北方領土とは、日本列島の北海道よりさらに北部における、日本の領土である。
1945年まで日本が統治していたが、現在はロシア連邦により支配されている。
北方領土(北方四島)
一般に「北方領土」とは、北海道の北東部にある
択捉島(えとろふとう) 国後島(くなしりとう) 色丹島(しこたんとう) 歯舞群島(はぼまいぐんとう)
の島群を指す用語である。太平洋戦争において、ポツダム宣言受諾表明(1945年8月14日ないし15日)後、これらの島々に対して侵攻したソビエト連邦(その後継国家であるロシア連邦)による支配が今もって解かれておらず、日本とロシア連邦の間で係争地域となっている。
ロシア連邦とって北方領土およびその周辺の海域は、不凍港(冬でも海面が凍らず使用できる港湾)の設置や、ロシア連邦海軍の艦船・潜水艦の航路、魚介類などの海産資源、海底油田、天然ガスなどのエネルギー資源の獲得に重要な地域であり、日露間での交渉こそ行われているものの、返還に関して具体的な合意に至っていない。
現在、北方領土に日本国民が入るためには、ロシア連邦政府の発行する査証(ビザ)が必要である。このビザを発行して北方領土に入ることは、ロシアの管轄・領有する地域であると認めているようなものであるため、1989年に日本政府は国民に対してビザ発行による入国を控えるよう要請している。
見るだけであれば、納沙布岬(根室駅からバス)からよく見える。
岬の展望台の望遠鏡を使えば、歯舞群島の水晶島や貝殻島に建つロシアの施設まで見ることができ、いかに近い場所であるかがよくわかる。よく晴れていれば国後島も望むことができる。
千島列島
※「千島列島」の記事も参照
千島列島は、北海道より北東、ロシア領カムチャツカ半島にかけての海域に連なる、大小30余りの島や岩礁により構成される列島である。1855年の日露和親条約により択捉島と国後島が、1875年の樺太・千島交換条約によって列島全てが日本の領土となっていた。北方四島と同じく、太平洋戦争でのポツダム宣言受諾表明後にソビエト連邦軍の侵攻を受け、ソ連(ロシア)の支配するところとなった。
サンフランシスコ講和条約により、日本は千島列島を「放棄」したことになっている。ただし日本政府は、ソ連が同条約に加わっていないこと、および「放棄」した千島列島の範囲を「得撫島以北」だと定義していることにより、択捉島・国後島を除く千島列島については「どこの国にも属していない」と見做している。また、色丹島と歯舞群島は千島列島の島ではなく、北海道の付属諸島だとしている。
ソ連がサンフランシスコ講和条約に調印していないとはいえ、「得撫島以北」については「放棄」したと認めていることから、千島列島全体を領土要求・返還交渉の対象とする公式な動きは基本的に無い。ただし国会に議席を持つ政党の中で、日本共産党は千島列島全体の返還を主張している。
樺太(南樺太)
※「樺太」の記事も参照
宗谷海峡を挟んで北海道の北に位置する大島・樺太(サハリン)は、江戸時代よりアイヌ・日本人(和人)・ロシア人が雑居する地域となっており、18世紀中ごろから日本とロシア(ロシア帝国)との間で係争地帯化していた。1855年の日露和親条約では国境を画定するに至らず、1875年の樺太・千島交換条約によっていったん全島がロシア帝国の領土となった。しかし1905年、日露戦争における日本の「勝利」の結果、北緯50度線で島が南北分割され、南側が日本の領土となった。
千島列島とは異なり、ポツダム宣言受諾表明前の1945年8月11日よりソ連軍が北緯50度線を突破。進撃は15日以後も続き、25日までに南樺太全土を制圧。一部の部隊は転進して、択捉島以南の「北方四島」制圧を行っている。南樺太地域には日本陸軍第88師団(兵力約2万)のほか約40万人の民間人がいたが、多くが戦闘に巻き込まれ、真岡郵便電信局事件や三船遭難事件、戦後のシベリア抑留といった戦災を被った(元横綱・大鵬は南樺太出身で、ソ連の進撃前に辛くも北海道への疎開を果たした)。1943年に南樺太は「内地」への編入措置が取られていたので、樺太の戦いは「本土決戦」の一部と言える。
