栂(樅型駆逐艦)とは、大日本帝國海軍が建造・運用した樅型駆逐艦8番艦である。1920年7月20日竣工。大東亜戦争では上海方面で船団護衛及び哨戒任務に従事した。1945年1月15日、馬公南方で航空攻撃を受けて沈没。
樅型は、これまでのイギリス式設計とは根本的に異なる純日本式の設計であり、峯風型の縮小版といえる艦構造を持つ。第一次世界大戦で大西洋にまで長駆した桜型駆逐艦の戦訓も取り入れている。
桃型や楢型で問題になった荒天時の波浪による衝撃を和らげるべく、艦橋と船首楼甲板を分離し、ウェルデッキとなった艦橋前方に魚雷発射管を装備、主砲3基全てを上甲板より1段高い場所へ設置して波が高くても運用可能にした一方、艦橋には固定ブルワークを装備せず、手すりにキャンバスを張って済ませた。後部マスト下方には後続艦に射撃データを知らせる示数盤を搭載。他の駆逐艦と比べて喫水が浅いため沿岸海域での作戦に向き、支那事変では揚子江で活動していた。
主砲には、日露戦争までの主力艦に搭載されていた速射砲を国産化・改良した12cm単装砲を採用、また二等駆逐艦としては初めて53cm魚雷発射管を装備している。浮流式連系機雷の敷設能力も有していた。3基の缶を全て重油専燃に換装。これは石炭燃料艦と比較して濃い煤煙が出ないので夜戦での発見リスクが低かった。更に二等駆逐艦では初のオートギアードタービンを搭載、これにより楢型の1万7500馬力から2万1500馬力に大幅パワーアップし、最大速力も31.5ノット→36ノットに増大した。しかし栂に搭載された三菱製ブラウン・カーチス式タービンは故障が多かったとされる。
樅型が建造された時期は八八艦隊計画の真っ只中で、各工廠や大規模造船所は大型艦の建造で手一杯だったため、軍用艦艇の建造経験に乏しい民間の造船所が樅型を建造する事になり、起工順の艦番と竣工時機が合わなくなるトラブルが起きている。
姉妹艦は栂を合わせて計21隻と大所帯。栂は石川島造船所で建造された最初の駆逐艦だった。大東亜戦争開戦時、樅型駆逐艦の多くは退役、もしくは哨戒艇や練習艦へと格下げとなっていたが、栂、栗、蓮の3隻のみ駆逐艦籍に留まり続けている。
要目は排水量770トン、全長83.82m、全幅7.93m、最大速力36ノット、重油250トン、乗員107名。兵装は45口径三年式12cm単装砲3門、53cm連装魚雷発射管2基、6.5mm単装機銃2基。大東亜戦争下では艦尾の掃海装置を撤去して爆雷36~48発を搭載、三年式機銃を九六式25mm三連装機銃に換装し、13号対空電探を増備した。
1917年度計画(八四艦隊計画)において第8号二等駆逐艦の仮称で建造が決定。1918年1月24日に駆逐艦栂と命名される。1919年3月5日に石川島造船所で起工、1920年4月17日16時に進水し、1920年7月20日に無事竣工を果たした。竣工後は佐世保鎮守府に編入され、姉妹艦とともに第26駆逐隊を編成。
1923年4月、栂は第1水雷戦隊内で行われた戦技大会にて見事優勝を飾る。しかしそれから間もない5月2日、揮発油庫が突如爆発する事故が発生し、水雷科に火傷者2名を出してしまう。第26駆逐隊司令部が栂の機関長の協力を得て調査したところ、「荒天下の高速航行で発生した艦の動揺震動で、流出した潤滑油が艦底に溜まり、舷窓や入り口から入って来た新鮮な空気と混ざり合って自爆」と結論付けられた。
1927年8月24日22時、第26駆逐隊は夜間雷撃演習に参加すべく島根県美保関を出港。32分後に第四戦速(29ノット)へと増速する。第26駆逐隊と第27駆逐隊は第2水雷戦隊へ臨時編入され、乙軍を編成、主力艦艇で構成された甲軍が舞鶴方面に退却するのを乙軍が追跡する想定で演習。闇夜の中を完全消灯で、最大27ノットの大速力を出すとても厳しい訓練であった。
