楡(橘型駆逐艦)とは、橘型/改松型/改丁型駆逐艦2番艦である。1945年1月31日竣工。終戦時、呉にて中破状態で残存し、1948年に解体された。
概要
艦名の由来はニレ科ニレ亜科ニレ属の双子葉植物から。ニレは水利、地味、日照の良い場所に自生する特性があり、開拓時代のアメリカでは居住及び開拓適地の環境指標に使われ、科学的調査が不十分だった北海道でも開拓地選定の指標となった。北欧神話ではニレの老木から人類最初の女性エムブラが作られたとされ、ニレの別名エルムはそのエムブラが語源。ちなみに楡の名を冠する艦は本艦で二代目(初代は樅型駆逐艦3番艦楡)。
戦前、大日本帝國海軍は仮想敵アメリカに対し数の不利を覆すため、性能を重視する個艦主義を掲げて突き進んできた。しかし、大東亜戦争が勃発すると想像以上の早さで艦が失われ、特にガダルカナル島を巡るソロモン諸島の戦いで多くの艦隊型駆逐艦を喪失し、短時間での大量生産が困難な艦隊型駆逐艦より、安価で大量生産が可能な中型駆逐艦が必要だと痛感。
1943年4月に軍令部次長から提出された戦時建造補充計画(通称マル戦計画)において、建造に時間が掛かる秋月型の建造を全て中止し、代わりに戦時急造に適した松型駆逐艦が量産される事になった。松型は起工から竣工まで半年という驚異的な早さで誕生するが、それでも国力に富むアメリカ相手では足りないと判断し、夕雲型の建造計画を全て廃止して、1944年3月より松型を更に簡略化した改丁型(橘型)の設計に着手する。
改丁型に求められたのは徹底的な工期の短縮。まず参考にしたのが既に簡略化が進んでいた一等輸送艦、鵜来型海防艦、丙型海防艦、丁型海防艦であった。鵜来型同様シアーを廃した直線状の船体を採用、艦尾も垂直にバッサリ切り落としたかのようなトランサム型にし、船体装甲をDS鋼から入手が容易な軟鋼に変更(松型のシアーや上甲板に使われていたHT鋼さえも軟鋼に統一)、二重船底を単底構造に改め、手すり柱のメッキ加工省略やリノリウムの使用を全面廃止、松型では部分的にしか使われていなかった電気溶接やブロック工法といった新技術を本格的に投入するなど涙ぐましい努力を重ね続け、松型の工数約8万5000から約7万に削減。建造期間は僅か3ヶ月にまで圧縮された。一方、松型の長所だった機関のシフト配置は建造の手間が増える事を承知で受け継がれ、被弾しても航行不能になりにくくしている。
船体は簡略化したが水測装備は戦訓を汲んだ本格仕様となった。何かと性能が貧弱だった九三式探信儀と九三式水中聴音機を、ドイツから持ち帰った技術が結実した高性能の三式探信儀と四式水中聴音機に換装。対空能力の強化にも力を入れ、13号対空電探、22号水上電探、九七式2メートル高角測距儀を建造時より搭載、輸送任務を見越して小型発動艇2隻と6メートルカッター2隻も積載しており、対潜・対空に優れる戦況に即した能力を手にした。速力の低さが唯一の泣き所だったものの、戦時急造型にしては意外なほど高性能を発揮したという。
要目は排水量1350トン、全長100m、全幅9.35m、出力1万9000馬力、乗組員211名、最大速力27.3ノット、重油積載量370トン。兵装は40口径12.7cm連装砲1門、同単装砲1基、61cm四連装魚雷発射管1門、25mm三連装機銃4門、同単装機銃8基、九四式爆雷投射機2基。
艦歴
第86帝国議会において改丁型駆逐艦32隻の追加予算が承認され、それぞれ第4801号艦から第4832号艦までの仮称が与えられた。このグループは楡、梨、椎、榎、雄竹、初梅の6隻として結実する。
