フェルナンド・トーレス単語

フェルナンドトーレス
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フェルナンド・トーレスFernando José Torres Sanz, 1984年3月20日 - )とは、スペイン師匠プロサッカー選手である。

アトレティコ・マドリードリヴァプールチェルシーなどでプレーし、2018年から2019年まではJ1リーグサガン鳥栖に所属。2019年8月23日をもって現役を引退

186cm78kg。ポジションはFW。利き足は右足。

概要

マドリード州のフエンラブラダ出身。称はエル・ニーニョ。インターネット上での称は師匠。最近は勝者とも呼ばれている。186cmと背が高く、スピードテクニックに優れている。トラップに関しては何も言わないであげてください。

アトレティコ・マドリーのユース育ちで15歳プロ契約。以来アトレティコ・マドリー徴的な選手だったが、2007年イングランドプレミアリーグリヴァプールに移籍。移籍1年にもかかわらずリーグ戦で24得点を記録し、端正な容姿も相まって大注される。

2010年1月イングランドプレミアリーグチェルシーへ移籍。移籍5000万ポンド。額が額だけに大活躍が期待されたが中々ゴールできず、チェルシーでのデビューから10試合にしてようやく初ゴール。時間にして903分15時であり、クラブのワースト記録となった。以降鳴かず飛ばずで師匠と揶揄されるまでに至っている。どうしてこうなった

2011年9月19日に行われたプレミアリーグ第5節のマンチェスター・ユナイテッド戦では、83分に味方からのスルーパスに反応。フェイントGKまでかわし、あとはボール人のゴールへ押し込めばいいだけの場面でトーレスの放ったシュートは枠外へexit_nicovideo。トーレスが全にネタキャラとなった間であった。

2013年には、チェルシーUEFAヨーロッパリーグ優勝に導き、これでヨーロッパの代表チームの2大タイトルであるワールドカップEURO、さらにヨーロッパクラブの2大タイトルであるUEFAチャンピオンズリーグUEFAヨーロッパリーグをすべて制した、現在の方式になって初めての選手となった。なおフアン・マタも達成している。なんならペドロ・ロドリゲスCLとELの決勝両方でゴールを決めている。

経歴

生い立ち

マドリードの労働者階級ので生まれ育ち、家族を大切にし、年長者を敬うように育てられた。祖アトレティコ・マドリードファンであったアトレティコファンになり、5歳のときにパルケ84というクラブに入団し、サッカーを始める。当初はと同じゴールキーパーだったが、を折った怪をしたときに母親からキーパーを辞めるように言われたことでFWにポジションを移す。

10歳のときにラージョ13の11歳以下のチームに移ると才が開し始め、1シーズン55ゴールを決める大活躍を見せる。これにより、同じチーム仲間二人とともにアトレティコトライアルを受け、合格する。

ちなみに、幼少の頃は日本アニメキャプテン翼』のをかなり受けている。

アトレティコ・マドリード時代

11歳になった1995年アトレティコ・マドリードの下部組織に入団し、アレビン(11歳から12歳カテゴリー)に所属する。その後も順調に成長を見せて下部組織のカテゴリーを昇格していく。1998年には、イタリア内外のUー15世代のクラブが争うナイキ・カップに出場。バルセロナACミランユヴェントスを破ってタイトルを獲得し、大会最優秀選手に選ばれる。その後、この年代の欧州最優秀選手に選出され、エリートというユース年代の日々を過ごす。

1999年15歳にしてアトレティコプロ契約を交わし、最初のシーズンはユースチームプレー16歳のときにトップチームに昇格。背番号は「9」を与えられ、クラブからの期待の大きさを物語っていた。当時、アトレティコはセグンダ・ディビジオンに所属していたが、脛の怪に苦しんだこともあり、2000年12月まで欠場。2001年5月27日のレガネス戦に途中出場し、17歳プロデビューを果たす。しかし、チームプリメーラ・ディビジオンへの昇格を逃す。

2001-02シーズンには、後にスペイン代表で共に戦うことになるルイス・アラゴネス監督が就任。才を買われて出場機会が増えるようになる。成績は36試合に出場して6得点というものだったが、チームはセグンダ・ディビジオン優勝を遂げ、プリメーラ・ディビジオンに昇格する。

