コマンダンテ・カッペリーニ 単語

コマンダンテカッペリーニ

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コマンダンテ・カッペリーニ とは、イタリア海軍潜水艦である。1939年9月23日工。通商破壊連合船舶5隻(3万1648トン)を撃沈した。イタリア後はドイツ海軍に接収されてUIT-24に改名、ドイツ後は日本海軍に接収されて伊503に改名した。戦争を生き残り、1946年4月16日処分。

概要

イタリア海軍が建造・運用した改マルチェロ級/コマンダンテ・カッペリーニ級潜水艦1番艦。資料によってはマルチェロ級10番艦としている場合もある。艦名は、1866年に生起したリッサ戦で装甲艦パレストロ運命を共にした艦長アルフレード・カッペリーニに由来していて、コマンダンテ・カッペリーニで「カッペリー提督」という意味になる。前級グラウコを改良した大航洋潜水艦で、単殻体にサドルタンクを装着している。大だけあって安定性や操縦性は高く、長距離の航にも耐えうるスペックを持っていた。マルチェロを含めると計11隻が量産されたが、生き残ったのは本艦を含む2隻のみ。

排水量1060トン(水上)/1313トン(水中)、全長73.10m、全幅8.15m、喫5.12m、フィアットディーゼル機関2基、出力3000力、最大速力17.4ノット(水上)/8.0ノット(水中)、乗員60名、安全潜航深度100m。武装は10cm45口径単装2門、53cm魚雷発射管8基、魚雷12本。

地中海を飛び出してブラジルまで長駆した優れた潜水艦であり、日独の三を渡り歩くという奇妙な運命を歩んだ。戦果は5隻撃沈(3万1648トン)。

艦歴

1936年度計画にて大潜水艦として建造が決定。イタリア・オテロテルニ・オルランド(OTO)社が保有するラ・スペツィア造所にて1938年4月25日に起工、1939年5月14日に進し、9月23日工した。工後、第1潜水艦群第12潜隊に編入された。

1940年

開戦直前の1940年6月3日23時潜水艦グラウコ、タッツォーリ、雷艇クルタトーネとともにラ・スペツィアを出港し、6月5日午前2時サルデーニャ州カリアリへ到着。戦備を整える。

6月6日午前11時、艦長クリスティアーノ・マージ少佐揮のもとカッペリーニはカリアリを出港。イギリス海軍との戦闘に備えてカナリア方面に向かう。そして6月10日イタリア連合軍に宣戦布告して第二次世界大戦に参戦。カッペリーニがいる地中海はこの時を以ってイギリス海軍と干を交える場と化した。イタリア軍は準備不足にも関わらず強引に開戦したため物資が乏しく、少ない燃料で動ける潜水艦重な戦力だった。艦はそのまま西進を続け、地中海出口ジブラルタル海峡す。外の大西洋にはイギリスに資材を運ぶ敵の輸送が大量に散在し、潜水艦にとって最良の狩り場だったからだ。しかしジブラルタル海峡イギリス軍の牙でもあり数多の哨戒機艇がらせる。

6月13日より闇に紛れて峡の突破を試みるカッペリーニ。翌14日午前0時20分に軽巡1隻、駆逐艦3隻、砲艦2隻を確認して報告する。ところが対潜漁アークティックレンジャーに発見されて爆雷攻撃を受け、中立スペイン植民地モロッコ域へ退避を図るが、午前0時50分に駆逐艦ヴィデッドが全速力でっすぐに突撃してきているのを視認。彼距離が900mにまで縮まったところでカッペリーニは魚雷を発射するも、雷跡はヴィデッドの後方をむなしく通過した。ジブラルタル海峡大西洋から地中海へ流れ込む潮流が強く深も浅いため、操艦が難しく、執拗なまでの対潜制圧を受けた事で体が損傷。峡突破を断念したカッペリーニはやむなく北アフリカスペイン自治領セウタ港に向かい、6月14日午前2時に入港。スペイン中立ながら枢軸の立場を取っていたため24時間の滞在が認められた。マドリードに駐在する英国大使サミュエル・ホア卿はカッペリーニの抑留を訴えて実行に移そうとしたが、のうちに素く出港していたため難を逃れた。何だかんだで滞在期間の24時間を大きく過したがスペイン当局の厚意でお咎めはく、6月23日23時30分にセウタを出港して港ラ・スペツィアをす。6月26日20時17分にカッペリーニは潜航、その12分後、潜望の中に南の航路を走る船舶を発見。マージ艦長はイギリスだと判断し、21時6分に距離700mから1本の魚雷を発射するが、命中せず。1分後、カッペリーニの航路にスペインが突如出現。衝突を避けるため更に潜航しなければならなかった。21時24分に浮上した頃にはイギリスは既に姿を消していた。6月29日19時40分、ラ・スペツィアに帰投。

