92年、皐月賞。
そのモンスターの名はミホノブルボン。
常識は、敵だ。
ミホノブルボンとは、1989年生まれの競走馬。1992年に皐月賞、日本ダービーを無敗で制した二冠馬で、三冠馬まで1馬身と1/2にまで迫った名馬である。主戦騎手は小島貞博騎手。
主な勝ち鞍
1991年:朝日杯3歳ステークス (GI )
1992年:皐月賞 (GI )、東京優駿 (GI )、スプリングステークス(GII)、京都新聞杯(GII)
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この記事では実在の競走馬について記述しています。 この馬を元にした『ウマ娘 プリティーダービー』に登場するキャラクターについては 「ミホノブルボン(ウマ娘)」を参照してください。 |
※当記事ではミホノブルボンの活躍した時代の表記に合わせて、年齢を旧表記(現表記+1歳)で表記します。
概要
父マグニテュード 母カツミエコー 母父シャレーという血統。血統表だけを見る限りではそんなに酷い血統ではないが、父マグニテュードは6戦未勝利で、超良血の血統「だけ」が評価されて種牡馬入りした馬、母カツミエコーも地方競馬の下級条件馬である。しかも、父マグニテュードと母父シャレーはともにミルジョージとダンディルートという名種牡馬の代用種牡馬としてつけられたものであり、さすがにお世辞にも良血とは言えない。実際、700万円という競走馬としては安値で購買された。マグニテュードは一応エルプスとかコガネタイフウとか、短距離を中心に活躍馬を何頭か出してたんだけどね(ここ伏線)。
血統面でもう一つフォローを入れるなら、3代母カミヤマトは名牝スターロツチの半妹である。
ミホノブルボンはカツミエコーにとって初仔にあたる。その後2年不受胎が続いた際には処分が検討されたが、ミホノブルボンの活躍によって繁殖生活を継続することができた。不受胎や流産もあってミホノブルボン以外に活躍馬はいないが、4番仔ダンシングエコーの子孫に2020年北海優駿の優勝馬アベニンドリームがいる。
まことしやかにマグニテュードはミルジョージの代替で種付けされたとされているが、牧場の方がインタビューで「ミルジョージなんて高くて最初から候補に入ってなかった(笑)」と語っている記事もあったので真相は藪の中です。(ちなみに、代替で種付けしたと明言している関係者も…どっちなんだ?)
牧場ではおっとりして「象みたい」とまで言われたミホノブルボンは、3歳になり、栗東に戸山為夫厩舎に入厩した。
3歳時:戸山調教師の集大成、現る
ミホノブルボンを引き受けた戸山為夫調教師は「馬はレースで勝たないと生き残れない。であれば、心を鬼にしてでも鍛えに鍛えてレースに勝たせるのが馬のためだ」という信念の持ち主だった。そのため、戸山厩舎はスパルタ調教で知られていたのである。
そして、当時出来たばかりだった栗東トレセンの坂路コースの大きなメリットに戸山師はいち早く気付き、当時既に坂路調教を中心に据えていた。同じ栗東に厩舎を構える、坂路に積極的な他の調教師(フジキセキなどの渡辺栄師、レッツゴーターキンなどの橋口弘次郎師、とされる)二名と合わせて「坂路の三鬼」と呼ばれていたとか。
そこに入厩したミホノブルボン。ビシバシ鍛えられることが確定のこの状況に当時担当助手から「こんな所に来て(´・ω・)カワイソス」と思われるくらい可愛らしかったらしい。
しかし、調教が開始すると状況は一変、そこにはデビュー前の3歳なら1本走ればヘロヘロになるような坂路調教を楽々こなし、調教が終わったら何事もなかったかのようにカイ葉をモリモリ食べるミホノブルボンの姿があった。
坂路を1日2本、1日3本と調教内容は厳しくなる一方だが、ミホノブルボンはやはりあっさりその調教をこなしていき、いつしか筋肉ムキムキに。尻が4つに割れていると言われたほどのマッチョ馬になっていた。しかも、坂路で古馬顔負けの時計を叩き出すまでになっていた。
先述の坂路の時計が評判になり1番人気で迎えた新馬戦。これを出遅れながら上がり33秒1と言う3歳馬離れした脚を炸裂させるという衝撃的な勝利を収める。芝1000mだしそのぐらい出るだろ、と思われるかもしれないが勝ちタイムも58秒1のコースレコードである…。次の500万条件戦も他の馬を近寄らせもしない圧勝。ついに調教は坂路1日4本を開始。マジかよ。もちろん3歳時でそんな調教メニューを課される馬は前代未聞。
しかし、朝日杯3歳ステークスでは後のクラシックを見据えるために鞍上の小島騎手が2番手に抑えようとしたら掛かってしまい、最後詰め寄られるものの鼻差の辛勝。このレースではかかり癖が目立ち、後々のクラシックに不安を抱かせる結果となった、のだが・・・
