伊48とは、大東亜戦争中に大日本帝國海軍が建造・運用した伊16型/巡潜丙型潜水艦8番艦である。1944年9月5日竣工。1945年1月23日にウルシー沖西方で対潜攻撃を受けて沈没。
概要
巡潜丙型は、前級巡潜乙型を簡略化して生産性を高めた戦時急造タイプである。
建造期間短縮のため巡潜三型の線図を流用、旗艦設備と航空艤装を撤去した純然たる潜水艦。このため水偵も積んでおらず、空いたスペースには魚雷を積載して雷撃能力を向上。コンセプト的には巡潜四型とも言うべき存在だった。艦首魚雷発射管8門、搭載魚雷20本は日本潜水艦史上最強の雷撃兵装であり、丙型に比肩しうるのは潜水空母の潜特型だけである。また、潜航性能を改善すべくタンク等に大掛かりな改造を施して40~55秒での急速潜航を可能とし、フレオン式冷却器を搭載した事で劣悪な艦内環境を改善。他にも潜望鏡を10m型に換装するなどあらゆる面で改良を受け、充電能力や凌波性能に優れる。
マル三計画で建造された前期型(伊16、伊18、伊20、伊22、伊24)とマル急計画で建造された後期型(伊46、伊47、伊48)があり、後期型は量産性を高めるため細部に若干の変更が加えられて改伊16型とする資料もあるが、同型艦と見なされる事が多い。主な変更点はディーゼル機関を艦本式2号10型から艦本式1号甲10型に、補助発電機を川崎式450kW型から特型400kW型に換装、排水量が3トン増大して最大速力が0.1ノット微減した。
伊48は就役が戦争末期だった事もあり、後期巡潜丙型の中では唯一後甲板に回天搭載設備を備えた状態で就役した。したがって最初に回天運用能力を持った大型潜水艦である。また前期巡潜丙型は1944年5月までに全滅、伊46もレイテ沖海戦で喪失したため、巡潜丙型の中では伊47と伊48の2隻のみが回天作戦に従事。金剛隊の一員として出撃した時の写真によると前甲板の14cm単装砲が確認出来、前甲板には回天を装備していなかった事が窺える。初陣の第二次玄作戦で米護衛駆逐艦コンクリンの対潜攻撃を受けて沈没するが、回天を使った自爆攻撃でコンクリンを一時航行不能にして一矢報いた。伊37に続いて2番目に失われた回天母艦だった。
要目は排水量2184トン、全長109.3m、全幅9.1m、喫水5.34m、乗員95名、ディーゼル燃料744トン、速力23.6ノット(水上)/8ノット(水中)、乗員100名。兵装は九五式発射管8門、酸素魚雷20本、40口径14cm単装砲1門、九六式25mm連装機銃1基。電測兵器として九三式聴音機、九三式探信儀、22号水上電探を装備する。後の工事でE-27型電波探知機と13号対空電探を増備。
艦歴
1941年8月15日に策定されたマル急計画において丙型一等潜水艦第378号艦の仮称で建造が決定。建造予算2049万7200円が確保される。1943年6月19日に佐世保海軍工廠で起工、12月12日に進水し、6月10日に伊38から転出してきた当山全信少佐が艤装員長に就任する。
「あ」号作戦では出撃した潜水艦36隻中20隻を喪失する大惨事を招き、防振ゴムの設置や防探塗料の塗布、レーダー波を乱反射させる鉄板の設置といった被害防止対策も実を結ばず、潜水艦戦が行き詰まりつつあった。そこで打開策として、7月に試作が完了し制式採用された回天を用いる特攻作戦の準備が推し進められ、建造途中の伊48の後甲板には回天4基を搭載可能な設備が付けられた。