帰投後、サルバトーレトダー大尉が艦長に着任する。7月14日午前8時から13時36分まで戦闘演習を実施。7月24日13時20分から15時50分までモネーリア南方5里で僚艦ゴンダールと演習7月28日13時15分、ラ・スペツィアを出港してケープ・デ・ガタ方面での通商破壊に向かうも、故障が発覚したため引き返し、翌29日15時27分にガリアリへ寄港。7月30日16時5分に再出発するが、またしても故障が発覚してしまい、8月9日午前9時20分にラ・スペツィアまで戻っている。しばらくラ・スペツィア近で訓練。フランスの降により、イタリア海軍ボルドーにBETASOM(ベタソム)潜水艦基地を設営。BETASOM所属となったカッペリーニはボルドーへ向かう事になった。

9月29日18時49分、ラ・スペツィアを出港。今回は何事も10月5日ジブラルタル海峡を突破して遂に大西洋への進出を果たした。10月13日16時20分、スペインのヴィゴとモガドールの中間にあるリスボンユーゴスラビアの蒸気ラペリン・トピック威嚇射撃を加えて停を命じ、敵国に輸送物資を運んでいないか臨検。リスボンからニュージャージー(中立から中立)へ砂糖を輸送しているだけと判明したためそのまま解放された。

10月15日23時15分、マデイラの北北西約700里でベルギー蒸気カバ(5186トン)を発見して高速で接近。カバロ側も急速に近づくカッペリーニを確認し距離1500mまで縮まったところでを撃ちかけてきた。彼距離1000mまで縮まったところでカッペリーニも甲撃。3発カバロの体に命中する。距離500mで魚雷1本を発射して命中させるが不発で終わってしまう。やむなく水上撃戦に切り替え、命中弾数発を与えて左舷へ傾斜しながらカバロは炎上。カッペリーニはトドメに3本の魚雷を発射するが、魚雷の深度調整が誤っていたせいか底を通過して外れる。結局甲による撃で翌16日午前4時カバロを撃沈した。沈没したカバロから2隻の救命艇が脱出、そのうちの1隻に近づいたカッペリーニは26名の生存者を乗せた救命艇を牽引。残る片方の救命艇も捜索したが見つからなかった(後に商パナマに救助されていた事が判明)。10月19日中立ポルトガル領のアゾレス生存者を上陸させた。輸送生存者はカッペリーニの厚意と騎士精神に感謝したという。

10月27日午前2時30分、アゾレス規制に反した照明を点けている怪しい船舶を発見して威嚇射撃。臨検したところ、相手はフランスの小モーターマルセラであり、ボルドーからカサブランカに移動中との事だった。特に何もかったのでマルセラ解放された。11月5日午前11時15分、ボルドー到着。

1940年12月22日16時30分、ボルドーを出港して大西洋で通商破壊を実施。

1941年

1941年1月5日午前10時カナリアアフリカを結ぶ航路で線に武装商シェイクスピア(5029トン)を発見。直ちに攻撃に向かった。午前10時45分、シェイクスピアから撃を受け、右側に転しながら回避。敵撃は的確で、午前11時撃が艦後部の付近で炸裂。手のフェルッチョ・アッツォリン軍曹が致命傷を負いながらへ転落する。互いにしく撃ち合ったが、午前11時27分にシェイクスピア旗を揚げた事で戦闘終了。積み荷の石炭8000トンごとに沈んだ。戦闘後、カッペリーニはに落ちたアッツォリン軍曹を捜索したが見つけられず、代わりにシェイクスピア生存者が漂流しているのを確認。「大西洋の騎士」という異名を持つ艦長トダー少佐(昇進)は騎士精神を見せ、生存者23名を助けてカーボベルデサルに上陸させた。1月9日、艦載の水上偵察機が故障したため上で修理サメが寄って来た時に備えて機を向けていた。幸い何事もく当日中修理了。

