ドラガン・ストイコビッチ(Драган Стојковић, 1965年3月3日 - )とは、ユーゴスラビア(現セルビア共和国)・ニシュ出身の元サッカー選手、サッカー監督である。
現・サッカーセルビア代表監督。元サッカーユーゴスラビア代表。
愛称は妖精を意味する「ピクシー」。名古屋グランパスの監督を務めた際は、「ミスター」と呼ばれていた。
ポジションは攻撃的なミッドフィルダーまたはフォワード。175cm73kg。利き足は右足。
正統な功績も多々あるが、審判に逆イエローカードを出したり、監督なのにロングボレーでゴールしたり (後述) と、様々な伝説をもつ。
1980-1990年代を代表するミッドフィルダー。また初期のJリーグを支えた世界的な外国人選手の一人。
1984年に19歳でユーゴスラビア代表に選出され、1990年イタリアワールドカップではベスト8に貢献。スペイン戦のボレーのフェイントからのゴールとフリーキックは有名である。1998年フランスワールドカップでも、ユーゴスラビア代表のキャプテンとして活躍。
1986年からレッドスター・ベオグラードに移籍し、2年連続でMVPを取るなど活躍し、レッドスター・ベオグラードの星人(10年間で最も活躍した選手に贈られる称号)に選出されている。その後オリンピック・マルセイユ、ヴェローナなどに移籍したが度重なる怪我などによりあまり活躍できなかった。
1994年に名古屋グランパスエイトに移籍し、2度の天皇杯獲得などに貢献。1995シーズンにはリーグMVPを獲得。オールスターでは96年、98年、00年の3度MVPを獲得している。2001年夏に引退した。現在でもJリーグの最強外国人のトップに挙げられることが多い。
豪雨の中リフティングドリブルを決めたり、相手をドリブルで引きつけてからのキラーパスなど華麗なプレーを持ち味にグランパスの象徴と呼べる活躍をする一方で、非常に頭に血が上りやすく、審判との口論や警告も日常茶飯事であった。
引退後はユーゴスラビアサッカー協会会長、在任中のユーゴ解体によりセルビア・モンテネグロ同会長、レッドスターの会長を歴任した後、2008年から名古屋グランパスの監督に就任。
2010年、グランパスを念願のリーグ制覇に導いた。優勝インタビューで監督が涙を流していたことがどれほど初優勝がうれしいかを物語っているだろう。
2015年5月29日、「日本・セルビア間の相互理解の促進及び我が国のサッカー界の発展に寄与」したことが評価され、旭日小綬章を受章。
セルビア第二の都市ニシュの近郊で生まれ、3歳の頃にはすでにストリートサッカーを興じていた。南米らしくすらある正確で柔らかいボールコントロールは、この時のストリートサッカーで培われたとも言われている。
小柄で子供たちの間では戦力になるか疑問視されていたが、ゲームを始めれば誰よりもゴールを挙げていた。少年時代のアイドルはフランスの将軍ミシェル・プラティニだった。
子供の頃は、ある時間になると、たとえ試合中だろうとサッカーを止めて家に帰ってしまい、「ピクシー&ディクシー」というテレビアニメを欠かさず見ていた。そんなストイコビッチの様子を見た友人たちがいつしか付けたあだ名が現在でも愛称として定着している「ピクシー」だった。
1979年、地元のクラブであるFKラドニツキ・ニシュの下部組織に14歳で入団。16歳となった1981年にはプロデビューを果たしている。
17歳となった1982-83シーズンには出場機会が増え、非凡な才能によって当時2部リーグに所属していたチームを1部昇格へと導く活躍を見せる。
1983-84シーズンはトップリーグでプレーするが、若いながらも高いポテンシャルを発揮し、ユーゴスラビア代表でプレーするほどの選手にまで成長。
20歳となった1985年に兵役のために1年間サッカーから離れることになるが、その間にチームは2部へ降格。またこの頃、サッカー選手として活動しながら地元の大学で経済学を学んでいる。
