伊175とは、大日本帝國海軍が建造・運用した伊174型/海大六型b潜水艦2番艦である。1938年12月18日竣工。雷撃でカサブランカ級護衛空母リスカム・ベイを撃沈する戦果を挙げた。1944年2月17日、クェゼリン方面で沈没。総戦果は撃沈4隻(1万80トン)、撃破2隻(6624トン)。
ロンドン海軍軍縮条約で巡潜型の保有に制限を掛けられ、潜水艦の保有量も5万2700トン以内に制限されてしまった大日本帝國海軍は、小型かつ高速な艦隊随伴型潜水艦の設計に着手。こうして誕生したのが海大六型で、伊75が属する海大六型bはその改良型にあたる。
南方での長期作戦用に冷房能力を強化し、真水タンクも拡張、海水と重油を分離する洗浄装置を備えている。また九二式方位盤と縦舵機一斉発動装置を有していて、装填された魚雷の縦舵を一気に操作できるよう改善した事で攻撃能力を向上を実現。ここまでは6隻建造された前級海大六型と同一だが海大六型bは更なる改良を加えている。内殻の電気溶接範囲を拡大し、内殻内板厚を1mm増やして17mmにした事で安全潜航深度を85m(前級は75m)に向上させ、海大型最高の潜航能力を獲得した。燃料搭載量を増加させるとともに魚雷発射管を断気弁式無気泡型の九五式発射管に変更、水中聴音機を国産の九三式水中聴音機に換装し、九三式探信儀を装備している。他にも新型空気冷却機の搭載や艦内配置の一部変更が行われた。これまでに得られた運用実績や建造ノウハウを注ぎ込んだ、海大型最高の完成度を誇る。
海大六型bは伊74と伊75の2隻しかいないレアな艦で、3隻編制が基本の潜水艦において例外的に2隻で運用。長らく2隻編制だったが、1942年8月4日に竣工した海大七型の伊176を加えてようやく従来通りの数になった。伊75の建造を以って海大型の建造は一旦中止されたようで伊75竣工から次級の伊176竣工まで約3年半の間がある。伊176型は戦時急造型に設計変更されているため、純然な海大型としては伊75が最後。
要目は排水量1810トン、全長105m、全幅8.2m、乗員68名、速力23ノット(水上)/8.2ノット(水中)、安全潜航深度85m、航続距離は16ノットで1万海里(水上)/3ノットで65海里(水中)、重油搭載量440トン、出力9000馬力(水上)/1800馬力(水中)。武装は12cm単装砲1門、13mm機銃1丁、7.7mm機銃1丁、艦首53cm魚雷発射管4門、艦尾53cm魚雷発射管2門、搭載魚雷14本、九三式水中聴音機、九三式探信儀。海大型であるため航空艤装や水偵は持っていない。
ロンドン海軍軍縮条約に対応するため策定された1934年度第二次補充計画(通称マル二計画)にて、海大六型b一等潜水艦として建造が決定。当初の艦名は伊75であった。1934年11月1日、建造費784万円を投じて三菱重工神戸造船所で起工。1935年8月3日、呉工廠に伊75用の蒸化器用電熱器の製造訓令が、1937年6月23日には広海軍工廠へ推進軸製造訓令が下り、いずれも完成後は神戸造船所に送られた。同年9月16日に進水式を迎え、1938年12月18日に竣工を果たす。呉鎮守府に編入されるとともに第2艦隊第2潜水戦隊第11潜水隊へ部署。
1939年3月21日、佐世保を出港して北支方面で活動し、4月3日に有明湾に帰投。8月6日に宿毛湾を出港。南洋方面で活動したのち、8月26日に岸和田へ帰投した。11月15日、第2潜水戦隊は第3潜水戦隊に改名。1940年3月26日、中城湾を出港して南支方面で活動。4月2日に高雄へ入港する。10月11日、横浜沖で挙行された紀元二千六百年特別観艦式に参加。その後の11月15日に第3潜水戦隊は第6艦隊に転属する。
