伊168とは、大日本帝國海軍が建造した海大六型a(伊68型)潜水艦1番艦である。正式名称は伊号第百六十八潜水艦。建造当初は伊68の名称だった。1934年7月31日竣工。ミッドウェー海戦で米空母ヨークタウンを駆逐艦ハンマンを撃沈する戦果を挙げ、一矢報いた艦として有名。1943年7月27日、ラバウル北方で撃沈される。水上で撃沈されたため、潜水艦にしては珍しく戦没日がハッキリしている。撃沈スコアは2隻(2万1445トン)。
概要
ロンドン海軍軍縮条約の制限により巡潜型を多数保有できなくなった大日本帝國海軍は、代用として小型・高速・航続性能に優れた艦隊用潜水艦の開発に着手。前級の海大五型をベースにし、全長7mを延ばして高速性能を確保。縦横舵を大型化し、内殻を外フレーム式に変更して内殻内に燃料タンクを増設。航続距離を長大を図った。南方での長距離作戦を想定し、冷房能力を強化しつつ真水タンクを拡充するなど様々な改良が加えられた。主機には、実用化されたばかりの国産ディーゼル艦本式1号甲8型8気筒2サイクル複動ディーゼルを採用。初の国産ディーゼルだったが良好な性能を示し、水上速力23ノットを記録。当時世界最速の潜水艦はイギリスのテムズ級(22.5ノット)であり、その記録を塗り替えた事になる。電気溶接技術を導入したが、内殻にリベット穴が残ってしまった伊68と伊69は安全潜航深度が70mになっている(3番艦以降は75m)。
速力・航続距離ともにバランスの取れた帝國海軍潜水艦の決定版であり、続く海大六型bや海大七型はこの海大六型aをベースにしている。伊68型は伊68、伊69、伊70、伊71、伊72、伊73の計6隻が建造された。
要目は全長104.7m、全幅8.2m、平均喫水4.58m、排水量1400トン、最大速力23ノット(水上)/8.2ノット(水中)、安全潜航深度70m、乗員68名。兵装は八八式魚雷発射管6門(艦首4門、艦尾2門)、魚雷14本、八八式50口径10cm単装高角砲1門、九三式13mm機銃1丁。
艦歴
1930年度第一次補充計画にて、海大型一等潜水艦として建造が決定。1931年6月18日、呉工廠で起工。1933年6月26日に進水し、式典には海軍兵学校の教官と生徒が参列した。1934年3月26日の全力公試で24.02ノットを記録。そして同年7月31日に竣工し、呉鎮守府に編入された。実用化されたばかりの国産ディーゼルを搭載していたため、安全性が確立されるまで一旦海軍潜水学校の練習艦となる。
1934年9月6日、呉を出港。パラオ方面で機関のテストを行い、無事有用性を証明。以降、帝國海軍の潜水艦には国産ディーゼルが搭載されていく事になった。9月16日に呉へ帰投。1935年10月8日、伊68は伊69とともに第12潜水隊を新編。11月9日に伊70を加え、3隻体制となる。11月15日、第12潜水隊は第2艦隊第2潜水戦隊へ編入。1936年8月28日、潜水艦の前部と後部に注排水装置を搭載する工事を受ける。11月13日に呉工廠にて石井式無菌濾水器を装備。1937年1月20日にタンクベント弁曲圧管系装置の改正工事を受け、4月14日に警笛を新設した。
1937年7月7日、盧溝橋事件の勃発により北支で日本と中国国民党の武力衝突が生起する。元々潜水艦は参加する予定ではなく、第1艦隊とともに佐伯湾で訓練に従事していたが、補助艦艇まで投入している現状で座視すれば士気に関わるとして参加が決定した。7月29日、第12潜水隊は北支部隊に編入。拡大する戦火から在留邦人と財産の保護を命じられ、佐伯湾を出港。7月30日に佐世保へ入港し、第2艦隊主隊と合流して警戒待機に移行。在留邦人が最も多い青島では急速に治安が悪化し、8月4日には国民党軍の便衣兵が巡回中の下士官4名を狙撃して2名に重傷を負わせる青島事件が発生。犯人の逮捕には至らず、また現地の排日活動も激化の一途を辿り、国民党軍も青島方面の軍備を増強するなど不穏な空気が漂っていた。このため帝國陸軍は青島の制圧を企図したA作戦を発令。8月17日、A作戦に呼応して第12潜水隊は旅順への回航を命じられて出港。8月20日に旅順に到着し、翌日裏長山列島に進出する。
