特に日本競馬において、海外で生産後輸入され日本で調教された馬のことを指すことが多い。
概要
出走表には○の中に「外」の文字で表記されることから「マル外」の俗称でも知られている。似たような概念として「外国馬」というのがあるが、こちらは内国産・外国産に関わらず海外で調教された馬を指し、出走表では□の中に「外」の文字で外国馬であることを表現する。
現在、大井競馬を除く日本競馬においては海外で生産され出走した競走馬の転入を認めていない。このことから必然的に2歳以前に日本に輸入され、日本の競走主催者で登録された馬となる。
しかし、こういった馬があまりに活躍すると内国産馬の生産奨励という面で問題が出るため、外国産馬は「混合競走」(外国馬の出走は認めない)または「国際競走」(外国馬の出走も認める)のみにしか出走が認められていない。なお、ばんえい競馬ではそもそも外国産馬の出走自体が認められていない。
「マル外」を巡る競走の制限と開放の歴史
もともと日本にはサラブレッドはいなかったので、幕末から明治維新にかけて洋式競馬が始まった時に競走馬として使われた馬は一部の在来馬の他は大半が外国産馬であった。その後競馬は軍馬改良のための「軍需産業」となったが、当時の馬の輸入は莫大な時間と資金がかかるため、下総御料牧場や小岩井農場による繁殖馬輸入が中心で、競走馬の輸入に関しては横浜・根岸で競馬を開催していた「日本レース・クラブ」によるオーストラリア産馬(豪サラ)輸入が主だった。また1933年以来順次開始された3歳五大クラシック競走は「繁殖馬の選定」が目的とされたが、そのはしりとなった東京優駿は馬産農家からの内国産馬生産奨励の請願が元になったものでもあったため、当初から外国産馬は排除されていた。
そして時代は進んで終戦直後、多くの馬が戦火に消え、サラブレッドの輸入も1937年のセフト以来途絶えたため血の閉塞が起こりかけており、さらには馬の疫病流行で馬産地が壊滅して、サラブレッドの数は半分ほどに減ってしまったことから馬資源の確保が急務となった中、競馬界は再びオーストラリアからの輸入に馬資源を求め、主に中央競馬(当時国営競馬)、大井競馬などで走ることとなった。この中からはオパールオーキツトやミツドフアームなど八大競走勝ち馬を輩出した。しかし、これらの時期までは活馬(=生きた馬)の輸入頭数に制限がかけられていたため、どちらかというと競走用に使う幼駒ではなく繁殖馬の輸入が優先されていたし、競走用に使うとしても基本的には繁殖入り後も見据え牝馬の輸入が多くを占めた。
そんな中、1971年6月30日にこれらの輸入制限が撤廃されたことにより、内国産馬を生産する馬産地の保護を目的に、天皇賞への出走が制限されることとなり、外国産馬が出られるのは「混合競走」のみとなった。なお、1984年より前は海外で受胎した繁殖牝馬を日本に輸入した際に身籠っていた仔である「持込馬」も外国産馬同様の規制を受け、マルゼンスキーがこの時代の規制に泣いた馬の代表格に挙げられる(1984年1月1日以降、持込馬は内国産馬扱い)。
1980年代中頃になると、馬産が盛んなアメリカ、オーストラリア、アイルランドの3カ国からの政治的な要請により競馬の国際化が叫ばれるようになった[1]。その中で問題視されていたものの一つが外国産馬がクラシック競走や天皇賞へ出走できないという日本競馬の閉鎖的な競走体系だった。こうした外圧によりJRAは1989年に天皇賞やクラシック競走を段階的に外国産馬へと解放する方針を定め、「競馬の国際化問題研究会」を発足させて出走制限の緩和方法や検疫の問題といった具体的な移行策の検討を進めた。そして1991年秋に外国産馬の出走制限緩和計画案がまとめられ、翌1992年から本格的に改革に着手することになった。
ちなみに、この頃は大樹ファームやシンボリ牧場、「シンコウ」の馬主・安田修、「ヒシ」の馬主・阿部雅一郎などが主にアメリカから競走デビュー前の幼駒を輸入し、それらの馬が大活躍を見せていた。外国産馬はジャパンカップや宝塚記念・有馬記念の両グランプリには出走できるものの天皇賞やクラシック競走への出走が認められていなかったことや、安田記念やマイルCS、スプリンターズステークスや高松宮杯といった短距離GⅠが混合ということもあり、主に短距離での活躍が多かった。JRAの年間売上がピークに達した1996年の翌1997年には外国産馬の輸入もピークを迎え、過去最高の血統登録馬453頭が1999年クラシック世代として輸入された。2000年には外国産馬の出走がピークを迎え、のべ380頭が平地重賞競走へと出走した。
