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U-843とは、第二次世界大戦中にドイツ海軍が建造・運用したIXC/40Uボートの1隻である。1943年3月24日工。通商破壊で1隻(8261トン)撃沈の戦果を挙げた。1945年4月9日カテガット峡で航空攻撃を受けて沈没

概要

IXC/40とは、1940年に設計された前級IXCの小改良タイプである。

IXCの設計をベースに外径殻を拡大し、同時にバラストタンクも大化させた事で、燃料搭載量が6トン増加、ただでさえ長大な航続距離に更なる磨きが掛かった(IXCの2万370kmから743km増大して2万1113km)。その足の長さはフランスから補給でカナダやケープタウンまで長駆出来るほど。水上速力もIXCから微増しているが、その代償に排水量がやや増加した。

IXC/40160隻が起工、このうち87隻が就役し、残り71隻はXXI型量産優先のため建造中止となる。

増大する敵機の脅威に対抗すべく、ドイツ陸軍機関海軍用に改装した37mm単装機関を装備、更に20mm連装機関2門を後方のウィンターガルテンに搭載し、低飛行する敵機に対して強力な対力を獲得した。

排水量1144トン、全長76.76m、全幅6.86m、燃料搭載量214トン、連続航行日数84日、安全潜航深度122m、最大速力18.3ノット(水上)/7.3ノット(水中)、急速潜航時35、乗員48名。武装は10.5cm1門、53.3cm魚雷発射管6門、魚雷22本、SKC/30 37mm単装機関1門、20mm連装機関2門。電測装備として電波探知機、電波探信儀、水中聴音機を装備する。

艦歴

1941年1月20日AGヴェーザー社ブレーメン所へ発注。建造資材の調達が了した1942年4月21日、ヤード番号1049を刻んだを設置して起工、AGヴェーザー社が戦前培った鋼材製造技術により効率的な組み立てを実現し、12月15日完成した基本体構造に機関、兵装、防振ゴム、内部設備を搭載しつつ要部品の耐腐食性ボルト固定を行う。

就役準備が整うとバルトで全力試、潜航試験、構造強度試験といった数々の試験をこなした。そして1943年3月24日工を果たす。初代艦長にオスカーヘルヴァルツ大尉が着任するとともに訓練部隊の第4潜隊群へ編入。

ヘルヴァルツ艦長はU-67の第一当直士官を務めた後、第24潜隊群で1ヶ間の艦長養成コースを受け、U-843の艦長に就任した言わば新米艦長であった。就役後はバルトで慣熟訓練に従事。魚雷発射、潜航機動、他Uボートとの連携など実用技が重視され、ヘルヴァルツ艦長や乗組員は前線任務に耐えられるだけの練度を身に付ける。艦長は乗組員からブリーの愛称で呼ばれたとか。

1回目の戦闘航海(1943年10月~12月)

1943年10月7日ヘルヴァルツ艦長の揮でキールを出港、カデカット峡とスカゲラ峡を通過し、10月9日ドイツ占領下ノルウェー西部クリスチャンサンへ寄港、ここで燃料補給を行う。ところがシャフト詰めからの漏れが発覚。現地部からの示でベルゲンに向かう事となり、同日中クリスチャンサンを出発、ノルウェー沿での間航行は禁じられているためハウゲスントで一晩を明かす。10月10日ベルゲンに寄港して短時間の応急修理を実施。しかし、全には直らなかったようで、10月12日からトロンハイムで再度修理を受ける羽となった。

10月15日トロンハイムを出撃。ノルウェーを西進して、アイスランドフェロー諸島間を通過北大西洋進出後は南西方向へ向かいグリーンランド南方で遊する。10月30日午前10時、11隻のUボートからなるウルフパック「ケルナー」に参加。ニューファンドランド東方線を形成した。11月1日にはU-843はロリアンを拠点とする第2潜隊群へ転属。ところが、どのUボートも敵護送団との接触に失敗、既にHX団とON団は通過したと見て翌2日「ケルナー」は解散となった。