8月21日朝、伊68が所属する第2潜水戦隊は第11水雷戦隊と協同で、六連島から大連に向かう第14師団の船団を直接護衛するよう下命される。8月23日午前0時、第14師団を乗せた船団が多度津を出港。潜水母艦迅鯨に護衛されながら大連に向かっていたが、8月25日午前2時にA作戦の中止が下令される。第二次上海事変の勃発で上海方面へ早急に増援を送らなければならなくなった事、その戦況で青島方面にまで戦線を拡大するのは好ましくないとして、中止が下された訳である。代わりに青島からの邦人引き揚げを援護するべく8月28日に裏長山列島を出発、青島の沖合いで警戒を行った。8月31日には大部分の引き揚げが完了。同日23時に帰投を命じられ、裏長山列島に戻った。
9月1日、青島沖で待機していた第14師団を上海方面に転用する事になり、船団が青島を出発。9月3日に船団護衛を命じられ、旅順を出港。翌日輸送船団と合流し、増援を渇望する上海派遣軍に8個船団を送り届けた。9月11日午後に任務を完了、大連にて待機する。第3艦隊司令の長谷川中将は中国沿岸の海上封鎖を宣言し、第三国租借地と青島以外の港を監視する事に。9月24日、伊68は第一封鎖部隊に編入され、旅順を拠点に海州以北の封鎖監視任務に6回従事。11月19日に旅順へ帰投した。第二次上海事変が日本の勝利に終わった11月20日、第一封鎖部隊の任を解かれ、11月24日に佐世保へ帰投。戦線が内陸に移動したため出番が無くなった。
1938年12月15日、第12潜水隊は第3潜水戦隊へ転属。1940年10月11日、横浜沖で行われた紀元二千六百年特別観艦式に参加。
戦争の足音が聞こえ始めた1941年6月1日より内地待機となる。7月25日に中村乙二少佐が艦長に着任。9月、海軍大学校で行われたハワイ作戦の図上演習で第3潜水戦隊はオアフ島を包囲する計画が立てられた。11月5日の御前会議にて12月上旬の開戦が決まり、大本営は大海令第一号を発令。第6艦隊にハワイ及びアメリカ西海岸への潜水艦派遣を命じた。11月10日、第6艦隊は軍隊区分を発令し、伊68は先遣部隊第3潜水部隊に部署。旗艦伊8の指揮下に入った。
11月11日、第12潜水隊はハワイ作戦支援の任を帯びて佐伯湾を出港。南方航路を通って前線基地のマーシャル諸島クェゼリンに向かったが、ハワイ作戦の全容を把握しているのは司令官と首席参謀のみで艦長以下乗組員には知らされていなかった。11月20日に前線基地のマーシャル諸島クェゼリンへ入港。潜水母艦大鯨から燃料補給を受ける傍ら、各潜水艦の科長以上が大鯨に集められ、司令官の訓示と作戦の打ち合わせが行われた。この時に初めてハワイ作戦の意図が知らされ、戦意が大いに盛り上がったとされる。11月23日に僚艦と出港し、12月1日にハワイの300海里圏内へ到達。12月2日、瀬戸内海の戦艦長門から中継された「ニイタカヤマノボレ」の通信を傍受。開戦は避けられない事態となった。12月7日、オアフ島南東の配備点に到着した。
大東亜戦争
1941年
1941年12月8日早朝、オアフ島の近海で息を潜めて南雲機動部隊の攻撃を待つ伊68。やがてハワイ諸島の北方から飛来した攻撃隊が到達、断続的に爆発音が轟いた。午前8時30分、展開中の全潜水艦に対し、港内から脱出してくるであろう敵艦隊の撃滅が下令された。午後12時30分、特殊潜航艇収容のため移動する潜水艦群の穴埋めとして、伊69とともに真珠湾口南のE1哨区への移動を命じられる。航空攻撃により敵の警戒は厳重となり、翌9日夕刻に外側のD哨区へ後退している。12月11日にクェゼリンへの帰投命令を受領して退却を始めるも、12月14日から18日にかけて21回の爆雷投下を受け、致命傷には至らなかったものの多数の電池が破損、後部発射管が浸水し、漏油の被害を受けた。相変わらず敵の警戒は厳しく、バッテリー充電のため夜間浮上するだけでも苦労した。撃沈の恐怖と戦いながら敵の支配圏から脱出した後、中村艦長は修理が必要と判断。12月28日にクェゼリンに寄港して応急修理を受ける。本格的な修理のため内地へ向かう事になり、12月31日に出港。
