「浅井久政」(あざい/あさい?・ひさまさ 1526~1573年)とは、戦国時代の武将である。近江国(滋賀県)の北部を支配した戦国大名。浅井長政の父。
概要
浅井亮政の子。亮政は主家の京極家を追い落として江北の盟主となり、久政が跡を継いだ。
近江南部の六角家から攻撃を受けて従属。久政はやがて隠居し、家督は息子の長政が継いだ。
浅井家は織田信長と同盟して勢力を拡大したが、後に信長と敵対して攻め滅ぼされた。
久政は浅井家最後の戦いである小谷城の籠城戦に参加。持ち場を織田軍の木下藤吉郎(豊臣秀吉)に攻め落とされて、久政は自害した。
浅井家滅亡の元凶
浅井家の家系
浅井亮政
|
浅井久政
|
浅井長政=お市の方
|
浅井三姉妹
お市の方はあの織田信長の妹で有名。
浅井三姉妹の内、長女の茶々は豊臣秀吉の夫人となった淀の方。彼女も有名。
女性陣が有名なおかげで、お市の方の夫である浅井長政の父親である浅井久政も戦国武将としては知名度がある。
浅井久政は暗愚な武将として知られている。
・亮政は下克上を果たした英雄だったのに、息子の久政が駄目当主で六角家に従属。
・六角家から舐められて家来のように扱われた。
・呆れた浅井家の家臣たちがクーデターを起こし、久政の子で英邁な長政を当主に据えた。
・優秀な長政は六角軍と戦って勝利・独立し、織田信長と同盟して大活躍。久政の時代は浅井家の黒歴史。
・織田信長と越前(福井県)の朝倉義景(暗愚)が争った際、隠居の久政が出しゃばった。浅井家と朝倉家は昔からの盟友だから朝倉家に味方しろと言い出し、長政に織田家との同盟を破棄させた。まさに老害。
・浅井家は織田信長に攻め滅ぼされた。お市の方と娘たちの苦難はそこから始まった。
擁護しようのない暗愚である。
朝倉家との同盟継続については、息子の浅井長政が義将・孝行息子としての評価を受けている一因ではあるが……。
<再評価>
しかし戦国時代当時の史料の発見・検証が進められたことで、浅井久政の人物像も見直された。
特に内政では高い評価を受けている。そちらはwikiを参照のこと。
この記事では浅井久政の軍事・外交の業績も追っていく。
~1550年頃 先代から続く京極家との因縁。苦難の時期
~1554年 浅井家の飛躍と権力強化
家督相続まで
浅井久政が生まれ育った頃、戦国時代の到来から混乱が続く江北に一人の英雄が登場した。
名門京極家の京極高清である。浅井家は京極家に従っていた。
京極家は御家騒動で徐々に他の地方の支配権を失い衰退していたが、京極高清は江北に注力して内乱が続いていた現地を統一した。
その京極家がまた御家騒動で分裂し、抗争の中で浅井亮政は国人一揆の盟主へのし上がっていく。
浅井亮政は京極高延を支持して一揆の内ゲバを制したが、敵対する国人や復権を狙う京極高清、高慶への対応に追われ、支配権力の強化が不十分なまま亡くなってしまった。
しかも浅井亮政はその晩年、近隣の有力大名である六角定頼と朝倉孝景から攻撃を受け、朝倉家の怪物・朝倉宗滴が率いる軍勢に小谷城を占拠されてしまった。
六角定頼は出兵に協力した朝倉家に感謝の書状を送った。
六角家に屈従を強いられた最初の浅井家当主は、久政ではなく亮政の方だったのである。
※実は朝倉家の真の仲間は、浅井家ではなく六角家の方だった。
当時の英雄だった朝倉孝景と六角定頼は盟友で、両家の交流は代替わりした後も続けられた。
また朝倉家当主の側近として、六角家の支配地域である南近江の武家出身者が多数活動した。
<父の献身>
亮政は次代の久政たちの為に可能な限り手は打っていた。
1.近江高島郡(滋賀県北西部)の有力国人・田屋家と婚姻関係を結び、田屋家の人々に久政の養育を手伝わせた。