ところが23時頃、探明灯の照射を受けた軽巡神通と那珂が右舷へ回頭したところ、後続していた第26駆逐隊や第27駆逐隊などに突っ込む形となり、神通と姉妹艦蕨が衝突、ボイラーを粉砕された蕨は爆発を起こして船体を真っ二つに折りながら沈没してしまう。悲劇はこれだけに留まらない。衝突を見て、回避しようとした那珂が駆逐艦葦に衝突して二次被害が発生。両艦とも損傷を負った(美保関事件)。当時の栂艦長だった原忠一少佐と、事故死した蕨艦長の五十嵐恵少佐は無二の親友同士であり、事故の夜、遭難地点の海上にて通夜を営んだという。
1928年3月31日、佐世保工廠にて張出幕26本の新設工事を受ける。5月3日に中華民国山東省済南で、日本軍と蒋介石率いる中国国民党軍との間で武力衝突が生起(済南事件)、積極的警備方針を採った帝國海軍は中国沿岸に続々と艦艇を派遣し、栂も第1遣外艦隊に属して揚子江へと進出している。12月4日、横浜沖で行われた御大礼特別観艦式に第二列として参加。栂が観艦式に参加したのは今回が最初で最後だった。
1933年11月7日に佐世保工廠で電気冷蔵庫を装備。続く11月15日、第26駆逐隊は中国方面を担当する第3艦隊第11戦隊に編入、1934年2月24日には艤装品が新設されている。1935年7月20日から9月20日にかけて、岩手県沖で艦隊演習に参加。栂が参加しなかった第二期演習では台風の直撃を受けて艦艇に大損害が生じた(第四艦隊事件)。
1937年4月20日、駆逐艦栗と南京上流5海里付近を航行中に中国国民党軍機から爆撃を受ける。更に7月7日には盧溝橋事件が発生。日中関係が急速に悪化し始めた。
7月20日頃より国民党軍の偵察機が南京停泊中の栂上空に飛来。7月23日午前に偵察機が高度500mで栂の直上を通過、午後には高度500mから艦尾方向に向けて緩降下を行い、右舷至近距離を艦橋とほぼ同じ高度で通過、艦首付近で左旋回して上空へと退避していった。
この挑発行為に栂艦内では航空機防御の配置に就き、各機銃に実弾を装填、いつでも発射できるよう照準を合わせており、まさに一触即発の状態であった(栂が狙われたのは大角海軍大将が乗艦していたためと思われる)。この非礼行為に南京駐在武官の中原三郎大佐は中国側に厳重抗議。翌24日、中国側より「南京を始め各航空部隊に対し、厳重に注意し、かつ当該操縦員に対し調査の上処分する」旨の回答があり、一応落着した。このような事件があってか、7月28日と29日、砲座と機銃を守るための防弾板を受け取って取り付け工事を行っている。
8月に入ると対日感情が更に険悪化。生命と財産を守るべく、揚子江上流の在留邦人を上海に引き揚げさせる事となった。
8月7日夕刻、漢口から在留邦人の引き揚げが終わった後、敷設艦八重島、駆逐艦栗とともに海軍特別陸戦隊収容の目的で漢口に入港。これは漢口での戦備が却って中国側及び在留居留民を刺激してしまったとする判断に基づくものだった。しかしこの撤収計画は中国側に漏れてしまった。国民党軍は各地から爆撃機を出撃させ、陸戦隊の至近距離に部隊を配置するなど、常に威圧と挑発を仕掛けてきたため、収容作業中の八重島の両側に栂と栗を配置して応戦。翌8日午前0時45分に収容作業を完了。午前1時に上海へ向かうべく漢口を出港し、道中で砲艦勢多と会同して邦人を収容したのち、8月9日13時に上海へ到着。九重、長沙、重慶、南京などからの引き揚げも無事完了している。
8月11日、盧溝橋事件以降、戦雲渦巻く中国方面に進出していた栂は八重島、砲艦二見、保津、堅田とともに第1警戒部隊第1警戒隊に所属し、揚子江及び黄浦江内の中国艦隊の警戒監視、江上と浦東個の警戒、中国側の航路標識撤去、機雷敷設行動に対する警戒監視、対空警戒などを行う。