1941年3月25日、第11潜水隊の旗艦となり、司令官の水口兵衛大佐が乗艦。6月11日に伊74へ旗艦の座を渡した。戦争の足音が迫ってくる11月5日、大海令指第一号によりハワイ作戦の実行が決定。第6艦隊にその支援が命じられた。それに伴って第3潜水戦隊は事前にマーシャル諸島クェゼリンへ進出する事になり、急速に戦備が整えられた。11月8日、第6艦隊司令部は機密連合艦隊命令作第一号を受領。出港の前日にあたる11月10日に正式な命令として下り、伊75は先遣部隊に編入された。
11月11日、ハワイ作戦支援のため佐伯湾を出港。11月20日にクェゼリンに寄港し、潜水母艦大鯨から補給を受けて11月23日に出発。オアフ島南西の配備点に向かった。12月2日、暗号化されたニイタカヤマノボレの電文が受信され、対米英戦争は避けられない事態となった。12月7日に湾口南側への配置を完了。南雲機動部隊による攻撃を待った。
1941年12月8日、真珠湾攻撃によって大東亜戦争が勃発。湾内は激しい爆撃に曝された。午前8時30分、先遣部隊司令部は全潜水艦に対し、混乱して湾外に出てくるであろう敵艦船を攻撃するよう下令。伊75は海中に潜みながら、敵艦が来るのを待ち伏せる。また午後12時30分、甲標的による特別攻撃を支援するためE1内方哨区への移動を命じられた。12月9日、南雲機動部隊の引き揚げに伴ってハワイ作戦支援任務を終了。12月13日、アメリカ艦艇誘引のためマウイ島北方からヒロ沖までの敵艦船攻撃に従事。
12月15日夕刻、沖合い4kmからマウイ島北部カフルイ港に向けて12cm単装砲16発を発射。このうち2発がパイナップル缶詰工場に着弾し、およそ654ドルの損害が出た。伊75は繋船2隻と哨戒艇1隻の撃沈を報告した(該当艦無し)。12月17日、ハワイの南東180海里で敵船を捕捉。相手はハワイからサンフランシスコに向かっていた米商船マニニ(3252トン)であった。さっそく潜航して雷撃を仕掛けるも、斜めにズレて命中せず。浮上した後に再度雷撃を行い、魚雷1本が命中。マニニは船尾から沈没し始めた。仕留めた敵船の識別を行うため、伊75は探照灯の照射を実施。こうして伊75は最初の戦果を挙げた。12月18日18時、ハワイ近海から退却し、クェゼリンへの帰路につく。12月24日午前4時55分、パルミラ環礁の沖合い4000mからアメリカ海軍航空基地に12発の艦砲射撃を実施。建物を破壊するも、すぐに12.7cm陸上砲台から反撃を受けたため急速潜航している。
1942年1月8日、アリューシャン方面の要地偵察を下令される。1月10日に米機動部隊がハワイ西方550海里で発見されたとの報告を受け、1月12日に伊74とクェゼリンを緊急出撃。索敵と哨戒を実施したが、会敵できなかった。1月20日、僚艦と別れて北進。アリューシャン列島に向かう。1月26日にアンドリアノフ諸島アトカ島の南方に到達し、東側からぐるりと一周したあと西進。2月2日にナザン湾を偵察して更に西進し、2月8日にキスカ島を偵察。この偵察を以って任務を完了、横須賀方面に向かう。米機動部隊の来襲に備え、本州東方の索敵を行いながら南下。2月19日、横須賀へ到着。3月31日に出港し、呉へ回航。4月2日、呉に到着して整備と補給を受ける。
