日常会話に使える仏典の文言集 単語

ニチジョウカイワニツカエルブッテンノモンゴンシュウ

1.5万文字の記事

日常会話に使える仏典の文言集とは、
ニコニコ大百科でおなじみのアレ仏教版である。

内容について

とりあえず訳大蔵をベースに、南伝仏教にしかない経典もあるのでパーリ語三蔵などでも補う。また、めんどうなので、典と書いたものの、東アジア圏のガラパゴスな教えだの、語だの、言だのを、全部入れることにする。

訳大蔵は、最も一般的に使われていて、著作権も切れて久しい『大正新修大蔵経』を使う(ただし、『字蔵経』がどうしても漏れるので、中国の『CBETA』の利用も検討してみる)。のだが、このかなり古い刊本をそのまま使う関係で、全部旧字とかいうかなり悲しいことになるのは、残念ながら仕方のないことなのだ。

また、パーリ語三蔵は、デーヴァナーガリーローマ字の対照がしやすい『VRI』を、チベット語大蔵経は『ACIP』を使う予定。その他適宜おおよそ明治維新前くらいまでの仏教関係者の著作も引用する。

後、現代語じゃないとわからんという問題を解決するために、筆者がいい感じに現代語訳するという方針をとる。

なお、なんか言ってることがバラバラじゃないというツッコミがありそうだが、これはそもそも仏教の教えが開祖の時点で相手が具体的に何に苦しんでいるかに焦点を当てた対症療法的なものだったからに起因している。

パーリ語三蔵

経蔵

中部

出典 原文 使用用途 雰囲気意訳
マールキヤ経103 न हेतं, मालुक्यपुत्त,Na hetaṃ, mālukyaputta,
अत्थसंहितं न आदिब्रह्मचरियकंatthasaṃhitaṃ na ādibrahmacariyaka
न निब्बिदाय न विरागाय न निरोधायna nibbidāya na virāgāya na nirodhāya
न उपसमाय न अभिञ्‍ञाय na upasamāya na abhiññāya
न सम्बोधाय न निब्बानाय संवत्तति।na sambodhāya na nibbānāya saṃvattati.
तस्मा तं मया अब्याकतं। Tasmā taṃ mayā abyākataṃ.
手段ではなく的を達成することを悟らせたい時 何故言うことができないのかって?
それは正しい意味でも教えでも修行でもなく、神通力もに至る力も得られず、涅槃にたどり着くのに全く役に立たないからだ。
それ故に私は(世界だのだの死後の世界だのについてを)記載しなかったのだ。

小部

出典 原文 使用用途 雰囲気意訳
ダンマパダ103 यो सहस्सं सहस्सेन, सङ्गामे मानुसे जिने।Yo sahassasahassena, saṅgāme mānuse jine;
एकञ्‍च जेय्यमत्तानं, स वे सङ्गामजुत्तमो॥Ekañca jeyyamattānaṃ, sa ve saṅgāmajuttamo.
本当の強者をほめる 戦場100万人に勝つよりも自分に打ち勝てる人間の方が一番の勝者だ
スッタニパータ35節 एको चरे खग्गविसाणकप्पोeko care khaggavisāṇakappo 孤独な歩みを勧める時 のように一人で歩んでいけ

漢訳大蔵

阿含部

出典 原文 使用用途 雰囲気意訳
涅槃経下巻 諸行無常 是生滅法
生滅滅 寂滅爲
諸行無常を悟る時 この世のすべては移り変わるもので、その中で生死を繰り返す。
この世界えて初めて、真実悟りにたどり着く喜びがある。

