一番外からレッツゴーターキン!レッツゴーターキン!
レッツゴーターキンムービースター! レッツゴーターキンムービースター!
ヤマニングローバル!ヤマニングローバル! レッツゴーターキンだぁ!
なんとびっくりレッツゴーターキン!!!
レッツゴーターキン(Let's Go Tarquin)とは、日本の競走馬・種牡馬(1987 - 2011)である。
1992年の天皇賞(秋)を11番人気から制し、大崎昭一騎手に11年振りのGI勝利をもたらした。
主な勝ち鞍
1991年:小倉大賞典(GIII)、中京記念(GIII)
1992年:天皇賞(秋)(GI)
父*ターゴワイス、母ダイナターキン、母父*ノーザンテースト。
先に母系から触れよう。まず母母父*ガーサントは最初期の社台ファームの礎を築いた輸入種牡馬であり、1969年日本リーディングサイアー[1]。その産駒から1968年にコウユウが桜花賞に勝利し社台グループ初の八大競走制覇。続いて翌1969年の優駿牝馬を制しグループ2頭目の八大競走優勝馬となったのが、レッツゴーターキンの祖母シャダイターキンである。
このシャダイターキンに、社台と日本競馬を変えた説明不要の大種牡馬ノーザンテーストを付けて生まれたのがレッツゴーターキンの母ダイナターキンであり、社台グループ初期の歴史を詰め込んだ母系の持ち主と言える。
「ターキン」の名は曾祖母ブラックターキン(競走馬名ミスヤマト)から代々受け継いだ4代目。ブラックターキンの牝系からは後年スプリントGI2勝のカレンチャンや、「捲り逃げ」で地方交流を沸かせた個性派牝馬テリオスベルが出ている。
いっぽう父*ターゴワイスはRound Table系の米国産種牡馬。競走馬としてはフランスでGIII2勝に留まったが、種牡馬として1983年に凱旋門賞などGI4連勝・のちアメリカ競馬殿堂入りの女傑All Along[2]を出し、種牡馬生活の途中から日本に輸入された。日本ではこのレッツゴーターキンが唯一のGI産駒である。
生産は社台ファーム早来(現:ノーザンファーム)、馬主は「日本ダイナースクラブ」。2000年にサンデーレーシングが設立される以前にサンデーサラブレッドクラブと組んでいたクラブ法人であり、レッツゴーターキンはクラブ最初のGI馬である。その意味では、彼はブエナビスタやオルフェーヴルやジェンティルドンナらの大先輩と言っても差し支えない馬なのだ。
1987年4月26日、上記のように当時の社台の結晶たる十分な血統のもとに生まれたレッツゴーターキンだったが……ムチャクチャ手のかかる問題児だった。
社台ファーム空港牧場での初期育成期にも突如暴れ出したり横っ飛びしたりで多くの職員にケガをさせ、大事なクラブ会員の見学会の時ですら放馬する有様だった。カラスの鳴き声に驚き、風の音や人の影にも怯えるため、暴れ者というよりも臆病な性格だったと考えられる。とにかく他の馬と一緒にすると危険なので、常に一頭ぽつねんと放牧され「オチコボレ」とあだ名されていたという。また、当時ノーザンファームに滞在していた競馬作家・エッセイストの吉川良からは、その臆病ぶりから「ビビリアン」とも呼ばれていた。
栗東の新興調教師・橋口弘次郎厩舎へ入厩したものの気質は変わらなかったが、「臆病者だが性悪ではない。なら、調教で何とかなるかもしれない」とみた橋口師のもと調教が進められた。そして担当の山本国男厩務員は臆病さから暴れるターキンを決して怒らず、辛抱強く信頼関係を築いていった。
1989年12月10日、小島貞博を鞍上に新馬戦を迎えたが(阪神競馬場芝1400m)、道中後方のまま14頭立て13着という何も見所のない内容。ダートに行ったり距離変えたり、何とか3歳となった1990年4月、4戦目の未勝利戦で勝ち上がり。6月には500万下を突破したが、クラシック戦線などとは縁遠い立場の馬だった。
