皇帝(こうてい)とは、国家の統治者もしくは象徴的人物が帯びる称号の一つ。英語ではエンペラー(emperor, 女性形:empress)と訳される。2015年現在、国際的に承認された国家の元首格で emperor を名乗っているのは日本の天皇だけである。
原義では、皇帝とは秦の始皇帝を最初とし、清朝の終焉までの中華文明の統一政権の最高権力者が帯びた称号である。現在の日本語では、英語でエンペラー(emperor, 女性形:empress)と呼称される称号を皇帝と見なすことが多い。地域によって皇帝の出自・実権・制度は大きく異なるが、一般に、王(king)や女王(queen)の上位に位置し、複数の民族・文化・地域を統制する。また、帝国の定める国教に対して何らかの特権がある場合も多い(ただし、神聖ローマ皇帝のように、逆に宗教上の最高権力者から地位を与えられた場合もある)。
日本の天皇は一時期まで王侯扱いだったが、日英同盟の際にムガル帝国の皇帝位を得ていた英国が対等な立場での同盟国としてお互いを皇帝としたため、そのときの扱いが今も生きている。……という話があるらしいが、それ以前から日本は天皇を皇帝や emperor と訳した外交文書をバラ撒いているので、単にそれを踏襲しただけだろう。そもそも当時の英国ではイングランド王位(King)の方がインド皇帝位(emperor)より格上として扱われていたしね。
俗語的には、独裁的・高圧的な指導者や、極めて優秀なスポーツ選手なども皇帝と呼ばれることがある。
皇帝は秦の秦王『政』(始皇帝)が中原を統一した際、王を越えた存在として中国神話上の3人の神君と5人の聖君、すなわち三皇五帝からとった名称である。「皇」よりも「帝」よりも上であるとして「皇帝」とした。その後、清朝最後の皇帝である宣統帝(愛新覚羅溥儀)まで受け継がれた。
ちなみにアジア圏、特に中華文明の影響圏では、王は『中華皇帝より授かった王位』扱いだった。というか中華思想では「全ての国は中華の属国」である。そんなわけで日本は、「中華帝国と対等の立場であるもうひとつの国」を作るために天皇を捻出したのだった。
そんなわけで足利義満が「日本国王」を名乗ったときは「テメー日本を勝手に中華の属国にするんじゃねーぞ!!」とあちこちから文句を言われたのだとか。
ローマ皇帝は、紀元前27年にローマ共和政末期の混乱を制したオクタウィアヌス(Octavianus, オクターウィアーヌス)によって確立された地位であり、1453年に当時の帝都コンスタンティノープルがオスマン帝国の攻撃によって陥落するまで存続した。また、ローマ皇帝は中世において西ヨーロッパの支配権を失ったため、西欧ではカトリックの教皇によって神聖ローマ皇帝という称号が独自に立てられ、そちらは1806年まで存続した。
帝政ローマはオクタウィアヌスが終身最高軍司令官となったことが始まりであり、その司令官の称号インペラートル(Imperator, 「命令権(imperium, インペリウム)を持つ者」)がエンペラーの語源である。またドイツ語のカイザー(Kaiser)やロシア語のツァーリ(царь, tsar')は亡き養父から受け継いだ彼の家族名であり後に皇帝称号化したカエサル(Caesar)から。つまり、帝政初期には「皇帝」を意味する単独の称号は存在しなかった。
実態は帝政であったといえオクタウィアヌスは、例外的な終身独裁官(Dictator Perpetuo, ディクタートル・ペルペトゥオー)に強引に就任して性急な独裁制移行を進め、あげくに反対派に抹殺された養父カエサルと同じ轍は踏まなかった。彼による初期の帝政である元首政(Principatus, プリーンキパートゥス)は建前上は既存の共和政のシステムを重んじ、これまでの枠組みの中にあった以下のような複数の肩書き・権利を「たまたま相応しい資質と実績を備えた同一の人物が兼任する」ことによって合法的に多大な権限を一手に掌握したものである。