本縁部

出典 原文 使用用途 雰囲気意訳
六度集経8巻 今爲眼曹 諍自謂諦
覩一非 坐一
一面的真理だけを追っていては益だという時 昨今、さながら見えない人のように、むなしく言い争い、自分の考えこ真実だ、自分の立場以外は間違っていると、所詮イメージに寄せて相争っているようだ。
過去現在因果経3巻 八正。是三世諸之所履行。
趣般涅槃路。
。智通達。
八正を勧める時 八正が、になるもが涅槃に行くとき行うことだ。
私もすでに遂して、頭は冴えて何もしがらみもない。
賢愚経3巻 今貧窮。用是小燈。供養
功徳。世得智照。
滅除一切衆生闇。
思いはきちんとある時 私は貧しいので、こんな小さなでしか供養できない。
でもこの功徳によって、どうか来世で智を得て、人々の苦しみをなくすことができたら。
賢愚経8巻 園地。須達所買。
林樹菓。所有。
二人同心。共立精舍。
太子給孤園。
園精舎と名付ける時 この園の土地は今しがたスダッタが買い、木々や、果実はジェータ太子のもの。
2人で協力して建てた精舎なので(ジェータの訳)給孤(スダッタのあだなの訳)園とでも呼ぶのがいいだろう。
出曜経 何二十億
若琴絃急緩者爲成曲不乎。
不也世尊。
急いては事を仕損じることを述べる時 「ところでソーナ、琴は弦がきつくってあったら音を奏でられるかどうかわかるか?」
シャカ様、理です、音を奏でられません」
説譬喩経 曠野明路 人走喩夫    
無常 井喩生死    
根喩命 二同    
根念念衰 四同四大    
蜜滴喩五欲 比邪思    
火同老病 方死苦    
智者觀斯事 象可厭
五欲心著 方名解脱人    
 常爲死王    
寧知色 不
たとえ話を最後にまとめる時 荒野とは明かりのない人生の暗闇で、ここを走る人とは煩悩まみれの人
彼を追いまわす無常のたとえで、から逃げ込んだ井戸は生死の
木の根は人の命であり、が二匹ののようにその木をかじり、人は衰えていく
周囲には四大種が四匹ののように囲み、五欲が蜂蜜のように垂れてきて、が刺すように悪い考えが浮かぶ
やがて火が老いと病のように木を焼き、死の苦しみが底でのように口を開けている
もし、智があれば、よく観察して、生死の中でただちに五欲から離れ、解脱することができる
人は死ぬことに追われているのに、欲望にまみれて形あるものを追いめるものこそ、夫なのである

般若部

出典 原文 使用用途 雰囲気意訳
般若波羅蜜多心経 照見五蘊皆 全てはであると悟った時 この世界は5つの要素からできていて、それらすべてがだと悟った。
般若波羅蜜多心経 色不異不異色。
色即是空即是色。
形あるものに実体がないと気づいた時 形あるものと実体がないものに異なるところはなく、実は形あるものは実体がないのである。
般若波羅蜜多心経 故。
恐怖。遠離想。
とらわれから解放される時 地に立てば)心の縛りがなくなり、心に縛りがなければ何かを恐れることもなく、存在しないものをあたかも存在しているかのようにとらわれることからも離れられる。
般若波羅蜜多心経  般羅掲
般羅僧掲 菩提僧莎訶
悟り地に言ったものを見送る時 悟り地に行くものに幸あれ
※ただしあくまでもサンスクリット的には

法華部

出典 原文 使用用途 雰囲気意訳
妙法蓮華経1巻 是諸衆生聞法。
究竟皆得一切種智。
信じるものは救われる時 の教えを聞いた人間は、全て悟りを開くことができる。
妙法蓮華経1巻 所謂諸法如是相。
如是性。如是
如是力。如是作。
如是因。 如是縁。
如是果。如是報。
如是本末究竟等。
理解できない人には抽的にしか伝えられないものを言う時。 悟り地で至れる真実)の有り様とは、存在はこのような有り様で、このような本性で、このようなもので、このような力を持っており、その力はこのようなもので、このような原因と結果を持ち、このような果報をもたらす、ということをはっきりとしめしているのだ。
妙法蓮華経5巻  所諸劫
 億載
とりあえずな時 もしかしたら私が今生で悟りを開いてになっていると思っているかもしれないが、実は既にとてつもなく長い時間が経過している。
妙法蓮華経5巻 自作是意 以何衆生
得入 速成就
人を救いたい 私はいつも、どのようにして人々をの教えで正しいに導いて悟りを開かせられるかを、考えているのだ。
妙法蓮華経7巻 世尊。 若有衆生。
聞是觀世音菩薩品自在之業
普門示現神通力者。
知是人功徳不少。
観音経の効果を言いたい時 シャカ様。
もしこの経典に説かれている、観音菩薩には、自由自在にすべてを救ってくれる力と、神通力で救いをめる人の前に現れてくれるという力がある、と聞いた人はそれだけで大きな功徳を得たと知るべきでしょう。

華厳部

出典 原文 使用用途 雰囲気意訳
大方広厳経 昔所造諸業 皆由始貪恚癡
身語意之所生 一切今皆懺悔
とりあえず懺悔する時 私たちが遠い昔からやってきた悪い行いは、永遠ともいうべき昔以来の貪欲、怒り、愚痴によるものです。
それらは体と言葉と心の3つから生じています。今々は様の前ですべてを懺悔します。

