「北条氏規」(ほうじょう・うじのり 1545 ~ 1600)とは、戦国時代の武将である。北条助五郎、北条美濃守。
外交・軍事・内政で活躍して北条家の勢力拡大に貢献したが、豊臣秀吉が行った小田原の役で北条家の終焉を見届けることになった。
東海の貴公子
父は相模の獅子こと北条氏康。母は今川義元の姉である瑞渓院。
北条家は室町幕府の名門官僚・伊勢家の一族であり、加えて北条氏規の母は名門武家の今川家出身。その血筋の良さもあってか、北条氏規は室町幕府から幕臣として扱われた。
実家の北条家一門での序列も高く、北条家に戻った後は父氏康や兄北条氏政に重用されることとなった。
また北条家が敬う古河公方足利家の足利義氏の元服式に、北条氏康は氏規を連れて行った説がある。
その生まれと北条・今川の同盟関係から、北条氏規は少年時代に今川家へ送られた。
北条氏規は今川義元の甥でもあり、今川家のお膝元の駿府で厚遇を受けた。人質ではなく留学のようなものだったらしい。
また今川家の継承権をも与えられていた説がある。序列一位は従兄弟の今川氏真で、氏真の妻は氏規の姉(早川殿)であるため、氏規と氏真は義理の兄弟でもあった。
そして北条氏規の通称が“助五郎”、今川氏真の通称は“五郎”。北条氏康と今川義元は氏規に氏真の補佐役を期待して、通称を考えたのかもしれない。
その今川義元からは「勉学に励むように」と応援された。
なお北条氏規は寿桂尼(瑞渓院の母。氏規の祖母)から大層可愛がられた。寿桂尼は今川義元が今川家の家督を継ぐまでは東国の力関係に大きな影響を及ぼした女傑である。
また江戸時代の史料では、北条氏規は駿府時代に徳川家康と出会い友人になった、とされている。
家康が何年から駿府にいたのか、実際はどういう待遇だったかは諸説あり、氏規と本当に友人だったかは断言できない。
確実なのは二十数年後、両者は強敵として相見えたということである。
さておき名門武家の一員かつ幕臣だった北条氏規には、今川家を訪ねた公家たちとの交流もあり、公家の間でも人気者だった。駿府暮らしは順風満帆だった。
<北条家・今川家の危機と北条氏規の帰還>
しかし北条氏規が青春を謳歌した時期、実家の北条家は苦境に陥っていた。
房総半島の里見家との長年に渡る抗争に加えて、1550年代の大規模自然災害(永禄の小氷河期)で痛めつけられたところへ、北陸から上杉謙信が襲来して反北条勢力を結集し北条家を追い詰めた。
北条家は今川義元と武田信玄から援護を受けて反北条連合に対抗した。
そして北条氏規がお世話になった今川家も、1560年の桶狭間合戦で今川義元が討死。
同年には上杉謙信がまた関東に襲来して北条家を攻撃。
海戦では北条水軍が里見水軍に敗北する等、北条家は厳しい状況が続いた。
北条家は今度は今川氏真と武田信玄から援護を受けて大敵を退けた。
また今川家は東の北条家救援を優先したため、西への軍勢派遣が遅れた。
おかげで北条家は救われたし、駿河東部には今川家に従いながらも北条氏規のような幕臣の立場の武家が多かったので、将軍を後ろ盾にした上杉謙信の勢力が隣国に及ぶ事態を今川家も看過できなかったのだろう。
しかし西では、松平元康(徳川家康)が水野家・織田家からの侵攻を受けて苦戦し、今川家に出兵を要請していた。元康はその後今川家に謀反した。
今川父子に救われた北条氏康は、徳川家康を今川氏真の傘下に戻らせるべく、酒井忠次(今川家に従い働いた奉行)や水野信元(家康の伯父)に働き掛けた。しかし家康は酒井を従えて今川領への侵攻を開始。
北条・今川両家の危機が続く中、北条氏規も実家へ戻り戦いに身を投じることとなった。
強敵との戦い
<里見家との抗争>
