U-537とは、第二次世界大戦中にドイツ海軍が建造・運用したIXC/40型Uボートの1隻である。1943年1月27日竣工。全Uボート中唯一北米大陸に武装ドイツ兵を上陸させた記録を持つ。1944年11月10日、ジャワ海にて、米潜水艦フラウンダーの雷撃を受けて沈没。
概要
IXC/40型とは、1940年に設計された前級IXC型の小改良タイプである。
IXC型の設計をベースに外径殻を拡大し、同時にバラストタンクも大型化させた事で、燃料搭載量が6トン増加、ただでさえ長大な航続距離に更なる磨きが掛かった(IXC型の2万370kmから743km増大して2万1113km)。その足の長さはフランスから無補給でカナダ沖やケープタウン沖まで長駆出来るほど。水上速力もIXC型から微増しているが、その代償に排水量がやや増加した。また対空能力の強化も図られている。
IXC/40型は160隻が起工、このうち87隻が就役し、残り71隻はXXI型量産優先のため建造中止となる。
要目は排水量1144トン、全長76.76m、全幅6.86m、燃料搭載量214トン、連続航行日数84日、安全潜航深度122m、最大速力18.3ノット(水上)/7.3ノット(水中)、急速潜航秒時35秒、乗員44名。武装は53.3cm魚雷発射管6門、魚雷22本、45口径10.5cm単装砲1門、SKC/30 37mm単装機関砲1門、20mm連装機関砲2門。電測装備として電波探知機、電波探信儀、水中聴音機を装備する。
艦歴
1941年4月10日、ドイツ・ヴェルフトAGのハンブルク造船所に発注、1942年4月10日にヤード番号355の仮称で起工、11月7日進水、そして1943年1月27日に無事竣工を果たした。初代艦長にはペーター・シュレーヴェ少佐が着任。彼はかつてU-378とU-591の艦長を務めていたが、未だ出撃経験の無い新米同然の艦長であった。
竣工と同時に訓練部隊の第4潜水隊群へ編入。2月1日、ハンブルクを出発、ブルンスビュッテルを経由してキールへ移動し、新しいジャイロコンパス冷却ポンプの設置や潜望鏡の修理を実施した後、2月23日に全力公試を行いながら東進、シュテッティンへ回航してエンジンの修理を受ける。
3月29日から4月19日までヘラ半島で陸上訓練、4月20日に海上砲撃及び爆雷訓練、4月22日から30日までダンツィヒで第25潜水隊群との魚雷発射訓練、5月1日から11日までゴーテンハーフェンで戦術訓練、5月15日、16日、17日はシュヴィーネミュンデで第7高射砲連隊と対空訓練に従事。着々と爪牙を研いでいった。
7月8日から14日にかけてキール工廠で20mm四連装機関砲の搭載工事を受ける。ところが7月25日、潜航中に損傷した四連機関砲を修理すべくキール工廠に入渠中、連合軍の空襲に遭遇し、艦体付近に航空爆弾が着弾して甲板砲が損傷、急遽交換が必要になってしまった。8月1日、ロリアンを本拠とする第10潜水隊群に転属。以降は9月17日まで修理と最終調整に従事。
1回目の戦闘航海
1943年9月18日午前8時にキール軍港を出発、U-848とともに、ノルウェー南部の潜水艦基地クリスチャンサンへ向かうべくバルト海を渡る。しかし同日15時30分、左舷スラストベアリングが過熱して、スラストプレートに亀裂が走るトラブルが発生、やむなく右舷エンジンのみで航行を続けるも、自力での修理は困難と判断され、ベルゲンに寄港する事が決まった。
9月20日15時にクリスチャンサンへ到着して燃料補給を受ける。ここから一気にベルゲンまで行きたいところだが、ノルウェー沿岸の夜間航行は禁じられていたため、中継地としてエーゲルスンに寄港する必要があり、翌21日午前6時、U-848やM級掃海艇M-427とクリスチャンサンを出発、17時にエーゲルスンへと移動した。9月22日午前6時エーゲルスン発、9月23日に無事ベルゲンまで辿り着いてスラストベアリングの修理を受ける。そして9月30日午後12時35分にベルゲンを出発して第一次戦闘航海へと向かった。
今回U-537は特別な任務を帯びていた。北半球では、西から東へ気候が変動する関係上、気象観測の面では西側に位置する連合軍側が大変有利であり、北米、グリーンランド、アイスランドに設置された連合軍の気象観測所は、ドイツ軍のものよりも正確な気象予報が可能だった。一方、ドイツ軍はUボートや航空機から寄せられる大西洋上の気象データを基に、気象学者が天候予報を行っていたが、航空機は撃墜されやすく、Uボートは何度も報告しなければならないので連合軍に通信を傍受され、追跡を受ける危険が常に付きまとう。
