94年 菊花賞。
群れに答えなどない。
―JRA 2011年菊花賞CM
より
ナリタブライアンとは、日本の元競走馬、元種牡馬である。黒鹿毛の馬体で、鼻に白いシャドーロールを付けていることから「シャドーロールの怪物」と呼ばれた。1994年に日本競馬史上5頭目の牡馬クラシック三冠を達成して年度代表馬になり、引退してからJRA顕彰馬に選出された。
主な勝ち鞍
1993年:朝日杯3歳ステークス(GI)
1994年:牡馬クラシック三冠[皐月賞(GI)、東京優駿(GI)、菊花賞(GI)]、有馬記念(GI)、スプリングステークス(GII)、共同通信杯4歳ステークス(GIII)
1995年:阪神大賞典(GII)
1996年:阪神大賞典(GII)
1993年JRA賞最優秀3歳牡馬
1994年JRA賞最優秀4歳牡馬、年度代表馬
通算成績は21戦12勝。
父*ブライアンズタイム、母*パシフィカス。半兄に菊花賞・天皇賞(春)・宝塚記念を制したビワハヤヒデ、全弟にラジオたんぱ賞(GIII)を制したビワタケヒデ、従妹に二冠牝馬のファレノプシス、従弟に日本ダービー馬キズナがいる。
愛称は「ブライアン」「ナリブ」「シャドーロールの怪物」。厩舎で村田光雄持ち乗り調教助手から呼ばれるときの愛称は「ブー」だった[1]。
馬主は「ナリタ」と「オースミ」の冠名を使い分けることで知られる山路秀則[2]。管理調教師は関西・栗東の大久保正陽(まさあき)。担当した持ち乗り調教助手[3]は村田光雄だった[4]。調教助手は寺田雅之[5]。それ以外の厩舎関係者として大久保雅念(まさとし)[6]、大久保龍志[7]がいる。全21戦のうち15戦で手綱を取った主戦騎手は南井克巳だった。
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この記事では実在の競走馬について記述しています。 この馬を元にした『ウマ娘 プリティーダービー』に登場するキャラクターについては 「ナリタブライアン(ウマ娘)」を参照してください。 |
※当記事では、ナリタブライアンの活躍した時代の表記に合わせて、特に記載が無い限り年齢を旧表記(現表記+1歳)で表記します。
ナリタブライアンは1991年5月3日に北海道新冠(にいかっぷ)郡新冠町明和113番地3の早田牧場・明和分場で生まれた。当時の場長だった太田三重は、ナリタブライアンの出産のことをあまり憶えていないという。毎年50頭近くも生まれる大型牧場なので、大きなトラブルがない限り場長の記憶に残らない[8]。
1991年6月ごろに、早田牧場と縁が深い家畜取引商の工藤清正が、生まれてから1ヶ月ぐらいのナリタブライアンを調教師に紹介する役目を引き受けたが、真っ先に紹介した相手はかねてから付き合いのある大久保正陽調教師だった。大久保調教師はすぐに気に入り、付き合いの深い馬主の山路秀則に紹介すると、山路もすぐに気に入り、2,300万~2,400万円ぐらいで購入した[9]。つまり、ブライアンはいわゆる庭先取引[10]で売られていった。ブライアン以外にも数々の名馬を保有した山路は後に「(馬について)専門的なことは分からない」「私の場合は皆さんに助けていただいて、そのおかげだと思っていますから。運がいいというのもおかしいですが、やはりいいんでしょうね(笑)」と語っているが[11]、良い馬はすべて庭先で取引され、競走馬セールにはその売れ残りが出ていたという時代において、幼い時期の名馬とのつながりを他人に先んじてもたらされる人の縁を大切にしていたのは間違いなかったところであろう。
1991年の秋になるまで半年ほど場長の世話を受けたナリタブライアンだが、体はそれほど大きくなく、性格もおとなしく、仲間の中でグループリーダーになるわけでもなく、やることといえば場長の服をかじって破くぐらいで、普通の馬だったという[12]。
1991年秋に乳離れ[13]をして、1992年3月まで明和分場にいて、1992年3月から1992年10月までえりも分場に滞在した[14]。えりも分場にいた時も、ナリタブライアンは小柄であまり目立つ存在ではなかった[15]。
1992年3月から1992年10月まで滞在したえりも分場では、昼夜放牧を経験した。昼夜放牧は昼だけではなく夜も放牧すること。熊に襲われるという危険性や、資金を調達して広い土地を用意しないといけないというコスト性があるが、夜も動き回ることができるので馬の肉体の鍛錬に効果的であり、馬の精神も強くなる。この昼夜放牧を始めてから明らかに早田牧場の生産馬の成績が良くなったという[16]。
1992年10月に早田牧場新冠支場で馴致に入り[17]、競走馬としての調教を課され始めた。もともとは福島で開業したという歴史的な経緯[18]から「支場」と冠されているものの、ここは53ヘクタールの広大な敷地を持っている早田牧場の本拠地で、本格的な設備が揃っている[19]。大久保調教師は育成牧場時代にナリタブライアンを何度も見に行ったが、特筆できるような要素がなく、大物かどうかは正直言って分からなかったという[20]。
一方、牧場に所属する40~50人の乗り手たちの中で一番のベテランである園浦という乗り手が「牧場内の坂を上ったり下ったりする運動の時、ブライアンだけは呼吸がまったく乱れない。他の馬とは全然違う」と報告しており、早田光一郎にはその情報が届いていた[21]。
また別の資料には其浦三義という人物が出てくる。笠松競馬で下乗りをしていたことがあり、早田牧場に就職してからは30人以上の調教担当のまとめ役をして、ナリタブライアンがやってきた当時はチーフ攻馬手という立場だったという。この其浦三義は半兄のビワハヤヒデに育成役として乗ったことがあるのだが、ナリタブライアンに乗り「体全体の弾むようなバネや柔らかい背中、敏捷性は、兄をはるかに超える素質を感じさせた」と激賞している。先ほどの園浦(そのうら)とは其浦(そのうら)三義の誤表記だろうか[22]。
早田牧場新冠支場の場長である宮下了はブライアンの能力を確信していた。大久保正陽厩舎に引き渡すとき、担当することが決まっている持ち乗り調教助手の村田光雄に対して「生涯こんな馬に会えないかもしれないよ」と言っている[23]。
ナリタブライアンが栗東・大久保正陽厩舎に入厩したのは1993年5月28日だったが[24]、すでにナリタブライアンは注目の3歳馬の一頭だった。
ちなみにこれは、「優秀な馬が毎年のように入厩する名門の大久保正陽厩舎に入ってきた3歳馬」という風に注目されたのではなく、「皐月賞と日本ダービーと連続で二着に入ったビワハヤヒデの半弟の3歳馬」という風に注目されたのである。
大久保厩舎は栗東トレーニングセンターの中でも馬に強めの調教を課すことで知られていたが、言い換えれば超良血の期待馬を預かる機会の乏しい厩舎であり、ハードトレーニングもそれ故のものであった。後に大久保調教師は「ビワハヤヒデが活躍した後だったらブライアンは自分のところには来なかった」と語っている[25]。実際、ブライアンの妹・弟は1頭も大久保正陽厩舎には入っていない。
この時期の大久保正陽厩舎はメジロパーマーやナリタタイシンといった活躍馬を輩出する絶頂期にあったが、それでもまだ、平凡な馬が入厩する普通の厩舎だったのである。
1993年の5月に栗東トレーニングセンターに入ったナリタブライアン。大久保調教師はナリタブライアンによほど自信を持っていたようで、関西のトップ騎手であった南井克巳にズバリと「君はダービーを勝ったことがあるか?ないなら、うちの馬でダービーを勝ってほしい」と主戦騎手の依頼をした。このことは南井克巳が証言している[26]。
ちなみに大久保調教師は「南井騎手のようなトップ騎手がダービーを勝っているかいないかなんて当然知ってるし、そんな失礼なことをベテランに面と向かって言うわけがないでしょう」とこの話を否定している[27]。
南井もナリタブライアンに調教をつけてすぐ「この馬はモノが違う」と感じたらしい。ナリタブライアンの特徴的な「首を低く振り上半身の重心をグッと下げて低い姿勢で鋭く伸びる」スパートのフォームはすでにこのときほぼ完成されていたようで、「あ、オグリキャップの感覚だ」と言わしめるほどの乗り心地であったという[28]。
ただ、ブライアンには「物見をする、周囲の物を異常に怖がる」という精神面の弱点があった。物見とは、普段見慣れた風景なら大丈夫だが、初めて見る物などに気を使いすぎて、立ち止まったり驚いたりすることをいう。ブライアンは1992年秋~1993年5月の育成牧場時代から物見をする傾向が強く、コースにできた小さな水たまりに驚いて体をねじって避けようとして、乗り役を振り落とすことがあった[29]。自分の影に驚いたり、猫に驚いたり、スズメが飛ぶと驚いたり、100メートル先でレンズを向けるカメラマンに気が付いて一歩も動かなかったりしていた。レースで走っていても自分の足元ばかり見ているようだった。よく言えば周囲の変化に敏感であり、また、悪く言えば臆病であった[30]。
これが災いして8月15日の函館1200mのデビュー戦で2着。ゲートの影を気にして故障したかのように止まった[31]。レース中も突っ張る感じで走るのを止めるような雰囲気があり、南井克巳には物見をしているように感じられた[32]。ただレース後の大久保調教師は「この馬は強い。モノが違う」といい、南井克巳は「この馬はすごい」と興奮気味に語っていて、才能を感じさせる走りをしていた[33]。
8月29日の函館1200mの2戦目に9馬身ぶっちぎりで勝った。逃げるのは生涯唯一のことであり、9馬身差は生涯最大着差となった。
9月26日の函館1200mの函館3歳ステークス(GIII)は重馬場に足を取られたのか3~4コーナーで置いていかれ、6着に敗れた。