概説すると、1 で百戦錬磨のローマ軍の威容をチラつかせながら 4, 5 でローマ帝国全土における行政・軍事に容喙し、さらにあらゆる階級の市民に対しても 2, 3, 6 で強い政治的影響力を持ちつつ身の安全も保障される。
このような茶番が通ったのは、彼らカエサル派がカエサル暗殺後の内乱をうまく制して逆に反カエサル派を完全に封殺し、元老院をはじめとした全てのローマ市民がその一部始終を目の当たりにしていたから。もちろん英雄カエサルの遺産たるユーリウス家の地位と名誉と権威があっての話であるが・・・・・・。
さて、この「類稀な『尊厳・威厳』ゆえに神に選ばれ数多の職掌を担うことになった者」に与えられるのが「尊厳者/威厳者」(Augustus, アウグストゥス)の称号であり、これがローマ皇帝の実質的な称号として定着していく。
元首政は建前とはいえ既存の共和政の枠組みを維持したものであったから、ひとたび強権を発動して市民の信頼を損なえば後のカリグラ帝やネロ帝のような暗君はカエサルよろしくあっさりと死に追いやられることもあり、たとえ危機的な状況であっても(いやだからこそ)市民にへつらうあまり農民や属州民を無視した施策になったり(苛烈な重税や理不尽な収奪のため地方では反乱が頻発し、脱走した自由農民は大土地所有者の下で小作農化した)、近視眼的な泥縄式施策に陥る可能性があった(ローマ市民権のタダ売りにより軍事力の大暴落を招いた、カラカラ帝のアントニヌス勅令など)。更に言えば、これだけの強権を占有しているポストにも関わらず、後継者を決めるための明確な基準を持たないため、それが継承権を巡る属州軍閥による内乱(軍人皇帝時代など)を引き起こす原因となったりと、パークス・ローマーナ(Pax Romana)と呼ばれる稀に見る安定期でもない限りは、決して盤石な体制とはいえない。
そこで284年、最後の軍人皇帝であるディオクレティアヌス(Diocletianus, ディオクレーティアーヌス)帝はオリエント風の強権と兵力で以て綱紀粛正を図る専制君主制(Dominatus, ドミナートゥス)に移行する。相次ぐ内乱による混迷の中でもはや元首政は機能不全に陥っていたため、こうした強硬手段が可能だった。まあこれこそが我々が「帝国」と聞いてまずイメージする帝国に近い姿だろう。しかし、その威光もそう長くは続かない。
ローマ帝国は絶対的皇帝権力を以ってしても統治するには広大すぎる版図を統治、維持するために293年にディオクレティアヌス帝によって共同皇帝による四分統治(帝国の版図を東西に二分し、それぞれに正帝と副帝を立てる四頭体制)が始められ、キリスト教を公認したコンスタンティヌス(Constantinus, コーンスタンティーヌス)帝によって330年にはローマからコンスタンティノープルへと遷都することとなる。そしてキリスト教を国教に定めたテオドシウス(Theodosius)帝は最晩年の394年に東西ローマを再統一、395年に改めて2人の息子に東西ローマを分割相続して息を引き取るが、これはそれまで行われてきた継承権争いを防ぐための一時的な分割統治とそう変わりは無く、まさかこのまま東ローマと西ローマが永遠に分裂したまま戻らなくなるとは、当事者を含めて誰も想像していなかった。その後、476年に、ゲルマン人傭兵隊長オドアケル(Odoacer)によって西ローマ帝国は滅ぼされ、オドアケルは西ローマ皇帝位を東ローマ皇帝に返上することで、イタリア王として即位した(後に東ローマ帝国の内政に干渉し、逆に討伐軍を送られて降服、しかし暗殺される)。