初めてトップリーグカテゴリープレーすることとなった2002-03シーズンにいよいよ頭を現す。チームは昇格1年ということもあって低迷するが、自身は29試合に出場してチーム最多となる13得点を記録。アトレティコプリメーラ残留に貢献し、新たなクラブ徴として期待を集める。

2003-04シーズンは、19歳にしてチームキャプテンに任命される。名物会長と呼ばれ、悪名も高かったヘスス・ヒル会長が退任し、新たなサイクルに入ったアトレティコは、台頭してきた若きエースを中心にチームを作ることとなる。大きな責任を背負うこととなったトーレスだが、より一層の奮起を見せ、ゴールを量産。最終的に得点ランク3位に入る19ゴールを決め、チームも7位でシーズンを終える。この頃から「神の子エル・ニーニョ)」という呼び名が定着し、リーガ・エスパニョーラを代表するストライカーとして認知される。

2004-05シーズンは、初の欧州舞台でのプレーとなるUEFAインタートトカップに出場。準化粧のOFKベオグラード戦では、1ゴールずつを決める。しかし、決勝でビジャレアルに敗れ、UEFAカップ出場権を逃す。チームは例年よりもく始動したこともあってリーガでは不振が続くが、自身は少ないチャンスを逃して16ゴールを決める。アトレティコ徴となったトーレスに対し、ビッグクラブ触手を伸ばすようになり、2005年オフにはイングランドチェルシーが獲得に乗り出したが、エンリケ・センソ会長は「ノーチャンス」とこれを跳ね除けている。

2005-06シーズンクラブは大補強をおこない、アルゼンチンの名将カルロスビアン監督が就任し、期待を集めるが、チームは開幕から低調な出来が続く。自身も好不調の波のあるシーズンとなり、マキシロドリゲスが離脱した後は前線で孤立することが多くなる。それでも、13ゴールを決めるが、不満の残るシーズンとなった。

2006-07シーズンは、鳴り物入りで入団してきたアルゼンチンの新セルヒオ・アグエロと2トップを組むこととなる。2006年10月1日レアル・マドリード戦でゴールを決め、これまで一度もゴールを決めたことがなかった苦手のマドリード・ダービーで初めてゴールを決める。このシーズンは、PKの失敗が多かったが、最終的には15ゴールを記録し、プリメーラ昇格後5シーズン連続での二桁得点を達成。もっとも、チームはトーレスとアグエロの強2トップを活かし切れず、7位でシーズンを終了。2007年5月ホームFCバルセロナを相手に0-7と屈辱的な大敗を喫したことで、移籍を決断する。

リヴァプール時代

2007年7月4日マドリード記者会見を開き、イングランドプレミアリーグリヴァプールFCへの移籍を発表。するアトレティコサポーターに別れを告げる。リヴァプールは、アトレティコと同様に以前から応援していたクラブであり、当時スペイン代表のチームメイトであるシャビ・アロンソホセ・マヌエル・レイナが所属していることも決め手となった。背番号は、クラブレジェンドであるイアン・ラッシュが付けていた「9」となった。

8月11日アストン・ヴィラ戦でデビューを果たすと、8月19日アンフィールドでのチェルシー戦で前半16分に移籍後初ゴールを記録。シーズン前にあった懐疑的なをすぐに吹き飛ばし、飛ぶを落とす勢いでリヴァプールエースストライカーとしての地位を手にする。2008年2月23日のミドルブラ戦でハットトリックを達成。さらに2週間後の3月5日ウェストハム戦でもハットトリックを決める。結局、2007-08シーズンは、得点ランキング2位タイとなる24ゴールを記録。ルート・ファン・ニステルローイが保持していたプレミアリーグ初年度の得点記録を塗り替える大活躍となった。また、初挑戦となったUEFAチャンピオンズリーグでも、グループステージ初戦のFCポルト戦で2ゴールの活躍。2008年4月8日の準々決勝アーセナル戦では、2nd legでゴールを決め、チームを2シーズン連続でのベスト4進出へ導く。CLでも2位タイとなる6ゴールを記録。公式戦33ゴールを記録するキャリアハイシーズンとなった。

