中澤佑二単語


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中澤佑二(なかざわ ゆうじ1978年2月25日 - )とは、日本の元サッカー選手である。
サッカー日本代表

現役時代のポジションはDF(CB)。187cm78kg。利き足は右足。

愛称ボンバーヘッドボンバー

概要

ポジションセンターバック187cmという日本人としては恵まれた体格でありスピードはあまりいが競り合いに強い。セットプレーからのヘディングによる得点も多く日本代表では17得点記録しており、DFとしては群を抜いて多い数字である。

埼玉県吉川市出身。高校卒業後、ブラジルサッカー留学する。帰後、1998年ヴェルディ川崎練習契約で入団し1999年にはJリーグ新人賞にくなど活躍するようになる。2002年横浜F・マリノスに移籍。2004年にはリーグMVPを受賞、日本人DFのMVP受賞は初であった。以後、現在に至るまで横浜F・マリノスの不動のレギュラーとして活躍し、Jリーグベストイレブンは6回受賞している。

代表には1999年に初選出。アジアカップ2004、2006 FIFAワールドカップではレギュラーとして出場した。とくにアジアカップ2004準決勝ではロスタイムに同点ゴールを決めている。ワールドカップ後、中澤は一時代表からの引退を表明したが、イビチャ・オシム監督就任後、代表に復帰。オシムが病に倒れ、岡田武史バトンタッチした後もDFラインリーダーとして、田中マルクス闘莉王と共に活躍。2010 FIFAワールドカップでは全4試合に出場した。

背番号クラブでも日本代表でもほとんど「22」を付ける。

経歴

生い立ち~プロ入りまで

1978年2月25日埼玉県吉川市中澤の次男として生まれる。2歳上のがおり、後にプロになれたのはの存在やという追いかける存在がいたことが大きかったと振り返っている。少年時代は照れ屋で人前で喋るのも苦手な無口子供だったという。勉強も苦手で運動もそこまで得意ではなく、身長小学生の頃はそこまで大きいわけではなかった。

サッカーを始めたのは小学6年生のときとプロサッカー選手のなかでは遅めに部類する。通っていた三輪野江小学校サッカー少年団を作る監督が赴任してきたが、最初はサッカーにたいして興味がなかった。入団したきっかけは友達が始めたからという理由だったが、当時は怒られてばっかりで強制的にサッカーをやっている状態だったことからサッカーが楽しいと思ったことはなく、く辞めたいと思っていた。

中学生になり吉川中学校サッカーを続けていたが、の選抜に入れるような選手ではなく、クラブ内でも自分よりうまい子がいっぱいるような状況だった。中学3年生となった1993年Jリーグが開幕。当時、スター選手だった三浦知良に憧れを持ち、プロサッカー選手になりたいという標を明確に持つようになる。この頃から本格的にサッカーに取り組むようになる。

高校埼玉県立三郷工業技術高等学校に進学。入学時は170cmくらいだった身長が3年生の頃には185cmにまで伸び、キャプテンにも任命される。プロになるために高校選手権出場を本気でしていたが、結果は埼玉県予選初戦敗退。全的にも名だったことから当然プロからのオファーは全くなく、卒業Jリーグに売り込む価値を上げるべくブラジルサッカー留学を計画する。

高校卒業後の1996年ブラジルへ渡り、アメリカFCの下部組織に加入。当初はチームメイトから仲間とみなされず、スパイクや金銭を盗まれたこともあり、練習にすら参加させてもらえない過酷な環境だったという。それでもポルトガル語を習得し、ひたすら走って体力をつけ、徐々に認められて練習試合にも起用されるようになる。ブラジルへ渡って1年後にビザ更新の為日本に帰したところクラブから必要書類が届かずブラジルでのプレーを断念することになる。

ブラジルからの帰後、Jリーグクラブに売り込みはかけたがオファーは届かず、校のサッカー部で在校生に混じって練習を続ける日々が1年以上続く。1998年のある日、ヴェルディ川崎ユースチーム練習試合をおこなうことになり、この試合年齢を隠して高校生として出場。すると、この試合ゴールを決めるなど立ったパフォーマンスを見せたことがきっかけとなり、ヴェルディ練習生となる。