1944年8月14日、建造費961万4000円を投じ、丙型一等駆逐艦第4809号艦の仮称で舞鶴海軍工廠にて起工、11月25日に進水するとともに駆逐艦楡と命名される。進水式の際は記念品の盃が配布されたという。先代の樅型二等駆逐艦楡が除籍済みとはいえ未だ練習船として使われており、区別のため12月15日に先代が第一泊浦へと改名して艦名を譲っている。
12月25日、艤装員長に駆逐艦澤風の元艦長・下田隆夫少佐が着任、そして1945年1月31日に無事竣工を果たした。初代艦長に下田少佐が着任。佐世保鎮守府に編入され、訓練部隊の第11水雷戦隊に部署する。竣工後、楡には士官8名、特務士官2名、准士官5名、下士官68名、兵196名が乗艦。1番艦橘に次いで竣工したため、楡は改丁型の2番艦として扱われている。
間もなく第11水雷戦隊より瀬戸内海西部への回航指示が下り、2月8日午前7時に舞鶴を出港。日本海沿岸に沿って西進していく。しかし道中で荒天と雪による視界不良に見舞われ、予定を遅らせつつ、9日18時から10日午前6時まで油谷湾で仮泊、午前9時に下関を通過し、15時に徳山燃料廠へ辿り着いて燃料100トンを補給、第1特別基地隊に属する回天の襲撃連合訓練の目標艦を務めながら瀬戸内海を移動、そして正午頃に安下庄まで到着した事で第11水雷戦隊との合流を完了。2月13日に第11水雷戦隊司令部の巡視を受けた。
2月16日午前9時10分、駆逐艦楢、波風とともに安下庄を出発して出動諸訓練、20時34分に泊地へ帰投する。同日、米機動部隊は四波に渡って延べ1000機の艦上機を発進させ、関東地方の航空基地や工場を攻撃、これに伴って捷三号作戦警戒が発令、出撃に備えて弾薬や魚雷の準備が進められたが、結局出撃には至らなかった。翌日にも約600機の敵機が関東地区に襲来している。燃料不足からか2月中の楡の訓練は一度しか行われていない。
3月7日午前7時17分から16時36分、翌8日午前7時45分から午後0時56分まで安下庄沖で花月と出動水測訓令実験に従事。慣熟訓練を行う傍ら、大津島や光基地に寄港して回天との合同訓練も行っており、3月10日から15日にかけて大津島で第二特攻戦隊の訓練協力を実施している。その後、3月18日から21日まで第11水雷戦隊は宇佐沖に投錨して宇佐神宮に参詣。それが終わると3月26日より呉で停泊する。
4月6日、第11水雷戦隊は沖縄方面に出撃する第一遊撃部隊の待機部隊に編入。出撃準備を完了させた上で瀬戸内海西部での待機を命じられる。翌7日午前10時2分、旗艦酒匂に率いられて呉を出撃、同日15時14分、楡は第31戦隊や第53駆逐隊、蔦とともに第一部隊に部署、安下庄での進出待機を命じられたため、八島泊地を経由して4月9日に安下庄へ移動、楡、花月、榧、桐、杉、樫、蔦、桜、柳、橘、槇で大規模な航行諸訓練を行った。
4月10日、安下庄を訪れた特別便船から九三式魚雷三型4本、10cm高角砲通常弾500発、25mm機銃弾5000発、1500名の生糧品15日分の補給を受けた。4月12日に旗艦花月で砲術懇談会を実施。ただ練度不足を憂慮されてか、第11水雷戦隊は第一遊撃部隊に同伴せず作戦から外された。4月15日18時30分より翌16日午前1時40分まで駆逐艦花月より重油100トンの送油を受ける。
4月20日に大本営は大規模な再編を行い、第二艦隊を解隊、第11水雷戦隊と第31戦隊は連合艦隊直轄となり、作戦行動可能な部隊はこの二隊のみに限られた。次いで大本営海軍部は、訓練未了の駆逐艦6隻を5月末を目途に急速錬成を行うよう第31戦隊に命じ、4月25日、楡は第31戦隊第52駆逐隊へ転属、14時30分に僚艦と安下庄を出発し、至急出動訓練、対空射撃、単艦応急訓練、夜間射撃訓練、陣形運動、連合電測水測目測照射砲戦教練、魚雷1本の実射を伴う夜間襲撃訓練を行い、翌26日午前7時から再び出動諸訓練を行って練度の向上に努めた。
