初霜(艦これ) 単語

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「これでまた、みんなを守れるわ」

初霜(はつしも)とは、艦隊これくしょん~艦これ~に登場する、日本海軍駆逐艦初霜」をモチーフとした艦娘である。

声優小林元子イラストレーターはやどかり。

 初春型四番艦、初霜です。皆さん、よろしくお願いします!

初霜

 黒髪ガン=カタ的なポーズをした駆逐艦。生で礼儀正しい性格であり、身体を触られても、魚雷管の度を直してくれてるんですね!」天然気味な反応を示す。またが特徴的(変なとも見たの割に老成したとも)。

 「他人を守ること」にかけて大きな自負を持っているようであり、大破した入渠時でも「これでまた、みんなを守れるわ」と嬉しそうに言い、夜戦時の台詞「私が、守ります!」ストレートに力強い。

  駆逐艦の数が多いこともあり艦これ内では若干の薄さは否めないものの、その言葉通り、以下に述べる通り終戦間際まで多くの人命や僚艦を守り続けた歴戦の艦である。

 大人しいイメージ彼女だが、中破絵になると悔しそうに噛みした表情が妙に男前との評判がある。手に脱げるが見事なまでの鉄板

 表題のとおり初春型駆逐艦なのだが、あのキャラの濃い「初春」や「子日」のだと言われると、かなり違和感を感じるデザインキャラ設定になっている。これは史実の初春型駆逐艦において、ネームシップ初春」の傾斜異常・復原性問題発覚で、3番艦「若葉」・4番艦「初霜」が建造中に設計変更を加えられ、特型Ⅲ(「暁」型)ベースに改装したことを踏まえたものと思われる。更に設計変更が加えられたたち(「有明」「夕暮」)は担当絵師・担当声優を変えて実装された。従って、わずか6隻の初春型にも関わらず、担当絵師が3人3パターン制服が存在することとなった。

 太平洋戦争初期は東南アジア攻略戦の団護衛に従事。昭和17年から18年は北方アリューシャン列島における一連の攻略および撤退戦に参加、キスカ島撤退作戦にも加わっている。
大規模艦隊決戦の兵力に入ったのは昭和19年6月マリアナ沖海戦だったが、ここでも任務はタンカーの護衛。とかく輸送や低速空母の護衛に縁のある艦だったため、艦これでのセリフもそれに関するものが多くなっている。

 6隻あった初春型のなかで終戦間際まで生き残り、戦艦大和」の特攻戦からも生還した中々の幸運艦だったのだが、その最期は襲の退避行動中、敵機雷が後部付近で爆発。これは諸説あるが、回数機雷で共に行動していた雪風に接触したときは不発だったが「初霜」にってきたところで爆発した為とも、これは磁気機雷で運悪く「初霜」が触れてしまった為とも言われている。
この爆発によってキールを折損、艦尾が大破・浸し、沈没を防ぐ為浅瀬に擱坐するというものだった。

 そうですね、できるだけ助けたいわ。初霜改二行きます!

初霜改二

 概要・下記にも描かれている通り、決して恵まれていた性環境でなかったにも関わらず歴戦の艦とも勝るとも劣らない戦歴を持ち合わせていた「初霜」に改二実装補として名が挙げられたのは決して少数ではなく、彼女の経緯が明らかになるにつれて徐々に増えていた。そして2015年1月23日アップデート初霜改二実装彼女の起工日(1月31日)より少し誕生日プレゼントえる形になった。改造レベル駆逐艦として高レベルの70。「吹雪改二」「Верный(響)」と同値。

 性としては他の改二駆逐艦較すると火力・雷装が均的(59・85)なものの、対・索敵・回避はトップクラスでありの「初春」、同じく対特化した「」をえる対81を誇る。

 そして彼女の最大の特徴は武勲艦としてもトップクラスの運の高さ「53」である。これまで幸運艦雪風」に次いで高かった「時雨改二」をぎ、全艦娘中2番の初期値になった。[1] 対射撃装備をすれば高確率で敵機を落とし、夜戦装備ならカットイン攻撃を連発する。
但し、昨今められる対潜値が改二駆逐艦均値程度(LV99で72)に留まっており、朝潮改二丁に代表される対潜特化駆逐艦には及ばないので潜水艦が多い域では注意。
実装から5回に渡りパラメーターが見直され、実装当時と夜戦火力+10,対+2,対潜+3,耐久+1,装甲+4上方修正が図られている。その結果、夜戦火力では「時雨改二」とべ-1,「雪風改」とべ-4まで差が縮まっている。