練習契約のためクラブから給料は支払われず、交通費など金銭補助は一切く自での練習参加の身となり、地元からヴェルディ練習場のある東京都稲城市まで片2時間かけて練習に参加していた。立つためにアフロヘアにし、練習の中で自分の長所を見せられるようになっていた。

ヴェルディ川崎 / 東京ヴェルディ

1999年、苦労の末にヴェルディ川崎とのプロ契約を勝ち取る。当時のヴェルディは前年に読売が撤退し、力の多くが退団となったことで大幅な若返りを切っており、中澤にとっては追いとなっていた。3月13日J11stステージ第2節セレッソ大阪戦でスタメンに抜され、くもプロデビューを飾る。この試合完封勝利に貢献したことから秀総監督からの信頼を得て、レギュラーに定着。4月10日名古屋グランパスエイト戦ではプロゴールとなる決勝ゴールを決める。長身アフロヘアという独特の貌から「ボンバーヘッド」の異名が定着するようになり、苦労人だった経歴が報道されることで知名度も飛躍的に上がり、一躍人気選手となっていく。プレーでも粗削りな面はありながらも経験を積むごとに成長を遂げていき、対人プレー中戦の強さから米山篤志とのコンビで守備の中心として活躍。1stステージでは2位というチーム大躍進に貢献。この活躍が評価され、この年のJリーグ新人王Jリーグベストイレブンに選出。全く名だった男がたった1年で成し遂げたシンデレラストーリーとなった。

プロ2年となった2000年はもはや不動のセンターバックとして君臨していた。この頃にはシドニー五輪代表や日本代表にも選出され、日本を代表する選手の一人といえる存在にまで成長。試合には敗れたものの、8月19日横浜F・マリノス戦ではDFながらも1試合2ゴール記録。個人としては日々評価を高めながらも財政難に陥っていたチーム立った戦績を残せずにいた。東京都に本拠地を移転し、東京ヴェルディ1969に改名した2001年J2降格を辛うじて回避できるレベルにまで低迷。チームの不振もあって代表からも外れるようになり、翌年に控えた日韓ワールドカップ出場のために年明けにクラブに対して移籍を希望する。

横浜F・マリノス

2002年2月4日J1リーグ横浜F・マリノスに移籍。ヴェルディ側がなかなか移籍を認めなかったことで移籍交渉が難航したが、移籍金1億7000万円で決着する。新地でもすぐにレギュラーを獲得。松田直樹との日本代表センターバックコンビは当時のJ1リーグ最強の呼びもあった。4月20日J1第7節ジュビロ磐田戦で移籍後初ゴールを決める。チーム1stステージは磐田と優勝争いを演じながら惜しくも2位に終わり、2ndステージでは6位と不本意な成績に終わっている。

2003年岡田武史監督が就任。久保竜彦佐藤由紀、マルキーニョスと大補強をおこなったチームにおいて移籍2年松田とのセンターバックコンビは不動だった。これまでミスに対して臆病だったことから岡田監督からは「失敗してもいいから思いっきりやれ」と言葉をかけられ、積極的なプレーを心がけるようになる。セールスポイントの高さは守備面のみならず、セットプレーでの得点としても活かされ、8月2日ヴィッセル神戸戦では2ゴールマークチーム1stステージを制覇し、2ndステージでも最終節での大逆転劇によって全制覇を達成。自身のキャリアにおいて初のビッグタイトル獲得となり、ルーキーイヤー以来2度Jリーグベストイレブンに選出。

2004年シーズンは3バックが採用されるようになるが、トルシエJAPANでも経験していたこともあって問題なくこなす。チームは開幕当初こそ出遅れたものの、松田とのコンビで敵の攻撃を防ぎ続けて勝ち点獲得に貢献し、堅守のマリノスを支え続ける。チームは第10節で磐田との直接対決を制したことで勢いに乗り、終盤での逆転1stステージ優勝。史上初となる3ステージ連続優勝を達成。2ndステージでは怪人が続出したことで失速してしまうが、浦和レッズとのチャンピオンシップではエメルソンを擁する強力攻撃完封。最後は全アウェイと化した満員のさいたまスタジアムでPK戦を制し、Jリーグ連覇の偉業を達成。年間を通しての総失点数は断トツトップであり、難攻不落とも評されたマリノスの堅守を構築した立役者であったことが評価され、この年のJリーグ年間最優秀選手賞に選出。DFの選手としては初の受賞となった。

