森保一(もりやす はじめ、1968年8月23日 - )とは、日本の元プロサッカー選手であり、指導者である。
元サッカー日本代表。サッカー日本代表監督。
現役時代のポジションはMF(ボランチ)。174cm68kg。利き足は右足。
愛称は「ポイチ」。
概要
静岡県掛川市出身。元日本代表でもあり、いわゆる「ドーハの悲劇」のメンバーの1人であり、ハンス・オフト監督時代の代表では主力として活躍。ボランチ(守備的MF)というポジションを日本に一般化させた人物でもある。クラブレベルでは、Jリーグ創設期にあたる1990年代のサンフレッチェ広島のバンディエラとして扱われている。2003年シーズンを最後に現役を引退。
現役引退後は指導者となり、監督として現役時代の古巣であるサンフレッチェ広島を3度のJ1リーグ優勝に導いている。
2018年からはサッカー日本代表監督と東京オリンピック代表の監督を兼任。2022 FIFAワールドカップでは、ドイツ、スペインという強豪を打ち破っての2大会連続決勝トーナメント進出という快挙を成し遂げている。いわゆる「ドーハの悲劇」と「ドーハの歓喜」の両方を経験した人物となった。
カタールワールドカップ後も代表監督を継続。
現役時代から役割はけっして派手ではなかったものの、リーダーシップを取れる欠かせない選手だった。指導者に転身してからも選手を牽引し、細かい戦術を施すタイプではないものの、モチベーター型の熱血教師のような監督だと言われている。また、真面目で周囲に気配りができる人柄もサッカー協会から信頼を得ている理由に挙げられる。
現役時代の経歴
静岡県掛川市で生まれ、父親の仕事の関係で小学1年生から長崎県長崎市に定住。小学5年生の頃からサッカーを始め、高校は長崎日本大学高等学校へ進学。国体の長崎選抜に選ばれたものの、高校時代は全国大会に縁は無く、全国的には無名のプレイヤーだった。
高校時代の監督と今西和男総監督が知り合いだったこともあり、1987年にJSLのマツダ(現在のサンフレッチェ広島)に入団。当初はチーム内での評価は低く、サテライトチームでプレーしていたが、1987年に監督に就任したハンス・オフトに素質を見出される。その後チームがJSL2部に降格したことでオフトはチームを去るが、3年目となる1989年にJSL2部でデビュー。1991年にプロ契約を結び、この年のマツダの1部昇格に貢献する。
1992年4月オフトが日本代表監督に就任すると、日本代表に招集される。このとき、まだ無名の存在だったため他の代表選手の大半が森保のことを知らず、「もり やすかず」と名前を間違われたこともあった。だが、オフトJAPAN初戦となったアルゼンチン戦でスタメンに抜擢すると、以降日本代表不動のボランチとして定着し、ダイナスティカップ優勝とAFCアジアカップ1992優勝に貢献。ちなみに、日本でボランチの役割が認知されるようになったのも森保の役割の重要性が注目されるようになったからである。
1993年5月Jリーグが開幕。同年10月カタールのドーハでおこなわれたワールドカップアメリカ大会アジア最終予選に出場。出場停止となった韓国戦を除く4試合にスタメンとして出場するが、最終戦となったイラク戦でロスタイムに同点ゴールを許してあと一方でワールドカップ初出場の夢を逃す、「ドーハの悲劇」をピッチ上で経験する。
Jリーグでは、スチュワート・バクスター監督のもと組織的なチーム作りの中核を担い、風間八宏とのダブルボランチとして1994年1stステージ優勝に貢献。しかし、バクスター監督が去ってからのサンフレッチェ広島は、クラブの経営悪化の影響もあって成績が振るわず、自身も1995年7月に右足首関節脱臼骨折という重傷を負い、日本代表にも1996年2月を最後に呼ばれなくなる。
1998年恩師であるオフトに誘われて京都パープルサンガへレンタル移籍。翌年広島へ復帰するも、怪我と森崎和幸の台頭によって出場機会が減ってしまう。出場機会を求めて2002年にベガルタ仙台へ移籍。しかし、翌年チームはJ2降格となり、戦力外通告を受ける。2004年1月現役引退を表明。
J1リーグ通算293試合出場15得点。日本代表35試合出場1得点。