2年となった2008-09シーズンも開幕戦のサンダーランド戦で決勝ゴールを決め、順調なスタートを切った。だが、第3節のアストン・ヴィラ戦でハムストリングを負傷して離脱すると、このシーズンハムストリングの負傷を何度か繰り返す、怪に苦しむシーズンとなる。2008年10月22日にはCLで古巣アトレティコ・マドリードと対戦し、ビセンテ・カルデロンに凱旋するチャンスかと思われたが、負傷のために欠場となる。それでも、稼動していれば結果は残しており、マージサイドダービーマンチェスター・ダービーの両方でゴールを決め、CLでは2009年3月10日アトレティコ時代に苦手としていたレアル・マドリードとの1st legで先制ゴールを決め、ベスト8進出に貢献。2位に終わったものの、マンチェスター・ユナイテッドとのし優勝争いを演じたチームにあって、エースとしての仕事は全うした。

2009-10シーズンは、シャビ・アロンソレアル・マドリードへ移籍したこともあり、トーレスとスティーブン・ジェラードへの依存度が強いチームとなる。2009年9月ウェストハム戦の2ゴールハル・シティ戦のハットトリックゴールを量産。12月29日アストン・ヴィラ戦でのゴールによってクラブ速記録となるプレミアリーグ50得点に到達。しかし、2010年4月に膝を負傷し、手術を受けることになったため一足シーズンが終了。リーグ戦の出場は22試合にとどまったが、それでもチーム最多となる18ゴールを決め、公式戦トータル22ゴールを記録している。

2010-11シーズンは、ラファエル・ベニテスからロイ・ホジソンに監督が代わり、イングランド式を導入するチームの中で孤立することが多くなりながら、結果は残していた。一方、経営が悪化していたリヴァプールは、フロントが変わり、資繰りのためエースであるトーレスをに売却することを決断する。一方、トーレスもシャビ・アロンソハビエル・マスチェラーノといった放出し、競争を失っていたチーム限界を感じ、移籍に心は揺れていた。

チェルシー時代

2011年1月31日という移籍マーケット最終日にチェルシーFCへの電撃移籍が発表される。移籍は当時のプレミアリーグ最高額となる5000万ポンドとされる。突然ライバルクラブへの移籍はリヴァプールサポータからの怒りを買い、「裏切者」と揶揄されることとなる。2月6日につい1週間前まで所属していたリヴァプール戦でデビューを果たすが、ここから今までのキャリアで経験したことのないスランプに陥り、デビューから初ゴールを記録するまで903分間もの時間を費やすこととなる。2010-11シーズン通算の得点数は10ゴールとなり、4年連続で二桁ゴールを達成するが、チェルシー移籍後の得点数はわずか1にとどまった。

2011-12シーズンも苦難の日々が続き、チェルシー自体が不調に陥っていたこともして、ゴール数が伸びず、メディアサポーターからの批判が強まっていく。リヴァプール時代のシャビ・アロンソジェラードのような裏への一発のパスを出すタイプの中盤がいないチェルシースタイルとトーレスのプレースタイルが合わず、ロベルト・ディ・マッテオ監督が就任してからはスタメンから外れるようになる。結局、プレミアリーグでは33試合6得点に終わってしまう。その一方、CLでは準決勝のバルセロナ戦の2nd legで試合終了間際にカウンターからバルセロナを沈めるゴールを決め、当初の下評を覆す勝利に貢献。決勝のバイエルン・ミュンヘン戦では後半39分から出場し、初のビッグイヤーを経験。

2012-13シーズンに入ってもゴール欠乏症は続き、2012年11月リヴァプール時代の恩師であるラファエル・ベニテス監督が就任するが、状況がさほど好転することなく、エル・ニーニョの地位は全に凋落していた。結局プレミアリーグでは8得点に終わり、2シーズン連続で二桁ゴールに届かず。一方、決勝ラウンドから出場することとなったUEFAヨーロッパリーグでは、準々決勝のルビン・カザン戦で2試合3得点の活躍、準決勝のバーゼル戦でも2nd legで重なアウェイゴールを決めている。さらに、2013年5月15日おこなわれたベンフィカとの決勝でも、後半15分に先制ゴールを決め、EL優勝に貢献。ELでは7ゴールを決める活躍を見せ、タイトル獲得の立役者となっている。