そんなレッツゴーターキンの重賞初出走は1990年7月1日、中日スポーツ賞4歳ステークス(GIII)[3]。不良馬場の中、上がり最速の末脚でロングアーチのアタマ差2着。この収得賞金加算で1500万下に昇格、かつ自己条件を3勝のみの馬よりも賞金上で優位に立った。
こうなると見えてくるのはクラシック最後の一冠菊花賞である。秋は神戸新聞杯(GII)4着、本番と同じコースの1500万下嵐山Sも4着と、さらに収得賞金を上積みすることはできなかったが、それでも収得は足り、菊花賞の舞台に立つことになった。
さて1990年11月4日、第51回菊花賞。レッツゴーターキン鞍上はテン乗りの角田晃一が務めた。この日は雨の重馬場で、ターキンは実績下位にも拘わらず条件戦2勝と中日スポーツ賞2着をいずれも稍重以下の馬場でこなしていたこともあり、単勝30.2倍の9番人気と一部の重賞馬をも上回る穴人気を集めた。・・・しかし、この舞台ではやはり力不足。直線で疲れて11着に終わった。
そして勝ち馬は、この時点での収得賞金はターキンよりも下、ギリッギリで出走枠を掴んでいた夏の上がり馬・メジロマックイーン。名優伝説の幕開けであった。
古馬になったレッツゴーターキンは、ハンデ53kgを背負った1991年2月の小倉大賞典(GIII)で重賞初制覇。まあ、このレースはターキン同様に軽斤活かして飛び級で重賞獲っちゃおうという準オープン馬が多かったので、その中でうまくやったねという話だったのだが、続く中京記念(GIII)も55kgとまだ軽めの斤量ながら、GI馬ラッキーゲランを抑えて連勝。一気に本格化かと思われた。
が、流石に重賞2勝ともなると57~58kgを背負わされるようになり、以降はまるで通用しなくなってしまった。掲示板にも載れないレースが続いて旧5歳(1991年)を終え、旧6歳(1992年)になっても調子は上がらず、二連覇に挑んだ小倉大賞典も11番人気6着という有様だった。「まあ、斤量軽い間にうまく連勝できてよかったね。もうこれ以上の上積みは厳しいかな」そういう評価の馬になっていた。
ターキンの鞍上はデビュー以来主に小島貞博が務めていたが、6歳にして状況打破のために新たな主戦として大崎昭一が迎えられた。
大崎は1967年、カブトシローで有馬記念を制し弱冠22歳で八大競走初制覇、1969年にはダイシンボルガードで東京優駿を制し、当時の戦後最年少ダービージョッキー(24歳4ヶ月)に輝く。その後も度重なる大怪我を乗り越え、TTGの一角グリーングラスの引退レースたる1979年有馬記念をテン乗りで任せられて制覇するなど、馬の特徴を掴むのが上手く、癖馬やテン乗りに強い腕利きとして知られた美浦の有力騎手であった。
その大崎の騎手人生に大きな影を落としたのが、1985年8月の通称「新潟事件」である。新潟競馬場での騎乗時、返し馬時にスタンドから「調子はどうだ」と大崎に声を掛けたファンに対して馬上から返事をしてしまったことで、競馬の公正違反、さらには八百長の疑惑までかけられ、無期限の騎乗停止処分が下されたのである。調査の結果、予想行為や八百長に該当する行為はなく4ヶ月後に処分は解除された。この事件がすぐさま大崎の成績に直接影響することはなかったものの、「八百長疑惑で長期騎乗停止を食らった男」のレッテルは重く、拠点を置く美浦からの騎乗依頼は減少、栗東に新天地を求める苦しい時期を過ごしていた。
そんな大崎昭一を重用したのが、ターキンを管理する橋口弘次郎調教師であった。大学を卒業してから佐賀競馬で騎手を志し、のちJRAで調教師に転じたという異色の経歴を持つ橋口師にとって、同じ宮崎県出身で一学年上、そして自分が競馬の道を志した頃には既に華々しい活躍を果たしつつあった大崎は憧れの存在であり、その大崎の手が空いて依頼できるのなら、という流れになったのだ。
この馬は、まず落ち着きがないので枠入り・スタートに細心の注意がいる。臆病なくらいなので道中掛かることはないが、早め早めに気合をつけていかねばならない。そして終いの一瞬のキレには欠けるが、長くいい脚を使えるタイプだ……。レッツゴーターキンの特徴を徐々に把握した大崎は、1992年4月の谷川岳S(OP、新潟芝1600m)にて、ターキンへの初騎乗で1年1ヶ月振りの勝利をもたらす。これにより、以後引退まで一貫して主戦に据えられることとなった。