4戦目は10月24日の福島1700mの500万下条件戦のきんもくせい特別で3馬身差で勝った。ちなみに、秋の福島開催のような「裏開催」に遠征して出走するのは、後のダービー馬としては相当に異例である。大久保正陽調教師は1年前の1992年秋に当時3歳だったナリタタイシンを福島に遠征させてきんもくせい特別を走らせているので、それに続く異例の行動となった。阪神や京都や中山や東京で500万下条件戦がいくらでも開催されており、そこで強敵と戦いつつ中央競馬の競馬場の経験を積むのが、クラシックを目指す馬としてごく一般的である。「裏開催の福島なんかに行くんだから大したことがない馬だ」と思われてもおかしくないが、周囲の風評など気にしない大久保正陽調教師らしい決断といえる。
きんもくせい特別では45歳の大ベテラン騎手である清水英次がブライアンに乗った。清水英次はトウメイやテンメイといった伝説的名馬の主戦騎手として知られる。その彼が「古馬みたいなところがある」と賛辞を与えた[34]。また、清水英次は3歳秋~4歳春のナリタタイシンに5回騎乗しているのだが、「ブライアンは去年のナリタタイシンの今頃よりも乗りやすい。器が違う」とも評価している[35]。
5戦目は11月6日に京都1400mで行われるデイリー杯3歳ステークス(GII)で、このレースは1年前に半兄のビワハヤヒデがレコード勝ちしたレースである。しかし、スタート直後に落鉄して人でいうと靴が脱げた状態になり、前が詰まって3着に終わった[36]。このときも物見をしているようで、脚元を気にしていた[37]。
ここまで5戦2勝に留まり、能力の片鱗を見せることしか出来ていない。クラシック戦線の伏兵にすらなっていない状況であった。
デイリー杯3歳ステークスの翌日の11月7日に行われた菊花賞で、半兄のビワハヤヒデがレコードを更新して優勝していた(動画)。それに比べると「兄よりすぐれた弟なぞ存在しねぇ!!」の言葉どおりの状況と言えた。
自分の影を恐れるという欠点を抱えていたナリタブライアンだが、そのための対策として陣営はシャドーロールを装着させることを決定し、11月21日に京都1800mで行われる京都3歳ステークスに駒を進めた。
するとさっそくシャドーロールの効果がてきめんに現れる。視線のすぐ前にある白の塊を見つめたブライアンはレース中に周りを気にすることなく集中し、ランスオブスリルが持つ従来の3歳コースレコードを1.1秒縮める好タイムで走り、3馬身差で完勝した。
3歳戦の仕上げとして、12月12日に中山1600mで行われる朝日杯3歳ステークス(GI)に出場した。1年前は半兄のビワハヤヒデがハナ差で勝てなかったレースである。前半が超ハイペースで流れるなかでブライアンはぴったり折り合い、4コーナーをうまく回って先行馬にとりつきながら直線に出て、直線で弾ける末脚を披露した。ブライアンは3馬身1/2差で圧勝し、名実共に3歳王者の座についた。差が付きにくいはずのマイル戦で3馬身1/2の差を付けるのだからタダモノではない。タイムは1分34秒4で、リンドシェーバーが1990年に記録した1分34秒0に及ばないものの、アイネスフウジンと同じ歴代2位タイであった。
良馬場の発表だったが、前日に降った雨の湿り気がまだ残る渋めの馬場だった。「パンパンの良馬場だったらレコードになってたんじゃないかな」と南井克巳がコメントした[38]。
ちなみにこのレースには大久保調教師と山路秀則オーナーが訪れていない。彼ら2人は香港にいて、当時国際GIIIだった香港カップに出走するナリタチカラに帯同していた[39]。
黒鹿毛の馬体の鼻先に鎮座する白いシャドーロールは、ファンにとってもレース中ひと目でブライアンの所在がわかる、この馬のシンボルとなった。後に精神面も成長し、周りに怯えないたくましさを備えた後でも、このシャドーロールは引退まで外されることはなかった。
影を越えて行け
3歳で7戦を消化したのだから放牧に出すかと思われたが、そんなことはなかった。レース翌日の12月13日には栗東トレセンに戻り、1日調教を休んだだけで、すぐに調教に戻った。大晦日まで調教が続けられ、正月休みは元旦だけ、1月2日からまたしても調教に取り組んだ[40]。これがまさに大久保正陽厩舎である。
3歳の7戦は間隔の詰まったレースも多いローテーションだった。表にすると次のようになる。
日時 | レース名 | 条件 | 間隔 |
8月15日 | 新馬戦 | 函館1200m | |
8月29日 | 新馬戦 | 函館1200m | 中1週 |
9月26日 | 函館3歳ステークス | 函館1200m | 中3週 |
10月24日 | きんもくせい特別 | 福島1700m | 中3週 |
11月6日 | デイリー杯3歳ステークス | 京都1400m | 中1週 |
11月21日 | 京都3歳ステークス | 京都1800m | 中1週 |
12月12日 | 朝日杯3歳ステークス | 中山1600m | 中2週 |
中1週が実に3回もあるので過酷なローテという印象を受ける。滋賀県の栗東トレセンと福島競馬場を往復したり滋賀県の栗東トレセンと千葉県の中山競馬場を往復したりする長距離移動も、馬にとって大変なように見受けられる。
その一方で、1200mや1400mといった疲労が残りにくいとされる短距離戦が多く、実はそこまで過酷ではないという印象も受ける。
3歳馬に1000mや1200mといった短距離戦を走らせて馬を鍛えるのは大久保正陽調教師が好む手法であり[41]、メジロパーマー、イイデセゾン、ナリタタイシン、シルクジャスティス、エリモダンディーがその方法で育てられている(記事1、記事2
、記事3
、記事4
、記事5
)。
中1週を3回行ったときも馬体減りが見られなかったという[42]。
大久保正陽調教師は「レースを使って調整して馬を鍛えていくというのが自分の一貫した手法」とはっきり述べている[43]。
1994年になり4歳になったナリタブライアン。
「ダービー前に東京競馬場でのレースを経験させておきたい」という理由から、2月に東京1800mで行われる共同通信杯4歳ステークス(GIII)を4歳初戦とすることに決定した。「3歳チャンピオンで賞金を稼ぐ必要もないので始動は3月の弥生賞かスプリングステークス」というのがこの当時の一般的な考えだが、大久保正陽厩舎はそれとは一線を画した。大久保正陽調教師は、メジロモンスニーやナリタタイシンで日本ダービーを惜敗していたのだが、この両馬ともダービーを走るまで東京競馬場を走った経験がなかった。そのことを悔いる大久保調教師は、共同通信杯の出走を決断したのである[44]。
降雪によりレースが2月14日(月)に順延されるというアクシデントがあったものの、ここを楽勝した。1分47秒5のレースレコードで4馬身差である。ちなみに前日の2月13日(日)には京都記念で半兄のビワハヤヒデが勝っている。ナリタブライアンの共同通信杯は予定どおり日曜日に行われてブライアンが勝っていれば、1940年4月7日に兄キヨクジツが中山農林省賞典障害(現在の中山大障害)・妹タイレイが中山4歳牝馬特別(現在の桜花賞)を勝って以来中央競馬史上二度目の「兄弟同日重賞制覇」となっていただけに、惜しかった。
コース外には白い雪が積もっていた。3歳秋までのナリタブライアンなら雪に目をとられて物見をしていただろうが、このときのブライアンは物見をしておらず、南井克巳は「精神面でも大人になってくれた」と評価した[45]。
「共同通信杯から皐月賞へ直行するとレース間隔が空きすぎる」という理由から、3月27日に中山1800mで行われる皐月賞トライアル・スプリングステークス(GII)に出走するとこれも完勝。ちょっと出遅れて最後方に位置したが、そのおかげで荒れていない外を追走することができた。3~4コーナーで外を回してマクっていき、直線で3馬身1/2の差を付ける。半兄ビワハヤヒデの勝てなかった皐月賞・日本ダービー制覇への期待のみならず、トウカイテイオーもミホノブルボンもなしえなかったシンボリルドルフ以来の三冠馬誕生への機運も高まっていった。
ただ、3歳時に7戦、4歳になってからも2戦を戦い、皐月賞で10戦目となる戦績には「レースの使いすぎによる消耗」を危惧する声もあった。過去3年の皐月賞の1番人気馬と比較すると、1991年のトウカイテイオーと1992年のミホノブルボンは皐月賞を5戦目、1993年のウイニングチケットは皐月賞を6戦目で迎えている。皐月賞を1番人気で迎えるような能力の高い馬は、早くに勝ち星を重ねて賞金を稼ぎ、その後は余裕を持って本番にピークを合わせるのが常道である。
デビュー直後こそもたついたとはいえその後は順調に賞金を獲得していたブライアンがレースを使い続けた理由は、「トレーニングセンターでのテンションの高さ」という、これも精神面の弱点に起因するものであった。常に張り詰めた雰囲気のトレーニングセンターの空気の中で、敏感なブライアンは常に自らの気を緩めず、そして賢さも持ち合わせたブライアンは、自分のレースが近づくとそれを察知してますます興奮してしまう。これでは肉体以前に精神がすり減ってしまうと危惧した大久保調教師は、「短い間隔でレースを使い続け、体を疲れさせることで緊張をほぐそう」としたのである[46]。早期に克服できた「臆病さ」とは異なり、こちらの「近づくレースを察知しての興奮」はその引退までブライアンにつきまとうことになる。
ブライアンは万全の状況だったが、大久保正陽厩舎には異変が起こっていた。スプリングステークスの直後に大久保調教師が盲腸を発症し、自宅で静養することになった。周囲を騒がせてはまずいので「風邪をこじらせた」とだけ発表した。厩舎を会社にたとえると、調教師は社長に当たる。調教師が不在となり、調教師の息子の大久保雅念(まさとし)調教助手がマスコミの取材に対応するなどバタバタした状況になった。結局、大久保正陽調教師は皐月賞を自宅で観戦することになった[47]。
