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ナリタブライアン

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94年 菊花賞

ナリタブライアン、七身差の衝撃

群れに答えなどない。

2011年菊花賞CMexit_nicovideoより

ナリタブライアンとは、日本の元競走馬、元種牡馬である。1994年日本競馬史上5頭クラシック三冠を達成して年度代表馬になり、引退してからJRA顕彰馬に選出された。な勝ち朝日杯3歳ステークス現在朝日杯フューチュリティステークス)、皐月賞日本ダービー菊花賞有馬記念である。通算成績は21戦12勝。

曖昧さ回避 この記事では実在競走馬について記述しています。
このを元にした『ウマ娘 プリティーダービー』に登場するキャラクターについては
ナリタブライアン(ウマ娘)を参照してください。

*ブライアンズタイム*パシフカス。半菊花賞天皇賞(春)宝塚記念を制したビワハヤヒデ、全ラジオたんぱ賞(GⅢ)を制したビワタケヒデ従妹に二冠ファレノプシス従弟日本ダービーキズナがいる。

称は「ブライアン」「ナリブ」「シャドーロールの怪物」。厩舎で村田雄持ち乗り調教助手から呼ばれるときの称は「ブー」だった[1]

馬主は「ナリタ」と「オースミ」の冠名を使い分けることで知られる山路秀則[2]。管理調教師関西東の大久保正陽(まさあき)。担当した持ち乗り調教助手[3]村田雄だった[4]調教助手は寺田[5]。それ以外の厩舎関係者として大久保念(まさとし[6]大久保[7]がいる。全21戦のうち15戦で手綱を取った騎手南井克巳だった。

黒鹿毛体で、鼻にシャドーロールを付けているのが印だった。

※当記事では、ナリタブライアンの活躍した時代の表記に合わせて、特に記載がい限り年齢旧表記(現表記+1歳)で表記します。

誕生

ナリタブライアンは1991年5月3日北海道新冠(にいかっぷ新冠町明和113番地3の牧場・明和分場で生まれた。当時の場長だった太田三重は、ナリタブライアンの出産のことをあまり憶えていないという。毎年50頭近くも生まれる大牧場なので、大きなトラブルがない限り場長の記憶に残らない[8]

1991年6月ごろに、牧場と縁が深い畜取引商の工藤清正が、生まれてから1ヶぐらいのナリタブライアンを調教師紹介する役を引き受けたが、っ先に紹介した相手はかねてから付き合いのある大久保正陽調教師だった。大久保調教師はすぐに気に入り、付き合いの深い馬主の山路秀則に紹介すると、山路もすぐに気に入り、2,300万~2,400万円ぐらいで購入した[9]。つまり、ブライアンはいわゆる庭先取引[10]で売られていった。ブライアン以外にも数々の名を保有した山路は後に「について)専門的なことは分からない」「私の場合は皆さんに助けていただいて、そのおかげだと思っていますから。運がいいというのもおかしいですが、やはりいいんでしょうね(笑)」とっているが[11]競走馬セールが今ほど盛んでなかった時代において、幼い時期の名とのつながりを他人に先んじてもたらされる人の縁を大切にしていたのは間違いなかったところであろう。

1991年になるまで半年ほど場長の世話を受けたナリタブライアンだが、体はそれほど大きくなく、性格もおとなしく、仲間の中でグループリーダーになるわけでもなく、やることといえば場長のをかじって破くぐらいで、普通だったという[12]

1991年離れ[13]をして、1992年3月まで明和分場にいて、1992年3月から1992年10月までえりも分場に滞在した[14]。えりも分場にいた時も、ナリタブライアンは小柄であまり立つ存在ではなかった[15]

1992年3月から1992年10月まで滞在したえりも分場では、放牧を経験した。放牧はだけではなくも放牧すること。に襲われるという危険性や、資を調達して広い土地を用意しないといけないというコスト性があるが、も動き回ることができるので体の鍛錬に効果的であり、の精も強くなる。この放牧を始めてから明らか牧場の生産の成績が良くなったという[16]

1992年10月牧場新冠支場で致に入り[17]競走馬としての調教を課され始めた。もともとは福島で開業したという歴史的な経緯[18]から「支場」と冠されているものの、ここは53ヘクタール広大な敷地を持っている牧場の本拠地で、本格的な設備がっている[19]大久保調教師は育成牧場時代にナリタブライアンを何度も見に行ったが、特筆できるような要素がなく、大物かどうかは正直言って分からなかったという[20]

一方、牧場に所属する40~50人の乗り手たちの中で一番のベテランである園という乗り手が「牧場内の坂を上ったり下ったりする運動の時、ブライアンだけは呼吸がまったく乱れない。他のとは全然違う」と報告しており、一郎にはその情報が届いていた[21]

また別の資料には其三義という人物が出てくる。笠松競馬で下乗りをしていたことがあり、牧場に就職してからは30人以上の調教担当のまとめ役をして、ナリタブライアンがやってきた当時はチーフ手という立場だったという。この其三義は半ビワハヤヒデに育成役として乗ったことがあるのだが、ナリタブライアンに乗り「体全体の弾むようなバネや柔らかい背中、敏捷性は、はるかえる素質を感じさせた」と賞している。先ほどの園(そのうら)とは其(そのうら)三義の誤表記だろうか[22]

牧場新冠支場の場長である宮下了はブライアンを確信していた。大久保正陽厩舎に引き渡すとき、担当することが決まっている持ち乗り調教助手の村田雄に対して「生涯こんなに会えないかもしれないよ」と言っている[23]

デビューからデイリー杯3歳ステークス~ビワハヤヒデの弟として

ナリタブライアンが東・大久保正陽厩舎に入厩したのは1993年5月28日だったが[24]、すでにナリタブライアンは注の3歳の一頭だった。

ちなみにこれは、「優秀なが毎年のように入厩する名門の大久保正陽厩舎に入ってきた3歳」というに注されたのではなく、「皐月賞日本ダービーと連続で二着に入ったビワハヤヒデの半の3歳」というに注されたのである。

大久保厩舎はトレーニングセンターの中でもに強めの調教を課すことで知られていたが、言い換えれば良血の期待を預かる機会の乏しい厩舎であり、ハードトレーニングもそれ故のものであった。後に大久保調教師は「ビワハヤヒデが活躍した後だったらブライアンは自分のところには来なかった」とっている[25]。実際、ブライアンは1頭も大久保正陽厩舎には入っていない。

この時期の大久保正陽厩舎はメジロパーマーナリタタイシンといった活躍を輩出する絶頂期にあったが、それでもまだ、が入厩する普通の厩舎だったのである。

1993年5月トレーニングセンターに入ったナリタブライアン。大久保調教師はナリタブライアンによほど自信を持っていたようで、関西トップ騎手であった南井克巳にズバリと「君はダービーを勝ったことがあるか?ないなら、うちのダービーを勝ってほしい」と騎手依頼をした。このことは南井克巳言している[26]

ちなみに大久保調教師は「南井騎手のようなトップ騎手ダービーを勝っているかいないかなんて当然知ってるし、そんな失礼なことをベテランに面と向かって言うわけがないでしょう」とこの話を否定している[27]

南井もナリタブライアンに調教をつけてすぐ「このはモノが違う」と感じたらしい。ナリタブライアンの特徴的な「首を低く振り上半身の重心をグッと下げて低い姿勢で鋭く伸びるスパートのフォームはすでにこのときほぼ完成されていたようで、「あ、オグリキャップの感覚だ」と言わしめるほどの乗り心地であったという[28]

ただ、ブライアンには「物見をする、周囲の物を異常に怖がる」という精面の弱点があった。物見とは、普段見慣れた風景なら大丈夫だが、初めて見る物などに気を使いすぎて、立ち止まったり驚いたりすることをいう。ブライアン1992年1993年5月の育成牧場時代から物見をする傾向が強く、コースにできた小さなたまりに驚いて体をねじって避けようとして、乗り役を振り落とすことがあった[29]。自分のに驚いたり、に驚いたり、スズメが飛ぶと驚いたり、100メートル先でレンズを向けるカメラマンに気が付いて一歩も動かなかったりしていた。レースで走っていても自分の足元ばかり見ているようだった。よく言えば周囲の変化に敏感であり、また、悪く言えば臆病であった[30]

これが災いして8月15日函館1200mのデビュー戦で2着。ゲートを気にして故障したかのように止まった[31]レース中も突っる感じで走るのを止めるような雰囲気があり、南井克巳には物見をしているように感じられた[32]。ただレース後の大久保調教師は「このは強い。モノが違う」といい、南井克巳は「このすごい」と奮気味にっていて、才を感じさせる走りをしていた[33]

8月29日函館1200mの2戦に9ぶっちぎりで勝った。逃げるのは生涯一のことであり、9身差は生涯最大着差となった。

 
9月26日函館1200mの函館3歳ステークス(GⅢ)は重馬場に足を取られたのか3~4コーナーで置いていかれ、6着に敗れた。

4戦10月24日福島1700mの500万下条件戦きんもくせい特別で3身差で勝った。ちなみに、福島開催のような「裏開催」に遠征して出走するのは、後のダービーとしては相当に異例である。大久保正陽調教師は1年前の1992年に当時3歳だったナリタタイシン福島に遠征させてきんもくせい特別を走らせているので、それに続く異例の行動となった。阪神京都中山東京500万下条件戦がいくらでも開催されており、そこで強敵と戦いつつ中央競馬競馬場の経験を積むのが、クラシックとしてごく一般的である。「裏開催の福島なんかに行くんだから大したことがないだ」と思われてもおかしくないが、周囲の評など気にしない大久保正陽調教師らしい決断といえる。

きんもくせい特別では45歳の大ベテラン騎手である清水英次がブライアンに乗った。清水英次はトウメイテンメイといった伝説的名騎手として知られる。その彼が「古みたいなところがある」と賛辞を与えた[34]。また、清水英次は3歳~4歳ナリタタイシンに5回騎乗しているのだが、「ブライアンは去年のナリタタイシンの今頃よりも乗りやすい。器が違う」とも評価している[35]

 
5戦11月6日京都1400mで行わわれるデイリー杯3歳ステークス(GⅡ)で、このレースは1年前に半ビワハヤヒデレコード勝ちしたレースである。しかし、スタート直後に落して人でいうと靴が脱げた状態になり、前が詰まって3着に終わった[36]。このときも物見をしているようで、脚元を気にしていた[37]

ここまで5戦2勝に留まり、の片鱗を見せることしか出来ていない。クラシック戦線の兵にすらなっていない状況であった。

デイリー杯3歳ステークスの翌日の11月7日に行われた菊花賞で、半ビワハヤヒデレコード更新して優勝していた(動画exit_nicovideo)。それにべると「兄よりすぐれた弟なぞ存在しねぇ!!」の言葉どおりの状況と言えた。

シャドーロールの怪物誕生

自分のを恐れるという欠点を抱えていたナリタブライアンだが、そのための対策として営はシャドーロールを装着させることを決定し、11月21日京都1800mで行われる京都3歳ステークスに駒を進めた。

するとさっそくシャドーロールの効果がてきめんに現れる。視線のすぐ前にあるの塊を見つめたブライアンレース中に周りを気にすることなく集中し、ランスオブスリルが持つ従来の3歳コースレコードを1.1縮める好タイムで走り、3身差で勝した。

 
3歳戦の仕上げとして、12月12日中山1600mで行われる朝日杯3歳ステークス(GⅠ)に出場した。1年前は半ビワハヤヒデハナ差で勝てなかったレースである。前半がハイペースで流れるなかでブライアンはぴったり折り合い、4コーナーをうまく回って先行にとりつきながら直線に出て、直線で弾ける末脚を披露した。ブライアンは3身1/2差で圧勝し、名実共に3歳王者の座についた。差が付きにくいはずのマイル戦で3身1/2の差を付けるのだからタダモノではない。タイムは1分344で、リンシェーバー1990年記録した1分340に及ばないものの、アイネスフウジンと同じ歴代2位タイであった。

馬場の発表だったが、前日に降ったの湿り気がまだ残る渋めの馬場だった。「パンパンの良馬場だったらレコードになってたんじゃないかな」と南井克巳コメントした[38]