サンフランシスコ講和条約により、日本は南樺太を「放棄」したことになっている。ただし日本政府は千島列島と同様、ソ連が同条約に調印していないことなどを理由に、南樺太は「どこの国にも属していない」と見做している。が、これも千島と同じく「放棄」したことは認めているので、積極的な領土要求・返還交渉の動きは無い。千島の返還を主張している日本共産党も、南樺太は日露戦争という「戦争により獲得した領土」であることを理由に、こちらは返還要求の対象にはしていない(日本社会党は南樺太および全千島の返還を主張していた)。
北方領土に関わる3つの条約
1855年2月7日 日露和親条約(日本国魯西亜国通好条約)
1855年(安政元年)、日本の江戸幕府とロシア帝国により締結された条約である。日本側全権は川路聖謨(勘定奉行)と筒井政憲(大目付格)、ロシア側全権はプチャーチン提督。1981年(昭和56年)、鈴木善幸内閣は閣議了解によって、この条約が締結された2月7日を「北方領土の日」と定めた。(内閣府/北方領土の日)
18世紀半ばより接触の始まった日本とロシアとの間で、初めて国境線が定められた。
樺太について、日本側は後のポーツマス条約時と同じ北緯50度線での南北分割、ロシア側は島の最南端のアニワ湾(亜庭湾)周辺のみを日本領・残り全島をロシア領とすることを主張し、平行線をたどる(ただし川路は老中へ宛てた文書で、日本の影響力が現実に亜庭湾辺りにしか及んでいないことを認め、樺太は放棄しても差し支えないのではないかと言っている)。しかし最終的にはロシア側が交渉の長期化を望まなかったため、択捉・得撫間の国境のみ確定することとなった。
正文は日本語・中国語・ロシア語・オランダ語により作られた。全て有効である。
ただしこの第二条につき、一部学者からロシア語・オランダ語と日本語で解釈に齟齬があると指摘されている。日本語で「夫より北の方クリル諸島」とある部分を、ロシア語・オランダ語では「残りの、北の方の、クリル諸島」と読むべきとする・・・すなわち、現在日本政府が言う「放棄した千島列島(クリル諸島)の南端は得撫島」という説と、「択捉・国後も千島列島(クリル諸島)で、ここではクリル諸島を択捉・得撫で南北に分けた」と解釈するべき(=「放棄した千島列島」に択捉・国後も含む)とする説の対立である。
日本政府は、日本語訳文も正文なのでこちらの主張に差支えはないとし、1992年、日本語正文の条約文をロシア語翻訳したパンフレットを、ロシア国内に配布したことがある。
1875年(明治8年) 樺太・千島交換条約(サンクト・ペテルブルク条約)
国境が定められなかった樺太で日本人・ロシア人・アイヌ間の紛争が頻発したため、幕末の1867年(慶応3年)に小出秀実(箱館奉行)と石川利政(目付)がロシア帝国首都サンクト・ペテルブルクに派遣されて交渉を行ったが、国境の合意には至らず「日露間樺太島仮規則」を仮調印するにとどまった。
日本の政権が明治政府に変わると、政府内では樺太の南北分割(あわよくば全島領有)を主張する勢力と、樺太は放棄して蝦夷地(北海道)の開拓・防衛に尽力すべきとする勢力の対立が起こったが、前者は征韓論の敗北とともに失脚。後者を代表する黒田清隆の後援を受けた榎本武揚がサンクト・ペテルブルクに赴き、この条約が締結された。日本側全権は榎本武揚(海軍中将・在露特命全権公使)、ロシア側全権はゴルチャコフ公爵(外務大臣)。
- 第一款 大日本国皇帝陛下ハ 其ノ後胤ニ至ル迄 現今 樺太島(即薩哈嗹島)ノ一部ヲ所領スルノ権理及君主ニ属スル一切ノ権理ヲ 全露西亜国皇帝陛下ニ譲リ 而後樺太全島ハ悉ク露西亜帝国ニ属シ 「ラペルーズ」海峡ヲ以テ両国ノ境界トス
- 第二款 全露西亜国皇帝陛下ハ 第一款ニ記セル樺太島(即薩哈嗹島)ノ権理ヲ受シ 代トシテ其後胤ニ至ル迄 現今所領 「クリル」群島即チ 第一「シュムシュ」島 第二「アライド」島 第三「パラムシル」島 第四「マカンルシ」島 第五「ヲネコタン」島 第六「ハリムコタン」島 第七「エカルマ」島 第八「シャスコタン」島 第九「ムシル」島 第十「ライコケ」島 第十一「マツア」島 第十二「ラスツア」島 第十三「スレドネワ」及「ウシシル」島 第十四「ケトイ」島 第十五「シムシル」島 第十六「ブロトン」島 第十七「チエルポイ」並ニ「プラット、チエルポエフ」島 第十八「ウルップ」島 共計十八島ノ権利及ビ君主ニ属スル一切ノ権理ヲ 大日本国皇帝陛下ニ譲リ 而今而後「クリル」全島ハ日本帝国ニ属シ 柬察加地方「ラパツカ」岬ト「シュムシュ」島ノ間ナル海峡ヲ以テ両国ノ境界トス