1月14日午前8時30分、ギニアコナクリ武装蒸気ユーマエウス(7472トン)を捕捉。午前9時距離700mから2本の魚雷を発射し、マスト後部に命中したように見えたが爆発せず。ユーマエウスはカッペリーニに背を向けて逃走しながらも2門で反撃し、それをカッペリーニが全速力で追跡する。距離2500mからカッペリーニの甲が火を噴いて撃戦となり、カッペリーニの周囲に柱が築かれる中、甲上の機関銃が敵手を射殺。戦況が傾き始めた午前9時30分、後部機関銃が弾詰まりを起こして使用不能になるものの、前部甲は健在のため、10分後に攻撃を再開。しかし午前9時50分と55分に敵弾がに命中。左足に破片が突き刺さながらも手は勇敢に戦い続けた。約2時間に渡った戦闘ユーマエウスの弾切れによって突然終わりを告げる。カッペリーニは105発発射し敵は少なくとも44発被弾していた。午前10時9分、抵抗できなくなったユーマエウスに距離700mまで近づきトドメの魚雷を発射。放たれた魚雷は前部マスト下に直撃して遂に沈没した。

しかし勝利したのも束の間、午前11時20分、急速潜航の準備をしていたカッペリーニにイギリス水上飛行艇が襲撃。2分後に3発の100ポン爆弾が投下され、艦首部分と艦体中央部に命中して大破。エンジンの損傷と浸を引き起こした。手ひどい傷を負ったカッペリーニは1月20日午前6時30分、スペイングランカナリアのラ・ルズに退避し、スペイン政府から3日間の滞在を許可される。その間に応急修理と負傷者の退艦を行い、1月22日ドイツ海軍の封鎖突破カルロッテ・シュリーマンから73トンの燃料補給を受け、1月24日午前0時38分、闇に隠れるようにしてラ・ルズを出発。イギリス海軍はカッペリーニを迎撃しようと潜水艦トリビューンに待ちせさせるが失敗に終わる。7600里を航行して1月30日17時10分にボルドーへ帰投。約2ヶ間の修理を受けた。その間に艦長がアルド・レンツィ中尉に代わった。カッペリーニの活躍はBETASOMアンジェロロナ提督ドイツ海軍カール・デーニッツ提督から高く評価されている。

4月16日午前8時ボルドーを出撃してアイルランド西方北大西洋を遊する。翌17日午前6時40分、1万トン級の大武装輸送と思われるを2つ確認。3隻の駆逐艦に護衛されているようだった。速カッペリーニは潜航して攻撃の機会をうも、が荒れているで中々攻撃位置に付けず、また線機が壊れていたため位置情報通報も出来なかった。午前7時17分、距離1500mから艦尾発射管より1本の魚雷を発射するが命中せず、2隻の大輸送がカッペリーニを発見して撃してきた。午前7時23分に2本を発射すると同時に沈降。しかし理のある沈降だったせいか、線室と前部弾薬庫に浸が発生し、短時間で浮上しなければならなくなった。浮上してみると大輸送が1隻消えていたためトダーロ艦長は撃沈と判断。幸運にも護衛の駆逐艦3隻は離れた位置におり、その隙を突いて110mまで潜航。午前8時30分から午前10時にかけて21発の爆雷投下を受けて小規模な浸被害が生じるも致命傷はし。18時頃には敵艦の推進音はくなりカッペリーニは浮上。

4月22日日中、僚艦ルイージ・トレッリからの通信を傍受。8ノットで航行中の敵団の存在を伝えていた。敵団迎撃のため針路を変更し、記載された地点に向かったが会敵出来なかった。4月27日BETASOMより区の変更を命じられる。5月1日20時20分、正体不明の潜水艦と遭遇して急速潜航。潜望を上げてみると潜水艦の姿がくなっており、おそらく潜航したのだろうと判断した。5月7日午前5時17分、1500m先に小モーターを発見して急速潜航。爆雷攻撃はかった。5月8日22時50分、味方のUボートと出会って識別信号を交換。翌9日午前1時38分、BETASOMはドイツからの情報提供で近くを敵団が通ると通達。迎撃のためカッペリーニは南へ向かった。5月10日午後12時15分、Uボートと遭遇して識別信号を交換。5月11日19時30分にはルイージ・トレッリと遭遇して識別信号を交換した。5月14日14時20分、フランス帆船ノートダム・デュ・シャトレを停させる。かの釣り的でセント・マロニューファンドランド辺に向かっている途中という事で解放。しかし翌日、U-43の撃で撃沈された。5月17日14時35分にボルドーへ帰投した。