ちなみにこのレースには大久保調教師と山路秀則オーナーが訪れていない。彼ら2人は香港にいて、当時GⅢだった香港カップに出走するナリタチカラに帯同していた[39]

 
黒鹿毛体の鼻先に鎮座するシャドーロールは、ファンにとってもレース中ひとブライアン所在がわかる、このシンボルとなった。後に精面も成長し、周りに怯えないたくましさを備えた後でも、このシャドーロールは引退まで外されることはなかった。

3歳で7戦を消化したのだから放牧に出すかと思われたが、そんなことはなかった。レース翌日の12月13日には東トレセンに戻り、1日調教を休んだだけで、すぐに調教に戻った。大晦日まで調教が続けられ、正月休みは元旦だけ、1月2日からまたしても調教に取り組んだ[40]。これがまさに大久保正陽厩舎である。

3歳の7戦は間隔の詰まったレースも多いローテーションだった。表にすると次のようになる。

日時 レース 条件 間隔
8月15日 新馬戦 函館1200m
8月29日 新馬戦 函館1200m 中1週
9月26日 函館3歳ステークス 函館1200m 中3週
10月24日 きんもくせい特別 福島1700m 中3週
11月6日 デイリー杯3歳ステークス 京都1400m 中1週
11月21日 京都3歳ステークス 京都1800m 中1週
12月12日 朝日杯3歳ステークス 中山1600m 中2週

 
中1週が実に3回もあるので過酷なローテという印を受ける。滋賀県東トレセンと福島競馬場を往復したり滋賀県東トレセンと千葉県中山競馬場を往復したりする長距離移動も、にとって大変なように見受けられる。

その一方で、1200mや1400mといった疲労が残りにくいとされる短距離戦が多く、実はそこまで過酷ではないという印も受ける。

3歳1000mや1200mといった短距離戦を走らせてを鍛えるのは大久保正陽調教師が好む手法であり[41]メジロパーマーイイデセゾン、ナリタタイシンシルクジャスティスエリモダンディーがその方法で育てられている(記事1exit記事2exit記事3exit記事4exit記事5exit)。

中1週を3回行ったときも体減りが見られなかったという[42]

大久保正陽調教師は「レースを使って調整してを鍛えていくというのが自分の一貫した手法」とはっきり述べている[43]

圧倒的な能力の差を見せ付けた春のクラシック街道

1994年になり4歳になったナリタブライアン。

ダービー前に東京競馬場でのレースを経験させておきたい」という理由から、2月東京1800mで行われる共同通信杯4歳ステークス(GⅢ)を4歳初戦とすることに決定した。「3歳チャンピオンで賞を稼ぐ必要もないので始動は3月弥生賞スプリングステークス」というのがこの当時の一般的な考えだが、大久保正陽厩舎はそれとは一線を画した。大久保正陽調教師は、メジロモンスニーやナリタタイシン日本ダービーを惜敗していたのだが、この両ともダービーを走るまで東京競馬場を走った経験がなかった。そのことを悔いる大久保調教師は、共同通信杯の出走を決断したのである[44]

によりレース2月14日)に順延されるというアクシデントがあったものの、ここを楽勝した。1分475のレースレコードで4身差である。ちなみに前日の2月13日(日)には京都記念で半ビワハヤヒデが勝っている。ナリタブライアンの共同通信杯は予定どおり日曜日に行われてブライアンが勝っていれば、1940年4月7日キヨクジツが中山省賞典障現在中山大障害)・タイレイ中山4歳牝馬特別現在桜花賞)を勝って以来中央競馬史上二度の「兄弟同日重賞制覇」となっていただけに、惜しかった。

コース外にはが積もっていた。3歳までのナリタブライアンならをとられて物見をしていただろうが、このときのブライアンは物見をしておらず、南井克巳は「精面でも大人になってくれた」と評価した[45]

 
共同通信杯から皐月賞へ直行するとレース間隔がきすぎる」という理由から、3月27日中山1800mで行われる皐月賞トライアルスプリングステークス(GⅡ)に出走するとこれも勝。ちょっと出遅れて最後方に位置したが、そのおかげで荒れていない外を追走することができた。3~4コーナーで外を回してマクっていき、直線で3身1/2の差を付ける。半ビワハヤヒデの勝てなかった皐月賞日本ダービー制覇への期待のみならず、トウカイテイオーミホノブルボンもなしえなかったシンボリルドルフ以来の三冠馬誕生への機運も高まっていった。

 
ただ、3歳時に7戦、4歳になってからも2戦を戦い、皐月賞で10戦となる戦績には「レースの使いすぎによる消耗」を危惧するもあった。過去3年の皐月賞の1番人気較すると、1991年トウカイテイオー1992年ミホノブルボン皐月賞を5戦1993年ウイニングチケット皐月賞を6戦で迎えている。皐月賞を1番人気で迎えるようなの高いは、くに勝ちを重ねて賞を稼ぎ、その後は余裕を持って本番にピークを合わせるのが常である。

デビュー直後こそもたついたとはいえその後は順調に賞を獲得していたブライアンレースを使い続けた理由は、「トレーニングセンターでのテンションの高さ」という、これも精面の弱点に起因するものであった。常にり詰めた雰囲気のトレーニングセンター空気の中で、敏感なブライアンは常に自らの気を緩めず、そして賢さも持ち合わせたブライアンは、自分のレースが近づくとそれを察知してますます奮してしまう。これでは体以前に精がすり減ってしまうと危惧した大久保調教師は、「短い間隔でレースを使い続け、体を疲れさせることで緊をほぐそう」としたのである[46]期にできた「臆病さ」とは異なり、こちらの「近づくレースを察知しての奮」はその引退までブライアンにつきまとうことになる。

ブライアンは万全の状況だったが、大久保正陽厩舎には異変が起こっていた。スプリングステークスの直後に大久保調教師が盲腸を発症し、自宅で静養することになった。周囲を騒がせてはまずいので「風邪をこじらせた」とだけ発表した。厩舎を会社にたとえると、調教師社長に当たる。調教師が不在となり、調教師息子大久保念(まさとし調教助手がマスコミの取材に対応するなどバタバタした状況になった。結局、大久保正陽調教師皐月賞を自宅で観戦することになった[47]

そして迎えたクラシック第一戦・皐月賞4月17日中山2000mで行われるこのレースにおいて、前戦の弥生賞逃げて2身1/2の着差で快勝したサクラエイコウオーが有の一とされて3番人気だった。さらにはアーリントンカップ逃げ切って優勝し、毎日杯中2番手に先行して優勝した重賞2連勝メルシーステージも4番人気となっていた。ハナを切るならこの2頭のうちどちらかで、ハイペースになることが予想された。

サクラエイコウオーがハナを切り、それ以外の各も放置できずに飛ばしていくことになり、前半1000m58.8ハイペースとなった。11番に入ったブライアンは上手にスタートして好位から追走し、向こう正面で8番手から4番手に押し上げていく。そして4コーナーで上手く外に持ち出して直線で抜け出すと最後方から追いこんできたサクラスーパーオーら後続勢に3身1/2差をつけてゴールインし、前年の菊花賞を制したビワハヤヒデに続いて兄弟クラシック制覇を達成した。

が舞い上がる傷んだ馬場で勝ち時計1分590記録し、1993年ナリタタイシン記録した2分02という皐月賞レコードを1.2更新している。ちなみに1993年ナリタタイシンは既存の皐月賞レコードを0.9更新して2分10の壁を初めて破る快挙を成し遂げていたのだが、その快挙をわずか1年で大幅に上回った。そして、1994年にナリタブライアンが皐月賞で2分の壁を破ったあと、2001年まで7年連続で2分の壁を破る皐月賞が出現しなかった。

また、ナリタブライアンの記録した1分590というタイムは、スダビートexit1989年12月2日のディセンバーステークスで記録していた「古を含めた中山2000mのコースレコード」を0.5も短縮するものだった。

皐月賞を3身以上の着差で勝ったは、1989年平成元年)~2021年の33年間でたった3頭しかいない。1994年のナリタブライアンと、2011年東京2000m開催時のオルフェーヴルと、2021年エフフォーリアである。

 
5月29日に行われるクラシック第二戦・日本ダービーでは単勝1.2倍に推された。日本ダービーで単勝1倍台の前半になったのは歴史的名ばかりで、1973年ハイセイコー1.1倍、2005年ディープインパクト1.1倍、1984年シンボリルドルフ1.3倍、2020年コントレイル1.4倍といったところである。

当日の東京競馬場18万7041人の観客を集めた。入場券が前売り制になって入場制限がかかった1991年以降に限ると歴代1位の観客数である[48]

大外の17番に入ったナリタブライアンの近くの15番ノーザンポラリスがおり、スタート直前にしく暴れていた。ノーザンポラリス奮して立ち上がった間にゲートが開いたのだが、ナリタブライアンは全く集中を切らすことがなく、ゲートが開いた途端に半身ほどの差を付ける抜群のスタートを切めて、6番手あたりの絶好位に進出した。

ナリタブライアンの直後に位置していたアイネスサウザーが2コーナーで思い切り引っかかって先頭に駆け上がっていったが、それにもブライアンは全く動じず、騎手との折り合いを璧に保った。アイネスサウザーが引っ掛かって逃げたため、前半100060.0ペースとなった。アイネスフウジンが勝った1990年ダービー59.8ウイニングチケットが勝った1993年ダービー60.0とほぼ同じである。

4コーナーで他に邪魔をされない大外に持ち出すと、東京競馬場の長い直線でほとんど左右にヨレることもなく、首を沈める美しいフォームでっ直ぐ駆け抜けていき、エアダブリンら2着以下を5身突き放す圧勝となった。

大歓に包まれて東京競馬場の直線を疾走するナリタブライアン。その上で、南井克巳は全身のをこめてにならないを叫んでいたという[49]。この1年前の1993年日本ダービーで、南井克巳マルチマックスに騎乗したが、スタート直後に落するという屈辱的体験をしていた(動画exit_nicovideo)。まさに地獄から天国へはい上がる形となった。

が巻き上がるボコボコ馬場で、大外をぶん回して距離を大きく損したにもかかわらず、2分257時計記録した。これは1990年アイネスフウジン記録した2分253レコードタイムに0.4しか遅れていない。

ナリタブライアンは残り400m地点から残り200m地点までの坂がある1ハロン(200m)を112で駆け抜けていて、1994年の時点でこの区間の歴代最高タイムだった。ナリタブライアン以外に11台で走ったのは、117で走ったトウカイテイオーと118で走ったアイネスフウジンの2頭しかいない[50]ブライアンはこの2頭よりも0.5ほど、つまり3身ほど速く走っている。

須田雄によると、レースが終わった後の検量室でナリタブライアンは息一つ切らしておらず、大量のをかくこともなく、何事もなかったかのように立っていたという。「何千頭の競走馬を見たかわからないが、府中の2400mを走り抜いて然としているなど見たことがない」とも同氏はっている[51]



皐月賞ダービーの尋常ではない勝ちっぷりから史上最強も出始め、三冠達成、ビワハヤヒデとの現役最強の座を賭けた対決への期待が高まっていった。ビワハヤヒデ皐月賞の1週間後に天皇賞(春)を1身1/4差で優勝し(動画exit_nicovideo)、ダービーの2週間後に宝塚記念を5身差で勝っており(動画exit_nicovideo)、しかも中先行して4コーナーで先頭に立って押し切るというブライアンにそっくりな勝ち方をしていて、1994年競馬兄弟で席巻していたのである。

4歳の夏~立ち込める暗雲

ダービー後のナリタブライアンは避暑のために6月10日札幌競馬場へ移送され、8月17日には函館競馬場へ移送され、それらの競馬場で滞在した。通常ならば出走しない競走馬競馬場滞在は許されないが、ナリタブライアンは実績が考慮されて特例で許可された[52]

しかし、ナリタブライアンは走の疲労が蓄積されていてギリギリの状態だった。それに加え、深刻な米不足を招いた前年1993年の冷とは一転して、この1994年は酷暑となった。それは北海道も例外ではなく、ブライアンがいる札幌競馬場も連日30度を越す暑さとなり、ブライアン負けで体調を崩した。それまで健康そのものだった脚部に膜がでるなどのが出て、一時期は営が菊花賞回避を考えるほどに状態が悪化していた[53]

これが原因となって調整が遅れてしまい、ナリタブライアンは10月16日に行われた緒戦の京都新聞杯(GⅡ 阪神2200m[54])でスターマンにまさかの差し切り勝ちを許してしまう。

ちなみにブライアン負けして状態が悪いことは極秘とされ、大久保正陽厩舎の関係者以外にはほとんど知らされなかった[55]。このため単勝1.0倍に支持され、フジテレビ系の放送で杉本清アナウンサーも「順調にを越した」と表現していた。


さらに菊花賞の1週間前に行われた天皇賞(秋)で、ビワハヤヒデレース中に故障発生となり、同レースを5着に敗北した(動画exit_nicovideo)。屈腱炎を発症していたビワハヤヒデはそのまま引退し、有馬での兄弟対決は幻となってしまった。

ミスターシービーのように初戦で大敗した後、体調を立て直して三冠いた例もあるが、タニノムーティエのようにもはや立て直しもままならず惨敗した例もある。また1992年ミホノブルボンのように、京都3000mのスペシャリストライスシャワーに阻まれたという例もある。過去に何頭もの二冠が挑戦を前に挫折し、また挑んでは敗れた菊花賞三冠馬になるには絶対的なだけでなく、当日の体調、そして運も必要である。ナリタブライアンのを以ってしても三冠の壁は厚いのか、それとも……僅かな不安を抱えたまま、1994年11月6日を迎えることになる。

菊花賞から有馬記念~弟は大丈夫だ!