亮政死後に田屋家と久政が家督を争った説はあるが、田屋家は後に久政、長政を助けて浅井家と盛衰を共にし、衰退後も浅井三姉妹を助けた。
2.隣国美濃西部(岐阜県)の多くの武家と浅井家の間で婚姻関係を結んだ。
この人脈は後に浅井三姉妹を支えた。
その延長で美濃の内紛に勝手に介入して六角家と朝倉家から敵と判断された疑いはあるが…。
3.近江住人の聖地である竹生島の寺社のために奉納金を集める役割を担った。
地域住民にとって役所のような機関でもあった寺社との円満な付き合いは領主の義務であり、見返りに僧侶や神官たちに助けてもらうことも多かった。
4.奉納金の件で中国地方の有力大名・尼子晴久に奉納金集めと納付を依頼。
尼子家は浅井家と同じく京極家の被官(家臣に近い支持者)で、下克上を果たした点も共通している。
尼子晴久は山陰地方を中心に大勢力を誇った大名で、近畿地方にも影響を及ぼした。また尼子家傘下の水軍衆は日本海の物流に関わっていた。
しかし最善を尽くしても新興の浅井家では、六角家や朝倉家に太刀打ちできる地力が無かった。
六角軍に追い詰められた浅井亮政は最晩年に六角家へ寝返った。
だが今度は旧主の京極高延とその重臣(あるいは同一人物)である京極高広から猛攻を受け、浅井傘下の国衆が次々に高延方へ寝返る劣勢の最中に亡くなってしまった。
※浅井亮政は京極高延を推戴する重臣の立場で彼らを従えていた。
<若当主の苦難>
苦境の最中に跡を継いだ浅井久政も、父親と同様に京極家や六角家の脅威に苦労する羽目になった。
不幸中の幸いは、六角定頼が京極高延による江北の再統一を望まず、六角定頼と京極高延が手を結んで浅井家を滅ぼすという最悪の展開が避けられたことだろうか。
家を継いだばかりの久政は、父亮政を苦しめた京極高広軍の猛攻をよく凌いだ。
しかし六角家から十分な支援を受けられず、徐々に追い込まれていった。
だがその浅井家に飛躍の時が訪れた。
中央政界で下克上が起こり、大規模な戦役が勃発したのである。
~1554年 三好長慶の出現と浅井家の台頭
浅井家 | 戦役を通じて国人一揆の盟主から強権を振るう支配者、近江北部・東部を支配する有力大名へ成長 |
京極家 | 兄弟が対立し、それぞれが浅井家、六角家と組む。 |
六角家 | 浅井久政、三好長慶、斎藤道三という下克上組を相手に苦戦。朝倉家を救援できず(浅井家が邪魔) |
朝倉家 | 三好家と加賀一向一揆に挟撃されて苦戦。六角家と連携できず。 |
斎藤家 | 戦役のおかげで六角・朝倉の脅威から解放されたが、長引く戦乱で道三の支持率は・・・ |
<戦役勃発>
1548年、中央の有力者・細川晴元に従う重臣間の対立をきっかけに、三好長慶が挙兵。翌年に細川晴元を追い落とした。
細川晴元は盟友の六角定頼を頼って南近江へ落ち延びた。
三好長慶の行動を足利将軍も非難し、将軍は晴元・六角を支持。六角家の盟友である朝倉家も細川晴元に味方した。
そして戦役は近畿・四国・中国・北陸地方へ拡大した。
当時の浅井久政は六角定頼を後ろ盾にして京極高延の攻勢に耐えていたが、久政は六角家から離反して京極高延に従った。
そして江北の軍勢はこの戦役に便乗して六角家の勢力圏へ侵攻を開始した。
細川晴元派 | 三好長慶派 | |
畿内 | ||
京極家 | 京極高慶(弟) | 京極高延(兄) |
近江 | 六角定頼→六角義賢 | 浅井久政 |
若狭 | 武田信豊、朝倉義景 | 武田義統、松永長頼 |
北陸 | 朝倉義景 | 加賀一揆 |
浅井・京極軍は近江東部へ侵攻し、この地域を制圧。六角家を劣勢に追い込んだ。
この状況を見て六角義賢が東へ転戦。
六角義賢軍の逆襲を受けて劣勢になると、浅井久政は六角家と和睦した。
一方、京極高広は六角義賢軍との戦いで討死。
京極高延は戦役終盤から消息が不明。