個人成績
シーズン | 国 | クラブ | リーグ | 試合 | 得点 |
---|---|---|---|---|---|
1987ー88 | マツダ | JSL1部 | 0 | 0 | |
1988ー89 | マツダ | JSL2部 | 0 | 0 | |
1990ー91 | マツダ | JSL2部 | 19 | 8 | |
1990ー91 | マツダ | JSL2部 | 27 | 13 | |
1991ー92 | マツダ | JSL1部 | 18 | 4 | |
1993 | サンフレッチェ広島 | Jリーグ | 35 | 2 | |
1994 | サンフレッチェ広島 | Jリーグ | 40 | 3 | |
1995 | サンフレッチェ広島 | Jリーグ | 25 | 4 | |
1996 | サンフレッチェ広島 | Jリーグ | 26 | 3 | |
1997 | サンフレッチェ広島 | Jリーグ | 25 | 1 | |
1998 | 京都パープルサンガ(loan) | Jリーグ | 25 | 1 | |
1999 | サンフレッチェ広島 | J1リーグ | 27 | 1 | |
2000 | サンフレッチェ広島 | J1リーグ | 22 | 0 | |
2001 | サンフレッチェ広島 | J1リーグ | 16 | 0 | |
2002 | ベガルタ仙台 | J1リーグ | 27 | 0 | |
2003 | ベガルタ仙台 | J1リーグ | 18 | 0 |
指導者としての経歴
現役引退直後の2004年サンフレッチェ広島の強化部育成コーチに就任。2005年からU-19日本代表のコーチを兼任し、2007年のFIFA U-20ワールドカップにも参加。大会後広島のトップチームのコーチに就任。このときの監督がミハイロ・ペトロヴィッチ(ミシャ)だった。2010年からはアルビレックス新潟のヘッドコーチに就任し、ドーハの悲劇でチームメイトだった黒崎久志の右腕を務めた。
サンフレッチェ広島 監督
2012年からペトロヴィッチが退任となった古巣の広島の監督に就任。クラブ史上初となるチーム生え抜きの監督となった。経営難に苦しむチーム事情もあって大型補強が困難なチーム事情の中、ペトロヴィッチのスタイルを踏襲しつつ若手を積極的に登用。エースの佐藤寿人がゴールを量産するなど、中心選手が軒並み活躍したこともあってチームを初のJ1年間優勝に導く。
この年のFIFAクラブワールドカップ2012では初めて国際試合で指揮を執るが、準々決勝でエジプトのアル・アハリに敗れ、最終的に5位で終えている。
2013年はシーズン序盤から不振が続き、AFCチャンピオンズリーグでも早期敗退に終わってしまう。しかし、Jリーグが中断期間に入ったときにチームの立て直しに成功。前年の勢いを取り戻したチームは優勝争いに加わる。そして2位で迎えた最終節ではこれまで散々苦手としていたアウェイでの鹿島アントラーズ戦に勝利。さらに首位だった川崎フロンターレが敗れたこともあり、最終節に劇的な逆転劇に成功。チームをリーグ連覇へと導く。
2014年は守護神の西川周作が浦和レッズへ移籍したなか、ACLでは苦戦しながらも初のグループリーグ突破に成功。しかしラウンド16ではウェスタン・シドニーを相手に1st legで先勝しながらもアウェイの2nd legで逆転を許し、敗退。また、リーグ戦でも過密日程による主力のコンディション不良に最後まで苦しめられ、8位と低迷。ナビスコカップで決勝まで進出するもガンバ大阪に敗れてしまい、カップ戦に弱いというチームの悪しき伝統を覆すことはできなかった。
2015年は2シャドーのドウグラスと柴崎晃誠が予想以上にフィットしたこともあり、1stステージでは3位となる。2ndステージはスーパーサブとして浅野拓磨を台頭させることでベテランの域に差し掛かった佐藤寿人のコンディション維持に成功。ドウグラスの台頭によって持ち前の守備力に攻撃力が加わり、浦和とのマッチレースを制して優勝。結果、年間勝ち点74を記録する。チャンピオンシップ決勝ではガンバ大阪との死闘を制し、4年間で3度目のリーグ優勝を果たす。