1942年
1942年1月2日、ミッドウェー付近を航行中に敵機の爆撃を受けて小破するも航行に支障無し。1月9日に呉へ帰投して工廠で修理。1月15日、ハワイ近海で撃沈された伊70が除かれ、第12潜水隊は伊68と伊69の2隻体制となる。1月17日、艦長の中村少佐が戦艦大和に赴き、ハワイ作戦における伊68の深度充電と受けた爆雷攻撃について説明した。出渠後は呉で単独訓練に従事する。1月31日、後に大戦果を挙げる立役者となる田辺弥八少佐が新たな艦長に就任。3月20日、解隊された第20潜水隊から伊71と伊72が編入され、伊68が第12潜水隊の旗艦となって中岡信喜大佐が乗艦。
4月10日、第3潜水戦隊は敵機動部隊への警戒として東京湾東方700海里付近のG散開線への進出を下令される。4月15日、呉を出港して僚艦とともにG散開線へ向かった。ところが4月18日午前7時52分、第二十三日東丸が犬吠岬東方720海里で敵機動部隊発見の緊急電を発信。後の世に言うドーリットル空襲の発生である。直ちに対米国艦隊作戦第三法が発動され、犬吠岬東方410海里の散開線にて索敵を実施。4月20日、四国沖でエンジントラブルに見舞われ、翌日反転。4月26日に呉へ入港して主機械の修理に着手した。
5月20日、伊68は伊168に改名。巡潜型には1~50の数字が、海大型には51~100の数字が割り当てられていたが、巡潜型が50隻以上増産される事になり、数字が足りなくなってしまった。そこで運用中の海大型の数字にプラス100をして命名の余剰スペースを作る事になり、伊68も伊168に改名した訳である。5月21日、ミッドウェー作戦に先立ってキューア島及びミッドウェー島の偵察、その後はミッドウェー東方を機宜行動し天候偵察並びに敵艦船に対する奇襲が命じられた。大任を帯びた事で、とある乗組員が真夜中にこっそり亀山神社を参拝し、作戦の成功を祈った。また望月電機長は水天宮に参詣した際、全員分のお守りを購入した。
5月23日、在泊艦艇から登舷礼で見送られながら呉を出港。柱島を通りがかった時にも連合艦隊から登舷礼を受けた。瀬戸内海から豊後水道に入り、四国や九州の自然に見送られながら太平洋に進出。東進してミッドウェー方面に向かった。5月25日、司令部からミッドウェー島の偵察を命じられ、単独行動に移る。5月30日、ミッドウェー近海で敵飛行艇を発見。6月1日にキューア島近海へ進出し、敵飛行艇の存在と天候情報を通達する。6月2日夜、ミッドウェーの北西からサンド島に向かって接近。翌3日未明、東の水平線上に米粒のような島影が見えてきた。太陽が昇るにつれて輪郭がハッキリ見えるようになり、敵拠点ミッドウェー基地が伊168の前に姿を現した。敵はまだ伊168の存在に気付いていない様子。潜航しながら環礁の北側に移動し、島内を潜望鏡で観察しながら東側、南側へ移動。飛行機格納庫や燃料タンクが立ち並んでいるのが確認できた。最後に西側の湾口に向かい、陸上施設の動静を監視する。潜望鏡を高く上げられないため飛行場を直接見る事は叶わなかったが、それでも数十機の哨戒機が盛んに発進して周囲を警戒しているのが手に取るように分かった。得られた情報を連合艦隊に報告しつつ、偵察を続けながら近海で待機。
