伊47とは、大日本帝國海軍が運用した伊16型(巡潜丙型)潜水艦7番艦である。1944年7月10日竣工。回天母艦として最多の出撃数を誇り、補給艦ミシシネワ(1万236トン)を回天攻撃で撃沈した。終戦まで生き残った後、アメリカ軍に接収される。1946年4月1日、ローズエンド作戦により海没処分。
概要
『死なず』の回天母艦
伊15型潜水艦にも同名の艦が存在するが、こちらは伊36に改名。伊47と言えば巡潜丙型の方を指す。
マル三計画で伊16、伊18、伊20、伊22、伊24の5隻が建造され、マル急計画で伊46、伊47、伊48が追加建造された。このため資料によっては伊46型と表記している場合があるが、設計上の変更は無い。巡潜丙型は長大な航続距離はそのままに、乙型から航空兵装と艦載機を無くしたもので帝國海軍における潜水艦の完成形の一つ。ネームシップの伊16以下、全部で8隻が建造された。その中でも伊47は後期型に相当し、伊46型と呼称される場合もある。前期型である伊16型との違いは内殻板がDS鋼から軟鋼に変更している点と、板厚を10%増加させている点である。
後期型の伊47が就役した頃には既に戦況は悪化の一途を辿っており、巡潜丙型に「回天母艦」という想定外の役割を押し付けるのだった。非常に過酷な最前線に投入され、1945年1月23日に伊48を喪失した事で巡潜丙型は伊47を残して全滅。唯一の生き残りとなった伊47もまた回天母艦となり、出撃のたびに奇跡の生還を果たした。その艦名から「死なず」と呼ばれ、回天母艦の中では伊36潜と並んで最多の出撃数となった。終戦まで生き残った伊47はアメリカ軍に接収されて撃沈処分された。
要目は全長109.3m、全幅9.1m、乗員95名、排水量2554トン、水上速力23.6ノット、水中速力8ノット、航続距離2万5928km。武装は14cm単装砲1基、25mm連装機銃2丁、艦首53cm魚雷発射管8門、九五式魚雷20本。
戦歴
建造から竣工まで
1941年度戦時建造計画にて、丙型潜水艦第377号艦として建造が決定。1942年11月21日、佐世保工廠で姉妹艦伊46とともに起工。1943年7月31日に伊47と命名され、9月29日に進水。1944年7月10日に竣工し、横須賀鎮守府へと編入。艦長には潜水艦のエース折田善次少佐が着任した。訓練部隊である第6艦隊第11潜水隊に所属し、9月まで伊予灘で慣熟訓練を行った。
竣工した時には既にサイパン島が陥落し、戦況は逼迫していた。このため伊47に通常の任務は与えられず、代わりに特攻兵器回天を発射する母艦の役割が課せられた。矢尽き刀折れた帝國海軍が取れる最後の手段は、空と海からの特攻だった。
1944年10月8日、訓練を終えて第15潜水隊に転属。10月17日にアメリカ軍がレイテ湾に襲来した事で捷一号作戦が発令され、内地所在の大型潜水艦は殆ど出撃。竣工したばかりの伊47は出撃から外されたが、代わりに第一次玄作戦への投入が決定。同じく内地に残っていた伊36や伊37とともに菊水隊を結成し、第15潜水隊司令の揚田清猪大佐が指揮官に着任。第一次玄作戦はアメリカ軍の前進拠点となっているウルシー環礁とコッソル水道を回天で攻撃するもので、最初に横須賀海軍工廠で回天4基を搭載するための工事が行われた。続いて呉工廠に回航、追加の工事を受けた。10月29日から31日にかけて、徳山湾で3隻合同訓練を実施。
そして11月6日、大津島に回航して4基の回天と搭乗員を乗せた。翌7日、出陣式が執り行われ、連合艦隊司令豊田副武大将が参列。回天搭乗員に短刀と鉢巻が贈られた。11月8日午前9時に大津島を出撃。伊36を先頭に伊37と伊47が続く。低速で水道を通過中、在泊艦艇の乗組員が上甲板の舷側に整列。万歳を叫んだり、帽振れをして見送ってくれた。外洋に出た後、四国佐田岬沖で伊37はパラオ方面に向かって分離。伊36と伊47はウルシー環礁を目指して真っ直ぐに南下した。回天攻撃を終えた後はレイテ湾方面に向かい、通常魚雷による敵艦攻撃に従事する予定だったという。
