ジネディーヌ・ジダン(Zinedine Yazid Zidane, 1972年6月23日 - )とは、フランスの元サッカー選手、現サッカー指導者である。愛称はジズー(Zizou)。
元サッカーフランス代表。
現役時代のポジションはMF。185cm80kg。利き足は右足。
概要
フランスのマルセイユ出身。アルジェリア移民の子であり、両親はアルジェリアの少数民族であるベルベル人。そのため、フランスとアルジェリアの国籍を持っている。
プロサッカー選手として1989年から2006年まで現役を続け、世界最高の攻撃的MFとして一時代を築いており、歴代最高のゲームメーカーの呼び声も高い。1998年には、地元開催の1998 FIFAワールドカップにおいて決勝のブラジル戦で2ゴールを決める活躍によって母国フランスを初の優勝に導き、フランスの国民的英雄となる。この活躍が認められ、この年のバロンドールとFIFA世界最優秀選手賞を受賞している。
クラブレベルでは、ユヴェントス、レアル・マドリードという名門クラブの司令塔として活躍。2001-02シーズンのUEFAチャンピオンズリーグ決勝で決めたボレーシュートは伝説となっている。現役時代に取得できるタイトルを全て獲得しており、歴史に残るスター選手の一人として認識されている。現役引退後は指導者の道へ進み、レアル・マドリードの監督として前人未到のチャンピオンズリーグ三連覇という偉業を達成。史上初めて選手と監督の両方でFIFA世界最優秀賞を受賞した人物である。
普段は内気で寡黙な人物として知られているが、試合中に突然激昂することがあり、現役最後の試合となった2006 FIFAワールドカップ決勝では、イタリアのマルコ・マテラッツィに頭突きを見舞って退場となり、世界中で話題となった。
現役時代の背番号はボルドー時代は7番、ユヴェントス時代は21番、レアル・マドリード時代は5番、フランス代表では10番。
選手としての経歴
生い立ち
両親はアルジェリア独立戦争が起きる少し前の1953年にパリに移住し、マルセイユの北アフリカ移民が集まるカステラン地区で暮らすようになったときに兄5人と姉1人の7人兄弟の末っ子として生まれた。住んでいた地域は犯罪率が高く、失業率も高いいわゆる貧民街だったが、ジダンの家族はその中では比較的快適に暮らせており、5歳の頃から兄や近所の子供とサッカーを始める。
9歳で地元のクラブであるASフォレスタに入団すると、高い才能が発揮されるようになり、チームのキャプテンを任される。10歳のときに隣の地域のクラブであるUSサン=タンリに移籍し、11歳になるとSOセプテーム・レ・ヴァロンに加入する。
14歳のときに参加したプロヴァンス地方の選抜チームでのトレーニングキャンプで、ASカンヌのスカウトの目にとまり、入団オファーを受ける。こうしてジダンはマルセイユを離れることとなる。
カンヌ時代
1986年にカンヌのユースに入団。1988年にトップチームとプロ契約を交わし、1989年に17歳でプロデビューを果たす。カンヌではレギュラーが確約されていたわけではなく、1988-89シーズンの出場は2試合だけにとどまり、1989-90シーズンはリザーブチーム行きが命じられ、4部チームでプレーすることになる。
1990-91シーズンはトップチームに帯同することができるが、スタメン出場した第3節のAJオーゼール戦でパスミスを犯し、サポーターからのブーイングを受け、その後のスタメンを4試合連続で外れることとなる。第8節のオリンピック・マルセイユ戦でスタメンに返り咲くと、幼い頃からのファンであるクラブを相手に活躍を見せ、この試合をきっかけに輝きを取り戻す。1991年2月10日のFCナント戦でプロ初ゴールを決め、シーズン中に14連勝を記録したチームの中心として高いポテンシャルを見せつける。
1991-92シーズンは、兵役をこなしながらプレーしていたこともあり疲労が蓄積していたが、それでも31試合に出場し5得点を記録。チームはUEFAカップで躓いたことをきっかけに低迷する。
ボルドー時代