2005年は初めてチームキャプテンに任命される。チームは攻撃が負傷者続出や不調に陥ったことで得点力不足に悩まされ、冠に終わるが、相変わらず堅守を維持し続けており、3年連続でのリーグベストイレブン選出。2006年も堅い守備を見せていたが、前年同様に攻撃の不振に足を引っられる形で中位に終わり、シーズン途中に恩師である岡田監督が辞任。この年のオールスターではプロ入り前も含めてキャリアで初となる直接フリーキックによるゴール川口能活相手に決め、MVPを獲得している。

2007年以降も得点力不足のチーム松田と共に堅守で勝ち切るような戦いが続き、チームタイトルから遠ざかってしまう。2008年10月8日京都サンガF.C.戦では右股関節内転筋肉離れによってシーズン終盤戦にリタイヤしたが、4度ベストイレブンに選出。30歳を過ぎてベテランに差し掛かってもチームでの存在感は相変わらずだったが、2010年南アフリカワールドカップを戦ったもあって後半戦にコンディションを崩し、堅守を維持できなくなっていた。11月には練習中に左膝靭帯損傷によって残りのシーズンを欠場。そしてこのシーズンオフに長年コンビを組んできた松田チームから戦力外通告を受け退団となる。翌年8月12日松田突然訃報を聞くことになる。

2012年リーグ最少失点記録2013年久々チームの攻守の歯車が噛み合い、2004年以来のリーグ優勝チャンスを迎える。優勝争いが佳となった11月23日の磐田戦では決勝ゴールを決める。しかし、シーズン終盤に連敗を喫したことでサンフレッチェ広島逆転され、あと一歩で優勝争いを逃す。この年は35歳にしてキャリア初となるリーグ戦全試合出場を達成。5年ぶり6度となるJリーグベストイレブンにも選出されている。またも広島タイトルを争うことになった2014年元旦天皇杯決勝では前半21分に追加点を決め、守備面でも広島の攻撃完封するなど攻守両面での活躍により、チームを21年ぶりの優勝にもたらす。自身にとっても2004年以来9年ぶりのタイトルとなった。

30代後半に差し掛かっても底した自己管理とプロ意識の高さによってコンディションを維持し続け、2014年2015年と2年連続でのリーグ戦全試合フルタイム出場を成し遂げる。2015年10月17日ヴィッセル神戸戦ではJ1リーグ通算500試合出場を達成。この頃、クラブはシティホールディングスの意向もあってベテラン勢への当たりが強くなっており、中村俊輔2016年シーズン途中に退団。力として貢献し続けていたはずの中澤クラブから大幅な年俸のダウンを提示される。一部では移籍も噂されたが、条件を受け入れ、マリノスに残留。

2017年もディフェンリーダーとして試合に出場し続け、5月23日の第13節清水エスパルス戦でJ1通算550試合出場を達成。7月1日の第17節大宮アルディージャ戦ではフィールドプレイヤーとしては歴代最長となるJリーグ140試合連続フル出場を達成。シーズンでの連続フル出場は4年連続となった。

40歳となった2018年は、この年が現役最後の年となることを表明していた。4月8日J1第6節川崎フロンターレ戦でゴールを決め、これが現役最後のゴールとなる。スピードの衰えは否めず、この年から就任したアンジェ・ポステコグルー監督のハイライン守備への適応に苦しんでいたところ、8月19日の第23節鹿島アントラーズ戦でメンバー外となり、2013年7月6日から続いていた連続フル出場記録178試合で途絶える。同時に連続出場記録も199試合ストップとなった。その後、左膝の負傷もあって欠場が続き、12月1日J1最終節セレッソ大阪戦に後半37分から3かぶりにピッチに立ち、これが現役最後の試合となった。

2019年1月8日言通り現役引退を発表。12月JリーグアウォーズにおいてJリーグ功労選手賞が授与される。

日本代表

プロ1年1999年6月、それまで各年代の代表とは縁だったがフィリップ・トルシエ監督によりシドニーオリンピックアジア一予選を戦うU-22日本代表に初めて選出される。フラット3の右で起用され、存在感を見せると、9月にはトルシエ監督が兼任するフル代表にも選出。9月8日イラン戦で日本代表デビューを果たす。10月から11月までのシドニーオリンピックアジア最終予選では4試合全てにフル出場する。