涅槃部

出典 原文 使用用途 雰囲気意訳
量寿経上巻  法王
過度生死 解脱
になりたい時 どうか私もとなって、とても神になって、現世で迷い苦しんでいる人々を救って解脱させてあげたい。
量寿経上巻 誓得 普行
一切恐懼 爲作大安
になるために誓う時 私は誓う!人々を救うために立てた大願を実現するために修行して、となって、全ての苦難におびえる人に安らぎを与えることを!
量寿経上巻 。十方衆生至心信
欲生 至十念。
若不生者不取正覺。
除五逆 誹謗正法
になるために誓う時
いわゆる十八番
もし私がになっても、10万もの人々が信心を持ち、私のに生まれてきたいと思い、一でも念じたにもかかわらず、それが成し得ないようなことにしまったのであれば、私はにはならない。
ただ、悪人や教えをののしる人は除きたい。
如是諸上善 善人は皆救われることを述べる時 というのも、もしその世界極楽浄土)に生まれたならば、多くの善人と出会うことができるからだ。
等衆生信是
不可思議功徳一切諸所護念
経を信じさせたい時 あなたたちのような生きとし生けるすべてのものよ。の不可思議な功徳をほめたたえ、全てのたちが念じるこのお経を信じなさい。
垂般涅槃説教誡経 丘。滅後尊重敬波羅提木叉。
如闇遇明貧人得則是大師。
身の処し方を教える時 者たちよ、私が滅んだ後にも、本(波羅提木叉)を尊びなさい。
(それは)暗闇で明かりを手に入れる、貧しい人が正しい宝を得るような、お指導者となるのだ。

経集部

出典 原文 使用用途 雰囲気意訳
維摩詰所説経中巻 以一切衆生病是故病。 人の苦しみに共感する時 全ての人の病は私の病である。
明経4巻 善哉善哉。大士。
是行大悲者。
爲衆生故捨難捨。
人第一勇健。
虎に自分をささげ人間ほめる すばらしい。偉大な人よ、あなたこそ今心からの慈悲を行ったものだ。
衆生のために捨てることが難しいようなものを捨てるのだから、あなたは最も勇気のある人である。
四十二章経 言。色。
色之爲欲。其大外。
頼有一矣。其二。
之民無能
色欲を説く時 が言うには欲の中で色欲ほど強いものは他にないだろう。幸運なことに々の中にはそれが一つしかなく、もしこんな欲望が二つもあったら世の中の人々で真実にたどり着けるものなどいないのだ。
四十二章経 告沙門。意。
意終不可信。
即禍生。得阿羅漢
可信告諸沙門。
無視女人。
若見無視言。
言者。勅心正行。
爲沙門濁世。
不爲泥所汚。
老者以爲長者以爲
少者爲。幼者子。敬之以
意殊諦惟觀。自頭至足自視内。
彼身何有。露諸不種。
其意矣
色欲を抑えさせる時 修行者に言うには、女を見てはいけない。
見てしまったら言葉を交わすな。
言葉を交わしてしまったら、心をめて「私は修行者なので、蓮華が泥に汚されないように、俗世で身を正しく保つべきなのだ」と言え。
老いた女は、年上は、年下は、幼い子供が子と思い、礼儀を持って敬え。
特に、心を込めて観察しろ。
自分の頭から足先に至るまで、「内側にあるのは悪しきものや不浄なものなのだ」と顧みて、解き放つのだ。

釈経論部

出典 原文 使用用途 雰囲気意訳
『大智度論初品中菩薩釈論』8巻4 王欲度一切衆生。非一切耶。何以不見愍。今日食。 片方だけを救おうとしたのを非難したい時 王様は全てを救おうとしているらしいが、私もその全てではないのか?
私を哀れまず、私の食べ物を奪おうとするのは、どういう理由なのか?

中観部

出典 原文 使用用途 雰囲気意訳
『中論』 性即是一切世間性。 世界の在り方を述べる時 如来とはすなわち現象世界と同質のものである。

論集部

出典 原文 使用用途 雰囲気意訳
鳴『大乗起信論』 所言義者。則有三種。何爲三。
一者大。
謂一切法等不増減故。
二者相大。
謂如藏具足量性功徳故。
三者用大。
生一切世間出世間善因果故。
世界の在り方を述べる時 全ての人を救う教えの現れ方は、3つある。
1つは、あらゆる存在が本来持っているの姿で、というのもこれは不変で増えも減りもしないからだ。
2つは、性質で、というのも全ての人には悟りを得るためのプラスの性質が備わっているからである。
3つは、その性質が持っている働き、エネルギーめいたもので、というのもそれによって悟る前と後を分かつ原因と結果を生み出せるからである。