6月5日朝、南雲機動部隊から発進してきた攻撃隊がミッドウェー島を空襲。その様子を、伊168は海中から観戦していた。田辺艦長が「潜望鏡一杯に火炎と黒煙が見えた」と評するほど激しい攻撃であり、燃料タンクが爆発して島内は黒煙に覆われた。その一部始終を見ていた田辺艦長が乗組員に伝えると、ドッと歓声が湧き上がった。司令塔にいる航海長や砲術長、伝令員にも潜望鏡を覗かせ、一同手を叩いて友軍の活躍に喜んだ。しかし、ここから雲行きが怪しくなっていく。来るはずの第二次攻撃がいつまで経っても来ないのである。その疑問への解答として、伊168の受信機が「味方空母被弾」の電文を受信した。田辺艦長は困惑した。作戦後の燃料補給はミッドウェーで行う予定になっており、攻略作戦が頓挫すれば補給を受けられなくなってしまう。そうなれば航続距離に優れた海大型でも帰国が危うくなる。言い知れぬ不安が艦内を支配した。
補給の問題に頭を抱えていると、連合艦隊司令部からミッドウェー島の砲撃命令が下された。田辺艦長は「潜水艦に砲撃をやらせるなんて、上層部は血迷ったな」と内心毒づきながらも、命令通りに行動開始。21時54分、イースタン島東方4000mで浮上し、サンド島方面に移動。22時24分、イースタン島南方4000mから航空基地に向けて6発の10cm砲弾を叩き込んだ。被害の程度は不明だったが、アメリカ軍を驚かせるには十分であり、依然上陸の危険性が高いとして緊張を強いた。ゆえに反撃も素早く、戦果を確認する前に飛行場から敵機が飛び立ち、同時に陸上砲台から照射砲撃を受ける。伊168は急速潜航し、サーチライトが向けられた時には海中へ没していた。
6月6日朝、深深度で息を潜めていると突然爆雷攻撃を受けた。ミッドウェー島から出撃してきた敵の駆潜艇に位置を探知され、長時間に渡って海中に押し込められた。激しい攻撃だったが正確さに欠いていたため、損傷軽微で済んだ。夕刻、潜望鏡深度まで浮上して潜望鏡と短波アンテナを出すと、新たな命令を受信した。第1機動部隊の筑摩艦載機が大破漂流中のヨークタウン級空母を発見し、たまたま近くにいた伊168に攻撃命令が下された。ミッドウェー海戦の大敗を取り戻すには、是が非でもヨークタウン級を仕留めなければならない。16時30分、司令部宛てに「本日終始、敵駆潜艇の攻撃の制圧を受けたため受信遅れたり。ただちにトスオ18(ミッドウェー北北東150海里)に向かう」と打電し、早速伊168は行動を開始。燃料の関係から真っ直ぐに針路を取り、16ノットの速力で水上を疾駆する。道中でカタリナ飛行艇に攻撃されたが、急速潜航が間に合って被害は無かった。潰れてしまいそうな重圧の中、田辺艦長は一睡もせずに想定される事態一つ一つに対策を練っていた。極限の緊張下でも乗組員は至って平常であり、あたかも訓練を行っているかのような冷静さを保っている。その様子を見て艦長は「これならやれる」と確信した。望月電機長は事前に買い込んだ水天宮のお守りを全乗組員に配り、天佑神助を祈る。
6月7日午前1時、伊168は目的地点に到達したが、ヨークタウン級空母の姿は無かった。伊168は敵の制圧を受けて長らく命令を受信できない状況にあり、命令発信から受信まで大きなタイムラグがあった。このため命令文にある地点に到達しても、既にヨークタウン級空母は去った後だった。田辺艦長は見張りを立たせ、血眼になって敵空母を探す。空も白み始めた早朝、見張り員が東に黒点を発見。田辺艦長は命令にあった敵空母を判断し、戦闘配置を下令。速やかに潜航して潜望鏡を上げる。ミッドウェー海戦も終わりに近づいた6月7日、周囲に味方がいない中、伊168だけの決戦が始まった。
ヨークタウン撃沈
飛龍艦載機の反撃を受けて大破したヨークタウンは、掃海艇ヴィレオに曳航されて速力3ノットでハワイに向かっていた。右舷には駆逐艦ハンマンが横付けし、排水ポンプを貸与するとともに電力供給源として機能。ヨークタウンは大破こそしていたが、昼夜兼行の応急修理により自力航行が可能になる寸前まで回復しており、沈む気配を感じさせない逞しい姿は乗組員に安堵感をもたらしていた。このままでは逃げられる恐れがある。しかしヨークタウンの周辺には6隻の駆逐艦が円を描くように二重の警戒網を強いており、接近は困難を極めた。加えて海はさざ波一つ立たない鏡面のようになっていて、潜水艦の襲撃に適さない。潜望鏡を発見される危険性が高いからだ。まさに全ての面において伊168が不利と言えた。