北条家は房総半島の里見家に脅かされてきた。
特に水軍の戦力は里見家が優勢で、その猛威は海を越えて武蔵国・相模国沿岸部から鎌倉にまで及んだ。
里見家への対策は、父氏康と兄氏政、北条氏規の舅となった北条綱成、綱成の子の北条氏繁、氏規の兄弟の北条氏照、北条家当主の側近たち、他にも多数の武将が取り組んだ正に北条家の総力を挙げた国防事業だった。
実家へ戻った北条氏規は、三浦半島の三崎城に赴任して水軍衆との交渉や漁業民の保護を行った。
更に伊豆国に出向して同様の役割を担った。
1567年、里見家が北条家の重要拠点である三船山(上総国)を攻撃。
北条氏規は兄の北条氏政、舅の北条綱成らと共に大軍を率いて水陸から房総半島へ進撃した。
当時盟友の今川氏真は、徳川家康と甲斐の武田信玄の蠢動により侵略の危機に晒されていた。
今回の房総半島での戦いは、西で今川家が持ち堪えている間に、北条家が里見家を打倒して後顧の憂いを断ち、北条家の西の盾である今川家を助けに行くためにも重要だった。
北条軍は3年前の第二次国府台合戦で里見家に勝利し、里見軍の逆襲を警戒していた。
対策を講じた甲斐もあり北条軍は房総半島の北条方からの支援を受けて戦況を優勢に進めたが……。
北条軍は詰めの三船山合戦で房総の怪物・里見義弘から反撃を受けて大敗した。
里見軍は勢いに乗り北条水軍を撃破して相模国へ逆侵攻。
北条家は今川家を救援するどころではなくなり、翌1568年に今川家は武田軍と徳川軍から挟撃を受けて没落してしまった。
西の盟友を失い、東に里見家、北には上杉謙信という宿敵を抱えていた北条家は、この時存亡の危機に立たされた。
<武田家との抗争>
しかし北条家はここから獅子奮迅の働きで挽回する。
1569年、駿河を武田軍に奪われた今川氏真が遠江掛川城で徳川軍の猛攻を凌いでいる間に、北条軍は武田軍が押さえていた駿河へ進軍を開始。
北条氏規は北条軍を率いて駿河国に入り武田軍を圧迫し、現地で今川家再興の活動を行う旧臣たちを支援。
さらに兄氏政と協力して武田軍の補給路を制圧し、武田軍を撤退に追い込んだ。
北条軍の優勢を見ての判断なのか、徳川家康は武田信玄を裏切って北条・今川と手を結び、今川家の駿河奪還に協力して徳川軍を派遣した。
今川氏真は駿河国を奪還して御家再興した上で北条家に従属し、東海道に北条・今川・徳川の新たな三国同盟が形成された。
かつて今川義元の許で絆を育んだ(かもしれない)北条氏規、今川氏真、徳川家康が力を合わせて共通の大敵に立ち向かったのである。
孤立した武田信玄は織田信長に縋るも、当時信長は近畿の激戦の最中で武田家を庇うどころではなかった。
一方、北条・今川・徳川の三家はそれぞれが上杉謙信を同盟に誘い、謙信は武田家の牽制に動いて協力した。今川家と縁が深い北条氏規はこれらの交渉に参加し、武田包囲網を実現して名将信玄を存亡の危機に追い込んだ。
かくして友情パワーの大勝利となる筈だったが……。
ここで北条家が上杉家と協力を進めたことで、関東の反北条勢力は上杉家に倣い北条家に協力――ではなく上杉家を見限り、武田家に協力を求めた。
そして北条家を共通の敵とする武田信玄と里見義弘が同盟し、両家の軍勢が北条家を攻撃したのである。
再起した大敵が東西から侵攻し、北条家は再び危機に陥った。
頼みの徳川家康は彼を警戒した将軍足利義昭の歓心を買うためか、肝心な時期に大軍を率いて東海道を離れ近畿の戦を優先した。しかもその後徳川傘下の国人衆が相次いで武田家へ寝返り、家康は身動きが取れなくなった。
また結束を誇った北条家内部でも不協和が生じた。
父北条氏康が今川家再興と武田信玄への制裁に執念を燃やす一方、親武田派の北条氏照が作戦に消極的だった。