2000年フル代表とU-23代表を兼任することになる。2月13日AFCアジアカップ予選のシンガポール戦ではA代表初ゴールを含む2ゴール記録9月に開催されたシドニーオリンピックに出場するU-23日本代表にも選出され、4試合全てにフルタイム出場。キャリア初となる際大会を経験する。
10月レバノンで開催されるAFCアジアカップ2000メンバーにも選出され、第2戦のウズベキスタン戦から3試合連続で出場。しかし、準決勝・決勝はスタメンを外れ、ベンチで日本優勝を見守ることになる。さらにこのアジアカップ以降は松田直樹の控えという立場となる。

2001年になると怪FIFAコンフェデレーションズカップ2001を欠場、その後スランプに陥ったこともあって代表に呼ばれなくなる。2002年4月に1年ぶりに代表に復帰するが、なかなか出場機会は訪れず、日本韓国での共同開催となった2002 FIFAワールドカップにはベテラン秋田豊のサプライズ復帰に押し出される形で不選出となる。

ジーコ監督が就任してからは代表に呼ばれなかったが、2003年9月横浜FMでの好調さを買われて1年4かぶりに代表に復帰。それでもしばらくの間は控えという立場だったが、2004年6月1日2006 FIFAワールドカップアジア3次予選インド戦では2ゴール記録。その後ジーコ監督が3バックを導入するようになったことでレギュラーとして出場する機会を増やす。2004年7月中国で開催されたAFCアジアカップ2004に出場。グループリーグ第2戦のタイ戦では2ゴールを決めれば、準決勝のバーレーン戦では敗色濃厚となったチームを救う値千金のヘディンシュートを決める。大会では守備のみならず、玉田と並ぶチームトップの3得点を挙げるなど攻撃面でも活躍し、日本の連覇の原動力となり、大会のベストイレブンにも選出される。この活躍によってレギュラーの座を確固たるものとし、ワールドカップアジア最終予選でも6試合全てにレギュラーとして出場している。

2006年6月ドイツで開催された2006 FIFAワールドカップメンバーに選出され、ワールドカップ初出場を果たす。今回は守備の要として期待されたが、初戦のオーストラリア戦ではチーム全体の足が止まったことで試合終盤に立て続けに3失点を許し、痛恨の敗戦を喫する。続くギリシャ戦ではスコアレスドローに終わり、崖っぷちとなった第3戦のブラジル戦では出場停止の宮本恒靖に代わってキャプテンマークを巻いて出場。しかし強ブラジルの圧倒的攻撃力の前に4失点を許し、日本グループリーグ敗退に終わる。

ワールドカップ後、代表引退を表明し半年ほど代表から離れていたが、2007年2月イビチャ・オシム監督の招集に応じて代表に復帰。同年7月東南アジアで開催されたAFCアジアカップ2007ではCBとして出場。準決勝のサウジアラビア戦では同点ゴールを決めるが、その後逆転を許して敗退となる。

2008年になって脳梗塞によって倒れたオシム監督に代わって恩師である岡田武史監督に就任してからは田中マルクス闘莉王とのCBコンビを形成。2010 FIFAワールドカップアジア予選では闘莉王と共に中村俊輔セットプレーに合わせる攻撃面での貢献度も立ち、川口能活が代表から外れるようになってからは代表のキャプテンを務める。最終予選では8試合のうち6試合に出場し、日本の4大会連続での本大会出場に貢献。2010年2月14日韓国戦では国際Aマッチ100試合出場を達成する。

2010年6月南アフリカで開催された2010 FIFAワールドカップでは大会直前になって不振の続いていたチームの流れを変えるために2年間続けてきたキャプテン長谷部誠と交代になる。それでも不動のディフェンリーダーであることに変わりはなく、本大会になると闘莉王との鉄壁コンビよって日本2002年大会以来となるベスト16進出の原動力となる。ディフェンラインが低めに設定されたことで持ち味である中戦の強さと対人守備が発揮しやすくなり、大会4試合を2失点に抑えた堅守がった。