1992年にはリーグ・アンの名門であるFCジロンダン・ボルドーへ移籍。加入1年目となった1992-93シーズンは、守備的MFでの起用が中心となったが、後にフランス代表で共に黄金時代を築いたクリストフ・デュガリー、ビセンテ・リザラズと共に「ボルドーの三銃士」と呼ばれ、魅力的な攻撃陣を構築。このシーズンのゴール数は10ゴールを記録し、後のキャリアでも最多得点を記録したシーズンとなった。
以降もボルドーの攻撃の中心として君臨。1994年には、リーグ・アンの最優秀若手選手に選ばれる。ボルドー時代でもっとも輝きを放ったのが4シーズン目となった1995-96シーズン。リーグ戦では33試合6得点という成績を残し、UEFAインタートトカップを勝ち抜いてUEFAカップ本戦に進出。3回戦のレアル・ベティス戦では、35mほどの位置からのロングシュートを叩き込む。準々決勝では、強豪ACミランと対戦。0-2と初戦を落とした後の2nd legでデュガリー、リザラズと共にワールドクラスの名手を揃えたミランの守備陣を攻略し、3-0での完勝を飾り、大逆転でのベスト4進出を決める。このミラン戦でジダンの注目度はますます増し、出世試合と言っていい試合となった。チームは決勝まで進出し、準優勝という成績を残し、後に移籍することとなるユヴェントスの首脳陣に「ミシェル・プラティニ(現UEFA会長)の後継者をみつけた」と言わしめた。リーグでも33試合6得点という成績を残し、この年のリーグ・アン年間最優秀選手に選出される。
ユヴェントス時代
1996年にイタリア・セリエAの名門ユヴェントスへ移籍。背番号は「21」。世界的にも知られるビッグクラブに加わったことでジダンの知名度はさらに増すこととなる。移籍当初はチームにフィットできず、メディアやサポーターからの批判を受けていたが、辛抱強く起用を続けていたマルチェロ・リッピ監督が最適なポジションは2トップの下のトレクァルティスタ(TREQUARTISTA)であるという答えを導き出すと、鮮烈な輝きを放つようになる。11月26日には、初めて日本を訪れ、トヨタカップ1996でリーベル・プレートを破ってのクラブ世界一獲得に貢献。キャリア初のメジャータイトルは日本で獲得することとなった。シーズン後半戦になると、もはやチームに欠かせない存在となり、1996-97シーズンのスクデット獲得をもたらす。また、初出場となったUEFAチャンピオンズリーグでも決勝進出の立役者となるが、決勝でボルシア・ドルトムントに敗れ、ビッグイヤー獲得を逃す。
1997-98シーズンはアレッサンドロ・デル・ピエロとフィリッポ・インザーギの2トップ(通称デルピッポ)の下でプレーする役割を与えられ、強力なトライアングルを形成。ブラジルの怪物ロナウドを擁するインテルと激しいスクデット争いを展開するが、第31節の直接対決を制したことで2年連続でのスクデット獲得を達成。CLでも質の高いゲームメイクを披露し、チームの3年連続での決勝進出に貢献。しかし、決勝でレアル・マドリードに敗れ、自身初のビッグイヤーはまたも目前で夢に終わる。1998年は、ワールドカップ優勝をもたらしたこともあり、バロンドロールとFIFA世界最優秀選手賞を受賞。世界最高のフットボールプレイヤーとして認められる。
1998-99シーズンは、ワールドカップで決勝まで戦った疲労が開幕後も残り、前半戦は精彩を欠いたプレーが続く。加えてデル・ピエロがシーズンの大半を棒に振る大怪我を負ったことでチームは慢性的な得点力不足に陥ってしまう。自身も怪我で離脱するなど25試合の出場にとどまり、セリエAでは6位に終わるという不本意なシーズンとなってしまう。
1999-00シーズンは、開幕から好調を維持し、怪我の後遺症に苦しむデル・ピエロが極度のスランプに陥る中でチームを牽引。カルロ・アンチェロッティ監督も中盤の形をフランス代表に近いものに形成し、よりジダン中心のチーム作りを進めていた。首位でシーズン終盤を迎えていたが、最後の8試合でチームは4敗を喫するほど調子を落とし、最終節でSSラツィオに抜かれてスクデットを逃す。このときジダンは、悔しさを強く滲ませたコメントを残している。