敵の哨戒圏に入るまでは水上を20ノットで航行。哨戒圏に入った後は潜航、夜間のみ浮上して充電した。呉鎮守府の潜水艦部隊と緊密に連絡を取り、連携。11月17日、東京を中継して新たな情報がもたらされた。彩雲の事前偵察によると戦艦を含む艦艇約30隻、中央錨地に少なくとも100隻以上の船団、南側に戦艦と空母を含む機動部隊が確認されていた。
11月18日夕刻、ウルシーの西方93kmで浮上。回天の最終チェックを行った。4基とも異常なし。環礁の南西よりゆっくりと接近を始めた。
菊水隊、ウルシーを揺るがす爆炎の柱
1944年11月19日黎明、環礁から僅か8.3kmの地点で浮上して12ノットで移動。恐るべき胆力で敵の警戒網を突破していく。正午、伊47はウルシーの南水道2km足らずの所まで接近。泊地内には200隻以上の艦船が停泊しているのが見えた。翌20日午前0時、回天の搭乗員は最後の準備に取り掛かった。辞世の句と遺書をしたため、折田艦長に手渡された。鉢巻を締め、自分達の回天に乗り込む。伊47は潜航し、ゆっくりと環礁入り口へと距離を詰める。巧みな操艦によって対潜網を突破していき、午前0時30分に浮上。午前3時、ついに発射地点へと到達。午前3時28分から5分感覚で回天4基を発射。ただちに浮上して南東へと退避する伊47。午前4時16分と22分に艦尾方向から橙色の巨大な炎が巻き起こった。2回爆発があった事から「空母2隻、戦艦2隻撃沈」と推定した。
アメリカ側の資料によると、回天1基が補給艦ミシシネワ(1万236トン)に命中。ミシシネワは航空燃料、ディーゼル燃料、重油を満載しており、それぞれ戦闘機2000機分、護衛駆逐艦4隻分、駆逐艦15隻分に相当。被雷の際に、それらに引火して大爆発。何度も爆発を起こし、猛火に巻かれながら午前9時28分に転覆して沈没した。これが回天による初戦果だった。撃沈できたのはミシシネワだけだったが、米将兵に絶大な恐怖を与えた。シャーマン提督は「ダイナマイトの上に座っているかのような恐怖を感じた。休養を楽しむどころか、洋上の方がよっぽど安全だとさえ考えさせられた」と述懐した。
朱色の炎を視認した乗組員は「万歳!」と叫んだ。間もなく1隻の駆逐艦が出現したため、伊47は潜航を強いられた。しかし爆雷攻撃が無かったので、日の出後に一旦浮上してみると敵の駆逐艦は水道を通って泊地へ帰っていくところだった。午前6時、任務に殉じて散っていった4名の搭乗員を悼み、全乗組員が1分間の黙祷を捧げた。それが済むと潜航し、レイテ方面に向かった。敵の哨戒圏を抜けた後は水上航行に移り、20ノットに速力を上げた。11月22日、伊47は戦果を第6艦隊司令部に報告。しかし11月24日にレイテ方面での作戦を中止する命令が届いたため、日本本土に舳先を向ける。11月30日、伊36と呉に帰投。しかし伊37は未帰還となってしまった。
ミシシネワ爆沈はアメリカ軍に大きな衝撃を与え、以降は厳重な対潜警戒を行うようになる。
金剛隊
攻撃の3日後にトラック島から彩雲が飛来し、ウルシー泊地を空撮。攻撃前の写真と比べた結果、菊水隊の戦果は空母2隻と戦艦3隻とされた(しかし実際の戦果はミシシネワ1隻のみであり、爆発の規模から戦果を誤認した)。今回の戦果に満足した第6艦隊は、規模を大きくした第二次玄作戦を企図。攻撃目標をカロリン諸島、マリアナ諸島、ブラウン島、アドミラルティー諸島、ホーランジアに定め、12月8日に伊56、伊36、伊58、伊48とともに金剛隊を結成。12月19日、伊47はホーランジアとアドミラルティー(第二予定)の攻撃を命じられた。