そして9月5日に無事竣工。横須賀鎮守府に編入されるとともに第6艦隊第11潜水戦隊へ部署。艦長に当山少佐が着任する。このような経緯から後期巡潜丙型の中で唯一伊48のみ回天を運用可能な状態で就役している。また、伊48が最初に回天運用能力を持った大型潜水艦となった。奇しくも伊48の竣工日は大津島で回天の訓練が始まった日と同じである。
1944年9月5日から12日にかけて佐世保工廠で異状が認められた潜望鏡の負荷修正工事を実施。その後、佐世保沖で単独出動訓練を行ったところ第二潜望鏡の異状は解消。第一潜望鏡は同型艦と比較して電流大(1時間に105アンペア)である事が確認されたが、実用上は差支えないとして修正はなされず、9月13日午前8時30分に出港して再び慣熟訓練に身を投じる。9月19日、佐世保沖を出発して伊予灘に回航、現地で第11潜水戦隊と合流した。ところが9月21日22時40分、伊48は修正されたはずの潜望鏡の振動が大きい事を第11潜水戦隊、呉港務部長、呉廠総務、第6艦隊に報告。波浪が少ない場合は半速まで振動が殆ど無いが、油の如き海面では微速であっても観測不能になるくらいの強い振動があり、対策準備として伊48側が振動数を測定。9月22日13時に呉へと入港した際に測定データを関係者に提出した。軍港内にて巡視教育査察を終えた後は伊予灘にて単独訓練を行う。
実弾射撃、襲撃訓練、電探測的及び水中測的訓練、急速潜航、応急潜航訓練、夜間見張り訓練などを、内海の夏の太陽を浴びながら、油汗を滲ませながら、そして上官に怒鳴られながらこなしていく。訓練終了後は旗艦の潜水母艦長鯨で様々な訓練の模様を語り合った。
10月3日から7日まで呉で整備。10月10日、第11潜水戦隊は伊48と伊58の第一期訓練が概ね完了したと判断、両艦に次呉へ帰港した時に第一戦備を行うよう命じ、10月20日より呉にて出撃に向けた準備を開始する。それが終わると10月28日に出港して伊予灘での訓練を再開。
11月7日、8日、9日の三日間は別府に寄港して乗組員の休養を実施。11月上旬に最初の回天特別攻撃隊である「菊水隊」が編制されたが、伊48は訓練未了だったためか加入していない。11月6日13時35分、第6艦隊参謀より第11潜水戦隊に伊48の横須賀回航を求められ、11月14日午後12時55分に軍務局より正式な通達があったため、11月20日に呉へ入港。九五式酸素魚雷14本を搭載し、翌21日に伊58ともども第1潜水部隊に転属した。そして11月23日に呉を出港。本州近海を遊弋する米潜水艦に警戒しながら11月25日に横須賀へ到着して、およそ3週間に及ぶ緊急整備工事を受ける。また工事と並行して13号対空電探とE-27型電波探知機を新たに装備している。
12月7日に伊48は実戦部隊である第15潜水隊に異動。ついに最前線へ投入される時が来た。
回天特別攻撃隊・金剛隊
先の第一次玄作戦(菊水隊)で空母2隻、戦艦3隻撃沈の推定戦果を挙げたとされ、成功と判断した第6艦隊司令部は、12月8日に規模を大きくした第二次玄作戦を発動。アメリカ海軍が回天対策に本腰を入れる前に各方面への作戦を実施するため伊48、伊36、伊47、伊53、伊56、伊58の6隻で回天特別攻撃隊「金剛隊」を編制した。
攻撃目標はマリアナ諸島、ブラウン、アドミラルティ、ホーランジアの根拠地に停泊中の連合軍艦船で、伊48はウルシー、パラオ、グアム、パラオ、サイパンを攻撃目標候補に割り当てられた。攻撃時機は月が出てから夜明けまでの夜間、発進距離は20海里圏内だが可能ならば極力接近、攻撃後伊48はマリアナ西方海面を通って帰投など、細かな規定が定められる。ちなみに金剛隊の各艦は呉に所在していたが、伊48だけ横須賀にいたため、出撃予定日が僚艦より9日遅く設定されている。
