はなされていなかった。伊25は湾内の様子を海中から窺っていたが、約1時間後に近づいてくる商船の光を確認。14cm甲板砲を準備し、いざという時は一戦交える覚悟だったが、商船は伊25に気付かず去っていった。その直後に艦載機が帰投し、収容作業に取り掛かった。艦載機を回収した伊25は、先ほどの敵商船を仕留める事を決意。追跡を開始し、同日13時15分に水平線上に浮かぶマストを発見。煙突は黒、船橋は赤、船体は灰色に塗装されている2万トン級の大物だ。敵船の針路140度で南下中だったため、伊25は第二戦速で敵船の左舷側へ占位しようとした。ところが突如として変針してしまったため、測定のやり直しを迫られた。やっとの思いで左舷側に回り込むが、敵船が速すぎて潜航では雷撃できない。やむなく水上雷撃を行う事とし、夕方より魚雷戦の準備を始める。だが地の利は敵船に与した。暗雲が垂れ込め、月や星を覆い隠して何もかも闇の中に包み隠してしまったのである。ほんの一瞬でも潜望鏡から目を離せば見逃してしまうかもしれない。文字通り、瞬き厳禁で敵船を目で追い続けた。しかし一瞬の隙を突かれて敵船を見失ってしまった。20分間の捜索のすえ、敵が閉め忘れたと思われる右の舷窓から漏れる光を確認。水面に浮上し、必殺の酸素魚雷を放った。ゴクーンという音とともに射出された魚雷は確実に命中するはずだった。ところが10秒、20秒、30秒が経過しても爆発音がしない。「当たらんようだなあ」と小田大佐が残念そうに呟く。田上艦長は面舵変針を命じ、2回目の雷撃位置につこうとする。次の瞬間、敵船から3回の火花が散ったかと思ったら轟然とした砲声が聞こえてきた。敵は武装していたのである。不意打ちを受けた伊25は取り舵一杯を取り、砲撃から逃れる。2万トン級と思われた敵船は、実は特設砲艦だったのだ。命中確実と思われた魚雷が何故命中しなかったのか。色々と論じた結果、方位盤が左へ4度ズレていた事が分かった。方位盤手は貴重な魚雷を無駄にしたという事でひたすら詫び、しょんぼりしていた。一方、田上艦長は責めないどころか「俺の腕が悪いんだ」といった表情を浮かべていた。伊25は針路360度とし、北上を始めた。赤道に近づくにつれ、小春日和から蒸し暑くなってきた。海上は平穏、空には入道雲が立ち昇っている。この辺りにもクジラがいるようで、親子クジラや独身クジラが潮を吹きながら泳いでいる。クジラが見えなくなったら、今度はイルカの群れが現れた。戦争中とは思えないのどかな光景だった。
3月16日午前9時半、右30度方向の水平線上に北上する敵重巡1隻と2万トン級商船を発見。伊25は急速潜航し、1分も経たないうちに海中へ没した。「聴音用意」「魚雷戦用意」「使用魚雷6本」「目標は重巡1隻と大型商船」と命令が次々に出される。大物が相手だけに乗組員の士気も高い。ところが午前10時20分、敵重巡は反転して全速力で逃走した。敵の見張り員に潜望鏡を発見されたようだった。全力で逃げられてはどうしようもない。出した矛を片付ける作業が始まった。だが田上艦長は追撃を考え、艦載機を出撃させる事とした。艦は急速浮上、格納筒を開けて組み立て作業が始まる。白昼堂々行われたのは今回が初めてである。浮上から30分、零式小型水偵は発艦した。もしかすると敵の重巡から飛び立った飛行機が攻撃してくるかもしれぬ。機銃には要員が張り付いた。40分間の索敵を行ったが、ついに見つける事は出来なかった。伊25はニュージーランド近海から離れ、針路360度で北上。赤道付近に近づいた。
3月19日早朝、イギリス軍の根拠地となっているフィジー島スヴァ港の航空偵察を実施。エメラルド一色の綺麗な海が眼下に広がり、サンゴ礁まで見えた。美しき光景は搭乗員の心身を癒した。港内にはイギリスのエメラルド級巡洋艦、商船4隻、小型船多数を確認。湾のあちこちに防塁が施され、その上には砲台陣地も確認できる。湾を抜けて島の東側に出ると、海岸線に沿ってバナナの林が続いていた。次の瞬間、視界が真っ白に染められた。地上のあちこちからサーチライトが照射され、零式小型偵察機を光の渦に巻き込んでいるのだった。これはつまり敵に発見された事を意味していた。あまりの眩しさに、目を開けていられない。機を左右に滑らせてみたが、状況は変わらない。まさに窮地だ。このままでは高射砲の餌食だ。藤田飛行兵曹長はイチかバチかの奇策に打って出た。サーチライトに向けて味方識別の発光信号を送ったのである(文献によってはデタラメな信号を送って困惑させたとも)。何を思ったのかサーチライトの照射は止まり、その隙に水偵は最高速度で急降下。窮地を脱する事が出来た。2マイルの沖合いで待機していた伊25に回収され、海域から離脱した。3月21日、敵の哨戒区を脱したので水上航行を開始。天気は快晴だったが、向かい風になったので艦の動揺が大きくなった。3月22日午前4時55分、北上する敵重巡を発見。急速潜航して追跡を行ったが、振り切られている。3月23日、アメリカ領サモア諸島のパコパコ沖に到着。しかし海が荒れていたため艦載機の発進ができず、仕方なく潜望鏡で偵察を行った。軍艦はおろか軍事施設の観測すら殆ど叶わなかった。この偵察を以って伊25は任務を完了し、次の命令を受領すべく帰路につく。3月27日、トラック島まで1200海里の地点まで到達。艦名と日の丸を記入し、軍艦旗を掲げた。3月29日に赤道を越え、トラックの味方制空圏内に入った。上陸に備えて乗組員は清掃や整理を始めた。
3月30日、トラック島に入港。泊地内には戦艦の姿も見受けられる。出迎えの内火艇に先導され、夏島の指定の錨地に移動。内地帰投に必要な燃料を補給するため、給油艦隠戸が横付け。乗組員には束の間の外出許可が与えられた。乗組員は2ヶ月ぶりに入浴し、石鹸の香りをプンプンさせながら艦内に戻ってきた。入港後すぐに横須賀へと戻る事となり、翌31日15時にトラック泊地を出港。どこまでも晴れ渡った南洋の空を頭上に抱きながら、白い航跡を残して故国への帰路についた。入港に備え、久方ぶりの大掃除を実施。艦内のゴミは全て捨てられた。
母港横須賀へ帰投
4月4日午前4時45分、霞の中から起伏する房総半島の山々が見えてきた。開戦前に出港して以来、ようやく見られた故国の情景だった。霞が晴れていくにつれ、東京湾に出入りする大小の艦艇が見えてきた。出港していく艦に手旗信号で「武運長久と安全なる航海を祈る」と送ると、「ご苦労さん」という返答があった。東京湾に入り、午前10時に横須賀軍港へ到着。在泊艦艇の全乗組員が上甲板の舷側に並び、登舷礼で出迎えてくれる。長きに渡る航海により伊25の塗装は剥げ、色あせていた。在泊の艦艇からは「貴艦の無事入港を祝す」「赫々たる戦果を祝す」と信号が送られてきた。垢と油にまみれた乗組員たちが、温かな歓迎に応えている。入港後、伊25は整備を受けた。上甲板はガス溶接のパイプ、機械、用具、火花などで足の踏み場も無かった。鋲を打つ音が機関銃のように連続し、昼夜を問わない突貫工事で進められた。乗組員には半舷上陸と32時間の休暇が与えられ、5日間の熱海休養も二度許可された。上陸した乗組員は真っ先に鎌倉八幡宮へ参拝した。今回の修理で伊25は蛍光灯を装備。蛍光灯には紫外線が含まれており、陽の目を見る事が出来ない乗組員のため太陽光に近づけた調節がなされていた。艦内にいながら水上航行しているようにする狙いだったが、大して効果は無かった模様。入港の翌日である4月5日、小田大佐が退艦し、新たな司令として長井満大佐が伊25に乗艦。4月10日、第6艦隊第1潜水戦隊第4潜水隊に編入。前回の出撃中に伊23が行方不明になったため、伊24との2隻体制へ戻った。4月12日、連合艦隊は第二段作戦への移行を発令し、第1潜水戦隊はアリューシャン列島方面の要地攻略に協力する事となった。
4月18日、横須賀に停泊していた伊25はドゥーリットル空襲に遭遇。この時、第5船渠に入渠していた。投弾された爆弾は隣の第4船渠に落ち、空母へ改装中だった大鯨に直撃した。低空で飛行していくB-25を、とある男が間近で見ていた。
ドゥーリットル空襲は、陸海軍の上層部に大きな衝撃を与えた。翌日の4月19日、霞ヶ関にある軍令部第三課では朝から会議が開かれていた。報復として敵の本土を爆撃する事が決まった。しかし敵の本土は真珠湾より遥かに遠く、敵艦が大量に待ち受けている。そんな危険な場所へ連合艦隊が貴重な空母を貸してくれるとは思えない。となれば、潜水艦から航空機を飛ばすしかない。会議に出席していた筑土龍男大尉は「あの男しかいない」と思った。1932年から水上機を操縦し、かすり傷一つすら負わない天才的な技術を持つベテラン搭乗員…藤田信雄飛行兵曹長である。4月21日、伊25艦載機パイロットの藤田信雄飛行兵曹長は軍令部に呼び出され、オレゴン山中への空爆命令を受領した。田上艦長と藤田飛行兵曹長は相性抜群で、甲板で行う艦載機の組み立て、カタパルト発進、洋上収容まで迅速に行っていた。この彼の腕が買われた結果だが、本人は成功させる自信が無く、受領したもののひそかに遺書をしたためていた。しかし間近で見たB-25が脳裏に浮かび、作戦立案に思わず熱が入った。完成した計画書を持ち、田上艦長に作戦の概要を説明した。
5月5日、大海令第18号によりミッドウェー及びアリューシャンの攻略が発令。伊25はアリューシャン方面の偵察を行いつつシアトル沖に向かい、監視配備に就くよう命じられた。次なる任地は氷と霧が支配するアリューシャンに定められた。各部の整備が完了し、試験検査の結果も良好と判定されて伊25は戦う準備を整えた。出撃の前日の5月10日、妻帯者はみんな上陸して妻に会ってきた。次出撃すれば帰ってこられないかもしれないからだ。一方、独身者は軍港に残って宴を開いた。翌朝、上陸していた乗組員がぞろぞろと戻ってきた。朝食が済むと、ディーゼルエンジンの試運転が始まる。艦橋の信号員は、僚艦との手旗信号に夢中だ。艦と陸上を行き来していた定期便は午前11時を以って最後となり、伊25は陸上各部と連絡が取れなくなる。いよいよ出撃である。追浜の水上機基地で整備を受けた艦載機が戻ってきて、揚収作業が行われた。分解された零式小型偵察機はしっかりと固縛された。出港準備の令が下り、各部甲板の整頓を開始。荒天に備えて外せる物は外し、しまえる物は格納した。13時30分、出港ラッパの音が響き渡った。出港は伊15、伊17、伊25、伊26、伊19の順だ。