4月10日、第3潜水戦隊は東京湾東方700海里のG散開線へつくよう下令され、4月15日に伊74と呉を出発。ところが、4月18日にドーリットル空襲が発生。対米国艦隊作戦第三法が発動され、第3潜水戦隊は犬吠崎東方410海里の散開線に移動。18ノットで配置点に向かう。逃走した敵艦隊を追って犬吠岬から950海里の場所まで進出したが、敵情を得られず。やがて第三法の中止命令が下り、5月4日にマーシャル諸島北方300海里のM散開線に参加するよう命じられる。2日後、M散開線に到着。索敵と哨戒を行う。5月8日、M散開線から撤哨。クェゼリンに向かった。5月10日、クェゼリン着。ミッドウェー作戦に先立ち、二式飛行艇によるハワイ空襲を企図した第二次K作戦が立案され、伊75にはその支援が命じられた。5月10日にクェゼリンへ到着する。元々巡潜型には1~50の数字が、海大型には51~100の数字が割り当てられていたのだが、巡潜型が50隻以上増産される事になり数字が不足。そこで帝國海軍は、海大型の数字に100を足して数字の余剰スペースを作った。このため5月20日、伊75は伊175に改名した。
5月20日、クェゼリンを出港。5月30日にオアフ島南西80海里に進出し、現地の天候を報告する役割を担った。しかし通信傍受で第二次K作戦を知ったアメリカ軍は、燃料補給地点となっているフレンチフリケード礁に艦隊を派遣してきた。燃料補給担当の伊123と伊121が来た時には既に環礁は占領されており、補給が出来ないとして第二次K作戦は中止。翌31日に中止命令を受領、オアフ島近海から移動してミッドウェー方面の甲散開線に参加し、そのままミッドウェー海戦に参戦する。ミッドウェー島周辺には計15隻の潜水艦が配備された。ところが6月5日、味方空母3隻が被弾炎上してしまう。午前9時20分、山本五十六長官は敵艦隊迎撃の目的で第3及び第5潜水戦隊に丙散開線への移動を命じ、伊175は北上。近海に潜んでいるはずの敵空母を捜し求める。6月7日、退避中の重巡洋艦最上と三隈が敵機の攻撃を受けた事を鑑み、山本長官は追撃してくる敵機動部隊の背後を潜水艦に急襲させようと西方への移動を命令。同日14時50分、S散開線への移動が命じられた。しかし敵影を発見する事は叶わなかった。味方の水上艦艇が退却した後の6月13日、敵機動部隊がミッドウェー東方で確認されたとの情報が入り、散開線を東に移す命令が下った。各潜水艦は朝から東進を始めたが、6月15日にクェゼリン帰投を命じられて断念。6月20日、伊175はクェゼリンに戻った。6月22日、大本営はオーストラリア東方及びインド洋での通商破壊を下令。
7月8日、オーストラリア東海岸沖で通商破壊を行うべく出撃。東海岸には連合軍の補給路が4本あり、インド洋ほどではないものの獲物となる敵輸送船が往来していた。7月20日にシドニー沖へ到着し、伊11や伊174とともに狩りを始める。7月23日、ニューカッスルから20海里沖を浮上航行中に武装商船を発見。正体はクイーンズランド州ケアンズからシドニーに向けて砂糖を運搬中の豪貨物船アラーラ(3279トン)だった。船尾に魚雷1本を命中させ、撃破。乗組員は一時船を捨てたが、再び戻ってきて復旧。曳航されてニューカッスルに入港した。翌日の7月24日、シドニー近海で豪商船ムラダ(3345トン)を雷撃して撃破。7月26日、コルベット艦ケアンズから爆雷攻撃を受ける。攻撃を回避したのち、南へ退避。2日後の7月28日、ニューカッスル北東160海里でニッケル鉱石を運んでいた自由フランス鉱石運搬船カグー(2795トン)を雷撃して撃沈。8月3日午前1時30分、ニューサウスウェールズ州モルヤ沖で操業中のオーストラリアの蒸気トロール船ダレンビー(233トン)は、知らず知らずのうちに浮上航行中の伊175に接近。網を投げて魚を獲っていた。バッテリーを充電中の伊175は無防備なダレンビーを発見し、12cm単装砲で砲撃。最初の1発は外れて海中で爆発、これにより異常に気付いたダレンビーは遭難信号を発信するも、命中弾で無線機器が破壊される。機銃掃射を浴びせかけると同時に2発の命中弾を与え、操舵室を破壊して大破航行不能に追いやる。ダレンビーの乗員は自分たちが無害な存在であると主張したが、伊175は45分間に渡って追跡。その後、潜航して去った。乗組員は船を放棄したため、ダレンビーは後に沈没している。8月5日、ジャービス湾に到達。伊175や僚艦の活躍で沿岸航路の海運効率は低下し、港湾への輸送量が減少した。