日本仏教関係

面倒なのでざっくりとした活動時期で時代を分ける

奈良時代以前

出典 原文 使用用途 雰囲気意訳
憲法七条 篤く三宝を敬へ。三宝とは・法・僧なり。
則ち四生の終帰、万の極宗なり。
何れの世、何れの人かこの法をばざる。
とりあえず信じればいいものを端的に言う時 ただひたすら三宝を敬いなさい。三宝とは・法・僧のこと。
これは全ての生物、全てのにおいてであり、どんな世でもどんな人でも尊ぶべきものに違いない。
聖徳太子寿繡帳』 世間は虚仮なり。ただのみこ真実なり。 信仰に生きたい時 この世はむなしく移ろいゆくもの。ただだけが真実であるようだ。

平安時代

出典 原文 使用用途 雰囲気意訳
空海『秘蔵法鑰』 生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めにくらく、
死に死に死に死んで死の終りにくらし。
人生論を言いたい時 暗闇から生まれ暗闇に死んでいく。
『本』13巻
空也についての記載
彼を先にしを後にするの思いをもって思いとなし、
他を利し己を忘るるの情をもって情となす。
思いやりの重要性を説く時 自分よりも他人への思いやりの気持ちと、他人の利益を追い己の利益を忘れるような心情を信条とする。
信『往生要集』 それ往生極楽の教行は、濁世末代の足なり。
賤、たれか帰せざるものあらん
ただし顕密の教法は、その文、一にあらず。
事理の業因、その行これ多し。
利智精進の人は、いまだ難しとなさず。 予がごとき頑魯のもの、あに敢てせんや。
この故に念仏の一門に依りて、いささか経論の要文を集む。
これを披いてこれを修するに、覚り易く行い易し。
教えを広めたい時 極楽に往生するための教えや行いというのは、このような末代の人々を導くために大事なものである。
であってもこれに帰依したくないものなどいないだろう。
しかし、教えは様々で、頭のいいひとは行うのも簡単だが、私のような馬鹿はできないだろう。
そこで、念仏に限定して、経典から大事そうなものを集めてみた。
これなら、理解できるだろう。