ジョゼ・モウリーニョ監督が就任した2013-14シーズンは、シーズンの前半戦はFWのファーストチョイスという扱いだった。2013年10月27日マンチェスター・シティ戦で勝ち越しゴールを決め、CLシャルケ戦で2ゴールを決めるなど、一時は復活予感させたが、それも長くは続かず。サミュエル・エトーが加入して以降は再び控えのFWという序列に降格する。膝の負傷によって戦列を離れ、コンディションを落としたこともあってモウリーニョ監督からの信頼を失い、プレミアリーグでは5得点に終わる。

2014年チェルシージエゴ・コスタが加入したことでトーレスの立場はさらに危ういものとなり、2014-15シーズンの開幕戦はベンチ外という扱いになっていた。モウリーニョ監督の構想外となったことに危機感を募らせ、状況を変化させるために移籍を希望する。

ミラン時代

2014年8月29日イタリアセリエAACミランへのレンタル移籍が発表される。に移籍したマリオ・バロテッリの後釜として期待され、移籍2試合となった9月23日のエンポリ戦で初ゴールを決める。しかし、これがイタリアで決めた一のゴールとなった。その後は、コンディションが安定せず、ベンチを温める機会が増え、試合に出場しても精を欠いていた。結局、ミランでの日々はわずか半年で終了することとなる。

アトレティコ・マドリード時代(第2次)

2014年12月29日古巣であるスペインリーガ・エスパニョーラアトレティコ・マドリードへの復帰が発表される。2015年1月5日に一度ミラン全移籍し、アトレティコレンタル移籍するという形での契約となった。1月7日のコパ・デルレイ5回戦レアル・マドリード戦で7年半ぶりにアトレティコの選手としてピッチに立ち、1月15日2nd legでは2ゴールを決める活躍を見せる。かつて在籍したときと違い、欧州を代表する強クラブとなったアトレティコで絶対的なレギュラーとはいかないまでも、クラブ徴としての存在感は絶大だった。

2015-16シーズンは、マリオ・マンジュキッチがユヴェントスへ移籍したことに伴い、背番号を19から慣れ親しんだ「9」に変更する。しかし、FWにも守備の規を厳しく要するディエゴ・シメオネ監督のもとで適用に苦しみ、シーズン前半戦は2ゴールのみに終わる。リーガ第24節のエイバル戦で4カ半ぶりとなるゴールを決め、これがアトレティコでの通算100ゴールとなる。後半戦に入ってからはシメオ監督がコンディションを考慮した起用法をしたことで調子が上がり、最終的に11ゴールを記録。自にとって5年ぶりの二桁得点到達となる。また、CLでは、準決勝のバルセロナ戦の1st legで勝ち抜けのきっかけとなる重なアウェイゴールを決め、決勝進出に貢献。決勝のレアル・マドリード戦では120分間フル出場するが、PK戦では自身の出番が回ってくる前に敗れる。それでも復活を印付けたシーズンとなった。

前のシーズンでの活躍が認められ、2016-17シーズンからは全移籍という形になる。シメオ監督は、4人のFWのうちアントワーヌグリーズマン以外の3人をコンディションや状況に合わせて使い分ける方針を採っていた。バルセロナレアル・マドリードとの三つ優勝争いを繰り広げていたが、2017年3月2日のデポルティーボ・ラ・コルーニャ戦で浮き球を処理しようとしたときに相手選手としく交錯。落下の際に顔面を強打し意識を失ってしまう。幸いにも、速な処置が取られ、すぐに病院へ搬送されたため大事には至らず、次の日にはSNS更新し、事を報告している。2017年5月27日には、翌シーズンからの移転によりこれが最後の使用となるビセンテ・カルデロンでのエイバル戦に出場し、前半で2ゴールを決める活躍を見せ、慣れ親しんだ本拠地との別れにを添える。

2017-18シーズンは、FWのポジション争いが化し、ベンチからのスタートの試合が多くなる。2017年12月17日のアラベス戦では、途中出場から後半29分に決勝ゴールを決め、新本拠地メトロリターノでの初ゴールを飾る。2018年4月9日2017-18シーズン限りでの退団を表明する。5月19日UEFAヨーロッパリーグ決勝のオリンピック・マルセイユ戦では、試合終了間際に出場し、優勝間をピッチの中で立ち会う。5月19日リーガ最終節のエイバル戦では、11年ぶりにキャプテンマークを巻いて出場。65000人が詰めかけたラストマッチで2ゴールの活躍を見せ、千両役者ぶりを発揮。試合後、退団セレモニーがおこなわれ、クラブアイコンサポーターに別れを告げる。