そんな中、椿事が発生する。8月7日早朝、飛行場を建設していたガダルカナル島と対岸のツラギ島にアメリカ軍が襲来したのである。この危急を受けて同日午前6時50分、連合艦隊は第3潜水戦隊にツラギ方面の攻撃を命じるとともに外南洋部隊へ編入。小松中将もまた速やかな北上を命じ、第7潜水戦隊と協力して敵艦船攻撃の任を与えた。伊175は伊174とともにサンクリストバル島方面に急行。8月10日、ニューカレドニア北端に到達し、サンクリストバル島西方で遊弋したが敵影を見ず。8月12日黎明、エスピリトゥ・サント島南西170海里にて2機のドーントレス急降下爆撃機に襲撃されて損傷。更に敵駆逐艦グレイソンとステレットが伊175を仕留めるべく分派された。敵の包囲網から脱した後、修理のため急遽ラバウルへの寄港を強いられる事に。8月17日にラバウルへ寄港し、短期間の修理を受ける。8月21日、指揮系統一本化のため第3潜水戦隊と第7潜水戦隊は外南洋部隊から先遣部隊に転属。翌22日午前8時30分、ガダルカナル島への鼠輸送を支援するため、先遣部隊は準備出来次第出港してB散開線へ配置につくよう指示。同日、傷を癒やした伊175は相方の伊174とラバウルを出撃。ガダルカナル島南東方面のB散開線に向かった。道中でトラックから出撃してきた伊11を散開線に加え、レンネル島南西の配備点に到着。左から伊11、伊175、伊174の順に並んで敵艦船の出現を待つ。8月25日17時20分、戦線整理のため敵情を得ない場合はF散開線に移動するよう命じられる。
9月1日、第7潜水戦隊指揮下の潜水艦撤収に伴い、伊175を一時的に第7潜水戦隊へ編入。ガ島方面の哨戒を行う。9月9日午前11時30分、増大する敵輸送船の往来を鑑み、第3潜水戦隊の伊172、伊174、伊175にインディスペンサブル水道南口の警戒監視を厳重にするよう下令。同時に、1隻を泊地に潜入させて敵艦船攻撃を行わせようとした。9月11日にガ島北岸のルンガ泊地を偵察。9月14日、ガダルカナル島南東にて敵輸送船団を発見したが、駆逐艦の警戒激しく攻撃できず。9月17日夕刻、帰投を命じられて伊174と伊175は撤哨。トラック諸島へ向かい、9月21日着。
10月16日、トラックを出港。サンクリストバル島を迂回し、K散開線に参加。敵輸送船団攻撃を試みる。10月19日に乙潜水部隊へ編入された。10月25日、ガ島南東海域に敵機動部隊出現の可能性大として乙潜水部隊にY散開線へ移動するよう指示。伊175は北上を始める。10月26日午前10時10分、南太平洋海戦生起に伴い、乙潜水部隊はインディスペンサブル西方の敵戦艦攻撃を下令される。水上航行で所定の位置を目指したが、会敵に失敗した。10月31日、先遣部隊司令部は新たな兵力部署を発令。伊175は伊122、伊172、呂34と丁潜水部隊に編入。サンクリストバル島北東に展開して敵増援の阻止を担う。しかし戦果は挙げられず、11月3日に伊172が消息不明になっている。やがて伊175に帰投命令が下り、11月19日にトラックへ帰投した。11月20日、竹島南泊地にて海軍一般徴用船日新丸と衝突事故を起こし、損傷。沈没を防ぐため自ら座礁した。内地での修理が決まり、翌21日にトラックを出発。11月29日に呉へ入港して補給を受けた後、横須賀に回航。12月5日に到着し、修理を受ける。入渠中、田畑直少佐が艦長に着任。