2000-01シーズンは、フランス代表のチームメイトであるダビド・トレゼゲが加わり、自身もチームも上々のスタートを切る。ところが、2000年10月25日、CLグループリーグのハンブルガーSV戦で相手のファウルに対して頭突きによる報復行為をおこない退場になる。この試合エドガー・ダーヴィッツも退場していたためユヴェントスは9人での戦いを強いられ、敗北。この行為にイタリア国内はもちろん、各国メディアから強い批判を受ける。UEFAからは5試合の出場停止処分が科せられ、ジダンを失ったチームはグループリーグ敗退となる。この行動が原因で2000年のバロンドールを逃すこととなった。また、この頃自身の気持ちはスペインへの移籍に傾いており、フロントに対して何度も移籍の希望を訴えていた。
レアル・マドリード時代
2001年7月当時の史上最高額の金額である9500万ユーロでスペイン・リーガ・エスパニョーラのレアル・マドリードへの移籍が決定。背番号は「5」。当時のレアルはフロレンティーノ・ペレス会長のもと莫大な金額をかけた大型補強による銀河系軍団を作り上げており、その一因に加わることとなった。また、2000年にモナコで行われたUEFAのレセプションでレアル・マドリーの会長であるフロレンティーノ・ペレスと同席になり、ペレスはジダンに向けて「レアル・マドリーへ来たいか?」と書いた紙を見せ、それを見たジダンは殴り書きで「Yes」と答えた。有名なエピソードである。
加入1年目となった2001-02シーズンのチームは、スター選手とカンテラ出身の生え抜きが共存するような構成となった。当初はメディアからのプレッシャーに悩んでいたが、スペインでの生活に慣れてくると、銀河系軍団の中心として活躍。CLでは、準決勝でFCバルセロナを破り、自身3度目となる決勝へと駒を進める。2002年5月15日におこなわれた決勝のバイヤー・レバークーゼン戦では、1-1の同点で迎えた前半終了間際にロベルト・カルロスが放った大きなクロスを左足のダイレクトボレーで合わせたスーパーゴールを叩き込み、これが決勝点となり、自身3度目の正直で悲願であったチャンピオンズリーグ優勝を達成。この試合でのジダンのゴールは「サッカー史上最も素晴らしいゴールの1つ」として伝説となり、今日に至るまで語り継がれている。
2002-03シーズンも高いゲームメイク能力を発揮し、銀河系軍団の名にふさわしいスペクタクルなフットボールを演出。この年加入したロナウドを含め、バロンドール経験者が3人名を連ねるスター軍団の中でも別格の輝くを放っていた。2002年12月3日には、パラグアイのオリンピアを下し、トヨタカップ優勝。リーガ・エスパニョーラでもリーグで断トツ1位の得点数を記録し、優勝。栄華を極めていた銀河系軍だったが、このオフのシーズンのペレス会長の独断ともいえる補強戦略によってその時代は終わりを告げようとしていた。
2003-04シーズンは、最初にスペール・コパ・デ・エスパーニャのタイトルを獲得するが、これがジダンにとっての最後のタイトルとなった。これまでスター揃いの攻撃陣の分まで中盤の守備を担っていたクロード・マケレレを放出してしまったことでチームはバランスが崩壊。2004-05シーズンは、シーズン中に二度も監督が交代する混乱のシーズンとなってしまい、2シーズン連続で無冠に終わってしまう。
2005-06シーズンも選手間の軋轢や規律の欠如という様々なピッチ内外の問題を抱えていたチームの中、自身は変わらず、ファンを魅了するプレーを披露し続けていた。2006年1月6日のセビージャ戦では、自身キャリア初となるハットトリックを達成する。そして、2006年4月25日にこの年の6月に開催されるワールドカップを最後に現役を引退することを正式に発表。この発表は世界中に衝撃を与え、サンャゴ・ベルナベウでの最後の試合となったビジャレアル戦では8万人がスタジアム駆けつけた。ラストシーズンの成績は29試合出場9得点で、まだまだトップレベルの力を残しながら引退することを物語っていた。
フランス代表
1994年8月7日、負傷したユーリ・ジョルカエフに代わる追加招集して初めてフランス代表に呼ばれ、チェコとの親善試合で後半18分から出場し、デビューを果たす。その試合で2ゴールをあげる活躍を見せると、エメ・ジャケ監督に才能を買われ、代表に定着する。