正文はフランス語。日本語・ロシア語ともにあるが、一部学者は正文ではないので無効と主張している。
ここでも後世、フランス語正文と日本語訳との齟齬を指摘する意見がある。日本語訳では「ここに列挙された得撫島その他の島々のことを『クリル諸島(群島)/千島列島』としている」と読めるが、フランス語正文では「クリル諸島/千島列島のうち、現在ロシアが所有している部分」と読めるという点・・・つまりは、択捉・国後を千島列島(クリル諸島)に含むのか否かということである。この点は国会で2度、取り上げられたことがあるが、日本政府の説明はそれぞれで異なったものになっている。
【1950年3月8日 衆議院外務委員会】 [浦口鉄男 (立憲養正会)] …択捉島以南、すなわち択捉、国後以南の島は当然もう日本国としてはっきりきまつていた後において、千島・樺太交換条約によって、クリル全島すなわちウルップ島よりシユムシユ島――ウルップ島というのは択捉との境でありますが、下田条約(注:日露和親条約)によってすでに日本と決定されたその以北、いわゆるウルップ島以北がクリル全島、こういう呼称で呼ばれているのであります。そうでなければこの条約の文章が成立たないのであります。 [西村熊雄 外務省条約局長] その条約の条文を持ちませんので、確とした自信はございませんが、今繰返された文句によれば、例の明治八年の交換条約で言う意味は、いわゆる日露間の国境以外の部分である千島のすべての島という意味でございましよう。ですから千島列島なるものが、その国境以北だけがいわゆる千島列島であつて、それ以南の南千島というものが千島列島でないという反対解釈は生れないかと思います。 【1986年4月2日 参議院外務委員会】 [寺田熊雄 (日本社会党)] …クリル諸島に関する文を見ますと、これはフランス語だけれども、クリル諸島と称せられる島々のグループ、「le groupe des Iles dites Kouriles qu'Elle possede actuellement」と書いてある。これは、結局ロシア皇帝が現時点において持っているクリルと称せられる島々のグループ、それを大日本国の皇帝陛下に譲ると言っているので、これをつまり日本語では「現今所領」という何かわけのわからない言葉で言っているけれども、クリル諸島というのは、この今挙げた十八島じゃなくして、ロシア皇帝が現時点において持っているところのクリル諸島、こういうふうに訳すべきなのを、何かはっきりしない訳をつけて、これを根拠にクリル諸島というのは旧ロシア帝国が十八島だけだと認めたというふうな理論的根拠にしている。それは非常に条約の解釈を誤ったものだと思いますが、これはどうですか。 [小和田恒 外務省条約局長] 今御指摘になりました樺太千島交換条約の第二款でございますが、フランス語は、確かに御指摘のように、「le groupe des Iles dites Kouriles qu'Elle possede actuellement」と、こう書いてありますので、それをどういうふうに解釈するかという問題であろうと思います。 ここで明らかにはっきり「le groupe des Iles dites Kouriles」と、こう言っているわけで、クリルと呼ばれる一連の島々、クリルと呼ばれる群島、つまりクリル群島ということが書いてあって、その後で、「qu'Elle possede actuellement」というのは、それをロシアが現在所有をしておる、こういうことが 書いてあるわけでございまして、そのこと自体は、何もクリル群島というものが別個に存在して、その中でロシアが持っている部分というふうに書いてあるわけではないというふうに考えております。(中略) そういうふうにいたしますと、この樺太千島交換条約ができた当時における日本政府の認識としては、やはりこのクリル群島というものが、ここに書いてありますように、すなわち「第一シュムシュ」から「第十八ウルップ」に至る十八島ということを指しておるという認識に基づいてこの条約ができていたというふうに考えていいのではないかというふうに思っております。 |