6月28日午前8時ボルドーを出港してジブラルタル西方に向かう。6月30日午前10時45分、BETASOMよりカッペリーニ、トレッリ、ダ・ヴィンチモロシーニ、バラッカの4隻は区の変更を命じられる。7月4日16時、1万トンの輸送を発見するが攻撃できず。7月5日午後12時20分、僚艦モロシーニと会同してメガホンによる情報交換を行った。7月6日17時30分、西日を背に突っ込んでくるカタリナ飛行艇を発見。急速潜航するカッペリーニに低から機掃射を行った後、2発の爆雷を投下。艦から約30m離れた場所で炸裂した。応援を要請しながら上を旋回する敵機に対してカッペリーニは甲による反撃を実施。両者の距離3000~4000mの距離で保たれた。22時45分、カッペリーニが放った弾がカタリナに命中し、見事撃退に成功する。7月8日19時30分に2隻の小ヨットを発見したところで故障が発覚。戦闘の中断を余儀なくされて帰路に就いた。7月10日20時24分、ボルドー帰投。別の資料では7月フリータウン団を攻撃。輸送ミゲル・デ・ラニレガに5本の魚雷を発射して2本が命中、深刻な被害を与えたとされるが、イギリス側の資料では被雷せず傷でフリータウンへ到着したとしている。

8月14日午前11時45分にボルドーを出港するが、故障が発覚して引き返し、同日17時に帰港。

8月15日20時45分、気を取り直してボルドーを出港。アゾレス西方中部大西洋を狩り場とする。8月17日午前8時50分、ドイツ空軍のハインケルHe115を撃。He115側はカッペリーニに気付いていない様子だった。午前11時30分にも航空機を確認しているが気付かずに素通りしていった。8月19日16時15分、僚艦モチェニーゴと思われる潜水艦撃。8月20日22時10分に狩り場へ到着する。8月24日17時、2門のを備えた大Uボートと遭遇。Uボート側は一度急速潜航したが、すぐに味方と気付いたのか浮上し、挨拶を交わして去っていった。8月26日21時20分、カッペリーニは「SOS マルバーニアン ドイツ空軍に撃沈された」と位置情報を添えて書かれたドラム缶を発見。8月31日午前0時30分、ポルトガル5隻がアゾレスに向かっているのを確認。ポルトガル中立のため見逃した。

9月4日午前5時55分、ポルトガル海軍駆逐艦ダオが16ノットで航行しているのを視認。同日19時、突如としてグリッドレイ級駆逐艦モーリーに発見され、急速潜航。100mまで潜航するが爆雷攻撃はかった。9月9日午前6時10分、アゾレス海岸近くを航行中に僚艦バラッカと遭遇するが、互いに隠密行動を優先したため識別信号の交換はかった。9月20日19時35分、フランスの漁プティット・エレーヌを素通りさせる。翌21日午前8時10分、ドイツ軍機と思われる航空機通過していくのを撃。9月22日13時15分にボルドーへ帰投。

11月13日午前8時ボルドーを出港して同日17時にラ・パリスへ移動。

11月17日17時、ラ・パリスを出撃。11月20日午後12時30分、航空機を確認して急速潜航。翌21日午後12時10分にもカタリナらしき敵機を確認して急速潜航している。11月25日午前3時15分、ポルトガルサンタプリンセサを視認。11月30日午前6時20分、BETASOMからの情報で敵団攻撃に向かっていたカッペリーニの前にアンバスケイド級駆逐艦が立ちはだかる。30分後、距離3000mまで近づいたところで敵艦が急速に速度を上げたため潜航退避を始める。敵駆逐艦を掻い潜りながら敵団に近づいたカッペリーニは2隻の小撃するも、午前7時40分に触接を失ってしまった。午前9時17分、今度は距離400~500m圏内にコルベットが出現し、ゆっくりと接近してくる中、カッペリーニは魚雷を装填して反撃の準備を整える。ところが300mまで縮まったところでコルベットが転針して機会を逸した。午前9時49分、コルベットを見失う。