1986年には、ユーゴスラビアで随一の強豪クラブであるレッドスター・ベオグラードへ移籍する。レッドスターはストイコビッチを獲得するにあたり、スタジアムに照明塔を付けられるだけの巨額の移籍金とレギュラー5人を対価として支払っている。移籍直後からその実力や人間性を高く評価され、加入1年目の21歳ながらクラブ史上最年少でのキャプテンに任命される。大きな期待を背負うこととなったが、1年目ながら1986-87シーズンはチームトップの17ゴールを記録。華麗なプレーはサポーターを魅了し、あっという間にレッドスターのスター選手となる。
1987-88シーズンでもストイコビッチは圧倒的な輝きを見せ、この年チームに加わったロベルト・プロシネツキやドラギシャ・ビニッチと共にプルヴァ・リーガ優勝を達成。この年もチームトップであり、リーグでも2位の15ゴールを挙げ、リーグの年間最優秀選手に選ばれている。
1988-89シーズンには後に天才と呼ばれたデヤン・サビチェビッチがレッドスターに加入し、共演。この年初めてUEFAチャンピオンズカップに出場し、当時黄金期にあったACミランと2回戦で対戦。チームは敗れたが、2試合で2得点を決め、若き日のパオロ・マルディーニを圧倒するなど西側諸国に対して自身の存在をアピールすることになった。この年レッドスターは国内リーグの優勝は逃したが、自身は高いパフォーマンスを見せたことで2年連続での年間最優秀選手を受賞。
1989-1990シーズンには、レッドスターを自信にとっては2度目となるプルヴァ・リーガ優勝に導き、3年連続でのリーグ最優秀選手に選ばれる。この活躍ぶりに加え、クラブに対する貢献度や人格、人気などが称えられ、クラブ史上5人目となる「ズベズディナ・ズベズダ」(星人)の称号をレッドスターから授かることになる。この称号は、クラブに長く貢献した選手への功労賞のような側面を持っており、在籍わずか3年の24歳の若手であったストイコビッチの受賞は極めて画期的なことであり、同時にストイコビッチほどの選手は今後10年は現れないという評価を意味していた。
そして、1990年ワールドカップに出場した後、当時独立の機運が高まり社会情勢が不安定になっていたこともあり、ユーゴスラビアを離れることを決断する。当時のユーゴスラビアは25歳以下の選手の国外移籍を認めていなかったが、これまでの功績から特例で認められることとなった。
1990年にフランス・リーグ・アンの強豪オリンピック・マルセイユへ移籍。ジャン=ピエール・パパンやエリック・カントナといったフランス代表のスター選手が名を連ねる中で背番号「10」が与えられ、当時監督だったフランツ・ベッケンバウアーが「ストイコビッチは世界最高の選手。数年後にバロンドールを獲らなかったとすれば、それは何か手違いがあっての事だろう」と発言するほど大きな期待が集まっていた。
ところが、1990-1991シーズン開幕戦のFCメツ戦で相手GKに膝を踏まれて負傷。全治までに3度の手術が必要になる大怪我を負い、シーズンの大半を棒に振ることになる。復帰後も本来のフォームを取り戻すことはできず。この年のチャンピオンズカップ決勝で1年前まで所属していたレッドスターと対戦するが、ストイコビッチは試合に出場することができず、ベンチを暖めたまま数々の栄光をもたらした古巣の欧州初制覇を眺めるというこのうえない屈辱を味わうことになる。
マルセイユで出場機会が得られないことから、1991-92シーズンはイタリア・セリエAのエラス・ヴェローナへレンタル移籍する。しかし、前年に負った膝の負傷が癒えず、加えて当時クロアチア戦争が母国で勃発し、西側諸国から「悪」とされていたセルビア人であるため、周囲からも冷ややかな目で見られていた。その影響で結果を残すことができず、失意のままイタリアを後にする。
1992-93シーズンはマルセイユに復帰するが、怪我の影響で一度も公式戦に出場することができず。前のシーズンにチャンピオンズカップを優勝し、リーグ5連覇と絶頂期にあったマルセイユにおいてもはやストイコビッチの居場所は無かった。オフにはクラブから引退を提案されるほど追い込まれていた。
懸命のリハビリによってコンディションが回復し、1993-94シーズンにはピッチに戻ってきたが、この年マルセイユのベルナール・タピ会長による八百長スキャンダルが発覚。チームは2部への降格処分が言い渡され、多くの主力がチームを離脱。ストイコビッチも2年の契約延長を拒否し、退団を決意する。