しかし、そんな不安はナリタブライアンにとって杞憂にすぎなかった。

パラパラ小雨が降る京都競馬場で行われた菊花賞は、稍重の馬場となった。4番のナリタブライアンは好スタートを切ったが、その隣の5番のスティルキャストが勢いよくダッシュをして4番のナリタブライアンの横をすり抜けていき、ナリタブライアンを挑発して揺さぶりを掛ける。このとき南井克巳はすぐに手綱を引いてブライアンを抑えにかかった。南井の示に応じてブライアンは折り合いを保ち、スティルキャストに釣られなかった[56]レースの序盤からブライアン南井克巳にとって緊迫の流れとなった。

ティルキャストが最初の1000mを61.2ペースで引っり、稍重ならペースといったところで、緩みのないレースとなった。1~2コーナーでスティルキャストがさらに加速して後続を引き離して大逃げを打つという展開となった[57]

中はヤシマソブリンが6番手となり、ナリタブライアンが7番手で追走した。ヤシマソブリンの坂井千明は「ナリタブライアンより前に行くのは予定どおりだ。ナリタブライアンが動いてくるのをこのまま待つ」と思っており、ナリタブライアンの南井克巳は「ヤシマソブリンがいい標になってくれた」と思っていた[58]

3コーナーの坂の下りでブライアンがス~ッと上がって半身ほどヤシマソブリンにかぶせ、ヤシマソブリ上の坂井千明の視界に入ってきた。坂井千明は「ブライアンが先に仕掛けてきた。ブライアンを離さなければならない」と感じてしまう。このプレッシャーに押され、坂井千明は予定よりもワンテンポく仕掛けた[59]

ヤシマソブリンが3コーナーの坂の下りで先にスパートを掛けてインを縫っていくと、ブライアンもすかさずペースアップして外を回っていく。最後の直線の入口でヤシマソブリンに体を合わせると、そのままヤシマソブリンにさえ踏ませぬ7身差の勝を果たした。故障で引退したに続く菊花賞制覇、そしてシンボリルドルフ以来10年ぶり5頭クラシック三冠制覇を達成した。

勝ち時計3分46で、1993年に良馬場ビワハヤヒデ記録した3分47菊花賞レコードを0.1更新した。滑りやすい稍重の馬場レースレコード更新するという偉業を達成した。

クラシックの3戦を続けるたび、3身1/2差、5身差、7身差と着差を広げていった。そのうち2戦はレコード更新おまけ付きであった。

最後の直線で差を広げるたびにフジテレビ系列放送実況杉本清が「大丈夫だ!」との台詞を喋った。このとき杉本清の隣にはビワハヤヒデを管理していた濱田調教師ゲストとして座っていた。 濱田調教師はどのような思いでこの台詞を聞いたのだろうか。

ウィニングランをするブライアン南井克巳に「南井!南井!」との南井コールが湧き上がる。ブライアンに対してのファンの歓は「南井!」が定番だった。
 


ナリタブライアン営は年末の12月25日中山2500mで行われる有馬記念への出走を決め、初の古との対戦となった。スタート直後から先頭を爆走するツインターボから大きく離れた2番手集団の先頭には、天皇賞(秋)を勝ったばかりのネーハイシーザーが立った。

ツインターボ全盛期を大きく過ぎているので放置しても大丈夫だろう。ネーハイシーザー2000mまでが得意の中距離なので[60]ペースを上げると終盤にスタミナ切れになる」といった計算がネーハイシーザー上の騎手のなかに働いていたのか、ネーハイシーザーはやや遅めのペースとなった。ツインターボの最初の1000mは58.8で、ネーハイシーザーの最初の1000mは推定で61.0だった[61]。向こう正面に入ってからブライアンがじわっと進出し、2番手ネーハイシーザーの直後3番手に付ける。

3コーナーブライアンは加速し、先頭に躍り出た。それに対してヒシアマゾンが凄い勢いで3~4コーナーの外をマクっていき、直線入り口でブライアンに並びかけようとしたが、ブライアンも末脚を発揮し、ヒシアマゾンをスッと引き離す。追いすがるヒシアマゾン以下に3身の差を付けて勝。この年、文句しの年度代表馬に選ばれた。


故障発生と低迷

1995年になり、5歳になったナリタブライアンは、3月12日京都3000m[62]で行われる阪神大賞典(GⅡ)に登場した。菊花賞有馬記念とは違って最初の1000m63.8スローペースとなったが全く引っ掛からず、上がり3ハロン33.9の末脚を発揮して7身差で圧勝。この上がり3ハロン33.9の末脚はブライアンの全レースの中で最速となった。この年の古戦線はナリタブライアンが役だというのは疑いようのない事実であるはずだった。


阪神大賞典の4日後の3月16日から馬場での調整を始めたが、普段なら2~3日で終わるはずの馬場調整が長引いている。3月23日になってやっとウッドチップコースに入ったが、その日の午後に競走馬診療所の往診を受け「のあたりの疲れが抜けきっていない。コースを出るのを控えて、回復を図った方がいいと思われる」と告げられ、再び馬場調整に戻った。さらに3月29日馬場調整をやめ、4月4日馬場調整を再開した。そして4月7日に右股関節炎の発症と全治2ヶであることがJRAから発表された[63]

4月23日天皇賞(春)6月4日宝塚記念絶望となり、シーズンの全休が決定し、10月29日天皇賞(秋)標に調整されることになった。

股関節炎は、筋肉に疲労が溜まったとき筋肉の内部に炎症が起きるものである。大きく盛り上がった筋肉の内部で発生する炎症なので、これに対する治療法としては、安静にして炎症が引くのを待つしかない。とはいえ、競走馬にとって厄介な腱や筋の故障ではないのが不幸中の幸いだった[64]

また、どんなに軽傷でも「全治3ヶ」と発表するのが当時のJRAだったが、ブライアンに対しては「全治2ヶ」と発表している。このため症状自体はごく軽傷であると受け取られた[65]

ブライアン5月10日になって北海道新冠の牧場新冠支場へ里帰りし、筋肉が大きく落ちる放牧をせず、引き運動房入りの2つの行動を繰り返す毎日を過ごした。そして7月6日になって函館競馬場三冠馬の特例として滞在することになった。

ブライアンの装蹄師である山口勝之は「ブライアンは跛行(はこう)をしていない。つまり片足を引きずっていない。だから大して悪くないだろう」と思っていた。しかし山口勝之が7月になって函館競馬場に行ってブライアンの蹄(ひづめ)を見てみると、右後ろ足の蹄だけが小さくなっていることが確認できた。「ツメが変わるくらいだから、よほど痛くてっていたのだろう」と山口勝之は思った[66]

馬場調整が始まったのが8月初めで、ダートコース入りしたのが9月3日9月17日にやっと東トレセンに帰ってきた。9月27日南井克巳騎手調教したが、軽めに乗っただけで追い切りができない[67]。どうやら10月8日毎日王冠は使えないようだ。10月29日天皇賞(秋)まで時間が迫ってきている。

更に追い討ちをかけるように、戦を務めていた南井克巳騎手10月14日(土)の京都第4レースで負傷した。スタート直前でタイロレンスexitという体重538kgの巨ゲートの前に潜り込もうとした。上の南井克巳は「下敷きになったら死ぬ」と思って飛び降りようとしたが、右足のアブミが外れず右足を強くひねった。ちょっとやそっとでは音を上げない南井克巳が痛そうにうめく。南井克巳の右くるぶし複雑骨折に脱臼という重症で、京都競馬場からすぐ近くのこの場所exitにある蘇生病院に担ぎ込まれたが、「右足関節脱臼折、全治4ヶ」の診断を受けた。同病院で8時間にわたる大手術を受け、千葉県鴨川市この場所exitにある亀田クリニックリハビリに励むことになった[68]

そして、ブライアン天皇賞(秋)へ直接向かうことになるのだが……

戦の南井克巳の落負傷のにより騎手選びをすることになったが、難航した。大久保正陽厩舎所属のナリタタイシン騎手を務めていて大久保正陽厩舎と縁が深い武豊アイリッシュダンスの先約を受けており、手がいていなかった。河内洋を検討したり、短期免許を交付されて滞在していた英国騎手アラン・ムンロから売り込みがやってきたりしたが、結局、松永幹夫依頼することにした。しかし「松永幹夫の所属厩舎のマイシンザン天皇賞(秋)に出走可になったら松永幹夫がそちらに乗ることを妨げない」という約束付きだった。

10月25日)にナイスネイチャがフレグモーネを発症して回避し、マイシンザンが出走可になり、松永幹夫はそちらに乗ることになった。そしてナイスネイチャ騎手松永博は所属厩舎のトーヨーリファールに乗ることになり、トーヨーリファールに乗るはずだった的場均がはじき出されて暇になった。このため大久保正陽調教師的場均を掛けて、的場均が代役を務めることになった[69]大久保正陽厩舎は関西の厩舎で、的場均関東戦場にする騎手なので、実にしいコラボとなった。

10月29日レースにおいてブライアンは1番人気に支持され、1000m通過59.6という天皇賞としてはやや遅いペースの中を好位6番手で追走した。4コーナーでは4番手に進出するが、直線に入ったらぴたりと止まり、群にみ込まれた。その群の外をサクラチトセオーのような末脚で駆け上がりハナ差の優勝を果たしているので、末脚の差が余計に印に残った。結果は12着で、圧倒的な三冠馬が二桁着順になったことで衝撃が広がった。ただしナリタブライアンの勝ちとの時計差は0.6差なので「それほど離されておらず、次に期待」というも見られた。




さらに続く11月26日ジャパンカップは、大久保厩舎に縁がある武豊に乗り変わり、1番人気に支持される。タイキブリザード逃げ1000m通過が61.0というスローペースとなり、ブライアンは7番手あたりの好位を追走した。3~4コーナーではなかなか良い手応えで、ス~っと加速してコーナリングし、4コーナーでは勝ったランドのすぐ隣に位置していた。しかしそこから末脚が炸裂せず、ランドに置いていかれる。有馬記念で一蹴したはずのヒシアマゾンが怒濤の末脚を炸裂させて2着に食い込んだのとは対照的な姿だった。ナリタブライアンは6着と敗退し、2戦連続で掲示板にも入れないという屈辱を味わった。しかし勝ちとの時計差は0.7差で、故障からの復帰2戦なら悪くない気もする。

 