当時氏康は今川家への支援を優先するあまり、里見軍の攻勢に晒された東部戦線の危機を放置していた。
武田信玄は反北条勢力との連携で挽回を果たし、反撃の準備を整えた。
そして駿河征服を確実なものとすべく、今川家の後ろ盾である北条家へ大攻勢を仕掛けた。
陸から武田軍が、海からは里見軍が押し寄せる厳しい状況の中、北条氏規は伊豆韮山城で武田信玄の大軍を撃退するなど活躍したが、北条家の苦境は続いた。
1571年に北条氏康が亡くなると、北条氏政は武田家との再同盟を決断。
北条氏規は兄に従い、武田家との同盟交渉に参加して同盟を実現した。
これにより北条家は今川家を見捨てた上、徳川家とは手切れとなった。
北条・武田の再同盟と同時期に、里見家と上杉家も再び同盟した。
北条氏規は西の守備と外交を担いながら、里見家との抗争を続けた。
<決着>
その後北条氏規の努力は実り、1577年北条家の水陸両軍は房総へ侵攻し、里見義弘を追い詰めて力づくで和睦を呑ませた。
里見義弘は挽回を図り、上杉軍を関東へ呼び込んで北条家に逆襲しようと企てた。しかし翌年上杉謙信の急死で実現せず、その翌月に里見義弘も死没した。
北条家は遂に宿敵に勝ったのである。
一息吐いた北条家だったが、今度は御館の乱(上杉家の内紛)に巻き込まれて北条家と武田家の同盟が破綻し、再び武田家との抗争が始まった。
武田家は反北条勢力の宇都宮国綱らと同盟して北条家に猛攻を仕掛け、背後の里見家も再び北条家に敵対した。
北条氏規は東西の敵に対処し、織田家による武田家討伐まで持ち堪えた。
天正壬午の乱~豊臣秀吉との交渉
<天正壬午の乱>
1582年、北条家は武田家討伐に参加後、織田家に従属した。
しかし同年、本能寺の変が起こり織田家の力が衰えると、関東甲信越では大規模な抗争が勃発した。(天正壬午の乱)
徳川家康は旧武田領の混乱に乗じて織田家から甲斐国を奪取。これにより北条家は東の反北条勢力(佐竹家、宇都宮家など)に加えて、西に新たな脅威を抱えることになった。
北条氏規は彼の甥であり宗家当主の北条氏直に従い、弟の北条氏邦らと共に大軍を率いて北の上野国を織田家から奪取。さらに信濃・甲斐へ侵攻して徳川軍を攻撃した。
並行して北条軍は徳川領の駿河にも攻め込んで戦っていたが、徳川軍が反撃して伊豆に侵攻。
北条氏規は伊豆に転戦し、徳川軍を撃破して駿河へ押し戻した。
しかし北条氏規たちが抜けた甲信の戦況は悪化し、北条氏政、氏直は徳川家康との和睦を決断。
北条氏規は北条氏政、氏直の側近たちと協力して徳川家と交渉を行い、両軍の和睦と両家の同盟を成立させた。
北条家はかつて外交問題で武田信玄や上杉謙信、そして家康にも翻弄されて苦労したが、今度の家康との同盟は強固なものとなった。
またこの時織田信雄が北条・徳川の仲介に入ったことで、北条氏規は織田信雄とも縁ができた。この縁は後に北条家の大きな助けとなった。
1584年に徳川家康が羽柴秀吉(豊臣秀吉)と対決した小牧長久手の戦いでは、北条家が家康に援軍を送る計画があった説がある。
戦後に北条、家康、秀吉が外交戦を繰り広げた時期には、徳川家康の方から北条領の伊豆に出向いて北条氏政と会見した。
また北条氏規は徳川家の家臣たちと親しく交流した。特に徳川家宿老の酒井忠次とは友人になった。両者は天正壬午の乱の和睦で北条・徳川の交渉責任者だった。
一方、秀吉は北条・徳川をまとめて打倒しようと東国の諸大名に呼びかけて大規模な包囲網を構築した。
しかし1586年に天正大地震が発生すると、方針を大転換して家康を妹婿にした上で豊臣政権に好待遇で迎え入れた。
<対豊臣外交>