EURO96予選では、当初は出場機会が少なかったが、1995年に入ってからチームの中心として起用されるようになる。当時のフランス代表は、98年ワールドカップの開催国に決まっていたが、2大会連続で予選敗退という低迷期に差し掛かっていた。ジャケ監督は、これまでチームの主力だったエリック・カントナ、ダビド・ジノラ、ジャン=ピエール・パパンを外し、ジダンを軸にした若い世代中心のチーム作りを進め、EURO96は彼らに経験を積ませるための場と位置付けていた。ジャケ監督の期待に応え、4月26日のスロバキア戦ではチームの4ゴール全てに絡む活躍を見せ、10月11日のルーマニア戦ではハーフボレーによるゴールを決め、EURO本大会出場権を獲得する。
1996年6月自身初の国際舞台でのビッグトーナメントとなるUEFA EURO96に背番号「10」を背負って出場。大会の直前に自動車事故を起こし、怪我を抱えながらプレーすることとなるが、スペイン、ルーマニア、ブルガリアという2年前のワールドカップでベスト8以上に入ったチームに囲まれたグループを首位で通過。準々決勝と準決勝は共にPK戦までもつれこむことになるが、そのどちらの試合にもフル出場。準決勝でチェコに敗れるが、ベスト4という合格点の成績を残す。
自国開催のワールドカップとなるため、予選は免除となるが、その間のテストマッチでチームは得点力不足に悩まされ、チームは勝ち切れない試合が続いていた。ユヴェントスで見せるようなプレーを代表で発揮しきれないジダンやジャケ監督にフランス国民やメディアから批判が集まり、カントナたちを復帰させることを求める声も多くなっていた。それでも、1998年1月28日ワールドカップのメインスタジアムとなるスタッド・ドゥ・フランスのこけら落としとなるスペイン戦でゴールを決めている。
1998年6月から地元フランスで開催された1998 FIFAワールドカップに背番号10を付けて出場。グループリーグ初戦の南アフリカ戦を難なく制するが、第2戦のサウジアラビア戦で事件が起きる。3-0とリードしていた後半25分相手チームのキャプテンを踏みつけてしまい、退場となる。FIFAからは2試合の出場停止処分が科されてしまう。攻撃の全権を握るジダンを失ったフランスだったが、窮地に立たされたことで結束を強め、持ち前の堅守をベースにベスト16までを勝ち抜き、準々決勝のイタリア戦から復帰することとなる。7月13日におこなわれたブラジルでの決勝では、前半27分エマニュエル・プティの右コーナーキックにニアサイドで反応し、先制ゴールとなるヘディングシュートを決める。さらに、前半終了間際今度はジョルカエフの右コーナーキックに反応し、またしてもヘディングシュートを決め、試合を決定づけ、フランスの初優勝に大きく貢献する。この活躍でフランスの英雄となったジダンの顔が大会後、エッフェル塔に掲げられ、凱旋門にも顔が映し出された。さらに、この年のバロンドールとFIFA世界最優秀選手賞を受賞し、一気に世界的なスーパースターへと昇り詰める。
ワールドカップ後にジャケ監督が退任し、ロジェ・ルメール監督のもとで再スタートを切るが、ワールドカップでエネルギーを使い果たしたこともあり、EURO2000予選では苦戦。予選敗退の危機に立たされていた最終節のアイスランド戦に辛くも勝利し、本大会出場を決める。
2000年6月に開催されたUEFA EURO2000では、コンディションもすっかり回復し、攻撃の中心としてティエリ・アンリやダビド・トレゼゲ、パトリック・ヴィエラといった若手が加わったチームを牽引。グループリーグを2連勝し、決勝トーナメント進出を決める。準々決勝のスペイン戦では、フリーキックから直接ゴールを決める先制ゴールによって勝利に貢献。準決勝のポルトガル戦では延長戦に入って得たPKをきっちりと決め、決勝進出へと導く。決勝のイタリア戦では、1点を先制されてからのチームの猛攻を演出し、延長戦でのトレゼゲのゴールによって逆転での優勝を飾る。大会を通して素晴らしいパフォーマンスを見せたジダンは、大会の最優秀選手に選ばれ、2度目となるFIFA世界最優秀選手にも選ばれる。ジダンを中心としたフランス代表は黄金時代を迎えていた。