12月24日に行われる有馬記念では今度こそ復活させる」と決意した大久保調教師は、坂路調教を再開させた。ジャパンカップまでは股関節炎の再発を恐れて一般的にに負担が掛かりやすいとされる坂路調教を控えていたが、「稽古不足のため直線で止まったのだろう。稽古を積む必要がある。トモ筋肉を鍛えるにはこれが一番だ。の不安もなくなった」と判断しての再開となった[70]

ブライアン久々に2番人気になり、1番人気ヒシアマゾンに譲った。「明らか調子がおかしい」「いや、0.6差と0.7差で内容自体は悪くない」という思いが交錯しており、ナリタブライアンは馬券購入者たちに試練を与える存在となった。逃げらしい逃げが不在と見られていたレースだったが、それまで逃げの経験がなかった菊花賞マヤノトップガン逃げ帽子が吹き飛ぶような強が吹き荒れるなか、最初の1000mを推定62.1で走るというペースで引っっていく[71]。ナリタブライアンは好位6番手を軽快に追走し、3~4コーナーで加速して2番手にまで上がっていき、マヤノトップガン田原成貴騎手に「やはり来たか」と思わせた[72]。ただしこのレースでもナリタブライアンの見せ場はそこまでで、武豊を浴びても直線で加速せず、先行タイキブリザードに差し返され、最後方から追い込んできたサクラチトセオーにも抜かれ、0.5差の4着に敗北した。勝ったのはマヤノトップガンで、ナリタブライアンと同じブライアンズタイム産駒であり、ナリタブライアンと同じ菊花賞であった。




天皇賞は少し出遅れたがジャパンカップ有馬記念スタートダッシュは絶好だった。3戦とも中は軽快に走り、騎手との折り合いも上々だった。3戦とも3~4コーナーの手応えは素らしく、コーナリングが巧みでス~っと加速していき、軽々と上位に進出することができた。

しかし、とにかく直線で伸びない。的場均武豊ジャパンカップレース後の検量室で「4コーナーまではいい感じの手応えで来るだろう?(的場)」「ええ、でも、伸びないんですよね(武)」「そうなんだよな(的場)」という会話を交わしていて[73]の3戦はどれもこのような感じだった。「ナリタブライアンは利口ななので、怪することを恐れて全走行しなくなっているんじゃないか」と大久保正陽厩舎の人たちは見立てており[74]ファンにもそう言われるようになった。

ちょうどこの3戦は戦の南井克巳騎手が落負傷で不在だった。大川次郎は「南井君ならブライアンに活を入れられる。南井君ならブライアンの走らせ方を分かっている」と説していた[75]。南井は「豪腕」「ファイター南井」といわれるような乗り方をする騎手なので、大川次郎もそこに期待をしていたのであろう[76]

「あの強かったナリタブライアンはもう戻ってこない」という予感と、「4コーナーまでは一流の走りになっている。何かのきっかけで復活するかもしれない」という願望を競馬ファンに与えつつ、ナリタブライアンの5歳シーズンは終わった。

復活、そして高松宮杯

1996年になって6歳になったナリタブライアン。復活を期した営が緒戦に選んだのは、3月9日阪神3000mで行われる阪神大賞典GⅡ)だった。楽勝が予想された前年と違い、菊花賞有馬記念を勝ったマヤノトップガンが出走していることもあってナリタブライアンは2番人気に甘んじた。

引き続き上に武豊を乗せたナリタブライアンは、4コーナーマヤノトップガンと共に抜け出し、直線における長いマッチレースの末にアタマ差だけ前に出て、1年ぶりの勝利を挙げる。

 
このレースして日本競馬史における名勝負の一つとするがあるものの、一方では「全盛期のナリタブライアンならばマッチレースにすらならず楽勝していた」としてそれを否定する意見もある[77]。(一方でマヤノトップガン側も「ナリタブライアンは復活勝利を期してある程度仕上げてきたはずだがこちらは調整段階。結果も気にしていないからこうなっただけの事」とこちらもその意見に負けずに吹いている。まあ仕上げたらめっちゃイレ込んだんですけどね

ともあれ、直線における強さが全にを潜めていた前年べればブライアンが良化していたのも事実であった。ブライアンが直線で根性を発揮するようになったのはファンにまで見ていたである。

次走の4月21日に行われる天皇賞(春)では、一昨年の有馬記念以来のGⅠ制覇を期待されて1番人気に推された。そして上には久々南井克巳が復帰した。南井克巳4月7日桜花賞イブキパーシヴに乗って2位4月14日皐月賞ロイヤルタッチに乗って2位になっており、体調も勝負感も万全だった。

青空が広がってかしい陽が降り注ぐ中、レースが始まった。7番マヤノトップガンパドックからイレこんでいたので、上の田原成貴暴走を防ぐため後方に下げたが、スタート直後に隣の8番サマーサスピションと接触しやっぱり奮状態に陥って、1周の3コーナーの坂の下りで引っかかってナリタブライアンを追い抜いて7番手ぐらいに進出してしまう。メインスタンド前の直線でも引っかかり気味であり、大歓が上がったときにさらに奮して1頭を抜き、群の外を6番手で進むことになった[78]

スギブルボンスローペース逃げ奮しながらテイエムジャンボが2番手につけ、最初の1000mが61.7スローで流れた。そこからさらに3番手集団が10身ほど離れていたので、3番手以下の集団はスローペースで流れることになった。先述のようにマヤノトップガンは引っかかっていて、正面スタンド前で1頭かわして7番手から6番手になり、1~2コーナーで4番手にまで上がってしまう。そして、かつてのブライアンならスローペースであっても引っかからなかったが、このレースブライアンも引っかかって奮している。

2コーナーを回って向こう正面に入ったところで、4番手のマヤノトップガンはやっと折り合いが付いた。しかし今度はナリタブライアンが引っかかって、外を駆け上がって6番手あたりまで進出し、体を消耗してしまう。

ブライアンは3コーナーの坂の下りでかかり気味に外をマクってスパートし、仕掛けの形になった。それに煽られる形でマヤノトップガン仕掛けのスパートを掛ける。4コーナーを回るときには2頭が並び、前走の阪神大賞典のような併せの形になった。

マヤノトップガンは掛かり通しだったので体を消耗しており、ブライアン抵抗できない。ブライアンは直線でマヤノトップガンを抜き去り、見事に先頭に立つが、そこに桜色勝負服が突っ込んできた。

仕掛けがたたったのか、ブライアンは直線でサクラローレルの末脚に抵抗できず、あっという間に抜き去られ、2身1/2差も差を付けられての2着に敗退した。

レース後の南井克巳は「これまであんなに引っかかることはなかった。スタートから行きたがっていた」と発言した[79]。また「1周の3コーナーの下りで引っかかっていた。2コーナー過ぎの向こう正面でも引っかかっていた。先頭の2頭(15番スギブルボンと6番テイエムジャンボ)のペースでついて行ければよかったのだが、3番手の(13番ロイスアンドロイス)がちょっと遅かったので、スローペースになった。あんなに掛かったのは初めてだった」ともっている[80]

レース後の大久保正陽調教師は「運転手だってプロだろう。武豊ならあんなふうに掛かっただろうか」と憤怒しており[81]、このレースかぎりで南井克巳を降させた。

『名列伝ナリタブライアン(光栄)』の17ページ黒田助という署名があり、49ページの文章の書き手であることを示している。その49ページには「サラブレッドは頭が良い。ナリタブライアンは前走の阪神大賞典を憶えていて、マヤノトップガンが見えた間に闘志に火が付いてしまい、『あいつが行くのならも行く』とばかりにマヤノトップガンに勝負を挑んでしまったのではないか」という内容の文章を記している。前走の阪神大賞典における素晴らしいマッチレースが、皮にも一種の反動副作用となり、天皇賞(春)における引っかかりを生んでしまったという見解である。


「この後、ブライアン7月7日阪神2200mで行われる宝塚記念に向かう」ともが思っていた中、発表された次走は、なんとこの年に中2000mの中距離GⅡから中1200mのスプリントGⅠに変更されたばかりの高松宮杯(現・高松宮記念)だった。

過去天皇賞タケシバオー1969年スプリンターズステークス勝利した例があったものの、距離体系の確立された現代競馬において中長距離トップクラスがスプリントGⅠに向かうのは異例中の異例で、ファンや専門から抗議が上がるほどだった。

そして、5月19日中京競馬場レースが行われた。入場者は7万4201[82]1974年ハイセイコー高松宮杯に来たときの6万8469人更新した。

上に武豊を迎えたナリタブライアンは、勝ったフラワーパークから0.8差、4身3/4離された4着に終わった。フラワーパークの走破タイムは1分74であり、日本レコードサクラバクシンオーの1分71だった時代なので、なかなかのハイレベル決着だった。前走が3200mで、1200mを走るのが2年8ヶぶり、そんなが“本職”の一流短距離たちに混じって4着になったので、「高いを生かして善戦をした」と言ってもいいのだが・・・

引退と急逝

レース後の6月14日ブライアンは坂路で時計を出し、順調に調整が進んでいるようだった。しかし6月18日になってナリタブライアンは右前脚の屈健炎を発症した。医師の診断は「症状は重くも軽くもない普通の症状。似たようなケースで復帰した例はいくらでもあるので、再起が理とはいえない」というものだった[83]

6月28日函館競馬場へ移動して滞在を始め、引き運動温泉治療とレーザー治療を繰り返すようになった。1ヶ月経つと患部の腫れはみるみる引いていき、医師にも「腫れが引いた。歩様も心配ない」と診断された[84]8月27日牧場新冠支場へ移動してさらに休養が続き、足の状態もさらに良化していた。

大久保正陽調教師は現役続行させる気が強かったようで、10月7日には牧場一郎に「ナリタブライアンを最高に強い状態に戻してみせる。その自信もある」といっていたほどだったが、種牡馬入りを望む人々の説得を受けたようであった。10月10日大久保調教師が現役引退を発表したが、「もちろん、今でもナリタブライアンをまだ走らせたいと思っています」という言葉が大久保調教師の口から出ていた[85]

大久保正陽調教師の心を動かしたのは、1995年6月4日宝塚記念におけるライスシャワー事故だった。あのレースは自厩舎所属のナリタタイシンが出走していたので現地ですべてを観戦していた。ライスシャワーのことが頭をよぎるうちに、テンポイントが故障した1978年1月22日日経新春杯思い出した。このレースも自厩舎所属のエリモジョージが出走していたので現地ですべてを観戦していた。悪いことばかり頭に浮かぶようになり、ついに引退を決断したという[86]

11月9日京都競馬場引退式を行い、11月16日東京競馬場引退式を行った。東西2ヶ所で引退式を行ったのはシンザンスーパークリークオグリキャップに続く史上4頭のことだった[87]

当時の内種牡馬では史上最高額となる20億7千万円(3,450万円×60シンジケートが組まれ、牧場系列のCBスタッドで種牡馬となり、1997年に81頭、1998年106頭の繁殖と交配した。

1997年3月5日にはJRA顕彰馬に選出された。

しかし、1998年6月17日になってナリタブライアンはいきなり疝痛を発症した。新冠町のCBスタッドから1時間ほど離れた三石畜診療センターに搬送されたブライアンは腸閉塞と診断され、3時間にわたる開手術を受けた。ブライアンは快方に向かい、1週間後にCBスタッドに戻ったが、9月26日午後5時頃に再び疝痛の症状を見せた。前足で地面を掻き込む動作を見せたかと思うと、横になって自分のを覗き込んでいた。スタッフたちが即座に三石畜診療センターブライアンを運び込み、9月27日午前11時過ぎに開手術を受けさせたら破裂を発症していることが発覚した。破裂には手当ての術がなく、安楽死の措置がとられた。享年僅か8歳(現表記で7歳)のすぎる死だった[88]

ナリタブライアンの急逝が伝えられると、全ファンから毎日のように電話がかかってきた。CBスタッド場長の佐々木功は、一人一人の電話に対応したという[89]

10月2日にはCBスタッドで追悼式が行われ、日本中から集まった約500人のファンが別れを惜しんだ[90]