1994年6月13日、Jリーグの名古屋グランパスエイトへの移籍が発表される。新天地に日本を選んだ理由は、マルセイユの八百長スキャンダルに加え、セルビア人ということで偏見の目を向けられることで欧州サッカーに嫌気がさし、欧州を離れたかったからだった。しかし、当時の日本サッカーは欧州と比べてはるかにレベルが落ち、その中でもお荷物チームと揶揄された名古屋はとても彼を満足させる環境ではなかった。9月17日のジェフ市原戦で見せた豪雨の中でのリフティングドリブルなどスーパープレイは見せたが、無気力でレベルの低いチームメイト、劣悪なピッチ、不可解なジャッジに苦しんだ。自身、デビュー戦では開始18分で退場。その後も警告、退場を繰り返してサポーターから批判され、名古屋はシーズン最下位に終わる。
元々、日本へやって来たのは気分転換の旅行のようなもので半年すれば欧州へ戻る予定だった。ところが、1995年にフランスの名将アーセン・ベンゲルが名古屋の監督に就任。兼ねてからベンゲルを尊敬していたストイコビッチはベンゲルの下でプレーしたいと考え、名古屋に残留する。シーズン序盤は相変わらずイライラが募り、退場を繰り返していたが、Jリーグの中断期間を経てベンゲルの戦術がチームに浸透し、名古屋をストイコビッチ中心のチームに作り替えたことで本来の実力を発揮。敵味方関係なく、日本のサッカーファンは彼の華麗なプレーの数々に酔いしれることとなる。お荷物チームと言われた名古屋は優勝争いに加わるほど生まれ変わり、優勝は逃したもののこの年のJリーグ最優秀選手賞を受賞。さらに1996年1月1日の天皇杯決勝サンフレッチェ広島戦でも攻撃陣をリードし、チームの初タイトル獲得に貢献する。
1996年も名古屋は前年の勢いを維持し、優勝争いを演じることになる。すっかりリーグでもトップクラスのスター選手となったストイコビッチは、満員のスタジアムにコールされる「ピクシーコール」に感動し、いつしか日本を第二の故郷と思えるほど愛着がわいていた。この年の9月、ベンゲルがイングランド・プレミアリーグの名門アーセナルへ移籍するため退団することが決まり、ベンゲルからアーセナルへ来るように誘われていた。当時、アーセナルへの移籍も考えたが、名古屋との契約を2年延長し、引き続き日本でプレーすることを選択する。
1997年はチームの歯車が噛み合わず、優勝争いから取り残されて低迷。しかも、当時国際舞台に復帰した代表の欧州予選に出場していたため日本と欧州の往復を繰り返し、コンディション調整に苦労していた。7月9日の横浜マリノス戦では、提示されたイエローカードを逆に主審に付きつけるという行為をし、4試合の出場停止処分を受ける。
1998年もチームは試合後ごとに波があり、1stステージこそ優勝争いに加わったが、2ndステージは早々と優勝争いから脱落。悲願のJリーグ制覇はまたしても達成できなかった。この頃、再び欧州へ移籍する噂が流れるが、本人は日本で現役生活を終えることを決断していた。
1999年は呂比須ワグナー、山口素弘、楢崎正剛といった日本代表の3選手が加入する大型補強をチームが敢行。初のJリーグ制覇に大きな期待が集まるシーズンとなった。この頃、NATOによる母国ユーゴスラビアへの空爆が開始され、3月27日のヴィッセル神戸戦後にユニフォームの下のアンダーシャツに「NATO STOP STRIKES」というメッセージを書き、抗議する。優勝候補の筆頭とまで言われたチームは噛み合わず、1stステージは8位と低迷。2ndステージになると、チームはようやく本来のポテンシャルを発揮し、10連勝を記録するなど快進撃を見せたが、2位に終わりあと一歩で優勝を逃す。自身はこの年3度目となるJリーグベストイレブンに選出される。そして、元旦におこなわれた第79回天皇杯では、サンフレッチェ広島を相手に1ゴール1アシストの活躍を見せ、2度目となる天皇杯優勝に貢献する。
2000年は経営的に厳しい状況にあったフロントの意向によって主力3選手の戦力外通告が突然発表される。激震が走ったチームは動揺が走り、優勝争いに加われないままシーズンを無冠で終える。11月30日、契約を半年だけ延長し、2001年の1stステージ終了後に現役を引退することを発表する。なお、この年来日して7年目にして初めて退場処分を受けなかった。