京極コンビを失った後の江北軍の指導者は、名実共に浅井久政が担ったと考えられる。
※余談だが、浅井久政は六角家との和睦後も、勢力間の境目の武家に因縁をつけて対して疑心暗鬼に駆られれて、侵攻した。
(この時久政が殴りかかった武家とは後に仲良くなったが)
寝返りのタイミングと言い、行動は梟雄そのものである。
<戦役の勝ち組>
浅井久政は戦役集結後、六角家を後ろ盾にして江北の支配者に収まった。
なお戦役時に京極家と組んで六角家から奪取した城の多くもちゃっかり我が物にしている。
浅井久政は、将軍と盟友を助けて畿内に秩序を取り戻す大義のために戦っていた六角家を横合いから殴りつけ、その戦果で江北の支配者に成り上がった。
これが「六角家に屈従した情けない武将」の正体だった。
浅井久政は斎藤道三の同類だったのだ。
<戦役の成果>
1.格上の六角家に戦を挑んで勝利。
2.江北国人衆の軍事指導者としての実績。
3.制圧した近江東部は物流の重要経路。
4.勢力圏内の国友村の軍需産業が急成長。
浅井家の大勝利!!!
一方、六角家と朝倉家は三好長慶を打倒できず、戦役後も十年に渡り争い続ける羽目になった。
更に六角義賢は南の伊賀・伊勢を脅かす北畠具教にも対抗する必要があり、それが本来敗者である浅井久政への譲歩の理由だったとみられる。
三好・北畠と争う情勢で江北勢との抗争を続けるより、浅井久政の後ろ盾になり浅井家の江北支配を看過することで、江北と敵対しない道を選んだのだ。
そして浅井久政は義賢軍との戦に敗れはしたが、浅井家が原因の一つである六角定頼最晩年からの六角家の苦境を見て巧く立ち回ったのだろう。
また近江・美濃間の要地を浅井家に奪われた結果、六角家は美濃に軍事介入できなくなった。
これは東の斎藤道三にとって有益なことだった。
すでに南の織田信長と同盟していた道三は、浅井久政のおかげで西の脅威からも解放され、内政に打ち込める筈だったのだが・・・。
1554年~1559年 浅井家の富国強兵策
浅井家 | 天災と戦乱に喘ぐ周辺勢力を後目に、富国強兵に邁進。この時期の勝ち組。 |
京極家 | 京極高慶が江北に帰還するも大名に復職できず、京都で将軍に仕えた。 |
六角家 | 三好家に対する包囲網を構築。北畠家の北進に対抗。浅井家に対しては不干渉か。 |
朝倉家 | 三好家と加賀一向一揆から攻撃を受けて苦境が続く。美濃に介入を続ける。 |
斎藤家 | 道三が義龍(息子)から権力を奪おうと挙兵したが敗死。義龍は六角・朝倉に接近。 |
将軍家 | 三好家から支持を受けるも、六角・朝倉・斎藤義龍に肩入れして三国同盟を促す。 |
戦役が終わると浅井久政は、六角家と組んでいた京極高吉(高慶の子?)を江北に迎え入れた。
旧主の京極高延が都合良くいなくなり、彼と争った京極家の対抗派閥から高吉を迎え入れたのだった。
浅井久政は娘を京極高吉に嫁がせて京極家との関係を強化。
しかし高吉の京極家が江北の大名に返り咲くことは無かった。京極高吉は江北から離れて京都で将軍足利義輝に仕えた。
浅井家と京極家の抗争は、浅井家にとって都合の良い形で一旦決着した。
浅井久政は下克上の事業を完遂した。
そして江北の大名になった久政は、この地の繁栄のために邁進した。
<六角家への従属>
浅井久政は息子(浅井長政)の正室に、南近江の有力者平井家の姫を迎えた。
平井家は六角家を支えた有力武家の一つ。その支配地域は浅井家が奪取した近江東部に近く、美濃ー佐和山―大津間の物流ルートの要地でもあった。
平井家は浅井・六角の抗争・融和がもたらす利害が大きな地域の代表者だったわけである。
浅井久政は互いに利用しやすい相手を選んで手を結んだのだった。
<浅井久政の内政>
1.協力者だった国人衆を浅井家の家臣団に組み込んだ。
2.領内の紛争を裁定した。