霧と氷が支配する北洋
休養と整備を終えた伊25は5月11日16時30分、伊26とともに横須賀を出港。登舷礼で見送る在泊艦艇の乗員に対し、伊25乗員も上甲板に整列して応える。工廠の岸壁では工員や学徒動員の少女たちが手を振る。「兵隊さーん」「頑張って下さいねー」「ご無事でねー」という澄んだ声が風に乗って届けられる。5隻の潜水艦は単縦陣で東京湾を進み、途中で二手に分かれた。伊25は伊26と行動を共にし、野島崎南方20海里を経て北東方向に舳先を向け、アリューシャン作戦の支援を行うべく直接コジャック方面へ向かった。湾外に出た途端、「合戦準備配備につけ」「三直哨戒、第一直哨兵は残れ」の号令が下る。5月15日、カムチャッカ付近に到達。気温9℃、海水温度7℃。2ヶ月前までいた南半球とは大違いの寒さが乗組員を震えさせた。艦は針路65度、北東方向に進んでいる。北方海域は霧が深く、空も晴れているのか曇っているのか分からない始末であった。艦尾で翻っているはずの軍艦旗ですら霧に隠れて見えない。先に進めば進むほど気温は下がり、内地の12月の気温に匹敵した。この濃霧は敵機の目から伊25を覆い隠してくれたので、幾ばくか心の余裕が出来た。航跡が霧で見えないので、残飯や糞尿の投棄も遠慮なく行えるのも嬉しい点だった。
5月16日、気温は2℃に下がった。南洋では蒸し風呂だった艦内は、今や冷蔵庫である。5月17日にシベリアの日付変更線を越え、5月19日、ダッチハーバー南400海里に到達。敵の哨戒圏のため、翌20日より昼間は潜航して過ごした。霧のせいで太陽も星も見えず、天測が出来ないため現在地の把握すら難しい。水中探信儀と水中測深儀を使い、座礁に気を付けながら航行する。北極に近い北洋は夜が短く、暗くなったと思いきや、すぐに空が白んでくる。太陽が出ている間は潜航する都合上、必然的に潜航時間が延びる。このため艦内の空気は汚れ、頭がフラフラするようになってしまう。伊25は一時的に北方部隊へ編入された。
5月26日、アリューシャン作戦に先立ってアラスカのコジャック港偵察を行う事に。この偵察は重要視されていたため、バックアップに伊26がついた。5月28日、艦載機を射出するため波と風の方向を計る。格納筒から零式小型偵察機が引っ張り出されるが、波のうねりは高く、作業が妨げられる。それでも組み立て作業が完了し、夜明けの前の空へと今まさに飛び立とうとしたその瞬間、見張り員が「右35度、戦艦、水平線!」と絶叫した。距離2000mの地点に敵の戦艦が突如姿を現したのだ。伊25は反転離脱を行いながら準備を急いだが、カタパルト故障で発進不能に陥る。整備員は無我夢中で復旧作業に取り掛かったが、短時間では直りそうにない。仕方なく田上艦長は「飛行機発艦用意要具収め」と命令し、艦載機を格納する。いつ発砲されるか分からないから、少しでも遠くへ退避しなければならない。しかし急に最大戦速を出した影響で、黒煙がモクモクと立ち昇る。煙の発生はすぐに止まったが、既に排出されて漂う黒煙までは隠せない。敵に発見されたら一巻の終わりだ。とにかく砲撃から逃れるべく、右に転舵して必死に逃げる。45分間の全力退避を行った。一方、敵戦艦は何も気付いていない様子で軍港の中へと消えていった(後に戦艦はアストリア型重巡洋艦と結論付けられた)。その後、カタパルトを修理して射出可能の状態に戻した。20時、コジャック港口で艦載機を射出。港内に重巡3隻、駆逐艦8隻、商船6隻の停泊を確認。ウーメンスベイに兵舎以外の施設は無い事、ブスキレ河に建設作業中らしき強力な灯火が光っている事を報告し、本隊の第二機動部隊に貴重な情報を送った。21時30分、艦載機を収容。すぐさま潜航した。40分後、金属製の音源を探知。駆逐艦か巡洋艦の高速艦艇が接近中らしい。早速潜望鏡を上げてみると、正体は新型の駆逐艦のようだ。危険を感じ取った伊25はすぐさま水深60mまで沈降、爆雷攻撃に備えて防水扉が閉められた。だが敵はこちらに気付かず、頭上を通過。2つ目の音源が近づいてきたが、途中で変針して何処かに行ってしまった。やがて「米本土の主要な施設を砲撃せよ」との命令を受け、シアトルに向けて航行。針路を180度とし、南下を始めた。南へ移動するにつれて霧は薄くなってきたが、波が荒れ始めた。艦首によって砕かれた波しぶきが、艦橋に降りかかる。
5月29日午前0時10分、シアトルの西北西700海里地点で重巡洋艦と輸送船1隻を発見。直ちに急速潜航し、攻撃態勢に入った。魚雷戦用意の号令が下され、6本の魚雷が装填された。音源に向かって30分ほど突撃を続けたが、途中で見失う。浮上したのち艦載機を発進させて索敵を行った。双眼鏡を覗く田上艦長が四方を見渡すが、艦影1つ見当たらない。艦載機からの報告は無く、予定より30分遅れて帰投。艦尾に着水し、デリックによって吊り上げられた。
5月30日、雲間から突然敵哨戒機6機が出現。次々に爆弾を落とされたが、かろうじて回避に成功。潜航して敵機の前から消えた。もし敵の錬度が高かったら、今頃沈められていたかも知れない…。6月2日、シアトルの沖合いに到着。サンフランシスコから流される対日プロパガンダ放送が受信された。「日本対日本」という題名で、日系人と思われるアナウンサーが流暢な日本語を使って「軍閥に操られる日本人は破滅の道に進んでいる」と訴えていた。敵地の眼前であるため哨戒は厳しく、また敵船の往来は殆ど確認されなかった。この辺りに航路は無いようだ。6月5日午後12時、左15度方向に音源を探知。潜望鏡を上げてみると1万2000トン級の商船を視認した。既に宵闇が海面を包みつつあり、ともすれば目標を見失ってしまいそうだ。敵船の右舷側に移動し、14時に魚雷2本を発射。間もなく暗闇の中で赤々とした爆発の炎が花開いた。艦橋の見張り員は喜び、艦内では「命中、万歳!」の歓喜の声で溢れた。しかし、戦後の記録によると該当船は無かったようだ。伊25がアメリカ西海岸で通商破壊している頃、ちょうどミッドウェー海戦が行われていた。戦況は伊25にも届き、「我、空母大破4、小破1。伊168潜がヨークタウン型空母を撃沈せり」と報告を受けた。6月11日、艦隊旗艦から空母4隻喪失の悲報が届き、艦内は沈痛な空気に包まれた。日没後の14時45分、浮上。闇が深まる中、ハッチを開けて新鮮な空気を取り入れる。すると前方に白灯2個が確認され、戦慄が走った。不運にも、潜水艦を探していた敵の哨戒艇2隻の前に浮上してしまったようだ。発見される前に大急ぎで潜航。敵哨戒艇は停止して聴音を行っていたので、海中で反転して離脱した。約30分の逃走を経て、何とか浮上した。敵の監視網を回避しながら、毎日毎日場所を変えては大物が来るのを待った。これは日本の潜水艦が複数出現していると錯覚させる狙いも含まれていた。また撹乱のため、伊25は予め擬潜望鏡というものを大量に用意していた。青竹の下に石の重しを付け、上部には斜めにガラスが装着されている代物で、敵の通商路へばら撒いた。これも日本の潜水艦が大量に出現しているとの心理的恐怖を与えるのが狙いだった。艦の絶対数不足に起因する苦肉の策であった。
6月12日午前11時45分、潜航中に音源を探知。水深18mまで浮上して潜望鏡を上げると、伊25の方へ近づいてくる大型商船の姿があった。水雷科員が魚雷2本を装填し、すかさず発射。やがてズシーンという爆発音を聴き取った。だが2回目の爆発音は聞こえてこなかった。敵船は右舷に傾き、黒煙を噴き上げながら逃げていった。傾斜が酷かったから1時間も持たないだろう。翌13日には右50度方向に8000トン級の商船を捕捉。2本の魚雷を発射し、爆発音を聴いた。発見から命中まで僅か30分という手際の良さだった。その1時間半後に新手の大型商船を発見したが、距離が2万5000mもあって雷撃は不可能だった。続いて敵油槽船1隻を発見。雷撃により大破させる。艦首部分は沈没しているが、なかなか沈みそうにない。油槽船は船倉にタンクがあり、燃料が入っていると中々沈まないのだという。トドメを刺すべく、田上艦長は水上砲撃戦を指示。出撃して以来の砲撃戦であった。海面に飛び出すと、待っていた砲員が14cm甲板砲に駆け寄る。1発、2発、3発と砲弾が発射され、船橋が飛び散り、マストは倒れ、甲板上や鉄板に大穴が開けられていく。救命用のボートにも命中し、粉砕される様子が鮮明に映った。8発の砲弾を撃ち込まれた敵油槽船は炎に包まれ、船尾を逆立てて沈んでいった。敵船が沈むと、辺りは静かになった。6月18日、伊25と伊26に主要施設砲撃が改めて下令される。
6月20日午前10時(現地は深夜)、フラッタリー岬の南西でイギリス商船フォート・カモザン(7126トン)を雷撃し、左舷の第二船倉に魚雷を命中させた。船体に亀裂が走り、直径約50フィートに及ぶ大穴が穿たれた。救命艇1隻が吹き飛ばされ、残骸となって船上に崩れ落ちた。船内には積み荷の材木が散乱。乗組員はパニックに陥って反対の右舷側に集まり始めた。損害の大きさから乗組員は船を放棄、残った救命艇で海上に脱出した。さらに甲板砲18発を撃ち込み、暗闇の中で火花が散った。敵船は既に半分沈みかけており、念のためぐるりと一周して確認した結果、沈没は確実と判断。伊25は離れていった。だが、敵船は木材といった水に浮く材質を大量に積み込んでいたため沈没には至らず、曳航されてしまっている。余談だが、2名の海軍砲手は伊25の襲撃に気付かず、船が放棄された後も寝続けていたとか。救助に戻ってきた乗組員によって起こされ、退避した。カナダ海軍のコルベット艦クイネルとエドマンズトンが伊25の追跡を行ったが、逃れる事に成功した。
スティーブンス要塞砲撃