逝ので産駒は2世代しか残されておらず、重賞を勝ったはいない。GⅠでの最高戦績もダイクラフラッグ皐月賞4着だということもあって、2021年4月現在コントレイルの産駒の種牡馬入りが未定であることを除けば後継種牡馬を残せなかった一の三冠馬となっている。

5歳までの後続にを踏ませないぶっちぎり勝利劇と、負傷した後の精を欠く走りのコントラストが鮮やかな生だった。

大川次郎は後にナリタブライアンを評して「精サラブレッド」と言った[91]。「ぶっちぎれ、ナリタブライアン」とパドックの横断幕に掲げられた彼の快な走りを支えた、その健気なの安らかならんことを祈る。

走法・馬体・性格

スタートが抜群に上手く、競走に対する集中の高さを感じさせるだった。「行かせようと思えば、たとえマイル戦でもハナにいける」と南井克巳が言ったことがあるほどスタートダッシュが速く[92]、どのレースでも難なく先行できた。

騎手とぴったり折り合う賢さがあった。騎手示通りに群の中に入ってペースを落ち着かせることができ、また勝負所の3~4コーナーでは騎手めに応じてグングン加速できた。

コーナリングが上手で、なおかつ直線はヨレずにっ直ぐ走り[93]、先頭に立ってもソラを使わず[94]、懸命に加速していた。

競走馬本質的に群れを作りたがる傾向がある[95]。このため、直線の大外で1頭だけの状態になったら内にササって内を走っているに接近するが多いし、直線で1頭だけ抜け出して他のが見えなくなったら他のを探すようになってソラを使うも多い[96]。しかしナリタブライアンは、ダービーで大外に持ち出しても内にササらず、ただ1頭だけになってもソラを使わず、ゴールまで集中を発揮して脚を伸ばすところがあり、良い意味でらしからぬところを感じさせた。

走行フォームは首を一杯使って重心を下げる美しいもので、チーターピューマのようであった。

の走りは格や筋肉のつき方という構造的な特性から決まるので、首が低い走りなら絶対によいというわけではなく、首の高い走りの方が好ましいもいるのであるが[97]、「首が低い走りだと人のには美しく見える」というのは一般的な傾向である。

体重は448kg~486kgの範囲で変動していて470kg台ベスト体重といった観があり、均的な格だった。ちなみに同世代のライバルヒシアマゾン464kg~500kgの範囲で変動していて480kg台ベスト体重であり、こっちの方が少しデカい。

ナリタブライアンの装蹄を担当したのはキャリア40年のベテラン装蹄師である山口勝之だった。人間は利き足によって右足と左足のサイズが違っている。それと同じように右手前で走る左手前で走るがいて、それに応じてそれぞれの足で蹄の形やサイズが違うのが多い。しかし、3歳ごろのブライアンの蹄は4つともまったく同じ形とサイズだった。3歳の後、4つの蹄の形は変化していったが、4つの蹄サイズアンバランスにならずに同じ状態を維持していた[98]

ナリタブライアンは他のよりも蹄(ひづめ)がやや幅広で、が降って悪になると滑りやすいという欠点があるものの、着実に蹴り出すパワーを地面に伝えるという長所があった[99]

心拍数が少なく、強い心臓を持つだった。均的な4歳の心拍数は1分あたり35~40回だったが、ナリタブライアンは1分あたり30回だった[100]

南井克巳が「ブライアンは追い切りに後にすぐ息が入る(呼吸が静に戻る)」と言っていて、心肺機が高いことを感じさせる[101]

非常に賢いでなおかつ集中があり、持ち乗り調教助手の村田雄が「ブライアンは賢くて、競馬場では、駄な動きは一切しない」とっている[102]

パドックの時は割と落ち着いていて、岡部幸雄騎手に「あのは気持ちをガッと表に出すタイプじゃないから、傍(はた)からみてもわからない部分が多いんだよね。シラッとして、何となく走って、それでいて凄い結果を出す」と評価されていた[103]

1995年ジャパンカップで観客の大歓に迎えられても、慣れているのか動じないところがあり、落ち着き払っていて、初めて乗った武豊を感心させた[104]

厩舎にいるときのブライアンはやんちゃで、落ち着きなく辺りを見回してはカプカプと担当助手に噛みついていて、情表現をして甘えていた。それなのに競馬場に入ると一変し、威風堂々として落ち着き払い、周囲を圧倒していた[105]

ブライアンが厩舎にいるとき、不用意にブライアンの前に行くとブライアンが噛んでくる。しかし競馬に行くと素直で賢いになる」と南井克巳っている[106]

ブライアンは厩舎ではいつもやや奮気味であり、しかもレースが近づくとそのことを察知してさらに奮して蹴るわ噛むわで危なっかしくなるだった。その一方で股関節炎や屈腱炎の治療のために牧場新冠支場にいるときは「レースが近くない」と察知しているらしく、非常におとなしかった。牧場を訪れてブライアンの様子を見た大久保調教師も「牧場にいれば、こんなにおだやかで、やさしいをしてるんだなあ」としみじみっていたという[107]。厩舎にいてレースが近くなったときはしくてキッツいをしていた、ということだろう。

岡部幸雄は、1994年にナリタブライアンが札幌競馬場に滞在していたときにナリタブライアンを間近で観察していた。そのときの感想として「遊びに来ていてレースがないことを分かっていたようで、ナリタブライアンはちょっとダラけていたところを見せていた。頭が良いのようで、どこが仕事で、どこが手を抜いて良いところか、非常によく分かっているようだ」とっている[108]

ブライアン1997年からCBスタッドで種牡馬としての活動を始めた。CBスタッドの場長である佐々木功が「種牡馬としてもいいだったよ。なにせ頭がいい。こちらから教える事がほとんどかった。しかも一度教えたことはちゃんと理解しているし。頭がよすぎて、こちらが下手な事を考えていると近づけない怖さが、ブライアンにはあったな」と回想している。種付けも上手で、まったく駄なことをせず、仕事が終わったらさっと帰るスマートさも持ち合わせており、佐々木功にとってはもの凄く楽なだったという[109]

騎手からの評判

武豊は、ナリタブライアンが1994年5月29日ダービーを勝った直後に「ナリタブライアンと半ビワハヤヒデはどちらが強いか」と問われ、「現時点でもナリタブライアンの方が強い。あのの強さはケタ違い」と答えている。同年6月12日宝塚記念ビワハヤヒデが5身差の圧勝をした後も「ブライアンだったら、もっと凄い勝ち方をしていたはず」と答えている[110]

岡部幸雄は、「3歳のローテーションは三冠をとるのローテーションではない。あのローテーションをやってこれてしまったというのは、化け物である」「3歳であれだけ使って、4歳の先からもあれだけのローテーションを組んだのだから、普通なら倒れてしまう。うまくいっても皐月賞までで、ダービーでは負けるか、何かしているはずである。それを乗り切っているのだから相当な体と精があったのだろう」とっている[111]

南井克巳は、ナリタブライアンがまだ負けている1993年のときから、岡部幸雄に「いやァこれいいんですよォ、速いとこ行くと、グーッと沈むんですよ」とナリタブライアンのことを自慢していたという[112]。 

ローテーションへの批判論と擁護論

ナリタブライアンをるときに必ず摘されるのが、「大久保正陽調教師理なローテンションを組んだのではないか」というものである[113]

3歳(現在の2歳)で7戦を消化するのはレースを使いすぎているように見えた。股関節炎からの復帰レースでいきなり天皇賞(秋)を走らせたのも「調教代わりにレースを使っている」と批判された。

負傷の原因とも噂されたレースキャリアと、状態が戻っていないのを承知で負傷後も走りを続けさせたことから、「管理する人のエゴの罪」が問われたでもある。もっとも、その精悍な体に宿っていた精は、すでに見てきたようにとても繊細なものであり、それを「戦える」に仕上げた厩舎の功績は当然讃えられなければならない。

といったふうに、厳しい批判が書かれることがある。

しかし、後述するように、ナリタブライアンを初めとするロベルト系競走馬は、レースを使いまくる厩舎に入ると成績が伸びるという傾向が見られるのも事実である[114]。「ロベルト系叩き良化レースを使うごとに良くなる」という格言もある。そういう格言を知ったあとだと、大久保正陽調教師の判断を簡単に批判できなくなると言える。

高松宮杯出走への批判論と擁護論

3200m天皇賞(春)を走ったばかりのナリタブライアンを1200m高松宮杯に出走させるという大久保正陽調教師の判断に対して、しい批判を行った者が多く存在した。そのうちの一人が競馬予想大川次郎である[115]

それに対して、「長距離レースを得意とする競走馬を短距離レースに出走させてに活を入れるというのは、競走馬の調整方法の1つである」という擁護論が存在する。

オーストラリア競馬では、1200mのGⅠレースに出走したが、その3日後に3200mのGⅠレースに出走することがある[116]競馬予想田端到は、オーストラリア調教師に対して「なぜ2000以上の大レースの前に短距離レースを使うのか」と尋ねたら「それがいちばんいいステップなんだ」と返答されたという[117]

オーストラリア競馬では、まず休養明けで1200mや1400mの短距離戦を走り、徐々に距離を延長してステップレースを走り、3200mの大レースであるメルボルンカップ優勝する例がいくつも見られる[118]

香港インディジェナスというがいる。1999年3月1000mレースを使ったあと、2週間後の香港ゴールドカップ香港のGⅠ)という2000mレース優勝している。1999年11月6日1000mレースを使ったあと、3週間後にジャパンカップ日本のGⅠ)という2400mレーススペシャルウィークに次ぐ2位に入っている。

大久保正陽調教師はナリタブライアンの高松宮杯出走から2年後に同じようなことをしている。ナリタルパーク[119]2600m条件戦に出走させたあと、なんと1200m条件戦に出走させた。そのあと2000ローズSGⅡ)を走らせて5着になり、2000秋華賞(GⅠ)を走らせてファレノプシスに次ぐ2着に食い込ませている。

また、大久保正陽調教師はナリタブライアンの高松宮杯出走から3~5年ほど前に、3200m天皇賞(春)で3着になったメジロパーマー1200mや1400mレースに使うことも行っている。1991年鈴鹿S、1992年コーラルS、1993年スワンSである。

さらにいうと大久保正陽調教師は、エリモジョージ1976年4月3200m天皇賞(春)に出走させて勝たせた後、7月札幌距離ステークス(札幌ダート1200m)に出走させている。

忙しい短距離レースを走らせて競走馬に刺を与える「ショック療法」は、オーストラリア香港競馬界や日本競馬界の一部においてごく普通に行われているのであり、そんなに異様なことではない。

大久保正陽調教師はナリタブライアンのことを振り返り、「結局な、自分で走るのを加減している、というところがあったわけだろ。長いところを走ればそれだけ負担もたくさんかかる、ということだ。だったら、短いところを使ってみたらいいんじゃないか、と考えたわけ」「まあ、私は珍プレー(の調教師)だからな(笑)」とっている[120]

血統表

*ブライアンズタイム
1985 黒鹿毛
Roberto
1969 鹿毛
Hail to Reason Turn-to
Nothirdchance
Bramalea Nashua
Rarelea
Kelley's Day
1977 鹿毛
Graustark Ribot
Flower Bowl
Golden Trail Hasty Road
Sunny Vale
*パシフカス
1981 鹿毛
FNo.13-a
Northern Dancer
1961 鹿毛
Nearctic Nearco
Lady Angela
Natalma Native Dancer
Almahmoud
Pacific Princess
1973 鹿毛
Damascus Sword Dancer
Kerala
Fiji Acropolis
Rififi

5代目まで生じたクロスなし、アウトブリード

*のついたは「外国生まれ外調教で繁殖用に日本に輸入された」という意味である。

は*ブライアンズタイムアメリカ合衆国で競走生活を送って、1989年牧場一郎に購入された。大舞台に強いと言われるRibotの血が入っており、そこに一郎は期待したという[121]1990年から日本種牡馬になり、ナリタブライアンを作るため*パシフカスと交配したのが1990年5月19日である[122]1994年クラシック世代が第一世代で、この世代にはナリタブライアンの他にチョウカイキャロルというGⅠがいる。