そして迎えた牡馬クラシック第一戦・皐月賞。4月17日に中山2000mで行われるこのレースにおいて、前哨戦の弥生賞を逃げて2馬身1/2の着差で快勝したサクラエイコウオーが有力馬の一角とされて3番人気だった。さらにはアーリントンカップを逃げ切って優勝し、毎日杯で道中2番手に先行して優勝した重賞2連勝馬のメルシーステージも4番人気となっていた。ハナを切るならこの2頭のうちどちらかで、ハイペースになることが予想された。
サクラエイコウオーがハナを切り、それ以外の各馬も放置できずに飛ばしていくことになり、前半1000m58.8秒のハイペースとなった。1枠1番に入ったブライアンは上手にスタートして好位から追走し、向こう正面で8番手から4番手に押し上げていく。そして4コーナーで上手く外に持ち出して直線で抜け出すと最後方から追いこんできたサクラスーパーオーら後続勢に3馬身1/2差をつけてゴールインし、前年の菊花賞を制したビワハヤヒデに続いて兄弟クラシック制覇を達成した。
土埃が舞い上がる傷んだ馬場で勝ち時計1分59秒0を記録し、1993年にナリタタイシンが記録した2分0秒2という皐月賞レコードを1.2秒も更新している。ちなみに1993年のナリタタイシンは既存の皐月賞レコードを0.9秒更新して2分1秒0の壁を初めて破る快挙を成し遂げていたのだが、その快挙をわずか1年で大幅に上回った。そして、1994年にナリタブライアンが皐月賞で2分の壁を破ったあと、2001年まで7年連続で2分の壁を破る皐月賞馬が出現しなかった。
また、ナリタブライアンの記録した1分59秒0というタイムは、スダビートが1989年12月2日のディセンバーステークスで記録していた「古馬を含めた中山2000mのコースレコード」を0.5秒も短縮するものだった。
皐月賞を3馬身以上の着差で勝った馬は、1989年(平成元年)~2021年の33年間でたった3頭しかいない。1994年のナリタブライアンと、2011年の東京2000m開催時のオルフェーヴルと、2021年のエフフォーリアである。
5月29日に行われるクラシック第二戦・日本ダービーでは単勝1.2倍に推された。日本ダービーで単勝1倍台の前半になったのは歴史的名馬ばかりで、1973年のハイセイコー1.1倍、2005年のディープインパクト1.1倍、1984年のシンボリルドルフ1.3倍、2020年のコントレイル1.4倍といったところである。
当日の東京競馬場は18万7041人の観客を集めた。入場券が前売り制になって入場制限がかかった1991年以降に限ると歴代1位の観客数である[48]。
大外の17番枠に入ったナリタブライアンの近くの15番枠にノーザンポラリスがおり、スタート直前に激しく暴れていた。ノーザンポラリスが興奮して立ち上がった瞬間にゲートが開いたのだが、ナリタブライアンは全く集中力を切らすことがなく、ゲートが開いた途端に半馬身ほどの差を付ける抜群のスタートを切めて、6番手あたりの絶好位に進出した。
ナリタブライアンの直後に位置していたアイネスサウザーが2コーナーで思い切り引っかかって先頭に駆け上がっていったが、それにもブライアンは全く動じず、騎手との折り合いを完璧に保った。アイネスサウザーが引っ掛かって逃げたため、前半1000m60.0秒の平均ペースとなった。アイネスフウジンが勝った1990年ダービーの59.8秒、ウイニングチケットが勝った1993年ダービーの60.0秒とほぼ同じである。
4コーナーで他馬に邪魔をされない大外に持ち出すと、東京競馬場の長い直線でほとんど左右にヨレることもなく、首を沈める美しいフォームで真っ直ぐ駆け抜けていき、エアダブリンら2着以下を5馬身突き放す圧勝となった。
大歓声に包まれて東京競馬場の直線を疾走するナリタブライアン。その上で、南井克巳は全身の力をこめて声にならない声を叫んでいたという[49]。この1年前の1993年日本ダービーで、南井克巳はマルチマックスに騎乗したが、スタート直後に落馬するという屈辱的体験をしていた(動画)。まさに地獄から天国へはい上がる形となった。
土埃が巻き上がるボコボコの馬場で、大外をぶん回して距離を大きく損したにもかかわらず、2分25秒7の時計を記録した。これは1990年にアイネスフウジンが記録した2分25秒3のレコードタイムに0.4秒しか遅れていない。
ナリタブライアンは残り400m地点から残り200m地点までの坂がある1ハロン(200m)を11秒2で駆け抜けていて、1994年の時点でこの区間の歴代最高タイムだった。ナリタブライアン以外に11秒台で走ったのは、11秒7で走ったトウカイテイオーと11秒8で走ったアイネスフウジンの2頭しかいない[50]。ブライアンはこの2頭よりも0.5秒ほど、つまり3馬身ほど速く走っている。
須田鷹雄によると、レースが終わった後の検量室でナリタブライアンは息一つ切らしておらず、大量の汗をかくこともなく、何事もなかったかのように立っていたという。「何千頭の競走馬を見たかわからないが、府中の2400mを走り抜いて平然としている馬など見たことがない」とも同氏は語っている[51]。
皐月賞とダービーの尋常ではない勝ちっぷりから史上最強馬の声も出始め、三冠達成、兄・ビワハヤヒデとの現役最強の座を賭けた対決への期待が高まっていった。ビワハヤヒデは皐月賞の1週間後に天皇賞(春)を1馬身1/4差で優勝し(動画)、ダービーの2週間後に宝塚記念を5馬身差で勝っており(動画
)、しかも道中先行して4コーナーで先頭に立って押し切るというブライアンにそっくりな勝ち方をしていて、1994年の春競馬を兄弟で席巻していたのである。
ダービー後のナリタブライアンは避暑のために6月10日に札幌競馬場へ移送され、8月17日には函館競馬場へ移送され、それらの競馬場で滞在した。通常ならば出走しない競走馬の競馬場滞在は許されないが、ナリタブライアンは実績が考慮されて特例で許可された[52]。
しかし、ナリタブライアンは春の激走の疲労が蓄積されていてギリギリの状態だった。それに加え、深刻な米不足を招いた前年1993年の冷夏とは一転して、この1994年の夏は酷暑となった。それは北海道も例外ではなく、ブライアンがいる札幌競馬場も連日30度を越す暑さとなり、ブライアンは夏負けで体調を崩した。それまで健康そのものだった脚部に骨膜がでるなどの影響が出て、一時期は陣営が菊花賞回避を考えるほどに状態が悪化していた[53]。
これが原因となって調整が遅れてしまい、ナリタブライアンは10月16日に行われた秋緒戦の京都新聞杯(GII 阪神2200m[54])でスターマンにまさかの差し切り勝ちを許してしまう。
ちなみにブライアンが夏負けして状態が悪いことは極秘とされ、大久保正陽厩舎の関係者以外にはほとんど知らされなかった[55]。このため単勝1.0倍に支持され、フジテレビ系の放送で杉本清アナウンサーも「順調に夏を越した」と表現していた。
さらに菊花賞の1週間前に行われた天皇賞(秋)で、兄のビワハヤヒデがレース中に故障発生となり、同レースを5着に敗北した(動画)。屈腱炎を発症していたビワハヤヒデはそのまま引退し、有馬での夢の兄弟対決は幻となってしまった。
ミスターシービーのように秋初戦で大敗した後、体調を立て直して三冠に輝いた例もあるが、タニノムーティエのようにもはや立て直しもままならず惨敗した例もある。また1992年のミホノブルボンのように、京都芝3000mのスペシャリストのライスシャワーに阻まれたという例もある。過去に何頭もの二冠馬が挑戦を前に挫折し、また挑んでは敗れた菊花賞。三冠馬になるには絶対的な能力だけでなく、当日の体調、そして運も必要である。ナリタブライアンの能力を以ってしても三冠の壁は厚いのか、それとも……僅かな不安を抱えたまま、1994年11月6日を迎えることになる。
皐月賞3½馬身、
ダービー5馬身、
菊花賞7馬身。1分59秒0、当時のコースレコードを塗り替えた皐月賞。
4コーナー、大外を回り先頭に立ち余裕で突き抜けたダービー。
史上5頭目の三冠馬誕生は、ただ唖然とするばかりの菊花賞。
漆黒の馬体に純白のシャドーロール。未踏の王道で風を追い続ける。
しかし、そんな不安はナリタブライアンにとって杞憂にすぎなかった。
パラパラと小雨が降る京都競馬場で行われた菊花賞は、稍重の馬場となった。4番のナリタブライアンは好スタートを切ったが、その隣の5番のスティールキャストが勢いよくダッシュをして4番のナリタブライアンの横をすり抜けていき、ナリタブライアンを挑発して揺さぶりを掛ける。このとき南井克巳はすぐに手綱を引いてブライアンを抑えにかかった。南井の指示に応じてブライアンは折り合いを保ち、スティールキャストに釣られなかった[56]。レースの序盤からブライアンと南井克巳にとって緊迫の流れとなった。
スティールキャストが最初の1000mを61.2秒のペースで引っ張り、稍重なら平均ペースといったところで、緩みのないレースとなった。1~2コーナーでスティールキャストがさらに加速して後続を引き離して大逃げを打つという展開となった[57]。
道中はヤシマソブリンが6番手となり、ナリタブライアンが7番手で追走した。ヤシマソブリンの坂井千明は「ナリタブライアンより前に行くのは予定どおりだ。ナリタブライアンが動いてくるのをこのまま待つ」と思っており、ナリタブライアンの南井克巳は「ヤシマソブリンがいい目標になってくれた」と思っていた[58]。