4歳 ~東京優駿:常識外れの二冠馬
初戦はシンザン記念を予定していたが捻挫のため回避(なんで出ようとしたんだろう)。ミホノブルボンの4歳初戦はスプリングステークス(GII)に決まった。しかし、朝日杯3歳ステークスで見せたかかり癖、初経験になる重馬場などを不安視され、不敗の3歳王者でありながら2番人気という屈辱に甘んじた。先述の父マグニテュードも影響していたと思われる。
が、このとき小島騎手は戸山師から指示を受けていた。「自分のレースで行け」と。すなわち、自分は距離を考えてわざわざ抑えなければいけないような常識的な馬に育てた覚えはないという意思の表れだった。小島騎手にももう迷いはなかった。
押してあっさり先頭に立ったミホノブルボン。後の短距離王サクラバクシンオーすらそのスピードにはついていけない(どっちかというとバクシンオーのガス欠感はあるが)。そのまま4コーナを回ってゴーサインを出されると、あれよあれよと言う間に後続を引き離し、2着に7馬身差の圧勝。破格のレース振りに中山競馬場は静まり返った。レース前の不安が嘘のような快勝だった。
これではもう、皐月賞は始まる前から決まったようなものだった。スタートで先頭に立つと緩みのないペースを刻み、他の馬はついて行くのがやっと。直線では差が開く一方で完勝。逃げ馬といえば「直線よれよれか後ろが溜め過ぎるかでしか勝てない」という常識とはなんだったのか、という思いを抱かずにはいられないような競馬でまず一冠。
ダービーは外枠だったからか、皐月賞よりも思い切った逃げを打つ。後ろにぴったりライスシャワーが張り付いていたが、緩まないペースで逃げ続ける。このレースもずいぶん距離不安が言われていたのだが、そんな発言をあざ笑うかのように、直線に入った頃には逆にブルボンとライスシャワー以外の先行馬はみんなばててしまって、直線では独走。ライスシャワーとマヤノペトリュースの壮絶な2着争いを尻目に4馬身差で余裕の勝利。無敗の二冠を達成したのであった。
無敗の二冠はこの前年、トウカイテイオーも達成していたが(菊花賞は骨折で断念)、テイオーは朝日杯に勝って(出て)いなかった。このため、GⅠ勝利数ではブルボンが上回っていた。さすがに皐月賞後に増やされた1日5本目の坂路調教はミホノブルボンでもギブアップする羽目になったが。
※ちなみにこのダービーでのラップタイムは次のようになっている。
12.8 - 11.7 - 12.3 - 12.2 - 12.2 - 12.2 - 12.5 - 12.5 - 12.3 - 12.6 - 12.0 - 12.5 |
他の馬の存在など関係なく、12秒台のペースでひたすら正確に走るというミホノブルボンの特徴が色濃く現れている。「精密機械」といわれる所以である。
信念の鎧
誰かが叫ぶ
お前には無理だと
大声が響く
お前にも限界があると他人の勝手な
思い込みや決めつけなど
弾き返してやれ
4歳 ~菊花賞:三冠に立ちはだかる強敵
期待は当然、シンボリルドルフ以来の三冠馬。しかもルドルフ同様無敗であり、朝日杯3歳ステークスも勝っているとなればシンボリルドルフ以上の成績の完璧な成績となる。骨折で断念したトウカイテイオーと違って、ミホノブルボンは無事に夏を越し、菊花賞トライアルの京都新聞杯(GII)に出走した。ここを
菊近し
淀の坂越え
一人旅 杉本清
と一句詠んでしまったくらいの楽勝(日本レコード )。順調に菊花賞へと駒を進めた。
しかし、ミホノブルボンの後ろには彼を脅かす黒い影が既に迫っていたのである。
京都新聞杯の2着はダービーと同じライスシャワー。しかも着差は1馬身半とダービー時より詰められていた。既にセントライト記念(GII)に僚馬レガシーワールドを送り込むなど、ライスシャワーに対する警戒心を暗に示していた戸山師は、「あの馬が怖い」とついにライスシャワーの名を口に出し始めた。小島騎手もこのころからライスシャワーに対する警戒心を露わにするようになった。なにしろミホノブルボンには体型的にも血統的にもどうしても距離不安が付きまとっていた。いくら鍛えれば大丈夫とは言っても、京都芝3000mはブルボンの適距離とはいえなかったはずである。血統的に長距離向きだったライスシャワーとは対照的だったわけだ。
さらに、京都新聞杯で逃げを争うと予想されながら出遅れ、大敗したキョウエイボーガン陣営が、中距離路線へ進む予定を急遽変更して菊花賞出走を決めたのである。しかも調教師は「京都新聞杯は出遅れで競馬にならなかった。この馬は逃げてこその馬だから当然菊花賞でも逃げる」と堂々の空気の読めない逃げ争い宣言。ミホノブルボン陣営にさらなる試練が立ちはだかる。