この当時のフランスは、次々と有望な若手が台頭し、彼らが欧州各国の主要リーグで活躍していたことで、2002年 FIFAワールドカップでは世界最強のチームと称されていた。ところが、大会直前の韓国との親善試合で左膝を負傷してしまい、本番に入っても回復はしなかった。ジダン不在のチームは、グループリーグの2試合で1分1敗となってしまう。崖っぷちに立たされた第3戦のデンマーク戦に包帯を巻いて強行出場するが本来の出来には程遠く、0-2で敗れ、1勝もできず、ノーゴールのままグループリーグ敗退となるまさかの結末を迎える。
失意の日韓ワールドカップ後、EURO2004予選を全勝で勝ち抜き、自身3度目となるUEFA EURO2004に出場。グループリーグ初戦のイングランド戦では、1点ビハインドで迎えた試合終了間際の後半45分にフリーキックから直接ゴールを決め決め、同点に追いつく。さらに2分後アンリが得たPKを自ら決め、劇的な逆転勝利をもたらす。チーム全体が低調の中で獅子奮迅の活躍を続け、第3戦のスイス戦でも先制ゴールを決め、グループリーグ突破に貢献。しかし、準々決勝ではこの大会で台風の目となっていたギリシャに敗れ、ベスト8で敗退。大会後、若手に道を譲るために代表引退を表明する。
2005年に入り、ドイツW杯欧州予選を戦うフランス代表は、レイモン・ドメネク監督の不可解なチーム作りもあって迷走。予選敗退の危機にドメネク監督やキャプテンのヴィエラから代表復帰の要請を受け、ジャック・シラク大統領までが復帰のために動くという大事になった中、8月3日リリアン・テュラムとクロード・マケレレと共に代表復帰を表明。復帰後は、ヴィエラからキャプテンを譲られ、予選敗退の危機にあったチームの救世主となり、本大会出場権を勝ち取る。
2006年の4月に大会後の引退を公言して臨んだ2006 FIFAワールドカップでは、グループリーグを1勝2分で辛うじて通過し、ベテラン主体のチームへの評価は高くない状況だった。しかし、ラウンド16のスペイン戦で”ジダンの魔法”が発動し、低調だったチームが躍動。試合終了間際には、引退を間近にした選手とは思えないキレのあるドリブルから自らゴールを決め、下馬評を覆してのベスト8進出に導く。準々決勝のブラジル戦ではフリーキックからアンリのゴールをアシストする。ちなみに、このゴールが長年代表でコンビを組みながら1度も実現していなかったジダンがアンリのゴールをアシストする場面だった。準決勝のポルトガル戦でも、前半33分にPKによるゴールを決め、ついに決勝進出を果たす。
2006年7月9日、現役最後の試合となったイタリアとの決勝では、前半7分に得たPKのチャンスにパネンカを決め、先制ゴールをもたらす。その後、1-1の同点となったまま試合は延長後半に突入。そして、延長後半6分マルコ・マテラッツィの挑発に激昂して頭突きを見舞い、一発退場となる。レッドカードと同時にジダンの華々しい現役生活は終了。フランスはPK戦の末に敗れ、準優勝となる。現役最後の大会でフランスを決勝に導いた功績が評価され、大会の最優秀選手に選ばれる。
決勝での”頭突き騒動”は、大会が終わった後も多くの論争を呼ぶこととなった。頭突きを受けたマテラッツィがジダンの家族を侮辱する発言をしたことから、マテラッツィのほうがむしろ批判を多く集め、2人の確執は今日に至るまで完全には終わっていない。
個人成績
シーズン | 国 | クラブ | リーグ | 試合 | 得点 |
---|---|---|---|---|---|
1988-89 | カンヌ | リーグ・アン | 2 | 0 | |
1989-90 | カンヌ | リーグ・アン | 0 | 0 | |
1990-91 | カンヌ | リーグ・アン | 28 | 1 | |
1991-92 | カンヌ | リーグ・アン | 31 | 5 | |
1992-93 | ボルドー | リーグ・アン | 35 | 10 | |
1993-94 | ボルドー | リーグ・アン | 34 | 6 | |
1994-95 | ボルドー | リーグ・アン | 37 | 6 | |
1995-96 | ボルドー | リーグ・アン | 33 | 6 | |
1996-97 | ユヴェントス | セリエA | 29 | 5 | |
1997-98 | ユヴェントス | セリエA | 32 | 7 | |
1998-99 | ユヴェントス | セリエA | 25 | 2 | |