鎌倉時代

出典 原文 使用用途 雰囲気意訳
法然『選択本願念仏集』 一心に専ら弥の名号を念じて行住坐、時節の久近を問わず。念々に捨てざる者、これを正定の業と名づく。
かのの願に順ずるが故に
とりあえずと唱えることを勧める時 心を込めて、歩いている時も立ち止まっている時も、時間の長短を問わず、「南」と唱え続けることをやめないことを「正定の業」というのだ。
これは、の唱えた本願に沿っているためである。
法然『選択本願念仏集』 念仏は易きが故に一切に通ず。諸行は難きが故に諸機に通ぜず。
然ればすなわち、一切衆生をして等に往生せしめんが為に、難を捨て易を取って本願としたまえるか。
もしそれ造像起を以て、本願としたまわば、貧窮困乏の類は定んで往生の望を絶たん。然るに富の者は少なく、貧賤の者ははなはだ多し。
もし智高才を以て本願としたまわば、愚鈍下智の者は定んで往生の望を絶たん。然るに智ある者は少なく、愚痴なる者ははなはだ多し。
もし多聞多見を以て本願としたまわば、少聞少見の輩は定んで往生の望を絶たん。然るに多聞の者は少なく、少聞の者ははなはだ多し。
もし持を以て本願としたまわば、破の人は定んで往生の望を絶たん。然るに持の者は少なく、破の者ははなはだ多し。
一番簡単な南と唱えることが大事だと言う時 念仏は簡単だからこそ、全ての人々が行え、それ以外の修業はどんな人にも行えるかというと難しい。
そういうことなので、は全ての人を等しく救うために簡単な方を本願にしたのではないか。
例えば、仮に像作りや建築を本願としたら、貧しいものは救われない。そして貧しいものは多いのだ。
仮に知恵や才を本願としたら、愚かなものは救われない。そして愚かなものは多いのだ。
仮に教えを見聞きすることの多さを本願としたならば、少ないものは救われない。そして、教えを見聞きすることが少ないものは多いのだ。
仮にを固く守ることを本願としたならば、破るものは救われない。そして、を破るものは多いのだ。
醍醐本『法然上人伝記』 善人なお以て往生す、いわんや悪人をや。 悪人も救われることを告げる時 善人だって極楽往生して救われるのだから、悪人だってそうに違いない。
貞慶『興福寺奏状』 およそ恒沙の法門、機を持ちて開き、甘露の良、縁に随って授く。
みなこれ釈迦大師。量劫の中に難行苦行して得るところの正法なり。
とりあえず修行を勧める時 たくさんある仏教の教えというのは、機が熟して開するものであり、良のような教えというのもすべては縁あってのものです。
これらは、苦しい修行を通して初めて得られる「正しい教え」なのです。
貞慶『興福寺奏状』 それ極楽の教門は、盛んに行を勧む。
浄土の業因、これをもって最とす。
とりあえず規則を守ることを勧める時 死後に救われる教えというのは、現世で盛んにを守って修行をすることを勧めています。
極楽往生するには、これが一番肝心なのです。
栄西『論』 れは扶法に依って、法をして久住せしむるの義を明かす。 とりあえずを勧める時 に支えられたの教えによって、正しい仏法がずっと続くことを説いていくのだ。
明恵『邪輪』 たといこれなしといえども、かくの如く知る。これ正見なり。
すでに正見あらば、欣ぶべきを欣び、厭うべきを厭う。
菩提心はこれの正因と知るが故に、念々にこれを楽す。
が所立はこれ邪と知るが故に、念々にこれを厭悪す。
終に必ず菩提心を増長し、果を成すべし。
とりあえず自覚することが大事とする時 たとえ菩提のような心が自分にはなくても、そのことを自覚すれば、見るは養われる。
見るが備わっていれば、正しいことは喜び、誤りは避けられる。
この、菩提のような心が修行の根にあることをわかっていればこそ、大切にする。
自分勝手な考えは間違いだとわかれば、遠ざける。
このようにして、結局最後には菩提のような心を成長させ、悟りを得られるのである。
親鸞異抄』1巻 の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて、念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち、摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。 とりあえず念仏を唱えることを勧める時 全ての人を救おうというの誓いの力によって、私は間違いなく極楽へ行けるのだと信じ、念仏を唱えようという気持ちになりさえすれば、その間に極楽往生は確定する
親鸞告讃』 の本願信ずべし。
本願信ずるひとはみな
摂取不捨の利益にて
上覚をばさとるなり
とりあえず信じろと言う時 の本願さえ信じれば、その人はの恩恵によってこの上ない地になれる
親鸞異抄』3巻 善人おもちて往生をとぐ、いわんや悪人をや。 悪人も救われることを告げる時 善人だって極楽往生して救われるのだから、悪人だってそうに違いない。
親鸞異抄』6巻 この悲願ましまさずは、かかるあさましき罪人いかでか生死を解脱すべきとおもいて、一生のあいだもうすところの念仏は、みなことごとく如来大悲の恩を報じ徳を謝すと思べきなり。 心を込めて念仏を唱えろと言う時 が全ての人を救おうとしていなければ、自分のような罪人がどうして極楽に行けるものかと思って一生の間に唱える念仏というものは、全ての恩に報いて、その徳に感謝する行為であると思うべきである。
親鸞『正像末浄土和讃』「恩徳讃」 如来大悲の恩徳は
身を粉にしても報ずべし
知識の恩徳も
ほねをくだきて謝すべし
には感謝しろと言う時 からいただいた恩や徳は、たとえどれだけ努力してでも、報いよう。
師匠や良い導者からいただいた恩と徳も、が砕けるくらいになっても感謝しよう。
元『建撕記』 顕密二教共に談ず、本来本法性天然自性身と。
もしの如くならば、三世の諸なにに依りてかさらに発心して菩提をむるや。
修行ってそもそも何?と問う時 顕教だろうが密教だろうが、人間はもともとの性質を備わっていると説いている。
それなのに、なぜすべてのは改めて悟りに向かって修行しているのか?
元『弁話』 宗門の正伝にいわく、この単伝正直の仏法は、最上のなかに最上なり。
参見知識のはじめより、さらに焼香・礼拝・念仏・修懺・看経をもちいず、ただし打坐して身心脱落することをえよ。