ラストイヤーとなった2001年の1stステージは、開幕から好調だったが、当時黄金期にあったジュビロ磐田に優勝を持っていかれることになる。7月14日のサンフレッチェ広島戦ではラストゴールとなる決勝ゴールを決め、7月21日の東京ヴェルディ戦を最後に現役を引退する。引退セレモニーでは、日本語で「皆さん、ありがとう。感動をありがとう」と述べている。
2001年10月9日には、豊田スタジアムで名古屋vsレッドスターによる引退記念試合が開催。
1983年、18歳という若さでユーゴスラビア代表に選出。デビュー戦となったフランス戦では憧れの存在だったプラティニとユニフォームを交換している。
1984年6月2日のポルトガル戦では代表での2試合目にして初ゴールを決めている。直後にフランスで開催されたEURO84にも出場し、チームは3連敗でグループリーグ敗退となったが、最終戦となったフランス戦でPKを決め、当時のUEFA欧州選手権最年少ゴール記録を打ち立てている(2004年にウエイン・ルーニーが塗り替えている)。この年の8月にはアメリカで開催されたロサンゼルスオリンピックに出場し、銅メダルを獲得。その後、代表のエースとして活躍するようになる。
1986 FIFAワールドカップ、EURO88では予選で敗退し本大会出場を逃したものの、1988年9月に韓国で開催されたソウルオリンピックに出場。チームはグループリーグで敗退したが、自身は3試合に出場し2得点1アシストと活躍を見せる。
1990年には、自身初の出場となる1990 FIFAワールドカップに出場。当時、ユーゴスラビアでは独立の機運が高まり、主力だったズボニミール・ボバンが大会直前にチームを離脱する事件が起きたが、他民族が集まる難しい情勢にあったチームを監督のイビチャ・オシムがまとめあげ、ストイコビッチは10番キャプテンとしてチームの象徴となった。グループリーグでは鳴りを潜めていたが、決勝トーナメントに入りその才能を世界に知らしめることになる。ラウンド16のスペイン戦では、2ゴールの活躍でチームを勝利に導いてみせる。準々決勝のアルゼンチン戦では、ディエゴ・マラドーナとの10番対決に注目が集まる。この試合でもマラドーナに勝るとも劣らない破格の才能を発揮するが、PK戦で失敗し、チームはベスト8で敗れる。試合後、涙を流したの対し、マラドーナから「泣かないで欲しい。君には明るい未来しかない」と声をかけられた。まだ25歳だったストイコビッチの国際的な評価はこの大会で急速に高まり、次の時代は「ストイコビッチの時代になる」と予想する者もいた。
EURO92の予選でユーゴスラビアは破竹の勢いで本大会出場を決め、本大会でも優勝候補の一角と見られていた。ところが、祖国では内戦が本格的に勃発。大会直前にオシム監督が辞任する事態にまで発展する。それでも、チームは現地のストックホルムに入り、大会に向けての調整をスタートしていたが、内戦への裁定として国連が制裁措置を取り、1992年5月31日にUEFAから本大会の出場権を剥奪されてしまう。これを最後にユーゴスラビア代表は国際試合を禁止され、事実上の解体となり、当時怪我で苦しんでいたストイコビッチはさらに失意のどん底に立たされてしまう。
1994年12月、国連の制裁措置が一部解除されたことで代表チームとしての活動が可能になる。日本で新たな挑戦を始めていたストイコビッチは、新生ユーゴスラビア代表のキャプテンとなり、12月23日のブラジルとの親善試合に出場する。その後処分が全面的に解除され、1998年ワールドカップ欧州予選への出場が認められる。予選が開催されるたびに遠い日本から駆けつけ、個性派のタレントが揃うチームをキャプテンとして牽引し、プレーオフでハンガリーに大勝し本大会出場権を勝ち取る。
1998年6月、フランスで開催された1998 FIFAワールドカップに出場。久々の国際舞台に帰って来たストイコビッチは、グループリーグの第2戦のドイツ戦でゴールを決める。存在感を見せたユーゴスラビアは2位でグループリーグを突破し、決勝トーナメント進出。ラウンド16のオランダ戦でもFKから同点ゴールをアシストするが、試合終了直前に失点し、惜しくも敗れている。それでも、久々の世界の表舞台でインパクトを残すこととなった。