1999-00 | ユヴェントス | セリエA | 32 | 4 | |
2000-01 | ユヴェントス | セリエA | 33 | 6 | |
2001-02 | レアル・マドリード | プリメーラ | 31 | 7 | |
2002-03 | レアル・マドリード | プリメーラ | 33 | 9 | |
2003-04 | レアル・マドリード | プリメーラ | 33 | 6 | |
2004-05 | レアル・マドリード | プリメーラ | 29 | 6 | |
2005-06 | レアル・マドリード | プリメーラ | 29 | 9 |
引退後の経歴
2006年7月に引退した後は、フランスのテレビ局で解説者を務めていたが、2009年6月1日にフロレンティーノ・ペレスがレアル・マドリードの会長に復帰したことで、クラブアドバイザーに就任。2010年10月11日、ジョゼ・モウリーニョ監督からの要請を受け、チームに同行するようになる。
2011年2月8日には、ローレウス世界スポーツ賞の生涯功労賞を受賞。サッカー選手としては、ペレ、ヨハン・クライフ、フランツ・ベッケンバウアーに次ぐ4人目の受賞となった。
2011年5月には、モウリーニョとの対立からホルヘ・バルダーノGMが職を終われたことに伴い、スポーツディレクターに就任する。2012年後半にスポーツディレクターの職をフェルナンド・イエロに譲り、クラブの下部組織に関わる立場になる。メディアはモウリーニョとの確執を追及するが、実際は本格的に指導者の道を歩むための準備に入っていた。2013年7月8日にUEFA公認の指導者ライセンスを取得。
2013-14シーズンには、かつての恩師であるカルロ・アンチェロッティがレアル・マドリードの監督に就任したことに伴い、トップチームのアシスタント役となる副監督に就任。この期間にアンチェロッティから監督としてのノウハウを学ぶこととなった。
2014年6月24日リザーブチームであるレアル・マドリード・カスティージャの監督に就任する。実際、スペインの3部リーグ以上のチームを指揮するライセンスを有していなかったため、名目上は助監督という肩書になっていた。しかし、実質的にはチームの監督として振る舞っており、これが問題視されて10月27日に正しい指導ライセンスを保持していないことを理由に、スペインサッカー協会から3か月間の活動停止処分を受ける。だが、クラブがスポーツ仲裁裁判所に上訴したことによって処分が撤回される。チームはこの年、セグンダ・ディビジオンBで6位に終わる。
2015年5月9日、欧州最高位のプロライセンスであるUEFAプロライセンスを取得。これによって、正式に監督に就任することとなる。
レアル・マドリード監督時代
2015-16シーズン前半はカスティージャの監督を続けていたが、2016年1月4日、解任されたラファエル・ベニテス監督の後任として、レアル・マドリードのトップチームの監督に昇格する。クラブのレジェンドであるジダンが指揮官となったことで主力選手のモチベーションが上がり、不調に陥っていたチームの成績は上昇する。ラ・リーガでは、優勝は逃したものの、一時は勝ち点10以上を付けられていた首位バルセロナとの差を最終節までに1ポイント差まで詰め寄る快進撃を見せる。CLでは、決勝でアトレティコ・マドリードをPK戦の末に下し、就任1年目での優勝を達成。史上7人目となる選手・監督の両方でCL優勝を成し遂げた人物となる。
2016-17シーズンも、トニ・クロース、ルカ・モドリッチ、イスコの中盤の構成力を前面に出したチームを作り、クリスティアーノ・ロナウドをより9番に近い役割とすることで前年よりも攻撃力を強化することに成功。主力をうまく休養させて、コンディションを維持されるチームマネージメント術も見せていた。前年から続いていた公式戦の連続無敗記録40試合というスペイン新記録を樹立。リーグ戦では、近年後塵を拝していたバルセロナを抑えて、プリメーラ・ディビシオン優勝を飾り、CLでも2年続けて決勝に進出。決勝では、現役時代の古巣であるユヴェントスを相手に完勝し、史上初となるチャンピオンズリーグ2連覇を達成。この年のFIFA年間最優秀監督賞を受賞する。