1943年3月15日、第11潜水隊解隊に伴って第12潜水隊に転属。4月17日、横須賀を出港して呉に回航。
5月11日、アメリカ軍がアリューシャン列島アッツ島に上陸。風雲急を告げる戦況を受け、連合艦隊は5月12日17時50分に電令作第563号を発して伊175の北方部隊編入を命令。出港準備を始める。5月15日、第12潜水隊の司令潜水艦となる。5月17日午前1時に呉を出港し、横須賀を経由して北方海域へと向かい、北東方面の策源地となっている幌筵島片岡湾に急行。5月24日に到着し、孤立状態に陥っているキスカ島から将兵を撤退させる「ケ」号作戦に参加。総勢15隻の潜水艦が参加する大規模なもので、第1潜水戦隊の古宇田武郎少将が指揮を執った。往路は補給物資を積み、復路は傷病兵を収容して帰投する。海大型は60名の収容が可能と見積もられた。泊地への突入はその都度指定、収容作業は夜間にのみ限定された。5月29日、アッツ島守備隊が玉砕。キスカへの補給と撤収が急務となる。
6月6日、敵の監視網を突破してキスカに到着。補給物資16トンの揚陸と60名の収容に成功し、6月10日に片岡湾へ帰投。給油船帝洋丸から燃料176トンの補給を受ける。6月13日に再び出港し、敵艦隊が遊弋する海域を突破して6月17日にキスカ港到着。前回同様物資16トンを揚陸し、傷病兵70名を収容する。ところが輸送任務中の伊24と伊9が相次いで消息不明になった現状を鑑み、北方部隊司令部は同日21時30分に電令作第45号を発令。別命あるまでキスカ付近で留まりつつ、敵情を報告するよう伊175に命じた。6月20日、幌筵島へ帰投。アリューシャン方面では濃霧が盛んに発生しており、伊号潜水艦は霧に紛れる事で敵の目から逃れようとした。しかし敵艦隊は濃霧の中でも的確に位置を把握できるレーダーを有しており、6月に入ると霧中から突然砲撃を受ける事態が多発。6月21日までに伊24と伊9に加えて伊7も喪失してしまい、同日付けで潜水艦による撤退作戦は断念された。しかし救助できたのは872名のみで、これは全体の約15%に過ぎなかった。代わりに水上艦艇による救出が試みられ、潜水艦はその支援に徹した。6月24日、伊171とともに出撃。アムトチカ島南方で発信された敵の通信の確認に向かったが、何も無かった。そのまま哨戒線に配備される。
6月28日、新たな兵力部署が発令。伊175、伊171、伊2の3隻で監視隊を編制し、要地偵察と敵艦攻撃を主任務とした。7月7日にアムチトカ水道南方へ到着。同日、木村昌福少将率いる救援艦隊が幌筵を出港。キスカに向かった。作戦支援のため、7月15日にアリューシャン東方に移動。通商破壊を行うが、同じ日に救援艦隊が突入を断念。1回目の撤収作戦は失敗に終わった。同日19時18分、2回目の撤収作戦に備えて配置転換。監視隊にはアリューシャン列島西方で通商破壊を行い、情報を統合して敵情を報告するよう命令が下った。7月18日、E散開線への参加を命じられ、7月24日到着。救援艦隊の間接援護に徹する。7月31日から8月1日にかけて、キスカ島守備隊の全将兵を乗せた水上艦隊が幌筵に帰投。「ケ」号作戦は見事成功に終わり、伊175に帰投命令が出た。8月2日、幌筵に帰港。翌日北方部隊の任を解かれた。次期作戦に備えて内地で整備を受ける事になり、8月4日に幌筵を出発。8月10日に呉へ入港した。