12月19日、連合艦隊は電令作第448号を発令して第二次玄作戦の実施命令が下り、12月26日に横須賀を出港して大津島に回航する。ここには第1特別基地隊が展開し、搭乗員の居住施設、呉工廠水雷部の魚雷発射試験場、魚雷調整工場を内包、九三式魚雷の知識に富む有能な人材が全水雷科から抽出されて組み立てと整備を行っていた。
大津島ではクレーン船を使って回天を搭載。搭乗員として吉本健太郎中尉、豊住和寿中尉、塚本太郎少尉、井芹勝見二等兵曹が、基地整備員として荒井貞雄上曹、松尾正男上曹、秦隆造一曹、川津芳吉二曹の計8名が乗艦する。このうち吉本中尉と豊住中尉は「菊水隊」で伊36に乗艦していたが発進出来ないまま帰還。当初「発進出来ずに帰還した搭乗員は、その理由の如何を問わず再び出撃させる事無く、後進の指導にあたらせる」という内規があったのだが、両名は第1特別基地隊司令の長井満少将に直接強訴し、第二陣の「金剛隊」で伊48への乗艦を許された経緯を持つ。
色白で背が高い塚本少尉は兵科4期予備学生の先陣を切っての出撃となった。彼は長男だったので一時は回天搭乗員の志願を断られるも、「弟がいますから構いません」と血書を書いて嘆願し、認められた剛の者である。彼は家族にあてた遺言を、広告業の仕事をしていた父親のスタジオでレコードに録音。これは回天搭乗員では唯一肉声として遺された記録で、同時に非常に貴重な資料だとして、母校の慶応義塾大学に寄贈された他、山口県周南市大津島の回天記念館で公開されている。
1945年1月4日、先遣部隊電令作第4号を以って伊48の攻撃目標はアメリカ艦隊前進拠点カロリン諸島ウルシー環礁に指定。先発した伊36と時間差攻撃を仕掛ける事になった。ウルシー攻撃について、第一次玄作戦の時点で既に伊36と伊47が回天を発射して給油艦ミシシネワを撃沈、今回先発する伊36を含めると伊48で4回目であった。故に当山艦長は同じ攻撃を再三繰り返す危険性を訴えて作戦計画に強く反対したが、決定は覆らなかった。
1月9日、出撃前に回天搭乗員は短刀授与式や記念撮影を行って伊48に乗艦、そして見送りを受けながらウルシーを目指して勇躍出撃する。敵に気取られるのを防ぐため厳重な無線封鎖をしていたので第6艦隊も伊48の正確な位置を知らなかった。翌10日、彩雲からの報告でウルシーには戦艦3隻、大型巡洋艦8隻、軽巡1隻、その他多数の在泊が確認される。
1月21日早朝、ウルシーの泊地指揮官から発せられた警戒警報を日本側が傍受。この時はまだ伊48は発見されていなかったものの、9日前に伊36がウルシーへの回天攻撃を行って米給兵艦マザマを撃破、戦車揚陸艇LCI-600を撃沈しており、アメリカ軍の泊地警戒が非常に厳重となっていた。当山艦長の懸念どおり伊48は虎口に飛び込む形となってしまう。
同日19時30分、ウルシー西方33kmを哨戒していた第21哨戒爆撃隊の米双発飛行艇マーティンPBM-3Dマリナーが、環礁西口に向けて18ノットの水上速力で突撃中の国籍不明潜水艦(伊48)をレーダーで捕捉。潜水艦に応答を求めたところ急速潜航し始めたため敵艦と認識する。しかし攻撃するには近すぎたのでマリナーは一旦旋回して距離を取り、その間に伊48は巨体を海中に沈めた。その後、マリナーは爆雷2発とMk24音響魚雷ファイドを投下。ファイドはスクリュー音に引き寄せられる追尾式魚雷であったが幸い命中しなかった。マリナーの機長フランク・A・ユレク中尉はウルシー基地に潜水艦の目撃情報を通報。このまま伊48が走り続ければ1時間で湾口に到達してしまう事から直ちに第65護衛隊の護衛駆逐艦コンクリン(旗艦)、コルベジエ、レイビーからなるハンターキラーグループが出撃。