そこでドイツ軍はシーメンス社に依頼して自動気象観測所――Wetter-Funkgerät Land-26(通称クルト)を開発。風速計と風向計が搭載されており、得られた情報を3時間ごとに、3940kHzで2分間に渡って送信する。動力源はニッケルカドミウム電池で最大半年間動作が可能。クルトは既に北極圏とバレンツ海周辺に19ヵ所設置されていたが、残り2ヵ所は敵国の北米大陸に設置する事とし、その第一弾として、U-537には北米設置用のクルトに加え、気象学者クルト・ゾンマーマイヤー博士とその助手ヴァルター・ヒルデブラントが乗っていたのである。
アイスランド・フェロー諸島間の海域を突破して北大西洋に進出。U-537が通る北方航路は往来する船舶が少なく、そのためか連合軍の警戒も、南方航路と比較してさほど厳重ではなく、隠密行動にはおあつらえ向きと言えた。10月7日20時48分、BdU(Uボート司令部)に対して西経20度線を通過したと報告。U-537とBdUのやり取りは連合軍に傍受・解読されるも、「特別任務に従い、前進航行せよ」の特別任務が理解できず、事前に有効な対策を打てなかった(ちなみに前進航行はカナダへの航行を意味する)。
10月12日18時36分、U-537は「指定海域で断続的に浮上し、日々の天気予報を模した偽の無線通信を送信して、戦闘集団を模倣せよ」とBdUから無茶ぶりを要求される。これは1回無線を送信したら、別の場所へ潜航して移動し、再び無線を送信、また別の場所に移動するというモグラのようなプロセスを数十回繰り返し、あたかも複数のUボートが行動しているかのように見せかける〝一人芝居〟をしなければならない事を意味していた。
U-537はとことんツイていなかった。10月14日14時頃、バッテリー消費を抑える目的で水上航行中のU-537に大きな波が覆いかぶさる。北大西洋特有の強烈なハリケーンに巻き込まれたのだ。絶え間ない強風、波浪、極寒によって乗組員の何人かは酷い船酔いに襲われ、U-537の行き足は完全に止まってしまう。更に対空能力の要たる四連装機関砲を流失し、潜航不能になるなどの致命的な被害まで発生。潜水艦としてはほぼ無力化されたも同然であった。シュレーヴェ艦長はBdUに四連装機関砲の流失を報告。するとBdUから「どこで外れたのか」「適切に収納されていたのか」といった質問攻めに遭う。このようなやり取りも、連合軍は傍受していたが、やはり特別任務と結び付ける事は出来なかった。
10月17日午前11時49分、北大西洋の決められた地点で現在位置を報告。翌18日午前11時53分にBdUより「特別任務に従い、前進航行せよ」と再度通信が入った。作戦に変更は無いようだ。そこから北米大陸を目指すU-537だったが、冬の悪天候に阻まれ、沖合いまで進むのに4日間を要した。
散々な目に遭いながらも、10月22日にU-537はラブラドル半島北東端チドリー岬南方20海里のマーティン湾に到着。シュレーヴェ艦長が設置地点にここを選んだのはイヌイットに発見される可能性が最も低いと判断したからだった。冬を迎えると入り江が凍結するのでカナダ当局に発見される可能性も低いと言える。
投錨してから1時間以内に偵察隊が適切な場所を発見、程なくしてゾンマーマイヤー博士、助手、10人の水兵が機材とゴムボートに乗って上陸、クルトの設置作業にあたり、周囲の高台にはMP-40サブマシンガンを持った武装兵を配置、残りの乗組員は嵐で損傷した艦の応急修理に臨む。シリンダー1個につき重量が100kgもあり、艦から海岸へ、海岸から設置場所まで運ぶには大変な労力を要した。連合軍に発見されないようクルトは隠蔽。その上で周辺にアメリカ製の空のタバコ箱を捨て、「カナダ気象局」という架空の組織を書いた看板を立てる偽装工作を行った。
投錨から僅か28時間で設置作業は完了。10月23日17時40分にクルトの稼働を確認したのちU-537は出発した。この作戦は、第二次世界大戦中、北米の領土に武装したドイツ兵が上陸した唯一の例であった。ところが稼働開始から数日で信号が劣化し、3週間以内に機能が完全に停止してしまう(異説では妨害電波を受けたとしているが機器が発見されたのは1980年の事)。