3コーナーの坂の下りでブライアンがス~ッと上がって半馬身ほどヤシマソブリンにかぶせ、ヤシマソブリン鞍上の坂井千明の視界に入ってきた。坂井千明は「ブライアンが先に仕掛けてきた。ブライアンを離さなければならない」と感じてしまう。このプレッシャーに押され、坂井千明は予定よりもワンテンポ早く仕掛けた[59]。
ヤシマソブリンが3コーナーの坂の下りで先にスパートを掛けてインを縫っていくと、ブライアンもすかさずペースアップして外を回っていく。最後の直線の入口でヤシマソブリンに馬体を合わせると、そのままヤシマソブリンに影さえ踏ませぬ7馬身差の完勝を果たした。故障で引退した兄に続く菊花賞制覇、そしてシンボリルドルフ以来10年ぶり5頭目の牡馬クラシック三冠制覇を達成した。
勝ち時計は3分4秒6で、1993年に良馬場でビワハヤヒデが記録した3分4秒7の菊花賞レコードを0.1秒更新した。滑りやすい稍重の馬場でレースレコードを更新するという偉業を達成した。
クラシックの3戦を続けるたび、3馬身1/2差、5馬身差、7馬身差と着差を広げていった。そのうち2戦はレコード更新のおまけ付きであった。
最後の直線で差を広げるたびにフジテレビ系列放送実況の杉本清が「弟は大丈夫だ!」との台詞を喋った。このとき杉本清の隣にはビワハヤヒデを管理していた濱田光正調教師がゲストとして座っていた。 濱田調教師はどのような思いでこの台詞を聞いたのだろうか。
ウィニングランをするブライアンと南井克巳に「南井!南井!」との南井コールが湧き上がる。ブライアンに対してのファンの歓声は「南井!」が定番だった。
ナリタブライアン陣営は年末の12月25日に中山2500mで行われる有馬記念への出走を決め、初の古馬との対戦となった。スタート直後から先頭を爆走するツインターボから大きく離れた2番手集団の先頭には、天皇賞(秋)を勝ったばかりのネーハイシーザーが立った。
「ツインターボは全盛期を大きく過ぎているので放置しても大丈夫だろう。ネーハイシーザーは2000mまでが得意の中距離馬なので[60]、ペースを上げると終盤にスタミナ切れになる」といった計算がネーハイシーザー鞍上の塩村克己騎手のなかに働いていたのか、ネーハイシーザーはやや遅めのペースとなった。ツインターボの最初の1000mは58.8秒で、ネーハイシーザーの最初の1000mは推定で61.0秒だった[61]。向こう正面に入ってからブライアンがじわっと進出し、2番手ネーハイシーザーの直後3番手に付ける。
3コーナーでブライアンは加速し、先頭に躍り出た。それに対してヒシアマゾンが凄い勢いで3~4コーナーの外をマクっていき、直線入り口でブライアンに並びかけようとしたが、ブライアンも末脚を発揮し、ヒシアマゾンをスッと引き離す。追いすがるヒシアマゾン以下に3馬身の差を付けて完勝。この年、文句無しの年度代表馬に選ばれた。
1995年になり、5歳になったナリタブライアンは、3月12日に京都3000m[62]で行われる阪神大賞典(GII)に登場した。菊花賞や有馬記念とは違って最初の1000m63.8秒の超スローペースとなったが全く引っ掛からず、上がり3ハロン33.9秒の末脚を発揮して7馬身差で圧勝。この上がり3ハロン33.9秒の末脚はブライアンの全レースの中で最速となった。この年の古馬戦線はナリタブライアンが主役だというのは疑いようのない事実であるはずだった。
阪神大賞典の4日後の3月16日から角馬場での調整を始めたが、普段なら2~3日で終わるはずの角馬場調整が長引いている。3月23日になってやっとウッドチップコースに入ったが、その日の午後に競走馬診療所の往診を受け「腰のあたりの疲れが抜けきっていない。コースを出るのを控えて、回復を図った方がいいと思われる」と告げられ、再び角馬場調整に戻った。さらに3月29日に角馬場調整をやめ、4月4日に角馬場調整を再開した。そして4月7日に右股関節炎の発症と全治2ヶ月であることがJRAから発表された[63]。
4月23日の天皇賞(春)も6月4日の宝塚記念も絶望となり、春シーズンの全休が決定し、10月29日の天皇賞(秋)を目標に調整されることになった。
股関節炎は、腰の筋肉に疲労が溜まったとき腰の筋肉の内部に炎症が起きるものである。大きく盛り上がった腰の筋肉の内部で発生する炎症なので、これに対する治療法としては、安静にして炎症が引くのを待つしかない。とはいえ、競走馬にとって厄介な腱や筋の故障ではないのが不幸中の幸いだった[64]。
また、どんなに軽傷でも「全治3ヶ月」と発表するのが当時のJRAだったが、ブライアンに対しては「全治2ヶ月」と発表している。このため症状自体はごく軽傷であると受け取られた[65]。
ブライアンは5月10日になって北海道新冠の早田牧場新冠支場へ里帰りし、筋肉が大きく落ちる放牧をせず、引き運動と馬房入りの2つの行動を繰り返す毎日を過ごした。そして7月6日になって函館競馬場に三冠馬の特例として滞在することになった。
ブライアンの装蹄師である山口勝之は「ブライアンは跛行(はこう)をしていない。つまり片足を引きずっていない。だから大して悪くないだろう」と思っていた。しかし山口勝之が7月になって函館競馬場に行ってブライアンの蹄(ひづめ)を見てみると、右後ろ足の蹄だけが小さくなっていることが確認できた。「ツメが変わるくらいだから、よほど痛くて庇っていたのだろう」と山口勝之は思った[66]。
角馬場調整が始まったのが8月初めで、ダートコース入りしたのが9月3日。9月17日にやっと栗東トレセンに帰ってきた。9月27日に南井克巳騎手が調教したが、軽めに乗っただけで追い切りができない[67]。どうやら10月8日の毎日王冠は使えないようだ。10月29日の天皇賞(秋)まで時間が迫ってきている。
更に追い討ちをかけるように、主戦を務めていた南井克巳騎手が10月14日(土)の京都第4レースで負傷した。スタート直前でタイロレンスという馬体重538kgの巨漢馬がゲートの前扉に潜り込もうとした。鞍上の南井克巳は「下敷きになったら死ぬ」と思って飛び降りようとしたが、右足のアブミが外れず右足を強くひねった。ちょっとやそっとでは音を上げない南井克巳が痛そうにうめく。南井克巳の右くるぶしは複雑骨折に脱臼という重症で、京都競馬場からすぐ近くのこの場所
にある蘇生会病院に担ぎ込まれたが、「右足関節脱臼骨折、全治4ヶ月」の診断を受けた。同病院で8時間にわたる大手術を受け、千葉県鴨川市のこの場所
にある亀田クリニックでリハビリに励むことになった[68]。
そして、ブライアンは天皇賞(秋)へ直接向かうことになるのだが……
主戦の南井克巳の落馬負傷の影響により騎手選びをすることになったが、難航した。大久保正陽厩舎所属のナリタタイシンの主戦騎手を務めていて大久保正陽厩舎と縁が深い武豊はアイリッシュダンスの先約を受けており、手が空いていなかった。河内洋を検討したり、短期免許を交付されて滞在していた英国騎手のアラン・ムンロから売り込みがやってきたりしたが、結局、松永幹夫に依頼することにした。しかし「松永幹夫の所属厩舎のマイシンザンが天皇賞(秋)に出走可能になったら松永幹夫がそちらに乗ることを妨げない」という約束付きだった。
10月25日(水)にナイスネイチャがフレグモーネを発症して回避し、マイシンザンが出走可能になり、松永幹夫はそちらに乗ることになった。そしてナイスネイチャの主戦騎手の松永昌博は所属厩舎のトーヨーリファールに乗ることになり、トーヨーリファールに乗るはずだった的場均がはじき出されて暇になった。このため大久保正陽調教師は的場均に声を掛けて、的場均が代役を務めることになった[69]。大久保正陽厩舎は関西の厩舎で、的場均は関東を主戦場にする騎手なので、実に珍しいコラボとなった。
10月29日のレースにおいてブライアンは1番人気に支持され、1000m通過59.6秒という天皇賞としてはやや遅いペースの中を好位6番手で追走した。4コーナーでは4番手に進出するが、直線に入ったらぴたりと止まり、馬群に呑み込まれた。その馬群の外をサクラチトセオーが鬼のような末脚で駆け上がりハナ差の優勝を果たしているので、末脚の差が余計に印象に残った。結果は12着で、圧倒的な三冠馬が二桁着順になったことで衝撃が広がった。ただしナリタブライアンの勝ち馬との時計差は0.6秒差なので「それほど離されておらず、次に期待」という声も見られた。
さらに続く11月26日のジャパンカップは、大久保厩舎に縁がある武豊に乗り変わり、1番人気に支持される。タイキブリザードが逃げて1000m通過が61.0秒というスローペースとなり、ブライアンは7番手あたりの好位を追走した。3~4コーナーではなかなか良い手応えで、ス~っと加速してコーナリングし、4コーナーでは勝ったランドのすぐ隣に位置していた。しかしそこから末脚が炸裂せず、ランドに置いていかれる。有馬記念で一蹴したはずのヒシアマゾンが怒濤の末脚を炸裂させて2着に食い込んだのとは対照的な姿だった。ナリタブライアンは6着と敗退し、2戦連続で掲示板にも入れないという屈辱を味わった。しかし勝ち馬との時計差は0.7秒差で、故障からの復帰2戦なら悪くない気もする。
「12月24日に行われる有馬記念では今度こそ復活させる」と決意した大久保調教師は、坂路調教を再開させた。ジャパンカップまでは股関節炎の再発を恐れて一般的に腰に負担が掛かりやすいとされる坂路調教を控えていたが、「稽古不足のため直線で止まったのだろう。稽古を積む必要がある。トモの筋肉を鍛えるにはこれが一番だ。腰の不安もなくなった」と判断しての再開となった[70]。