8月13日夕刻、国民党軍3万が上海駐留の日本兵4000名に対して攻撃を開始(第二次上海事変)。翌14日午前11時10分には栂の下にも敵爆撃機8機が襲来、対空射撃で応戦する中、計16発の爆弾が投下されるも、幸い被害は無かった。8月17日、砲艦3隻を率いて黄浦江河口左岸の国民党軍と十数次に渡って交戦。劣勢に立たされている上海陸戦隊の戦闘を支援する。また8月23日には姉妹艦栗とともに劉河鎭沖へ来襲した敵機と何度か交戦。
9月3日14時43分に泊地を出港。15時10分から17時45分まで、八重島、安宅、保津、比良と右舷砲撃戦を行って浦東側に密集する国民党軍野砲陣地を砲撃。9月6日午前3時5分、虹口碼頭に横付けして陸軍部隊を揚陸、それが終わると艦砲射撃を行い、国民党正規兵1名を捕虜とする。一方で敵の空襲も激しく、何度も対空戦闘を行った。9月19日、栂単独で天生港下流の敵砲兵と交戦・制圧する戦果を挙げる。9月22日には通州の家屋へ隠れた国民党兵と狼山付近の敵陣地を砲撃。
10月12日午前0時23分、浦東側の国民党軍陣地より砲撃を受けたため、6時間近く砲撃を浴びせて応戦。14日夜、再び浦東の国民党軍を砲撃するが、砲撃中に今度は敵機も襲来し、焼夷弾4発の投下を受けるなど戦闘が激化。執拗な航空攻撃は翌朝まで続いた。10月18日、水雷艇鵯と劉海沙方面を砲撃。
11月5日実施の杭州上陸作戦成功により上海市内の戦況は急速に改善。追い詰められた国民党軍は上海西方へと移りつつあった。しかし、敵は日本軍の黄浦江遡江を防ぐため、南市とフランス租界の境界に多数の大型ジャンク船を係留または自沈させて航路を閉塞、また約3000名の国民党軍が市内で頑強に抵抗しており、上海の包囲を完成させるべく、第3艦隊司令部は浦東方面の敵の排除及び水路の啓開を第11戦隊に命じる。
栂は第1護衛隊に所属、11月10日夜から臨時陸戦隊の上陸支援を行い、後続の陸軍が来るまで橋頭保の維持に成功した。続いて翌11日20時、栂、栗、出雲、安宅、朝日より捕獲隊員を派遣、国民党軍の激しい抵抗を受けながらも閉塞船として係留中の中和を捕獲・引き出しを実施し、こじ開けられた水路にはすかさず掃海が行われた。
11月25日、第3艦隊は中華民国の首都南京までの水路を確保するため江陰水路啓開を命令。11月27日、砲艦安宅、堅田、鳥羽からなる主隊の援護に回って作戦を開始する。12月4日、八重島、栗、漣とともに連合陸戦隊を抽出、彼らは午前9時に保津へ便乗して巫山北東に上陸、巫山砲台方面の敵情偵察や陸軍との連絡任務に就く。
12月7日、既に陸軍が南京前方20kmの地点まで進出しつつあり、揚子江水路の啓開が急務となったため、急遽兵力部署の変更が行われ、栂は下流警戒隊に所属。味方部隊が南京に突入した後の12月15日、第2号掃海艇と南京下流及び龍潭水道において残敵掃討を実施、そして12月17日午後に陸海軍による南京入城式が行われ、攻略作戦は無事成功したのだった。首都を落とされた国民党軍は更に奥地の漢口へ遷都。
12月27日、魯港方面に集結した国民党軍に対し栂、蓮、保津、江風、海風が約1時間に渡って砲撃、敵兵約300名と野砲1門を壊滅させる大戦果を得た。続いて南京に留まっていたAP通信のチャールズ・イエーツ・マクダニエルを上海まで送り届ける。
1938年2月1日、支那方面艦隊の軍隊区分が改められ、栂が属する第11戦隊は中支部隊第一警戒部隊に編入、通州より上流の海上監視任務に就く。2月14日、浦東方面で二見や小鷹と協力してジャンク船処分及び敵兵攻撃を実施。2月23日、南支部隊が艦艇修理で後退するので、中支部隊の担当海域が漁山群島から福州沖にまで拡大され、3月下旬まで本配備による警戒を続けた。
6月3日、大本営は支那方面艦隊(第3艦隊)に対し、「下揚子江水路の大部を制圧し、その交通を安全ならしむべし」と命令、更に南京上流の安慶を攻略するよう命じた事から、6月9日より遡江作戦を開始。手始めに安慶と九江を占領して前進拠点を確保する。