したがって、形式上は、この時点でコンスタンティノープルを首都とする東方の国が東西を統合する唯一正統のローマ帝国となった。だがそもそも東ローマとしてもゲルマン諸民族の侵入が無ければ西ローマとの統合を果たしていただろうし、実際に西ローマ滅亡後もかつての西ローマ領を奪還・再興しようとしたが、これもやはりゲルマン諸民族により果たせなかった。その上、フランク王国のカール大帝が「ローマ皇帝」として戴冠した途端に、東ローマ帝国は西ヨーロッパへの実効権力を急速に失っていき、東西で領土を取りつ取られつを繰り返しながらも徐々に蚕食され、ついには地方政権化した。このため、これ以降の東方のローマ帝国は単に「東ローマ帝国」あるいは「ビザンツ帝国」と呼ばれることが多い。東ローマ帝国はその後も1453年5月29日のオスマン帝国のスルタン(皇帝)メフメト2世によるコンスタンティノープル陥落まで存続した。
さて、ギリシア語圏であった東ローマで皇帝は「(ストラティゴス・)アウトクラトール(アフトクラトル)*」((Στρατηγός) Αὐτοκράτωρ, (Stratigos) Avtocrator, 「(将軍たる)全権者」(インペラートルに相当))や「(カイサル・)セバストス」((Καῖσαρ) Σεβαστός, (Kaisar) Sebastos, 「(カエサルたる)尊厳者」(アウグストゥスに相当))などの称号を冠して呼ばれていたものの、俗には広く「バシレウス(バシレフス)*」(Βασιλεύς, Basilevs, 「王」)と呼ばれていた。が、基本的にバシレウスは東ローマ皇帝と対等なペルシア皇帝などを指す称号だった。ちなみに西ローマ皇帝のことはリフス*(Ῥῆξ, rikhs, ラテン語レークス rex 「王」より)と呼んだ。
時代が下ると、6世紀末には公式の書簡で東ローマ皇帝の自称としてもバシレウスが使われるようになり、ついに629年にヘラクレイオス(Ἡράκλειος, Irakrios, イラクリオス*)帝が「忠実なる信徒にしてキリストに依りて即位せしバシレウス」(πιστός ἐν Χριστῷ βασιλεύς, Pistos en Khristo Basileus)を名乗ってからは「バシレウス」が皇帝の公式の称号として定着していく。キリスト教が国教となって以降はコンスタンティノープル総主教に宗教上の最高権力を譲ったが、皇帝は依然として宗教に対しても相当に巨大な実権を持っていた(皇帝教皇主義)。とはいえ実質的に地方領主化してしまった皇帝がかつて「王」に相当する呼称を名乗るようになった、というのはなんだか皮肉な話ではある。(* は当時のギリシア語(コイネー)の発音)
なお、セバストスは皇帝の兄弟やその息子に、カイサルは位の高い東方諸国の支配者に送られる称号となった。後にモスクワ大公国の支配者が東ローマ皇帝の正統な後継者を自認してロシア帝国を興し、カエサル由来のツァーリ(王、後に皇帝)を自称したのはこうした経緯によるものである(更にいえば、ビザンツからカエサルと呼ばれたタタールのハーンによって支配されていた領土を奪い返してその権威を継承したという意味もある、とする研究者もいる)。ロシア帝国はロシア革命によって皇帝が廃位される1917年までローマ帝国の後継者としての皇帝を戴く形となった。
一方、西ヨーロッパでは、しばらく皇帝という役職は存在しないままとなるもの、800年のクリスマスにフランクの王カール1世(大帝)に教皇レオ三世は「Imperator et Augustus」、すなわちローマ帝国皇帝の称号とを戴冠させ、ローマ帝国は再び復活した。これは教皇と言う権威が皇帝という権力を与えるという形となり、東ローマ帝国が『皇帝教皇主義』として“皇帝という一つの頂点をもつ”円形の権威、権力の関係を持っていたのとは違い、『皇帝教皇主義』として二つの楕円形、すなわち二つの頂点を持つ支配機構となった。この後の皇帝は基本的には「教皇が王に戴冠させる称号」としての存在となり、教皇が宗教上のトップであり、皇帝は世俗のトップという形となっている。