ブライアンは久々に2番人気になり、1番人気をヒシアマゾンに譲った。「明らかに馬の調子がおかしい」「いや、0.6秒差と0.7秒差で内容自体は悪くない」という思いが交錯しており、ナリタブライアンは馬券購入者たちに試練を与える存在となった。逃げ馬らしい逃げ馬が不在と見られていたレースだったが、それまで逃げの経験がなかった菊花賞馬マヤノトップガンが逃げ、帽子が吹き飛ぶような強風が吹き荒れるなか、最初の1000mを推定62.1秒で走るというペースで引っ張っていく[71]。ナリタブライアンは好位6番手を軽快に追走し、3~4コーナーで加速して2番手にまで上がっていき、マヤノトップガンの田原成貴騎手に「やはり来たか」と思わせた[72]。ただしこのレースでもナリタブライアンの見せ場はそこまでで、武豊の鞭を浴びても直線で加速せず、先行馬のタイキブリザードに差し返され、最後方から追い込んできたサクラチトセオーにも抜かれ、0.5秒差の4着に敗北した。勝ったのはマヤノトップガンで、ナリタブライアンと同じブライアンズタイム産駒であり、ナリタブライアンと同じ菊花賞馬であった。
天皇賞は少し出遅れたがジャパンカップと有馬記念のスタートダッシュは絶好だった。秋3戦とも道中は軽快に走り、騎手との折り合いも上々だった。秋3戦とも3~4コーナーの手応えは素晴らしく、コーナリングが巧みでス~っと加速していき、軽々と上位に進出することができた。
しかし、とにかく直線で伸びない。的場均と武豊はジャパンカップのレース後の検量室で「4コーナーまではいい感じの手応えで来るだろう?(的場)」「ええ、でも、伸びないんですよね(武)」「そうなんだよな(的場)」という会話を交わしていて[73]、秋の3戦はどれもこのような感じだった。「ナリタブライアンは利口な馬なので、怪我することを恐れて全力走行しなくなっているんじゃないか」と大久保正陽厩舎の人たちは見立てており[74]、ファンにもそう言われるようになった。
ちょうどこの秋3戦は主戦の南井克巳騎手が落馬負傷で不在だった。大川慶次郎は「南井君ならブライアンに活を入れられる。南井君ならブライアンの走らせ方を分かっている」と力説していた[75]。南井は「豪腕」「ファイター南井」といわれるような乗り方をする騎手なので、大川慶次郎もそこに期待をしていたのであろう[76]。
「あの強かったナリタブライアンはもう戻ってこない」という予感と、「4コーナーまでは一流馬の走りになっている。何かのきっかけで復活するかもしれない」という願望を競馬ファンに与えつつ、ナリタブライアンの5歳シーズンは終わった。
1996年になって6歳になったナリタブライアン。復活を期した陣営が緒戦に選んだのは、3月9日に阪神3000mで行われる阪神大賞典(GII)だった。楽勝が予想された前年と違い、菊花賞と有馬記念を勝ったマヤノトップガンが出走していることもあってナリタブライアンは2番人気に甘んじた。
引き続き鞍上に武豊を乗せたナリタブライアンは、4コーナーでマヤノトップガンと共に抜け出し、直線における長いマッチレースの末にアタマ差だけ前に出て、1年ぶりの勝利を挙げる。
このレースを指して日本競馬史における名勝負の一つとする声があるものの、一方では「全盛期のナリタブライアンならばマッチレースにすらならず楽勝していた」としてそれを否定する意見もある[77]。(一方でマヤノトップガン側も「ナリタブライアンは復活勝利を期してある程度仕上げてきたはずだがこちらは調整段階。結果も気にしていないからこうなっただけの事」とこちらもその意見に負けずに吹いている。まあ仕上げたらめっちゃイレ込んだんですけどね)
ともあれ、直線における強さが完全に影を潜めていた前年秋と比べればブライアンが良化していたのも事実であった。ブライアンが直線で根性を発揮するようになったのはファンが夢にまで見ていた光景である。
次走の4月21日に行われる天皇賞(春)では、一昨年の有馬記念以来のGI制覇を期待されて1番人気に推された。そして鞍上には久々に南井克巳が復帰した。南井克巳は4月7日の桜花賞でイブキパーシヴに乗って2位、4月14日の皐月賞でロイヤルタッチに乗って2位になっており、体調も勝負感も万全だった。
青空が広がって春の輝かしい陽光が降り注ぐ中、レースが始まった。7番マヤノトップガンはパドックからイレこんでいたので、鞍上の田原成貴が暴走を防ぐため後方に下げたが、スタート直後に隣の8番サマーサスピションと接触しやっぱり興奮状態に陥って、1周目の3コーナーの坂の下りで引っかかってナリタブライアンを追い抜いて7番手ぐらいに進出してしまう。メインスタンド前の直線でも引っかかり気味であり、大歓声が上がったときにさらに興奮して1頭を抜き、馬群の外を6番手で進むことになった[78]。
スギノブルボンがスローペースで逃げ、興奮しながらテイエムジャンボが2番手につけ、最初の1000mが61.7秒のスローで流れた。そこからさらに3番手集団が10馬身ほど離れていたので、3番手以下の集団は超スローペースで流れることになった。先述のようにマヤノトップガンは引っかかっていて、正面スタンド前で1頭かわして7番手から6番手になり、1~2コーナーで4番手にまで上がってしまう。そして、かつてのブライアンなら超スローペースであっても引っかからなかったが、このレースはブライアンも引っかかって興奮している。
2コーナーを回って向こう正面に入ったところで、4番手のマヤノトップガンはやっと折り合いが付いた。しかし今度はナリタブライアンが引っかかって、外を駆け上がって6番手あたりまで進出し、体力を消耗してしまう。
ブライアンは3コーナーの坂の下りでかかり気味に外をマクってスパートし、早仕掛けの形になった。それに煽られる形でマヤノトップガンも早仕掛けのスパートを掛ける。4コーナーを回るときには2頭が並び、前走の阪神大賞典のような併せ馬の形になった。
マヤノトップガンは掛かり通しだったので体力を消耗しており、ブライアンに抵抗できない。ブライアンは直線でマヤノトップガンを抜き去り、見事に先頭に立つが、そこに桜色の勝負服が突っ込んできた。
早仕掛けがたたったのか、ブライアンは直線でサクラローレルの末脚に抵抗できず、あっという間に抜き去られ、2馬身1/2差も差を付けられての2着に敗退した。
レース後の南井克巳は「これまであんなに引っかかることはなかった。スタートから行きたがっていた」と発言した[79]。また「1周目の3コーナーの下りで引っかかっていた。2コーナー過ぎの向こう正面でも引っかかっていた。先頭の2頭(15番スギノブルボンと6番テイエムジャンボ)のペースでついて行ければよかったのだが、3番手の馬(13番ロイスアンドロイス)がちょっと遅かったので、スローペースになった。あんなに掛かったのは初めてだった」とも語っている[80]。
レース後の大久保正陽調教師は「運転手だってプロだろう。武豊ならあんなふうに掛かっただろうか」と憤怒しており[81]、このレースかぎりで南井克巳を降板させた。
『名馬列伝ナリタブライアン(光栄)』の17ページに黒田伊助という署名があり、49ページの文章の書き手であることを示している。その49ページには「サラブレッドは頭が良い。ナリタブライアンは前走の阪神大賞典を憶えていて、マヤノトップガンが見えた瞬間に闘志に火が付いてしまい、『あいつが行くのなら俺も行く』とばかりにマヤノトップガンに勝負を挑んでしまったのではないか」という内容の文章を記している。前走の阪神大賞典における素晴らしいマッチレースが、皮肉にも一種の反動・副作用となり、天皇賞(春)における引っかかりを生んでしまったという見解である。
「この後、ブライアンは7月7日に阪神2200mで行われる宝塚記念に向かう」と誰もが思っていた中、発表された次走は、なんとこの年に中京2000mの中距離GIIから中京1200mのスプリントGIに変更されたばかりの高松宮杯(現・高松宮記念)だった。
過去に天皇賞馬タケシバオーが1969年のスプリンターズステークスを勝利した例があったものの、距離体系の確立された現代競馬において中長距離のトップクラスの馬がスプリントGIに向かうのは異例中の異例で、ファンや専門家から抗議の声が上がるほどだった。
そして、5月19日に中京競馬場でレースが行われた。入場者は7万4201人で[82]、1974年にハイセイコーが高松宮杯に来たときの6万8469人を更新した。
鞍上に武豊を迎えたナリタブライアンは、勝ったフラワーパークから0.8秒差、4馬身3/4離された4着に終わった。フラワーパークの走破タイムは1分7秒4であり、日本レコードがサクラバクシンオーの1分7秒1だった時代なので、なかなかのハイレベル決着だった。前走が3200mで、1200mを走るのが2年8ヶ月ぶり、そんな馬が“本職”の一流短距離馬たちに混じって4着になったので、「高い能力を生かして善戦をした」と言ってもいいのだが・・・
レース後の6月14日にブライアンは坂路で時計を出し、順調に調整が進んでいるようだった。しかし6月18日になってナリタブライアンは右前脚の屈健炎を発症した。医師の診断は「症状は重くも軽くもない普通の症状。似たようなケースで復帰した例はいくらでもあるので、再起が無理とはいえない」というものだった[83]。
6月28日に函館競馬場へ移動して滞在を始め、引き運動と温泉治療とレーザー治療を繰り返すようになった。1ヶ月経つと患部の腫れはみるみる引いていき、医師にも「腫れが引いた。歩様も心配ない」と診断された[84]。8月27日に早田牧場新冠支場へ移動してさらに休養が続き、足の状態もさらに良化していた。
大久保正陽調教師は現役続行させる気が強かったようで、10月7日には早田牧場の早田光一郎に「ナリタブライアンを最高に強い状態に戻してみせる。その自信もある」といっていたほどだったが、種牡馬入りを望む人々の説得を受けたようであった。10月10日に大久保調教師が現役引退を発表したが、「もちろん、今でもナリタブライアンをまだ走らせたいと思っています」という言葉が大久保調教師の口から出ていた[85]。