 運の初期値が高いだけでなく改修による最大値も「100」と、現状通常入手可な全艦娘トップクラスであるとともに運3ケタに到達する一の艦娘である。[2]

 装はこれまでの制服はそのままながら、上着の縁取りにラインが入り、袖を捲りスカートがややミニになっている。紺色られた鉢巻を身に付け(通常絵だと断ち切れているが、全身像で見ると第二水雷戦隊所属の2本の白線になっている)、靴下も坊ノ行動を共にした「大和」「矢矧」「磯風」「霞改二乙」「朝霜」と同様のスタイルである右はそのまま、左のみニーソックスになっている。(なお、後に実装された「涼月」「浜風乙改」「雪風改二」「冬月」にはこの特徴は引き継がれていない。) また「若葉」とおいだったネクタイとそれまでのトレードマークだった髪留めを外しており、追加ボイスも相まってイメージとしては勇壮さの中に大戦末期の悲壮な雰囲気を漂わせている。

 改二実装時に放置ボイスが、同時期に節分期間限定ボイス実装。放置ボイスでは坊ノ岬沖海戦で乗員を救助した「矢矧」「浜風」の安否を気にする内容となっている。
 その後約4年後の2018年2、時報が月の「初春改二」に次いで実装された。秘書艦として3食の準備を卒なくこなしており、北号作戦を共にした「伊勢」「日向」「大淀」「朝霜」、最後の上矢矧」との関わりが触れられている。恐らく、初霜改二(時報は改・改二実装)がレイテ沖海戦を終えた後というイメージなのかもしれない。一方で、長年の上だった「阿武隈」や、末期の実質的な僚艦「」、最期の僚艦「雪風」への言及がされなかったことに対し残念な印を持つ提督も。

 装も背中マストが初期装備でもある13号電探改に変更され、右足のベルトに予備の魚雷を3本身に付けている。これは「初春」同様、艦隊駆逐艦としては初春型が初めて次発装填装置を装備した史実に依る。もっとも「初霜」は「可燃物を降ろしましょうか?」(補給時の台詞)と言ってるので場合によっては宝の持ち腐れになっているとも(こちらは坊ノ岬沖海戦を前に艦隊全体で発射管に収めていた魚雷以外の予備を降ろしたという説に基づいている)

 2021年10月15日改二に「艦隊部施設」系と「大発動艇」系、"霞改二乙実装な大電探"の特殊装備が装備可となる機実装された。(親潮改二実装と同時)
 「艦令部」系は本来巡洋艦以上の艦娘に装備が能となる装備で「精雷戦令部」を除きイベント時にしか効果を発揮しない装備であるが、一部の駆逐艦も実装が能であった。その一部の駆逐艦娘は概ね史実で艦隊旗艦を経験した艦[3]改二実装となるのだが、沈没した二戦旗艦・矢矧から部を救出し二戦解散式の式場となった初霜に、追加という形ではあるが同装備が装備可となった。
 「大発動艇」系(カ車を除く)については、史実の初春型駆逐艦には縁がないのだが、姉妹初の追加実装艦の有明と夕暮が改で実能な装備。陸系深海棲艦が増えている昨今、大発動艇系装備の重要性は高まっており、遠征要員としても新たな役割を担えるようになった。
 型電探で言えば、霞改乙との空値の差が1に加えて電探能で差がついていたものが、同じ電探を装備できることで素の1差に縮まったことになる。

 初霜、出撃します!