FIFAクラブワールドカップ2015でも快進撃を演じ、準決勝まで進出。準決勝ではアルゼンチンの名門リーベル・プレートを相手に善戦しながら惜しくも敗れるが、3位決定戦ではアジア王者の広州恒大を破り、3位入賞を果たす。
2016年は怪我人が続出する厳しい台所事情もあってリーグ戦では年間6位に終わり、ACLでは若手中心で挑んだことが仇となりグループステージ敗退。結局シーズン無冠に終わる。
6年目となった2017年はこれまでのリーグ制覇を支えてきたベテラン勢の退団や衰えによる世代交代に失敗。7月には降格圏に沈むほど低迷したこともあり、責任を取る形で監督を辞任する。
日本代表監督(第一次)、東京オリンピック代表監督
2017年10月12日東京オリンピックでのメダル獲得を目標にするオリンピック代表(U-23日本代表)監督に就任。事実上のチームの立ち上げとなったAFC U-23選手権2018では準々決勝でウズベキスタンに大敗する。2018年4月西野朗が電撃的に日本代表監督に就任したことに伴い、コーチとして入閣。2018 FIFAワールドカップに参加する。
2018年7月26日東京オリンピック代表と兼任という形で日本代表監督に就任。ロシア大会からチームの若返りを敢行し、中島翔哉、南野拓実、堂安律、冨安健洋らを主力に抜擢する。南米の強豪ウルグアイと好ゲームを演じるなど就任後無敗のまま初の公式戦となるAFC アジアカップ2019に挑むも、決勝でカタールに1-3で敗れ、準優勝に終わる。この年スタートしたカタールワールドカップアジア3次予選では格下相手ということもあって順調に勝ち進むも、6月のコパ・アメリカ 2019ではグループリーグ敗退。オリンピック代表も2020年1月に開催されたAFC U-23選手権 2020でグループリーグ敗退に終わり、細かい戦術やゲームプランを設定しない選手任せの采配に批判が集まり、兼任の悪影響を指摘する声も増え、風当たりが強くなっている。
新型コロナウィルスの影響により、代表チームの活動がストップになり、カタールW杯アジア予選や東京オリンピックも延期となる。およそ1年ぶりにおこなわれた日本代表としての試合となる2020年10月のオランダ遠征、11月のオーストリア遠征では史上初となる全員が海外のチームに所属する選手によるメンバー構成となる。
2021年7月に開催された東京オリンピックでは久保建英や堂安律に加え、オーバーエイジに吉田麻也、酒井宏樹、遠藤航というフル代表の主力3人を選出し、選手の大半が欧州のクラブに所属する史上最強のチームで自国開催のオリンピックに挑む。久保の3試合連続ゴール、OA組を中心とした守備でグループステージを3戦全勝で突破し、準決勝まで勝ち上がる。しかし、準決勝でスペインに敗れ、3位決定戦でもメキシコに完敗し、目標としていたメダル獲得をあと一歩のところで逃す。
2021年9月2日、2022 FIFAワールドカップアジア最終予選の初戦となったホームでのオマーン戦でよもやの完敗を喫してしまい、これまで以上に解任を求める声が高まるなど批判を浴びることになる。さらには敵地でのサウジアラビア戦にも敗れ、3試合で2敗目を喫したことで崖っぷちに立たされる。偏ったメンバー選考や選手任せの采配、試合中の修正力の無さから手腕を疑問符する声も日増しに高まっていた。しかし、ホームでのオーストラリア戦からシステムを4-3-3に変更してからは伊東純也の大活躍もあって破竹の6連勝を飾り、最終的に1試合を残して7大会連続のW杯出場を勝ち取る。
2022年11月にカタールで開催された2022 FIFAワールドカップでは初戦では、後半に投入した堂安律と浅野拓磨がゴールを決め、強豪ドイツを相手に逆転勝利を飾るという大金星を挙げている。続くコスタリカ戦では敗れたものの、第3戦で同じく強豪のスペインを相手に再び逆転勝利を飾るという二度目のジャイアントキリングを引き起こし、大方の予想を覆してグループリーグを首位で突破。「ドーハの歓喜」と呼ばれたこの快挙に、大会前は批判だらけだったファンたちによる手のひら返しが巻き起こった。ドイツ戦とスペイン戦では、3バックの採用、思い切った攻撃的な交代策などこれまで見せなかった采配を披露し、劣勢だった流れをひっくり返しての逆転劇を演出している。しかし、ラウンド16のクロアチア戦ではPK戦の末に敗れ、目標としていたベスト8進出は果たせなかった。
