レッツゴーターキン 単語

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レッツゴーターキン

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一番外からレッツゴーターキン!レッツゴーターキン!

レッツゴーターキンムービースター! レッツゴーターキンムービースター

ヤマニングローバルヤマニングローバル レッツゴーターキンだぁ!

なんとびっくりレッツゴーターキン!!!

1992年11月1日、第106回天皇賞()(実況三宅正治フジテレビ〉) 

レッツゴーターキン(Let's Go Tarquin)とは、日本競走馬種牡馬(1987 - 2011)である。
1992年天皇賞(秋)を11番人気から制し、大崎昭一騎手に11年振りのGI勝利をもたらした。

な勝ち
1991年小倉大賞典(GIII)中京記念(GIII)
1992年天皇賞(秋)(GI)

概要

*ターゴワイス、ダイナターキン*ノーザンテースト

先に系から触れよう。まず*ガーサントは最初期の社台ファームの礎を築いた輸入種牡馬であり、1969年日本リーディングサイアー[1]。その産駒から1968年コウユウ桜花賞勝利社台グループ初の八大競走制覇。続いて翌1969年優駿牝馬を制しグループ2頭八大競走優勝となったのが、レッツゴーターキンの祖母シャダイターキンである。
このシャダイターキンに、社台と日本競馬を変えた説明不要の大種牡馬ノーザンテーストを付けて生まれたのがレッツゴーターキンのダイナターキンであり、社台グループ初期の歴史を詰め込んだ系の持ちと言える。
「ターキン」の名は曾祖母ブラックターキン(競走馬ミスヤマト)から代々受け継いだ4代ブラックターキン牝系からは後年スプリンGI2勝のカレンチャンや、「捲り逃げ」で地方交流を沸かせた個性テリオスベルが出ている。

いっぽう*ターゴワイスはRound Table系の米国種牡馬競走馬としてはフランスGIII2勝に留まったが、種牡馬として1983年凱旋門賞などGI4連勝・のちアメリカ競馬殿堂入りの女傑All Along[2]を出し、種牡馬生活の途中から日本に輸入された。日本ではこのレッツゴーターキンが一のGI産駒である。

生産は社台ファーム来(現:ノーザンファーム)、馬主は「日本ダイナースクラブ」。2000年サンデーレーシングが設立される以前にサンデーサラブレッドクラブと組んでいたクラブ法人であり、レッツゴーターキンはクラブ最初のGIである。その意味では、彼はブエナビスタオルフェーヴルジェンティルドンナらの大先輩と言っても差し支えないなのだ。

戦歴

臆病なオチコボレ

1987年4月26日、上記のように当時の社台の結晶たる十分な血統のもとに生まれたレッツゴーターキンだったが……ムチクチャ手のかかる問題児だった

社台ファーム空港牧場での初期育成期にも突如暴れ出したり横っ飛びしたりで多くの職員にケガをさせ、大事なクラブ会員の見学会の時ですら放する有様だった。カラスの鳴きに驚き、の音や人のにも怯えるため、暴れ者というよりも臆病な性格だったと考えられる。とにかく他のと一緒にすると危険なので、常に一頭ぽつねんと放牧され「オチボレ」とあだ名されていたという。また、当時ノーザンファームに滞在していた競馬作家エッセイストの吉川良からは、その臆病ぶりから「ビビリア」とも呼ばれていた。

東の新調教師橋口次郎厩舎へ入厩したものの気質は変わらなかったが、「臆病者だが性悪ではない。なら、調教で何とかなるかもしれない」とみた橋口師のもと調教が進められた。そして担当の山本男厩務員は臆病さから暴れるターキンを決して怒らず、辛抱強く信頼関係を築いていった。

1989年12月10日小島貞博を上に新馬戦を迎えたが(阪神競馬場1400m)、中後方のまま14頭立て13着という何も見所のない内容。ダートに行ったり距離変えたり、何とか3歳となった1990年4月、4戦未勝利戦で勝ち上がり。6月には500万下を突破したが、クラシック戦線などとは縁遠い立場のだった。