*ブライアンズタイム産駒を含むRoberto系の競走馬は、「レース調教代わりに使う」「できるだけレースを走らせる」というスパルタタイプの厩舎に入ると才が開すると言われることが多い。3歳(現在の2歳)で7戦を消化したナリタブライアンはRoberto系の競走馬の典例とされる。

は*パシフカス[123]イギリスで競走生活をして11戦2勝し、イギリスで繁殖入りして3頭のを産んだが、この3頭はいずれも活躍していない。1989年に*シャルードというイギリス種牡馬と交配し、1989年12月一郎によって3万1千ギニーの安値で購入され、日本に輸入された[124]。このとき他の日本の生産者もセリに参加していたが、も*パシフカスに食を動かさなかった[125]。また、この日のセリで一番高い値が付いた繁殖は27万ギニーで、*パシフカスの9倍の値段だった[126]。その*シャルードの子としてナリタブライアンの1年前に産まれたのがビワハヤヒデである。また*パシフカスは、ナリタブライアンの4年後にビワタケヒデを産んでいる。ビワタケヒデはナリタブライアンの全で、1998年クラシック世代の一員であり、ラジオたんぱ賞GⅢ)を優勝した。

は20世紀の競馬界に革命をもたらしたNorthern Dancerノーザンダンサー)である。

Pacific Princessは*キャットイルというを産んだが、その*キャットイル1998年桜花賞などGⅠ4勝したファレノプシス2013年ダービーキズナである。つまり、ファレノプシスキズナはナリタブライアンとが共通している。

Damascusで、アメリカの二冠であり、クラシックホースを輩出できなかったがGⅠ勝ちを次々と送り出す名種牡馬だった。

Fijiフィジー)で太平洋に浮かぶPacific Princessで「大平洋の」。2代続いて大平洋関連の名である。

種牡馬として

ナリタブライアンは1997年に81頭、1998年106頭の繁殖と交配した。しかし産駒たちは準オープンが最高の成績だった。代表産駒は皐月賞4着のダイタクフラッグフラワーカップGⅢ)2着のマイネヴィータである。

ナリタブライアンのNorthern Dancerノーザンダンサー)であり、ナリタブライアンはNorthern Dancerの血が濃い。1990年代は「日本にはNorthern Dancerの血を持つ繁殖が多い。○×という種牡馬Northern Dancerの血を持っていないので、Northern Dancerの血を持っている繁殖にいくらでも種付けすることができ、有利である」と言われることが多かった。実際に、この当時大活躍した種牡馬御三家の*サンデーサイレンスと*ブライアンズタイムと*トニービンNorthern Dancerの血を持っていない。

ナリタブライアンはNorthern Dancerの血が濃いので、繁殖選択肢の幅が狭くて苦しい立場だった。たとえば、この当時の日本には*ノーザンテーストに持つ優秀な繁殖が多かったのだが、そういう繁殖にナリタブライアンを付けると、Northern Dancerの3×3のクロスになり、かなりのインブリード(近交配)になり、体質の弱いが生まれる可性が強まってしまう。スカーレットブーケという*ノーザンテースト産駒のと交配してソフィーズローズexitというを作ったが[127]、やっぱりNorthern Dancerの3×3クロスであり、3戦未勝利に終わった。

世界的に見ても、Northern Dancer種牡馬で活躍したのは*サザンヘイローぐらいである」とよく言われる。

ナリタブライアンが急逝した後、次第に日本の生産界で「*サンデーサイレンス産駒の繁殖にぴったりの種牡馬を探せ」という気運が盛り上がることになった。エルコンドルパサークロフネジャングルポケット、*エンドスウィープ、*ウォーエンブレムキングカメハメハといったあたりが有補とされていた。もうすこし長生きすればナリタブライアンもこの中に入ったかもしれない。しかし、ナリタブライアンが*サンデーサイレンス産駒の繁殖と交配すると、今度はHail to Reasonヘイルトゥリーズン)の4×4のクロスになる。4×4のクロスならそこまで濃いインブリードではないが、やはり気になるところである。

余談

ナリタブライアンは先述の通り周囲の変化に気を使いすぎてしまうところがある。しかし三冠街道をひた走るうちにマスコミの取材熱が過熱し、カメラマンが殺到するようになった。このため大久保正陽調教師は、皐月賞菊花賞1994年有馬記念の前に、自らの名でJRAを通じてマスコミに対して書面で「厩舎内での取材を控えていただきたい」と通達を出した。調教師JRAを通じて書面で取材拒否をするというのは前代未聞のことであった。大久保調教師によると、厩舎内に勝手にび込んでナリタブライアンの房に入ったりブライアン写真を撮るものもいたらしい[128]

ナリタブライアンはスターホースなので、房への侵入者が後を絶たなかった。このため大久保調教師は2台のモニターを厩舎内に設置し、侵入者を監視することにした。それに対し厩務員の労働組合から「厩務員の仕事ぶりを監視するためだ。厩務員に対して行き過ぎた圧を掛けることにつながり望ましくない」と追求されたが、頑として外さなかった[129]

調教師というと「ラッパを吹く調教師(ウチのが勝つ、とベラベラ喋る)」と「寡黙な調教師」の2種類がある。前者の典例はサクラローレルなどを管理した太郎調教師である。大久保正陽調教師後者で、レースを勝っても淡々とするタイプであった[130]

この当時の競馬界は「現役の競走馬からタテガミをとるのはゲンが悪い」として忌避する傾向にあったのだが、その言い伝えに反してナリタブライアンは1995年2月になってテレビオークション番組へタテガミを提供してしまった。フジテレビ系の「とんねるずハンマーライス」という番組で、杉本清が出演していた番組である[131]。44万円で落札されて、番組が得た収益は全額阪神・淡路大震災の震災復支援として日本赤十字社に寄付された。しかしこの2ヶ後にナリタブライアンの右股関節炎が発生した。大久保正陽調教師は「こんなこと今更いっても仕方がないが、ナリタブライアンが走らんようになったのは、タテガミを取られてからなんや・・・・・・」と寂しそうに漏らしていたという[132]

ナリタブライアンが快勝したGⅠというと朝日杯3歳ステークス皐月賞ダービー菊花賞有馬記念の5つであるが、皐月賞以外の4つは曇り雨空日光が降り注がず、芝にも映らないような状況だったので、ナリタブライアンの黒鹿毛体がよりに見えた。一方で、柔らかな日光に照らされた皐月賞では日光を受けて体がっており、体がやや控えめな黒色に見えていた。

ナリタブライアンが好調だった1993年平成5年)や1994年平成6年)は較的に世相が明るい時代だった。1989年12月に最高値を付けた日経平均株価1990年1月から暴落して(記事exit)、そのついでに1991年から地価が暴落してバブル経済が崩壊し、それによって各企業の業績も悪化して、1993年から就職難が始まった(記事exit)。とはいえ、まだ世相自体は明るいところが多かったのである。時事通信のまとめ記事を見ても深刻なニュースが少ない(1993年記事exit1994年記事exit)。1994年は794年から1200年で遷都1200年に当たり、京都で様々な催しが行われていた。そんな時に関西所属のナリタブライアンが京都競馬場三冠を達成したので祝賀ムードにを添えた。

ナリタブライアンが調子を崩した1995年平成7年)は非常に世相が暗い年だった。1月17日阪神淡路大震災が発生して高速道路がポッキリ折れて安全神話が崩壊し(画像exit)、3月20日地下鉄サリン事件が発生して治安神話が崩壊した。バブル経済崩壊の余波による不気と就職難が続くだけならまだマシだが、1995年になると機関の破綻が続き、日本経済がにっちもさっちもいかない状況になっていることがあらわになった。コスモ信用組合と木信用組合7月8月に経営破綻し、兵庫銀行8月銀行として戦後初めての経営破綻をし、さらに住専問題までが発生して、住専という住宅専門の貸業者の8社中7社が経営に行き詰まった。1970年代1980年代という昭和時代を生きてきた人たちが「私たちの時代も不気があったが、銀行が倒れるほどの不気なんて起こらなかった」というほどで、「政治経済も何もかもダメ」という雰囲気が広がっていた。時事通信のまとめ記事を見ても暗くて深刻な記事が多い(1995年記事exit)。そんな中で、スーパーホースのはずのナリタブライアンも不調に陥っていて、まさに世相を反映していた。

ナリタタイシンとナリタブライアンは、前者が1993年クラシック世代後者1994年クラシック世代であるが、多くの共通点を持っている。一郎が海外から輸入した種牡馬に持つ、牧場系列のCBスタッドに所属している、ナリタの冠名で山路秀則オーナーの所有馬大久保正陽厩舎所属、武豊上にしたことがある、レースレコード更新した皐月賞、3歳時は福島に遠征するという異例の行動をとった、などが共通している。しかし血統の面においてはRibotGraustarkの血が入っているところが共通点になっているぐらいで、あまり似ていない。

1994年菊花賞において稍重の馬場で3分57というタイムで走ってナリタブライアンに次ぐ2着に入り、なかなかのを示したヤシマソブリンだが、それ以降の競走はオープンを2勝するのみにとどまり、重賞は最高でも2着で、パッとしなかった。ナリタブライアンの走りに精を打ち砕かれたのかもしれない。というのも、必死に走ったのにぶっちぎられるレースを経験してしまうとが闘争心を失ってしまうことがあるからである[133]

ナリタブライアンは調教メンコ[134]を付けることがあった。色は黄色この動画exit_nicovideoの3分25あたり)、紫色この動画exit_nicovideoの31分10あたり)、黒色この動画exit_nicovideoの24分00あたり)といったところだった。

この当時は調教レースの両方を「兼用」という蹄ていてつ にとっての靴)で走ることが一般的だった。しかしブライアンは万全の上にも万全を期すため、調教の時は「」を履き、レースになると「勝負」と呼ばれるレース専用の蹄を履いていた[135]

パドックでは村田雄と大久保念という2人の持ち乗り調教助手が2人引き[136]をすることが恒例だった(この動画exit_nicovideoの1分53あたり、3分56あたり、8分05あたり)。

1993年5月以前の南井克巳大久保正陽厩舎に滅多に行かない騎手の1人だった。大久保調教師南井克巳に「ブライアンに乗らないか」とを掛けてから、やっと縁が始まった[137]

ビッグレッドファーム代表でマイネ軍団総帥の岡田繁幸は函館3歳ステークスでナリタブライアンを初めて見たが、一見ただけで「このは違う。3歳でここまで完成されたはめったにおにかかれない。一郎さんは凄いを出してきた」と思い、息子に「来年のダービーは決まった」とりかけたという[138]

ナリタブライアンのブライアンズタイムシフカスを輸入してナリタブライアンを生産した牧場は、ナリタブライアンの活躍のころに絶頂期を迎え、社台グループに次ぐ大規模牧場として名を馳せた。しかし、種牡馬や繁殖や不動産の購入などで負債が膨らみ、それに加えて社台グループが購入したサンデーサイレンス種牡馬として大当たりしたことで牧場の生産場の売れ行きも伸び悩み、経営が圧迫されることになった。2002年11月25日になって、約58億円負債を抱えた牧場札幌地方裁判所から破産宣告を受けて倒産した。