日本代表監督(第二次)
カタールW杯後の2022年12月28日に日本サッカー協会から日本代表監督の続投が発表される。第二次政権になってからはベテラン勢を外し、偽のSBの採用などコーチに就任した名波浩と共に課題のボール保持の整備に着手。2023年9月9日にはワールドカップの雪辱に燃えるドイツを相手に4-1とアウェイで大勝。
2023年11月1日には、カタールW杯での躍進ぶりが評価されAFC年間最優秀コーチ賞を受賞。
国際Aマッチ10連勝という結果から優勝が至上命題となった2024年1月のAFCアジアカップ2023だったが、グループリーグ第2戦のイラク戦ではこれまで散々機能しなかった南野拓実を左サイドに置いた采配が裏目に出てしまい、早くも敗戦。グループリーグを想定外の2位で通過することになる。さらに準々決勝のイラン戦では、イラク戦と同様に日本対策を講じてきた相手に具体的な対応策を示すことができず、後半は終始劣勢という内容で完敗。目標を大きく下回るベスト8敗退という期待外れの結果に終わり、選手の起用法や戦術が選手任せなこと、修正力の無さが再び問題視される。
監督としての成績
シーズン | 国 | クラブ | リーグ | 順位 | 獲得タイトル |
---|---|---|---|---|---|
2012 | サンフレッチェ広島 | J1リーグ | 1位 | J1リーグ | |
2013 | サンフレッチェ広島 | J1リーグ | 1位 | J1リーグ | |
2014 | サンフレッチェ広島 | J1リーグ | 8位 | ||
2015 | サンフレッチェ広島 | J1リーグ | 1位 | J1リーグ | |
2016 | サンフレッチェ広島 | J1リーグ | 6位 | ||
2017 | サンフレッチェ広島 | J1リーグ | ※ | ||
2017~2021 | U-23日本代表 | - | - | ||
2018~ | 日本代表 | - | - | EAFF E-1サッカー選手権2022 |
※シーズン途中で退任。
プレースタイル
現役時代は、地味ながらも中盤の底でピンチの芽を堅実に摘み取るプレーに定評があり、相手のボールを奪い取る能力や相手の攻撃を遅らせるプレーを得意としている。日本代表では、運動量に陰りの見えていたラモス瑠偉をサポートする役割に徹していた。一時リベロやトップ下でプレーしたこともある。
日本に「ボランチ」というワードが定着したきっかけとなった人物でもあり、ハンス・オフト監督時代の日本代表では重要な役割を担っていたことから「オフトサッカーの申し子」と呼ばれていた。
その他
- 実弟の森保洋も当時J2だったサガン鳥栖で活躍していた元プロサッカー選手。
- 長男の森保翔平は2014から2年間カマタマーレ讃岐でプレーしていたが、J2で1試合出場したのみ。その後、ニュージーランドやバツアツでプレーしている。
- 広島の元総監督である今西和男からは、今まで出会った中でもっともリーダーシップのある人物の1人に挙げられている。
- 2022 FIFAワールドカップでドイツ、スペイン相手に勝利し、日本代表をベスト16に導いた功績が評価され、2022年12月31日の「第73回NHK紅白歌合戦」にゲスト審査員として出演。
関連動画
関連商品
- ぽいち 森保一自伝―雑草魂を胸に(2004年2月1日、フロムワン)※西岡明彦との共著
- 一流(はじめりゅう)(2012年12月1日、ベースボールマガジン社)
- プロサッカー監督の仕事 非カリスマ型マネジメントの極意(2014年12月15日、カンゼン)※著書
- 森保一の決める技法 サッカー日本代表監督の仕事論(2023年9月23日、幻冬舎)
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