1996年には、出走制限緩和改革の一端としてクラシック競走へ出走できない4歳(現3歳)外国産馬の競走体系の充実化が図られ、「4歳外国産馬の目標となるレース」としてNHKマイルカップが創設された。思惑通り初年度から優勝馬タイキフォーチュンを始め14頭もの外国産馬が集まり、同レースは「マル外ダービー」として4歳外国産馬の大目標となり、創設から6年連続で外国産馬が優勝した。
さらに2000年には天皇賞で外国産馬の出走制限が緩和され、翌2001年には3歳五大クラシック競走でも制限が緩和された。その頃の古馬王道G1では2000年の宝塚記念から翌2001年の宝塚記念までテイエムオペラオーと外国産馬メイショウドトウのワンツーフィニッシュが続いていたのだが、出走制限の緩和があと1年遅れていたら「またオペドトウかw」なんて言えなかったのである。ただし、当初は該当競走に出走できる外国産馬はGI優勝馬かJRAが指定する前哨戦に優勝した馬に限る、という厳しい制限が課されていた。前述のメイショウドトウは2000年にも天皇賞(春)への出走を希望していたのだが、JRAが前哨戦として指定した日経賞で敗れてしまったため2000年は天皇賞(春)に出走することができなかった。また当初は外国産馬の出走枠も最大2枠までと制限されていた。2001年の天皇賞(秋)では1枠がメイショウドトウで埋まり、残りの1枠を同年のNHKマイルカップ優勝馬クロフネが希望していたものの、マイルCSや南部杯など重賞を6勝していた白井最強アグネスデジタルが急遽参戦を表明して賞金が足りないクロフネが弾かれるというできごとがあった。しかしそうした厳しい制約にも関わらず、外国産馬が出走できるようになるやいなや天皇賞(秋)では外国産馬の活躍が目立った。外国産馬が天皇賞に出走できるようになった2000年には出走した2頭の外国産馬メイショウドトウとイーグルカフェが2着と4着に入る活躍を見せ、2001年には2頭のうちアグネスデジタルが優勝、もう一頭のメイショウドトウも3着に入った。さらに2002年と2003年にはシンボリクリスエスが連覇を達成している。天皇賞における外国産馬に対する規制は2005年の国際競走指定により完全撤廃された。
2007年には日本が国際セリ名簿基準委員会のパート1国となったため古馬平地重賞が全て国際競走となった。唯一外国産馬の出走制限が続いていた3歳五大クラシックも徐々に制限が緩められ、2010年からはこれらも国際競走となった。この規制緩和と時を同じくして*サンデーサイレンスを中心とした90年代以降の外国産馬や輸入繁殖馬の産駒である内国産繁殖馬が活躍するようになったため、次第に海外から馬を輸入する必要性は薄れていった。中央の登録数も2000年をピークに減少しつつあり、「マル外ダービー」とも言われたNHKマイルカップの外国産馬出走数も2010年代以降著しく減少。2010年代前半はダート戦線での活躍が主となっていた。しかし、今度は*サンデーサイレンス系の血があまりに増えすぎたことでまたも血の閉塞が懸念されるようになり、再度外国産馬の輸入が増加しつつある。
代表的な外国産馬
持込馬は現在は内国産馬と同等の扱いだが、1971年6月30日以降に輸入された持込馬は1983年12月31日までは外国産馬と同等の規制を受けていたため、当時の規定に則りここに記載する。
- 1895年産
- 1950年産
- 1951年産
- 1952年産
- 1974年産
- 1975年産
- 1983年産
- 1988年産
- 1989年産
- 1990年産
- 1991年産
- 1992年産
- 1993年産
- 1994年産
- 1995年産
- 1996年産
- 1997年産
- 1998年産
- 1999年産
- 2003年産
- 2004年産
- 2005年産
- 2006年産
- 2007年
- 2010年産
- 2011年産
- 2012年産
- 2014年産
- 2015年産
- 2017年産
- 2018年産
- 2019年産
関連動画
関連項目
脚注
- *例えば、駐日オーストラリア大使館から内閣府の市場開放問題苦情処理推進会議(OTO推進会議)へ問題提起がなされたりもしている。一方でイギリスやフランスは日本競馬の国際化にはさほど興味が無かったようだ。
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