数回の潜望鏡観測によって敵はヨークタウンを中心に1000mの距離で二段の警戒駆逐艦を配している事を掴んだ田辺艦長は、推進器を停止して潮流だけで移動するという策に出た。深度45m、水中速力3ノット(時速6km/h)で隠密裏に接近する伊168。発見されれば容易く撃沈されてしまうだろう。敵の警戒陣に進入すると、聴音機のレシーバーを介さなくても敵艦のスクリュー音が聞こえてきた。再び潜望鏡を上げた時、ヨークタウンとの距離は1万5000mであった。やがて敵駆逐艦からソナー音が聞こえ始め、艦内では対爆雷防御が取られて防水扉が閉められた。艦は5つの区画に分断されて孤立した。
ヨークタウンは左舷に傾いていたので、艦長は左側からの攻撃を考えたが、敵の警戒厳しく断念。右舷から雷撃を仕掛ける事とした。午前9時37分、敵陣の真っ只中で潜望鏡を上げてみると、ヨークタウンとの距離は500mにまで迫っていて、山のように大きく感じられた。作業している敵兵の顔まで窺い知る事が出来る。ここから雷撃しても魚雷が艦底をくぐって外れてしまう恐れがあるため、田辺艦長は冷静沈着に「360度回頭」と命じ、乗組員を驚かせた。要するに警戒中の駆逐艦の真下をぐるりと一周回転するのである。直ちに右へ転舵し、速力を4ノットに上げて最適な雷撃位置を探す。すると、しきりに鳴り響いていたソナー音が止まった。田辺艦長は「敵のソナー当番が昼食を取るために休んだな」と冗談を言って艦内を和ませた。ソナーが止まった事で敵の対潜網に大穴が開き、伊168の行動に幾許かの自由が生まれた。午前10時5分、潜望鏡を上げてみると距離約900mの位置に居て、しかもヨークタウンは右舷の横っ腹をこちらに向けている。絶好の雷撃位置だ。田辺艦長の「発射始め、用意…撃て!」の声が響いた。まず2本が発射され、3秒後に2本を重ねるように発射した。通常であれば魚雷は扇状に放つのが基本だが、1本目が直撃して穴が開いた所に2本目を突入させ、内部で炸裂させるという意図があった。放たれた魚雷は真っ直ぐにヨークタウンへと伸びていく。
波を蹴立てて迫り来る4本の雷跡に、最初に気付いたのはハンマンだった。横付けを離しながら爆雷を用意し、備砲で魚雷を射撃するが、全てが手遅れだった。2本がヨークタウン(1万9800トン)の右舷に、1本がハンマン(1570トン)に直撃。1本はヨークタウンの艦尾後方をすり抜けた。息を吹き返す寸前だったヨークタウンは致命傷を受ける。格納庫甲板の補助発電機や備品を全て破壊され、生じた破孔から大量の海水が流入、機関室は破壊し尽くされた。皮肉な事に浸水の影響で傾斜が26度から17度に回復したが、もはや曳航は不可能であり、総員退艦命令が下された。一方のハンマンは被雷の4分後に弾薬庫が誘爆し、船体を粉砕されて轟沈。乗組員は海上に脱出したが、対潜戦闘を見越して爆雷の信管を抜いていた事が仇となり、零れ落ちた爆雷が炸裂して圧死者を出した。こうして伊168は味方空母の仇を取り、ミッドウェーの復讐を成し遂げた。ちなみに伊168はハンマンの撃沈に気付いておらず、気付いたのは戦後の事だった。
伊168でも4回の爆発音を聴音し、遅れて届いた衝撃波が伊168の船体を揺さぶった。大業を成し遂げたと知るや、田辺艦長は思わず力が抜けてその場に座り込んでしまった。喉が引きつって声が出ない艦長を気遣い、部下がコップ1杯のサイダーを差し入れてくれた。しかし、潜水艦はここからが大変だった。雷撃をした事で敵駆逐艦6隻に居場所が露呈してしまった。ヨークタウンを撃沈された敵艦は混乱して周囲を走り回っているが、やがて鋭利な爪牙を剥いて伊168を沈めようとしてくるのは明々白々である。伊168に出来る事は、敵が去るまで待つか振り切るかの二択だけだった。絶体絶命の窮地の中、田辺艦長は思わぬ奇策に出る。