菊の舞台へレッツゴー

そんなレッツゴーターキンの重賞初出走は1990年7月1日中日スポーツ賞4歳ステークス(GIII)[3]不良馬場の中、上がり最速の末脚でロングアーチのアタマ差2着。この収得賞金加算で1500万下に昇格、かつ自己条件を3勝のみのよりも賞上で優位に立った。
こうなると見えてくるのはクラシック最後の一冠菊花賞である。神戸新聞杯(GII)4着、本番と同じコース1500万下嵐山Sも4着と、さらに収得賞金を上積みすることはできなかったが、それでも収得は足り、菊花賞舞台に立つことになった。

さて1990年11月4日、第51回菊花賞。レッツゴーターキン上はテン乗りの角田晃一が務めた。この日はの重馬場で、ターキンは実績下位にも拘わらず条件戦2勝と中日スポーツ賞2着をいずれも稍重以下の馬場でこなしていたこともあり、単勝30.2倍の9番人気と一部の重賞をも上回る人気を集めた。・・・しかし、この舞台ではやはり不足。直線で疲れて11着に終わった。
そして勝ちは、この時点での収得賞金はターキンよりも下、ギリッギリで出走を掴んでいたの上がりメジロマックイーン。名優伝説の幕開けであった。

一気に重賞2連勝も…

になったレッツゴーターキンは、ハンデ53kgを背負った1991年2月小倉大賞典(GIII)で重賞初制覇。まあ、このレースはターキン同様に軽斤活かして飛び級重賞獲っちゃおうという準オープンが多かったので、その中でうまくやったねという話だったのだが、続く中京記念(GIII)も55kgとまだ軽めの斤量ながら、GIラッキーゲランを抑えて連勝。一気に本格化かと思われた。

が、流石重賞2勝ともなると57~58kgを背負わされるようになり、以降はまるで通用しなくなってしまった。掲示板にも載れないレースが続いて旧5歳(1991年)を終え、旧6歳(1992年)になっても調子は上がらず、二連覇に挑んだ小倉大賞典も11番人気6着という有様だった。「まあ、斤量軽い間にうまく連勝できてよかったね。もうこれ以上の上積みは厳しいかな」そういう評価のになっていた。

大崎昭一との出会い

ターキン上はデビュー以来小島貞博が務めていたが、6歳にして状況打破のために新たな戦として大崎昭一が迎えられた。

大崎1967年カブトシロー有馬記念を制し弱冠22歳で八大競走初制覇、1969年にはダイシンボルガード東京優駿を制し、当時の戦後最年少ダービージョッキー(24歳4ヶ)にく。その後も度重なる大怪を乗り越え、TTGの一グリーングラス引退レースたる1979年有馬記念をテン乗りで任せられて制覇するなど、の特徴を掴むのが上手く、やテン乗りに強い腕利きとして知られた美の有騎手であった。
その大崎騎手人生に大きなを落としたのが、1985年8月の通称「新潟事件」である。新潟競馬場での騎乗時、返し馬時にスタンドから「調子はどうだ」と大崎を掛けたファンに対して上から返事をしてしまったことで、競馬正違反、さらには八百長の疑惑までかけられ、期限の騎乗停止処分が下されたのである。調の結果、予想行為や八百長に該当する行為はなく4ヶ後に処分は解除された。この事件がすぐさま大崎の成績に直接することはなかったものの、「八百長疑惑で長期騎乗停止を食らった男」のレッテルは重く、拠点を置く美からの騎乗依頼は減少、東に新地をめる苦しい時期を過ごしていた。

そんな大崎昭一を重用したのが、ターキンを管理する橋口次郎調教師であった。大学卒業してから佐賀競馬騎手を志し、のちJRA調教師に転じたという異色の経歴を持つ橋口師にとって、同じ宮崎県出身で一学年上、そして自分が競馬を志した頃には既に々しい活躍を果たしつつあった大崎は憧れの存在であり、その大崎の手がいて依頼できるのなら、という流れになったのだ。

このは、まず落ち着きがないので入り・スタートに細心の注意がいる。臆病なくらいなので中掛かることはないが、めに気合をつけていかねばならない。そして終いの一のキレには欠けるが、長くいい脚を使えるタイプだ……。レッツゴーターキンの特徴を徐々に把握した大崎は、1992年4月谷川岳S(OP、新潟1600m)にて、ターキンへの初騎乗で1年1ヶ振りの勝利をもたらす。これにより、以後引退まで一貫して戦に据えられることとなった。
からにかけてターキン調子を上げ、北九州記念(GIII)をヌエボトウショウの2着、小倉記念(GIII)をイクノディクタスの2着、そして福島民報杯(OP、福島2000m)では3身差の快勝。ここにきて着実に賞を加算し、大レースへの出走を狙える位置まできた。