「失敗作」初春型とその改良

 建造は民間企業で、駆逐艦建造の雄だった浦賀船渠(旧・賀造所/賀ドック)。昭和8年1933年1月起工、昭和9年1934年9月工。

 体に過剰な装備を施されたため、トップヘビーを露呈した「初春
改修によって総合力が低下し、後の評論では失敗作と言われる

 初春型駆逐艦の4番艦として建造中、ネームシップ初春」が軽体・重武装によるトップヘビーのため、転による少しの傾斜でも容易く横転しかねないという重大な欠陥を露呈。このため建造中の3番艦「若葉」と本艦にはバルジの取り付け、5番艦「有明」と6番艦「夕暮」は最初からバルジ分を加えた体拡に設計変更という修正を加えられた(「有明」「夕暮」は工後の一時期、初春型とは別艦として扱われていた)。

 さらに友鶴事件第四艦隊事件が起こって補強工事も重なり、これによって防御力は高まったものの、魚雷発射管の本数削減による攻撃力低下・装甲重量増加による速力低下(37ノット→34ノット)となってしまう。このため、12隻建造を予定されていた初春型は6隻で打ち切りとなり、白露型へ移行する。初陣は日事変(一時一水戦から離れる)と印進駐。

 こうした経緯のためか、海軍における初春型の評価は高いものではなく、「初春」「子日」「若葉」「初霜」の初春型4隻で構成される第二十一駆逐隊は後方へされ、所属していた第一水雷戦隊の各艦は真珠湾攻撃へ出撃したが、二十一駆は航続力不足を理由に内地へ留められていた。

初春型駆逐艦で最初の戦艦となった「子日
潜水艦を撃退すべき駆逐艦潜水艦に沈められるという、日本海軍の悪弊の端緒だった

 太平洋戦争における二十一駆の初動は昭和17年1月ダバオ(フィリピン南部)への燃料輸送団護衛。ここでは長良揮下でバリ島沖海戦に参戦している。以後、南方攻略戦の上陸部隊輸送護衛にもっぱら従事する。

 5月ミッドウェー海戦の支作戦であるアリューシャン列島攻略作戦の艦隊が編成され、アッツ島攻略戦に参加。7月5日、二十一駆は「子日」を潜水艦攻撃によって失う。
7月以降、北方部隊は大千島列島のひとつ)を拠点アリューシャン方面への出撃・兵員物資輸送を頻繁に繰り返すが、同時期に南方ではガダルカナル島をめぐる消耗戦に引きずり込まれており、もともと兵力が薄い北方の戦線維持は、徐々に困難になっていく。(この間、第五艦隊付属として開戦前からの損傷修理を終えた吹雪型駆逐艦「薄」が二一駆揮下に加わった。昭和18年3月まで。)

 昭和18年3月重巡那智」など力での護送団による輸送作戦を行っていた北方部隊は、3月26日未明に艦隊と遭遇。アッツ島戦となる。
この戦で日本側は損を恐れて揮が消極的になり、「初霜」も遠距離から雷撃を行うに留まる。輸送作戦は中止され、艦隊の細萱子郎官は更迭された。

 私が、守ります!

「奇跡の作戦」

キス作戦中、「初霜」と衝突事故を起こして戦線離脱した「若葉

 5月末、アッツ島は玉砕。残ったキスカ島からの撤退計画が立てられ、7月末、木村昌福少将の果断な揮によってキスカ撤退は成功する。「初霜」は2回作戦中、濃霧で僚艦「若葉」と衝突。損傷の大きかった「若葉」は撤退し、「初霜」は補給艦の護衛にあたった。(「若葉」の図鑑でのセリフはこれに由来。「若葉」座乗の警(21駆)は「島風」に移乗した。)

 北方部隊が実質的任務を終え、「若葉修理中で「初春」「初霜」の2隻となった二十一駆は中部太平洋へ転戦。「ろ号作戦」のための航空機を輸送する「飛鷹」「瑞鳳」「雲鷹」ら空母の護衛任務に従事する。
昭和19年1月、移動中の「瑞鳳」「雲鷹」と二十一駆はサイパン潜水艦攻撃を受け、「雲鷹」が被雷。「初霜」は「雲鷹」を護ってサイパンへ入港し、次いで応急修理を終えた「雲鷹」を横須賀まで護衛した。
6月サイパン米軍が上陸し、海軍は「あ号作戦」を発動。「初霜」は初めて正面力艦隊に編成され、「雪風」「」らとともに第二艦隊のタンカー護衛に当たる。6月19日マリアナ沖海戦となったが、日本機動部隊は大敗。20日、機動部隊の反撃に補給部隊も巻き込まれ、タンカー2隻が沈没となる。ただし、初霜が直掩した「速吸」はマリアナ沖海戦を戦い抜いた。