12月23日、呉を出撃。新たに4基の回天を搭載して第二次玄作戦に参加する。その道中で思わぬ者と遭遇する事になった。12月30日黎明、ヤップ島北西で哨戒に当たっていた見張り員がイカダのようなものを発見。どうやら人が乗っているらしい。伊47はこれを「撃墜されたB-29の乗員」と判断。英語が堪能な先任将校大堀正大尉を派遣し、救助を試みた。すると相手は日本兵だと判明。乗っていたのはグアム島の守備についていた海軍陸戦隊の伊藤少尉ら以下7名であった。彼らは、アメリカ軍に占領されたグアムから手製のイカダで脱出。32日間も漂流していたのだ。回天と搭乗員を乗せている伊47にスペースは無く、しかも攻撃に向かう途中だったので最初は食糧と水を与え、一番近いフィリピンの方角を教えて突き放す予定だった。しかし回天搭乗員の痛切な説得を受け、収容を決意。8名の生存者は引き揚げられた。
1945年1月8日、陸軍の偵察機がホーランジア港を偵察。「大中輸送艦40隻が港内、10隻が港口に停泊。大型の軍艦は在泊していない」との情報を第6艦隊に送信し、伊47にも転送された。1月11日午前0時、目標海域に到達し、ホーランジアを偵察。水上航行で隠密に移動した。敵の対潜哨戒に悩まされながらも突破に成功。午前10時30分に潜望鏡でソエアジャ岬を視認。哨戒艇複数を認めたため、港内の偵察は出来ず一旦北方へ退避した。日没後、海岸から30海里離れた場所で浮上。バッテリーの充電を行いつつ発射地点に移動する。途中、入港するアメリカの病院船が近づいてきたため急速潜航でやり過ごした。23時30分、針路を南に向けてフンボルト湾に近づく。
翌12日午前3時16分、フンボルト湾内の艦船に対して回天4基を発射。射出後に急速浮上し、退避を開始した。退避中の午前4時55分に大火災を視認した。ところが何を撃沈したのかは未確認で、はっきりとした戦果はない。午前5時8分、フンボルト基地が潜水艦警報を意味する「S」を連送。敵駆逐艦がすっ飛んできたため、伊47は急速潜航。振り切るまで24時間もの時間を要した。2月1日、呉に帰投。金剛隊の戦果は計18隻とされたが、該当する船は無かった。
3月16日、回天の訓練中に二酸化炭素中毒で搭乗員1名が死亡する事故が起きた。3月20日、伊36、伊44、伊53、伊56、伊58と合同訓練。
多々良隊
戦争も末期戦に入った1945年3月27日、伊44、伊56、伊58、伊47で多々良隊を結成。その旗艦に伊47が選ばれ、沖縄東方への出撃を命じられた。少しでも攻撃力を増すため、12cm甲板砲を撤去。各艦の回天数は6基に増やされた。翌28日午前、2ヶ月分の食糧と20本の通常魚雷を積載して呉を出港。大軍艦旗と「非理法権天」「南無八幡大菩薩」の長い旗を掲げて、工廠の人々から盛大に見送られた。夕刻に光基地へ到着し、6基の回天を搭載する工事が徹夜で行われた。3月29日午前に潜航試験を行い、異常が無い事を確かめる。その後、搭乗員6名が乗艦。長井満少将による短刀授与式を挙行した。夜に光基地を出撃、海防艦の伴走を受けながら豊後水道を20ノットで南下。敵潜水艦を警戒して之字運動を行った。16時頃、宮崎県南部の青島沖に差し掛かった頃、前方に数十機の小型機が接近してきた。最初は味方機かと思われたが、実は敵機だった。伴走していた海防艦が対空射撃を始めたので、伊47は慌てて急速潜航したが、約30発の爆弾が至近弾となって炸裂。辛くも伊47は助かったが、海防艦は瞬時に沈められた。