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関連項目

脚注

  1. *『ナリタブライアン 最強王の軌跡(双葉社)』 56ページ
  2. *ナリタの冠名は、山路オーナー大阪の自宅近くにある成田大阪別院明王院からとられている。成田大阪別院明王院には注連縄(しめなわ)があり、真言宗で、ご本尊は不動明王というインド神様である。オースミの冠名は、山路オーナー鹿児島県大隅半島生まれであることにちなんでいる。ちなみに山路秀則はこの記事exit写真のいちばん右の人で、建設業が本業であり、大阪府大阪市枚方市(株)ヤマジexitを経営していた。1984年頃、ロータリークラブという社会奉仕団体で、ムッシュシェクルの所有者として知られる医師藤立啓一exitに誘われて、それまで競馬興味を持っていなかったが競馬興味を持つようになった。馬主になったのが1986年のことだが、そのとき大久保正陽調教師の世話になった。『ナリタブライアンを忘れない(KKベストセラーズ橋本』 30ページ、『優駿1994年10月号(日本中央競馬会)』 45ページ
  3. *持ち乗り調教助手は、2頭のに対する厩務作業を担当しつつ、厩舎の多くの調教をする人のことである。よく似た存在として調教厩務員というものがあり、2頭のに対する厩務作業と調教を担当するが、自分の担当以外の調教をしない(記事exit)。ちなみに大久保正陽厩舎は20ヶ所の房を割り当てられていて約20頭の競走馬を管理しており、専業の厩務員が5人で持ち乗り調教助手が5人であり、彼ら10人が1人あたり2頭を管理していた。「厩務員1人、または持ち乗り調教助手1人、もしくは調教厩務員1人が、2頭を管理する」というのは中央競馬の各厩舎に共通する体制である。その他の大久保厩舎の構成員は専業の調教助手1人と所属騎手2人だった。『ナリタブライアンを忘れない(KKベストセラーズ橋本』 38ページ
  4. *村田雄は1969年生まれで、ナリタブライアンが入厩した1993年のときは大久保厩舎にやってきてからまだ3年であり、24歳の若手だった。口取り式の写真にも頻繁に登場する(記事exit)。北海道牧場生まれで、シンボリ牧場に就職したあとにシンボリルドルフシリウスシンボリが大活躍し、その奮にされて競馬を志した。知人の紹介1987年メジロ牧場に就職して3年勤め、そこからJRA競馬学校の厩務員課程に入学して卒業し、メジロ牧場と縁がある大久保正陽厩舎に就職した。メジロ牧場にいたときはメジロマックイーン調教をしたことがある。『ナリタブライアンを忘れない(KKベストセラーズ橋本』 38~39ページ、『さようなら ナリタブライアン全書(産業経済新聞社)』 97ページ
  5. *寺田之は1954年5月4日生まれで、1974年大久保正陽厩舎の所属として騎手デビューし、通算85勝を挙げ、1988年から同厩舎の調教助手になった。村田雄とともにナリタブライアンの調教を担当した。
  6. *大久保念は大久保正陽調教師長男で、ナリタブライアンが現役のころに大久保正陽厩舎で持ち乗り調教助手を務めていた。1996年4月15日に「ブライアン天皇賞(春)優勝の前祝い」といった雰囲気で結婚式を挙げている。2013年の時点では北出成人厩舎の調教助手を務めている(記事exit)。『ナリタブライアンを忘れない(KKベストセラーズ橋本』 258ページ
  7. *大久保志は大久保正陽調教師の次男でナリタブライアンが現役のころに大久保正陽厩舎で持ち乗り調教助手を務めていた。1966年1月6日生まれで2001年調教師免許を取得し2002年12月に厩舎を開業している。ブライアン三冠を達成した翌日の1994年11月7日結婚式を挙げていて、三冠祝いを兼ねた盛大な式だったという。『ナリタブライアンを忘れない(KKベストセラーズ橋本156ページ
  8. *『ナリタブライアンを忘れない(KKベストセラーズ橋本』 13ページ
  9. *牧場一郎社長から「2,400万円~2,500万円」と言われたのに対し、山路秀則が「高い、まけてください」といって100万円ほど値引きしてもらって、それで山路秀則が購入を決めたという。『優駿1994年10月号(日本中央競馬会)』 44ページ』、『ナリタブライアンを忘れない(KKベストセラーズ橋本』 27~31ページ、『名列伝ナリタブライアン(光栄)』 117ページ
  10. *庭先取引とは、競走馬の売買に際し、セリなどを介さずに、生産者と馬主の間で行われる直接取引のことをいう。『優駿1995年1月号(日本中央競馬会)』 101ページでは「日本競走馬取引のなかでは、庭先取引の割合が6割とみて間違いない」と記されている。
  11. *優駿1994年10月号(日本中央競馬会)』 44ページ、47ページ
  12. *『ナリタブライアンを忘れない(KKベストセラーズ橋本』 14ページ
  13. *離れはと子を引き離すこと。子は悲しみのあまり泣き叫ぶ。ナリタブライアンも2~3日泣き続けた。『ナリタブライアンを忘れない(KKベストセラーズ橋本』 25ページ
  14. *Gallop臨時増刊 週刊100 Vol.47 ナリタブライアン(産業経済新聞社)』 11ページ
  15. *『ナリタブライアンを忘れない(KKベストセラーズ橋本』 33ページ
  16. *『名列伝ナリタブライアン(光栄)』 117ページ
  17. *致(じゅんち)とは、人や具などにを慣れさせること。は臆病な動物なので、致は慎重かつ根気よく行われる(記事exit)。
  18. *牧場一郎社長は、福島県伊達に居を構えるの出身である。江戸時代において金山の管轄を任されていたという。明治時代になっても福島県の大地で、大規模な農場を持っていた。産を始めたのが大正6年(1917年)のことであり、このため福島県牧場の「本場」であり続けた。昭和53年1978年)になって北海道の新冠に「支場」を開設した。ちなみに、1975年1977年において、一郎が所有するモミジⅡexitというカナダ競馬で4歳チャンピオン5歳チャンピオン・6歳チャンピオンなるほど活躍しており、邦貨換算で1億円ほどの賞を稼ぎ出しており、この賞で新冠支場を建設した。ついでにいうと、モミジマーベラスサンデー祖母である。『ナリタブライアンを忘れない(KKベストセラーズ橋本』 14~16ページ
  19. *『ナリタブライアンを忘れない(KKベストセラーズ橋本』 33~34ページ
  20. *『名物語―The best selection(エンターブレイン)』 62ページ
  21. *『名列伝ナリタブライアン(光栄)』 116ページ
  22. *『ナリタブライアンを忘れない(KKベストセラーズ橋本』 34ページ
  23. *優駿1995年1月号(日本中央競馬会)』 135ページ、『さようなら ナリタブライアン全書(産業経済新聞社)』 89ページ
  24. *『ナリタブライアンを忘れない(KKベストセラーズ橋本』 38ページ
  25. *『ナリタブライアンを忘れない(KKベストセラーズ橋本』 32ページ
  26. *『ナリタブライアンを忘れない(KKベストセラーズ橋本』 41ページ、『さようなら ナリタブライアン全書(産業経済新聞社)』 39ページ、『優駿1994年6月号(日本中央競馬会)』 24ページ
  27. *『ナリタブライアンを忘れない(KKベストセラーズ橋本』 41ページ。「大久保正陽調教師が実際に『君はダービーを勝ったことがあるか』の発言をしたが、『ちょっと言い過ぎた』と思って『そんなこと言ってません』と言いった」というのが相であろうか。
  28. *『ナリタブライアンを忘れない(KKベストセラーズ橋本』 43ページ、『さようなら ナリタブライアン全書(産業経済新聞社)』 39ページ・97ページ
  29. *『ナリタブライアンを忘れない(KKベストセラーズ橋本』 35ページ
  30. *『ナリタブライアンを忘れない(KKベストセラーズ橋本』 46ページ、59ページ、91ページ。『優駿1995年1月号(日本中央競馬会)』 35ページ。『名列伝ナリタブライアン(光栄)』 104ページ、『さようなら ナリタブライアン全書(産業経済新聞社)』 89ページ
  31. *『名物語―The best selection(エンターブレイン)』 61ページ
  32. *『ナリタブライアンを忘れない(KKベストセラーズ橋本』 45ページ
  33. *『名列伝ナリタブライアン(光栄)』 118ページ
  34. *『さようなら ナリタブライアン全書(産業経済新聞社)』 12ページ
  35. *『ナリタブライアンを忘れない(KKベストセラーズ橋本』 54ページ、『名列伝ナリタブライアン(光栄)』 21ページ
  36. *『ナリタブライアンを忘れない(KKベストセラーズ橋本』 58ページ、『名列伝ナリタブライアン(光栄)』 22ページ
  37. *『名物語―The best selection(エンターブレイン)』 61ページ
  38. *優駿1994年2月号(日本中央競馬会)』 36ページ144ページ
  39. *『ナリタブライアンを忘れない(KKベストセラーズ橋本』69ページ
  40. *『ナリタブライアンを忘れない(KKベストセラーズ橋本』73ページ
  41. *「短い距離や、そのに合わない距離を走らせると、がおかしくなる」と調教師もいるが(『ピンポイント調教師辞典(白夜書房田端到・敬正』167ページ)、大久保正陽調教師はそういう考えを持たない人である。大久保正陽調教師は3歳1000m~1200mの短距離レースを走らせてを鍛え、4歳1月あたりから2000mあたりのレースを使い始め、4歳5月の2400mの日本ダービーに出走させる、という調整をする傾向が見られる。
  42. *『名列伝ナリタブライアン(光栄)』 27ページ
  43. *『ナリタブライアンを忘れない(KKベストセラーズ橋本』 236ページ
  44. *『ナリタブライアンを忘れない(KKベストセラーズ橋本』 76ページ
  45. *『名列伝ナリタブライアン(光栄)』 26ページ
  46. *『名列伝ナリタブライアン(光栄)』 119ページ
  47. *『ナリタブライアンを忘れない(KKベストセラーズ橋本』 85ページ
  48. *アイネスフウジン中野栄治騎手が勝ってナカノコールが発生した1990年ダービーでは19万6517人の観客を集めている。しかし、このときの入場券は前売り制になっておらず、入場制限がかかっていない。『優駿1994年7月号(日本中央競馬会)』 130ページ
  49. *三冠馬ナリタブライアン 勝負を決めた第3コーナーNHKソフトウェア)』
  50. *優駿1994年7月号(日本中央競馬会)』 130ページ 蔵内哲爾の文章
  51. *『ナリタブライアン 最強王の軌跡(双葉社)』 73ページ、『名列伝ナリタブライアン(光栄)』 107ページ
  52. *『ナリタブライアンを忘れない(KKベストセラーズ橋本125ページ
  53. *優駿1994年10月号(日本中央競馬会)』 25ページ、『優駿1995年1月号(日本中央競馬会)』 35ページ、『Gallop臨時増刊 週刊100 Vol.47 ナリタブライアン(産業経済新聞社)』 8ページ、『最強ナリタブライアン(ポニーキャニオン)』
  54. *例年なら京都新聞杯京都競馬場で行われるが、このとき京都競馬場修中だったので、阪神競馬場代替開催された。
  55. *Gallop臨時増刊 週刊100 Vol.47 ナリタブライアン(産業経済新聞社)』 8ページ
  56. *三冠馬ナリタブライアン 勝負を決めた第3コーナーNHKソフトウェア)』
  57. *ティルキャストは1980年東京競馬場3200mで開催された天皇賞(秋)で大逃げを打って逃げ切ったプリティキャストの子であり、場内は大きくどよめいた。
  58. *三冠馬ナリタブライアン 勝負を決めた第3コーナーNHKソフトウェア)』
  59. *三冠馬ナリタブライアン 勝負を決めた第3コーナーNHKソフトウェア)』
  60. *ネーハイシーザー1800mの日本レコードを2回更新し、阪神2000コースレコード更新した中距離快速である
  61. *ツインターボペースnetkeiba.comの記事exitから算出すると推定58.7になり、『名列伝ナリタブライアン(光栄)』の36ページでは58.8と報じられている。ツインターボネーハイシーザーの正面スタンド前における差をストップウォッチで計測すると2.3ほどの差だった。
  62. *例年なら阪神大賞典阪神競馬場で行われるが、1月17日阪神淡路大震災阪神競馬場が破損しており、京都競馬場での代替開催となった。
  63. *『ナリタブライアンを忘れない(KKベストセラーズ橋本187188ページ
  64. *『ナリタブライアンを忘れない(KKベストセラーズ橋本189ページ、『優駿1995年5月号(日本中央競馬会)』 64ページ
  65. *優駿1995年8月号(日本中央競馬会)』 36ページ
  66. *駿、走りやまず(祥伝社木村幸治』185ページ。ちなみに9月頃にはツメが元通りの大きさに戻っていたという。
  67. *『ナリタブライアンを忘れない(KKベストセラーズ橋本』 195~199ページ