もし人、一時なりというとも、三業に印を標し、三昧に端坐するとき、遍法界みな印となり、尽虚ことごとくさとりとなる。
とりあえずしろ、以上、と言う時 釈尊から代々伝わってきた教えにおいて、この私が伝えた正しい仏法こそが、最上とされている。
焼香・礼拝・念仏・修懺・看経といった他の教えに心を奪われず、ただひたすら座して心身の区別を棄てなさい。
もし一でもすべてをなげうって正しい教えを信じ、ひたすら座すれば、全世界悟り世界になる。
元『正法眼蔵』「現成案」 自己をはこびて万法を修するを迷とす、万法すすみて自己を修するはさとりなり。
迷を大悟するは諸なり、悟に大迷するは衆生なり。
さらに悟上に得悟するあり、迷中又迷のあり。
のまさしく諸なるときは、自己は諸なりと覚知することをもちいず。
しかあれども諸なり、しもてゆく。
悟ってるかどうかは本題ではないと言う時 そもそも自分が悟ることで自分の外側の世界が変わると思っているのは迷いで、あるがままの外側の世界によって、あるがままの自分に気づくことの方が悟りです。
とは迷いを見据えるものであって、悟ってるかどうかにこだわるのは普通の人です。
悟り胡坐をかかずにさらに修行に励むものもいれば、さらに迷うものもいる。
がなぜかというと、そもそも自分をとは意識するわけではない。
ただし、それでも彼らはであって、自分の行いでであることを明するのである。
元『正法眼蔵』「現成案」 をならうというは、自己をならう也。
自己をならうというは、自己をわするるなり。
自己をわするるというは、万法にせらるるなり。
万法にせらるるというは、自己の身心および他己の心身をして脱落せしむるなり。
そもそも修行とは何かを言う時 修行というのは、まず自分を理解することです。
自分を理解するということは、自分の自というものを捨てることです。
自分の自を捨てるということは、外側の世界によってあるがままだなあとなることです。
外側の世界によってあるがままだなあとすることは、自分も他人も自由になることです。
尊『金剛子感身学正記』 人身受け難し。
仏法遭い難し。
たまたま仏法に遭い、名聞をめず、利養を望まず、大乗を受学し、正修行し、衆生を利益し、四恩に報謝せん。
人の身でも仏法に出会えたことに感謝を述べたい時 人間になるというのはむずかしい。
また、人間に生まれたとして、仏法に出会うことも難しい。
たまたまこうして人間として仏法に出会うことができたのだから、地位や名、利益なんてめずに、ただ大乗仏教の教えを学び、修行し、生けるものに恵みを与え、四恩に報いて感謝しよう。
坐禅論』 夫れ坐禅は大解脱の法門なり、諸法是より流出し、万行是より通達す、神通の徳、の内より起こり、人性命のの内より開く、諸の門より出入し、菩薩行じて即ちの門に入る。 とりあえずしろ、以上、と言う時 坐禅というのは解脱するための方法であり、数々の教えはこれから生まれた。いろいろな修行というのも、座によって理解でき、優れた知恵というのも座によって得られる。どのような世界でどのような命に生まれたところで、座によってが開ける。も座によって悟りを得るし、菩薩修行中に座に分け入っていく。
『大覚拾遺録』「建長寺法語規則」 を見てのち行くは即ち良にあらず。
訓辞を待ちて志を発するは、実の好僧にあらず。
兄弟同じく清浄な伽に住す。
既に寒の苦なし。
まさにの事をもって茲に念じ茲にあるべし。
自発的にやれよと言う時 見て進むのは優れたではない。
教え諭されてようやく志がわいてくるような人間は、本当に優れた僧侶ではない。
君たちはこの奇麗な伽(建長寺)に住んでいる。
既に飢餓や寒さとも縁。
というわけで、このことを心にとどめて、ここで過ごすべきなのである。
日蓮『立正安論』 く信仰の寸心を改めて、実乗の一善に帰せよ。
然ればすなわち三界はみな仏国なり、仏国それ衰えんや。
十方は悉く宝土なり、宝土なんぞ壊れんや。
に衰微なく土に破壊くんば、身はこれ安全にして、心はこれ定ならん。
とりあえず真実の教えに従えと言う時 あなたはく心を入れ替え、真実仏法を信じなさい。
そうすれば、世界は皆全てです。
に衰えはありますか?いや、ないのです。
あらゆる場所は宝土となります。宝土は壊れることがありますか?いや、ないのです。
もしも衰えず、土地も破壊されなければ、身は安全になり、心は常に静でいられるのです。
日蓮『勧進本尊抄』 今、本時の娑婆世界は、三災をはなれ四劫を出たる常住の浄土なり。
は既に過去にも滅せず、未来にも生せず。
所化は以て同体なり。
今の世だって楽園になると言う時 今、この地上にの浄土が実現すれば、あらゆる災いが亡くなり穏で永遠の浄土となる。
過去のほろんだのではない、未来に又生まれるというのでもない。
生きとし生けるものは全てと一体になる。
日蓮『立正安論』 それ、釈迦の以前の仏教はその罪をるといえども、仁の以後の経説はすなわちその施を止む。 とりあえず敵対者は殺すなと言う時 釈迦悟りを開く前は断罪して人をったが、悟りを開いた後は命を断つことまではしていない。
一遍『一遍上人語録』上「六字生の頌」 六字の中
生死
の間
即ち生を
とりあえずと唱えることを勧める時 「南」の六文字の間には、生死をえた地がある。
その一の間に、救いの世界が現れる。
『一遍絵』11巻 一代教みなつきて南になりはてぬ とりあえずと唱えることを勧める時 釈迦人生を通した教えというのは、南でまとめられてしまったのである
一遍『一遍上人語録』上 身をすつる
すつる心を
すてつれば
おもひなき世に
すみぞめの袖
とりあえず執着するなと言う時 が身を捨てようという決心がつかずに迷う心さえ捨てれば、この世に対する執着はなくなる
さながらこの粗末な染めののように
一遍『一遍上人語録』上 すてゝこそ
みるべかりけれ
世中を
すつるもすてぬ
ならひありとは
とりあえず執着するなと言う時 とりあえず捨てて世界を見てみなさい
全てを捨ててもまだ捨てきれていないものがあるのだから
一遍『一遍上人語録』上 おもふこと
みなつきはてぬ
うしとみし
よをばさながら
はつかぜ
とりあえず色々捨ててすっきりした時 色々思っていたこともみんななくなってしまった。
憂いに満ちていたと思っていたこの世界も、初風のような世界だったようだ