長く続いたUボートの群戦法は10月末に終わりを告げた。カール・デーニッツ提督は集団作戦犠牲が大きい事を認め、以降は分散した少数単位作戦に切り替えたのである。これを受けてパリBdU(Uボート部)はU-843、U-212、U-267、U-714で新たなウルフパック「ティルピッツⅠ」を編成、よりニューファンドランドに近い場所で線を敷いた。日中は潜望深度で留まり、間のみ浮上して索敵を実施、もし敵を発見したら、速やかに報告するようめられた。しかしUボートが潜望を出すや否や、即座に敵哨戒機が飛んできて、サーチライトを照射。飛行機爆弾爆雷を投下しない時は水上艦艇が駆け付けてソナー探知を行う。厳重な対潜警を前に「ティルピッツⅠ」は何ら戦果を挙げられないまま11月8日の解散を迎える。

敵護送団が巧みに回していく現状は、BdUに迎撃方法の変更を迫り、11月9日からは、3隻からなる小規模ウルフパック「アイゼンハート」に参加。このような小規模集団は合計10個編制され、各々30里の間隔をけて線を形成、敵団発見の際は2~3個のグループを集めて一気に襲撃する意図があった。敵団の動きに合わせ、「アイゼンハート」所属各艦は11月12日145度方向へ350里移動。予定ではSC146団とHX265団が線上を通過するはずだった。しかし今回も回されたのか、どの艦も捕捉に失敗してしまい、11月15日を以って「アイゼンハート」は解散。

11月18日から22日まで、U-515が報告した西行きの敵団を攻撃するべく9隻編成の「シル」に参加。しかし所属Uボートが分散していた事、線連携が上手く取れなかった事が祟り、何ら戦果を挙げられないまま時間だけが経過してしまう。

南行きの敵団攻撃のため11月22日より「シル」所属艦は新たなウルフパック「ウェディゲン」に転属。アイスランド南西で17隻のUボート線をり直す。またドイツ空軍から借りたFw200コンドルも索敵に協力し、U-843は「ウェディゲン」の先行偵察を担った。翌23日、U-843は中の敵対潜掃討部隊を発見、G7魚雷を発射して攻撃を試みたものの外れ、14分後に魚雷爆発音を聴き取った。12月1日、敵機の攻撃を受けたが幸い被害を受けずに済む。12月7日の時点で燃料はまだ十分にあり、数日間作戦域に留まる事が出来たが、新の37mm単装機関を装備させるため帰投を命じられる。

12月15日、62日間の戦闘を終え、ドイツ占領下フランスロリアンに入港。予定通り37mm単装機関の搭載工事を受ける。

同盟国日本が占領する東南アジアへ

1943年5月Uボートにとって大きな転換期であった。連合軍の損が減った一方、Uボート被害過去前例にいほど増大したのである。たったひとで43隻を喪失した事は、単にUボートの数が減っただけでなく、連合軍の対潜技術向上や若手の士官をも多く喪失した事も意味し、デーニッツ提督大西洋からUボートを呼び戻さなければならなくなった。

連合軍の巧妙化により、行き詰まりを見せていた大西洋方面とは裏に、インド洋方面の対潜技術は遅々として進んでいないとの情報が極東の同盟日本からもたらされ、日独間の長い交渉の末、1943年シンガポールとバタビアにドイツ海軍基地を、ペナンUボート基地の設置が許可された。ちょうど大西洋に代わる新たな狩り場をめていたドイツ海軍部はインド洋に活路を見出す。

U-843は東南アジア行きの第二波グループとして、日本占領下ペナン基地への進出を命じられる。また封鎖突破による上輸送が困難になったため、往路は日本軍や現地ドイツ軍向けの物資を、帰路はドイツで欠乏しているゴムタングステンモリブデンなどの東南アジア戦略物資を輸送する任務も付随した。

2回目の戦闘航海(1944年2月~6月)