  68. *『ナリタブライアンを忘れない(KKベストセラーズ橋本』 202ページ
  69. *『ナリタブライアンを忘れない(KKベストセラーズ橋本204207ページ
  70. *『ナリタブライアンを忘れない(KKベストセラーズ橋本』 234ページ、『Number 382号(文藝春秋)』 21ページ片山良三の文章
  71. *1000m通過が62.1なら通常ならスローペースと見てよいが、この日は強が吹き荒れていたので「1000m通過62.1ではあるがにとって厳しい流れだったのだろう」と論考することもできる。向かい風がやってくれば速度が落ちるし、横殴りのに煽られれば姿勢が崩れてに負担が掛かる。1995年有馬記念は、同じ日に行われる900万下条件戦のグッドラックハンデより4.8も速い時計だったので、なかなかのハイレベル決着だったとみても不自然ではない。ヒシアマゾンの記事の1995年有馬記念のあたりにも脚注があるので参照のこと。
  72. *『名列伝ナリタブライアン(光栄)』 44ページ
  73. *Number382号文藝春秋)80ページにおける島田の記事。『ナリタブライアンを忘れない(KKベストセラーズ橋本』 231ページにも酷似した文章がある。
  74. *『名物語―The best selection(エンターブレイン)』 58ページ
  75. *フジテレビスーパー競馬でそうした発言をしていた。
  76. *南井克巳は「ウリャー」とか「オンドリャー」という意味不明の奇を上げながらレース中にを追いまくるという。南井が後方から追い上げてくるとき、その凄まじい気合いを背に受けて身震いしてしまう新人騎手も多かったらしい。デビュー当時の武豊は「あそこまで勝負に本気になれる人を生まれて初めて見たような気がします。うらやましいですよ」と感想を漏らしていた。タマモクロスオグリキャップへのムチの振るい方の凄さもである。『Number340号(文藝春秋)』 44ページ片山良三の文章。
  77. *この意見を言っていたのは大川次郎である。『名列伝ナリタブライアン(光栄)』 88~89ページ
  78. *『ナリタブライアンを忘れない(KKベストセラーズ橋本』 261ページ、『名列伝ナリタブライアン(光栄)』 48ページ・55ページ
  79. *『ナリタブライアンを忘れない(KKベストセラーズ橋本』 262ページ、『名列伝ナリタブライアン(光栄)』 48ページ
  80. *最強ナリタブライアン(ポニーキャニオン)』、この動画exit_nicovideoの47分47あたり
  81. *『ナリタブライアンを忘れない(KKベストセラーズ橋本』 266ページ
  82. *『ナリタブライアンを忘れない(KKベストセラーズ橋本279ページ、『名列伝ナリタブライアン(光栄)』 13ページ・50ページページ
  83. *『ナリタブライアンを忘れない(KKベストセラーズ橋本285ページ
  84. *『ナリタブライアンを忘れない(KKベストセラーズ橋本287ページ
  85. *『ナリタブライアンを忘れない(KKベストセラーズ橋本291ページ、『名列伝ナリタブライアン(光栄)』 123ページ
  86. *『ナリタブライアンを忘れない(KKベストセラーズ橋本294ページ
  87. *『ナリタブライアンを忘れない(KKベストセラーズ橋本297ページ
  88. *サラブレッド99頭の死に方(流星社)』 121ページ、『Gallop臨時増刊 週刊100 Vol.47 ナリタブライアン(産業経済新聞社)』 44ページ、『NumberPlus November2021 名馬堂々。(文藝春秋)』 46ページの江面也の文章(Number456号に掲載された記事の再掲載)
  89. *『NumberPlus November2021 名馬堂々。(文藝春秋)』 46ページの江面也の文章(Number456号に掲載された記事の再掲載)
  90. *サラブレッド99頭の死に方(流星社)』 96ページ、『Gallop臨時増刊 週刊100 Vol.47 ナリタブライアン(産業経済新聞社)』 44ページ
  91. *『名列伝ナリタブライアン(光栄)』 88~89ページ
  92. *Number 363号(文藝春秋)46ページ
  93. *ちなみに半ビワハヤヒデも直線をヨレずにっ直ぐ走るだった
  94. *ソラを使うというのは、走ることに対する集中を失って、走りの速度が落ちること。
  95. *群れを作りたがるという競走馬の性質を活かすため、3頭以上の複数のを群れさせながら同時に調教する集団調教という調教方法がある。アイルランドの中規模から大規模の厩舎では集団調教が基本となっている(競走馬育成協会の資料exit)。名門のエイダンオブライエン厩舎がカラ競馬場にて開で行う集団調教は有名である(記事exit)。
  96. *大外のが内にササっていくことが印的なのは1994年安田記念ノースフライトこの動画exit_nicovideoの5分10あたり)、1995年天皇賞(秋)サクラチトセオーである(この動画exit_nicovideoの7分50あたり)。ソラを使うことで有名なのはマーベラスサンデーであり、同ニコニコ大百科記事でもそのことが記述されている。同騎手だった武豊は、めの抜けだしをしないように注意していたという。
  97. *あの三冠馬が使ったシャドーロールは本当に効果があるのかexit』 元調教師秋山一が教えるレースの裏側 第8回 2013年10月25日 web Sportiva - 集英社
  98. *『さようなら ナリタブライアン全書(産業経済新聞社)』 98ページ。『Number356号(文藝春秋)』 32ページ石田敏徳の文章にも同じような記述がある
  99. *三冠馬ナリタブライアン 勝負を決めた第3コーナーNHKソフトウェア)』『さようなら ナリタブライアン全書(産業経済新聞社)』 97ページ
  100. *三冠馬ナリタブライアン 勝負を決めた第3コーナーNHKソフトウェア)』
  101. *『Number356号(文藝春秋)』 31ページ石田敏徳の文章。
  102. *『ナリタブライアン 最強王の軌跡(双葉社)』 54ページ
  103. *『Number 382号(文藝春秋)』 77ページ島田の文章。『ナリタブライアンを忘れない(KKベストセラーズ橋本』 228ページにも酷似した記述がある
  104. *『Number 382号(文藝春秋)』 77ページ島田の文章。『ナリタブライアンを忘れない(KKベストセラーズ橋本』 228ページにも酷似した記述がある
  105. *『名列伝ナリタブライアン(光栄)』 98ページのほんまゆみの言。
  106. *騎手物語洋泉社木村189ページ
  107. *『名列伝ナリタブライアン(光栄)』 120ページ
  108. *岡部幸雄チャンピオンのステッキ(コミュニケーションハウスケースリー)』 178ページ~179ページ
  109. *サラブレッド99頭の死に方(流星社)』 120ページ
  110. *『Number 382号(文藝春秋)』 76ページ島田の文章
  111. *岡部幸雄チャンピオンのステッキ(コミュニケーションハウスケースリー)』 177ページ
  112. *岡部幸雄チャンピオンのステッキ(コミュニケーションハウスケースリー)』 182ページ
  113. *山路秀則オーナーの口癖は「私はのことは分かりませんから、先生に聞いてください」「のことは先生に任せてありますから・・・」であったという。『ナリタブライアンを忘れない(KKベストセラーズ)』橋本 30ページ290ページ。もちろん、ここの先生大久保正陽調教師のことである。また、山路秀則オーナーは『優駿1994年10月号(日本中央競馬会)』 47ページで「騎手の起用やローテーションについて一切口を出さない。自分の他には色々口を出す馬主もいるらしくて『山路さんはラクだよ』とよく言われる」とっている。また、『Number952号文藝春秋)』の42ページ大久保調教師は「高松宮杯への参戦を調教師の一存で決めた。山路秀則オーナーはそれに対して何も言わなかった」と言し、さらには「私が決めたからには何を言っても仕方ないと思ったんじゃないかな。あの頃はまだ、々(調教師)の方が馬主さんより威っていたからね(笑)」と発言している。これらの文献から、「ナリタブライアンのローテーションを決めたのは大久保調教師である」ということがほぼ確定している。
  114. *ライスシャワーは前戦を2回使ってからGⅠの本番に臨むというローテーションを何度も課せられていた。ステージチャンプ弥生賞スプリングステークスを使ってから皐月賞を走り、1994年1995年において使って使って使いまくるという方針を課せられ、最終的に1995年天皇賞(春)ハナ差の2着に入った。サニーブライアンは3歳の時に連闘し、4歳の弥生賞若葉ステークスを使ってから皐月賞に出走し、皐月賞ダービーの間でプリンシパルステークスを使おうとして大西騎手が猛反対していたほどである。ダンツフレームダービーまでに中1週の競馬を2度経験している。タニノギムレット皐月賞NHKマイルカップダービーというローテを歩んだ。グラスワンダーは脚部不安を抱えていたので較的に優しいローテーションだったが、1999年京王杯スプリングカップ安田記念宝塚記念のローテーションが印的である。
  115. *『名列伝ナリタブライアン(光栄)』 89ページ日刊スポーツでそうした批判を行った。
  116. *金満血統馬券王国第2巻太め残り編exit_nicoichiba102ページ
  117. *Complete金満血統王国 「Viva!ヒシミラクル」の巻exit_nicoichiba230ページ
  118. *1995年メルボルンカップ勝ちのDoriemus、1997年メルボルンカップ勝ちMight and Power2003年2005年メルボルンカップを三連覇したMakybe Divaがそうしたローテーションを走っている(記事1exit記事2exit記事3exit)。
  119. *ナリタルパークブライアンズタイムノーザンテーストノーザンダンサーであり(記事exit)、ナリタブライアンとかなり血統構成が似ている
  120. *『名物語―The best selection(エンターブレイン)』 61ページ
  121. *『ナリタブライアンを忘れない(KKベストセラーズ橋本』 20ページ、『さようなら ナリタブライアン全書(産業経済新聞社)』 82ページ
  122. *Gallop臨時増刊 週刊100 Vol.47 ナリタブライアン(産業経済新聞社)』 11ページ
  123. *ちなみにパシフカスとはイタリアキリスト教徒の詩人名前である(記事exit
  124. *『Number337号(文藝春秋)』 37ページ木村幸治の文章や『名列伝ナリタブライアン(光栄)』 83ページで3万1千ギニーと報じられている。ちなみに1ギニーは1.05ポンドで(記事exit)、3万1千ギニーは3万2550ポンドで、1989年12月は1ポンド230円ぐらいなので(記事exit)、748万円ぐらいである。
  125. *『名列伝ナリタブライアン(光栄)』 113ページ
  126. *『Number337号(文藝春秋)』 37ページ木村幸治の文章
  127. *スカーレットブーケダイワスカーレットダイワメジャーである。
  128. *『ナリタブライアンを忘れない(KKベストセラーズ橋本』 91ページ144ページ160ページ
  129. *『名物語―The best selection(エンターブレイン)』 61ページ
  130. *優駿1995年1月号(日本中央競馬会)』 84ページ
  131. *Number web 『杉本×草野×井崎のダービー裏話』 2018年5月22日exit杉本清がこのことを少し振り返っている。この動画exitは、同番組の番組宣伝動画である。
  132. *『ナリタブライアンを忘れない(KKベストセラーズ橋本306ページ
  133. *岡部幸雄は『岡部幸雄チャンピオンのステッキ(コミュニケーションハウスケースリー)』の188ページで「うんと強いメンバーに当ててクチャクチャになっちゃうと、が、闘争心をなくしちゃうんですね」とっていて、強いに負けたが闘争心を失うことがあると述べている。そして岡部幸雄は同書の188ページ1994年暮れから1995年エアダブリンが弱い相手と戦って連勝したことに触れ、「弱い相手と戦わせて勝たせることでに自信を付けさせることができる」という趣旨のことを述べている。
  134. *メンコとはの覆面のこと。を覆っていて雑音を遮断する。ダートコース走行時に浴びる泥を防ぐ役割もある。
  135. *優駿1995年1月号(日本中央競馬会)』 35ページ
  136. *気性が荒くて暴れやすいパドックで2人引きにする。おとなしは1人引きにする。
  137. *騎手物語洋泉社木村189ページ
  138. *Gallop臨時増刊 週刊100 Vol.47 ナリタブライアン(産業経済新聞社)』 6ページ
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