まあこちらのローマ帝国もフランクの相続制度が分割相続であったため長く続くことなく息子たちの代で東中西3つの王国に分裂するが、962年に東フランク王オットー1世が再び帝位を授けられ、神聖ローマ帝国と言う形でローマ帝国は復活する。
が、ゲルマンの独立的気風を堅持するが故に中央集権化の進まない神聖ローマ帝国は次第に名前だけの集合体、つまり自己主張の強い大小300以上の領邦と多様な民族が互いに犇めき合うサラダボウルと化し、皇帝にしても一握りの有力な選帝侯たちの選挙によって選ばれる非世襲の一地方領主に過ぎなくなった。曰く、「神聖ローマ帝国とは亡霊である。姿かたちは見えないのに、確かに存在する」とのことで、これではまるでトトロである。
啓蒙思想家ヴォルテールに至っては「神聖でもなければローマでもなく帝国ですらない」とバッサリ全否定であり、さすがにちょっと気の毒になってくる。
そして時代は流れ1804年12月、フランス革命のなかで台頭したナポレオンは皇帝(Empereur, アンプルール)となる。ナポレオンはローマに行くのではなく、ローマ教皇をパリまで呼びつけ、教皇の手ではなく自らの手で頭に帝冠をかぶせたという。ちなみに、この皇帝と言う称号自体、教皇から与えられると言う形をとっているため、広く見れば「ローマ皇帝」ということである。その後ナポレオンは「二人皇帝がいるのはおかしいだろう」と至極もっとも(だが実にはた迷惑なことを言って神聖ローマ帝国を解体してしまう。
さらに対イギリス貿易を独占すべく各国に「大陸封鎖令」を発布すると、先進工業国イギリスとの貿易で大きな利益を上げていた同盟諸国は不満を募らせ、さらに封鎖令に非協力的な諸国を征伐するためにフランスは余計な戦争をしなくてはならなくなった。そうしたわけで「東ローマ皇帝の後継者」ロシア皇帝を征伐するためにロシア帝国に攻め込んだものの、結局は冬将軍のためにフランス大陸軍は9割を越える大量の歴戦の将兵を失い、ナポレオンは皇帝の座から転落していくこととなった。
すなわち、ローマ帝国皇帝とは広く見れば1917年のロシア革命によってロシア帝国が打ち倒されるまでの期間存続していた、と言うことなのだが、・・・・・・神聖ローマの表現のように、全く持ってその実態がつかめない、まさに亡霊のような存在として西洋の歴史の上に存在しているものであった。
例えばナチス・ドイツは神聖ローマ帝国、ドイツ帝国(プロイセン王を皇帝に推戴した帝国。3代50年弱で消滅)を継承したドイツ人帝国として「第三帝国」を標榜(ただし原語Driittes Reichの「ライヒ」自体は帝国を意味するとは限らない)し、第二次世界大戦で欧州中に多大な災厄を振り撒いた(更にナポレオンと同じ轍を幾つも踏んだ)。
一方、現在の欧州連合(EU)の思想的背景である汎欧州主義の根底にも、古代ローマ帝国の存在が大きく横たわっている。亡霊が安らかに招天される機会はまだまだ先のようだ。
ただし漢字圏で皇帝だからといって英語圏でも Emperor だとは限らないし、逆に英語圏で Emperor だからといって漢字圏で皇帝としているとは限らない。元々は英語でも日本語でもないものを勝手に訳しているだけだから仕方がないね。
急上昇ワード改
最終更新:2024/05/03(金) 14:00
最終更新:2024/05/03(金) 14:00
ウォッチリストに追加しました!
すでにウォッチリストに
入っています。
追加に失敗しました。
ほめた!
ほめるを取消しました。
ほめるに失敗しました。
ほめるの取消しに失敗しました。