6月21日夜、アメリカ西海岸のアストリア沖に到着。前方には左右に広がる山並みが見える。しかし今夜は異常に明るく、しかも上空には哨戒のB-17まで飛んでいる。この状態で砲撃したら一瞬で位置を特定されてしまうだろう。やむなく今夜の砲撃を断念し、反転して沖合いへと出る。その道中、突如として吊光弾が投下された。敵に見つかった!伊25は即座に潜航し、爆雷攻撃を覚悟する。しかし、予想された攻撃は無かった。味方と誤認したのか?爆弾を搭載してなかったのか?ともあれ窮地を脱する事が出来た。6月23日夜、浮上。この日も妙に明るい夜で、漁船で作業している漁師の姿がハッキリと見えた。伊25は機雷源を突破するため地元の漁船団を追跡し、アストリア軍港内へと潜入。グングンと奥地へと入っていく。「おいおい、艦長はどこまで入る気か?」「こんなに入ってしまったら、出られなくなるじゃないか」と乗員が心配になるくらい突き進んだ。
深夜、田上艦長は浮上を命じ、コロンビア河口沖に占位。そしてスティーブンス沿岸要塞に向けて14cm砲弾17発を発射した。砲撃を受けた要塞側はサイレンを鳴らし、即座に全ての照明を落としたため、有効的な砲撃が出来なかった。だが敵をパニックに陥らせ、慌てて駆け出してきた敵の守備隊が転んだり、トラックに轢かれるなどして負傷。ジャック・R・ウッド大尉は「私たちには地獄のように見えた」と語っている。砲弾の多くは野球場や沼地に落ちたが、1発が電力装置の付近で炸裂。複数の大きな電話線と電力線が切断され、広範囲に渡って通信障害を引き起こした。これが唯一の損害であった。一方、要塞側は陸砲があったにも関わらず反撃が行えなかった。基地司令が10インチ砲の射程では届かないと判断したとも、砲撃の光で位置を特定されるのを嫌がったとも言われる。発射された砲弾のうち、1発がゴルフ場に着弾。現在そこには記念碑が建てられている。砲撃で発生した大火が、天を焦がさんばかりに夜空を赤く染める。後は脱出するだけだ。港内の漁船は何が起きたのか理解できず、発光信号のようなもので連絡を取り合っている。そこへ伊25が悠々と通過、漁船団はただ見送る事しか出来なかった。こうして何ら妨害を受ける事無く、岬まで脱出した。微小な損害しか与えられなかったが、この砲撃は米英戦争以来130年ぶりの本土攻撃となり、西海岸への本格的侵攻を想起させて敵国を恐怖させた。訓練飛行中の航空機が伊25を発見し、通報を受けたハドソン攻撃機が急行。爆撃をしてきたが損害は無かった。大任を終えた伊26はアストリアから離れ、西方に舳先を向けた。予定では、このあとオーストラリア方面の作戦に投入されるはずだった。またサンフランシスコ沖を航行していた時に敵の日本語宣伝放送を傍受。日本本土に向けたプロパガンダ放送であり、内地では聴取が厳禁されているが、伊25では耳を傾ける事が出来た。真珠湾攻撃の際に捕虜第一号となった酒巻和男少尉の事が語られていた。
6月25日、左舷艦尾方向から追跡してくる哨戒機の編隊6機を発見し、ぎりぎりのところで急速潜航。至近弾や直撃弾は避けられた。どうやら敵の哨戒区域が拡大されたらしい。翌26日は終日水上航行を行った。西に進むにつれ気温が下がってきた。6月30日夜、「横須賀へ直ちに帰投せよ」という命令を受け、哨区を伊5と交代する事になった。すると敵潜らしき艦影を発見し、急速潜航。艦長が潜望鏡を上げてみると、伊5型潜水艦である事が判明。一応味方なのだが、相手は艦名を書いていないし軍艦旗も掲げていない。敵が用意した囮の可能性もある。このため潜航退避したまま伊5とすれ違った。ちなみに伊5側は伊25に気付いていなかった。7月3日、艦内を支配していた寒さが徐々に和らぎ、次第に気温が上がってきた。7月5日からは水上航行を開始。過酷な環境で戦い続けてきたせいか、舷側の波除けがグニャリと折れ曲がってしまっていた。破損部分は応急修理できないので、何とか帰投まで持たせなければならない。南下を続けて日本に近づくにつれ、散々悩ませてくれた霧も薄くなってきた。霧が薄まった代わりに、敵への警戒は強くしなければならない。7月6日になると、内地からの放送が受信できるようになった。気温は既に23度となり、艦内は蒸し暑くなる。早く帰国したい気持ちを阻むかのように波が荒くなり、やむなく機関半速にする。霧が晴れると、初夏の陽射しが艦に降り注ぐ。見張りにはサングラスが必要になった。7月8日、ようやく波が収まった。風も静かなので、今の間に作業を行う。飛行機格納筒に白の識別線を記入し、日の丸を描いたキャンバスを両舷に貼り付け、軍艦旗を掲げた。味方の哨戒圏に入ったので敵艦や敵機の出現は無いだろう。だが、敵潜だけは注意しなればならない。伊25がそうだったように、敵もまた本土近海に潜水艦を忍ばせている。軍港の近くだからこそ、見張りは厳重にする必要があった。翌9日、艦内の大掃除を実施。真水が無いので、海水をモップやテーブルにつけて擦る程度であるが。後は艦内のホコリ出しと整理整頓だ。掃除後は入浴が許され、浴場と化した洗面所で3升分の真水を使って身を洗った。
7月11日、伊豆や房総半島の山々が見えてきた。艦は静かに横須賀の軍港内に入った。入港した伊25が見たのは、異様な光景だった。出撃前にはいなかった多数の補助艦艇や傷ついた艦が各所に停泊し、工廠はその修理に追われて不眠不休の工事を行っている。横須賀市も灯火管制が敷かれ、夜間は真っ暗になって活気が失われていた。伊25は工廠に入渠し、検査修理が徹底的に行われた。一方、人間の検査も行われている。異常があれば退艦や転勤となるが、伊25では誰一人として退艦を望む者はいなかった。家族として団結しているため、仮に多少の病気が見つかっても軍医長に頼み込んで見逃して貰うのだという。
7月27日、藤田飛行兵曹長は入湯上陸(泊まりがけの外出)が許された。家族を山口県から横須賀に呼び寄せ、久々の休暇を楽しんでいたが、8月上旬に突然田上艦長から伊25へ戻るよう言われる。横須賀軍港の岸壁に係留中の伊25に戻ると士官室に田上艦長が現れ、1枚の電報を見せる。それには「伊二十五号潜水艦飛行長、本日軍令部第三課に出頭せよ」と書かれていた。藤田飛行兵曹長は意図が理解できず、田上艦長に訊くが彼も分からないのだという。とりあえず田上艦長の知り合いであり、潜水艦作戦の参謀を務める井浦祥二郎中佐に会えば真意が分かるだろう。命令どおり出頭すべく、藤田飛行兵曹長は横須賀駅から新橋へ向かった。海軍省の2階にある第三課の部屋に入り、案内された部屋で待っていると井浦中佐が姿を現した。彼は藤田飛行兵曹長を会議室に通した。そこには大佐・中佐クラスのお偉いさんが集結。その中には皇族の高松宮殿下(中佐相当)の姿もあった。シアトル駐在の経験がある副官が円筒から1枚の地図を取り出し、机の上に広げる。地図にはアメリカ西海岸の地形が記されていた。
「米国の西海岸は山林が多く、殆どが原生林。敵さんが最も恐れているのは山火事である。自然発火する事も稀にある。西海岸の大森林で一旦火災が起きると、消しようが無い。猛烈な熱風が近隣の町を襲い、炎は全てを焼き尽くす。こうなると、多くの住民は命からがら避難しなければならない。焦熱地獄で心身ともに疲労困憊してしまうのだ。したがって敵の最も苦痛とする森林火災を飛行機から焼夷弾を投下して発生させれば、効果は絶大である」
目標が軍事基地ではない事に最初は嘆息した藤田飛行兵曹長だったが、森林火災の重大さを説明され、俄然やる気が出てきた。潜水艦1隻の艦載機1機では、仮に市街地へ爆弾を投下しても程度は知れている。そこで森林火災を引き起せば、消火までに多大な労力と時間を割かせられる上、民心へ恐怖を与える事も出来る。理に適った作戦目標だった。また、ドゥーリットル空襲で小学生を銃撃して殺害した敵軍と違って、民間人を直接攻撃しないという武士道精神も込められていた。会議が終わった後、藤田飛行兵曹長は最敬礼して退室。帰りの電車の中で一人興奮していたという。伊25に帰艦後、藤田飛行兵曹長は田上艦長に地図を渡した。地図はすぐに金庫の中へとしまわれた。アメリカ本土爆撃の事を知るのはパイロット本人の藤田兵曹長と田上艦長以下数名の士官のみだった。戦後、井浦中佐は伊25を選んだ理由として、艦長の田上少佐が極めて優秀である事、神がかり的な操縦技術を持っている藤田飛行兵曹長が伊25に乗っていた事を挙げている。
作戦に備え、伊25には三か月分の食糧、医薬品、被服、兵器が積載された。艦内の通路上に食糧や被服が積み重ねられ、その上に幅の狭い板が置かれた。8月上旬に横須賀の航空技術廠で搭載機の改造が行われ、76kgテルミット焼夷弾6発を搭載できるようにした。1発の爆弾の中に520個の焼夷弾が入っており、着弾と同時に100m四方に散乱。2000度の高温で1分間燃焼する代物だった。零式小型水上偵察機の改造は伊25搭載機だけに限らず、他の機にも行われていた。どうやら藤田飛行兵曹長の意見が全面的に採用されたようだ。8月10日に第4潜水隊は解隊。伊26ともども、伊19がいる第2潜水隊へ転属となった。出港予定日を8月14日に定め、その前夜では上甲板でささやかな宴が開かれた。前回と同じく妻帯者は上陸しており、独身者だけが参加した。既に必要な物資は詰め込まれ、伊25はいつでも出撃できるようになっていた。ところが敵機動部隊が本土近海に侵入したとの情報があり、出港日が1日延期。伊25にも迎撃命令が下ったが、その後の敵艦隊の動向が掴めなくなったため中止となった。
アメリカ本土爆撃の大任を帯びて
アメリカ本土爆撃の項も参照
8月15日午前9時、アメリカ本土爆撃という大任を帯びて横須賀軍港の岸壁から静かに離れた。この作戦はドゥーリットル空襲の意趣返しでもあった。作戦に伴って、伊25は第6艦隊直轄となった。大任とは裏腹に、伊25を見送ってくれたのは在泊中の小型艦艇の乗員だけと寂しい出撃だった。死地に赴く伊25は、ただ静かに湾口へと向かっていった。全ての乗組員が死を覚悟し、見納めと言わんばかりに祖国の大地を見続けていた。再び生きて母港に帰れるとは思えない。ただ敵に大打撃を与え、その任務を全うする殉国の精神が見て取れた。懐かしの故国よ、幸いあれ。永遠に栄えよ。我々は祖国の繁栄を祈りつつ、喜び勇んで戦場へと向かうのだった。東京湾ではすれ違った漁船の乗組員が手を振り、伊25側も振り返す。東京湾を出ると70度に変針し、北上。三陸沖からアリューシャン列島の南を進む伊25。これがオレゴンへの最短ルートだった。いつ敵に出会うか分からない。艦内は三直哨戒の厳重な見張りが立てられた。出港から4、5日が経つと涼しさを感じられるようになった。