室町時代

出典 原文 使用用途 雰囲気意訳
疎石『問答集』中巻 門の宗師の学者に示すこと、一言半句に過ぎず。
その一言半句も、修行用心のためにはあらず、直に本文を示すのみなり。
学者鈍根にして、たとい直下に承当せざれども、これを案として知解情量、及ばざる処に向かって提撕すれば、時節到来して、曠劫の明一時に消滅すべし。
修行の在り方を述べる時 宗の師匠子に言うことなど、短い言葉に過ぎない
その言葉も修行の心構えなどではなく、教えを端的に示すものである
学ぶものはたとえ知恵もなく、すぐにわからなくても、これを問いにして、解釈や分析すら及ばない地をせば、ある日長い間の迷いが一気に消える時が来るものである。
一休宗純狂雲集』135 案参じ来たって明歴々たれども
胸襟勘破すれば暗
憎して死に到るまで忘却しがたし
伴の忠言、根に逆らう
形式的な修行を皮る時 師匠から与えられた問いを解き、悟ったような顔をしているが、胸の中はっ暗闇。
人を恨み憎しむ気持ちも死ぬまで消えないようで、ともに修行する兄弟子の言うことにすらを貸しやしない。
一休宗純狂雲集』156 狂の狂客、狂を起こす、
来往す淫坊の中。
具眼の衲僧、か一拶せん、
南を画し北を画し、西東を画するのみ。
あえて破に打ち込む時 私のような不逞の輩が一大センセーションを起こしている。
私は遊郭屋にいる。
しっかりした坊主よ、問答でも仕掛けに来い。
どうせも四四面なことしかできないだろうよ。
『立正治論』 純円一実の行者は、作むなしからず。
受け難き上の人身を受け、値い難き優曇華の経文に値い、今度心因に種を植えざれば、将来定めて悲しまん。宝山に登りて手をしくして、いたずらに帰ることからんのみ。
とりあえず法華経を信じろと言う時 法華経を信じる修行者は、全てになるのだ。
本当に希少な、人間の身に生まれるという経験をし、さらに優曇華にも値する『法華経』の教えに巡り合えた。
今度こそ心の中に成仏する種を植えなければ、将来きっと悲しむだろう。
せっかく宝の山に分け入ったのに何も持たず帰るような真似をするな。
如『如上人御一大記聞書』 仏法は一人居てよろこぶ法なり。
一人居てさえとうときに、二人よりあわばいかほどありがたかるべき
一人よりも二人がいいさと言う時 の教えはひとりで喜ぶ教えです。
一人でいても尊いのだから、二人で信仰すれば、どれだけありがたいのやら。
『宗義制法論』 世出の昇進を思わん人最もむべきは善師、甚だ恐るべきは悪師なり。
善師に随える者は、悪性変じて善となる。
譬えば漆に物を入るれば、変じて白色となるが如し。
師匠が大事と言う時 昇進を望む物が一番必要なのは良い師匠であり、恐れる必要があるのは悪い師匠である。
善い師匠に会えれば、たとえもともと悪い性質でも、良い性質に変えることができる。
例えば、い漆にを混ぜれば白色に変わるようなものだ。
『宗義制法論』 あらゆる命は一身第一の宝、満界の宝にも替えざる重宝なり。
しかも仏法のためには、この大事の命をば、なおこれを惜しまず。
いわんや命の他の物、何をかこれを惜しまんや。
命をささげ覚悟と言う時 命こそが第一の宝であって、世界しい宝にも代えられないものだ。
しかも、仏法危機した時にこの一番大事な宝である命を惜しまないのだ。
ましてや、命以外のものなど、言うまでもない。