なんとびっくり!!1992年天皇賞(秋)

重賞2勝は小倉、あとOP勝ちは新潟福島。ここまでのレッツゴーターキンは、明らかローカル野郎であった。勝距離1600~2000m。大レースを狙うといっても、中央のどこに打って出るか…ここで「天皇賞(秋)に行こう」と進言したのは大崎騎手だった。そもそもターキンはここまで、東京競馬場で走ったことすらなかったのだが。橋口師は半信半疑だったが、ターキン復活させてくれた大崎の言うことならと、秋天に向かうことを決めた。

1992年11月1日、第106回天皇賞()。まず注は、天皇賞(春)メジロマックイーンの前に初の敗北を喫し、その後剥離骨折で療養していたトウカイテイオーの復帰戦ということだった(1番人気、2.4倍)。そして対抗に挙げられたのがダイタクヘリオス(3番人気、7.0倍)。皇帝シンボリルドルフと、そのルドルフクラシック戦線で敗れ去ったビゼンニシキ、お互いの最高傑作息子同士が、時を経て対決する「SB対決」とメディアに称された。……なに、ダイタクヘリオス2000理だろ?いやいや、2000m時代の高松宮杯の勝があったし、前走で毎日王冠レコード勝していたので、今ならいけるかもしれない!と見られていたのだ。なお、いやそれでもヘリオス厳しいだろ、テイオーも故障明けで信用ならんし、と消去法ぎみにナイスネイチャが2番人気(3.9倍)になっていたのは彼らしい。

一方、レッツゴーターキンは11番人気(34.2倍)。案の定、初めての府中GIの大歓静を欠いていたが、大崎は他のとは逆回りに一頭だけでゆっくり返し馬を行わせ落ち着かせようとする。それでもゲート入りでは暴れ、大崎を振り落としてしまった。だが、暴れるだけ暴れて気が済んだのか、これでターキンは落ち着いた。そして落のせいでゲート入りが遅れ、嫌いなゲート内にいる時間が短く済んだのもプラスとなった。

有利の府中2000mで、ターキンは絶好の12番を引いていたが、大崎昭一は決まっていた。この相手関係の中、一か八かで先行しても勝ちはない、下げて直線のロングスパートに賭けると。そしてこの賭けは当たった。この秋天スタートからメジロパーマーダイタクヘリオス馬鹿コンビ1号2号ペース無視ハナ争いを展開したのである。1000m通過は575。そしてやるだけやったメジロパーマーは4であっという間に沈没し、前に残ったのはダイタクヘリオストウカイテイオー府中メインスタンド前でSB対決の競り合いが繰り広げられる。
1600m通過が1分333、これは同年の安田記念ヤマニンゼファーの勝ち時計(1分335)より速い。場内の奮は最高潮に達したが……持つわけねえだろこんなペース!案の定、テイオーもヘリオスもバテて逃げ先行集団は総崩れ。狂ったハイペースに乗らず後方で脚を溜めていた差し勢に飲まれていく。

その時、府中の長い直線を大外から一気に駆け上がってきたが2頭。レッツゴーターキンと、5番人気ムービースターである。ムービースター上は武豊、4まで追い出しを慢し直線で末脚を爆発させる会心の騎乗だったが、一手く仕掛けた大崎のターキンが先を行った。フジテレビ三宅正治アナが叫ぶ。

一番外からレッツゴーターキン!レッツゴーターキン!
 レッツゴーターキンムービースター! レッツゴーターキンムービースター
 ヤマニングローバルヤマニングローバルレッツゴーターキンだ!
 なんとびっくりレッツゴーターキン!!