6月13日、国民党の臨時首都たる漢口占領作戦に参加。首都攻略だけあって40隻以上の駆逐艦、掃海艇、河川砲艦、封鎖船など総計100隻の艦船が投じられ、陸兵約1万2000名と大砲80門が漢口に上陸するという大規模な作戦が展開された。栂は栗、蓮と協同で安慶に兵員を揚陸する。7月3日、安慶泊地空襲の際、撃墜された敵機から兵器図誌等を押収。7月24日、呉第4特別陸戦隊と第5特別陸戦隊の揚子江上陸を支援。包囲の危機に立たされた中国艦隊は退却した。
1940年11月15日の戦時編制で支那方面艦隊上海方面根拠地隊に転属。兵装も大幅に強化され、12cm単装砲3門、九三式13mm連装機銃2基、三年式機銃1基、毘式12mm機銃1基、毘式7.7mm機銃2基、11年式軽機関銃2丁を装備していた。
米英関係の悪化から、今まで援蒋ルートの一つでありながら英領故に手出しが出来なかった香港の攻略作戦が始動。1941年8月12日、砲兵の権威とされる北島中将が率いる第23軍が支那派遣軍に編入され、9月15日には中国方面の作戦を担当する支那派遣軍の総参謀長・後宮淳中将を招致し、大本営は「10月末までに戦備を完了し、11月頃から対南方作戦を実施する」との意図を示す。攻略目標には香港も含まれていた。そして11月6日に大陸命第557号が発令され、香港の攻略が正式に決定、C作戦と命名される。
12月1日発令の兵力部署で栂は軽巡五十鈴と主隊を編成。全作戦の支援、香港付近の敵艦艇の監視、敵性商船の拿捕、香港付近の敵要地攻撃を主任務とする。12月7日、作戦参加の全艦艇は広東への集結を済ませた。
1941年12月8日午前3時より第23軍第38師団1万5000名が九龍半島に突入。栂は蓮や栗と香港近海の大担尾水道南口付近にて警戒行動を行った。12月14日からは水雷艇3隻からなる乙監視部隊に異動。12月17日、軽巡洋艦五十鈴の嚮導及び警戒任務に従事、翌18日18時頃、南了水道南方に進出し、陸軍部隊の香港島上陸に呼応して陽動を実施。
潤沢な兵力と砲台群に護られた香港は半年持ちこたえられると言われていたものの、12月25日17時にイギリス軍守備隊が降伏した事であっさりと陥落。しかし生き残った英魚雷艇数隻が包囲網を破って脱出。同日23時30分、香港東口のミルズ湾でそのうちの1隻を発見して追跡、砲弾6発を発射するが、魚雷艇も魚雷2本を発射・応戦してきたため、取り逃がしてしまった。
12月27日、水雷艇3隻と敵潜掃討を実施して香港内の安全を確保。
1942年1月13日、香港攻略作戦部隊の解隊に伴って上海へ帰投。艦体中央部の三年式機銃を陸揚げし、代わりに九六式25mm三連装機銃2基を装備して対空能力を強化した。
2月5日、拿捕されて本土回航中のノルウェー救難船ホルダーとフィリピン貨物船アーガスを発見。どうやらこの2隻は濃霧の影響で本来の護衛である特設運送船笠置丸とはぐれている様子だった。翌6日、駆逐艦栗が会同し、栗の尽力で行方不明になっていた笠置丸との合流に成功、ひとまず福江まで送り届けたところで護衛を終了した。
フィリピンのバターン半島では、立てこもる米比軍を第14軍が攻撃していたが、米比軍が予想の3倍に及ぶ兵力を有している事、敵の防衛線が強固である事から戦況が膠着、大本営・第14軍ともに増援の必要性を認め、2月10日に支那派遣軍より第4師団の転用を決定。2月26日18時30分、リンガエン湾へ上陸する第4師団の先遣隊を乗せた陸軍輸送船8隻を護衛、翌日リンガエン湾まで送り届ける。
その後は高雄もしくは基隆・上海間の船団護衛任務に従事。南方作戦並びに蘭印作戦の成功によってマレー、ジャワ、スマトラ、ビルマ、フィリピン、ボルネオといった広範囲が日本の勢力下に収まり、支那方面艦隊は担当海域を通過する船団の護衛を命じるが、当時はまだ海防艦が1隻も就役しておらず、また逐次支那方面艦隊から戦力が抽出されていったため、船団の数に対して駆逐艦の数が全く足りておらず、栂はハードスケジュールをこなし続ける。