EURO2000を目指す新チームでは、35歳とベテランになったことと若いデヤン・スタンコビッチの台頭もあって控えに回ることになる。2000年6月のEURO2000でも控えという立場でスタートするが、初戦のスロベニア戦でビハインドを背負った状況となり前半終了間際に投入される。0-3とビハインドを背負った状況の中、ストイコビッチのゲームメイクで息を吹き返したユーゴスラビアは引き分けに持ち込む。続くノルウェー戦ではスタメンで起用され、1-0の勝利に貢献し、MOMに選出される。しかし、第3戦のオランダ戦では1-6で大敗し、グループリーグ敗退。事実上、この大会で代表としてのキャリアの幕を閉じる。
2001年7月4日、事実上の代表引退試合の対戦相手は第二の祖国と呼ぶ日本だった。この試合で90分間プレーし続け、代表のユニフォームを脱ぐことになる。
シーズン | 国 | クラブ | リーグ | 試合 | 得点 |
---|---|---|---|---|---|
1981ー82 | ![]() |
ラドニツキ・ニシュ | スハプスカ・リーガ | 1 | 0 |
1982ー83 | ![]() |
ラドニツキ・ニシュ | スハプスカ・リーガ | 17 | 1 |
1983ー84 | ![]() |
ラドニツキ・ニシュ | プルヴァ・リーガ | 27 | 3 |
1985ー86 | ![]() |
ラドニツキ・ニシュ | スハプスカ・リーガ | 25 | 4 |
1986ー87 | ![]() |
レッドスター | プルヴァ・リーガ | 32 | 17 |
1987ー88 | ![]() |
レッドスター | プルヴァ・リーガ | 28 | 15 |
1988ー89 | ![]() |
レッドスター | プルヴァ・リーガ | 29 | 12 |
1989ー90 | ![]() |
レッドスター | プルヴァ・リーガ | 31 | 10 |
1990ー91 | ![]() |
マルセイユ | リーグ・アン | 11 | 0 |
1991ー92 | ![]() |
ヴェローナ(loan) | セリエA | 19 | 1 |
1992ー93 | ![]() |
マルセイユ | リーグ・アン | 0 | 0 |
1993ー94 | ![]() |
マルセイユ | リーグ・アン | 18 | 5 |
1994 | ![]() |
名古屋グランパスエイト | Jリーグ | 14 | 3 |
1995 | ![]() |
名古屋グランパスエイト | Jリーグ | 40 | 15 |
1996 | ![]() |
名古屋グランパスエイト | Jリーグ | 19 | 11 |
1997 | ![]() |
名古屋グランパスエイト | Jリーグ | 18 | 2 |
1998 | ![]() |
名古屋グランパスエイト | Jリーグ | 28 | 7 |
1999 | ![]() |
名古屋グランパスエイト | J1リーグ | 24 | 11 |
2000 | ![]() |
名古屋グランパスエイト | J1リーグ | 26 | 5 |
2001 | ![]() |
名古屋グランパスエイト | J1リーグ | 15 | 3 |
引退直後には名古屋とテクニカル・アドバイザーの契約を締結。2001年9月にはユーゴスラビアサッカー協会(2003年からはセルビア・モンテネグロサッカー協会)の会長に就任する。しかし、盟友サビチェビッチが監督を務める代表チームは2002 FIFAワールドカップとEURO2004の出場権を逃してしまう。2004年3月には日本外務省より西バルカン平和定着・経済発展のための「平和親善大使」を委嘱される。
2005年、サッカー協会の会長を辞任し、古巣であるレッドスター・ベオグラードの会長に就任する。就任後の最初の2シーズンで優勝、カップ戦の国内二冠を成し遂げるが、この頃セルビア・モンテネグロの治安の悪さを理由にパリに移住。2007年10月12日、指導者としての道を歩むために辞任する。