伊168の船体を、今にも沈みそうなヨークタウンの真下に滑り込ませて隠れたのである。当時の事を田辺艦長は「沈みつつある敵艦の下に突っ込むということは危険です。兵学校では落第ですよ。沈みよるフネの下に潜る奴がいるか、ということになります。しかし、一か八かそうしなきゃいかんというのが、あの時の状況だったんです」と述懐している。この奇策は見事功を奏した。ヨークタウンの真下は完全にノーマークであり、駆逐艦は雷撃地点を重点的に探していた。思わぬ形でヨークタウンに助けられ、兵学校では愚策とされる行動を伊168は見事上策に昇華させてみせた。
だが、その上策も長くは持たなかった。駆逐艦はソナー探知で伊168の所在を掴み、ヨークタウンの周りを取り囲む。夜の帳が下りるまで時間を稼ぎたい田辺艦長であったが、こうなってしまっては不可能だった。ちょうどヨークタウンから脱出してきた生存者が漂っていたため一時的に爆雷攻撃が封じられたが、救助し終えるといよいよ恐怖の時間が幕を開けた。
雷撃から約1時間後の13時36分、爆雷攻撃が始まった。聴音を頼りに蛇行して回避運動を取るも、前部魚雷室と操縦室が浸水。更に61発目が至近弾となり、衝撃で艦が1m以上跳ね上がって多くの乗組員が天井または床に叩きつけられた。艦内の電灯が消滅するとともに各所から浸水報告が届き、艦前方への浸水が原因で水深60mまでしか潜航出来なくなった。手すきの乗員は米袋を持って後部に移動し、臨時の重しとした。不断の努力により浸水は食い止められたが、電池の破損という最悪の事態が発生。電池は言わば潜水艦の心臓のようなもので、操艦と浮上が出来なくなってしまった。電池から漏洩した硫酸と海水が化合して塩素ガスが発生し、圧搾空気も40kgにまで減少。全乗組員がガスマスクを着用し、暗闇の中で懐中電灯を片手に機関員が苦しみに喘ぎながら電池の修復作業に取り掛かる。しかし爆雷が落ちてくるたびに作業が中断し、伊168は仰角20度の状態で心肺停止となる。6時間近くかけて何とか電池を修復したが、艦内の炭酸濃度は最早限界だった。艦長は日没後2時間は潜航していたかったが、これ以上潜航すれば全員が窒息死してしまう。万策尽きたため危険を承知で浮上、もし敵艦がいれば機銃で刺し違えるつもりだった。
夕日によって朱色に染められた海に、伊168が姿を現した。すぐさまハッチが開けられ、中から飛び出した乗組員が単装砲に飛びつく。幸運な事に、周囲に駆逐艦がいなかった。実は伊168への攻撃中に敵駆逐艦群は別の音源を探知し、そちらに気を取られていたのである。田辺艦長が双眼鏡で周囲を見回していると、10km先に駆逐艦グウィン、ヒューズ、モナガンがいて、伊168の浮上に気付くや否や突撃してきた。伊168はディーゼルエンジンを発動して全速力で水上を疾駆、その間に充電と換気を行い、ヨークタウン撃沈の報告も送った。3隻のうち1隻は引き返したが、残りの2隻が背後から迫る。敵駆逐艦は30ノット以上を出せるのに対し、伊168の最大速力は23ノット。どれだけ速く走ってもいずれは追いつかれてしまう。彼我の距離が5000mに縮まり、敵駆逐艦が発砲。着弾まで後50秒ほど。ここで圧搾空気が80kgに回復。3時間程度の潜航しか出来ないが、田辺艦長は潜航を決意。見張り員たちを艦内に入れ、最後に艦長がハッチを閉めて急速潜航。海中に没するのと同時に頭上で砲弾が炸裂した。まさにギリギリだった。伊168が海に没するのを見た敵駆逐艦は追撃を断念し、悔しそうに爆雷1、2発を撒いて夕闇に包まれつつある海域から去っていった。海中で電動機の修理を行って潜航時間を稼ぎ、15時50分に離脱成功。約13時間に及ぶ苦闘を制した瞬間だった。20時、伊168は月明かりに照らされた海上に顔を出し、新鮮な空気を味わった。
6月8日午前7時1分、ヨークタウンは転覆して沈没した。ヨークタウンとハンマンの撃沈は大敗したミッドウェー海戦における唯一の快報で、伊168が一矢報いた形となった。この戦果はアメリカ西海岸で通商破壊中の伊25や伊26にも届けられている。