出港して一週間、アリューシャン列島沖を航行している時に田上艦長と藤田飛行兵曹長、先任将校福本大尉の三者で作戦の打ち合わせを行った。この協議では偵察機の回収ポイントを3つ設定した。決して敵に見つからないよう、忍者のような隠密航行が続く。アメリカ西海岸が近付くにつれ、緊張は高まっていった。伊25や伊17が暴れたのは僅か2ヶ月前。敵は警戒を強め、侵入してくる日本潜水艦を叩き潰そうとしているに違いない。盛んに哨戒機を飛ばし、迎撃のための艦船もいるかもしれぬ。そこへ飛び込んでいく訳なのだから、自ら好んで死地に赴くようなものだった。藤田飛行兵曹長と奥田兵曹も、顔には出さないが生還を期さない覚悟を抱いていた。しかし艦内の緊張とは裏腹に、平穏な航海が続いた。そろそろ敵の哨戒圏に入るので、昼間は潜航し、夜間のみ水上航行する手段を取った。敵国に近づくにつれ、ラジオからは日本向けの短波放送が鮮明に聞こえてくるようになった。これは敵国のプロパガンダ放送であり、流暢な日本語で「アメリカは関東大震災でも多大な援助を行ったのに、日本はそうした恩義を忘れて我々を攻撃している。義理人情に厚い日本人は一体何処に行ってしまったのか」などと言っているが、真に受ける者は誰もいない。
9月に入ると、艦はやや南に変針。敵国の内懐を突き進んでいる割には平穏な航海が続き、日没前後になると甲板上で輪投げをするようになった。9月2日、甲板に水兵を集めて水偵の発艦と収容訓練を実施。敵は全土に空軍基地を建設し、優れた防空体制を築き上げている。発見されれば、必ず戦闘機の大群に襲撃されるであろう。藤田飛行兵曹長は最期の時に何をすべきか、何度も頭の中でシミュレートした。9月4日、いよいよアメリカ大陸が見えてきた。更に近付くと山岳も見えるようになった。アストリア沖に到着した伊25は南下を開始する。季節はすっかり秋めいていた。晴れた空、澄んだ空気、吹きぬける秋風。夜空には星がきらめき、沿岸の民家から明かりが見えるほど穏やかな光景だったが、海上は大荒れで波が高かった。これでは偵察機の組み立てが出来ないとして発進を見合わせる。メンドシノの灯台から投げかけられる光が、闇夜を切り裂いて回るのが見えた。フラッタリー岬から50海里の地点に到達すると、田上艦長は全員に集合を命じ、訓示を行った。
「いいか諸君、本艦はこれよりアメリカ本土爆撃を行う。知っての通り、さる4月18日、我が帝都東京は米国陸軍重爆B-25に爆撃された。神州始まって以来の恥辱、これ実に、昭和の元寇である。加えて幼い人命を失った事は、誠に痛恨の極みである。攻撃は藤田、奥田両君の水偵による空爆である。これは東京空襲に対する我々からの心のこもった返礼である。借りはきっちり返してやろうではないか。米国建国160年、アングロサクソンの鼻っ柱を我々がへし折ってやるのだ」
田上艦長による訓示が終わると、艦内は歓喜と万歳の声に包まれた。到着したばかりなので焦る必要は無かった。だが、いつ敵と遭遇するか分からない。艦橋の見張り員が緊張しながら、周囲を警戒している。敵に有利な情報を与えないよう、田上艦長は民間ラジオを傍聴する事を禁じていた。ゆえに現地の天候情報が手に入らず、これが暗い影を落とした。来る日も来る日も天候に恵まれず、発進を延期。夜明けとともに潜航し、次の夜を待つ。さすがに艦内でも焦りの色が見えてきた。波が穏やかな場所を求めて西海岸を北上。移動中に何隻か大型タンカーを発見したが、田上艦長の意向で偵察機を発進させるまでは手出ししなかった。
藤田飛行兵曹長は、甲板に出て見張りに参加していた。爆撃を行う搭乗員は休養を命じられていたが、体が鈍ってしまうという事で彼は視力の訓練と見張りを兼ねて水平線や星空を見つめていた。灯火管制をしているので夜は真っ暗であり、隣に来た人ですら顔が見えない。火を隠しながらタバコを吸っていると田上艦長がやってきて、二人で喫煙する。今回の作戦では生還は絶望的だ。しかし藤田飛行兵曹長はベテラン中のベテランで、そんな貴重な人材を海軍が使い潰すはずが無いと田上艦長は考えていた。海面には光を放つ夜光虫が揺られている。その夜光虫が突如変則的な動きを見せ、藤田飛行兵曹長は魚雷かと思って緊張するが、田上艦長は冷静に「鮭だよ」と言って乾いた笑い声を上げた。この辺りは鮭の大群が回遊しているようだった。敵地の眼前で他愛の無い会話をしながら、夜が更けていった。
9月7日、ついにオレゴン州沖合いに到達。その日の夜、艦が発進位置へと移動した事から、艦内に活気が戻った。明朝、夜更けとともに偵察機を発進させるのだ。だが天候は突如としてそっぽを向いた。夜明けが近づくにつれ、急に霧が出始める。だんだん霧が濃くなり、艦橋から艦首が見られないほど視野が悪くなった。夜明けを迎えても濃霧は晴れず、発進は急遽取りやめ。無念の潜航へと移った。ああ、またなのか。肩透かしを食らった乗組員は落胆し、次の機会を辛抱強く待った。9月8日未明、闇夜に紛れて浮上しようと潜望鏡を上げてみると、晴れ渡った空にB-17爆撃機2機が飛行しているのを確認。慌てて潜航し、水深50mに退避した。
9月9日未明、ブランコ岬西方25海里で浮上。潜航中は空気が汚れるので艦内は禁煙だった。浮上と同時に藤田飛行兵曹長は発令所にタバコ盆を出し、すぱすぱと吸った。そして霧が出ないよう一心に願った。夜明けが近くなるにつれ、波は静かになっていった。頭上には澄んだ星空が広がっている。待ちに待った好機がやってきたのだ。藤田飛行兵曹長は遺書をしたため、遺体代わりとなる髪の毛と爪も用意。汚れた下着や服は洗濯できないのでそのままだが、畳んで整理してある。いつ死んでも良いように準備を万全にする。午前4時、「飛行機発進用意、作業員前甲板」の号令が下った。さっそく作業員が前甲板に集合し、先任将校指揮の下、飛行機格納筒が開かれる。中から零式小型偵察機が引き出され、前甲板に設置。組立作業が始まった。その間に藤田飛行兵曹長は飛行服に着替える。迅速かつ確実な作業により、僅か30分で作業は完了。操作マニュアルに記載されている所要時間よりも短く、整備班の錬度の高さが窺える。次に試運転へと移り、パタパタと小気味良いエンジン音が鳴り始める。田上艦長が「前進微速、針路270度」と命令し、停止していた伊25の船体が動き始める。東の空が白んできた。艦は速力16ノットくらいに加速し、白波を立てている。藤田飛行兵曹長が「艦長、出発します」と短く告げると、田上艦長が緊張した面持ちで「爆撃地点は予め命令したとおり、慎重にやれ、成功を祈る。出発。」と返した。敵機の攻撃で民間人に少なくない犠牲が出ているが、私憤に駆られず予定通りに森林を爆撃せよ、という意味が込められていた。彼は400年前から代々伝わる日本刀を携え、偵察機に乗り込んだ。
藤田飛行兵曹長と奥田兵曹が偵察機に搭乗すると、各部のチェックを始めた。エンジン始動。周囲が曙光に照らされ、はっきりと見えるようになった。まるで太陽が伊25を祝福しているかのように――。先任将校へ「発進準備良し」と報告し、整備員が風車止めピンを外す。午前5時34分、エンジンを全開にし、カタパルト上を滑走して艦から飛び上がった。爆弾を積んでいるため、機体が重い。海面にグングンと近づいていったが、やがてエンジン出力が勝って上昇。朝日が海を赤く染める頃にはエンジン音も軽快なものになる。機体を見送ったあと、伊25では右30度方向に船影を確認。これはまずい。帰投する艦載機のために現在位置にいなければならないのに、敵に発見されては叶わなくなる。全乗組員が敵船に視線を送る。魚雷戦用意の号令が下り、いざという時は一戦交える覚悟を抱いた。幸い敵船は伊25に気付かなかった。まさに天佑神助と言えた。爆撃地点へ向かうのに、ブランコ岬の灯台は大変便利な目印だった。零式小型偵察機は灯台の横を通過し、針路を南南東に向けてアメリカ本土へと突入した。高度2500mまで上昇し、機体を水平に整える。時速180km/h、爆撃機にも劣る鈍足に、ピストルでも撃ち落とされる危険性がある脆弱な防御力。加えて自衛用の武装は7.7mm機銃のみであり、もし敵戦闘機にでも捕捉されたら一瞬で終わりである。果たして任務を完遂し、生還する事は出来るのだろうか。飛び去っていく零式小型偵察機を、沿岸の町ブルッキングスの市民は目撃していた。幸い迎撃される様子は無く、ブランコ岬から80kmの地点まで到達。眼下にはオレゴン州の森林が広がっている。
この日の朝は、例年と違って霧が深かった。火災監視員のハワード・ガードナーはエミリー山脈にある監視台に乗って、霧に覆われた森林に目をやっていた。午前6時過ぎ、彼はブルッキングスの市街地方面から聞こえてくる大きなエンジン音を耳にする。このエンジン音こそ零式小型偵察機であった。またブルッキングス市の森林監視哨に務めているネブラスカ大学の学生キース・ジョンソンも聞き慣れないエンジンを聞き、ゴールドビーチのレンジャー部隊本部に通報。しかし本部はまさか日本軍機が飛来したとは思わず、味方機と誤認したと決め付けてしまった。アメリカ陸軍航空隊の警戒は海岸方面に向けられており、シスキュー国有林は全くの無警戒だった。爆弾の投下を決めた藤田飛行兵曹長は奥田兵曹に準備を命じ、エミリー山に1発目の76kg焼夷弾を投下した。着弾点に爆発の花が開き、炎上。狙い通り山火事が発生した。投下地点から東に5km移動したところで2発目を投下。軽くなった機体をフルスロットルにし、240km/hのスピードを出してブランコ岬を目指した。発覚を避けるため、ブルッキングス市付近ではスロットルを絞ってエンジン音を小さくする。ブランコ岬灯台を旋回して無事海上へ脱出できたが、不運にも国籍不明の商船が2隻、9m間隔で北上していた。ここに来て敵に気付かれないよう15mの低空飛行を行い、2隻の間を通り抜けた。異説では2隻が見えなくなる所まで欺瞞針路を取り、のちに母艦のいる方角へ変針した事になっている。