1905年(明治38年) ポーツマス条約
日露戦争での日本の「勝利」の結果、締結された講和条約。領土については、樺太の北緯50度線より南の部分が日本領となることが取り決められた。
サンフランシスコ講和条約と、変化する日本政府の方針
サンフランシスコ講和条約第2条【領土権の放棄】(C)項
択捉島と国後島は「放棄した千島列島」なのか
北方四島は一括して日本へ返還されるべきとするのが現在の日本政府の公式見解であり、日本国内において最も多数の意見である。主な論拠としては、
- 択捉島と国後島は、放棄した「千島列島」の範囲に含まれない。最初に日本領であることを確認した日露和親条約より以前も以後も、択捉・国後は何処の国の領土にもなったことがない「日本固有の領土」である。
- 色丹島と歯舞群島はそもそも「千島列島」ではなく、北海道に近接(付随)する島々である。
- ポツダム宣言第8条→(「カイロ」宣言ノ条項ハ履行セラルヘク又日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国並ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルヘシ)は、日本に放棄させる領土の範囲として、カイロ宣言を指定している。そしてカイロ宣言には、
「右同盟国(注:アメリカ合衆国・大英帝国・中華民国)ハ自国ノ為ニ何等ノ利得ヲモ欲求スルモノニ非ズ又
領土拡張ノ何等ノ念ヲモ有スルモノニ非ズ」
「右同盟国ノ目的ハ日本国ヨリ千九百十四年ノ第一次世界戦争ノ開始以後ニ於テ日本国ガ奪取シ又ハ占領シタル太平洋ニ於ケル一切ノ島嶼ヲ剥奪スルコト竝ニ満洲、台湾及膨湖島ノ如キ日本国ガ清国人ヨリ盗取シタル一切ノ地域ヲ中華民国ニ返還スルコトニ在リ」
の文があり、ソ連による北方四島・千島列島・南樺太の「併合」はカイロ宣言の信義にもとり、かつ第一次世界大戦(1914年)以前から日本領であったこれら地域を、ソ連(および後継国家であるロシア連邦)が占領するのは不法行為であり、容認できない。
が挙げられる。ところが、1956年までの日本政府は、公式見解として「択捉島と国後島は(放棄した)千島列島に含まれる」と表明していた。
【1947年10月8日 参議院外務委員会 萩原徹 外務省条約局長】 一八五五年に日露間に友好条約ができまして、この条約でロシヤと日本の間の千島における国境を確定して、それで北海道に一番近いのは国後で、その次は択捉という島なのでありますが、その二つを日本領土とし、それから三番目の得撫から北をロシヤ領とする。つまりロシヤと日本との国境は、二番目の択捉と三番目の得撫の間にある択捉海峡を以て境とするということを約束いたしたのであります。 【1950年3月8日 衆議院外務委員会 島津久大 外務省政務局長】 ヤルタ協定の千島の意味でございますが、いわゆる南千島、北千島を含めたものを言つておると考えるのです。ただ北海道と近接しております歯舞、色丹は千島に含んでいないと考えます。 【同委員会 西村熊雄 外務省条約局長】 一九四六年の一月二十九日付の総司令官の日本政府にあてたメモランダム(注:日本政府の施政権から除外される地域を列挙したGHQ指令)でありますが、例の外郭地域を日本の行政上から分離するあの地域を明示された覚書であります。その第三項の中に「千島列島・歯舞諸島及び色丹島」とございます。いわゆる南千島と北千島とを合せて千島列島という観念で表示してあります。 【1951年8月17日 衆議院本会議 吉田茂 総理大臣】 日本の領土なるものは、四つの大きな島と、これに付属する小さい島とに限られておるのであります。すなわち、その以外の領土については放棄いたしたのであります。これは嚴として存する事実であります。 【9月7日 サンフランシスコ講和会議 吉田全権演説】 千島列島及び南樺太の地域は日本が侵略によつて奪取したものだとのソ連全権の主張は、承服いたしかねます。日本開国の当時、千島南部の二島、択捉、国後両島が日本領であることについては、帝政ロシアも何ら異議を挿さまなかつたのであります。ただ得撫の北の北千島諸島と樺太南部は、当時日露両国人の混住の地でありました。1875年5月7日日露両国政府は、平和的な外交交渉を通じて樺太南部は露領とし、その代償として北千島諸島は日本領とすることに話合をつけたのであります。 