家康の成功を知った北条家も、家康と織田信雄の協力を得て秀吉に服従しようとしたのだが、そこで問題が生じた。
当時の大名の初回上洛には、方々に贈る手土産を調達するための莫大な銭が必要だったのである。
東国の反北条勢力との抗争に加えて、北条家は秀吉軍の侵攻を想定した総力戦の準備も進めていたため金欠だった。
(銭が領地内で回っていればよいが、鉄砲関連の物資調達などで上方に流出する場合があった)
北条家は先に当主氏直の側近たちが上洛して豊臣側と交渉を行い、北条氏規が宗家の代理で上洛することで話をまとめて豊臣側からの承認を得た。上洛する者を宗家(氏直、氏政)から氏規に替えて格を下げることで、進物のコストダウンを図ったとみられる。
そして北条家首脳部は氏規上洛の実現に向けて尽力した。
・北条氏規上洛に向けた北条一門の対応
| 名前 | 続柄 | 立場 | 豊臣政権へ服従するための行動 |
| 北条氏直 | 甥 | 北条家総帥 | 側近たちに命じて、北条家が秀吉に従うための交渉を進めさせた。 |
| 北条氏政 | 兄 | 先代総帥 | 同上。後述の城受け取りの際には、秀吉が派遣した使者に対して失礼がないようにと細かい指示を出した。 |
| 北条氏照 | 兄弟 | 東関東担当 | 長年の抗争で佐竹家・宇都宮家を追い詰めたが、豊臣政権へ服属する方針に従い、佐竹家と協力して常陸国人衆の抗争を調停。 |
| 北条氏邦 | 兄弟 | 北関東担当 | 兄氏政から資金調達を命じられた。自腹を切って氏規の上洛費用に充てたが、それでも全く足りないので家臣領民に臨時課税を行った。 |
| 太田氏房 | 甥 | 武蔵太田家当主 | 氏政の実子。叔父氏規の上洛費用に充てるために、家臣領民への臨時課税を行った。 |
北条氏規たち使者団は進物を抱えて先ず徳川領内へ入り、親交のある徳川家臣たちの案内で上洛し、都で数日待たされた後に秀吉への拝謁を許された。
この時、秀吉は公家衆、織田信雄や徳川家康、毛利輝元といった大大名の他、先に秀吉の九州征伐で軍門に降った島津義弘も同席させた。
秀吉が公家衆や諸大名を従えて北条氏規を引見した時点で、秀吉は北条家の服従を認めたことになり、その事実は世間にも認知された。
また豊臣秀長(秀吉の弟)の主催で北条氏規の歓迎会が開かれた。
豊臣秀長は豊臣氏羽柴家と豊臣政権の重鎮であり、彼の知遇を北条氏規が得たことにより北条家は安泰となた。
歓迎会には徳川家康と織田信雄も参加し、北条氏規は盟友二人とも絆を深めたのだった。
役目を果たした使者団は無事に帰国し、上洛の目的=豊臣軍との戦争回避が達成されたと知った人々は戦の不安を忘れて大喜びした。
この後、秀吉は北条家と真田家の土地争い(上野国の沼田と吾妻)で北条家に有利な裁定を下し、側近の富田一白と津田盛月を関東へ派遣した。
両名は真田家から北条家への城と領地の明け渡しを見届けた。
小田原の役
<開戦>
しかし火種は消えていなかった。
真田家は領地を割譲する羽目になり不満を抱き、城明け渡し時に妨害や領民の強制移住を行なった他、吾妻では北条方の権現山城を脅かし続けた。
また下野国ではすでに多くの領地を北条家に奪われていた宇都宮国綱が挽回を図り、秀吉側近の石田三成は宇都宮家に肩入れして北条家を出し抜こうと策動した。
そして秀吉自身も九州平定の後始末を済ませた頃から、北条家が知らないところで動き出した。
北条氏規上洛の翌1589年に秀吉は、
・常陸の佐竹義重に東国出兵を示唆。
・取次役(北条家担当)の富田一白と津田盛月を突如糾弾して罷免。さらに彼らの身柄を拘束し、北条領の隣の駿河国で幽閉。豊臣政権は取次役罷免を北条家に通達せず、後任を選ぶこともしなかった。