対空兵装無し、潜航不能状態のU-537の帰路が危なくないはずが無かった。10月31日、カナダ空軍のハドソン爆撃機がU-537に向けてロケット弾8発を発射、命中こそしなかったものの、ナクソス電波探知機が故障する被害に見舞われ、状況の更なる悪化を招く。11月10日にケープレース沖でカタリナ飛行艇から爆雷4発の投下を、翌11日21時27分にもカタリナから爆雷4発の投下を受け、軽微な損傷を負ったものの、通報を聞きつけて出撃してきた連合軍艦船がU-537を発見出来なかったため、何とか虎口を脱する。
11月19日15時52分、南西方向に向けて高速で航行する独航船と、その近くに奇妙な潜望鏡を発見したと報告。11月21日、U-537には艦長の裁量で通商破壊を行える自由と、毎日1回、特定の海域の気象情報を送信するよう命じられる。
11月22日午前0時、突如として左舷ディーゼル機関が停止。どうやら波浪でエンジンが停止した際に、過度のエンジン負荷が掛かり、クランクシャフトベアリングが損傷、ピストンを修理する必要があるらしい。この故障はドイツ・ヴェルフト製のU-537からU-843までのC型エンジン搭載のIXC型に共通する問題であった。ひとまず片側エンジンをスーパーチャージャー付きディーゼル電気駆動に切り替える応急措置を取る。幸いその後は何事もなく12月8日午前8時にロリアンへと帰投した。
ドイツ海軍は大西洋での戦況が好転しない事を受け、同盟国日本から提供された東南アジアのペナン基地を拠点に、インド洋で通商破壊を行っていた。しかしUボートの魚雷は熱帯の気候に耐えられるものではなく、長期保管により深刻な損傷や故障が発生していたため、魚雷の補充も兼ねて、フランスから追加のUボートを派遣する事とし、航続距離に優れるU-537もペナン行きを命じられるのだった。
2回目の戦闘航海
1944年2月29日にロリアンを出港、だが、ビスケー湾を出る前から様々な故障が発生し、3月1日にロリアンへ反転帰投、気を取り直して3月5日に再び出発するも、再度故障が発生してしまい、翌6日、二度目のロリアン帰投を強いられている。造船所で艦体の整備だけでなく装備の整備も実施。
3月25日に三度目のロリアン出港。U-537にはUボート3隻分のレーダー、予備部品、予備装備、U-168用の青銅製プロペラ1個、日本向けの鉛110トンが積載されていた。今度は問題が起きなかったようで3月30日頃にビスケー湾を突破。大西洋を南下していく。
デーニッツ提督は作戦中のUボートに「ヨーロッパ沿岸から1300km離れた大西洋上に移動し、分散して単独で船団に攻撃を仕掛けよ」と命令。何とかして連合軍の柔らかい横腹を食いちぎろうと試みたが、相次ぐ損害を受け、3月22日に中部大西洋からの撤退を命じた。今やドイツ海軍は大西洋の戦いに敗れ、制海権・制空権ともに喪失、対する連合軍は護衛空母やレーダーを駆使して、空と海の双方から厳重な対潜哨戒網を敷き、西ヨーロッパ侵攻時期を探ろうと気象観測に従事するUボートを狩り続けている。
4月17日未明、中部大西洋にて、U-488と会同して燃料と食糧10日分の補給を受ける。
ノルマンディー上陸が行われた6月6日頃、喜望峰沖を突破してインド洋に進出。
6月21日、U-537は12週間分の食糧と十分な燃料を持っていたが、バッテリー残量が30%にまで低下、U-537の窮状を知ったBdUは、インド洋で通商破壊中のU-183に合流及び補給を指示、翌22日21時6分、ペナン基地を通じてU-183に現在位置を伝達する。次いで6月24日にU-183と合流・補給を受ける。お礼に新しい暗号表とナクソス、新型のボルクム電波探知機を譲渡した。その後、U-183はヨーロッパに帰国するU-1062のために、再度U-537と合流してナクソスとボルクムを受領するよう命じられていたが、コンプレッサーの損傷でU-1062がペナンに引き返してしまい中止となる。
6月28日、コロンボ近海を中心に通商破壊するよう命じられる。コロンボの海上交通や港内偵察を行ったのち、7月8日午前1時2分、コロンボで停泊中の7000トン級タンカーに向けてT5音響魚雷3本を発射するも命中せず、8分2秒後に魚雷の爆発を聴音。正午頃に貨物船2隻が東進していく様子を目撃した。13時33分、索敵に現れた英駆逐艦ジャーヴィスへ魚雷を発射、しかしこちらも命中せず、6分45秒後に爆発して失敗に終わる。Uボートの出現を確信したイギリス軍は2日間に渡って海と空からの索敵を実施するも、U-537は捕まる事なく逃げおおせた。その後もコロンボ沖に留まり続けるU-537であったが、7月13日、通信を傍受されたのか、レーダーを持った航空機がすっ飛んで来たり、索敵中と思われる駆逐艦2隻の出現が確認されるなど、危ない一幕もあった。