【10月19日 衆議院平和条約及び日米安全保委員会 西村条約局長】 條約にある千島列島の範囲については、北千島と南千島の両者を含むと考えております。しかし南千島と北千島は、歴史的に見てまつたくその立場が違うことは、すでに全権がサンフランシスコ会議の演説において明らかにされた通りでございます。 【11月6日 参議院平和条約及び日米安全保委員会 草場隆圓 外務政務次官】 千島列島の中には歯舞、色丹は加えていない。そんならばほかのずつと二十五島でございますが、その他の島の中で、南千島は従来から安政條約以降において問題とならなかつたところである。即ち国後及び択捉の問題は国民的感情から申しますと、千島と違うという考え方を持つて行くことがむしろ国民的感情かも知れません。併し全体的な立場からすると、これはやつぱり千島としての解釈の下にこの解釈を下すのが妥当であります。 【1952年7月31日 衆議院本会議決議】 歯舞、色丹島については、当然わが国の主権に属するものなるにつき、速やかにその引渡を受けること。 (注:択捉・国後については全く言及無し) 【1953年3月5日 参議院外務・法務委員会 下田武三 外務省条約局長】 現在のところ只今御指摘の歯舞、色丹両島とこの竹島以外に何ら紛争の発生が現実にございませんし、又ありそうな島もないわけでございます |
二島返還論から四島返還論へ
しかし内閣が吉田茂から鳩山一郎に変わり、ソ連との国交正常化交渉が本格化すると、政府の態度に変化が出てくるようになる。
【1955年12月7日 衆議院予算委員会 鳩山一郎 総理大臣】 歯舞、色丹でもって満足しますということを私言った覚えはありません。とにかく、領土問題についても解決しなくてはならない問題の中に入るということだけは言ったことはあるのですが、その要求する島は歯舞、色丹だけだということはかつて言ったことはないのであります。 【12月8日 衆議院外務委員会 下田条約局長】 ヤルタ協定は、御承知のようにクーリール(注:クリル諸島。千島列島のロシア呼称)はソ連に引き渡さるべしとありまして、クーリールというだけでありまして、北千島、南千島、中千島と区別はしていないはもとより、本来の日本の領土であります歯舞、色丹については何らの言及をいたしておりません。 【12月9日 衆議院外務委員会 中川融 外務省アジア局長】 明治の初めに日露間で協定ができました際には、これは島の名前は列挙してあったのでありますが、その際にはクーリール・アイランズと書いてありましたが、カッコをして書いてある島には、南千島は入っていないのであります。従ってわれわれは、ロシヤとの法律関係、条約関係におきましては、クーリール・アイランズという場合には、南千島は入っていないと解釈しておるのであります。 【12月15日 参議院予算委員会 重光葵 外務大臣】 問題になっておりますのは、北海道の一部と従来考えられておった島々のことでございます(略)これは南千島は北海道の一部と、日本の固有の領土であったと考えております(略)歴史上日本領土でなかったことのないような所については、これは日本が強く主張するということは当然、正当なる強い主張だと考えております。 |
そして1956年2月11日の衆議院外務委員会で、森下國雄・外務政務次官は以下の決定的な答弁をする。
御承知のように国後、択捉両島の日本領土であることは、一八五五年、安政元年下田条約において、ただいまお述べになったように調印された日本国とロシヤ国通好条約によって露国からも確認されており、自来両島に対しましては何ら領土的変更が加えられることなく終戦時に至っております。一八七五年、明治八年の樺太・千島交換条約においても、両島は交換の対象たる千島として取り扱われなかったのであります。
サンフランシスコ平和条約はソ連が参加しているものではないが、右平和条約にいう千島列島の中にも両島は含まれていないというのが政府の見解であります。
同会議において吉田全権は択捉、国後両島につき特に言及を行い、千島列島及び南樺太の地域は、日本が侵略によって略取したものだとするソ連全権の主張に反論を加えた後、日本開国の当時、千島南部の二島すなわち択捉、国後両島が日本領であることについては、帝政ロシヤも何ら異議を差しはさまなかったと特に指摘しておるのであります。