第五艦隊の旗艦、重巡那智
連合艦隊の行き当たりばったりの作戦導に振り回された

 8月、二十一駆は再び「初春」「若葉」「初霜」の3隻が合同し、もと北方部隊重巡那智」「足柄」・軽巡阿武隈」などによる艦隊(第二遊撃部隊)へ編成。当初はは第一機動艦隊で空母瑞鶴」らを護衛する計画だったが、10月台湾沖航空戦の“ 大戦果 ”を受けて、“ 敗走する米軍 ” を追撃すべく、第二遊撃部隊瀬戸内海を出撃。しかし途中で米軍が健在であることに気づき、奄美大島へ退却する。

 その後台湾へ移った第二遊撃部隊だったが、運用方針をめぐって連合艦隊示が二転三転10月21日、南西方面艦隊の揮下に入ってレイテ湾へ突入することになるが、二十一駆はこれとは別にマニラ航空機機材輸送を命じられて出動する。
しかし24日、輸送を終えて本隊に合流すべく南下中に機動部隊襲に遭い、長らく共に戦ってきた姉妹艦の「若葉」が撃沈。「初霜」も二番に命中弾を受けたため、「初春」「初霜」はマニラへ後退。これにより、レイテ沖海戦の本戦に参戦することはできなかった。

北号作戦の旗艦、戦艦日向
作戦予想外の成功をおさめたが、日本本土へ運ぶことのできた物資は中輸送一隻分にしかならなかったといわれる

 10月31日、「初霜」など駆逐艦6隻・海防艦4隻は、レイへの陸軍強行輸送作戦多号作戦)に参加。ここでまたしても木村昌福少将揮によって作戦は成功。その帰路、「初春」「初霜」は3日前に襲で航行不能となっていた海防艦を救援し、マニラまで航する任務を果たす。
11月13日、マニラで第五次多号作戦のため待機していた艦隊は米軍襲を受け、ここで「初春」が「初霜」のすぐ側で撃沈。この際、攻撃を受け炎上する「初春」の煙が初霜を隠す煙幕となったという。
二十七駆所属の「有明」「夕暮」もすでに、昭和18年7月に相次いで撃沈されており、初春型駆逐艦は、ついに「初霜」一隻を残すのみとなってしまった。(第一水雷戦隊の解散と前後し27駆及び白露型最後の生き残り「時雨」が21駆に加えられたが、時雨初霜との合流を果たすことなく昭和20年1月した。)

 本土へ帰還する戦艦榛名」を台湾まで護衛、潜水艦攻撃で大破して後退する重巡妙高」をシンガポールまで護衛(このため、礼号作戦(ミンドロ戦)には参加していない)。そして昭和20年2月航空戦艦伊勢」「日向」、軽巡洋艦大淀」、駆逐艦朝霜」「初霜」「」による本土帰還強行突破作戦北号作戦)に参加する。
「半数戻ってくれば上出来」と犠牲を覚悟されていた作戦は、襲・潜水艦の脅威にされながらも全6隻が2月20日、輸送物資を持ち軍港へ到着する。「初霜」も魚雷八本を緊急転で回避している。魚雷を迎撃するために撃ちまくられた「伊勢」の高弾も危うく回避。

 一隻でも一人でも、救えるなら私は、それで満足なの

坊ノ岬の幸運と、終戦間際の不運

特攻隊旗艦、戦艦大和
・・・特に特攻隊を編成 壮の突入作戦を命じたるは 帝国海軍力をの一戦に結集し ある帝国海軍部隊の伝統を発揚すると共に 其の栄を後昆に伝へんとするに外ならず・・・