大久保正陽調教師の心を動かしたのは、1995年6月4日の宝塚記念におけるライスシャワーの事故だった。あのレースは自厩舎所属のナリタタイシンが出走していたので現地ですべてを観戦していた。ライスシャワーのことが頭をよぎるうちに、テンポイントが故障した1978年1月22日の日経新春杯も思い出した。このレースも自厩舎所属のエリモジョージが出走していたので現地ですべてを観戦していた。悪いことばかり頭に浮かぶようになり、ついに引退を決断したという[86]。
11月9日に京都競馬場で引退式を行い、11月16日に東京競馬場で引退式を行った。東西2ヶ所で引退式を行ったのはシンザン、スーパークリーク、オグリキャップに続く史上4頭目のことだった[87]。
当時の内国産種牡馬では史上最高額となる20億7千万円(3,450万円×60株)のシンジケートが組まれ、早田牧場系列のCBスタッドで種牡馬となり、1997年の春に81頭、1998年の春に106頭の繁殖牝馬と交配した。
しかし、1998年6月17日になってナリタブライアンはいきなり疝痛を発症した。新冠町のCBスタッドから1時間ほど離れた三石家畜診療センターに搬送されたブライアンは腸閉塞と診断され、3時間にわたる開腹手術を受けた。ブライアンは快方に向かい、1週間後にCBスタッドに戻ったが、9月26日の午後5時頃に再び疝痛の症状を見せた。前足で地面を掻き込む動作を見せたかと思うと、横になって自分の腹を覗き込んでいた。スタッフたちが即座に三石家畜診療センターへブライアンを運び込み、9月27日午前11時過ぎに開腹手術を受けさせたら胃破裂を発症していることが発覚した。胃破裂には手当ての術がなく、安楽死の措置がとられた。享年僅か8歳(現表記で7歳)の早すぎる死だった[88]。
ナリタブライアンの急逝が伝えられると、全国のファンから毎日のように電話がかかってきた。CBスタッド場長の佐々木功は、一人一人の電話に対応したという[89]。
10月2日にはCBスタッドで追悼式が行われ、日本中から集まった約500人のファンが別れを惜しんだ[90]。
早逝の影響で産駒は2世代しか残されておらず、重賞を勝った馬はいない。GIでの最高戦績もダイタクラフラッグの皐月賞4着だということもあって、2021年4月現在、コントレイルの産駒の種牡馬入りが未定であることを除けば後継種牡馬を残せなかった唯一の三冠馬となっている。
5歳春までの後続に影を踏ませないぶっちぎり勝利劇と、負傷した後の精彩を欠く走りのコントラストが鮮やかな馬生だった。
大川慶次郎は後にナリタブライアンを評して「精神力のサラブレッド」と言った[91]。「ぶっちぎれ、ナリタブライアン」とパドックの横断幕に掲げられた彼の豪快な走りを支えた、その健気な魂の安らかならんことを祈る。
スタートが抜群に上手く、競走に対する集中力の高さを感じさせる馬だった。「行かせようと思えば、たとえマイル戦でもハナにいける」と南井克巳が言ったことがあるほどスタートダッシュが速く[92]、どのレースでも難なく先行できた。
騎手とぴったり折り合う賢さがあった。騎手の指示通りに馬群の中に入ってペースを落ち着かせることができ、また勝負所の3~4コーナーでは騎手の求めに応じてグングン加速できた。
コーナリングが上手で、なおかつ直線はヨレずに真っ直ぐ走り[93]、先頭に立ってもソラを使わず[94]、懸命に加速していた。
競走馬は本質的に群れを作りたがる傾向がある[95]。このため、直線の大外で1頭だけの状態になったら内にササって内を走っている馬に接近する馬が多いし、直線で1頭だけ抜け出して他の馬が見えなくなったら他の馬を探すようになってソラを使う馬も多い[96]。しかしナリタブライアンは、ダービーで大外に持ち出しても内にササらず、ただ1頭だけになってもソラを使わず、ゴール板まで集中力を発揮して脚を伸ばすところがあり、良い意味で馬らしからぬところを感じさせた。
走行フォームは首を目一杯使って重心を下げる美しいもので、チーターかピューマのようであった。
馬の走りは骨格や筋肉のつき方という構造的な特性から決まるので、首が低い走りなら絶対によいというわけではなく、首の高い走りの方が好ましい馬もいるのであるが[97]、「首が低い走りだと人の目には美しく見える」というのは一般的な傾向である。
馬体重は448kg~486kgの範囲で変動していて470kg台がベスト体重といった観があり、平均的な馬格だった。ちなみに同世代のライバル牝馬ヒシアマゾンは464kg~500kgの範囲で変動していて480kg台がベスト体重であり、こっちの方が少しデカい。
ナリタブライアンの装蹄を担当したのはキャリア40年のベテラン装蹄師である山口勝之だった。人間は利き足によって右足と左足のサイズが違っている。それと同じように馬も右手前で走る馬と左手前で走る馬がいて、それに応じてそれぞれの足で蹄鉄の形やサイズが違うのが多い。しかし、3歳秋ごろのブライアンの蹄鉄は4つともまったく同じ形とサイズだった。3歳秋の後、4つの蹄鉄の形は変化していったが、4つの蹄鉄のサイズはアンバランスにならずに同じ状態を維持していた[98]。
ナリタブライアンは他の馬よりも蹄(ひづめ)がやや幅広で、雨が降って道悪になると滑りやすいという欠点があるものの、着実に蹴り出すパワーを地面に伝えるという長所があった[99]。
心拍数が少なく、強い心臓を持つ馬だった。平均的な4歳馬の心拍数は1分あたり35~40回だったが、ナリタブライアンは1分あたり30回だった[100]。
南井克巳が「ブライアンは追い切りに後にすぐ息が入る(呼吸が平静に戻る)」と言っていて、心肺機能が高いことを感じさせる[101]。
非常に賢い馬でなおかつ集中力があり、持ち乗り調教助手の村田光雄が「ブライアンは賢くて、競馬場では、無駄な動きは一切しない」と語っている[102]。
パドックの時は割と落ち着いていて、岡部幸雄騎手に「あの馬は気持ちをガッと表に出すタイプじゃないから、傍(はた)からみてもわからない部分が多いんだよね。シラッとして、何となく走って、それでいて凄い結果を出す馬」と評価されていた[103]。
1995年ジャパンカップで観客の大歓声に迎えられても、慣れているのか動じないところがあり、落ち着き払っていて、初めて乗った武豊を感心させた[104]。
厩舎にいるときのブライアンはやんちゃで、落ち着きなく辺りを見回してはカプカプと担当助手に噛みついていて、愛情表現をして甘えていた。それなのに競馬場に入ると一変し、威風堂々として落ち着き払い、周囲を圧倒していた[105]。
「ブライアンが厩舎にいるとき、不用意にブライアンの前に行くとブライアンが噛んでくる。しかし競馬に行くと素直で賢い馬になる」と南井克巳が語っている[106]。
ブライアンは厩舎ではいつもやや興奮気味であり、しかもレースが近づくとそのことを察知してさらに興奮して蹴るわ噛むわで危なっかしくなる馬だった。その一方で股関節炎や屈腱炎の治療のために早田牧場新冠支場にいるときは「レースが近くない」と察知しているらしく、非常におとなしかった。早田牧場を訪れてブライアンの様子を見た大久保調教師も「牧場にいれば、こんなにおだやかで、やさしい目をしてるんだなあ」としみじみ語っていたという[107]。厩舎にいてレースが近くなったときは激しくてキッツい目をしていた、ということだろう。
岡部幸雄は、1994年の夏にナリタブライアンが札幌競馬場に滞在していたときにナリタブライアンを間近で観察していた。そのときの感想として「遊びに来ていてレースがないことを分かっていたようで、ナリタブライアンはちょっとダラけていたところを見せていた。頭が良い馬のようで、どこが仕事で、どこが手を抜いて良いところか、非常によく分かっているようだ」と語っている[108]。
ブライアンは1997年春からCBスタッドで種牡馬としての活動を始めた。CBスタッドの場長である佐々木功が「種牡馬としてもいい馬だったよ。なにせ頭がいい。こちらから教える事がほとんど無かった。しかも一度教えたことはちゃんと理解しているし。頭がよすぎて、こちらが下手な事を考えていると近づけない怖さが、ブライアンにはあったな」と回想している。種付けも上手で、まったく無駄なことをせず、仕事が終わったらさっと帰るスマートさも持ち合わせており、佐々木功にとってはもの凄く楽な馬だったという[109]。
武豊は、ナリタブライアンが1994年5月29日のダービーを勝った直後に「ナリタブライアンと半兄のビワハヤヒデはどちらが強いか」と問われ、「現時点でもナリタブライアンの方が強い。あの馬の強さはケタ違い」と答えている。同年6月12日の宝塚記念でビワハヤヒデが5馬身差の圧勝をした後も「ブライアンだったら、もっと凄い勝ち方をしていたはず」と答えている[110]。
岡部幸雄は、「3歳のローテーションは三冠をとる馬のローテーションではない。あのローテーションをやってこれてしまったというのは、化け物である」「3歳であれだけ使って、4歳の春先からもあれだけのローテーションを組んだのだから、普通の馬なら倒れてしまう。うまくいっても皐月賞までで、ダービーでは負けるか、何かしているはずである。それを乗り切っているのだから相当な体力と精神力があったのだろう」と語っている[111]。
南井克巳は、ナリタブライアンがまだ負けている1993年のときから、岡部幸雄に「いやァこれいいんですよォ、速いとこ行くと、グーッと沈むんですよ」とナリタブライアンのことを自慢していたという[112]。
ナリタブライアンを語るときに必ず指摘されるのが、「大久保正陽調教師が無理なローテンションを組んだのではないか」というものである[113]。