また連合国はこの今次戦争について領土の不拡大方針を掲げていたこと、また太平洋憲章、カイロ宣言、ヤルタ協定、ポツダム宣言はすべて過去において日本が暴力により略取した領土を返還せしめるという趣旨であり、日本国民は連合国が自国の領土的拡大を求めているものでないことを信じて疑わない。日本の固有の領土たる南千島をソ連が自国領土であると主張することは、日本国民一人として納得し得ないところであります。
クーリールといいまして、クーリールなるものの範囲も、これも連合国間で何ら意見の一致を見ていないのであります。従いましてその意見の一致を見ていないクーリールなるものの範囲について、固有の日本の領土たる国後、択捉はクーリールに含まないと言うことは、日本の自由なりということになっているのであります。であるとするならば、今日日本が、最終的の領土処分を行いました平和条約がない以上は、日本の利益に従ったところを最大限まで主張するということは、これは当然のなすべき処置であると私は考えます。 ソ連は桑港(=サンフランシスコ)条約の当事国ではないという点から、桑港条約にいかに規定しておりましても、それが直ちに日ソ間には妥当しないという大前提がございます。それはそれといたしまして、もう一つ大きな点は、桑港条約の今の第二条の(C)の点でございますが、いろいろ桑港条約の主たる起草者たる米国政府その他に聞きまして、クーリールに限ってソ連に引き渡すという言葉を使っております。それが出ましたのはヤルタにおけるチャーチル、ルーズヴェルト、スターリンの三巨頭会談から起ったわけであります。三巨頭が一体ソ連にクーリールを引き渡すという場合において、どういう範囲の島のことであるかを三巨頭が認識しておったのであるかどうかという質問に対しましては、いや、実は三巨頭はそんなことはちっとも知らなかったという話でございます。 三巨頭の間にクーリールの範囲について、実に何も御存じないできめてしまったというのが実情なんであります。ですから、北海道の一部であった国後、歯舞、色丹等もクーリールの一部であると主張することができるかもしれません。しかし、そんなことはちっとも知らないで勝手に行われた。かつて日本の固有の領土であって、一度も外国の支配下になかった国後、択捉、それも取り上げることを主張しておったのかどうか、そんな明確な主張はちっともなかったということであります。 |
四島返還論はこうした経緯で生まれたものであるが、政府や国会がかつて択捉島・国後島の返還に積極的でなかったいうのは、現在の日本側にとって極めて不都合なことであるため、 学校教育などで教えられることはなく、あまり知られていない。
日ソ交渉とアメリカの外交圧力
1955年6月からロンドンで始まった日本とソ連の接触は、案の定領土問題で行き詰まる。日本側は初め、全千島と南樺太の返還を要求。次いで、択捉・国後・色丹・歯舞の四島を提案する。対してソ連側は、色丹・歯舞のみ、以後の非武装地帯化したうえでの引き渡しを示唆。ロンドンの交渉団(松本俊一全権)は色丹・歯舞二島での妥協を本国に請訓するが、政府は妥協を不可としたため、交渉決裂する。
政府が四島返還に固執したのは、重光葵外務大臣が反ソ・反共であったことと、55年11月に保守合同で自由民主党ができ、反ソ・反共志向の旧・吉田茂派(池田勇人など)勢力が与党入りして重光をバックアップするようになり、これを無視できなかったためである。かつて千島・樺太どころか、択捉・国後の要求にも消極的だった吉田政権の人々が四島返還を主張するという事になるわけだが、これには「反ソ・反共」の立場と、吉田政権を倒された恨みから、鳩山一郎総理大臣の外交を頓挫させようとする行動、加えて鳩山失脚により総理の座を狙う重光の野心、などの政治的思惑によるものだった。
日本の国連加盟問題でソ連拒否権発動(55年12月)、北洋漁業の大幅制限声明と日ソ漁業交渉(56年3月~5月)といった、交渉決裂に対するソ連の報復措置を経て、56年7月14日に重光外相自らが乗り出してモスクワで交渉が再開される。これまでの方針通り四島返還を主張した重光だったが、8月12日に二島での妥協を表明。ロンドン交渉時の全権だった松本俊一代議士がそれに反対する中、14日付で「日ソ平和条約(案)」が作られる。