12月2日午前6時16分()、ミゲル・デ・ラニレガを発見して4000~5000mの距離を保ちながら追跡を開始。午前7時12分、敵の前路3000m先で待ちせようと闇に紛れながら先回りし、午前7時16分に2本の魚雷を発射。しかし外れたのか不発だったのか魚雷爆発せず、また雷跡を確認されて敵は転、それをカッペリーニが追いすがる。午前7時20分、およそ1000mの距離から艦尾発射管より2本発射。61後、2回の爆発音と3回の破壊音が聴音された。ミゲル・デ・ラリレガはSOS信号を発しながら逃走を続け、浮上したカッペリーニは甲弾を数発命中させて損傷を与える。トドメを刺そうと艦尾魚雷を放つが外れてしまい、再度潜航。更なる雷撃の機会をっていた午前7時56分、2隻の駆逐艦を確認。もはや長居は出来ないと悟ったカッペリーニは囮の弾を放ち、全速力で域から離脱していった。ミゲル・デ・ラリレガは大破こそしていたが12月14日フリータウンまで辿り着いた。

12月3日19時35分、スペインのタンカーが操業しているのを視認。どうやらカディスへ向かっているようだった。12月17日13時50分、小ヨットを発見して接近を試みたが、高速で逃げられた。12月21日午前11時ボルドーに帰投。

12月22日午前10時45分、ドックに入渠して約4ヵ間の長期整備に入る。

1942年

1942年4月22日午前7時53日、ボルドーを出港して同日18時36分にラ・パリスへ入港。翌23日14時34分から17時47分までラ・パリスレロ南方試験を実施。

4月27日15時ボルドー出撃。大西洋の中部から南部までの域を狩り場とする。4月29日23時18分、照明を点けて操業中の漁を見つけて隠れるように移動。5月2日20時25分、僚艦バニョリーニと出会って識別信号を交換。5月11日17時25分、9隻の輸送で構成される敵団を発見して潜航。しかし19時8分に敵スループのヘイスティングスが9000m先でカッペリーニを探すように旋回しており、中での移動を強いられる。やがて爆雷を投下され125mまで潜って対潜制圧から逃れる。23時15分、面へ浮上しようとするカッペリーニであったが、深70mまで上昇したところで再び爆雷投下を受け、145mまで深く沈降。結局カッペリーニが浮上できたのはスコールに見舞われた翌12日午前3時5分の事だった。

5月18日15時37分、ブラジルのトウロス北北東で1万2000m先のOS-27団を発見。一時は触接を失うも、翌19日午前0時41分にスウェーデンティスナレン(5747トン)を雷撃。1本の魚雷船橋下に命中して一気に大破炎上へと追いやる。そこへ追い討ちと言わんばかりに機関銃と甲を撃ち込んで午前0時57分に撃沈。生存者40名全員を救助した。5月20日20時15分、敵機を確認して潜航退避。5月22日21時16分にも敵機を確認して潜航退避している。5月24日午前10時20分、15ノットで航行中の、駆逐艦に護衛されたコンコード巡洋艦を発見して急速潜航。13時47分に浮上して14時15分に位置を通報した。同日16時40分、10ノットで航行する1万トン級のタンカーを捕捉して潜航。しかし相手は中立アルゼンチン籍だったため攻撃は中止となった。5月26日午前6時28分、僚艦アルキメーデの情報にあった敵船舶を追跡中にカタリナが襲来し、3分後に急速潜航。午前6時33分、1発の爆雷が投下されたが損傷はかった。

5月30日午前11時30分、ベルナンブーコ北東の中から敵が出てくるのを視認。速追跡に入るが、荒波と頻繁なスコールに阻まれて中々攻撃位置に付けず、翌31日午前2時33分になってようやく魚雷1本を発射。しかし雷跡を発見されたようで回避されてしまった。午前3時18分、距離450mから10間隔で2本の魚雷を発射、敵は速力を上げながら備で反撃してきたが、23後に2本とも命中。カッペリーニは敵からの撃で潜航退避しなければならなかった。午前3時30分、ケープタウンからトリニダードへガソリンを運搬していた軍用タンカーディンズデール(8214トン)はゆっくりと離脱と図るが、午前5時47分にカッペリーニから撃を受けて機関室が被弾、午前6時4分に再び甲弾を機関室へ撃ち込まれた事が致命傷となり、午前6時12分に沈没久々に戦果を得た。6月11日午前11時8分、漂流する生存者を見つけて潜航退避。6月19日13時ボルドーに帰投した。