生還したとはいえ、伊168にはまだ問題が残っていた。ミッドウェー作戦の中止により給油を受けられなくなり、燃料欠乏状態で遠く離れた故国へ戻らなければならなかった。残りの燃料だけでは母港の呉まで帰れず、やむなく片舷航行で燃料を節約しながら北方に針路を向ける。北海道沖から三陸方面に南下し、最悪の場合は漁船から燃料を分けて貰う予定だったが、6月19日に辛くも呉に帰港。入港時に残っていた燃料は僅か1トンであり、本当にギリギリだった。大勢の人々が集まって勝利した復讐者を出迎え、軍楽隊の演奏で生還を祝してくれた。6月25日に呉を出港し、翌日佐世保に入港。本格的な修理を受ける。7月25日、功労者の田辺弥八少佐が退艦し、後任の中村乙二少佐が二代目艦長に着任した。8月31日に修理が完了。
10月5日、最後の艦長となる中島栄少佐が就任。10月31日、第6艦隊直卒潜水部隊に編入され、瀬戸内海西部で訓練及び輸送実験の命が下される。11月7日に佐世保を出港し、翌日に呉へ入港。敵制空権下での輸送を目的とした潜水艦曳航式物資輸送筒の運用実験に協力する。伊168によって得られた情報は直ちに活用され、前線で行われるモグラ輸送に役立てられた。11月18日に呉へ入港し、再び修理を受ける。
血染めのソロモン戦線に向かう
ガダルカナル島争奪戦は日本側不利の戦況で推移し、同島の将兵は飢餓に苦しめられていた。前々から駆逐艦や潜水艦による輸送が試みられていたが連合軍の包囲網が分厚く、また伊3が魚雷艇の襲撃で撃沈されたため潜水艦輸送を一時中断。しかし戦局の悪化により再開を余儀なくされ、月暗期となる12月26日から輸送を始める事になった。
伊168はガ島方面の応援として12月15日に呉を出港。12月22日に前進基地のトラック諸島へ進出し、現地で第6艦隊第1潜水部隊に編入されてガダルカナル島への作戦輸送を命じられる。12月25日にトラックを出港し、29日に物資集積所のショートランドに到着。ゴム袋に入れた糧食や弾薬を上甲板に満載して固縛し、潜水艦は運送艦に早変わりする。12月30日、ショートランドを出港してガダルカナル島に向かった。
1943年
1943年1月1日夜、敵中を突破して揚陸地点のカミンボに到着。潜望鏡から発光信号を送って陸上の友軍と連絡を取り、岸から大発動艇に乗った陸兵が出発。伊168に横付けして乗組員と陸兵が協力してゴム袋を大発に移乗させる。糧食15トンを積載したところで米魚雷艇2隻が出現し、6割程度で揚陸中止。撃沈された照月の生存者60名を収容したのち帰路につき、1月3日にショートランドへ帰投した。しかし漏油が酷かったため内地での修理を命じられ、翌日出発。トラックを経由して1月14日に呉へ帰港。入渠整備を受ける。
霧と氷の北洋を進む
その頃、アリューシャン列島方面ではアメリカ軍がアムトチカ島に進出し、列島西部への圧力を強めていた。これに対し大本営はアッツ、キスカ、セミチ島を中心とする要地群の形成を企図。陸上飛行場用資材等の輸送を行い、3月には防備を開始する計画を練った。同時にソ連に対する備えも急務であり、連合艦隊は北方部隊の増強に着手。
2月1日、第12潜水隊を第6艦隊から外し、北東海域の警備を担当する第5艦隊に転属。2月22日に呉を出港し、2月25日に横須賀へ到着。しばらく警戒待機を行ったのち、3月5日に横須賀を出発。3月10日に北東方面の策源地である幌筵島片岡湾に進出した。アリューシャン方面の戦況も日に日に悪化の一途を辿っており、2月に入ってからは空襲だけでなく敵水上艦艇の出現も認められるようになった。陸軍輸送船あかがね丸の沈没により、北方部隊は幌筵に近いアッツ島までは水上艦で輸送し、アラスカ側のキスカ島へはアッツから潜水艦で輸送する事に決めた。