2017-18シーズンは、主力に怪我人が相次いだこともあって早々とスペイン国内の2つのタイトル争いから離脱することとなり、2018年に入ってからはCL重視の采配を見せるようになる。結果、リーガでは3位に終わるが、CLでは例年通りの勝負強さを発揮し、3年連続での決勝進出を果たす。決勝では、ガレス・ベイルの投入が当たり、リヴァプールFCを3-1で下して前人未到となるCL3連覇を成し遂げる。シーズン終了後、「勝ち続けるには変化が必要」という理由で退任する。
その後、フリーの立場となっていたが、フレン・ロペテギ、サンチャゴ・ソラーリと2人の監督が解任した危機的状況にペレス会長からの説得を受け、2019年3月12日にレアル・マドリードの監督に電撃復帰を果たす。退任してから284日での復帰となったが、エースのクリスティアーノ・ロナウドが移籍した影響で低調だったチームを完全に立て直すことはジダンの神通力をもってしても叶わなかった。
2019-20シーズンの序盤は不安定な戦いが続き、CLグループリーグでは、パリ・サンジェルマンに0-3で完敗するなど、かつて見せたほどの強さを見せられずにいた。しかし、フェデリコ・バルベルデの台頭もあって、ソリッドな守備をベースにしたチーム作りに舵を切ると、この年のバルセロナとのエル・クラシコに勝ち越すなど軌道に乗るようになる。新型コロナウィルスの感染拡大によるリーグ中断を経てリーグが再開されて以降は、怒涛のリーグ戦10連勝を記録し、3シーズンぶりとなるラ・リーガ制覇を達成。
2020-21シーズンはセルヒオ・ラモスやダニエル・カルバハルといったチームの重鎮が揃ってシーズンの大半を欠場するなど厳しいマネージメントを強いられることになる。前半戦の低調な戦いぶりから解任寸前とまで報じられるも、堅守速攻に舵を切った戦術に変更することで後半戦に入ってチームは持ち直していく。厳しい台所事情の中で奮闘したものの、CLではベスト4でチェルシーに敗れ、ラ・リーガでは最終節まで喰らいつきながら一歩及ばず、無冠に終わる。シーズン終了後の2021年5月27日に退任を発表する。
監督としての成績
シーズン | 国 | クラブ | リーグ | 順位 | 獲得タイトル |
---|---|---|---|---|---|
2015ー16 | レアル・マドリード・カスティージャ | セグンダB | ※1 | ||
レアル・マドリード ※2 | プリメーラ | 2位 | CL | ||
2016-17 | レアル・マドリード | プリメーラ | 1位 | リーガ、CL | |
2017-18 | レアル・マドリード | プリメーラ | 3位 | CL | |
2018-19 | レアル・マドリード ※3 | プリメーラ | 3位 | ||
2019-20 | レアル・マドリード | プリメーラ | 1位 | リーガ | |
2020-21 | レアル・マドリード | プリメーラ | 2位 |
※1 2016年1月4日にトップチームの監督に就任したため、シーズン途中に退任。
※2 2016年1月4日より、シーズン途中に就任。
※3 2019年3月12日より、シーズン途中に就任。
プレースタイル
主にトップ下のポジションで攻撃の全権を握る司令塔であり、味方に的確なパスを出して攻撃を組み立てる。足元のレベルが歴代のプレイヤーの中でも群を抜いて高く、まるで足下にボールが吸い付くかのごとく繊細なタッチでどんなボールであってもしっかりと足下に収め、これを両足でやってのけるだけの技術を有している。相手に囲まれても技術の高さを駆使することでほとんどボールを失うことがなく、圧倒的なボールキープ力によって味方に時間とスペースを与え、チャンスと見ると一撃必殺のスルーパスで決定機を生み出す。
ドリブルの技術も高く、スピードやアジリティが特別秀でていたわけではないが、軸がしっかりしているため体の近い位置にボールを扱うことができ、相手が踏み込むことができない間合いでボールをキープしながら前進していくスタイルのドリブルを得意としていた。そのため、単なるパサーというわけではなく、ドリブルでボールを運びながら試合をコントロールするスタイルの司令塔だった。ドリブルの途中で両足の裏でボールを転がしながらターンをし、相手をかわす「ルーレット」という技を得意としていた。日本では、たびたび「マルセイユ・ルーレット」とも呼ばれ、当時のサッカー少年たちの多くがこれを真似しようとしていた。
