アルメニア人虐殺 単語

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アルメニア人虐殺とは、第一次世界大戦中の1915年から1917年にかけて、オスマン帝国領内に居住していた少数民族アルメニア人に対して行われた虐殺である。実際には1915年以前にも虐殺は発生しているが、「アルメニア人虐殺」といえば一般的には大戦中の虐殺す。

その実態についてはトルコ政府と各との間で認識に相違があり、今日に及ぶトルコアルメニア間の対立の原因ともなっている。

前史

そもそもアルメニア人は、中世以来ユダヤ人のように世界中に拡散して暮らす「故郷なき民族」であった。また、これもユダヤ人と同様「商才に長けた民族」として、アルメニア人はカイロイスタンブールなどの地中海各地にも貿易拠点を持つようになった。

他方、オスマン帝国の側もトルコ系の王国語を持ってはいたが、その実態は支配層にも多様な民族が登用される多民族国家であり、「オスマントルコ」の俗称とは裏に、決してトルコ人が他の民族に対して優越した存在というわけでもなかった。事実オスマンアルメニア人の中には外務大臣や軍需産業界支配者、造幣局責任者に上り詰めた者もいる。とはいえ、これら有力なアルメニア人は人口から見ればごく少数であり、オスマンアルメニア人の大多数はやはり貧しい農民であった。

しかし、1848年革命を契機にオスマン帝国少数民族にも民族意識が芽生え始めると、同時期に即位した専制的な皇帝アブデュルハミト2世は、彼らに対して強い警心を抱いた。1891年にアブデュルハミトはクルド人体とした非正規の騎兵隊「ハミディイェ」を組織させ、このハミディイェは1892年から1896年にかけて東アナトリア帝国東部)全域でアルメニア人に対する虐殺を繰り広げた。この「ミディイェ虐殺」によるアルメニア人の犠牲者は8万人から30万人と推計され、アルメニア人の他にも数万人のアッシリア人が犠牲となった。

やがて、1908年の青年トルコ革命によってアブデュルハミトは退位させられ、オスマン帝国導層は「統一と進歩委員会」へと移った。しかし、当初は自由義的であった「統一と進歩委員会」も、ほどなくその姿勢を民族義へと転換していった。

大戦期

第一次世界大戦勃発とともに内の少数民族に対する疑念はますます深まり、「統一と進歩委員会」はアルメニア人のイラクシリア方面への追放を決定した。実際に内のアルメニア民族義組織は皇帝暗殺未遂など数々のテロ事件を起こしており、独自の軍事組織も編成し始めていた。また、を越えて敵国ロシア帝国に逃亡し、ロシア軍に参加するアルメニア人も多数発生していた。このため、アルメニア人に対する疑念は決して根拠のないものではなかった

そして、1915年4月から1917年2月までの1年以上をかけてアルメニア人の追放作戦が実施され、その過程において虐殺・死の行進・キャンプでの病死・餓死・人体実験により万人単位の犠牲者が発生した(犠牲者数の詳細については下記を参照のこと)。

また、大戦中に虐殺の対となったのはアルメニア人だけではなく、ギリシャ人(50万人から90万人)、アッシリア人(15万人から75万人)、ブルガリア人(5万人から6万人)に対する虐殺も行われた。(とはいえ、同時期にはアルメニア人とギリシャ人の側も数万人単位でトルコ人を虐殺している)

戦後

その後オスマン帝国は大戦に敗れ、1919年から1920年には帝国導層の戦争犯罪を裁く軍事裁判が開かれた。この裁判ではアルメニア人とギリシャ人に対する虐殺も訴因に含まれ、虐殺の首謀者とされたタラート・パシャ(内務大臣)、エンヴェル・パシャ陸軍大臣)、ジェマル・パシャ海軍大臣)を始めとする多くの被告人に死刑判決が言い渡された。

しかし、彼らは外逃亡していたため判決のほとんどは執行されず、アルメニア人たちの憤懣は高まった。そして、アルメニア民族義組織は1921年から1922年にかけて旧オスマン帝国導層に対するテロネメシス作戦」を敢行し、タラートとジェマルを含めた5人の標的を暗殺する「戦果」を挙げた。

しかし、その後オスマン帝国の後継国家となったトルコの側はアルメニア人虐殺の存在自体を否定し、何らの謝罪も賠償も行う構えを見せなかった(虐殺に対するトルコ側の認識については下記を参照のこと)。これによってさらに憤したアルメニア民族義者は、1970年代から数々のテロ組織を結成し、トルコ外交官を標的とした夥しい数のテロ行為を繰り広げた(以下に列挙したものは死者が発生した事件のみ)。

やがてテロ事件の波は収まり、ソ連崩壊によってアルメニアはようやく独立国家としての存在を取り戻した。しかし、その後も虐殺を否定するトルコ政府の認識は揺るがず、またアルメニアトルコ的なアゼルバイジャンナゴルノ・カラバフ問題で底的に対立したことも重なり、トルコアルメニア間の交は2018年現在も途絶状態にある。