戦国時代以降

出典 原文 使用用途 雰囲気意訳
沢庵『不動智神妙録』 不動とは、うごかずという文字にて
智は智の智にて
不動と申しても、石か木かのように、性なる義理にてはなく
向うへも、左へも、右へも、十方八方へ、心は動き度きように動きながら、卒度も止らぬ心を、不動智と申し
心の在り方を述べる時 不動とは、文字で書くと「動かない」である。
智とは、文字で書くと智の「智」である。
不動と言っても、石や木のように意思がないまま動かないことではない。
あちこちに自由に動きながら、一たりとも止まらない心こそ、不動智と呼ぶのである。
沢庵九十偈』 ただ子心了し、師有りてこれを明するのみ。
もし明の師きは以てれ是れを得、を得るといえ。
結局のところ一人前になるとはどういうことか言う時 ただ子が会得して、師匠がいれば師匠がこれを明するだけである。
もし、明するような師匠がいなければ、自分自身での教えを会得したと述べよ。
隠元『普照師広録』「興福寺語録 幼年より発心する者、是れそ。
参究する者、是れそ。
未だ省力あらざる者、是れそ。
冀くば、忙動静の際、行住坐の間、本参を舎くことなく、々として究め尽くせ。
心構えを説く時 幼いころからに進もうとする者は何者だ。
真理追究する者は何者だ。
悟りに至れないままでいる者は何者だ。
どうか、忙しかろうが、暇であろうが、生活すべてにおいて、正しい実践を忘れずに、真理追究しなさい。
隠『遠羅釜』 一切の賢、古今の智者、定に依らずしてを成就する底、判箇もなし。
夫れの三要は、万古の大綱なり。
か敢て軽にせんや。
とりあえずしろ、以上、と言う時 これまでの世の賢人・聖人・知者といった人々で、座に依らなくての成果をあげたものなんていない。
そもそも、身を正しく、気持ちを落ち着け、知恵を得るというのは、の当初からの決まり事だ。
軽々しく扱ってはいけない。
『十善法語』 人の人たる十善に在じゃ。
人たるを全くして賢の地にも到るべく、高く果をも期すべきとことじゃ。
とりあえず教えを伝える時 人が人として生きるべきは、この十善の中にある。
人として生きるべきを守ってこそ、賢人・聖人に至れるし、悟りにも到れる。
良寛『円通寺に来りてより』 円通寺に来りてより
なるかを知らず
門前は千
さらに一人をも知らず
づけば手ずから洗い
食尽くればいんに出ず
て高僧伝を読むに
僧は清貧に可なるべし
僧侶の在り方を述べる時 円通寺に来てから何年経ったかわからない
門前にはたくさんのがあるが、も知り合いなどいない
が汚れれば自分で洗い、食べ物がなくなれば町で鉢する
これまで高僧伝を読んできたが、やはり僧侶は清貧であるのがよいのだ
良寛『鉢』 是れ釈氏子
一衣一鉢迥に然たり
君見ずや浄名老人う有り
食にて等しき者は法も然り
直下に恁麼し去るも
々として驢年に到る
鉢の精神を述べる時 私も釈迦子の一人
と鉢だけでさっぱりしている
昔、維摩居士が言っていたのを知っているだろう
食べ物を受けるのに差別をしてはいけない、仏法だってそうである。
たとえ言葉ではわかったつもりになっても、いったい地に到れるのだろうか
『良寛自画像讃』 世の中に
まじらぬとには
あらねども
ひとりあそびぞ
われはまされる
孤独を勧める時 世間とは一切交わらないわけではないのだが、一人遊びが一番である

出典不明

出典 原文 使用用途 雰囲気意訳
開経偈 上甚深微妙法 千万劫難遭遇
今見聞得受持 願解如来真実
とりあえずお経を読み始める時 神妙でありがたい教えに巡り合うことは、とてつもなく長い時間を経ても難しいものである。
しかし、いま私はそれに出会い、聞くことができるので、どうか如来の教えを理解させてください。

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