3.寺社との交流を深めた。
4.大自然災害の時期に江北を繁栄させた。
先代亮政の浅井家は国人一揆の盟主となったばかりで、勢力圏の政務に強権を振るった形跡が見られない。
浅井久政は、広域支配領主として水争いなどのトラブルを裁定。その際、従わない者には軍事力を行使すると恫喝した。
これは浅井家が国人の代表ではなく上位者になったこと、浅井久政が江北の国人たちに対して強い指導力を発揮したことを示している。
浅井久政は灌漑工事などの事業に乗り出した。
こうした広範囲に影響を及ぼす大規模事業も、広域に渡り強い権力を持つ支配者でなければ実行できないものだった。
浅井家の隆盛と共に、江北の寺社は小谷城下に進出して拠点を構えた。領事館や企業支店のようなものであり、江北の知識人たちは成り上がりの浅井家を大名として認めたのである。
またこの時代の寺社は職工集団や商人たちの庇護者でもあり、大名がいずれかの寺社と協力することは領国支配に不可欠だった。
浅井久政は近江最大勢力の比叡山や、江北に信徒を増やしていた本願寺教団に接近した。
後に浅井長政が織田信長と抗争した際、彼らは浅井家の大きな助けとなった。
<浅井家と国友村>
浅井家の勢力圏にあった国友村は、1540年代後半に鉄砲製造を開始した。
1550年代には他の有名な製造地域に並ぶほど発展したという。
地域名 | 所在国 | 備考 |
堺 | 和泉国 (大阪府) |
戦国時代屈指の繁栄を誇った交易都市・要塞都市。莫大な出資で戦国時代を動かした政商を多数輩出した。 |
根来 | 紀伊国北部 (和歌山県) |
根来寺が本拠地。根来寺は、高野山グループの一員。高野山は比叡山に匹敵する巨大財閥だった。 |
雑賀 | 紀伊国北部 (和歌山県) |
南海道交易で発展。雑賀衆の一部は本願寺教団と共存共栄して販路・入植地を拡大。一部は根来寺に所属。 |
日野 | 近江国南部 | 六角家を支えた重臣・蒲生家が支配した土地。日野は、六角家の生命線である南の物流ルート(南近江―北伊勢間)の要地の一つ。 |
必要な物資が現地に届かなければ、鉄砲の製造や運用はできない。
浅井家と国友村は持ちつ持たれつの関係だった。
後に国友村が含まれる地域が織田家に奪われた後も、浅井家に協力する国友村の出身者がいた。
<浅井久政の軍備増強>
次が小谷城の防衛体制の確立である。
この小谷城は、後にあの織田信長が総力を挙げて攻撃してもなかなか攻め落とせなかった城だった。
小谷城の守りはこの城一つではなく、背後に広がる山岳地帯に点在する他の城も味方であることで成り立った。
これらの城を保有する国人たち(片桐直貞など)は、浅井久政が当主の時代に浅井家の家臣団に組み込まれたとみられる。彼らは浅井家が滅亡するまで共に戦い続けた。
もう一つが近江東部の支配継続である。
浅井久政はこの地域を六角家に返還しなかった。
同地域で活動した佐和山城主の磯野員昌については該当記事を参照のこと。
浅井家に従い続けた磯野は次第に管轄地を広げて、浅井家に従う国人衆を与力(下位の協力者)にした。
これは浅井家が磯野にこの地域の軍権を任せると共に、この地域を六角家に返還せず支配し続ける意思表示だったとみられる。
<浅井久政のお手本>
先代亮政の時代まで近江の一国人に過ぎなかった浅井家には、当然だが江北の広域を管理するために必要な経験・実績は無かった。
それらを手に入れるために京極家を取り込み(最後は追い出したが)、寺社の協力を得る必要があった。
一方、長年に渡り南近江を管轄し、英雄六角定頼を輩出した六角家にはそれらのノウハウがあった。
この六角定頼の花押(サイン)や政策を浅井久政は模倣した疑いがあったりする。
上述の通り、浅井久政は六角家から奪った地域を六角家に返還しなかった。