訓練終了後、午前10時30分に呉へ回航。戦訓に基づき、呉工廠にて第一、第二缶室点火用重油噴燃ポンプ並列運転を可能にするための改造工事、機関室相互間伝声管新設工事を実施し、4月30日に完了・出渠した。5月12日、長浜錨地東方に移動。
5月20日、来るべき本土決戦の時に備え、第31戦隊(第41、第43、第52駆逐隊)、軽巡北上、駆逐艦夏月、波風を以って海上挺進部隊を編制、司令官には鶴岡信道少将が着任した。同日中に連合艦隊より「内海西部にありて訓練整備に従事すべし」と命じられる。海上挺進部隊は軽巡1隻、防空駆逐艦3隻、駆逐艦13隻を収め、戦力こそ二個水雷戦隊に相当していたが、多くは訓練未了、涼月は大破状態で冬月は佐世保所在、深刻な燃料不足により統一訓練すらままならない実質書類上のみの部隊であった。
5月28日に呉へ入港。B-29の度重なる機雷投下により、今や瀬戸内海西部や呉軍港内ですら危険な場所と化し、針に糸を通すような慎重な操艦が求められた。
6月2日から9日にかけて花月、蔦、樫と呉工廠で入渠整備。第31戦隊に割り当てられた6月分の燃料は僅か750トン。もはや松型駆逐艦2隻分の燃料しかなく、このためか6月16日午前10時、呉鎮守府は第31戦隊に対し擬装を命令、第52駆逐隊には本浦での擬装を命じ、呉軍需部と呉工廠に擬装の協力をするよう指示した。
楡を含む第52駆逐隊の各艦は、6月以降に呉工廠で回天母艦になるための改装工事を受けたとされるが、正式な工事記録が残っていないので、時期や、どの艦が改装されたのかが不明瞭であり、実際に楡が回天母艦になったかどうかは不明。改装がはっきりとしているのは榧、椎、梨、樺の4隻のみ。戦後の写真によると改装艦は10隻前後だったという。
6月22日午前9時31分から午前10時43分にかけて、162機にも及ぶB-29が呉海軍工廠を盲爆。投下された爆弾は1289発(796トン)に上った。これは造兵部を狙った爆撃で、建物の破壊を企図して250kg、500kg、1トン爆弾が使われたが、流れ弾が工廠に隣接する宮原・警固屋地区、安芸郡音戸町、そして軍港内に停泊中の艦艇にも降り注ぐ。在泊艦艇が対空砲火を上げて応戦するも、楡に250kg爆弾1発が直撃して中破、前部機械室と第二缶室が損壊して最大速力が17ノットに低下、航行不能、永淵機関長以下25名が死亡するなどの大損害を受ける。この空襲で工廠関係者1900名が死亡、呉工廠の屋根面積72%に損害が及び、建造中の伊204と伊352が撃沈された。空襲後、楡は満身創痍の艦体を引きずり、奇跡的に無事だった造船部に入渠して修理を受ける。
7月2日深夜、152機ものB-29が呉市街地に向けて16万454発の焼夷弾を投下。2時間の空襲で犠牲者2000人以上を出し、約337ヘクタールが焼失、12万5000人が家を失う大惨事が発生した。同日午前5時15分、呉鎮守府は在泊艦艇に対し、戦災者炊き出し用の糧食を可能な限り準備し、呉海兵団に供出するよう指示、出渠したばかりの楡も糧食を差し出す。午後12時2分には応急簡易住宅建造のため木工員の派遣を求める指示が下った。
7月5日、新たな機関長として片岡久一機関特務中尉が着任。7月10日、関東地方に米機動部隊の艦上機が襲来、これを機に米機動部隊は本土近海で活動し続け、今まで比較的安全だった東北及び北海道も空襲を受けるようになったため、呉でも対空警戒が厳重になった。