遠方で煙が上がるのを目撃したハワードは「落雷によって山火事が発生した」と思い、ゴールドビーチにあるレンジャー部隊本部に通報。先のジョンソンの通報以外にも各見張り所から爆撃されたとの報告が寄せられ、レンジャー本部は大騒ぎになった。本部はハワードに現場の状況を確認するよう命じ、彼は荷物をまとめて現場に急行。小火を消火した。煙が晴れると、彼は地面にクレーターが出来ている事に気付く。更に爆弾の破片が落ちていて、拾い上げると日本語が書かれていた。この事は直ちに報告された。当時のオレゴン州は雨季だった上、作戦の前日に大雨が降っていた事も手伝って延焼には至らず、自然鎮火させられてしまった。午前6時30分、陸軍の沿岸監視員もブランコ岬から洋上に向かう零式小型偵察機を目撃しており、バンドン市の第174歩兵分遣隊司令部に通報。すかさず防空警戒本部に通達され、P-38戦闘機が出撃した。ところが太平洋から来たとは思わなかったようで、報告とは全く違う反対方向へ行ってしまった。第174歩兵分遣隊は日本兵の上陸を警戒してバンドンからブルッキングスまでの沿岸を捜索したが、痕跡すら無かった。爆撃の件は報道管制が敷かれ、極秘とされたがマスコミにすっぱ抜かれて国民にも知れ渡った。まさか太平洋を潜水艦で渡った来たとは夢にも思っておらず、FBIですら付近の湖で組み立てたと断定してオレゴン州内の湖を徹底的に調べた。
窮地を脱した偵察機は高度50mを維持しつつ、洋上のランデブー地点に向かった。やがて洋上に黒い点を確認、伊25が帰りを待っていた。無線封鎖をしているため通信は使えず、あらかじめ決めていたバンク(左右に翼を振る味方識別信号)を行って艦の右舷艦尾側に着水。ゆっくりと揚収用デリックのもとへ接近する。奥田兵曹が主翼の上に乗り、デリックのフックに機体を引っ掛けて吊り上げる。甲板上には整備班が待っていて、すぐに分解作業が始まる。敵に見つかれば一巻の終わりなので、司令塔では見張り員が目を光らせている。機体はクレーンに吊られ、上甲板にて分解。格納筒へと収納された。その間、わずか7分。迅速な作業だった。田上艦長は藤田飛行兵曹長から報告を聞き、帰投直前に遭遇した国籍不明のタンカー2隻を攻撃すると宣言。航海長に前進を命じ、見張り員には空中見張りを厳重にするよう命じた。伊25は水上を18ノットで走りながらタンカーに追いすがる。
爆撃から一日が経った9月10日。この日は雲一つ無い快晴で、波も静かだった。現在18ノットの速力で波を蹴っている。針路は北北東。敵地の真っ只中にも関わらず平穏だった。秋の朝を吹き抜ける涼しい風を受けながら航行していると、右の見張り員が「マスト見えます、右90度」と叫んだ。2隻のタンカーに追いついたのだ。「魚雷戦用意」の号令が下り、艦内はお盆と正月が同時に来たかのような忙しさになった。伊25は潜航して前方に回り込み、2隻とも撃沈する作戦を立てた。
ところが水上航行中、後方見張り員が「敵機3機、直上!」と絶叫。爆撃されたとの連絡を受けたロッキードA-29ハドソン攻撃機3機が、タコマのマッコード飛行場から緊急発進してきたのだ。艦橋の見張り員が艦内に滑り込むと、ベントを開いて急速潜航を行った。迅速な行動により、敵機が急降下してくる前に海中へ没する事が出来た。もし1秒でも遅れていたら撃沈されていたであろう。緊急発進だったためハドソンは爆雷ではなく140kg爆弾を懸架しており、見えない目標に対して投下した。深度計が18mを差した所へ激しい振動が襲い掛かった。爆発音とともに、ぐらりと揺れる艦内。続けざまに爆発音が響き、やられたと思うくらい艦が大きく軋んで揺れた。艦内の深度30mに達したところで150kg爆弾3発を喰らい、電信室の電線引き込み口が損傷して浸水。数名が負傷した。士官室の電灯が消失し、電気長が懐中電灯を片手に電池室へと飛び込んでいく。伝声管からは何やら叫び声が聞こえてくるが、混乱しているのか聞き取れない。艦が左へ45度傾きながら沈んでいくのが分かる。やられたか。ここで艦は沈没するのか?嫌な予感と最悪の結末が脳裏によぎる。発令所からは「潜舵上げ舵!」「メインタンクブロー!」「電信室浸水!」といった怒号が飛び交う。様々な努力が続けられているが、伊25が沈んでいくのを食い止められない。乗組員の不断の努力により浸水は食い止められ、沈下も停止。艦内にはホッとした空気が流れた。暗闇の中、夜光塗料で塗られた計器類の文字が白色に浮かび上がる。頭上では敵機が投弾しているのか、爆発音が響いている。潜水艦は上からの攻撃には強いが、それでも水圧で艦体が軋むたびに押し潰されそうな恐怖が胸を掴む。電灯も復活したが、一部計器類が故障してしまったので復旧を急ぐ。続けて4発の投弾を受けたが、最初の投弾より遠い場所で炸裂した。これは敵機が伊25の正確な位置を把握していない証拠であり、乗組員に少しばかり安堵をもたらした。水中を這って何とか沖に脱出するも、更に7発の投弾を受ける。ひたすらボコボコにされたが、日没後は攻撃が止まった。夜の帳が下りた海上に、伊25が姿を現した。秋の爽やかな風が艦体を撫でる。ディーゼルエンジンの轟音が響き、ゆっくりと艦が動き出す。どれだけ渇望したか分からない新鮮な空気。吸い込むと、甘い味がした。幽鬼のようだった乗組員は見る見るうちに生気を取り戻していく。波除け鉄板と電線引き込み柱が吹き飛んでいたため、徹夜の応急修理が行われた。飛び出る溶接の炎はシートを使って覆い隠した。敵前修理のため、当然ながら見張りは厳重だった。9月10日午前9時、ようやく作業完了。夜明けとともに潜航した。実はハドソン爆撃機は、水偵の収容作業中の伊25を発見していた。だが、まさかこんな所に日本の潜水艦がいるとは考えられず、しばらく上空を旋回して様子を窺っていたのだった。もし攻撃を強行して無防備な収容作業中に爆撃を受けていれば、全員海の藻屑であった。
軍令部から伊25宛にサンフランシスコ・ラジオの内容を記した電文が届き、相応の効果があった事が伝えられた。「敵側サンフランシスコ・ラジオ放送。日本潜水艦より発したと思われる小型飛行機がオレゴン州の山林に焼夷弾投下、数人の死傷者と相当の被害を受く。わが爆撃機は直ちに浮上航行中の敵潜水艦を爆撃、相当の被害を与えた。」この報告を聞いた藤田飛行兵曹長は、民間人に犠牲者が出た事にショックを受けた。民間人への犠牲を防ぐために市街地を避けたというのに、これでは敵と同じではないか、と。
伊25は応急修理を行いつつ北上するが、次第に敵の沿岸警備が強くなってきた。少しも油断はできない。潜望鏡を上げようものなら敵の駆逐艦と哨戒機がすっ飛んできて、すぐに追い回される。昼間は潜航、夜間は浮上して航行し、獲物を捜し求めた。艦内では再び対日プロパガンダ放送の「日本対日本」が傍受され、9月9日の爆撃も報道された。この放送でも敵は「潜水艦による爆撃」という答えに至っておらず、乗組員の士気は向上した。荒れ模様の暗夜に、北進する敵中型商船を発見。雷撃を行ったが、外れてしまった。どんどん北上を続けた伊25は潜航状態のままコロンビア河の下流に入った。前回アストリアを砲撃した場所の近くである。河口の底はしばしば変化するので、海図はあまり頼りにならない。測探儀を使い、海底を調査しながら進む。そんな中、突如として艦に振動が走り、前進が止まった。「浅瀬だ、座礁だ!」という絶望的な叫び声が聞こえた。田上艦長は全力後進をかけたが、速力計はゼロを指し示したままだ。ガクン、ガクンと艦が揺れる。推進器が海底の砂をかき回しているようだ。最悪の結末が脳裏によぎる。このまま干潮を迎えれば脱出は不可能になり、敵地で果てる事になってしまう。絶体絶命の窮地!タイムリミットが迫る中、どうにか離礁に成功。紙一重で助かった。間もなく爆雷が叩き込まれた。座礁した場所に投下されているように聞こえ、脱出が間一髪だった事が窺えた。沖合いに脱出し、夜を待ってから浮上した。辺りは霧に包まれており、夜明けを迎えても霧は晴れない。この濃霧は敵哨戒機の目から伊25を隠してくれたので、ホッと一息つく事が出来た。西海岸から約20海里の地点を漂泊する伊25。霧の中から敵哨戒機のものと思われるエンジン音が聞こえてきた。伊25に利してくれた霧はついに晴れ、浮上時に「ハワイ・サンフランシスコ間の航路を遮断せよ」との命令を受信した。待ってましたと言わんばかりに伊25は北進を止め、南下を開始する。9月16日夜、サンフランシスコの沖合い約70海里の地点に進出。海は鏡のように静かであったが、町は灯火管制が敷かれていて暗黒に包まれていた。ラジオを傍聴すると、敵国はオレゴンを爆撃された事を盛んに報じている。9月23日にサンフランシスコ沖で商船1隻を撃沈。
9月27日夜、月が昇りかけた夜空を背景に浮上。ここで新たな命令を受信し、電信員が「D地区の作戦を取りやめ、B作業を遂行せよ」と田上艦長に伝えた。つまりもう一度「アメリカ本土を爆撃せよ」と命じられた訳である。艦長は黙って頷き、北上を再開した。今度は敵軍の配備を警戒して夜間に爆撃を行う事にした。翌28日夜、湾内の様子を探るため転針したところ、音源一を探知。浮上航行中に右75度方向の水平線にて船影を発見した。魚雷戦用意の号令が下され、見張り員が食い入るように敵船を監視する。敵船の右舷側に陣取り、午前7時に2本の魚雷を発射。敵の反撃を避けるためにすぐさま転舵、急速潜航する。水深30mまで潜航したものの、いつまで経っても爆発音は聞こえてこなかった。深度18mまで浮上して潜望鏡を上げてみると、敵船はジグザグ運動しながら逃げていく途中だった。直ちに急速浮上し、海面に姿を見せる伊25。4時間の追跡を経て、敵を待ち伏せられる絶好の位置に潜航。魚雷1本を敵の船腹にぶち込み、物凄い火柱が立ち上がった。しばらくしてズシンと響く爆発音が伊25に届き、歓声が上がった。航海長が「おめでとうございます」と声をかけると、田上艦長は「いや、こんな商船相手じゃ面白くもない。ラジオの放送によると伊26も伊19も空母を仕留めたようだ。こんなもんじゃ、喜べないぞ」と口では不満を述べたが、ご機嫌な様子だった。敵船は前かがみになりながら沈んでいった。もくもくと噴き上がる黒煙だけを残して。だがジグザグ運動中に哨戒機への通報を済ましているだろうから、長居は禁物だ。サンフランシスコから100海里の海上に退避した。海上は鏡のように静かになっている。田上艦長は通商破壊を行いながら、二度目の爆撃を行うチャンスを窺っていた。時々潜望鏡を上げ、敵情を観察。艦載機発進に適した天候を求めて西海岸沖を移動する伊25だが、なかなか適した日が来ない。敵は既に伊25が活動している事を知っている。しきりに哨戒機を飛ばし、撃沈のための駆逐艦も待機している。長居すれば確実に殺されるであろう。伊25の焦燥を嘲笑うかのように、飛行不適の日が続く。