3歳(現在の2歳)で7戦を消化するのはレースを使いすぎているように見えた。股関節炎からの復帰レースでいきなり天皇賞(秋)を走らせたのも「調教代わりにレースを使っている」と批判された。
負傷の原因とも噂されたレースキャリアと、状態が戻っていないのを承知で負傷後も走りを続けさせたことから、「管理する人のエゴの罪」が問われた馬でもある。もっとも、その精悍な肉体に宿っていた精神は、すでに見てきたようにとても繊細なものであり、それを「戦える馬」に仕上げた厩舎の功績は当然讃えられなければならない。
といったふうに、厳しい批判が書かれることがある。
しかし、後述するように、ナリタブライアンを初めとするロベルト系の競走馬は、レースを使いまくる厩舎に入ると成績が伸びるという傾向が見られるのも事実である[114]。「ロベルト系は叩き良化型、レースを使うごとに良くなる」という格言もある。そういう格言を知ったあとだと、大久保正陽調教師の判断を簡単に批判できなくなると言える。
3200mの天皇賞(春)を走ったばかりのナリタブライアンを1200mの高松宮杯に出走させるという大久保正陽調教師の判断に対して、激しい批判を行った者が多く存在した。そのうちの一人が競馬予想家の大川慶次郎である[115]。
それに対して、「長距離レースを得意とする競走馬を短距離レースに出走させて馬に活を入れるというのは、競走馬の調整方法の1つである」という擁護論が存在する。
オーストラリア競馬では、1200mのGIレースに出走した馬が、その3日後に3200mのGIレースに出走することがある[116]。競馬予想家の田端到は、オーストラリアの調教師に対して「なぜ2000m以上の大レースの前に短距離レースを使うのか」と尋ねたら「それがいちばんいいステップなんだ」と返答されたという[117]。
オーストラリア競馬では、まず休養明けで1200mや1400mの短距離戦を走り、徐々に距離を延長してステップレースを走り、3200mの大レースであるメルボルンカップで優勝する例がいくつも見られる[118]。
香港にインディジェナスという馬がいる。1999年3月に1000mのレースを使ったあと、2週間後の香港ゴールドカップ(香港のGI)という2000mのレースで優勝している。1999年11月6日に1000mのレースを使ったあと、3週間後にジャパンカップ(日本のGI)という2400mのレースでスペシャルウィークに次ぐ2位に入っている。
大久保正陽調教師はナリタブライアンの高松宮杯出走から2年後に同じようなことをしている。ナリタルナパーク[119]を2600mの条件戦に出走させたあと、なんと1200mの条件戦に出走させた。そのあと2000mのローズS(GII)を走らせて5着になり、2000mの秋華賞(GI)を走らせてファレノプシスに次ぐ2着に食い込ませている。
また、大久保正陽調教師はナリタブライアンの高松宮杯出走から3~5年ほど前に、3200mの天皇賞(春)で3着になったメジロパーマーを1200mや1400mのレースに使うことも行っている。1991年の鈴鹿S、1992年のコーラルS、1993年のスワンSである。
さらにいうと大久保正陽調教師は、エリモジョージを1976年4月の3200mの天皇賞(春)に出走させて勝たせた後、7月の札幌短距離ステークス(札幌ダート1200m)に出走させている。
忙しい短距離のレースを走らせて競走馬に刺激を与える「ショック療法」は、オーストラリアや香港の競馬界や日本の競馬界の一部においてごく普通に行われているのであり、そんなに異様なことではない。
大久保正陽調教師はナリタブライアンのことを振り返り、「結局な、自分で走るのを加減している、というところがあったわけだろ。長いところを走ればそれだけ負担もたくさんかかる、ということだ。だったら、短いところを使ってみたらいいんじゃないか、と考えたわけ」「まあ、私は珍プレー(の調教師)だからな(笑)」と語っている[120]。
*ブライアンズタイム Brian's Time 1985 黒鹿毛 |
Roberto 1969 鹿毛 |
Hail to Reason | Turn-to |
Nothirdchance | |||
Bramalea | Nashua | ||
Rarelea | |||
Kelley's Day 1977 鹿毛 |
Graustark | Ribot | |
Flower Bowl | |||
Golden Trail | Hasty Road | ||
Sunny Vale | |||
*パシフィカス Pacificus 1981 鹿毛 FNo.13-a |
Northern Dancer 1961 鹿毛 |
Nearctic | Nearco |
Lady Angela | |||
Natalma | Native Dancer | ||
Almahmoud | |||
Pacific Princess 1973 鹿毛 |
Damascus | Sword Dancer | |
Kerala | |||
Fiji | Acropolis | ||
Rififi | |||
競走馬の4代血統表 |
*のついた馬は「外国生まれ外国調教で繁殖用に日本に輸入された馬」という意味である。
父は*ブライアンズタイム。アメリカ合衆国で競走生活を送って、1989年夏に早田牧場の早田光一郎に購入された。大舞台に強いと言われるRibotの血が入っており、そこに早田光一郎は期待したという[121]。1990年春から日本で種牡馬になり、ナリタブライアンを作るため*パシフィカスと交配したのが1990年5月19日である[122]。1994年クラシック世代が第一世代で、この世代にはナリタブライアンの他にチョウカイキャロルというGI牝馬がいる。
*ブライアンズタイム産駒を含むRoberto系の競走馬は、「レースを調教代わりに使う」「できるだけレースを走らせる」というスパルタタイプの厩舎に入ると才能が開花すると言われることが多い。3歳(現在の2歳)で7戦を消化したナリタブライアンはRoberto系の競走馬の典型例とされる。
母は*パシフィカス[123]。イギリスで競走生活をして11戦2勝し、イギリスで繁殖入りして3頭の馬を産んだが、この3頭はいずれも活躍していない。1989年春に*シャルードというイギリスの無名種牡馬と交配し、1989年12月に早田光一郎によって3万1千ギニーの安値で購入され、日本に輸入された[124]。このとき他の日本の生産者もセリに参加していたが、誰も*パシフィカスに食指を動かさなかった[125]。また、この日のセリで一番高い値が付いた繁殖牝馬は27万ギニーで、*パシフィカスの9倍の値段だった[126]。その*シャルードの子としてナリタブライアンの1年前に産まれたのがビワハヤヒデである。また*パシフィカスは、ナリタブライアンの4年後にビワタケヒデを産んでいる。ビワタケヒデはナリタブライアンの全弟で、1998年クラシック世代の一員であり、ラジオたんぱ賞(GIII)を優勝した。
母父は20世紀の競馬界に革命をもたらしたNorthern Dancer(ノーザンダンサー)である。
母母Pacific Princessは*キャットクイルという牝馬を産んだが、その*キャットクイルは1998年の桜花賞などGI4勝したファレノプシスや2013年のダービー馬キズナの母である。つまり、ファレノプシスやキズナはナリタブライアンと母母が共通している。
母母父はDamascusで、アメリカの二冠馬であり、クラシックホースを輩出できなかったがGI勝ち馬を次々と送り出す名種牡馬だった。
母母母はFiji(フィジー)で太平洋に浮かぶ島国。母母はPacific Princessで「大平洋の姫」。2代続いて大平洋関連の馬名である。
ナリタブライアンは1997年の春に81頭、1998年の春に106頭の繁殖牝馬と交配した。しかし産駒たちは準オープンが最高の成績だった。代表産駒は皐月賞4着のダイタクフラッグとフラワーカップ(GIII)2着のマイネヴィータである。
ナリタブライアンの母父がNorthern Dancer(ノーザンダンサー)であり、ナリタブライアンはNorthern Dancerの血が濃い。1990年代は「日本にはNorthern Dancerの血を持つ繁殖牝馬が多い。○×という種牡馬はNorthern Dancerの血を持っていないので、Northern Dancerの血を持っている繁殖牝馬にいくらでも種付けすることができ、有利である」と言われることが多かった。実際に、この当時大活躍した種牡馬御三家の*サンデーサイレンスと*ブライアンズタイムと*トニービンはNorthern Dancerの血を持っていない。
ナリタブライアンはNorthern Dancerの血が濃いので、繁殖牝馬の選択肢の幅が狭くて苦しい立場だった。たとえば、この当時の日本には*ノーザンテーストを父に持つ優秀な繁殖牝馬が多かったのだが、そういう繁殖牝馬にナリタブライアンを付けると、Northern Dancerの3×3のクロスになり、かなりのインブリード(近親交配)になり、体質の弱い馬が生まれる可能性が強まってしまう。スカーレットブーケという*ノーザンテースト産駒の牝馬と交配してソフィーズローズという馬を作ったが[127]、やっぱりNorthern Dancerの3×3クロスであり、3戦未勝利に終わった。
「世界的に見ても、母父Northern Dancerの種牡馬で活躍したのは*サザンヘイローぐらいである」とよく言われる。