 3月18日軍港襲を切り抜けた「初霜」は、第二艦隊の第二水雷戦隊へ編成。4月6日、第二艦隊は瀬戸内海を出撃し、沖縄へ向かう(天一号作戦戦艦大和」の特攻)。

 「大和」と行動を共にするのは軽巡洋艦矢矧」と、駆逐艦冬月」「涼月」「磯風」「浜風」「雪風」「朝霜」「初霜」「」の8隻。護衛駆逐艦の中でも性が劣り、また艦長の酒匂少佐若さに配慮して当初は形の中でも安全な場所に位置していたが、7日の機動部隊の攻撃を受け形が乱れた後は、「初霜」は通信機器を破壊された「大和」のすぐ側に寄り、通信代行を務める。

 「大和」をはじめ6隻が撃沈となる中、艦隊中最古参で、かつて「失敗作」とも言われた「初霜」の被害「至近弾以外は一発も被弾せず、死者なし、負傷者2名」というわずかな損で切り抜ける。
米軍の攻撃は大艦である「大和」、また「矢矧」を優先して狙ったために、それが小さな「初霜」に対する一種のくらましになっていたこと、開戦後からさほど大きな被害を受けたことのない「初霜」は、乗員の欠損がなく練度と連携の円滑さが非常に高いものになっていたこと、酒匂艦長の「敵機が上に来た間を狙って全速力を出す」といった優れた操技術などといった要素が功を奏した結果だった。

第二十一駆逐隊の僚艦「」。
彼女もまた、多くの作戦で生き残った名艦だった。
坊ノ岬沖海戦で航行不能になり雷撃処分。

 その後は沈没した「浜風」の生存252名、「矢矧」乗艦の第二水雷戦隊の古啓蔵官など生存者を救助。「初霜」は部からの「作戦中止」の命を受け取り、佐世保へ帰投する。
またその際、大破して辛うじて航行する「涼月」と遭遇。磁気羅針儀が壊れていたため手旗信号で二度針路修正を手伝ったという。(その甲斐もあってか、「涼月」は奇跡の生還を果たす。)

 駆逐艦」・「朝霜」との寄せ集め編成となっていた第二十一駆逐隊は、両艦が撃沈されたため「初霜」一隻になってしまい、5月10日付で解隊。「初霜」は、4月20日付で同じく「雪風」のみを残すだけとなっていた第十七駆逐隊へ異動する。
同日、長らく海軍においてエリート戦隊といわれた第二水雷戦隊も解隊。解隊の官訓示と儀式が行われたのは、古官を救助して一時的に二戦の旗艦となっていた「初霜」の艦上だった。

 「初霜」は「雪風」とともに佐世保から舞へ移動、次いで舞湾の隣の宮津湾へ移る。しかし湾口を米軍の投下機雷に封鎖され、湾外へ出られなくなってしまう。
 7月30、宮津湾を米軍機空襲。「初霜」「雪風」とともに抜錨し、限られた湾内で回避行動を取る。
初霜」は爆弾ロケット弾の直撃はなかったが、機掃射により酒匂艦長が重傷、その他多くの死傷者を出してしまう。そのため「雪風」からの示で陸への接近を行う。
その最中、「初霜」は機雷に接触してしまい、艦尾で大爆発を起こしてしまう。更にもう一度、機雷か爆雷かは不明だが爆発を起こし「初霜」は艦尾から沈み始めてしまう。

昭和20年7月30日、歴戦の初春型駆逐艦は大破座礁という形でその戦いを終えた

 沈み始めた「初霜」だったが、酒匂艦長も多くの弾丸を身に浴びながら、これ以上の犠牲者を出すまいと揮を続け、「初霜」は最後の力を振り絞るかのように獅子崎付近の浅瀬で擱座した。死者15名、負傷者100名。
 南はフィリピ・シンガポールから、北の果てアリューシャンまでを戦い抜き、「キスカ島撤退作戦」「北号作戦」「天一号作戦」を経験した強運の駆逐艦は、終戦わずか2週間前に実質的没となった。
 昭和20年9月30日付で除籍。終戦からしばらく経過した昭和26年頃に、曳航されて解体処分されたとみられる。