9月29日夜、浮上してみると穏やかな海が広がっていた。ようやく天候に恵まれたのだ。すかさず伊25はブランコ岬沖へと急行。夜間とはいえ月光に照らされ、かなり明るい。次第に夜が更けていく。厳重な警戒の下、艦載機の組立作業が行われた。そして二度目のアメリカ本土空襲を敢行。夜陰に紛れて艦載機がオレゴン州に侵入、市街地は灯火管制が敷かれて真っ暗だった。伊25と陸地との距離が90kmも離れている事から、今回は深入りせずオーフォード近くに投弾。花火のような炎がパッと開いた。火災は伊25からも見えた。敵に見つからないようエンジンを切り、グライダーの要領で滑空。目印のブランコ岬を高度300mで通過し、海上に出た。しかし陸地を離れて15分、そろそろ伊25上空に差し掛かるはずなのだが、一向に姿が見えない。夜間の潜水艦は実に発見しにくい。針路そのままで飛行を続けたが、やはり見つからない。不安になった藤田飛行兵曹長は一度ブランコ岬に戻る事とし、180度旋回。奥田飛行兵曹に命じて帰投の針路を割り出させ、方角を修正して伊25を探してみるも見えるのは海原だけ。捜索を続けているうちに燃料が残り少なくなってきた。いよいよ自爆か、と藤田兵曹長は覚悟した。その時、奇跡は起こった。うす雲の間から月が顔を出し、海を青色に照らし出した。よく見てみると、海に油膜のような尾が浮いている。それを目で追っていくと、右前方に伊25らしき姿があった。すかさず信号用電灯で合図を送ると、伊25も返信してきた。こうして無事に母艦と合流を果たし、藤田機は生還。水兵たちが出迎えてくれ、最後にハッチから降りてきた田上艦長が爆撃成功の旨を大本営に打電するよう命じた。艦内にはまだ予備の爆弾が2発残されていたが、内地へ帰投する事にした。油の流出は損傷によるもので、伊25側は気付いていなかった。帰投の際に重要な役割を果たしたものの、これでは敵に発見されると藤田飛行兵曹長は報告。田上艦長は「それでやたらと飛行機や駆逐艦に追い回されていたのか」と苦笑し、機関長に命じて直ちに応急修理が行われた。この日以降は荒天に見舞われ、零式小型偵察機の発進が出来なかったため、通商破壊に専念する事にした。伊25は敵を求めて北上。海はとても穏やかであり、日没後に浮上すれば雲一つない夜空が出迎えてくれた。内地の秋を想起させるほどの寒さが辺りを包む。陸岸から20海里付近を中心とし、沖合いに出たり接岸したりを繰り返しながら索敵する。不衛生な生活ながら病人は全く出ず、全員が健康体であった。
アメリカ本土への攻撃成功は日米双方に大きな衝撃を与えた。潜水艦に艦載機を載せる事は有用であると確信した山本五十六長官は、伊25を拡大発展させた伊400型と、その艦載機晴嵐の開発に乗り出した。中島飛行機創設者の中島知久平氏は伊25の爆撃成功を受け、アメリカを直接爆撃する超大型戦略爆撃機「Z機」の構想を得る。これが後の富嶽となる。アメリカ本土爆撃は9月17日付けの朝日新聞で発表され、臣民にも知れ渡った。一方、被害は微々たるものだが本土を攻撃されたアメリカ国民は不安と恐怖に駆られ、西海岸の大都市にシェルターや防空壕が大量に設置された。日本人及び日系人の協力は無かったにも関わらず、日本人嫌いなルーズベルトは日系人の強制収容を正当化して実行した。この爆撃を機に沿岸部の警備が急激に厳重となったため、2回目以降の爆撃は中止になった。
敵国の鼻先で通商破壊
10月4日未明、オレゴン州クースベイ沖にてバッテリーを充電すべく水上航行していると、三番見張り員が1隻の敵船を発見。直ちに急速潜航を行い、敵船の動静を観察する。「魚雷戦用意、発射雷数2本」の号令により、艦内は慌しくなる。聴音手が耳を澄ますが、不思議な事に一切の音源が探知できない。艦長は聴音機の故障を疑い、修理するよう命じる。だが聴音機は壊れていなかった。相手はシェルオイル社の武装石油タンカーキャムデン(6653トン)であった。7万6000バレルの石油を積み込み、サンペドロからポートランドに向かっていたが機関が故障し、洋上で停止して修理している所だった。漂泊しているので、音源が無いのは当然である。艦を揺さぶる振動とともに2本の魚雷が発射され、うち1本が右舷船首に直撃。一瞬で大破炎上させる。衝撃で船員のスチュワードが吹き飛ばされ、唯一の行方不明者となった。無線手が救難信号を発したものの、午前7時6分に船体放棄が命じられ乗組員は脱出していった。1時間ほど経過した頃、田上艦長は潜望鏡を上げた。敵船は大火災を起こしてはいるものの、まだ沈まない。船腹から流出した積み荷の重油が一面に広がっていて、火の海と化していた。田上艦長は休息の名目で乗員を3名ずつ艦橋に上がらせ、敵船が沈み行く様子を見物させた。トドメを刺すべく2回目の攻撃を考えていた艦長だが、聴音手が北方より新たにスクリュー音を探知したと報告してきた。駆逐艦かと思われたが、旧式の3000トン級の商船らしい。その商船が救助活動を行っているとの事だったが、乗組員の面々はこれを敵の罠だと疑った。潜水艦の攻撃を受けた商船の救助なのに、駆逐艦が1隻も現れないなんて。救助の商船はノコノコやられに来たようなものじゃないか。だからこの商船は潜水艦に尻尾を出させる「囮船」だ。うっかり雷撃すれば、隠れている駆逐艦に位置を特定されてやられる。救助に旧式のオンボロ船を出したのも、仮に撃沈されても最低限のダメージで済むからだろう。このため救助の商船には手を出さず、海中で動静を窺った。午前7時36分、遠距離ではあるが6発の爆雷が投下された。やはり罠だったのだ。もし手出しをしていたら、この爆雷は伊25の艦体を引き裂いていたに違いない。運命とは紙一重である…。午前9時以降は爆雷の投下数が増えた。
伊25が去った後もキャムデンはしばらく浮いており、救難信号に応じてやって来たダグボートによってコロンビア河口方面へ曳航されていった。しかし船がでかすぎて河口の先にあるポートランドの修理施設に入れず、曳航船を手配した上でピュージェット湾に回航。ここで二度目の曳航を受けてシアトルへ向かっていたが、道中の10月10日に突如炎上して放棄された。謎の出火は被雷の影響と言われている。
10月6日21時20分、雨のシアトル沖でリッチフィールド社所有の大型武装油槽船ラリー・ドヘニー(7038トン)を発見。ロングビーチからポートランドに向かっている途上だった。至近距離から雷撃戦を仕掛けるが、最初の雷撃は外れてしまう(不発だったとも)。伊25は闇夜に紛れて浮上し、ラリー・ドヘニーを追跡。だが暗闇の中では視認が難しく、一度見失ってしまった。ところが22時6分、前方に突然大きな船影が姿を現した。ラリー・ドヘニーだ。すかさず魚雷1本を発射し、左へ大回頭。18秒後に敵船の左舷に命中、爆風や衝撃波が退避中の伊25のもとまで届くとともに14フィートに及ぶ大穴を開けた。ラリー・ドヘニーは6万6000バレルの重油を積載していて、貯蔵タンクへの引火で一気に大爆発を引き起こした。爆発の際に飛散した破片は伊25の甲板と司令塔に降り注ぎ、ドタンバタンと音を立てる。船員2名と米国海軍武装護衛隊員4名が死亡。大火災に見舞われた敵船は一切の通信を打てなくなり、船首から沈み始める。折れ曲がったマスト、索が切れてぶら下がるボート、炎の中を絶叫しながら右往左往する人影…全てが手に取るように見える。乗組員40名は救命艇2隻に分乗して船から脱出。伊25は18ノットの速力で北方へと離脱した。
翌7日早朝、海中からラリー・ドヘニーの最期を看取っていると生存者を救助しに現れた雑役艦アナカパを発見。また駆逐艦2隻も発見している。ラリー・ドヘニーの生存者は救助されたが、船体は沈没していった。夜、伊25は浮上。闇の中を航行中に1隻の商船を発見して追跡を開始する。2時間の追跡を経て、1本の魚雷を発射。しかし波のうねりによって艦のバランスが崩れ、命中しなかった。悪い事に、商船と思われた敵は特設軍艦で武装していた(駆逐艦とも)。幸い敵艦は伊25に気付いていないようだ。追跡を再開するが、闇夜によって一時は敵艦を見失う。夜明け前になって艦首方向に敵艦を認め、敵の前方に進出して待ち伏せ。そして魚雷1本を発射した。ところが喫水の浅い船だったのか、それとも魚雷の不調か。艦底の下をくぐり抜けて外れてしまった。21時45分、敵艦も伊25の存在に気付き、いよいよ反撃が始まった。さっそく4発の爆雷が投下され、衝撃波で艦に激震が襲う。棚の中の物が飛び出し、艦内を白く塗ったペンキが砕け散る。浸水があるのか炭酸ガスまで発生し、空気が悪くなっていく。爆雷攻撃は潜水艦が最も苦手とする攻撃だ。死と隣り合わせの時間が永遠に続くかに思われたが、辛くも生き延びられた。10月8日、敵国のラジオ放送を傍受しているとラリー・ドヘニーの沈没が発表された。しかし悲壮感は無く、深夜まで暢気な音楽が流れていた事から藤田飛行兵曹長は「日本ほど緊張しておらぬと思う」と手記に残している。10月10日、内地への帰投命令を受ける。出撃時には17本積んでいた魚雷が今や1本だけとなり、通路を埋め尽くしていた食糧も片隅に少し置かれている程度である。艦内もずいぶんと広くなったものだ。帰投命令を受けたという事で、帰国の前祝いを行う事となった。残っていた酒を出し、炊事場から貰ってきた煮干しと醤油を肴に酒宴を楽しんだ。