ナリタブライアンが急逝した後、次第に日本の生産界で「*サンデーサイレンス産駒の繁殖牝馬にぴったりの種牡馬を探せ」という気運が盛り上がることになった。エルコンドルパサー、クロフネ、ジャングルポケット、*エンドスウィープ、*ウォーエンブレム、キングカメハメハといったあたりが有力候補とされていた。もうすこし長生きすればナリタブライアンもこの中に入ったかもしれない。しかし、ナリタブライアンが*サンデーサイレンス産駒の繁殖牝馬と交配すると、今度はHail to Reason(ヘイルトゥリーズン)の4×4のクロスになる。4×4のクロスならそこまで濃いインブリードではないが、やはり気になるところである。
ナリタブライアンは先述の通り周囲の変化に気を使いすぎてしまうところがある。しかし三冠街道をひた走るうちにマスコミの取材熱が過熱し、カメラマンが殺到するようになった。このため大久保正陽調教師は、皐月賞と菊花賞と1994年有馬記念の前に、自らの名でJRAを通じてマスコミに対して書面で「厩舎内での取材を控えていただきたい」と通達を出した。調教師がJRAを通じて書面で取材拒否をするというのは前代未聞のことであった。大久保調教師によると、厩舎内に勝手に忍び込んでナリタブライアンの馬房に入ったりブライアンの写真を撮るものもいたらしい[128]。
ナリタブライアンはスターホースなので、馬房への侵入者が後を絶たなかった。このため大久保調教師は2台のモニターを厩舎内に設置し、侵入者を監視することにした。それに対し厩務員の労働組合から「厩務員の仕事ぶりを監視するためだ。厩務員に対して行き過ぎた圧力を掛けることにつながり望ましくない」と追求されたが、頑として外さなかった[129]。
調教師というと「ラッパを吹く調教師(ウチの馬が勝つ、とベラベラ喋る)」と「寡黙な調教師」の2種類がある。前者の典型例はサクラローレルなどを管理した境勝太郎調教師である。大久保正陽調教師は後者で、レースを勝っても淡々とするタイプであった[130]。
この当時の競馬界は「現役の競走馬からタテガミをとるのはゲンが悪い」として忌避する傾向にあったのだが、その言い伝えに反してナリタブライアンは1995年2月になってテレビのオークション番組へタテガミを提供してしまった。フジテレビ系の「とんねるずのハンマープライス」という番組で、杉本清が出演していた番組である[131]。44万円で落札されて、番組が得た収益は全額が阪神・淡路大震災の震災復興支援資金として日本赤十字社に寄付された。しかしこの2ヶ月後にナリタブライアンの右股関節炎が発生した。大久保正陽調教師は「こんなこと今更いっても仕方がないが、ナリタブライアンが走らんようになったのは、タテガミを取られてからなんや・・・・・・」と寂しそうに漏らしていたという[132]。
ナリタブライアンが快勝したGIというと朝日杯3歳ステークス、皐月賞、ダービー、菊花賞、有馬記念の5つであるが、皐月賞以外の4つは曇り空や雨空で日光が降り注がず、芝に黒い影も映らないような状況だったので、ナリタブライアンの黒鹿毛の馬体がより真っ黒に見えた。一方で、柔らかな日光に照らされた皐月賞では日光の影響を受けて馬体が白く光っており、馬体がやや控えめな黒色に見えていた。
ナリタブライアンが好調だった1993年(平成5年)や1994年(平成6年)は比較的に世相が明るい時代だった。1989年12月に最高値を付けた日経平均株価が1990年1月から暴落して(記事)、そのついでに1991年から地価が暴落してバブル経済が崩壊し、それによって各企業の業績も悪化して、1993年から就職難が始まった(記事
)。とはいえ、まだ世相自体は明るいところが多かったのである。時事通信のまとめ記事を見ても深刻なニュースが少ない(1993年記事
、1994年記事
)。1994年は794年から1200年で平安遷都1200年に当たり、京都で様々な催しが行われていた。そんな時に関西所属のナリタブライアンが京都競馬場で三冠を達成したので祝賀ムードに花を添えた。
ナリタブライアンが調子を崩した1995年(平成7年)は非常に世相が暗い年だった。1月17日に阪神淡路大震災が発生して高速道路がポッキリ折れて安全神話が崩壊し(画像)、3月20日に地下鉄サリン事件が発生して治安神話が崩壊した。バブル経済崩壊の余波による不景気と就職難が続くだけならまだマシだが、1995年になると金融機関の破綻が続き、日本経済がにっちもさっちもいかない状況になっていることがあらわになった。コスモ信用組合と木津信用組合が7月~8月に経営破綻し、兵庫銀行が8月に銀行として戦後初めての経営破綻をし、さらに住専問題までが発生して、住専という住宅専門の貸金業者の8社中7社が経営に行き詰まった。1970年代や1980年代という昭和時代を生きてきた人たちが「私たちの時代も不景気があったが、銀行が倒れるほどの不景気なんて起こらなかった」というほどで、「政治も経済も何もかもダメ」という雰囲気が広がっていた。時事通信のまとめ記事を見ても暗くて深刻な記事が多い(1995年記事
)。そんな中で、スーパーホースのはずのナリタブライアンも不調に陥っていて、まさに世相を反映していた。
ナリタタイシンとナリタブライアンは、前者が1993年クラシック世代で後者が1994年クラシック世代であるが、多くの共通点を持っている。早田光一郎が海外から輸入した種牡馬を父に持つ、父が早田牧場系列のCBスタッドに所属している、ナリタの冠名で山路秀則オーナーの所有馬、大久保正陽厩舎所属、武豊を鞍上にしたことがある、レースレコードを更新した皐月賞馬、3歳時は秋の福島に遠征するという異例の行動をとった、などが共通している。しかし血統の面においてはRibot~Graustarkの血が入っているところが共通点になっているぐらいで、あまり似ていない。
1994年の菊花賞において稍重の馬場で3分5秒7というタイムで走ってナリタブライアンに次ぐ2着に入り、なかなかの能力を示したヤシマソブリンだが、それ以降の競走はオープンを2勝するのみにとどまり、重賞は最高でも2着で、パッとしなかった。ナリタブライアンの走りに精神を打ち砕かれたのかもしれない。というのも、必死に走ったのにぶっちぎられるレースを経験してしまうと馬が闘争心を失ってしまうことがあるからである[133]。
ナリタブライアンは調教でメンコ[134]を付けることがあった。色は黄色(この動画の3分25秒あたり)、紫色(この動画
の31分10秒あたり)、黒色(この動画
の24分00秒あたり)といったところだった。
この当時は調教とレースの両方を「兼用鉄」という蹄鉄(ていてつ 馬にとっての靴)で走ることが一般的だった。しかしブライアンは万全の上にも万全を期すため、調教の時は「平常鉄」を履き、レースになると「勝負鉄」と呼ばれるレース専用の蹄鉄を履いていた[135]。
パドックでは村田光雄と大久保雅念という2人の持ち乗り調教助手が2人引き[136]をすることが恒例だった(この動画の1分53秒あたり、3分56秒あたり、8分05秒あたり)。
1993年5月以前の南井克巳は大久保正陽厩舎に滅多に行かない騎手の1人だった。大久保調教師が南井克巳に「ブライアンに乗らないか」と声を掛けてから、やっと縁が始まった[137]。
ビッグレッドファーム代表でマイネル軍団総帥の岡田繁幸は函館3歳ステークスでナリタブライアンを初めて見たが、一目見ただけで「この馬は違う。3歳でここまで完成された馬はめったにお目にかかれない。早田光一郎さんは凄い馬を出してきた」と思い、息子に「来年のダービー馬は決まった」と語りかけたという[138]。
ナリタブライアンの父ブライアンズタイムと母パシフィカスを輸入してナリタブライアンを生産した早田牧場は、ナリタブライアンの活躍のころに絶頂期を迎え、社台グループに次ぐ大規模牧場として名を馳せた。しかし、種牡馬や繁殖牝馬や不動産の購入などで負債が膨らみ、それに加えて社台グループが購入したサンデーサイレンスが種牡馬として大当たりしたことで早田牧場の生産場の売れ行きも伸び悩み、経営が圧迫されることになった。2002年11月25日になって、約58億円の負債を抱えた早田牧場は札幌地方裁判所から破産宣告を受けて倒産した。
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牝馬三冠 | 達成馬無し | |
変則三冠 | クリフジ(1943年) | |
中央競馬牝馬三冠 | メジロラモーヌ(1986年) | スティルインラブ(2003年) | アパパネ(2010年) | ジェンティルドンナ(2012年) | アーモンドアイ(2018年) | デアリングタクト(2020年) |
|
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掲示板
219 ななしのよっしん
2024/11/08(金) 16:35:31 ID: 0xQkOaMGWI
Wikipediaでもここまでせんわってレベルの脚注に引いた
文自体はいいんだけど
220 ななしのよっしん
2025/01/31(金) 20:01:02 ID: JEPh06Tmoq
20世紀の名馬で1位だからというので戦績を調べたら、古馬になってG2を2勝だけだったんで、何か意外な感じがした。
221 ななしのよっしん
2025/02/13(木) 00:49:47 ID: s28CoH5j77
もう古い馬だし負けて終わったから仕方ないところもあるけど
戦績を見比べただけであろう人にガッカリとか意外とか言われると
1600の朝日杯から皐月、ダービー、菊まで全部レコードかそれに近い時計で圧勝して
有馬まで獲っていった唯一無二の存在、並ぶもののない馬なんだぞと言いたくなる
急上昇ワード改
最終更新:2025/02/20(木) 03:00
最終更新:2025/02/20(木) 03:00
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