4月18日にドーリットル空襲が発生。日本本土が初めてアメリカ軍の空襲を受けた。これを受けて大本営は支那派遣軍に対し、アメリカ軍が利用できる浙江省方面の航空基地の覆滅を命じ、「せ」号作戦が発動、海軍には陽動作戦や水路啓開作戦等を行って陸軍に協力するよう命じられる。6月1日、「せ」号急襲部隊の軍隊区分が発令、栂は第2急襲隊を率いて上海方面より陽動作戦を実施、7月1日から8月17日にかけて瑞安へ上陸する陸戦隊に援護射撃、敵潜掃討、商船護衛を行った。
8月26日午前7時30分頃、福建省台山列島東方約70kmで米潜水艦ハドックの雷撃を受けて帝春丸が沈没。18時40分、帝春丸の生存者を救助するべく月青湾を出港、遭難現場に向かい、翌27日午前7時30分に到着して基隆方面防備部隊より派遣の特設駆潜艇錦水丸と救難及び対潜掃討に従事。
12月25日16時、上海発トラック行きの第6師団を乗せた第三船団(日帝丸、帝龍丸、すらばや丸、マカツサ丸、盤谷丸、染殿丸)を護衛して上海を出港、12月28日に馬公へ到着するまで直接対潜援護を行った。翌29日、馬公近海で対潜警戒を行って、後から出発してくる第一、第二船団の航路を切り開く。
1943年1月5日に馬公を出発する船団を護衛。戦力不足から支那方面艦隊所属の旧式駆逐艦は栂しかおらず、急遽南西方面艦隊から駆逐艦帆風と長月を借りてきて護衛兵力に充てている。東経136度で護衛が交代し、駆逐艦白雪、第2号、第11号駆潜艇、特設砲艦第二長安丸が加入し、1月8日に上海へ入港。
2月13日から翌14日にかけて、4隻のタンカーで編成された第230船団第二梯団を護衛。
1943年に入ると船舶被害が増大してきたため、4月18日発令の大海指第218号を以って船団航路の設定と一貫護衛の方針を指示。指揮系統が混在しないよう支那方面艦隊、佐世保鎮守府、鎮海警備府間で一貫した護衛体制を構築する。だがそれは戦力の貸し借りが出来ない事を意味し各部署の負担を増大する諸刃の剣でもあった。
4月22日に基隆を出港して哨戒を実施。4月28日、温州沖で駆逐艦栗と第十号作戦輸送船団(陸軍輸送船良洋丸、宏山丸)の護衛を交代し、速力11ノットで航行、4月30日に無事高雄まで送り届けた。5月9日午前10時、3隻からなる船団を護衛して上海を出港、道中で寄港した厦門で基隆行きの1隻が離脱したのち、5月12日午前8時45分、馬公に入港する。ここで整備命令を受け、5月14日午前7時30分に馬公発、5月16日19時45分に上海へ到着した。5月18日13時20分より江南造船所にて入渠整備。
6月頃になると台湾、南西諸島、海南島付近にも米潜水艦の出現が報じられるようになり、実際に撃沈される船舶も増えてきた。6月22日、青島から馬公に向かっているタ302船団3隻の護衛に加入。護衛任務中、南岐山19海里沖で舵が故障した栗と陸軍輸送船芝栗丸が衝突事故を起こし、栂は芝栗丸に寄り添いながら馬公へ護送、一方の栗は、特設砲艦第一号新興丸の曳航で上海に移動している。
7月4日午前1時45分、白馬山丸が雷撃を受けて沈没の恐れがある事から、上海根拠地隊より栂、第131号砲艦、曳船兼救難船笠島の出動が命じられ、現場に急行して対潜掃討を実施。船団の退避を援護した。
8月13日、六連行きの第292船団を護衛して馬公を出発、8月17日に護衛を切り上げ、次は上海発のタ808船団の護衛に途中参加。8月31日午前11時40分、馬公発の船団を護衛中、台州列島東方沖にて米潜水艦シーウルフの雷撃により、松東丸が沈没したとの急報が入り、直ちに潜水艦の掃討及び救難に向かった。