重光はこの案をもっての条約締結を本国請訓するが、内閣も自民党もこぞって反対。再び交渉は頓挫する。
この直後の8月19日、スエズ運河会議出席のためロンドンに向かった重光は、米国務長官ジョン・フォスター・ダレスと会談。ここで今回の日ソ交渉の経過を説明した重光に対し、ダレスの「一喝」があったといわれる。
※一九五六年の日ソ国交回復交渉に関する質問主意書
※衆議院議員鈴木宗男君提出一九五六年の日ソ国交回復交渉に関する質問に対する答弁書
このことについては、かねてワシントンの日本大使館に対して、アメリカの国務省からダレス長官が重光外相に述べた趣旨の申し入れがあったのである。しかしモスクワで交渉が妥結しなかったのであるから、まさかダレス長官が重光外相にこのようなことをいうことは、重光氏としても予想しなかったところであったらしい。
重光氏もダレスが何故にこの段階において日本の態度を牽制するようなことをいい、ことに米国も琉球諸島の併合を主張しうる地位に立つというがごとき、まことに、おどしともとれるようなことをいったのか、重光外相のみならず、私自身も非常に了解に苦しんだ。(松本俊一 『モスクワにかける虹 日ソ国交回復秘録』)
9月7日、アメリカ国務省は以下のような覚書を日本政府に通知した。(全文)
米国政府は、日ソ間の戦争状態は正式に終了せしめられるべきものであると信ずる。
元来この戦争状態は、ソ連邦がサン・フランシスコ平和条約の署名を拒否した一九五一年当時から、つとに終了せしめられていなければならなかつたものである。日本はまた、日本が加盟の資格を完全に有する国際連合に、久しい以前から加盟することを認められていなければならなかつた。さらにまた、ソ連邦の手中にある日本人捕虜は、降伏条項に従つて、久しい以前に送還されていなければならなかつたのである。
領土問題に関しては、さきに日本政府に通報したとおり、米国は、いわゆるヤルタ協定なるものは単にその当事国の当時の首脳者が共通の目標を陳述した文書にすぎないものと認め、その当事国によるなんらの最終的決定をなすものでもなく、また領土移転のいかなる法律的効果を持つものでもないと認めるものである。
サン・フランシスコ平和条約-この条約はソ連邦が署名を拒否したから同国に対してはなんらの権利を付与するものではないが-は、日本によつて放棄された領土の主権の帰還を決定しておらず、この問題は、サン・フランシスコ会議で米国代表が述べたとおり、同条約とは別個の国際的解決手段に付せられるべきものとして残されている。いずれにしても日本は、同条約で放棄した領土に対する主権を他に引き渡す権利を持つてはいないのである。
このような性質のいかなる行為がなされたとしても、それは、米国の見解によれば、サン・フランシスコ条約の署名国を拘束しうるものではなく、また同条約署名国は、かかる行為に対しては、おそらく同条約によつて与えられた一切の権利を留保するものと推測される。
米国は、歴史上の事実を注意深く検討した結果、択捉、国後両島は、(北海道の一部たる歯舞諸島及び色丹島とともに)、常に固有の日本領土の一部をなしてきたものであり、かつ、正当に日本国の主権下にあるものとして認められなければならないものであるとの結論に到達した。米国は、このことにソ連邦が同意するならば、それは極東における緊張の緩和に積極的に寄与することになるであろうと考えるものである。
『ダレスの一喝』が色丹・歯舞二島返還での妥協を頓挫させたという説もあるが、既に55年12月の時点で政府・自民党の方針は「四島返還」に転換されていたのであるから、時系列的には『ダレスの一喝』が影響を与えたとは言えない。しかしこの後成立した『日ソ共同宣言』において領土問題が決着することはなく、かつ国務省メモランダムにより、東西冷戦の角逐のなかでこれ以外の条件によって妥結することは、事実上不可能となったであろう。
日ソ共同宣言第9条
平和条約の締結に関する交渉を継続することに同意する。
ソヴィエト社会主義共和国連邦は、日本国の要望にこたえかつ日本国の利益を考慮して、
歯舞群島及び色丹島を日本国に引き渡すことに同意する。