夏から秋にかけてターキンは調子を上げ、北九州記念(GIII)をヌエボトウショウの2着、小倉記念(GIII)をイクノディクタスの2着、そして福島民報杯(OP、福島芝2000m)では3馬身差の快勝。ここにきて着実に賞金を加算し、大レースへの出走を狙える位置まできた。
重賞2勝は小倉、あとOP勝ちは新潟に福島。ここまでのレッツゴーターキンは、明らかにローカル野郎であった。勝鞍の距離は1600~2000m。大レースを狙うといっても、中央のどこに打って出るか…ここで「天皇賞(秋)に行こう」と進言したのは大崎騎手だった。そもそもターキンはここまで、東京競馬場で走ったことすらなかったのだが。橋口師は半信半疑だったが、ターキンを復活させてくれた大崎の言うことならと、秋天に向かうことを決めた。
1992年11月1日、第106回天皇賞(秋)。まず注目は、天皇賞(春)でメジロマックイーンの前に初の敗北を喫し、その後剥離骨折で療養していたトウカイテイオーの復帰戦ということだった(1番人気、2.4倍)。そして対抗馬に挙げられたのがダイタクヘリオス(3番人気、7.0倍)。皇帝シンボリルドルフと、そのルドルフにクラシック戦線で敗れ去ったビゼンニシキ、お互いの最高傑作の息子同士が、時を経て対決する「SB対決」とメディアに称された。……なに、ダイタクヘリオスに2000は無理だろ?いやいや、2000m時代の高松宮杯の勝鞍があったし、前走で毎日王冠をレコード完勝していたので、今ならいけるかもしれない!と見られていたのだ。なお、いやそれでもヘリオス厳しいだろ、テイオーも故障明けで信用ならんし、と消去法ぎみにナイスネイチャが2番人気(3.9倍)になっていたのは彼らしい。
一方、レッツゴーターキンは11番人気(34.2倍)。案の定、初めての府中とGIの大歓声で平静を欠いていたが、大崎は他の馬とは逆回りに一頭だけでゆっくり返し馬を行わせ落ち着かせようとする。それでもゲート入りでは暴れ、大崎を振り落としてしまった。だが、暴れるだけ暴れて気が済んだのか、これでターキンは落ち着いた。そして落馬のせいでゲート入りが遅れ、嫌いなゲート内にいる時間が短く済んだのもプラスとなった。
内枠有利の府中2000mで、ターキンは絶好の1枠2番を引いていたが、大崎昭一の腹は決まっていた。この相手関係の中、一か八かで先行しても勝ち目はない、下げて直線のロングスパートに賭けると。そしてこの賭けは当たった。この秋天、スタートからメジロパーマーとダイタクヘリオスの馬鹿コンビ1号2号がペース無視のハナ争いを展開したのである。1000m通過は57秒5。そしてやるだけやったメジロパーマーは4角であっという間に沈没し、前に残ったのはダイタクヘリオスとトウカイテイオー、府中のメインスタンド前でSB対決の競り合いが繰り広げられる。
1600m通過が1分33秒3、これは同年の安田記念のヤマニンゼファーの勝ち時計(1分33秒5)より速い。場内の興奮は最高潮に達したが……持つわけねえだろこんなペース!案の定、テイオーもヘリオスもバテて逃げ先行集団は総崩れ。狂ったハイペースに乗らず後方で脚を溜めていた差し勢に飲まれていく。
その時、府中の長い直線を大外から一気に駆け上がってきた馬が2頭。レッツゴーターキンと、5番人気のムービースターである。ムービースター鞍上は武豊、4角まで追い出しを我慢し直線で末脚を爆発させる会心の騎乗だったが、一手早く仕掛けた大崎のターキンが先を行った。フジテレビの三宅正治アナが叫ぶ。
「一番外からレッツゴーターキン!レッツゴーターキン!
レッツゴーターキンムービースター! レッツゴーターキンムービースター!
ヤマニングローバル、ヤマニングローバル、レッツゴーターキンだ!