ワールドカップ後、最初の試合となった2010年9月4日パラグアイとの試合が最後の代表戦となり、アルベルト・ザッケローニ監督が就任してからは選ばれることはなかった。

日本代表通算110試合17得点

個人成績

シーズン クラブ リーグ 試合 得点
1999 ヴェルディ川崎 J1リーグ 28 1
2000 ヴェルディ川崎 J1リーグ 29 4
2001 東京ヴェルディ J1リーグ 26 0
2002 横浜F・マリノス J1リーグ 27 1
2003 横浜F・マリノス J1リーグ 29 4
2004 横浜F・マリノス J1リーグ 27 1
2005 横浜F・マリノス J1リーグ 27 3
2006 横浜F・マリノス J1リーグ 23 1
2007 横浜F・マリノス J1リーグ 32 2
2008 横浜F・マリノス J1リーグ 33 4
2009 横浜F・マリノス J1リーグ 32 3
2010 横浜F・マリノス J1リーグ 22 0
2011 横浜F・マリノス J1リーグ 33 1
2012 横浜F・マリノス J1リーグ 33 3
2013 横浜F・マリノス J1リーグ 34 1
2014 横浜F・マリノス J1リーグ 34 2
2015 横浜F・マリノス J1リーグ 34 0
2016 横浜F・マリノス J1リーグ 34 3
2017 横浜F・マリノス J1リーグ 34 1
2018 横浜F・マリノス J1リーグ 22 1

個人タイトル

引退後

現役引退後はノープランだったと語っているが、タレントスポーツコメンテーターとして各メディアに出演。引退後も現役時代と同じバキバキ体を維持していることも話題となっている。

また、ラクロス選手となった二人のからラクロス導にも携わっている。

プレースタイル

ポジションセンターバック187cmという当時の日本人選手とか希少価値のあった恵まれた体格を活かした高さと対人守備の強さが持ち味。強いフィジカルと高いポジショニングセンスを併せ持つ。

マッチアップの際にまず良いポジショニングを取ってから、来たボールに対してアタックをかけたり、ボールを奪いに行く先手を取るタイプのDFであり、ボールに対して足を出せるタイミングや相手の前に体を入れるタイミングを常に狙っている。体格からパワータイプだと思われがちだが、実はタイミングや間合いを重視しており、体をぶつけ合う時も力任せではなく、良いタイミングで体をぶつけて相手の軸を崩し、自分優位な状況に持っていく。基本に忠実で

スピードや俊敏さがあるわけではなく、若手時代はスピードのあるドリブル突破を仕掛けるタイプを苦手としていたが、キャリアを積み重ねるにつれて相手の動きを先読みすることでスピード不足をカバーできるようになり、視野も広かったことから持ち場を離れてのカバーリングも得意としていた。

ディングの強さと技術は歴代の日本人選手の中でも最高クラスと言われており、守備面だけでなく、セットプレーの際は得点としても貢献していた。競り合いの際は動きながらタイミングよく入ってくるタイプで、自分の最高打点ボールくことであの迫力のあるヘディングを繰り出せていた。

一方、キックの精度はあまり高いほうではなく、ビルドアップの局面になると安全に繋ぐことを優先させていた。大きなミスが多いわけではないが、ロングボールの際もただ前に蹴ってしまうこともたびたび見られた。

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1 ななしのよっしん
2011/01/30(日) 05:35:16 ID: thXJmcbOKz
中澤の経歴を見ると、って諦めなければう、と本気で思える。
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2 ななしのよっしん
2011/02/07(月) 08:54:39 ID: gJHJIP2u3X
井原の跡を継いだ二代アジア
さあ、三代目にはが来るか
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3 ななしのよっしん
2011/02/22(火) 17:34:05 ID: cdX6mXh9mt
こないだ横浜マリノスタウン周辺を歩いてたら、中澤ランニングしてた。でかくて締まった体してて、つきも普通人間じゃない感じが凄いした。オーラあったなー。
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4 ななしのよっしん
2019/11/23(土) 20:33:01 ID: Ldw+9PdCoq
今のDFの徴の安や子ほどスピードはなかったけどヘディングの得点率は今の代表にも通用するね
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