ただし、これらの諸島は、日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との間の
平和条約が締結された後に現実に引き渡されるものとする。
日ソ共同宣言から現在までの状況
現在から振り返ってみても、日本とソ連(ロシア)が北方領土について最も折り合いをつけられたのは日ソ共同宣言の時である。共同宣言締結によってソ連は拒否権を取り下げ、日本の国連加盟が実現した。しかし1960年、岸信介内閣が日米安全保障条約改定を行なって反共・反ソ姿勢を明確にすると、ソ連は激しく反発。歯舞・色丹引き渡しの無効を言い出し、田中角栄首相のモスクワ訪問(1973年)まで首脳会談が開かれず、北洋漁業で日本漁船のソ連巡視船による拿捕が後を絶たないなど、交渉のテーブルにつくこと自体困難な状況が続く。
ゴルバチョフの登場でソ連の状況が変化すると、中曾根康弘首相のモスクワ訪問(1985年)、ゴルバチョフ訪日(1991年)が実現するなど、北方領土問題の対話が行われるようになる。ソ連崩壊後に政権を執ったエリツィンはそれなりに領土問題に取り組み(1993年東京宣言)、後継のプーチンも解決に意欲を見せている(2001年イルクーツク声明・2013年森喜朗元首相と会談)が、このゴルバチョフ以後の各政権との交渉は結局のところ、日ソ共同宣言のレベルまで話を戻せるか否かということに終始したと言わざるを得ないものだった。
北方領土をはじめとする領土問題解決を、外交の大きな柱に位置づけている安倍晋三首相(第2次内閣)が、2013年4月に予定されているプーチン大統領との会談でどれだけの成果をあげられるかが注目されている。
「返還」が実現した場合に予想される諸問題
日本は大東亜戦争敗戦で失った領土のうち、奄美群島、小笠原諸島、そして沖縄を取り戻した。しかし沖縄は言わずもがな、決して人口が多いと言えない小笠原ですら、返還前に移り住んでいた欧米系島民の取り扱いについて困難があったという。まして、現在19000人の人口があるという北方領土(※千島列島+樺太島全体=サハリン州では54万人)が「返還」された場合、問題が際限なく勃発するであろうことは想像に難くない。
- 「在日ロシア人」の発生 ・・・ 第二次世界大戦の後始末として、ドイツ第三帝国の支配下にあった中欧・東欧からドイツ人をことごとく追放するという策が取られたが、今時そんなことができるはずもなく、北方四島が一括返還となると確実に1万数千人のロシア人を日本国内に抱え込むことになる。全千島や南樺太もとなれば、その数は何倍にも膨れ上がる。彼らの処遇をどうするのか。
- 旧島民の帰島・新規移住者 ・・・ 返還が実現すれば、当然旧島民は故郷に帰りたがるだろうし、新しい移住希望者もいるだろう。しかし島での居住可能地域など限られており、そこには「在日ロシア人」が現に住んでいる。居住権をめぐる争いがこじれれば、パレスチナにおけるユダヤ人とアラブ人のような事態も起こりかねない。
- インフラ整備・殖産興業 ・・・ なにしろ北海道よりさらに北の地域である。企業誘致も道路を引くのも鉄道を敷くのも一苦労だろうし、千島列島一帯は船の難所として有名。戦前の南樺太にはなかなかの鉄道網があったようだが、不採算店舗・不採算工場・不採算路線を維持発展させるだけの展望をもてない現代の企業では・・・?
- 国境防衛 ・・・ 言うまでもなくこの島々は国境地帯である。ロシアにしてみれば太平洋への玄関口だから、仮に戦後も日本が千島や樺太を維持していたとして、現在中国の沖縄や尖閣諸島に対する圧力と同じ事を、ソ連(ロシア)も行なっていたに違いない。千島列島の全長は1200kmで、青森県から山口県までの距離に相当。南樺太を獲得すれば北緯50度線に、この数十年日本が持たなかった「陸上国境」も発生する。防衛は可能なのか?
【外部サイト】 もし北方領土が返還されていたら
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『ハロー張りネズミ』は古い探偵漫画(フィクション)であるが、北方領土で生まれ育った人がまだ多く社会に出ていた、ソ連崩壊以前の時代を舞台にしたシリーズが収録されている。
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