東南アジアでの活動
東南アジア所在のUボートは全てベルリンの海軍司令部から直接無線で指示を受けていた。このため日本側の指揮下に入った事は一度も無い。日本の港に入る時は、特定の時刻に入港するようUボートと現地司令部に通達され、現地司令部が日本海軍連絡将校に航行情報を伝え、連絡将校が航路上で遭遇する可能性がある日本軍部隊にUボートの存在を伝えて同士討ちを防ぐ仕組みである。日本側が全て知っているという想定でUボートは入港時は識別信号を出さなかった。
U-537がバタビアに到着した時には、既にシャルロッテ・シュリーマンもブラーケも沈没し、排水量1000トン程度のボゴタとキトが補給船を務めていた上、ブルネイで産出される未精製油しか燃料が無い有り様で、魚雷不足に加えて、深刻な燃料不足も作戦行動に大きな足かせとなる。更にドイツ人は熱帯の気候に慣れていないため乗組員のマラリア罹患率は25%に達した。唯一の救いはスポーツ施設、図書館、公式ダンスホール、ドイツ映画の鑑賞といった福利厚生が充実し、乗組員に不満を抱かせなかった事くらいである。
バタビア停泊中は当直士官を除く全ての乗組員が陸上で居住、機関士のみ日中は艦上で作業し、寝食は他の乗組員同様陸上で行った。燃料補給は黄色に塗装された艀を使って実施。港内北西の監視所には常に50~60名の日本兵が駐留、3、4名程度の小グループが銃剣を携えて巡回したり、時折将校が視察に訪れたりしていたとか。
モンスーン戦隊の作戦管理は現地司令官のドメス中佐ではなくパリのBdUであり、彼らは依然アデン湾やペルシャ湾の敵補給路攻撃に関心を払っていたため、オーストラリア方面の通商破壊は特別考慮されていなかった。しかし、1944年5月にU-188のラッデン艦長が豪州沖での作戦の可能性を報告した事、日本側がベルリンの海軍武官を通じて、ドイツ海軍のカール・デーニッツ提督にオーストラリア南西方面での通商破壊を要請した事により、9月14日、デーニッツ提督から「オーストラリア方面でU-862とU-168の運用が承認された。出撃準備が整い次第、出港する予定。海上交通路や防御状況など日本側の知識を活かして欲しい」と承認が下った。後にU-537の投入も決まり、9月26日には「今後3隻のUボートがオーストラリア海域で活動する予定」と伝えている。
10月1日、U-168用のプロペラを持ってバタビアからスラバヤに移動。同日付で第33潜水隊群(通称モンスーン戦隊)に転属した。
11月4日、規則に従って日本軍はヨーロッパに帰国するU-843の出港時刻、潜航時間、マラッカ海峡の通過時間などを関係各所に通達するが、この暗号を連合軍に傍受・解析されてしまい、11月6日に米潜水艦バショウ、フラウンダー、ガヴィナの3隻がポートダーウィンを出撃。U-537は巻き添えを喰う形でこの包囲網へ飛び込んでしまう事に。
最期とその後
1944年11月9日17時、フリーマントル南西で通商破壊を行うべくスラバヤを出撃。カンゲアン諸島とバリ島の間を警戒していたフラウンダーの当直士官は、約8200m先に小型帆船らしきものを発見、6分後、その正体がジグザグ運動中のU-537だと突き止めた。規則的に動いていたため狙いが付けやすく、じっくりと狙いを定め、32分後にスラバヤ東方で距離900mから魚雷4本を発射、このうち1本が命中して撃沈される。乗組員56名全員戦死。フラウンダーが潜望鏡を上げてみたところ残骸は確認されなかった。
米潜水艦に撃沈されたUボートは、戦争の全期間を通してU-537とU-183しかいない珍しい例である。
ちなみにゾンマーマイヤー博士は東南アジアへ出発する前に退艦していて生存。U-537が設置したクルトは長らく少数のドイツ人科学者と元乗組員のみが知る秘密であったが、1970年代後半、シーメンス社を退社したフランツ・ゼリンガー技師がドイツ気象局の歴史を記そうとし、その過程でゾンマーマイヤー博士の資料を発見、それには気象観測所とUボートの写真が添えられていた。
彼は博士の息子と接触したり、フライブルクの公文書館でU-537の航海日誌を入手するなど着実に証拠を集め、1980年にカナダ軍の公式歴史家アレックス・ダグラス博士へ手紙を送って沿岸警備隊に調査させたところ、資料の通りクルトが発見された。現在はオタワのカナダ戦争博物館に移されている。
関連項目
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