サガン鳥栖時代

2018年5月30日J1リーグサガン鳥栖への移籍が決定とJリーグ公式サイトが報じるが、これはミスだったためすぐに削除される。その後、トーレスの去就が日本サッカーファンに注され、一度は銭面に隔たりがあったため破断になったと報じられる。しかし、7月30日サガン鳥栖への移籍が正式に発表され、記者会見おこなわれる。背番号は「9」。

2018年7月22日J1リーグベガルタ仙台戦で初出場。攻撃の形が作れず、勝ち切れないチームの中でなかなかを発揮できずにいたが、8月26日ガンバ大阪戦でダイビングヘッドゴールを決め、Jリーグゴールを記録する。降格圏に転落し、J1残留のための起爆剤として11月4日V・ファーレン長崎戦からキャプテンを任される。11月10日ヴィッセル神戸戦では、スペイン代表時代のチームメイトであるアンドレス・イニエスタとの対決が日本で実現する。J1残留に向け勝利められる第33節の横浜F・マリノス戦では1-1の場面で決勝ゴールを決め、J1残留の立役者となる。

2019年からは、異例の5人体制のキャプテンの1人に任命される。しかし、チームは開幕10試合でわずか1得点という深刻な得点不足に苦しみ、低迷。6月21日8月23日イニエスタダビド・ビジャがいる神戸戦を最後に現役を引退することを表明する。引退表明後最初の試合となった6月30日清水エスパルス戦では、2ゴールの活躍でチーム勝利に導く。8月14日天皇杯3回戦柏レイソル戦では、敵からボールを奪って独走し、ゴールを決める。これが現役での最後のゴールとなった。8月23日ラストマッチとなったホームでの神戸戦にフル出場。試合後、引退セレモニーがおこなわれ、キャリアを終える。

引退後は、スペインを拠点としながらアドバイザーとして鳥栖に協をしており、「時間が許す限りは日本にも来るようにしたい」とっている。

スペイン代表

子供の頃から童と呼ばれただけのことはあり、各年代のスペイン代表でプレー。同じ年のアンドレス・イニエスタとは14歳の頃からアンダー代表で共にプレーしている。2001年2月には、U-16スペイン代表としてアルガルヴェ・トーナメントに出場し、優勝5月には、UEFA U-16欧州選手権に出場し、決勝のフランス戦で決勝ゴールを決め、チーム優勝に導くと共に大会得点王にいている。9月には、トリニダード・トバコで開催された2001 FIFA U-17世界選手権に出場するも、初戦の1ゴールのみに終わり、グループリーグで敗退している。

2002年7月には、ノルウェーで開催されたUEFA U-19欧州選手権にU-19スペイン代表として出場。ここでも決勝のドイツ戦で優勝を決めるゴールをあげており、4ゴールで大会得点王にき、大会最優秀選手にも選ばれている。

2003年9月6日ポルトガルとの親善試合で19歳にしてスペイン代表デビュー2004年4月28日イタリアとの親善試合で代表初ゴールを決める。そのまま6月ポルトガルで開催されたUEFA EURO2004メンバーに選ばれるが、最初の2試合は共に途中出場となり、大事な第3戦のポルトガル戦でスタメンに抜されるが、0-1で敗れてグループリーグ敗退となる。

EURO2004終了後、アトレティコ時代の恩師でもあるルイス・アラゴネス監督が就任。ドイツW杯予選では出場機会を増やすと、ベルギー戦で2ゴールサンマリノ戦ではハットトリックを達成するなど、7試合で11ゴールを決め、チーム内得点王となる。

2006年6月ドイツで開催された2006 FIFAワールドカップでは、ダビド・ビジャとの若い2トップで出場。グループリーグ初戦のウクライナ戦でチームの4点となるボレーシュートを決め、初めての試合でW杯ゴールを決める。第2戦のチュニジア戦でも後半31分に勝ち越しゴールを決め、試合終了間際にもPKから2ゴールを決める。結局、ラウンド16でフランスに敗れたものの、ビジャと並んでチームトップの3ゴールを記録し、今後への可性を見せた大会となった。