しかしながらファンはそんな2人の不安を知る由もなく、菊花賞では単勝1.5倍の断然の1番人気に推した。
戸山師は「キョウエイボーガンに構わず逃げろ」と小島騎手に指示をした。しかし小島騎手は悩んでいた。何しろ1800mのスプリングSで1番人気に支持してもらえなかった程、血統的に長距離に不安のある馬である。一度は息を入れる必要があるのではないか。それにはキョウエイボーガンと争っての逃げをしていては無理があるのではないか、と思っていた。
そんな小島騎手の所へある一人の騎手がやってきた。それはキョウエイボーガン騎乗予定の松永幹夫騎手だった。そして松永騎手はこう宣言した。「僕は、ぶっ叩いて逃げますから・・・」と。
松永騎手自身も追い詰められていたのだ。ミホノブルボンの三冠を前にしてその邪魔をするような行為をしなければならない。しかし若手の自分に調教師に意見する術はない。ならどうするか・・・考えた末出した結論が「ブルボンから大きく引き離した逃げを打つことをあえてブルボン陣営に言っておく。そうすれば『逃げたけど負けました』と自分の面目は立つし、ブルボンも馬が遠くにいればかからないかもしれない・・・」というものだった。
こんな若手騎手の配慮を聞いては、もはや小島騎手に逃げの選択をすることなどできなかった。ここまで言い切った以上、松永騎手は絶対に退かない、いや退けないだろう。ならその逃げの争いの先に待っているもの・・・それはメイズイの菊花賞に他ならない。
そんな様々な思惑が交錯する中スタートした菊花賞。いつも通り逃げようとしたミホノブルボンを松永騎手の宣言通り暴走気味にキョウエイボーガンが交わしていった。小島騎手は一瞬躊躇しながらも2番手に控えた。そのラップタイムは最初の200mを除き、1000mまで全て11秒台とまさにメイズイの時を思わせる逃げである。ただ、今回そこにいるのは二冠馬ではなく、自爆覚悟の馬だけであるが。しかし松永騎手の配慮も虚しく口を割ってかかってしまうミホノブルボン。戸山調教師はレース後「どうしてキョウエイボーガンを交わさなかった。なんでブルボンを信じられなかった」と小島騎手に言ったそうだ。(しかし、小島騎手自身は師の意見に理解を示しながらも先述の通り「ボーガンと競ったら惨敗していたかも・・・」とも語っており、戸山師自身もここでボーガンと競り合うのは快勝か惨敗かの大博打になることは認めていた。)結局、ハイペースでキョウエイボーガンを追い掛け回し、3コーナー過ぎで交わすというやや強引なレースになってしまう。
これに対して自分のペースを守ったライスシャワーが直線でミホノブルボンに襲い掛かる。ついでにマチカネタンホイザも内からミホノブルボンを交わそうとする。大観衆の歓声を背に必死に逃げるミホノブルボン。しかし、大観衆の悲鳴に包まれて、先頭でゴール板を駆け抜けたのはライスシャワーだった。ミホノブルボンはマチカネタンホイザを差し返すという驚異の粘りで負けてなお強しの2着。しかしながら、2着。不敗の三冠馬誕生の夢は、1馬身1/2の差で夢と潰えたのである。
もしミホノブルボンがキョウエイボーガンと逃げを競っていたら・・・果たしてミホノブルボンはメイズイと同じ運命を辿ったのか、それとも・・・
その後
愛すればこそ、信ずればこその、戸山式スパルタトレーニング。
その過酷な調教に耐え、身につけた強靭な肉体と強い精神力。
影をも踏ませぬスピードは、
分厚い筋肉のしなやかなうねりとともに加速して、
観るものを圧倒した。
この後、ミホノブルボンはジャパンカップ出走を目指していたが故障が発生して休養に入った。
ミホノブルボンが休養中の1993年5月29日、戸山師は癌のため61年の生涯を閉じた。くしくもミホノブルボンでのダービー制覇から1年後の、その年のダービーの前日であった。
その後、戸山師が死の直前に執筆した生涯の調教師生活を綴った「鍛えて最強馬をつくる」はその競馬観が一般社会にも通じるところがあるとされて話題を呼び、ベストセラーとなった。
結局、ミホノブルボン自身は休養中に他の故障を発症する等してそのまま故障が癒えずに引退。他の調教師の下では一度もレースをすることなく、古馬や次世代の馬とは対決することなくターフを去った。