宵闇が迫った頃に浮上し、満月の月明かりを利用して20ノットで走った。途中、再び敵機に発見されて赤と青の照明弾が飛んできたので海中に没して身を潜めた。3月30日、種子島東方沖で2隻の敵駆潜艇が現れ、爆雷投射を受ける。伊47は急速潜航したが、この時に操作ミスで深度100mまで沈降してしまった。伊47の安全深度は60mなので、水圧で圧殺される危険性が十分あった。乗員の必死の操作により何とか60mまで浮上し、艦を水平に戻した。やがて海面から爆雷が降ってきた。伊47は必死に回避運動を行い、停止と前進を繰り返して爆雷を避ける。約30発の爆雷が投下され、至近弾こそあれど直撃は無かった。だが潜望鏡と燃料タンクの1つに漏洩が確認された。11時間後、敵駆潜艇は爆雷を使い切り、去っていった。ぼろぼろになった伊47は、種子島の南7海里沖で浮上。しかし一難去ってまた一難、今度は敵哨戒機がすっ飛んできて、急速潜航。20発の爆雷が落とされ、かなり正確な至近弾によって艦内の電灯が消滅。敵哨戒機の襲撃は切り抜けたが、タンクから燃料が漏洩し、極めて発見されやすい危険な状態となっていた。
3月31日、日の出前に内之浦湾へ入って損傷の調査を行う。対電探塗料があちこちで剥がれ、バラストタンク上の船体に損傷が見られた。艦橋には不発の対潜弾が転がっており、もし起爆していれば命は無かったであろう。折田艦長は損傷の具合を第6艦隊へ報告し、作戦中止命令を受領。鹿児島の志布志湾に引き返した。ちなみに多々良隊の戦果は皆無で、4隻中2隻が帰らなかった。4月1日、光基地に到着。回天と搭乗員を降ろし、翌日呉に回航。4月15日まで入渠修理を受けた。修理ついでに13号対空電探を新たに装備。
天武隊
呉で伊36と天武隊を結成。回天母艦となりえる潜水艦もすっかり数を減らし、今や2隻編成になってしまった。航行襲撃の錬度上昇により今回から回天の洋上使用が許可され、沖縄・マリアナ間を通る敵艦船を攻撃目標とした。
4月17日に呉工廠の桟橋から離れ、光基地に回航。6基の回天を装備して4月20日に出港。沖合いで訓練し、平生基地に寄港。4月22日午後に出撃し、豊後水道を南下。敵潜水艦を警戒し、20ノットで之字運動。22時に外洋へ進出して、先に出撃した伊36の背中を追う形で沖縄東方に向かった。4月23日未明、海上でバッテリーを充電していると早速電探が敵機を捕捉。すかさず急速潜航を行った。これは日本近海ですら既に敵の制空権下である事を意味していた。30分後に浮上してみると、敵哨戒機がソノブイを投下している場面に出くわした。以後、昼間は潜航して夜間のみ浮上航行を行った。新たに搭載した第13号水上電探が有能で、敵機をかわすのに一役買った。
4月26日、沖縄とグアムを結ぶ航路に到着。しかし夜半の水上航行中に右舷のディーゼルエンジンが破損する大事故に見舞われる。乗組員の不断の努力で2日後に修復完了。敵船団が全く通らなかったので、狩り場を沖縄南東に移した。4月27日、伊36から回天攻撃成功の電文を受信した。荒天になった5月1日20時、レーダー室より敵輸送船団を発見したとの報告が入った。海は大時化で真っ暗だった事から回天の使用は不可能と判断、通常魚雷4本を発射。2本の火柱が確認されたので2隻撃沈確実とした。翌2日午前9時、沖大東島沖南西で再び輸送船団を捕捉。今度は回天2基を発射、しばらくして轟音が聞こえてきた。戦果は不明瞭だが、貨物輸送艦カリーナが損傷した説がある。直後、フレッチャー級駆逐艦2隻を発見。23時20分に回天1基を発射し、約48分後に大轟音が響いた。伊47の所在が敵に知られたので、南東へ高速退避。