8月15日午前8時ボルドーを出港してラ・パリスに回航。

8月21日午前2時20分、ラ・パリス襲を受け、カッペリーニが入渠しているドックの近くに爆弾が投下されるも被害かった。14時30分にラ・パリスを出港。カーベルテ諸を遊する。8月28日13時55分、潜航する潜水艦らしきものを確認して退避。それから間もない14時22分、1万5000m先に駆逐艦を発見して潜航退避。2隻の推進音が聴音された。8月30日14時11分、中と思われる敵の複葉機を発見して潜航退避。9月2日午前10時8分、潜望を発見して水上航行で退避。

ラコニア号事件に遭遇

詳しくはラコニア号事件を参照。

1942年9月13日午前7時30分、BETASOMから通信が入る。アセンションU-156ラコニアを撃沈したのだが、2000名以上の生存者がいて1隻だけではとても対応し切れない状態であり、U-156支援するよう書かれていた。午前10時10分、カッペリーニは現場へ向かうべく航路を変えた。翌14日午前0時52分、既に生存者が複数のUボートに救助されているという事でBETASOMはU-506と合流するよう示。9月15日午前、同じく支援要請を受けたU-507とともに現場域へ到着。

9月16日午前8時28分にイギリス人50名を乗せた最初の救命艇を発見するが、合流を優先して無視午前10時32分に2隻となる救命艇を発見。男性41名、女性18名、子供25名の84名が乗っていた。当初漂流者はカッペリーニを恐れていたが、紳士的な対応で安心させると、女子供を艦内へ移乗させる事を提案。しかしボートにはと食糧が豊富にあるので謝絶され、物資の提供だけして去った。その際にイギリス人たちから感謝で見送られたという。16時53分、今度は4隻の救命艇を発見。このうち2隻はボロボロ沈没しかかっていた。カッペリーニは救命艇へ接近し、救助を拒否した1名を除いて49名のイタリア人捕虜を収容、続いて面に浮いていたイギリス人とポーランド人19名を救助し、先に到着していたU-506からも生存者を引き受けた。U-156、U-506、U-507、カッペリーニの4隻は、救援に来るヴィシーフランスの艦艇群と合流するため、西アフリカ沿に向かって移動を開始。同日に救助活動を再開すべく各艦はバラバラに散っていった。

翌17日午前7時10分、イタリア衛生兵死亡午後12時10分にも傷が原因で1名が亡くなった。遺体水葬されている。

赤十字を掲げて救助活動中だったU-156アメリカ軍B-24から攻撃を受けるラコニア号事件が発生。離れた場所にいたカッペリーニはU-156異常を知る由もかったが、翌U-156が救助したはずの生存者が再び漂流しているのを発見して異常を察知する。午前11時30分にボルドーからの通信でU-156が攻撃を受けた事を知らされ戦闘準備を命じられる。そんな中、ヴィシーフランス艦艇へ救助者を引き渡すため合流地点に向かうが、合流に失敗してしまう。カッペリーニから通信を受けたフランス艦艇は小艦デュモン・デュビル派遣9月20日午前9時48分、デュモン・デュビル事合流して41名のイタリア人捕虜や2名のイギリス軍将校を移乗させた。翌21日午後12時23分、正体不明の軍艦と遭遇して潜航。ラコニア号の生存者を探しているヴィシーフランスの小艦艇と推測された。15時1分に浮上した時にも同様の軍艦撃。

9月23日午前10時10分、高度1万2000mを飛行するサンダーランド飛行艇を発見して急速潜航。午前11時35分、線より立ち昇る煙を発見。どうやら潜水艦を警してジグザグ運動をしているようだった。正午、カッペリーニは潜航して水中聴音機を使用しようとしたが極度の暑さによりレンズが曇ってしまって敵を探知できなかった。午後12時46分に浮上してみると7000m先に蒸気ブリュイエールを発見して再度潜航。14時2分、潜望深度にいたカッペリーニはサンダーランドの飛来を確認して深40mまで沈降。40分後に面へ浮上する。23時36分、カッペリーニは雷撃位置につくべくブリュイエールを追跡していた時、突如としてブリュイエールが2回の爆発に見舞われる。味方のU-125による雷撃だった。