3月13日午前9時、幌筵を出港。3月15日にアッツ島ホルツ湾へ寄港し、現地で弾薬を積載して同日中にキスカを目指して出港した。3月17日17時27分、キスカ島の東方10kmで敵潜水艦S-32から雷撃を受け、3本の魚雷が伸びてきたが回避に成功。17時36分まで追跡を受けるも、S-32の聴音手が撃沈したと勘違いしたため引き揚げていった。翌18日17時30分にキスカ湾へ到着、積み荷の弾薬と糧食6トンを揚陸した。同日中にキスカを出発し、アメリカ軍が進出したアムチトカ島南方で索敵と哨戒を行う。3月27日に生起したアッツ島沖海戦の影響で水上艦での輸送が断念され、輸送任務に従事するのは潜水艦のみになってしまった。また北方部隊の約半分が整備のため横須賀に後退し、残った水上艦が軽巡洋艦多摩、阿武隈、駆逐艦薄雲、電のみと戦力が手薄になった事も一因と言える。このような状況から北方部隊は3月30日、潜水艦にアッツ・キスカ間の反復輸送を命じた。4月1日にキスカへ立ち寄り、輸送が困難になる未来を見越してか自艦用の食糧6トンを供出し、傷病兵と第452海軍航空隊要員を乗せて同日出港。4月5日に幌筵へ帰投した。
4月10日正午、幌筵を出港して再び輸送任務に従事。4月13日にアッツへ寄港して弾薬を積載し、同日出港。4月15日17時30分にキスカへと到着したが、4月に入ってから同島は敵の激しい空襲を受け続けていた。このため陸軍北海守備隊司令部を後方のアッツへ退避させる事になり、伊168に乗艦。同日20時に出発し、4月17日16時30分にアッツへ入港して司令部を揚陸させたのち糧食5トン、弾薬、郵便物を積載して出発。4月19日16時30分に再度キスカに入港して物資を揚陸する。キスカ出発後はアッツに向かったが、4月21日に入港取りやめとなる。前々からアメリカ軍はアリューシャン西部の奪還に意欲的で、その奪還作戦の兆候が見られたからだった。伊168は引き返し、4月23日にキスカへ入港。航空基地要員を収容して4月25日21時に出港し、4月27日16時にアッツに到着して要員を降ろした。代わりに再びキスカへ進出する北海守備隊司令部を乗せ、21時出発。包囲網が狭まりつつある危険な海域を突破し、5月1日16時にキスカに入港。司令部要員を送り届けた。この輸送を最後に横須賀での整備を命じられ、同日中にキスカを出発。5月7日に北方部隊から除かれ、第6艦隊第3潜水戦隊に転属。5月9日、横須賀に入港した。5月11日、横須賀を出港して翌日呉に入港。整備を受ける。
7月12日に呉を出港し、トラック諸島に向かう。20日に南東方面艦隊第7潜水戦隊に転属し、7月22日にトラックへ入港。7月25日にラバウルを目指して出港した。しかし道中の7月27日、「イザベル海峡通過中」との位置報告を最後に消息不明となる。
最期
1943年7月27日17時54分、ニューハノーバー島とニューアイルランド島の間にあるステフェン海峡を浮上航行中、伊168は敵潜スキャンプの潜望鏡を発見。スキャンプも伊168の存在に気付いており、潜水艦同士の戦闘が生起した。しかし伊168は浮上中、スキャンプは潜航中と伊168が不利な状況だった。また艦齢の面でも伊168は9年目前の旧式艦、スキャンプは竣工から1年も経っていない新鋭艦と性能でも圧倒されていた。それでも伊168は果敢に立ち向かい、18時3分に距離4kmの地点から敵より先に魚雷1本を発射。ところがスキャンプの艦尾をかすめて外れてしまい、逆に4本の魚雷が扇状に伸びてきて1本が直撃。18時14分、巨大な爆炎を噴き上げて轟沈した。艦長以下97名全員が戦死。アメリカ側はこの時に沈めた潜水艦を伊24だと長らく認識していたが、戦後になって伊168だと判明した。ちなみに当の伊24は1ヶ月以上前にアリューシャン方面で戦没。
帝國海軍は1943年9月10日にビスマルク諸島方面で消息不明と判断し、10月15日に戦没認定した。撃沈戦果は2隻(2万1445トン)であった。
関連項目
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