駄に呂のよい「レッツゴーターキンムービースター」の実況がスラスラ出てきたのは、三宅アナがこの2頭で馬券を買っていたからだとか。

レッツゴーターキンはムービースターに1身半差でゴールGI初制覇を達成、大崎騎手にとっても1981年カツトップエースでの日本ダービー制覇以来11年振りのGI制覇。また橋口次郎調教師馬主日本ダイナースクラブにとっても初のGI誕生。社台ファーム創期の歴史を詰め込んだ血統は見事に天皇賞として結実し、辛めた腕利き騎手にとっても長いトンネルを抜けるGI勝利となったのである。
馬連は12番人気と5番人気で17,220円がつく、荒れた天皇賞となった。

引退

その後は、まあ明らかに適性距離外なのだが、天皇賞が出ないわけにもいかずジャパンカップ(GI)へ。秋天のやらかしで「もう終わった」「そもそも二冠も同世代が弱かっただけ」とか散々な言われようになっていたトウカイテイオー汚名返上勝利を挙げる中、11番人気8着。
有馬記念(GI)も、馬鹿コンビ劇場フィナーレを飾るメジロパーマー大逃げ炸裂の中、レガシーワールドナイスネイチャと共にパーマーを追いかけ4着(正直よく頑ったと思う)。
1993年阪神大賞典5着を最後に引退。通算33戦7勝。

引退後

結局、一発屋の印をぬぐえないまま引退したレッツゴーターキンはレックススタッドで種牡馬入りはしたものの、相手は集まらず。程なく繋養先を転々とし、一時は居所が分からなくなってしまった。雑誌の取材を通じて発見された時には、幕別町サンライズテーブルと一緒に放牧されていたという。それでも、レッツゴーターキンが「消息不明」にならずに済んだのは、同牧場オーナー大崎昭一ファンで、そのパートナーとして復活GI勝利を飾ってくれたターキンを身銭を切って繋養してくれていたからだそうな。その後も種牡馬登録は継続されたものの活躍は出ず、既に系でもレッツゴーターキンの血は途絶えている。
2011年1月30日サンライズテーブルで死去。24歳(新齢)。

レースである秋の天皇賞としてはどうにもが薄く、ニコニコ大百科でもこの項の立ち上げは2023年10月グレード制導入以降(1984年~)の天皇賞(秋)優勝で個別項がなかったのはその時点で2014年スピルバーグ(競走馬)(「スピルバーグ」は映画監督スティーヴン・スピルバーグへのリダイレクトになっていることもある)のみ、というくらい遅かった。
しかし、血統に歴史あり、若駒時に苦辛あり、人との出会いあり、レースドラマあり。「オチボレ」からGIへ、多くのを持つ彼もまた、立天皇賞である。
これからも「なんとびっくり!」な天皇賞は、きっと現れるはずだ。その時は、彼を思い出してみるのも一であろう。

血統表

*ターゴワイ
Targowice
1970 黒鹿毛
Round Table
1954 鹿毛
Princequillo Prince Rose
Cosquilla
Knights Dauter Sir Cosmo
Feola
Matriarch
1964 黒鹿毛
Bold Ruler Nasrullah
Miss Disco
Lyceum Bull Lea
Colosseum
ダイナターキン
1979 鹿毛
FNo.13-c
*ノーザンテースト
Northern Taste
1971 栗毛
Northern Dancer Nearctic
Natalma
Lady Victoria Victoria Park
Lady Angela
シヤダイターキン
1966 鹿毛
*ガーサント Bubbles
Montagnana
ブラクターキン *ブラツクウヰング
*フオルカ

クロスLady Angela 5×4(9.38%)、Nearco 5×5(6.25%)

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関連項目

脚注

  1. *系はとうに絶えたが、ノーザンテーストガーサントコンビで輩出したダイナカール令和になっても社台の大正牝系の祖であり、未だガーサントの遺したは大きい。
  2. *オールアロング1982年の第2回ジャパンカップにも参戦し、ハーフアイストの2着。また2023年には南関東三冠敗で達成したミックファイアの曾祖母としても再注された。
  3. *現在ファルコンステークス(GIII)の前身だが、3月開催・芝1400mでNHKマイルカップへの前戦として機している現在とは異なり、当時は6~7月開催の芝1800m。ラジオたんぱ賞などと並び、クラシックでは勝負できなかった重賞勝ち収得賞金加算を狙う、いわゆる「残念ダービー」の側面が強かった。
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