10月4日19時、特設砲艦豊国丸と馬公行きのタ406船団6隻を護衛して上海を出発。米潜水艦が襲撃しにくい大陸接岸航路を通った。22時50分に護衛を終了。11月6日、日本から台湾に向かう途上の第505船団の2隻と合流、台湾近海で2隻はそれぞれ高雄行きと基隆行きとで別れ、栂は基隆行きの輸送船を護衛した。
2月11日午後12時50分、米潜水艦ガジョンが放った魚雷が陸軍輸送船薩摩丸に命中、薩摩丸からの救難信号を受け、台州列島から栂と特設砲艦第一新光丸が緊急出動するも、遭難海域へ到着した頃には既に沈没していたため、生存者の救助を行った。献身的な救助のおかげで死者は4名に抑えられている。
2月19日、大龍丸と筑前丸からなる船団を護衛して基隆を出港。しかし13時20分、富貴角灯台北方17海里沖でB-24爆撃機2機による銃爆撃を受け、機関室に被弾した大龍丸が破孔からの浸水で沈没、乗組員7名が戦死してしまい、高雄行きを断念して基隆へと帰投。アメリカ海軍の暗号解析班は栂が送信した「敵機と交戦中」という平文を傍受している。
3月7日、高雄発門司行きのタモ08船団を、機雷敷設艇新井埼、蓮と護衛して高雄を出港。
連合艦隊はパラオ方面の戦力増強を企図した竹輸送の実行を決め、4月9日、支那方面艦隊に護衛艇1隻と水上偵察機6機を連合艦隊へ派遣するよう指示、これにより上海根拠地隊の栂と、青島方面特別根拠地隊所属の水偵6機が一時的に抽出された。
5月17日午前5時、上海より出発してきたタ505船団が高雄に入港。特設掃海艇第1光鳳丸と交代する形で栂、春風、朝風、第11号海防艦、第75号特設駆潜艇などが護衛に加わり、マニラ行きのタマ18船団(編制はタ505船団のまま)と出発。しかしその翌日、敵潜水艦の接触を受け、5月20日にも接触が確認されたため、船団はノース・サンフェルナンドの錨地へ緊急避難。翌21日深夜に錨地を出発し、5月23日に無事目的地のマニラまで辿り着く。
5月28日13時、第102号哨戒艇や第104号哨戒艇、第38号駆潜艇、興嶺丸とともにH27船団を護衛してマニラを出港、途中6月3日20時44分にセレベス島北東部バンカ泊地へ寄港し、6月8日18時17分、絶対国防圏の外縁部であるハルマヘラ島ワシレに到着した。
6月11日、帰路に就くH27船団を護衛しながらワシレを出発するが、道中で栂と第38号駆潜艇は護衛から離脱し、翌日ミンダナオ島ダバオへと移動。6月13日17時27分、サイパン島が艦砲射撃を受けたため、「あ」号作戦決戦用意が発動され、連合艦隊電令作第148号により栂は機動部隊補給隊の護衛を任じられる。既にタウイタウイ泊地からは小沢治三郎中将率いる機動部隊がマリアナ諸島へ向けて出撃していた。
6月14日、速吸船団(速吸、初霜、夕凪、栂)はダバオを出港。6月16日午前10時頃、渾作戦中止に伴って原隊への復帰を急ぐ戦艦大和、武蔵、重巡妙高、羽黒、軽巡能代などのグループと合流、速やかに燃料補給を行ったのち北上、同日16時50分に小沢機動部隊とも合流して燃料補給を実施した。6月17日20時に補給作業完了。サイパン方面へ向かう機動部隊と別行動を取る。
6月18日午前7時30分、速吸船団は第1補給部隊(国洋丸、清洋丸、玄洋丸、日栄丸、あづさ丸)と合流。15時頃、パラオからマニラに向かう途上の軽巡名取が一時的に補給部隊の護衛に加わり、翌19日午前5時15分に離脱していった。
6月19日早朝にマリアナ沖海戦が生起。午前8時5分から小沢機動部隊と合流・伴走していたが、敵の航空攻撃が始まる前の13時20分、一部の艦艇にのみ補給を施して海域より離脱した。総力を挙げた航空攻撃は大損害を受けて失敗、虎の子の大型空母翔鶴と大鳳も失ったため、体勢を立て直すべく小沢機動部隊は一度西方へと退避、それと並行して同日21時20分、小沢中将から補給部隊に合流地点へ進出するよう命令が下った。