犠牲者数

犠牲者の数については、あるトルコ研究者の提示する5万人説から、あるアルメニア研究者の提示する200万人説まで存在し、被害の規模についての両国全に対立している。

他方、同時代の調では、1919年にオスマン帝国内務省自身が、1915年から1917年までに80万人アルメニア人が殺されたと発表している(しかし、この数字は現代のトルコでは単に死亡者数と解釈されている)。また、オスマン帝国の同盟であったドイツ帝国外務省情報局が1916年5月に作成した報告書では、アルメニア人の犠牲者数は150万人とされている。現代の欧研究者の間では、犠牲者数はこの2つの数字80万人から150万人の間に収まるであろうと概ね捉えられている。

一方、近年の研究ではオスマン帝国軍は戦争中にロシア帝国領やペルシア領でもアルメニア人を虐殺しており、また1917年から1923年までのトルコ独立戦争中に発生したアルメニア人虐殺を含めると、犠牲者数は数十万人分上乗せされるとのもある。

※犠牲者数についての論争が紛糾する理由には、そもそもオスマン帝国には全な形のアルメニア人の人口統計が存在しなかったということが挙げられる。公式国勢調査では1897年アルメニア人人口は114万人、1914年のアルメニア人人口は123万人とされている。ただし、国勢調査によるアルメニア人人口はキリスト教徒のみの数字であり、アルメニアイスラム教徒(ヘムシン人)は含まれていない。また、当局がアルメニア人人口を故意に低く見積もった可性も摘されている。一方、大使館員サミュエル・コックスは、1880年から1886年までの調でのアルメニア人人口を240万人と推計している。ブリタニカ百科事典は1915年以前のアルメニア人人口を175万人と推計し、イスタンブールアルメニア教座は、1913年2月から1914年8月までの調でのアルメニア人人口を191万人としている。

いずれにせよ、かつてオスマン帝国内に広範に存在したアルメニアコミュニティが、1917年をに消え去ったことは争いのない事実である。

虐殺 / ジェノサイドか否か

上記のように、トルコ政府現在まで一貫してアルメニア人虐殺の存在を否定している。トルコ政府の立場は、大戦中に行われたアルメニア人の移送はあくまで彼らを保護するための行動であり、その過程で発生したアルメニア人の大量死は意図しないものであった、というものである。また、殺された少数のアルメニア人も上記のようにテロリスト敵国ロシアと通じた売国奴のみであり、その殺は正当なものであったともする。そして、1970・80年代テロ記憶も相まって、一般のトルコ民もむしろ自分たちが反トルコプロパガンダ被害者であるとの認識を抱いている。

また、そもそもトルコ刑法301条で「民族侮辱罪」を定めており、アルメニア人虐殺を肯定する研究や発言自体が罪に問われかねないという実情もある。この法律により、アルメニア人虐殺を肯定したオルハン・パムク作家ノーベル文学賞受賞者)やフラント・ディンク(ジャーナリストアルメニア系)などが起訴されており、ディンクはその後トルコ民族義者によって殺されている。

各国の認識

2017年4月現在、アルメニア人虐殺を民族殺の意図に基づく大量殺人ジェノサイド)であったと政府レベルで承認しているのは、

の29かである。さらにこのうちキプロスギリシャフランスイタリアスイススロバキアの6かでは虐殺を否定することは犯罪化されている。この他にも、

の9かが、アルメニアジェノサイドを州政府地方自治体レベルで承認している。一方、アルメニア人虐殺の存在を明確に否定しているのはトルコアゼルバイジャンの2かのみである。

意外に思われるかもしれないが、イスラエル内でアルメニア人虐殺をホロコーストと対するキャンペーンなどを行っているにも関わらず、アルメニア人虐殺を政府レベルでは承認していない。これは、イランなど中東しく対立するイスラエルにとって、イスラム圏で例外的にイスラエル的なトルコアゼルバイジャン両国との経済的・軍事的協力関係のほうが、歴史認識問題よりも優先されるためである。

また、トルコはアルメニア人虐殺に否定的な各の学者に直接的・間接的に政府支援を行うなど、歴史認識において強く争う構えを見せている。一方、2014年にはレジェップ・タイイップ・エルドアン大統領が、史上初めて「アルメニア人の大量死」について、その子孫に対し「哀悼の意」を表してもいる。

立ち向かった人々

最後に次の事実を付け加えておく。

確かに、青年トルコ人の民族義政権によって大量のアルメニア人が組織的に殺されたのは、今日ではほぼ疑いようのない事実である。しかし、オスマン帝国内のすべてのトルコ人が虐殺に加担したわけではないし、政権内のすべての人物がそれに賛同したわけでもない。当時のオスマン帝国にあって、虐殺に毅然と立ち向かった人々の極一部を以下に挙げておく。

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