10月11日、西海岸から600海里の所まで来た。ここまで離れれば敵艦に見つかる事は無いだろう。雲は低く、哨戒機に見つかる危険性も低かった。それでも田上艦長は「横須賀に帰港するまでは戦場と思え」と訓示し、乗組員の気持ちを引き締めた。今まで水上航行は夜間のみに限定していたが、昼間も浮上するようになり、甲板で喫煙する余裕まで出てきていた。そんな中、「左艦首、主力艦マスト2本!」と見張り員が叫んだ。まさかこんな所で敵戦艦と遭遇するとは。午前11時、「魚雷戦用意!」と田上艦長が叫び、急速潜航。深度18mまで沈んだところで潜望鏡を上げる。田上艦長は最初戦艦と認識したが聴音機に推進音が一向に入らず、本当に戦艦なのか疑わしくなってきた。波が荒いせいで潜望鏡での観測も難しい。苦労の末、2隻の潜水艦が単縦陣を組んでアメリカ方面に向かっているのが見えた。すかさず田上艦長が「目標は潜水艦、ただいまよりこれを撃沈する」と攻撃目標を乗員に伝えた。これまでの通商破壊で伊25は魚雷を使い果たしており、残っていたのは不調のため使用されなかった魚雷1本のみだった。連管長が丹精込めてずっと調整していたその1本を使う事にした。田上艦長の指示で先頭を走る敵潜に接近。波が高いため、距離500mまで忍び寄るのに一苦労する。攻撃位置についた伊25は深度15mに浮上し、最後の魚雷を発射。30秒も経たないうちに、魚雷は吸い込まれるように潜水艦へ命中。まるで眼前で爆発したかのような轟音が伊25に届いた。敵潜は艦首を45度上げ、艦尾より急速に沈没。艦内は歓声に包まれた。間もなく2回目の爆発が起こり、搭載魚雷に引火した事に起因する連鎖的な爆発が伊25を揺さぶる。衝撃で艦内のペンキが剥がれ落ち、電灯は消え、乗組員は思わず近くの物にしがみ付く。爆発の余波で、甲板上にあるトイレは破損した。海中からは金属がひしゃげる音が鳴り響く。敵の潜水艦が水圧で潰されていく音だ。潜水艦の断末魔を聞くや否や、艦内からは歓声が聞こえなくなった。敵とはいえ同じ潜水艦を仕留めた事で、艦内には何とも言えない普段と違った空気が流れた。煙が消え去った時には油膜しか残っていなかった。残った1隻は恐怖に駆られて45mm砲弾を海中に向けて5発発射し、ドン、ドン、パン、パンという音が聞こえてきた。しかし位置を掴めていなかったのか爆発音は遠い。砲撃は数十分続いたが、威嚇射撃だったのか次第に音源が離れていった。測深儀で底の深さを測ってみたところ、4200mと分かった。撃沈された敵潜の残骸は、光の届かぬ闇の底へと落ちていく。帰国寸前で、さぞかし喜びに満ち溢れていたであろう…。敵とはいえ、手を合わさずにはいられなかった。これまでの狩りで、最も後味の悪い獲物だった。遁走したもう1隻からの報告で敵機が飛んでくるだろうから、伊25は長時間の潜航をする事にした。敵潜を仕留めた日の夜は荒天となり、歴戦の乗組員ですら船酔いに苦しめられた。
ちなみに撃沈した艦は、ソ連海軍の改L型潜水艦L-16(1095トン)であった。ヨーロッパ戦線支援のため太平洋艦隊から北洋艦隊に転属し、ペトロパブロフスクからダッチハーバーを経由してパナマ運河へ向かっているところだった。パナマを抜けた後はカナダとイギリスに寄港してバルト海へ向かい、ドイツ軍と戦う予定となっていた。当時、日本とソ連は中立条約を結んでおり、撃沈した事は国際問題に発展しかねない危うい行為だった。しかしL-16はダッチハーバーで通訳兼連絡役のアメリカ軍従軍写真家セルゲイ・A・V・ミハイロフを乗艦させており、中立国の艦に軍人を乗せるという国際法違反の発覚を恐れたアメリカはL-16の喪失を伏せた。このためソビエトに喪失が伝わらず、抗議も賠償請求も無かった。乗組員55名と通訳は全員死亡している。
10月13日は大荒れとなった。時間の経過とともに気圧と気温が低下し、風速は30mに及んだ。こんな時化では敵の駆逐艦も哨戒機も出てこられないので水上航行に切り替えたが、その途端に艦は激しく揺さぶられた。最大で45度、平均で25度傾斜する。みんな船酔いに苦しめられ、食事の時間になっても出てくる者はいなかった。「これは沈めた潜水艦の祟りだ」と手すりに掴まりながら軍医長が呟いた。悪い冗談である。10月15日になってようやく暴風雨が止まった。依然として波は高いが、速力をグッと上げて遅れを取り戻す。10月18日に入るとすっかり晴れ渡り、嵐は完全に過ぎ去った。推進器は軽快に作動し、美しい白の航跡を引いている。横須賀への入港が迫ったので、艦名記入、軍艦旗掲揚、赤と青の舷灯の設置をした。今回は識別のため、より大きい軍艦旗を掲げた。やがて艦尾方向に真っ青な空に黒点1つを認めた。哨戒長が敵味方の識別を命じ、見張り員が双眼鏡で凝視する。九六式陸攻、味方機であった。陸攻は既に伊25を発見していたようで、グングンと距離を縮めてくる。甲板に出ていた乗組員が一斉に帽子を振り、たくましい味方機を歓迎する。九六式陸攻も応えるかのようにバンクし、低空へ機首を下げて伊25の頭上50mを旋回する。艦をひとしきり旋回した後、搭乗員が別れのハンカチを振りながら南洋の空へと消えていった。慣れた操縦桿さばきから、5年以上の経験があるベテランと推測された。10月23日、いよいよ明日は待ちに待った入港の日である。だが本土近海には敵潜が活動しているため、見張りに手抜きは許されない。夜明けを迎える水平線上に、豆粒のような漁船を発見した。近づいてみると軍艦旗が見えた。相手は小さなカツオ船を徴用した特設哨戒艇で、本土東方に設けられた哨戒線を見張る任務に就いている様子。田上艦長の計らいで軍艦旗を振る事になり、左右に大きく振って特設哨戒艇を見送った。午後からは海水を蒸留した水で入浴が許された。とはいっても洗面器2杯分の水で申し訳程度に体を洗うだけである。
10月24日朝、霧の中を航行しながら房総半島を回り込み、浦賀水道へと入る。上空には日の丸を付けた哨戒機が飛び、周囲には日本の漁船が点在。手を振る船員に向けて、伊25乗員も手を振り返した。殊勲の零式小型偵察機は横須賀入港前に発進させ、追浜の水上機基地へ送る予定だった。零式小型偵察機を格納庫から引き出し、異常が無いか調べる。海水はかぶっていたが、各部異常は無いようだ。先任の整備下士官が機体に乗り、エンジンを始動させる。パタパタと音が鳴った事でエンジン部も大丈夫だと分かった。今回は水上発進という事で、機体はデリックで吊り上げられ、海面に着水。藤田飛行兵曹長と奥田兵曹が乗り込み、準備を整える。零式小型偵察機は水上を滑走し始め、何事も無く飛翔。伊25の上を旋回して異常が無い事を伝え、手を振る乗組員に見送られながら追浜へと飛び去った。同日、横須賀に到着。
11月5日、伊25用の九五式魚雷を受領した第一魚雷調整班が横須賀造兵部新調整場にて調整を開始。造兵部と軍需部の協力によって11月25日に完了し、艦へ搭載された。翌26日に試射を行い、11月30日まで最終調整を実施。完璧に調整して見せた。
激戦区ソロモン戦線でモグラ輸送
12月1日14時、横須賀を出港。伊3潜の沈没以降、潜水艦によるガダルカナル島への輸送は取りやめられていたが、ガ島及びブナへの輸送は急務になりつつあった。第8方面軍は連合艦隊司令部に対し潜水艦による輸送任務再開を申し入れ、ソロモン諸島方面に展開中の潜水艦は乙潜水部隊に編入される事になった。12月7日14時、トラック到着。翌8日、伊25も伊32潜とともに乙潜水部隊へ編入。激戦続くソロモン戦線に身を投じる事になる。12月9日午前10時10分にトラックを出発。ブナ方面を経由し、12月12日午前5時30分にショートランドへ到着。現地で物資を積み込み、モグラ輸送に参加すべく翌13日14時7分に出港する。だが途中で中止となり、12月14日午前10時30分にラバウルへ入港した。ゴム袋に食糧を入れて上甲板に固縛し、12月17日午前10時にラバウルを出港。月暗期になっていたため、夜間は非常に暗かった。伊25が向かう先はニューギニア東部のブナ。敵軍の拠点ポートモレスビー攻略のため南海支隊が上陸していたのだが、敵の反撃を受けて窮地に立たされていた。既に駆逐艦や潜水艦による輸送が行われていたが、事態を好転させるには至らなかった。
12月19日夜、ブナに到着。既にブナとバサブア泊地は敵の手に落ちており、夜の闇に隠れながら慎重に海中を進む。泊地の入り口に到達すると大型の潜望鏡を上げ、周囲に敵がいないかしっかりと確認をする。敵の油断を突き、そろそろと泊地内へ潜入。潜望鏡で発光信号を送って陸上の友軍と連絡を取り、協同で揚陸作業を行う。陸軍は大発を用意して待っており、艦の前後両側に誘導して各昇降口から糧食や弾薬を積み降ろす。降ろす者も積み込む者も、みな無言である。流れる汗すら拭かず、一心不乱に作業をこなす。積み込み作業が終わると乗組員と陸兵との間で固い握手が交わされ、伊25から離れた大発は矢のように漆黒の陸地へと戻っていった。しかし23時、物資8トンを揚陸したところで敵魚雷艇2隻が接近。先の伊3潜は魚雷艇に殺られており、十分な脅威である事から揚陸中止。このため一度は退却したが、隙を見て再度接近。12月21日に陸上の味方と合流し、大発1隻を使って残りの物資12トンを揚陸。14名の傷病者を収容した。12月23日17時、ラバウルに帰投。敵の総攻撃によりブナの戦況は挽回不能にまで追い詰められ、敵戦車数輌が連隊司令部と陸戦隊司令部へ殴り込んでくるほどだった。それでも何とか踏みとどまっていたが、全滅が現実味を帯びつつあった。12月25日午前10時、苦戦する陸軍を助けるため出港。再度ブナ輸送に従事する。12月27日にマンバレ河へ到着するが守備隊との連絡がつかず。更に敵魚雷艇まで出現したため一旦退却した。翌28日、物資揚陸のため努力するが、やはり守備隊との連絡がつかず失敗。全滅してしまったのだろうか…。長居は危険なので仕方なく帰路につき、12月31日にラバウルへ帰投した。