土地は返さず、花押と政策はパクる。浅井久政を従えたとはいえ、忍耐を強いられたのは六角義賢の方だっただろう。
<永禄の小氷河期>
1550年代に日本ばかりか全世界を襲った大規模自然災害。人類の生活を根底から破壊するレベルの寒冷化である。
寒冷化そのものは数百年前から始まって日本人を徐々に苦しめていたが、1550年代には東日本を中心に甚大な被害をもたらした。
具体的には、
・越前(福井県)で現代のそれも比較にならないレベルの豪雪。凍死者多数。
・越後(新潟県)の上杉謙信が関東出兵を行った最大の理由とされる。
・尾張(愛知県西部)で行われた桶狭間の戦いの重要な局面で戦場に雹が降り注いだ。
1.農作物の凶作など一時的な供給の低下。餓死、領民と武士の逃散、技術者の死亡などによる供給能力の更なる低下。
→必要な物が作られない、手に入らない。
→奪うしかない→資源争奪、武力衝突の激化で供給能力と生活水準の更なる低下という悪循環
2.地域の荒廃、人々の生活水準の低下により物が売れなくなる。
→需要不足で仕事が無くなり産業衰退、ロストテクノロジーの問題。
→銭を得られず、必要な物があって売られているが買えない、手に入らない
→不況と生活水準低下の悪循環→他所から奪うしかない
「必要な物が手に入らないなら奪うしかない」と水資源や森林資源の争奪が激化、負けて流民と化した人々は他の地域に押し寄せて治安悪化という悪循環である。
この難題に、戦国時代の武士たちは取り組んだ。
江北も自然災害の被害を受けた。その時期に、浅井久政は武力を背景にした善政を敷いたのだった。
なお同時期に内政で成果を挙げた近隣の大名では斎藤義龍の名前が挙がる。
<六角家の苦難>
浅井久政が江北で着々と成果を挙げていた頃、浅井家の主家となった六角義賢(南近江)は東西のパワーバランス維持の為に奔走していた。
西の三好長慶と、南の北畠晴具・具教父子の侵攻に対抗したのである。
三好家の勢力が拡大しすぎることを将軍足利義輝は望まず、また朝倉家が三好家と加賀一向一揆に挟撃されていたため、六角義賢は三好家に対する包囲網を組んで戦った。
南では北畠家が先代の頃から脅威となっていた。
北畠晴具は当初は伊賀国(三重県北西部)や大和国(奈良県)で勢力を拡大したが、六角家の地盤を崩せなかったことや大和国の複雑な政争に巻き込まれるのを避けるために内陸部から撤退。
跡を継いだ北畠具教は方針を転換して、先ず志摩国(三重県志摩半島)を征服。従えた志摩水軍と組んで伊勢中部・北部へ侵攻。
こうして北畠家の勢力は六角家(と南近江の士民)の伊勢湾へのアクセスを脅かした。
六角義賢は、浅井久政に対しては慎重に立ち回った。
六角家は近江東部の奪還に動かず、久政が進めた権力強化と富国強兵への妨害も控えた。
むしろ浅井家を刺激しないよう無視したのかもしれない。
常識人のDQNへの接し方そのもの。
浅井久政は北伊勢出兵には協力した。
しかし六角義賢は、最大の脅威だった三好家相手の畿内の大合戦に浅井家を動員した形跡はない。
1559年~1560年 六角・斎藤同盟の成立と、浅井家の危機
浅井家 | いつの間にか三国同盟に囲まれて孤立。 |
六角家 | 苦境を打開するため斎藤家と同盟して外交革命。打倒浅井家に乗り出す。 |
朝倉家 | 同盟に参加するも美濃に後日介入の火種を仕込む狡猾さ。加賀一揆対策に注力。 |
斎藤家 | 将軍の後押しで六角・朝倉と同盟。尾張のうつけが邪魔をする。 |
将軍家 | 三好家に対抗させるため、六角・朝倉・斎藤の同盟を促す。浅井家はのけ者。 |
織田家 | 尾張国内に斎藤義龍の支持勢力を作られて苦戦。東からは今川義元が迫る。 |
<斎藤家の動向>
1556年、斎藤義龍は美濃国人衆の圧倒的多数の支持を受けて父親を返り討ちにした。