9月19日に呉を出発し、9月25日にトラック諸島へ進出。10月5日から翌6日にかけて、モントゴメリー少将率いる第14機動部隊がウェーク島を空襲。同地の第22航空戦隊の零戦や一式陸攻に甚大な被害が及んだ。ウェーク近海に潜む敵艦隊を攻撃するため甲散開線に加わる事になり、10月16日に出撃。ウェーク東方のT散開線に加わって哨戒を行うも、会敵できなかった。10月20日、伊36よりハワイ諸島の南方にて敵の大規模船団が西へ向かっているとの通報が入った。さっそく伊175、伊19、伊35、伊169に迎撃命令が下され、10月25日にT散開線から移動。オアフ島南方300海里の地点に配置された。しかしこちらも会敵できず、11月13日にトラックへの帰投命令を受けて帰路につく。
11月19日、アメリカ軍の大部隊が中部太平洋ギルバート諸島に襲来。連合艦隊は作戦行動中の伊175、伊19、伊21、伊35、伊169を、トラックからは伊39、伊40、伊174、呂38の計9隻を迎撃に向かわせ、丙作戦第三法警戒を発令。A散開線には伊175、伊19、伊169が配備された。11月21日早朝にはマキン島とタラワ島が敵軍の上陸を受け、伊175はマキン方面への進出が命じられた。タラワに攻撃が集中すると考えた連合艦隊は同島に潜水艦を集め、マキンに向かった伊175にも「敵影を見なければタラワに急行すべし」と伝えていた。全速力でマキン方面に突撃していた伊175だったが、到着した11月23日にタラワとマキンが陥落してしまう。
事態の逼迫によってギルバート方面で活動している潜水艦をトラックに戻す余裕が無くなり、クェゼリンに補給用潜水艦として伊32が進出した。
11月24日黎明、マキン環礁の南西32kmにて3隻の護衛空母を中心としたグループを発見。ヘンリー・M・ムリニクス少将率いる第52.3任務群で、護衛空母リスカム・ベイ(旗艦)、コーラル・シー、コレヒドールを基幹とし、その周囲を戦艦ペンシルバニア、ニューメキシコ、ミシシッピ、重巡洋艦ボルモチア、若干数の駆逐艦が取り巻いていた。マキンとタラワでは島内の掃討が行われており、第52.3任務群はその支援に従事。潜水艦に襲撃される可能性は低いと考え、ジグザグ運動はしていなかった。
午前4時30分、リスカム・ベイ艦内で総員起床のラッパが鳴り響いた。午前4時36分、戦艦ニューメキシコのSGレーダーが反応を探知。その反応こそ伊175であったが、逆探装置を持っていたため素早く気付き、急速潜航。ニューメキシコにレーダーの誤認と思わせる事に成功する。海中で息を殺しながら、敵の輪形陣を突破していく。一方、リスカム・ベイでは午前4時50分より艦載機の発進準備が行われていた。飛行甲板には燃料と弾薬を満載にした13機のヘルキャットが、カタパルト外に1機が並び、格納庫にも7機が待機。格納庫下には弾薬や爆弾をたくさん積み込んでいた。伊175はリスカム・ベイまであと約900mの距離まで肉薄。午前5時5分、艦載機を発進させるためリスカム・ベイが艦首を風上(北東)に向けた。これがちょうど伊175に右船腹を晒す格好となり、好機が到来した。
午前5時10分、伊175は3隻の空母に向けて4本の九五式酸素魚雷を発射。見張り員が雷跡を発見して絶叫するが、時既に遅し。1本がリスカム・ベイ(7800トン)の右舷機関室後部に命中し、航空機用の爆弾庫を破壊。その余波で収容されていた爆弾類が一気に引火誘爆、一瞬にして艦尾が吹き飛んだ。爆発で巻き上げられた破片は、1400m離れたニューメキシコにまで届いたという。激しい爆発によって生じた黒煙はたちまちキノコ雲となり、衝撃波は周囲の艦を揺さぶったが、被害は出なかった。後部機関室にいた人員は全員死亡。並べられたヘルキャットにも火の手が及び、燃料や爆弾に引火して連鎖的な誘爆を招いた事で飛行甲板は火の海と化す。海面にはリスカム・ベイから流れ出た重油が広がったが、それにも引火。生存者が海へ脱出するのを妨げた。この時点で消火設備は完全に沈黙、もはや鎮火の目処は立たなかった。第52.3任務群司令ヘンリー・M・ムリニクス少将や艦長ウィルトジー大佐ら53名の士官と乗組員591名が死亡。23機のヘルキャットも失われ、残ったのは発進済みで他の空母に着艦できた5機だけだった。浮いていた前部も次第に右舷へ傾き始め、午前5時33分に沈没。生存者272名は僚艦に救助された。