2008年に名古屋グランパスの監督に就任し、7年ぶりに日本へ帰ってくる。自らを「ミスター」と呼ぶように呼びかけると、監督経験が無かったがそれまでリーグ中位の成績だったチームを攻撃的なサッカーで3位に導く。また、15年間勝ち星を挙げることができなかったカシマスタジアムでの鹿島アントラーズ戦で勝利、ジーコの呪いを打ち破ったことも忘れてはいけない。
2009年には、AFCチャンピオンズリーグで指揮を執り、ベスト4まで進んでいる。この年に伝説となった革靴でのロングシュートを披露している(後述)。
2010年、浦和から田中マルクス闘莉王、大分トリニータから金崎夢生、コンサドーレ札幌からダニルソンを獲得する大型補強を敢行したチームは、シーズン後半戦に入って首位に立つ。闘莉王の加入でチーム全体の意識が変わり、現役時代チームメイトだった楢崎正剛が守護神として絶大な存在感を発揮。そして、11月20日の湘南ベルマーレ戦に勝利し、3年目にしてついに愛するチームを初のJリーグ年間王者に導く。現役時代には成し遂げられなかった悲願のリーグ優勝を監督として成し遂げ、歓喜の涙を流している。この年、Jリーグ最優秀監督にも選ばれ、最優秀選手と最優秀監督の両方を受賞した史上初の人物となった。
2011年は、開幕直後に発生した東日本大震災被災者に対するチャリティーマッチにおいて、Jリーグ選抜「TEAM AS ONE」の監督としてチームの指揮を執る。リーグ戦では序盤戦は低迷していたが、システム変更が功を奏した後半戦に盛り返し、一時は首位に立つ。しかし、最後は柏レイソルに勝ち点1届かず、2位に終わる。
2012年はACLとの掛け持ちとなったことで主力に怪我人が相次ぎ、特に得点源のジョシュア・ケネディが長期離脱した影響は大きく、7位という不本意な成績に終わる。
6年目となった2013年は前年よりもさらにチームは低迷。組織力が低下した守備陣は楢崎や闘莉王の個人能力頼みとなっていた。結局、成績は就任以来最低となる13位。このシーズンをもって名古屋グランパスの監督を退任。
6年間での通算成績は102勝59敗40分。J1で100勝した監督は史上6人目と、監督としても大記録に名を残すこととなった。
2015年8月に中国・スーパーリーグの広州富力の監督に就任。名古屋での終盤のシーズンと同様に守備の構築に苦戦し、失点が多いチームとなったことから好不調の波が激しくなっていた。2016年は6位、2017年は5位とまずまずの成績を残し、契約延長を勝ち取る。
しかし、2018年以降は守備の崩壊が目立ち、2019年にはリーグワーストの72失点を喫し、12位と低迷。5年間でこれといった結果を残すことができず、2020年1月に契約を2年残したまま退任する。
2021年2月20日、母国であるセルビア代表の監督に就任。2021年には日本との親善試合のため久々に来日し注目を集めるが、試合は1-0で敗れている。
就任後の2022 FIFAワールドカップ欧州予選では強豪ポルトガルと同じ組に入りながらも2位で食らいつくと、2021年11月14日に最終節におこなわれた敵地でのポルトガルとの直接対決では終了間際の劇的なゴールによって逆転勝利を掴み、逆転でのグループ首位通過を果たし、セルビアを2大会連続のワールドカップ出場に導く。
ブラジル、スイス、カメルーンと同じグループに入った2022 FIFAワールドカップ カタール大会では、欧州予選を戦い抜いた堅守が崩壊。主力の調子が万全でなかったこともあって3失点で8失点を喫し、1分2敗のグループ最下位で敗退に終わる。
カタールW杯後も代表監督を続投し、EURO2024予選では苦戦を強いられながらもハンガリーに次ぐグループ2位に入り、セルビア代表になってからは初となるUEFA欧州選手権本大会出場を決める。
シーズン | 国 | チーム | リーグ | 順位 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|
2008 | ![]() |
名古屋グランパス | J1リーグ | 3位 | |
2009 | ![]() |
名古屋グランパス | J1リーグ | 9位 | ACLベスト4 |
2010 | ![]() |