北条家への挑発行為、それもよりによって北条家の盟友である家康に手伝わせた形だが、北条家は両者が失脚したことを知らなかった可能性がある。
・越後国の上杉景勝に出陣の準備を指示。
・豊臣政権の幹部である長束正家に、兵糧他合戦に必要な物資の調達を指示。
そこへ真田家から秀吉へ「北条軍が“真田家の”名胡桃城を奪取した」という訴えがあった。
秀吉は早速北条家を糾弾し、名胡桃事件が始まった。
驚いた北条家は、豊臣政権による公正な調査の実施を(すでに罷免されている)取次役の両名に依頼。
予定していた北条氏政の上洛を早めることも約束した。
北条氏規は情報を集めようと友人の酒井忠次に依頼した。当時酒井忠次は隠居して京都に移住し、秀吉から厚遇を受けていた。氏規は頼りになる相手に依頼したのだった。
しかし豊臣政権は、北条家が送り出した使者の石巻康敬(北条氏政の側近)を問題無用で追い返したばかりか、帰路で捕縛させて富田や津田と同様に駿河で幽閉させた。
関東出兵の準備を着々と進めていた秀吉は、北条家に宣戦布告状を送り付けた。
北条氏規の前年の働きはこうして台無しにされた。
豊臣軍襲来が確定であることを秀吉からの書状で知らされた情弱な北条家が慌てて迎撃の準備を始める中、北条氏規は伊豆国韮山城で籠城の準備を進めた。
江戸時代の史料に拠ると、氏規はこの時点で玉砕の覚悟を固めたという。
ちなみに韮山城改修の突貫工事では、小田原城の北条氏政からくどいほど細かい指図が届いた。兄は心配性、弟は豪胆な兄弟だったのかもしれない。
<豊臣軍との戦い>
翌1590年春、豊臣秀吉が号20万人の大軍を率いて関東へ襲来。
伊豆北部にある山中城の北条軍は果敢に戦ったが、城は一日で陥落。
豊臣軍主力は箱根を越えて小田原城(北条家の本拠地)を包囲し、、守備軍4千人の韮山城にも徳川家康や織田信雄、福島正則らが率いる4万の大軍が押し寄せた。
韮山城の守備軍は北条氏規とその家臣団、伊豆衆、相模衆、制海権を失い上陸した北条水軍、北条氏政と氏直が派遣した側近たちの軍勢で構成された。
城を囲む豊臣軍を撃退してくれる外部からの援軍は望めず、敗北必至の戦いだったが、守備軍は韮山城と隣接する天ヶ岳に籠り、善戦して豊臣軍の攻撃を退け続けた。
秀吉は攻城軍から北条氏規と親しい徳川家康と織田信雄を早々に小田原城攻めへ配置替えし、氏規と関わりのない西国大名や秀吉に忠実な名将蒲生氏郷らを投入した。
だが韮山城守備軍の抗戦は続いた。
秀吉は現地の豊臣軍に指示を飛ばして、天ヶ岳を囲む砦群を築く包囲戦に切り替えさせた。
秀吉の書状に拠ると「(空を飛ぶ)鳥も通れないように」という徹底した監視体制だった。
孤立した状況で豊臣の大軍から四ヶ月も城を守り続けた北条氏規は、徳川家康の使者から説得を受けて開城した。
江戸時代の史料では、徳川の使者は北条氏政、氏直から氏規へ宛てた手紙を携えて北条氏規を説得した。
その半月前から、豊臣軍の強襲を撃退し続けた小田原城でも、甥の太田氏房が豊臣軍と開城交渉を始めていた。
北条氏規は秀吉に降伏して北条家存続を訴える道を選んだ。
交渉の末、小田原城も開城した。
秀吉は北条家の取り潰しと北条氏政、氏照の首を要求し、押し通した。
北条氏規は兄弟の介錯を務めて小田原北条家の栄光に幕を下ろした。兄弟の首は遠い京都まで送られて晒し首にされた。
氏規は介錯の後に自害しようとしたが、徳川家に止められたという。
北条宗家は大名としては一旦滅び、北条氏直は紀伊国高野山へ移住した。
北条氏規の努力は報われなかった。
戦後
後に秀吉は北条氏直を高野山から呼び寄せ、河内国で領地と大名待遇を与えた。
河内国は秀吉の御膝元であり、秀吉の目が届く土地だった。