10月17日14時57分、ボルドーに帰投。カッペリーニの前艦長トダーロは、レンツィ艦長が生存者救助のために乗組員を何度も危険にしたと聞いてしく動揺したという。

12月16日ボルドーを出港。大西中部及び南部ナタールリオデジャネイロブラジル北東通商破壊を試みるも戦果を挙げられず、逆に襲による損傷と死傷者を出して退避を強いられる。1943年3月4日ボルドーに入港した。

カッペリーニ、極東へ

イタリアの同盟であるドイツは、前々からUボートを極東方面に派遣して地球の裏側にいる味方・大日本帝國と物資及び人員のやり取りを行っていた。しかし小Uボートでは輸送に不向きなのと、連合軍の妨被害が拡大していた事から、イタリア派遣の要請が入った。イタリア海軍が運用する潜水艦は大なものが多く、輸送におあつらえ向きだったのだ。ドイツ海軍から新Uボート提供を受ける条件でイタリア海軍潜水艦9隻を極東に派遣する事を決定。1943年3月に艦の選定が行われ、その中にはカッペリーニも含まれていた。独側は日本める新兵器写真や試作品を提供し、見返りとして日本側は南方産資モリブデン、生ゴムタングステンマラリアの特効キニーネなどを供与する計画が立てられた。

カッペリーニは「アクィラ」のコードネームを与えられ、1943年4月よりボルドーで輸送用潜水艦への改装を開始。積載力を上げるべく一切の武装は取り外し(防御用の機は残していたとも)、その隙間に物資が詰め込まれた。積み荷は95トンの特殊鋼、アルミニウム弾薬修理用部品、大日本帝國向けの新戦車写真やマウザーの20mm弾など計160トンに及び、予備浮力が約20から3.5ほどに低下した。代わりにドイツ軍から供与された新電波探知機メトックスを装備。からの脅威に対しては応戦するすべが残された。困難な輸送任務に臨むは艦長ヴァルテル・アウニーゴ大尉率いる乗組員一同。

1943年

5月11日、カッペリーニは極東行きの第一便としてボルドーを出港。行き先は日本が占領する東南アジアシンガポール基地。距離にして1万5000里という、とても遠いのりだった。カッペリーニ以外にもレジナルド・ジュリアーニルイージ・トレッリがシンガポールして続々と出港していた。悪により予想以上の燃料消費を強いられ、燃料節約のためイギリス軍の警が厳しいアフリカ沿航路を通らなければならなかった。また体が損傷するなど次々に事が舞い込んだが、6月20日インド洋を突破し、7月9日日本の勢力圏の玄関口であるインドネシアサバンに到着。現地でイタリア通報艦エリトレアから燃料補給を受け、7月14日的地シンガポールへ到着。後発のトレッリやジュリアーニも事に到着した。港内で積み荷を降ろすとともにドイツ向けの110トン天然ゴム南方産資を積載。8月21日シンガポールを発ち、9月6日サバンへ寄港したが…。資料によっては降を察知した日本に出港を妨され、シンガポールに留められたとする説もある。

UIT-24

1943年9月8日イタリア連合軍に降連合軍側についた南部イタリアと、枢軸国側に留まった北部のイタリア社会主義共和国に二分され、内戦状態となった。この余波はカッペリーニにも届いた。

9月10日大日本帝國海軍がカッペリーニを捕獲し、乗組員はドイツ海軍に引き渡された。指揮官クラス人間は王に忠を誓って収容所に送られたが、乗組員の大半は共和に忠を誓い、約80名が乗組員に復帰。東南アジア所在のカッペリーニ、トレッリ、ジュリアーニは全て枢軸国側に留まった。しかしそれでも定員を割ってしまったためか、ドイツ人乗組員と共同で運用される事に。宙に浮いたカッペリーニの体はシンガポールへ回航された後、すぐさまドイツ軍に接収され、10月23日UIT-24に改名。第12潜隊群に編入された。日本への回航を終えたU-511の元乗組員が封鎖突破ソルノに便乗してシンガポールまで赴き、一部がUIT-24に充てられた。