6月20日午前7時、小沢機動部隊は速吸船団と会同、午前11時より補給作業が始まったが、13時頃、米機動部隊の発見報告がもたらされ、15時45分には急速退避が発令されて機動部隊は前衛・本隊・補給部隊の順に西方退避を開始。高速を発揮できる前衛や本隊と違い補給部隊は15ノット出すのが限界だった。あっと言う間に補給部隊は取り残され、17時頃にはもう機動部隊は水平線の向こう側へと消えていた。補給部隊は横四列、縦三列の隊列を組み、栂は一番右後方に占位する。
間もなくして216機の敵艦上機が小沢機動部隊を攻撃。栂、夕凪、初霜の3隻は日栄丸を護衛しながら主戦場から離れた場所を航行していたが、17時40分頃、後方50kmにいた補給部隊も第58任務部隊所属の敵空母ワスプⅡのTBFアヴェンジャー7機、SBC2急降下爆撃機ヘルダイバー12機、F6Fヘルキャット16機による襲撃を受け、各艦とも激しい対空砲火で応戦。空襲は18時22分頃まで続いた。被害は速吸が小破、玄洋丸が航行不能、清洋丸が大破炎上で、間もなく清洋丸は沈没、玄洋丸は曳航が試みられるも米機動部隊の追撃が予想される事から雷撃処分されている。幸い栂は無傷で乗り切った。
6月21日、沖縄への退避を決めた小沢機動部隊と合流。最後の燃料補給を施す予定だったが、時間の浪費を恐れた艦隊司令部の判断で中止となり、6月23日ギマラスに帰投した。
6月26日、雄鳳丸船団(雄鳳丸、萬栄丸、栄邦丸)を海防艦満珠、干珠、第38号及び第49号駆潜艇と護衛してギマラスを出港、翌27日にタウイタウイ泊地へ到着した際に第38号駆潜艇を分離し、サンボアンガ寄港を経て、6月30日タウイタウイに帰投する。7月1日、新たに給油艦鶴見を加えて出発、ツルサン水道を通って翌日タラカン沖に到着、ここで栂は船団と別れた。
7月3日、給油のためマララグ湾からタラカン方面に移動する戦艦扶桑の護衛任務に従事。翌4日、連合艦隊は栂を機動部隊より除き、上海方面部隊へ復帰するとともに、帰路の途上でキャビデに寄港して進出中の水上機基地員を上海まで輸送するよう指示される。続いてバリクパパン発マニラ行きのタンカー複数を護衛。
7月25日午前4時、護衛空母海鷹、駆逐艦秋風、初霜、第28号掃海艇とマモ01船団(護国丸、浅間丸)を護衛してマニラを出港、7月27日13時に高雄へ寄港し、ここでマニラへ舞い戻る秋風を外し、7月31日出港、8月4日に無事佐世保まで辿り着いた。
8月16日18時35分、上海から沖縄に転出する第62師団8800名を乗せた第609船団3隻(暁空丸、和浦丸、対馬丸)を蓮、砲艦宇治と護衛して呉淞を出港。那覇への入港を控えた8月18日、沖縄北西で米潜水艦ボーフィンによる水上追跡を受け、蓮が爆雷3発を投下する一幕があったものの、何事もなく翌19日に那覇まで護送した。その後栂は船団護衛から外れたようで、対馬丸事件の舞台となったナモ103船団には参加していない。
陸軍の大陸打通作戦協力の一環として厦門方面に増援を送る節号作戦が発動。9月24日、節号E演習部隊を乗せた船団を護衛して出港、9月27日に乙支隊の上陸に成功した後、10月7日午前10時から節号B船団の護衛に参加、伴走者の第21号掃海艇が敵潜を探知して爆雷を投下する一幕があったものの、10月9日、無事厦門まで到着。作戦は成功に終わり、10月13日に作戦部隊の編成が解かれる。
マリアナ沖海戦敗北後、米潜水艦の跳梁はより一層激しさを増した。
10月22日17時、蓮とともに輸送船4隻からなるウ03船団を護衛して福州を出港。ところが翌23日午前3時36分、澎湖諸島北北西130kmの地点で米潜水艦タングから雷撃を受け、東運丸と船団旗艦辰寿丸が撃沈、前方にタングが浮上しているのを発見した若竹丸が果敢に体当たりを喰らわせようとするも、左舷へ急転舵して回避された挙句、逆に魚雷を喰らって沈没、船団は壊滅状態に陥った。