北条氏直はその後すぐに亡くなった。
1600年、北条氏規が死去。
同年関ヶ原の戦いが勃発し、家康が天下を取った。
北条氏規の息子氏盛は北条氏直の養子となり、氏直の没後に北条宗家の家督と領地を継承した。
北条宗家は同地で存続して明治維新を迎えた後、明治天皇の侍従を輩出した。
補足
<里見家の脅威>
戦国時代の房総半島(安房国・上総国)は耕地に適した土地が少なかったが、太平洋に突き出した地形から海洋交易が盛んで、現地の士民が多くの水軍衆を組織して活動した。
また北条家の初代早雲が三浦半島の三浦家を滅ぼした際、三浦水軍の残党が房総半島に移住したとされる。
里見家の脅威の一例として、相模国東部の沿岸地域では領民が年貢を北条家と里見家に半分ずつ納めることを北条家に願い出て、北条家がそれを認めたことがある。
こうした境界地は戦国時代に多数存在したが、海を挟んだ勢力というのは珍しい。
北条家が里見家の脅威からようやく解放されたのは1590年。北条家が滅亡して領国を守る必要がなくなった時だった。
こう書くと里見水軍にやられっぱなしのイメージが浮かぶが、北条水軍も隙あらば房総沿岸を襲撃したりとお互い様で、北条家と里見家が和睦した時は房総の僧侶が喜んだ。
北条氏規は北条水軍を統括して武蔵湾・相模湾の海防の総司令を務めた。
氏規は傘下の水軍衆に対し、房総の重要ではない村落も襲撃して焼き払うよう指示を出した。
北条家と言えば善政家のイメージがあるが、自領の民ならまだしも敵地の領民には情け容赦なかった。
正に乱世の将である。
「天正大地震」の記事を参照のこと。
この巨大地震は豊臣秀吉の勢力圏の全域に甚大な被害をもたらした。特に徳川征伐の拠点である美濃大垣城・近江長浜城が壊滅し、多数の人員・物資を喪失したことにより、早期の東国遠征が不可能となった。
そして震災直後から、秀吉は諸勢力への対応を大きく変更した。
| 時期 | 秀吉の行動 |
| 震災前 | 反秀吉勢力を攻撃。東国では反北条の佐竹家や反徳川の真田家に東国出兵への参加を要請。 |
| 震災後 | 徳川家を迎えて政権重鎮に据えた。佐竹家や真田家などを東国争乱の元凶と決めつけて非難した。 |
阪神淡路大震災をも遥かに上回る巨大地震だったため、秀吉の方針転換は当然の事ではあった。
一方、秀吉勢力の一時的な弱体化により、追い詰められていた北条家と徳川家が相対的に浮上した。
このような自然災害が時々の政情や軍事作戦などに多大な影響を及ぼしたことは、地震や台風災害などの多発国である日本ではよくあることだったようだ。
大河ドラマ「真田丸」では天正大地震と秀吉の方針転換が取り上げられた。
地震は1589年初頭にも発生した。
被災地の中心は駿河国(静岡県東部)。徳川家にとって重要な土地であり、しかも家康は震災の数年前に本拠地を駿河国に移していた。
天正大地震に比べれば遥かに小さいとはいえ、徳川家にとっては大打撃だった。盟友の弱体化は北条家にとってもマイナスである。
この震災以降、家康は上方に長期滞在した。復興事業の支援を秀吉に求めた可能性が考えられる。
秀吉が東国出兵へ向けて動き出したのは、この震災と同時期だった。
<初回上洛費用問題>
莫大な財貨が必要だったとされる。具体的には領地を治めて得られる一年間の収入の半分という説もある。
当然、上洛費用に回すとその分だけ地元への支出(投資・消費)は削られるわけである。
北条家が当初集めようとした金額は2万貫。また当時の日本では複数の通貨が流通し、東国と上方ではそれぞれの貨幣の価値が逆転したりもしている。銭自体も贈り物の一つであり、用意しなければならなかった。