1944年

1944年2月2日シンガポールを出港して翌日ペナンに到着。燃料補給を受けるとともに生ゴムなど南方産資を積載し、第12潜隊群の本拠地ボルドーに帰投しようと2月8日にペナンを出港してインド洋を西進。独給油ブレーキから燃料補給を受けるが、その直後にブレーキイギリス艦艇に撃沈されてしまう。ドイツ海軍上層部はUIT-24の帰を断念。代わりに帰の途上にあるU-532に燃料を提供するよう命じ、3月18日U-532給油。燃料補給自体は成功したものの独給油シャーロットシュリーマンの喪失により結局U-532も帰を断念しなければならなかった。4月3日UIT-24はペナンに帰投してシンガポールへ回航。

5月25日、34トンタングステンを積載してシンガポールを出港。機関修理のため日本本土の多摩にある三井所に向かった。6月8日三井所へ到着して入渠整備。8月23日に出渠し、本格的な整備を受けるため翌日三菱重工神戸所に移動。9月5日南方向けの物資を積載して神戸を出港し、連合軍の厳重な警網を突破して9月19日シンガポールへ到着。運んできた物資を降ろした後、ペナン向けの物資を積み込み、9月28日に出港。今や敵潜の巣窟となっている危険なマラッカ峡を突破して2日後にペナンへ入港する。ここでヨーロッパへの帰還を検討したが、中で給油を行う独給油の不足から実行には移されなかった。10月17日、今度はシンガポール行きの物資を積み込んで出発、再度危険なマラッカ峡を通過して10月19日シンガポール事到着した。ディーゼル機関オーバーホールを受けるためUIT-24はドックへ入渠する事になり、しばらく動けなくなる。

1945年

1945年1月8日、ジャワ通商破壊を行うべく出撃するも、機関の損傷によって々に戻る羽となり、1月10日シンガポールへ帰投。日本本土で本格的な修理を受けるべく、2月1日シンガポールを出発。連合軍のフィリピン上陸により日本本土と南方の連絡は途絶しかけていたが、ジャワ太平洋西部を突破して2月18日神戸まで辿り着いた。調の結果、バッテリーの交換とディーゼル機関オーバーホールが必要となり、神戸所にて修理を受ける。

伊503

1945年5月8日ドイツが降神戸所で整備を受けていたUIT-24は大日本帝國海軍に接収され、5月10日伊503に改名。日独人間で運用される事になり、神戸港内での輸送任務に従事。

7月13日に正式に海軍籍へ編入され、呉鎮守府第1南遣艦隊に部署。同じ神戸所内で建造中の波112装員長を務めていた広田秀三大尉が異動の形で艦長に着任した。504に改名したルイージ・トレッリとともに特殊警備潜水艦定され、神戸港の防備に充てられたが、伊503自体は未だ出渠できていない状況だった。予想された連合軍の上陸はく、8月15日終戦を迎える。9月2日に進駐してきたアメリカ軍が捕獲して武装解除を施し、10月までに広田艦長は任を解かれ、11月30日に除籍。対日戦争協力していたイタリア人乗組員はアメリカ軍によって投された。

1946年4月16日紀伊処分。カッペリーニとトレッリは日独の三を渡り歩いた潜水艦となった。

映像作品への出演

2022年1月3日に放映されたドラマ潜水艦カッペリーニ号の冒険』で、まさかの役化。カッペリーニの半生が描かれた。ドラマ化するにあたって大胆な変更が加えられており、

  1. カッペリーニの出撃拠点ボルドーのBETASOM基地ではなく、イタリア本土のナポリ海軍基地
  2. 寄港地シンガポールヨーロッパに引き返さず、日本横須賀軍港に来訪。このためカッペリーニの横須賀到着がイタリアから一週間後に設定
  3. 東南アジアにいなかったためドイツ海軍の接収を免れ、UIT-24時代をすっ飛ばして伊503に改名。艦長速水少佐の所属先が第6艦隊第12潜隊である事から、伊503も同じ所属と思われる。対装備として12.7cm三連装高を装備している
  4. 1945年6月5日横須賀を出撃し、宮古島南方の敵機動部隊攻撃に向かった

など実質IFシナリオと言える。

また、2023年にはイタリア海軍全面協力のもと製作された『潜水艦コマダンテ 誇り高き決断』が開され、第80回ヴェネツィア国際映画祭コンペティション部門に選出されている。

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