名古屋グランパス | J1リーグ | 1位 | J1リーグ優勝 |
2011 | ![]() |
名古屋グランパス | J1リーグ | 2位 | ゼロックススーパーカップ優勝 |
2012 | ![]() |
名古屋グランパス | J1リーグ | 7位 | |
2013 | ![]() |
名古屋グランパス | J1リーグ | 11位 | |
2015 | ![]() |
広州富力 | スーパーリーグ | 14位 | |
2016 | ![]() |
広州富力 | スーパーリーグ | 6位 | |
2017 | ![]() |
広州富力 | スーパーリーグ | 5位 | |
2018 | ![]() |
広州富力 | スーパーリーグ | 10位 | |
2019 | ![]() |
広州富力 | スーパーリーグ | 12位 | |
2021~ | ![]() |
セルビア代表 | - | - |
2009年10月の横浜F・マリノス戦後半40分、選手の怪我によるプレイ中断のため、マリノスののGK榎本哲也がボールを遠くに蹴りだした所、名古屋のベンチ前に飛んできた。
ストイコビッチ監督は、冗談半分でこれをダイレクトに蹴り返し、センターライン付近からのロングボレーにもかかわらず見事横浜側にゴール。雨でボールが濡れている上、革靴でのシュートという難しい状況にありながら、その健在さを思わぬ形で見せ付けた。
審判への侮辱行為&試合遅延行為として退場処分を食らってしまったが、「こうやって点を取るんだぞって言う、ただの冗談だったのに」と、終了後の会見ではおどけていた。ちなみに、ゴールが決まった瞬間、いつものガッツポーズを見せている。
ゴールを決められた(?)榎本は、「怒る気にもなれない。すげぇと思った」と呆れていた。
このシュートは当時のUEFAの会長であったミシェル・プラティニがらも賞賛された。
妖精を意味する「ピクシー」という愛称の通り、華麗なテクニックと予測不可能なプレーアイディアで攻撃の全権を司るファンタジスタタイプのゲームメーカー。体格もフィジカルもヨーロッパの選手の中ではけっして特筆すべきものではないが、ボールスキルの高さは超一流。プレーエリアは1列目と2列目の間を行き来する1.5列目で、自らが主体となって攻撃を組み立てる。
正確無比なキックで違いを生み出すスタイルだが、プレーそのものは至ってシンプルである。ドリブルで抜く時もアウトサイドかインサイドでの切り返しのみを使用し、相手の重心移動を見極めて逆を突くのが得意。抜群のスキルが余裕を生み、余裕がアイディアを生んでおり、長短問わず決定的なパスを味方に送る。
ユーゴスラビア代表時代に監督として指導したイビチャ・オシムは「技術が高いだけでない。ピクシーは人を動かして、自分も動ける。彼はセルフィッシュではなくコレクト(正しい)な選手だった」と評している。
運動量そものは多いわけではなく、守備での貢献も少ないためクラシカルなタイプのファンタジスタと位置付けられている。
掲示板
42 ななしのよっしん
2021/02/22(月) 12:01:25 ID: EzkZtKbfsz
セルビア代表、強くなるぞこれは。
43 ななしのよっしん
2022/12/06(火) 12:15:40 ID: wVsAfPvgpx
「本当に酷い」“妖精”ストイコビッチが人種差別発言!? 味方のゴールに興奮して「暴言」を吐き捨てた映像が波紋【W杯】(THE DIGEST)
https://
全世界にアルバニア系へのヘイト発言が生中継されてしまった
最近はFIFAは差別に厳しいので下手すりゃ永久追放すらありうる
44 ななしのよっしん
2023/01/17(火) 22:30:46 ID: U4uET3+oQN
コソボ絡みの話だしセルビアは何が何でもピクシー擁護するぞ確実に
下手に処罰すれば国家としてのセルビアとFIFAの対立になりかねんし多分具体的な処罰は起こさないと思うわ
急上昇ワード改
最終更新:2025/03/22(土) 15:00
最終更新:2025/03/22(土) 15:00
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