ちなみに20年前織田信長と足利義昭が上洛後に万貫単位の銭を上方で徴収した時は、奈良興福寺の僧侶が上方の行く末を嘆き、堺の豪商たちが義昭・信長政権の敵対勢力を援助した。
この時期、上洛を渋った大名の多くは後で秀吉から取り潰しの処分を受けた。
何故彼らは上洛しなかったのか。「成り上がり者の秀吉を侮ったからだ。愚かな連中だ」と説明されることが多いが、実情は違った。
彼らは秀吉を侮ったわけではなく、近隣の抗争相手に出し抜かれないように早く行動すべきだと理解した。
それでも初回の上洛費用問題は、どうにもならなかった。
一方、豊臣政権も朝廷から委ねられた“海内静謐”=日本の内戦の終結を急ごうと、諸大名に上洛を促した。
例えば秀吉の側近の石田三成や和久宗是らは、取次相手の大名に対して「手土産の用意は上方へ来れば何とかなるから、早く上洛なさることが重要です」と催促した。
だが地域の代表者である大名たちが手ぶらで上洛するなどありえない、というのが当時の常識だったようだ。
北条家と敵対した宇都宮家は、石田三成から催促されたがその時は上洛しなかった(できなかった)。
そして秀吉が小田原の役を起こすと、宇都宮家をはじめ東国諸大名の多くがこぞって参陣した。
上洛するよりも戦費の方が安上がりだったのだ。彼らは小田原の役のおかげで秀吉に拝謁し、家を保つことができた。
そして小田原への遠征費用すら調達できない武家もまた多かったのである。
豊臣軍との総力戦準備の直後に銭を徴収されて氏規を送り出した北条家の家臣団と領民たちの苦労と、その苦労を台無しにされたことへの怒りはどれ程のものだったか。
かつて上杉謙信や織田家の滝川一益が関東へ来た時はすぐに彼らに靡いたが、小田原の役では北条家に味方し続けたという武家は少なくなかった。
<名胡桃事件と北条氏規>
秀吉が北条家征伐を決めたこの事件に北条氏規は関わっていない。
事件の報せは徳川家の与力大名(下位の協力者)である真田家の真田信幸が家康不在(上洛中)の徳川家に持ち込んだ。(当主の真田昌幸は上洛中)
事実であれば徳川家をも巻き込む大事件であり、徳川家臣たちから北条氏規へ連絡と問い合わせも行われたのだろう。
しかし家康の留守を預かる徳川家臣団は真田の訴えに取り合わず、北条氏規もこの時点で何らかの対応をした形跡は見つかっていない。
真田家は、真田信幸が与力大名として先ず徳川家に報告するという正式な手順を踏んでから、事件を豊臣政権に持ち込んだ。
秀吉からの糾弾を受けた北条家は、「名胡桃城は真田の領地明け渡し時に北条家が受け取った」、「殿下が派遣された取次役が見届けた」、「調査をお願いいたします。その上でのご裁定には全て従います」等々訴えたが、全て秀吉に無視された。
<北条軍の奮戦と豊臣軍の兵糧問題>
秀吉から宣戦布告を受けた北条家は急いで迎撃の準備を始めたが、人手も時間も足りず、城砦の改修は重要拠点のみに絞って行った。
北条家中では「まさか本当に侵攻はしてこないだろう」と楽観あるいは現実逃避する向きもあり、山中城の城将松田康長もその一人だった。
しかし翌年早々に秀吉自ら大軍を率いて襲来し、北条方の支城は次々に陥落または開城した。
ただし散々戦って時間を稼いでから開城した城もあれば、城に逃げ込んだ領民も防衛戦に参加して頑強に抗戦した城もあった。
一日で陥落した山中城も、城将以下守備軍の奮戦玉砕によって豊臣軍の名将だった一柳直末を道連れにした。
豊臣軍は出だしから大損害を被っていた。
そして韮山城をはじめ各地で北条軍が抗戦したことにより合戦は長期化。豊臣軍は兵糧不足に陥り、逃亡兵が続出した。