 「初霜」の最後は「沈没」とされることもあるが、大破し艦体の半分が沈みつつも座礁して形を保っており、戦後解体処分されているため、沈没定義を「艦が中にした状態」とするならば、そぐわない表現とも言える。
(外部リンク 「初霜」終戦時の状態写真あり)exit

 東京墨田区山田記念病院に、「初霜」の錨が保存・展示されている。これは病院の設立者・山田正明氏が「初霜」勤務の軍医少佐だった縁で同艦解体後に入手、記念品としたものである。同病院シンボルマークも錨。
 感情過多な表現かも知れないが、艦娘としての「初霜」の台詞に「何かを守る」という趣旨のものが多いのも、病から多くの人を守る病院で静かに余生を送るが故かもしれない。

 戦記『戦艦大和ノ最期』における「初霜」救助艇の件

(外部リンク) 海兵73期 松井一彦 「戦艦大和ノ最期」の真実exit
(外部リンク) 「戦艦大和ノ最期」救助艇状況描写の検証exit

 元・戦艦大和」乗組員・吉田満による著名な戦記『戦艦大和ノ最期』において、撃沈された「大和」乗員の救助にあたった「初霜」救助艇について、以下のような描写がある。

用意ノ日本刀ヲ払ヒ、メク(ひしめく)腕ヲ、手首ヨリバッサ、
バッサトリ捨テ、マタハ足蹴ニカケテ突キ落トス

 救助艇が満杯になったのに、次から次へと人がべりに手をかけてきて転覆しそうになるので、「初霜」の隊員が軍でもってそれらの人々の手首を切り落とし、足で蹴り落としたというのである。なおこの文はGHQ検閲により何度も書き直しをさせられたものである

 当然ながら、この記述を知った「初霜」の元・乗組員や海軍関係者の反発・反論はしいものがあったが、『戦艦大和ノ最期』は昭和27年の初出版以降、“悲劇の戦艦大和”を世に知らしめた作品として第一級の評価を受けつづけ、映画テレビドラマ原作にも採用された。

平成17年朝日新聞人語」が戦争の悲惨さを表す逸話としてこのことを取り上げたところ、産経新聞が「初霜」元・乗組員の反論文を掲載した。
 元・乗組員の松彦氏によると、松井氏が『最期』著者・吉田氏に、刀の件は事無根として記述の削求めたところ、吉田氏は検討するという意味のことを手紙で述べたらしいが、結局それ以後の版でも削除や改定がなされないまま吉田氏は亡くなってしまったという。
 また別証言によると吉田氏は、『最期』はノンフィクションではないから、全部が全部事実を書いたものではない、というようなことを言ったという。

初霜」元・乗組員や他の関係者(「雪風」元・乗組員など)たちは様々に、軍の件が事実根であることを述べてきたが、『戦艦大和ノ最期』が「大和特攻の“真実”を描いたものだという認識が根強いこと、加えて「あの当時の日本軍ならやりかねない」という一方的レッテルもあり、依然として「初霜」救助艇がそのような行為に及んだという認識は、払拭されていないのが現状のようである。

 関連動画発見です!


ドロンの人による初霜主人公の作品。初霜姉妹仲間たちの物語
あり燃える展開あり飯テロありの三拍子った珠玉の作品。


初霜役のMMD作品。なお、姿は見えない・・・

ゆっくりを使った初霜史実解説作品。

 関連静画なら、任せてね♪

改装前

改装後

MMDモデル

 関連項目ですよ

初春型姉妹 / 初春型駆逐艦
1.初春 - 2.子日 - 3.若葉 - 4.初霜 - 5.有明 - 6.夕暮

脚注

  1. *その後、英国幸運艦Warspite」「Jervis」の実装により初期値4位となる。
  2. *長門改は運初期値の上方修正が入るメンテの前までに運99にしていた場合のみ、限界値の99をえて101になるがこれは例外と言っていいケースであり、今から長門の運を改修しても99で止まる。2016年8月に最大値「109」の戦艦ウォースパイト2017年5月に「108」の長門改二2018年2月実装Jervis改「110」が加わったため、総合4位になっている。
  3. *ルンガ沖夜戦長波改二礼号作戦霞改二
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