1944年2月19日日本軍向けの110トン、その他軍需品、モンスーン戦隊向けの潜水艦プロペラを積載してロリアンを出撃。東南アジアに向かう長旅の第一歩を踏み出した。ビスケー湾を南西方向に抜けた後、中部大西洋を南下しながら喜望峰方面へと向かう。3月20日カーボベルデ西方U-488と合流し、インド洋まで長駆出来るだけの燃料を補給。

4月8日午前4時50分、アセンション南西で、ブエノスアイレスへ向けて単独航行中の蒸気商ブラス(8261トン)に魚雷2本を発射し、これを20分以内に撃沈せしめる。戦死者2名を除く船長員55名、手8名、密航者2名が救命艇3隻に分乗して脱出。そこへU-843が浮上。ヘルヴァルツ艦長は生存者たちに支援を申し出、手渡した物資の中にはアトラスから切り取られた図も含まれていた。最後に現在位置とブラジル方角を教えて現場域を立ち去った。その後ネブラスカの撃沈をBdUに報告。

それから間もない4月10日正午アメリカ海軍エドワード・W・クルー中尉B-24に襲撃され、熾爆雷攻撃により艦尾発射管2基を損傷、報告を受けたBdUは、予定されていたケープタウンでの通商破壊を中止し、インド洋に直行するよう命じる。しかしU-843からの返信はかった。4月12日、15日の位置情報報告にも応じず、BdUから3回にって要請されたにも関わらず言を貫き続けた。そのため4月15日喪失宣言が出されている。

次にU-843が線を発したのは、インド洋進出直後の5月18日の事だった。位置情報、燃料状況、冷却ポンプの故障と爆撃による損傷のためペナンに直行している旨を報告した。5月24日BdUはペナンを発ってフランスに帰中のU-183と合流し、FuMB-07 ナクソス、FuMB-09 ワンゼ、FuMB-10 ボルクムを譲渡するよう示、5月27日に合流地点が正式に決まったものの、日本海軍からの情報提供で同域を連合軍の軍艦空母通過する可性があると判明したため中止となる。

6月11日114日間の航を経てバタビアに入港。

東南アジアでの活動

バタビアには修理施設がいため、6月15日シンガポールへ回航され、日本海軍の第101工作部に入渠、本格的な修理を受けるとともに積み荷の揚陸作業が行われた。乗組員には日本軍が用意した娯楽と快適な環境が与えられて長旅の疲れを癒やす。しかし、シンガポールも最早安全ではなく、11月5日午前6時44分、インドのカルカッタを飛び立った53機のB-29シンガポール爆撃、運送艦能登呂が大破着底した他、キングジョージ六世ドックが3ヶ間使用不能になってしまった。

出渠後の11月30日シンガポールを出港、12月2日バタビアに回航して出撃準備を開始。艦内にアヘン1.3トン157.2トンモリブデン4.5トン、生ゴム30.8トンタングステン49.47トンキニーネ300kg、シンガポール海軍病院死亡したU-183元艦長ハインリッヒシェーファーの遺を積載する。

3回目の戦闘航海(1944年12月~1945年4月)

12月10日、バタビアを出港してノルウェーベルゲンをす。インド洋ではU-196から燃料補給を受ける予定だったが、そのU-196が消息不明になったため、12月20日夕刻、エンジントラブルでペナンに引き返すU-181ココスで合流、12月22日から24日にかけて燃料60トンと潤滑2トンを受け取った。その後インド洋と喜望峰を抜けて12月下旬に南大西洋へ進出。燃料消費を最小限に留めるため経済速力を維持しつつ、毎日暗号電文を打って現在位置を報告する。敵に見つからないようシュノーケル潜航を多用、商攻撃は禁止、連合軍の対潜網がある域は回し、難所のデンマーク峡、北極隠れ蓑にして突破した。