豊臣軍が兵糧不足の問題を抱えたことは、『家忠日記』(著者:徳川家臣・松平家忠)や『日本史』(著者:宣教師ルイス=フロイス)に記されている。
北条軍は、秀吉の想定を超えた奮闘振りを示したのである。
そこまで戦ってから太田氏房は開城交渉を始め、北条氏規は徳川家康の勧めで秀吉に降伏したのだった。
※秀吉が北条家を開戦に追い込んだと書いてるのに豊臣軍が兵糧不足に陥るのはおかしい、と思われるかもしれない。
これは当時の道路事情と輸送手段から輸送能力には限界があったからだと考えられる。兵糧を用意することと、その兵糧を最前線の戦地まで届けることは別の課題だった。
短期間の場合は現地の寺社や町村から買い上げて兵に配る。豊臣軍も持参した兵糧に加えてこうした現地調達で当初は賄っていた。しかし合戦の長期化により不足したのだろう。また秀吉は海内静謐の大義を掲げて侵攻したため、必要とあらば現地人を餓死させても搾り取る過去の時代の戦や大陸の戦のようなことはできなかったのだろう。
未曾有の大軍を西は九州から動員したため、商人たちによる輸送販売でも供給量が足りなかったのかもしれない。
この限界は後に文禄・慶長の役で露呈し、日本軍の将兵を苦しめて進撃を抑止した最大の原因となった。
秀吉自身は勢力圏を拡大する度に道路の整備・拡幅工事を必ず行わせて輸送問題の解決と生産性向上を図った英明な統治者だった。
小田原の役で豊臣軍は多くの城で強襲策を採ったが、それは秀吉が輸送問題を深く認識していたことを示しているのかもしれない。
<最後の交渉>
そこまで戦った北条氏規たちは、当然だが大名北条家の滅亡などという結末のために交渉したわけではなかったし、後で秀吉が喧伝した「北条氏直が切腹するから城兵の命は助けてくれと殊勝な申し出をしてきたので、(情け深い俺は)城兵はもちろん氏直の命も助けてやった」というわけでもなかった。
北条氏直は北条家を大名として存続させる気だったし、北条氏規は宗家を守るために戦ったのである。
そして徳川家は北条氏規との約束を守って北条家を守るべく、秀吉に働きかけを行った。
井伊直政(家康の腹心)が北条家に宛てた書状には、北条家は許されるだろうと記された。
交渉は上手く行っていたとみられる。
しかし最後に決めるのは秀吉の一存であり、秀吉がひっくり返した。
北条宗家は破滅させられた。一門衆の氏規や太田氏房からすればとんでもないバッドエンドだった。
<北条家の教養人>
北条家は名門官僚伊勢家の末裔であり、関八州の守護者を自認した誇り高い武家であり、北条氏規もその一員に相応しい教養人だった。
茶の湯にも心得があり、茶人の山上宗仁から秘伝書を授けられた。
その山上宗仁は小田原の役の最中に秀吉に会いに行き、秀吉の命令で処刑された。
結末が結末なので、お世話になった北条家を見限ったのではなく、北条家を弁護するためにラスボスの懐へ飛び込んだのではないか、とも言われている。
北条氏政に救われた尾藤知宣(元は秀吉の部下)が秀吉に会いに行って処刑された例もある。
上方の居場所を失った人々が辿り着いた北条家は、彼らにとって命懸けで守りたい安息地だったのかもしれない。
関連項目
- 北条氏康(父)
- 早川殿(姉。今川氏真の妻)
- 北条氏政(兄)
- 北条氏照(兄弟)
- 北条氏邦(弟)
- 上杉景虎(弟?)
- 太田氏房(北条氏房、甥)
- 北条綱成(舅)
- 今川義元(伯父)
- 今川氏真(従兄弟で幼馴染)
- 徳川家康(幼馴染?)
- 酒井忠次(友人)
- 里見義堯(祖父と父の宿敵)
- 里見義弘(宿敵)
- 豊臣秀吉
- 小田原の役
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