その後は有力国人を政権に取り込み、美濃の供給能力・軍事力の把握に努めるなど順調に権力を強化。
しかし美濃国内の道三派は、尾張の織田信長を後ろ盾にして義龍派に対抗。
越前の朝倉義景も介入を続けるなど、美濃の危機は続いた。
そこで斎藤義龍は将軍足利義輝に接近。相伴衆(将軍の相談役)の職や名門一色家の家名を与えられるなど、将軍家の後ろ盾があることを保証してもらった。
その見返りに、六角・朝倉と同盟し、将軍家を支持する東の連合勢力を結成した。
<六角家の動向>
六角義賢は、父親が最晩年に苦境に陥り、そのまま父親が亡くなって厳しい状況の中で家を守ることになったという点で、久政と似た境遇だった。
六角義賢はその後、甲賀衆らの協力もあり挽回を果たしていた。
西では三好家の勢力拡大の抑止に成功。
伊勢方面では有力者の神戸家を味方に付けて、北畠家の北進を食い止めつつあった。
※さらに当時から六角家は、尾張の織田信長と同盟していた説がある。
苦境を打破した六角義賢は、嫡子義治に家督を譲り、二元体制を敷いた。
そしてこの六角義治が、浅井家の新たな脅威となった。
六角義治は、将軍家の後押しを受けて六角・斎藤同盟の締結を推進。
これにより、両家の間に勢力圏を有する浅井家は、六角・斎藤の連携を疎外する邪魔者となった。
六角・斎藤同盟が成立すれば、両家の緊密な連携を実現するために、邪魔者である浅井家を排除する、最低でも近江東部を奪還して美濃との連絡路を確保するのは当然の成り行きである。
先代の六角義賢は斎藤義龍との同盟に難色を示したものの、六角家は現当主の義治たち主戦派の方針で動き出した。
肝心の浅井家が三国同盟に対し、どのような行動をしたかーー妨害などーーは不明。
<朝倉家の動向>
浅井家の危機に際し、古くからの盟友である筈の朝倉家は浅井家を助けたりしなかった。
<将軍の動向>
将軍足利義輝は斎藤義龍の活動を全面的に支援した。
これにより地位を固めた斎藤義龍は六角家との同盟を進めた。
そして浅井家は除け者にされた。
※また浅井久政は同様の下克上組である織田信長と違い、旧主の京極家と婚姻を結んで利用する策を採ったため、京極家を完全に排除せず、信長や斎藤義龍とは違い足利義輝から国主としての権威を認められていなかった。
先の戦役中、将軍足利義晴、義輝を支えた六角家を背後から襲った浅井久政を、足利義輝が応援する義理もない。
こうして浅井家は、六角家・斎藤家(と将軍の)標的にされてしまった。
「愚かな浅井久政が家臣団のクーデターで隠居に追い込まれた」のはこの時期とされるのだが・・・。
1560年 野良田の戦いと、浅井家の家督相続
1560年、六角義治は二万人の大軍を動員して浅井家の砦を攻撃。
すでに浅井家臣団は暗愚な久政を隠居させており、英邁な若当主の長政は浅井軍を率いて六角軍に立ち向かい、大勝利した。桶狭間の戦いに匹敵する奇跡的な勝利だった。
この後、浅井長政は織田信長の妹お市の方を妻に迎えて信長と同盟し、共に天下を目指した。
というのが江戸時代の軍記物の記述である。
ところが肝心の野良田の戦いの規模がどの程度のもので、当事者と周辺勢力にどの程度の影響を及ぼしたのか、軍記物の記述を除くと不明である。
浅井長政が傘下の国人宛てに出した書状では野良田の戦勝に触れていること、またこの頃の史料で現存する浅井家の書状は久政の書状が少なく長政の書状が多いことから、戦後には浅井長政が当主として活動を始めていたと考えられてはいるのだが。
また六角家は、この戦いの翌年と次の年にそれぞれ三好軍と戦い勝利しており、「大軍を動員して負けた」ダメージを負っていたかどうかは疑う余地がある。