なんとびっくりレッツゴーターキン!!」
無駄に語呂のよい「レッツゴーターキンムービースター」の実況がスラスラ出てきたのは、三宅アナがこの2頭で馬券を買っていたからだとか。
レッツゴーターキンはムービースターに1馬身半差でゴール。GI初制覇を達成、大崎騎手にとっても1981年カツトップエースでの日本ダービー制覇以来11年振りのGI制覇。また橋口弘次郎調教師・馬主の日本ダイナースクラブにとっても初のGI馬誕生。社台ファーム草創期の歴史を詰め込んだ血統は見事に天皇賞馬として結実し、辛酸を舐めた腕利き騎手にとっても長いトンネルを抜けるGI勝利となったのである。
馬連は12番人気と5番人気で17,220円がつく、荒れた天皇賞となった。
その後は、まあ明らかに適性距離外なのだが、天皇賞馬が出ないわけにもいかずジャパンカップ(GI)へ。秋天のやらかしで「もう終わった」「そもそも二冠も同世代が弱かっただけ」とか散々な言われようになっていたトウカイテイオーが汚名返上の勝利を挙げる中、11番人気8着。
有馬記念(GI)も、馬鹿コンビ劇場フィナーレを飾るメジロパーマーの大逃げ炸裂の中、レガシーワールド・ナイスネイチャと共にパーマーを追いかけ4着(正直よく頑張ったと思う)。
翌1993年の阪神大賞典5着を最後に引退。通算33戦7勝。
結局、一発屋の印象をぬぐえないまま引退したレッツゴーターキンはレックススタッドで種牡馬入りはしたものの、相手は集まらず。程なく繋養先を転々とし、一時は居所が分からなくなってしまった。雑誌の取材を通じて発見された時には、幕別町のサンライズステーブルで牛と一緒に放牧されていたという。それでも、レッツゴーターキンが「消息不明」にならずに済んだのは、同牧場のオーナーが大崎昭一のファンで、そのパートナーとして復活のGI勝利を飾ってくれたターキンを身銭を切って繋養してくれていたからだそうな。その後も種牡馬登録は継続されたものの活躍馬は出ず、既に母系でもレッツゴーターキンの血は途絶えている。
2011年1月30日、サンライズステーブルで死去。24歳没(新馬齢)。
花形レースである秋の天皇賞馬としてはどうにも影が薄く、ニコニコ大百科でもこの項目の立ち上げは2023年10月。グレード制導入以降(1984年~)の天皇賞(秋)優勝馬で個別項目がなかったのはその時点で2014年のスピルバーグ(競走馬)(「スピルバーグ」は映画監督スティーヴン・スピルバーグへのリダイレクトになっていることもある)のみ、というくらい遅かった。
しかし、血統に歴史あり、若駒時に苦辛あり、人との出会いあり、レースにドラマあり。「オチコボレ」からGI馬へ、多くの語り草を持つ彼もまた、立派な天皇賞馬である。
これからも「なんとびっくり!」な天皇賞馬は、きっと現れるはずだ。その時は、彼を思い出してみるのも一興であろう。
*ターゴワイス Targowice 1970 黒鹿毛 |
Round Table 1954 鹿毛 |
Princequillo | Prince Rose |
Cosquilla | |||
Knights Dauter | Sir Cosmo | ||
Feola | |||
Matriarch 1964 黒鹿毛 |
Bold Ruler | Nasrullah | |
Miss Disco | |||
Lyceum | Bull Lea | ||
Colosseum | |||
ダイナターキン 1979 鹿毛 FNo.13-c |
*ノーザンテースト Northern Taste 1971 栗毛 |
Northern Dancer | Nearctic |
Natalma | |||
Lady Victoria | Victoria Park | ||
Lady Angela | |||
シヤダイターキン 1966 鹿毛 |
*ガーサント | Bubbles | |
Montagnana | |||
ブラツクターキン | *ブラツクウヰング | ||
*フオルカー |
クロス:Lady Angela 5×4(9.38%)、Nearco 5×5(6.25%)
掲示板
16 ななしのよっしん
2023/10/27(金) 21:21:30 ID: YjcgEOTr99
17 ななしのよっしん
2023/10/29(日) 16:02:23 ID: iU77uitDKz
いやー今年の天皇賞、1000m57秒7で直線で逃げ先行勢総崩れ、道中最後尾でじっと控えてたジャスティンパレスとプログノーシスが大外からレッツゴーターキンムービースター!って感じでゴボウ抜きしてきたんだけど。
ただ一つターキンの天皇賞と違ったのは、3番手で追走してたイクイノックス一頭だけ、ハイペースでも全然バテずにそのまんま突き抜けてしまったってことだわ。バケモンだな…。
18 ななしのよっしん
2023/10/30(月) 01:34:53 ID: fJi9+blvNh
>>17
マジで1頭だけガソリンエンジン積んで走ってませんか?って感じだったよな
あと2番手のガイアフォースも掲示板に残ったのは凄い
急上昇ワード改
最終更新:2024/05/11(土) 05:00
最終更新:2024/05/11(土) 05:00
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