春の二冠馬が菊花賞に出て、しかも2着に負けた例は3例しかない(他にクモノハナとボストニアン)。菊花賞まで無敗だった二冠馬は、そのまま不敗の三冠馬となったシンボリルドルフとディープインパクト・コントレイルの父子の他には例が無い(無敗の春の二冠馬は他にトキノミノル、コダマ、トウカイテイオーがいるが、コダマは菊花賞前に2敗。トキノミノルとトウカイテイオーは菊花賞に出ていない)。三冠に挑戦した二冠馬の中で最も三冠馬に迫った馬であると言えるだろう。
レース振りは悠然と逃げているうちに他の馬が付いて来られなくなるというような圧倒的なもので、このレース振りから「史上最強の逃げ馬」との呼び声も挙がる程である。反面、トウカイテイオーやビワハヤヒデなどといった異世代の名馬たちとの対決が一度も無かったことから、その相手に同じようなレースが出来たかどうかを疑問視する声もある。出走を予定していたジャパンカップの勝者は同じ不敗の二冠馬トウカイテイオーであり、出走できていればそのあたりも分かったのであろうが・・・
ミホノブルボンの馬体とその活躍は坂路調教の効果の絶大な宣伝となり、ブルボン以降は坂路施設は大人気となり、関西馬優位の状況を作り出す最後の決め手となった。遅ればせながら関東でも坂路施設を完成させたが時すでに遅く、現在も関西馬が関東馬を圧倒する状況は続いている。一方で、戸山調教師の没後にその厩舎を引き継ぐことになった森秀行調教師は、「俺の良くないところは真似なくてよいと生前言われていた」と断った上で「スパルタ調教が悪いわけではないが、それに見合ったウォームアップやクールダウンを厩舎として十分にできていたかは厩舎スタッフとして反省している」と語ったように、競走馬の調教理論・技術が大幅に向上・改善されたこともあって、ブルボンの引退後、彼ほどのスパルタ調教を売りに這い上がった馬は出てきていない。
馬体は美しい栗毛で、顔はおっとりとしていた。この優しげな顔が良かったのか、後にJRAのCMに鶴田真由を背に出演した事がある。
種牡馬としては鍛えて強くなったというイメージが災いしたのか、地方競馬重賞馬を出すに留まった。後継馬にも恵まれず、サイボーグの血はどうやら続いてはくれなさそうである。残念。
2012年に種牡馬を引退して以降は日高のスマイルファームで余生を送った。引退後も会いに来たりプレゼントを送ったりするファンが絶えることはなかったが、一冬ごとに体は弱くなっていき、2017年2月22日に老衰のため世を去った。28歳(旧表記29歳)の大往生であった。
ライスシャワー、マチカネタンホイザらクラシック戦線を戦ったライバルたちを追いかけて鬼籍に入ったミホノブルボン。あの菊花賞の18頭で最後に生き残ったのは、他ならぬキョウエイボーガンである。2021年に同い年のレガシーワールドを見送り世代最後の生き残りとなったそのキョウエイボーガンも、33歳を迎えた2022年元日に逝去。稀代の逃げ馬と覇を競った群雄たちの時代は30年の時を経て静かに終わりを告げたのである。
血統表
*マグニテュード 1975 鹿毛 |
Mill Reef 1968 鹿毛 |
Never Bend | Nasrullah |
Lalun | |||
Milan Mill | Princequillo | ||
Virginia Water | |||
Aitesse Royale 1968 栗毛 |
*セントクレスピン | Aureole | |
Neocracy | |||
Bleu Azur | Crepello | ||
Blue Prelude | |||
カツミエコー 1983 青毛 FNo.11-c |
*シャレー 1976 青鹿毛 |
Luthier | Klairon |
Flute Enchantee | |||
Christiana | Double Jump | ||
Mount Rosa | |||
ハイフレーム 1968 栗毛 |
*ユアハイネス | Chamossaire | |
Lady Grand | |||
カミヤマト | *ライジングフレーム | ||
コロナ |
父マグニテュードは6戦未勝利だが、その父ミルリーフはダービーステークス・キングジョージ・凱旋門賞というヨーロッパの権威ある3競走を始めて制した名馬。またマグニテュードの母アルテッセロワイヤルは英1000ギニーとオークスステークス優勝の二冠馬。マグニテュード産駒のミホノブルボン以前の活躍馬にはエルプス(桜花賞)、コガネタイフウ(阪神3歳ステークス)がいる。
母カツミエコーは地方で12戦1勝。半兄に中央で24戦5勝したトウショウハイネスがいる。
母父シャレーはフランスでマイルを中心に走り12戦4勝だが重賞実績がない。
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