付近ではマニラ発高雄行きのマタ30船団が米潜水艦7隻からなるウルフパックに捕捉され、執拗な攻撃を受け続けていた。このため10月24日、栂は護衛強化及び対潜掃討のため半壊状態のマタ30船団に急派され、駆逐艦春風と警戒任務に従事。結局高雄まで入港出来たのは12隻中3隻のみだった。
10月30日16時、駆逐艦蓮、海防艦大東、第25号海防艦等とともにタモ27船団6隻を護衛して高雄を出港、途中基隆を経由し、11月5日21時に門司へと到着、護衛を完了した。12月2日、最後の艦長となる吉井俊雄少佐が着任。彼は駆逐艦不知火砲術長、水雷艇鷺の艇長、軽巡阿武隈航海長を務めてきたベテランであった。
レイテ沖海戦の惨敗によって太平洋はもちろん、南支沿岸の制空権・制海権の維持が困難になり、強力な護衛兵力を投じても航行船舶への被害は増大の一途を辿った。1944年末の船舶数は開戦前の40%にまで落ち込んでいたのである。12月11日、中国沿岸にて、第701海軍航空隊の援護を受けながら龍和丸、豊川丸、真島丸を護衛しているところをアメリカ軍に目撃される。
1945年1月3日と4日、米機動部隊はリンガエン湾侵攻作戦の妨げとなる台湾、沖縄、近隣諸島の飛行場と艦船を攻撃し、少なくとも商船3隻を撃沈。台湾本土は連日陸上機による爆撃を受けた。
更に1月9日夜、カムラン湾にいる戦艦伊勢と日向を撃沈するべく、米機動部隊が初めて南シナ海へ侵入(グラティテュード作戦)、台風がもたらす悪天候をも無視して台湾とルソン島に波状攻撃を仕掛ける。前日のうちに高雄を出港していた栂は幸運にも難を逃れた。
1月12日から14日にかけて基隆に寄港。その後は沿岸警備任務に就く。台湾海峡では米潜水艦が跋扈し、8日と9日の両日だけで陸軍徴用船安洋丸、特設運送船満珠丸、三洋丸が立て続けに撃沈ないし擱座。また航空攻撃も苛烈を極め、第3号海防艦、第61号駆潜艇、第216号特務駆潜艇、第4南進丸、福山丸、特設運送船重興丸などが撃沈されている。
1945年1月15日午前7時30分、インドシナ方面から転進してきた米機動部隊が高雄、左営、澎湖諸島及び広東方面を攻撃するが、悪天候と激しい対空砲火に阻まれて思うように戦果を挙げられなかったため、天候条件が良い澎湖諸島と馬公に目標を変更。
午前8時30分、高雄警備府より、南西海面からグラマン約20機が南部地区へ侵入したとの報告が入り、馬公方面に空襲警報が発令。午前10時20分に第235号駆潜特務艇が敵機の大編隊を認めて通報する。空襲時、馬公には栂と入渠中の駆逐艦浜風、敷設特務艇江之島、円島などがおり、銃爆撃を仕掛けてくるF6Fグラマンや各種艦載機に対空射撃で応戦したものの、栂は馬公南方の1号ブイ北西で爆撃を受けて沈没。港内には栂を除いて民間船を改造した特設艦艇しかおらず、戦闘艦の形状をした栂に攻撃が集中して撃沈されたと思われる。午前11時50分に空襲は終了。
午後12時10分、馬公特別根拠地隊は栂の沈没を高雄警備府や連合艦隊に報告した。死傷者の数については不明。ただし、吉井艦長は戦後海防艦高根と駆逐艦槇の艦長に就任し、復員任務に就いているため、少なくとも彼は生き残ったようである。
当時の調査によると船体は3つに裂かれ、水深7mの海底に沈んでいたという。3月10日除籍。終戦後、しばらくはサルベージに応じる業者がおらず、1954年9月、船体を爆破した上で引き揚げ、現地にて解体された。
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最終更新:2025/12/08(月) 16:00
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