そんな中、速力が17ノットしか出ず、迅速な修理も困難という事で、7月15日に第52駆逐隊から外され、上陸してくるアメリカ軍を迎え撃つ特殊警備艦に役務変更、同時に呉鎮守府部隊呉防備戦隊に編入、楡で訓練を受けた下田隆夫少佐以下全乗員は姉妹艦樺に移動し、若干の保安員のみが楡に留まった。二代目艦長には本多敏治少佐が着任。彼は楡、椿、楢の艦長を兼任しており、この3隻はいずれも行動不能状態であった。
空襲の際に標的とならないよう陸岸の一部に見せかける擬装を施し、吉浦南東にて北から第22号輸送艦(未完成)、海防艦高根、羽節、楡の順に並んで息を潜める。その後方には第11号、第16号特務掃海艇、第26号、第97号海防艦、択捉が係留されていた。だが北上の戦闘詳報によると「連日の写真偵察に依り地形の変化海岸線の変化をも見落とさざる如き合理的且つ組織的偵察下に於いては偽装艦船の被発見防止は殆ど不可能に近きものと認む」とされ、あまり効果が期待できない様子だった。
7月24日、第38任務部隊の艦上機870機が呉軍港に襲来し、戦艦日向と標的艦摂津が撃沈、28日にも950機が呉軍港と市街地を空襲、空母天城、戦艦伊勢、榛名、重巡利根、青葉、軽巡大淀、装甲巡洋艦出雲、伊404が撃沈ないし転覆させられ、在泊中の大型艦がほぼ全滅する大打撃を受けたが、楡は何とか耐え抜く。
この頃になると、毎朝午前8時半頃にP-38などの敵戦闘機が2機編隊で現れ、適当に目標を見繕って機銃掃射を加えていくという通り魔的な攻撃が行われていたが、反撃すると必ず執拗な反復攻撃を受けるので対空射撃は控えられていた。灼熱の太陽が甲板を焼き、絶え間ないセミしぐれが廃墟となった軍港内に鳴り響く。空梅雨の影響で長らく呉に雨が降っていなかったものの、沖縄方面から北上してくる台風によって、8月3日と4日は久々の雨が降り、すぐに高気圧が透き通るような青空をもたらす。
そして中破状態のまま8月15日の終戦を迎える。終戦に伴って軍港内の艦艇が一斉に軍艦旗を降下、ラッパを鳴らしながら総員敬礼のうちに奉焼し、死にゆく帝國海軍を弔った。
終戦後
9月17日、枕崎台風が呉市に襲来し、敗戦で揺れる軍港内の艦船を物理的にも揺らした。悪天候と掃海状況を鑑み、9月22日に予定されていたアメリカ第六軍先遣隊の呉進駐が延期されている。楡は間もなく進駐してきたアメリカ軍に投降。10月16日にアメリカ軍が撮影した写真には、両舷側に「NIRE」の記載が確認出来る。
10月1日にまとめられた引渡目録によると、設備や機器に若干の故障が見られるものの、ほぼ全てが完備状態だったが、速力の問題が足を引っ張ったのか特別輸送艦にはなれず、部品取りとして活用される事に(ただ引渡目録には「楡特別輸送艦」の記述が散見される)。
数例を挙げると榧に22号水上電探改四の変圧器を流用、菫に九九式測深儀三型、九九式測波器、電波探知器備品を貸与、第78号海防艦には電源配電盤、充電器一号と三号などを供出。復員輸送任務を影から支援した。中には英文で書かれた要請書もあり、アメリカ艦艇に対する供出も行っていたと思われる。12月1日、艦内で働く乗組員用に米、麦、塩、ケチャップ、ソースなどが供給された。
1946年3月15日、呉港務課用に小発動艇、滑車、ワイヤー、ロープ、水圧起重機、針金、8mホースなどを撤去。残った物品や調度品も呉地方復員局に返納された。また三式探信儀一型はアメリカ軍調査団の要求で取り外されている。
役目を終えた楡は1948年1月から4月20日にかけて解体。得られた鋼材は戦後の復興に役立てられた。
関連項目
- 0
- 0pt