1945年4月3日的地のベルゲンに入港。苦難の旅を制した乗組員たちは熱な歓迎を受け、乗組員一人ひとり花束が、赤十字看護婦からはキスが贈られ、ニシンと茹でたジャガイモが振る舞われた。あとは日本軍から託された資ドイツまで送り届けるだけである。整備と補給を受けて4月6日ベルゲンを出港、スタヴァンゲルクリスチャンサンを経由して故ドイツに向かう。1万6000里の航もいよいよ最終行程に入った。

最期

1945年4月9日16時15分、フレドリクハーフェン北東のカテガット峡を水上航行中、イギリス空軍モスキート戦闘爆撃機灰色間より出現、直ちに当直士官が「警報!」と叫び、全ての対が敵機に向けて一斉に火を噴く。この辺りは機雷こそいが、深が浅くて潜航退避が出来ないのだ。U-843の周囲には真珠の連なりのようなしぶきが連鎖的に立つ。モスキートは機体を翻すと対空砲火を恐れず、面ぎりぎりを低飛行しながら突進、しかし爆弾を投下しないまま頭上を通過していった。間もなくオスロフィヨルドの友軍基地から「45機のモスキートが襲来中」との警告がヘルヴァルツ艦長のもとへと入ってきた。

爆弾の投下こそかったものの機掃射で艦体を損傷、艦尾区画浸損傷、ディーゼル機関発火の報が次々に飛び込んでくる。ヘルヴァルツ艦長は艦尾区画の排示するとともに、自身は乗組員を率いて機関室の火災消火。しかし手動に切り替えても艦は反応しない。浸により艦尾が面下へ沈んだ事が原因だろう。次いで艦長は圧縮空気による艦尾区画排を命じ、修理揮を執るべくへと上がった。

悪戦苦闘していると前方の線上に味方の小団が現れた。哨戒艇が小タンカーを護衛している。それを見たヘルヴァルツ艦長は後ろの伍長に「哨戒艇との通信を繋げ」と命、味方の到来に艦の乗組員一同は安堵のため息をつく。故障で身動きが取れないが哨戒艇がいれば航してもらえるからだ。

しかしそこへモスキートの増援が襲来。8発のロケット弾と機掃射がU-843を襲う。防御射撃を続けながら操長が針路変更のたびに、見慣れた地名と記号が記された図に現在位置を書き込む。機雷が域を進んでいるとはいえ逸脱し過ぎると触雷しかねない。そんな中、突如として艦内に震が走り、みがかった灰色艦首高く突き上げながら――U-843は僅か数中へとした。機雷に触れたとも、艦尾区画のバッテリー爆発したとも言われる。

ヘルヴァルツ艦長を含む12名の乗組員は、救命胴衣を着た上でにいたため難を逃れ、彼らは哨戒艇に救助されたが、艦内にいた44名は一人も助からなかったという。キールに戻った艦長は海軍航空作戦部長ゴッド少将に救命艇の派遣を強くめた。しかし戦況がそれを許してくれなかった。

残骸の引き揚げ

1947年ダイバーがカデカット峡の海底52mで横たわるU-843の残骸を発見。当時は見向きもされなかったが、戦後の復冷戦時代の産業需要から、艦内にある日本軍の物資を回収する必要があると認められ、1958年8月22日、2万ポンドの費用を投じて潜水艦専門のサルベージダイバーが浮揚作業に着手、3週間後U-843が引き揚げられ、荒れた北上してノルウェーモスへ回航、そこで数日間にって部分的排と積み荷の回収を実施する。

これらの資は合計6000万ドイツマルク(8万ポンド)の価値があり、まさにU-843は"宝船"であった。一方ノルウェーの税関職員は、民消費量の3年分をえるアヘンを検をしなければならなかった。資以外にも軍用品、弾薬十字章、子供の靴、タバコなどの遺品も回収され乗組員もしくは遺族に届けられている。

物資回収後はスウェーデンのヨーテボリに回航。1958年末から1959年にかけて解体された。ハッチ下には戦死者44名中34名の遺体傷で残っており、ヘルヴァルツ元艦長の協力で全員の身元が判明した後、遺族が出席する式典で、ヨーデボリのクヴィベルク墓地埋葬

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