5月7日午前9時、レーダーが物体を捕捉。午前10時にリアンダー級巡洋艦1隻と駆逐艦2隻を確認した。敵の速力は16ノット、潜水艦を警戒して之字運動を取っていた。午前11時15分、1基の回天を発射。巡洋艦に向かった。しかし巡洋艦は決死の回避を行い、回天から逃れようとする。追い回す回天を支援するため、折田艦長は4本の魚雷を準備。一気に発射し、大爆発の音が轟いた。ただ効果は不明。伊47は「大型駆逐艦や巡洋艦など4隻撃沈」と報告した。
5月8日夜、第6艦隊から帰投命令を受け、北上。5月12日に光基地へ到着し、使用しなかった回天2基と搭乗員を返還。5月13日に呉へ入港した。大本営は臨時ニュースで戦果を公表し、軽巡洋艦1隻、大型駆逐艦2隻、大型輸送船5隻を撃沈したと伝えた。殊勲の艦長に折田少佐が挙げられていた。一方、第6艦隊では少ない戦果に対し、喪失艦があまりに多い事に頭を悩ませていた。天武隊の戦闘詳報は何故か作成されず、資料や記録でもかなり曖昧になっている。伊47が挙げた戦果すら不明瞭な有り様だった。入港中に伊47はシュノーケルを装備した。
多聞隊
沖縄戦が終結した後、使える潜水艦は全体で見ても15隻と激減。最後の回天特別攻撃隊である多聞隊が結成され、伊53、伊58、伊366、伊367、伊363とともに各々最後の戦いに向かった。
6月30日、修理を終えた伊47は出渠。単独で訓練を繰り返した。7月5日に光基地に入港し、翌6日から整備員と搭乗員が一丸となって訓練を開始した。7月13日、呉へと戻った。呉の市街地は7月1日の空襲で焼け野原と化していた。この頃になると潜水艦ですら行動に支障が生じるほど燃料不足が深刻化。他の潜水艦から燃料をかき集め、どうにか出撃に足りる量を移した。7月17日に光基地へ戻り、回天を6基搭載。翌18日に沖合いで最後の潜航テストを行い、戦備を整えた。
7月19日、呉を出港。豊後水道を出たあとは第三戦速の之字運動を実施し、日の出前に潜航した。不思議な事に敵機とは全く遭遇しなかった。電探にも映らなかったので、一時は故障を疑われたほど。同月21日、沖縄のバックナー湾に停泊していた上陸輸送艦マラソンを回天で撃破。これが最後の戦果となった(ただし伊53の戦果とする説も)。7月29日、フィリピン東方へ移動するよう第6艦隊から命令が下った。ちょうどこの海域には台風が接近しており、伊47は台風に突っ込む形となった。案の定海は大荒れで、巨大な波が艦橋の上から覆いかぶさった。暴風と波濤によってまともに水上航行が出来ないので、台風が去るまで潜航を強いられた。8月1日夜にようやく浮上できたので、急ぎ充電を行った。荒天で固定していた回天1基が流失。他の回天も多くが浸水していた。8月4日、再び第6艦隊から哨戒区の変更を命じられ、翌5日に到着。しかし海は穏やかなのに、どこを見ても敵影は見えなかった。多々良隊の時とは大違いである。8月6日、ついに帰投を命じられて伊47は帰国の途についた。
8月13日正午、光基地に帰港。搭乗員6名と回天5基を降ろし、翌14日に呉へ回航した。そして呉軍港にて終戦を迎え、図らずも戦争を生き残った。しかし伊47の乗員は降伏に反対、停泊していた海防艦から機銃や食糧品を奪取し、ラバウルに向かって徹底抗戦しようと試みた。だが燃料不足により断念せざるを得なくなり、9月2日に降伏した。
戦後
進駐してきたアメリカ軍の命により、残余の潜水艦は10月上旬から佐世保へ集められた。このうち28隻の処分が決定。その中には伊47も含まれていた。1945年11月30日、除籍。処分作業はローズエンド作戦と呼称された。場所は五島列島福江島東方に指定され、現場まで日本人乗組員が操艦。艦内の爆薬設置はアメリカ兵が担当した。1946年4月1日にローズエンド作戦によって五島列島沖で他23隻とともに撃沈処分。現在でも海底に沈んでいる様子が窺える。
関連項目
- 1
- 0pt