2008年6月スイスオーストリアの共同開催となったUEFA EURO2008に出場。グループリーグ初戦のロシア戦ではビジャゴールアシストする。この試合で途中交代の際にアラゴネス監督との握手を拒否したことが采配への不満と報道され、批判の対となる。しかし、第2戦のスウェーデン戦で前半15分に先制ゴールを決め、批判を自ら打ち消してみせる。チームが圧倒的なボール支配を駆使して順調に勝ち上がる中、なかなかゴールを決められずにいたが、6月29日ドイツとの決勝では相棒ビジャが負傷のため欠場となり、1トップで出場することとなる。すると、前半33分シャビスルーパスに反応すると、フィリップ・ラームを持ち前のスピードで抜き去り、最後は体勢を崩しながらのループシュートを決める。このゴールが決勝ゴールとなり、スペイン54年ぶりの優勝をもたらす。殊勲のゴールを決めたトーレスは、決勝のMOMに選ばれ、大会のベストイレブンに選出される。また、2008年バロンドロール投票では3位にランクインしている。

ビセンテ・デルボス監督が就任してからは、ゴールを量産するビジャべてやや見劣りする活躍となっていた。2009年6月南アフリカで開催されたFIFAコンフェデレーションズカップ2009では、グループリーグ初戦のニュージーランド戦では、わずか17分間でハットトリックを決める。

2010年6月南アフリカで開催された2010 FIFAワールドカップに出場。4月に右膝を手術し長期離脱していたため出場が危ぶまれていたが、3度ワールドカップ出場を果たす。グループリーグ第2戦のホンジュラス戦からスタメンに復帰するが、膝の怪プレーに精を欠いていた。起用を疑問視するも挙がる中、デルボス監督はトーレスへの信頼を強調する。しかし、その後の試合でも本来の出来とは程遠いパフォーマンスが続き、準決勝のドイツ戦ではペドロ・ロドリゲスにスタメンを奪われてしまう。決勝のオランダ戦では、延長後半から出場し、イニエスタの決勝ゴールに絡んだものの、古傷が再発し、試合終了のホイッスルを待たずにピッチを後にする。スペインW杯優勝という歴史的快挙を成し遂げた中、自身は結局ノーゴールに終わり、不完全燃焼の大会となった。

ワールドカップでの不発に加え、2011年チェルシーへ移籍した後は精を欠く日々が続き、スペイン代表への選出に疑問視するが日に日に増していた。それでも、デルボス監督はトーレスへの信頼を強調し、代表のメンバーとして招集し続けていた。

2012年6月に開催されたUEFA EURO2012では、ビジャが負傷のため欠場となったものの、0トップとして起用されるセスク・ファブレガスとの併用が採用されたため出場時間が限定的なものとなる。それでも、グループリーグ第2戦のアイルランド戦では、前半4分の先制ゴールと後半25分の試合を決める3点という重要な2ゴールを決め、勝利に貢献。決勝のイタリア戦では、後半30分からセスクとの交代で出場すると、後半39分にチームの3点を決め、さらに後半43分にはフアン・マタのゴールアシスト。これにより、史上初めて二度のEURO決勝でゴールを決めた選手となる。

2012年9月7日サウジアラビアとの親善試合に出場し、史上最年少でのスペイン代表出場100試合に到達する。2013年6月ブラジルで開催されたFIFAコンフェデレーションズカップ2013では、グループリーグ第2戦のタヒチ戦で4ゴール1アシストの大暴れ。続くナイジェリア戦でもゴールを決め、通算5ゴールで大会の得点王にき、ゴールデンシューズを受賞。大会のベストイレブンにも選出される。

2014年6月ブラジルで開催された2014 FIFAワールドカップメンバーに選出され、4度ワールドカップを迎える。グループリーグ最初の2試合はいずれも途中出場となるが、結果は残せず、チームも連敗でよもやの2試合でグループリーグ敗退が決まる。敗退が決まった第3戦のオーストラリア戦にビジャと共にスタメンで起用され、後半24分にチームの2点となるゴールを決め、大会初勝利に貢献する。

2014年を最後にスペイン代表からは遠ざかっている。

スペイン代表通算110試合38得点。

個人成績

シーズン クラブ リーグ 試合 得点
2000-01 アトレティコ・マドリード セグンダ・ディビシオン 4 1
2001-02 アトレティコ・マドリード セグンダ・ディビシオン 36 6
2002-03 アトレティコ・マドリード プリメーラ 29 13
2003-04 アトレティコ・マドリード プリメーラ 35 19
2004-05 アトレティコ・マドリード プリメーラ 38 16
2005-06 アトレティコ・マドリード プリメーラ 36 13
2006-07 アトレティコ・マドリード プリメーラ 36 14
2007-08 リバプール プレミアリーグ 33 24
2008-09 リバプール プレミアリーグ 24 14
2009-10 リバプール プレミアリーグ 22 18