21時50分、まず最初にコンクリンとレイビーが目撃報告のあった海域に到着して伊48を捜索する。コンクリン艦長エドマンド・L・マクギボン中佐は「伊48は損傷していて、平均潜航速力3ノットで日本占領下ヤップ島に向かうだろう」と推測。しかし伊48は巧みにハンターキラーグループの捜索をすり抜けた。第6艦隊司令部の戦闘詳報によると22時から24時の間に回天4基全てを発進させたという。
1月22日午前4時3分にコルベジエが遅れて捜索に参加。航空機も出撃して空と海から同時に捜索を行うも、一向に伊48が捕まらない事を受けてマクギボン中佐は捜索範囲をヤップ島にまで広げた。
最期
1945年1月23日午前3時10分、逃走を続けていた伊48はヤップ島北東28kmの海上で浮上。再びウルシーに向かうべく南西方向へと18ノットで突き進んでいたところ、午前3時36分、9000m先からコルベジエのレーダーに捕捉される。接近してくるコルベジエに気付くと伊48は潜航退避を行った。
午前3時51分にコルベジエが対潜迫撃砲ヘッジホッグによる攻撃を実施するがこれを回避、続けて午前5時2分まで4回に及ぶヘッジホッグ攻撃を行うも伊48を仕留められずに見失う。朝を迎えた午前9時2分、コルベジエはソナーで良好な感度を掴み、狙いすまして放った6回目のヘッジホッグ攻撃も伊48に回避されて失敗に終わり、10分後には伊48を再び見失った。
良い所なしのコルベジエに代わって午前9時34分より今度はコンクリンがヘッジホッグ攻撃を実施。17秒後、4~5回の爆発音が聞こえてきた。その2分後、コンクリンの直下で極めて激しい爆発が起こり、艦が水平に数フィートも海面から持ち上がる。あまりの凄まじさにコンクリンの主機械、汽缶、発電機、舵取装置の全部が停止して一切の動力を喪失。艦内事務室にある635kgの金庫が、溶接が切れて、甲板上を2.44mも動いた記録がある。コルベジエとレイビーは「コンクリンの艦底の下から太陽の光が見えた」と証言し、上空を飛んでいた哨戒機も「海面に浮かび上がったコルク栓のように艦が跳ね上がった」と観測、以降コンクリンは「アメリカ海軍唯一の空を飛んだ軍艦」と呼ばれるようになったとか。
この激しい爆発について、当山艦長が待機中の回天搭乗員に命じて、機密保持も兼ねた、攻撃のための自爆を行わせたとする推察がある。巨大な気泡が海面に浮き上がるとともに重油、残骸、大量の人骨が浮いているのを確認。コンクリンから発進したモーター付き救命艇が板材、割れた木片、コルク、ニス塗りの内装材、箸、人肉入りの青いニットセーターの袖、マニュアルなどを回収して撃沈の証拠とした。
乗組員118名と回天搭乗員4名全員が死亡。ヤップ島には海軍第46警備隊が配備されており、もし伊48が沿岸砲の射程圏内にまで逃げ込めていたら生還の可能性もありえたかもしれない(実際ハンターキラーグループは沿岸砲を警戒していた)。1月31日、第6艦隊は伊48に呉への帰投命令を出すも応答はなかった。金剛隊で未帰還になったのは伊48だけである。第6艦隊は伊48の戦果を「油槽船、巡洋艦各1隻撃沈、大型輸送船2隻轟沈」とした。
関連項目
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