1943年1月5日、食糧25トンを積載してラバウルを出港。1月7日にブナ地区へ到着し、食糧全てを揚陸。生き残っていた負傷兵70名を収容して帰路についた。敵機や魚雷艇があちこちウロつく海域だったため、日中は浮上する事が出来なかった。1月8日夕刻、浮上前に海上の状況を探ろうと潜望鏡を上げた。今のところは敵影は無い。魚雷艇は小さいので、よく目を凝らして四辺を探す。すると、黒い漂流物のような物が見えた。激戦が続く海域なので漂流物は沢山あるが、どうもその漂流物は丸くて動いている様子だった。観察の結果、正体は漂流者である事が分かった。敵味方の判別は出来ない。だが田上艦長は相手が誰であろうと救助を考え、もう一度潜望鏡を上げた。すると乗せ切れないほどの集団漂流者を発見。全員日本人であった。敵に見つかる危険性はあったが、田上艦長の腹は決まった。「急速浮上、砲戦用意、溺者救助用意」と号令を出し、メインタンクブローして集団漂流者のそばに浮上した。突然黒い大きな塊が浮き上がったので、漂流者は度肝を抜かれて逃げ出そうとした。「日本海軍だ、慌てるな。今から救助するからしっかり指示に従って行動するように」と声をかけると、唸るような感激の応答とともに漂流者が艦に近づいてきた。「必ず助けるから、無理に力を出すな」「ケガをしている者、弱っている者を先にしてやれ。必ずみんな助けてやるから」と激励し、漂流者を上甲板へと引き上げる。手が無い者、顔から血を流している者、背中を負傷している者…負傷者はとても多かった。衰弱し、ロープを投げても掴まれない者は伊25乗員が海へ飛び込んで引き上げた。救助活動の間、14cm甲板砲は警戒するように周囲を睨む。いつ魚雷艇が襲ってくるか分からない。砲身に弾を装填して待ち構える。伊25の献身的な救助により、日没までに第51師団117名の漂流者が救われた。彼らは、2日前にカタリナ飛行艇によって撃沈された日龍丸の陸軍兵で、ラエに向かっている途中だった。漂流中は何も食べていなかったらしく、安心した陸兵はその場に倒れたり、座り込んだりした。空腹が激しい時に固形物を食べさせると喉につかえて死んでしまうため、おかゆが出された。助け出された兵員は117名と伊25の定員より多く、既に70名の負傷者を収容していた艦内は人でごった返した。まるで蒸し風呂状態だ。広い陸地で育った陸軍兵には非常に辛い環境であり、伊25乗員は心の中で詫びた。一刻も早くラバウルに送り届けるべく、水上航行で海を疾駆する。急速潜航に備え、上甲板の陸兵は艦内へと入れられた。
1月9日14時6分、ラバウル北方110kmを浮上航行中に敵潜水艦グランパスによって捕捉される。グランパスは伊25を「新型の潜水艦」と報告し、追跡。14時26分、距離2800mの地点から3本の魚雷が扇状に伸びてきた。偶然司令塔で喫煙していた田上艦長が雷跡を発見。「魚雷右40度」と絶叫し、同時に面舵一杯を下令。伊25の艦体は右へと回頭し始める。だが、思うように変針しない。2本目までは回避したが、1本が右舷中央部に直撃。ガツーンという音が艦内に響き渡る。ところが不思議な事に爆発しなかった。不発弾だったのだ。思わぬ強運に助けられ、伊25は一命を取り留めた。直ちに反撃へ転じ、14cm甲板砲で魚雷が伸びてきた方向を撃つ。敵に潜望鏡を上げさせないためだ。これが功を奏したのか、次の雷撃は無かった。あとはラバウルへ入港するだけだが、どうにも左舵が重い。なんと不発の魚雷が右舷に刺さったままになっていたのだった。数時間後、無事にラバウルへの入港を果たし、負傷者や陸兵が降ろされた。異説では全て外れたとしている。1月11日、ブナ輸送のためラバウルを出港。1月13日にマンバレ河口に到着し、物資を揚陸。37名の傷病兵を回収してトラック島へと向かった。1月17日にトラック入港。ブナ輸送には21隻の潜水艦が投入され、845名の人員と物資約379トンの輸送に成功した。
日に日に悪化するソロモン戦線の戦況は、伊25に十分な休息を与えなかった。機密連合艦隊命令作第27号により、潜水艦もガダルカナル島からの撤退を試みるケ号作戦に参加する事が決まった。1月23日、トラック島を出港して一路南下。ガダルカナル島南東沖に進出する。ガ島方面は撤退作戦の準備真っ只中で、陸海軍が総力を挙げて連合軍を食い止めていた。1月29日、その一環であるレンネル島沖海戦が生起。小松中将の命令で伊25は伊11、伊16、伊17、伊20、伊26、伊32、伊176とともに海戦に参加。日没から40分後、伊25の約30マイル先で敵艦隊を攻撃する一式陸攻隊を視認。空襲により敵巡洋艦シカゴが大破し、ルイビルが曳航を始める。間もなく空襲の支援を命じられたが、突然発生したスコールにより接近を断念せざるを得なかった。翌30日、伊25を含む4隻の潜水艦は曳航中の敵重巡シカゴを討ち取るよう命じられる。伊25はシカゴが向かっていると思われる海域に先回りし、浮上。獲物を待ち伏せていたが、16時40分に一式陸攻隊が飛来するのを目撃。4本の航空魚雷をぶち込んでシカゴを仕留めた。その様子は伊25からも観察出来た。この日の午後、米駆逐艦に発見され計40発もの爆雷投射を受けたが被害なし。
1月31日、ガダルカナル島撤退作戦が開始。海軍の総力を挙げて、ガダルカナル島からの決死の撤収が始まった。伊25は、伊11、伊16、伊17、伊18、伊26、伊32とともレンネル島の北方に配備。このうち伊11、伊16、伊32と組んでガダルカナル島南東を遊弋して敵艦の出現に備えた。2月7日、小松中将は伊25と伊21にエスピリット・サント島のアメリカ軍を偵察するよう下令。これに伴って2月9日18時に伊25は甲潜水部隊から除かれ、散開線から外れて独自に行動を開始。2月16日の日没後、伊25は零式小型偵察機を発進。ちょうど月明期であり、海面は月光で明るく照らされていた。翌17日午前0時15分頃、艦載機が敵軍基地上空に到達し、航空偵察を実施。多数の艦艇が在泊しているとの情報を発信している。2月24日、トラックに帰投。船体の整備を受ける。この任務を以って藤田飛行兵曹長と奥田飛行兵曹は異動となり、伊25から退艦した。
ガダルカナル島撤退作戦後
ガダルカナル島撤退作戦が終わったあと、ハワイ方面からソロモン諸島に向かう敵の増援部隊を遮断するため第1潜水戦隊から伊25、伊32、伊17、伊19が抽出されて乙潜水部隊を編成。3月の時点で作戦用潜水艦は計64隻(旧式艦は訓練用になったため実質47隻)保有、19隻を喪失していた。3月25日、大本営は第三段作戦方針を指示し、予期される敵軍の本格的反攻に備えるべく防衛体勢を確立する事になった。潜水艦隊に対しては海上輸送路を破壊して敵の進攻意図を挫く指令が与えられた。つまり今までの対艦攻撃から、通商破壊が主任務となった訳である。敵はオーストラリア東岸・フィジー諸島間とアメリカ西海岸・ソロモン諸島間の2つの補給線を持っており、これが攻撃目標となった。準備が終わった潜水艦から逐次出撃していった。
伊25は3月29日にトラック島を出港。フィジー島方面に進出し、通商破壊作戦に従事。しかし太平洋は広くて中々戦果が振るわない。4月18日、伊19、伊25、伊32はフィジー及びサモア方面での通商破壊を命じられる。5月18日、バヌアツとフィジー島の中間でスタンダードオイル社保有の米大型タンカーH・M・ストレー(1万763トン)を捕捉。敵船はロサンゼルスからニューカレドニアのヌメアに石油を運んだ帰りだった。雷撃により大破させたのち、浮上して14cm甲板砲を撃ち込んで撃沈。船員2名が死亡し、生存者63名は救命艇に乗って脱出していった。見事1万トン級の大物を仕留めた伊25は、6月2日にトラック島へ入港。乙潜水部隊は第1潜水部隊へと改名した。
連合軍の反攻は留まる所を知らず、6月30日に中部ソロモン諸島のレンドヴァ島やラエ南方のナッソウ湾への上陸を確認。ショートランド泊地への圧力を強めつつあった。7月1日、第2潜水戦隊へ転属し、7月4日に連合艦隊は電令作第618号を発令。搭載機を持つ潜水艦にフィジー諸島及びエスピリトゥ・サント島の偵察と通商破壊を命じた。7月15日に艦長が交代し、二代目艦長小比賀勝中佐が着任する。7月20日、宮崎武治大佐が乗艦して第2潜水隊の旗艦となる。
最期
1943年7月25日にトラック出撃。南東方面へと向かった。8月14日、ベララベラ島への敵軍上陸が確認されたため、翌日連合艦隊は第三段作戦を発令。活発化する敵の動きを減じるべく、現行任務に加えて要地偵察と敵艦隊監視・要撃を命じられ、伊25と伊26はエスピリトゥ・サント方面の偵察に向かった。8月23日夜、エスピリトゥ・サントを飛行偵察。南東岸ルガンビル湾内に戦艦3隻を含む敵の大部隊と小型船の停泊情報を司令部に打電。翌日、スヴァに向かうとの電文を発したが、この電文が伊25が発した最後の電文となってしまう。
9月16日、第6艦隊は4日後にスヴァを航空偵察後、トラックに帰投するよう命じた。しかし伊25からの応答は無かった。戦没日は諸説あり、8月25日とも9月3日とも言われている。近海では呂35潜も撃沈されており、8月25日に沈没した潜水艦は呂35潜とする資料もある。伊25は8月24日の時点でスヴァ方面へ移動し始めていた事、呂35は少なくとも8月25日17時までエスピリトゥ・サント方面にいた事から、8月25日を命日とするのは呂35潜の可能性が高い。実際、多くの資料が9月3日を伊25の命日としている。ニューヘブリデス諸島北東約240kmの地点で撃沈とされ、小比賀艦長、福本水雷長、平野航海長以下士官10名、乗組員90名全員が戦死。参加した潜水艦9隻のうち5隻が未帰還になるという手痛い犠牲をこうむった。
帝国海軍は10月24日、エスピリトゥ・サント方面ニューヘブリデス諸島付近で亡失と認定した。12月1日、除籍。戦果は撃沈4隻(2万5493トン)、撃破1隻(7126トン)だった。北はアリューシャン列島、南はタスマニア、東はアメリカ西海岸と太平洋を縦横無尽に駆け巡った武勲艦である。
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関連項目
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