2010-11
リバプール プレミアリーグ 23 9
チェルシー プレミアリーグ 14 1
2011-12 チェルシー プレミアリーグ 32 6
2012-13 チェルシー プレミアリーグ 36 8
2013-14 チェルシー プレミアリーグ 28 5

2014-15
ミラン セリエA 10 1
アトレティコ・マドリードloan) プリメーラ 19 3
2015-16 アトレティコ・マドリードloan) プリメーラ 30 11
2016-17 アトレティコ・マドリード プリメーラ 31 8
2017-18 アトレティコ・マドリード プリメーラ 27 5
2019 サガン鳥栖 J1 17 3
2020 サガン鳥栖 J1 18 2

プレースタイル

スピード爆発的な加速が最大の売りのセンターフォワード。相手守備の裏のスペースに、スピードを活かして走り込むのが最も得意なゴールパターンである。185cm長身のため高さも武器であり、ポストプレーレベルも高い。パス回しや組み立てには参加せず、前線から下がることもせず、常にDFラインと駆け引きをしながらプレッシャーを与えるタイプである。現代的なストライカーというよりは、クラシックタイプストライカーと言える。そのため、試合の過程の中ではほとんど顔を出さず、ゴールの局面の一だけで仕事をするタイプである。

1人で局面を打開できるタイプではないため、パサーとの呼吸が合わないとほぼ何もできなくなる。また、組み立てでの貢献が期待できないため、ティキタカの要素が強くなったデルボス監督就任以降のスペイン代表では、前線に走りこむスペースがなくなり、本来のを発揮できなくなっていた。かなりチームを選ぶタイプストライカーのため、チェルシーミランではフィットできないまま終わった。

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フェルナンド・トーレス

41 ななしのよっしん
2018/07/24(火) 00:05:36 ID: l5lyIM/jEa
うむ
マリノスホーム鳥栖戦とか、すごい人数来るね
42 ななしのよっしん
2018/08/22(水) 21:03:46 ID: JGCXA//M4E
天皇杯だけれど初ゴール来たね。
これを呼びにしてドバドバ行きましょう。
43 ななしのよっしん
2018/08/26(日) 20:55:21 ID: JGCXA//M4E
リーグ戦でも初ゴール&初アシスト
整ってきたな。
44 ななしのよっしん
2018/08/28(火) 15:15:33 ID: mykErOExjK
イニエスタよりも日本だと集客よさそうだよなぁ
うちの母親サッカー知識皆無)でもイニエスタは知らないが
スペインだとトーレスシルバだけ知ってる模様
45 ななしのよっしん
2018/09/04(火) 07:28:16 ID: JGCXA//M4E
>>sm33799479exit_nicovideo

トーレス、可すぎか。
あと加藤スペイン語ペラペラなんだな。
コミュニケーション取れる選手がいるとわかってなんか安心した。
46 ななしのよっしん
2019/06/14(金) 12:43:53 ID: I7pa+Rg3ub
リバプール時代がすごかったのにこの記事じゃチェルシー時代が全盛期みたいじゃないかぃ
いやある意味そうなんだけど
47 ななしのよっしん
2019/06/21(金) 16:05:04 ID: Qq7ITiCxoX
師匠もついに引退かぁ……
18年間お疲れ様でした
48 ななしのよっしん
2019/06/23(日) 11:19:29 ID: JGCXA//M4E
アドバイザーとして鳥栖に残ってくれるとか、
その男気にが出てくるわ……
49 削除しました
削除しました ID: 4MoWWyNBVw
削除しました
50 ななしのよっしん
2019/08/24(土) 12:53:49 ID: 9wm4cB1RBJ
引退試合が鳥栖の今季ワーストゲームになっちまうとはな。審判若干神戸寄りだったとはいえ鳥栖は後ろがスカスカだなあ。
でも現地で観てたが点差開いてもあきらめずにチェイスする姿に少し感動したよ。残留できるか危ういと思うけど今までお疲れ様。

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