普段のレギュラーシーズンでの得点力はさほど高くないが、1998年ワールドカップ決勝や2001-02チャンピオンズリーグ決勝のように、大舞台で勝負を決めるようなゴールを奪うことが多い。左右両足からパワー、正確さ、スピードを有したシュートを放つことができ、フリーキックからの直接ゴールも多い。ここぞというときは、185cmの長身を生かしたヘディングシュートによってゴールを狙うこともある。
フィジカルやボディバランスにも長けており、プレッシングサッカー全盛の時代を迎えファンタジスタが絶滅種になり始めていた1990年代後半のセリエAにおいてジダンがトップ下の位置で王様として君臨できたのも、プレッシングに対抗できるだけのフィジカルを有していたからである。本来なら相反する繊細さと強靭さを合わせ持ったプレイヤーであると言える。
指導者としての特徴
戦術家というよりはモチベータータイプの監督であり、クリスティアーノ・ロナウドにローテーションを受け入れるように説得するなど、現役時代のカリスマ性を駆使したチームマネージメント術に長けている。我の強いタレントが揃うレアル・マドリードのロッカールームをもっともまとめることができず監督といえ、必要最小限の言葉を用いて、選手にアドバイスをおこなうタイプである。
指導者としての影響を受けているのは、現役時代に師事し、アシスタントコーチとして右腕を担ったこともあるカルロ・アンチェロッティである。クロース、モドリッチの両インサイドハーフをサイドバックの後ろのエリアに落としてビルドアップに関与させる戦術は、アンチェロッティが採用していたものを踏襲している。自身もアンチェロッティのことを偉大な指導者であると称している。
CL三連覇の時代は、中盤の構成力を中心にクリスティアーノ・ロナウドの得点力を活かすためのチーム作りをしていたが、後方のリスク管理の甘さが目立ち、セルヒオ・ラモスやカゼミーロの個人の能力で何とかしている面があった。レアル・マドリードの監督に再任した後は、堅い守備をベースとしたソリッドなチーム作りをおこない、規律の取れたチームに仕上げている。ジョゼップ・グアルディオラやユルゲン・クロップのように自身の哲学や戦術が前面に出るタイプではないが、ここぞという時の勝負強さや思い切った采配は現役時代を彷彿とさせるものがある。
エピソード・人物
- ジダンとともにフランスサッカー界の二大スターとされるミシェル・プラティニは、「基本的な技術ならジダンは王だ。ボールを受け、コントロールすることについて誰も彼と同じことはできないだろう。」と評価している。若い頃は、プラティニの再来やプラティニ二世と呼ばれていたが、1998年ワールドカップ以降にそのような評価をする者は見なくなった。
- 4人の息子がおり、長男のエンツォ、次男のルカはレアル・マドリードの下部組織で育ち、プロサッカー選手となっている。2人ともフランスアンダー世代の代表に選ばれた経験がある。ゴールキーパーであるルカ・ジダンは、2019年3月31日に監督である父親にゴールを任され、トップチームデビューを果たしている。また、三男のテオと四男のエリアスもレアル・マドリードの下部組織でプレーしている。
- 現役時代は非常にストイックで自己管理に厳しかったと言われ、スター選手にありがちな派手な私生活や夜遊び、女性関係の浮き名などは無い。
- ホテルでテニスのアンドレ・アガシとたまたま隣同士の部屋となったが、内気な性格のため会いに行くことができなかった。歯に着せぬ言動で知られる正反対の性格のクリストフ・デュガリーは親友である。
- 2006年ワールドカップの際、韓国戦で引き分けに終わり、イエローカードのため次の試合に出場停止となったうえ、試合終了間際に交代を命じられたことで激昂し、ロッカールームのドアを蹴って壊したことがある。この会場であった現在はドイツ・ブンデスリーガのRBライプツィヒが本拠地とするツェントラールシュタディオンは、これを「ジダンが壊したドア」として保存している。
関連動画
関連商品
関連項目
- 3
- 0pt