手痛い一撃を受けた第52.3任務群は四方八方に回避運動を取る。午前5時24分、米駆逐艦キンバリーは海中の音を探知し、ニューメキシコのレーダーも同様に探知。艦艇総出で潜水艦狩りを開始する。午前6時10分、米駆逐艦モーリーが2本の雷跡を発見、続けざまにハルとグリッドレイが爆雷を投下。伊175は2隻の敵駆逐艦から6時間に渡って29発(34発とも)の対潜制圧を受け、至近弾8発を喰らうも損害軽微。隙を見て海域から離脱した。リスカム・ベイ撃沈により敵艦の集結を予想した大本営は、伊40を増援としてマキン近海に派遣。翌日、伊175は「北上中の敵空母を雷撃し、3本命中。概ね撃沈」と報告。マキン近海からの撤収を図った。
11月26日、偵察機からの報告でミレ来攻の公算大と判断した連合艦隊は伊175にクェゼリン寄港とトラック帰投を命令。翌27日、伊175はクェゼリンに入港して伊32から燃料補給を受けた。11月28日に出港し、12月1日にトラック諸島へ帰投。浦上丸に横付けして修理を受ける。ギルバート方面に向かった潜水艦9隻のうち、伊19、伊21、伊35、伊39、伊40、呂38の6隻が未帰還となり、かろうじて生還した伊175、伊169、伊174も爆雷で傷ついていた。潜水艦部隊は大損害を受け、可動艦は著しく減少。唯一の戦果は、伊175が挙げたリスカム・ベイ撃沈だけであった。第6艦隊の高木武雄司令は赫々たる戦果を挙げた伊175に表彰状を贈った。12月8日、特設水上機母艦平安丸から魚雷を、翌9日に蒸留水を受領する。
1944年1月10日、糧食品を受領。1月26日、連合艦隊からオーシャン島への食糧輸送を命じられ、翌27日にトラックを出撃。輸送後はマーシャル諸島東方の配備につく予定だった。1月30日早朝、米機動部隊がクェゼリンを襲撃。激しい砲爆撃に曝された。翌31日にアメリカ軍が上陸してきたため、先遣部隊司令部は伊175にクェゼリン方面への急行を命令。食糧を載せたまま当該海域に向かい、同日中にクェゼリン近海へと到着した。
この行動を最後に伊175は消息を絶った。
アメリカ側の資料では2月4日を戦没日とし、駆逐艦シャレットと護衛駆逐艦フェアからヘッジホッグ攻撃を受けて沈められたとする。日本側の資料では2月17日を戦没日とし、タロア島北東沖で駆逐艦ニコラスの爆雷攻撃を受けて沈んだとしている。乗組員100名全員が戦死。2月10日に第6艦隊から「機宜配備をウォッゼ、マロエラップ東方海面に移し、敵艦船を攻撃すべし」と指示があったが、返答は無かった。帝國海軍は1944年3月26日にクェゼリン方面で亡失と認定し、7月10日に除籍された。
戦果は撃沈4隻(1万80トン)、撃破2隻(6624トン)であった。
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1 ななしのよっしん
2021/09/08(水) 16:45:34 ID: FGO69nEadc
>爆弾庫の周りを燃料タンクで囲むという対策を全カサブランカ級護衛空母に施した。
素人考えだと逆に怖いんですが・・・
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