この野良田の戦い、きっかけは六角家傘下の国人が浅井家へ寝返ったこととされるが、その浅井家を頼りがいのある強い大名に育てたのは浅井久政だった。
野良田の件は、浅井家が六角家と傘下の武家との揉め事に介入できるほど成長していた、と見なすべきかもしれない。
この野良田の戦いと前後の記述が、浅井久政=暗愚の二大根拠の一つなのだが・・・。
これも浅井久政が六角父子を真似て早めに息子に家督譲っただけなのでは
1560年~1570年 浅井家の最盛期と、隠居の活動
浅井家 | 六角家を攻撃し続けて滅ぼし、近江最大の勢力に成長 |
六角家 | 浅井・織田に同盟を持ち掛けたが、阿波公方派に寝返り、浅井・織田の攻撃を受けて滅亡 |
朝倉家 | 加賀一揆に対抗する包囲網を築くも瓦解、対応に忙殺されて畿内情勢に関与できず |
斎藤家 | 浅井家に同盟を持ち掛けたが拒否された。クーデターで失脚、状況悪化後に復権。不幸 |
織田家 | 六角家の提案に乗るも、同盟崩壊後は浅井と組んで斎藤・六角を滅ぼす。 |
<隠居の活動>
1560年代前半から浅井家当主の活動は長政が行い、久政が行っていた資源争いの裁定も長政が調停者として登場する。
一方、久政は近江竹生島との交流で史料に登場する。
この竹生島は島そのものが古代から近江士民の聖地であり、島に建設された寺社に祀られた神仏も人々から篤く親交されていた。
浅井家にとっても聖地であり、後に浅井家を滅ぼした織田信長も参詣した。
勢い盛んな新興大名の前当主が、聖地へ熱心に援助を行った。
浅井家こそが近江国の守護者であるという喧伝も兼ねていたとみられる。
<1568年 朽木元綱宛ての書状>
1568年、浅井長政と織田信長は、足利義昭上洛作戦を決行。
六角家を打倒し、京都へ進撃して新政権を樹立した。
同年、浅井家は近江西部の朽木家に書状を送った。送り主は浅井久政と長政。
その内容は、
1.朽木家の所領安堵
2.新領地加増の約束
3.「今後ともよろしく」
成り上がりの浅井家が、朽木家を従えたのである。
<朽木家とは>
古くから近江西部の朽木谷に勢力を張った名門武家である。「朽木元綱」の記事を参照のこと。
将軍家の御家騒動(近江公方派VS阿波公方派)では一貫して近江公方派を支持し、その関係もあって六角家と仲が良く、浅井家とは敵対した。
しかし朽木家にとって最優先すべきは近江公方であり、六角家が阿波公方派に寝返った後は決別。
足利義昭の逃避行を支え、新政権を支持した。
その名門武家を、浅井家は傘下に迎えることができたのだった。
『信長公記』にある「浅井家には江北一円を任せていたのに・・・」という内容からも、浅井家が近江西部という京都に通じる重要な物流経路の土地を管轄したことが分かる。
ここで肝心なのが、浅井久政が長政と一緒に書状の送り主になっている点である。
朽木家を傘下に迎えるにあたっては、現当主浅井長政の名前だけでは不足で、先代久政の権威も必要とした、ということだからだ。
家臣団にクーデターを起こされて隠居させられた暗愚だったら出番などあるわけがない。
<六角家の没落>
ところで浅井家の繁栄とは対照的に、六角家は阿波公方派への寝返りという痛恨の決断ミスで破滅した。
六角家はそれまで、近江公方派の中心勢力として長年に渡り活動していた。
特に足利義輝が殺害された後、六角家は足利義昭の後ろ盾になり、さらに巨大な連合を組もうとしていた。
六角家は織田信長と組み、織田信長は北伊勢経由で上洛軍を起こそうとした。
この計画が実現していたら、六角、朝倉、織田、斎藤、浅井、松永久秀(大和国)、三好義継・畠山高政(河内国)というとてつもない連合勢力が結成されただろう。
ところが中心勢力の六角家が阿波公方派へ寝返り、ご破算になった。
六角家が何故そんな決断と行動をしたのかについてだが・・・その時期も浅井家が六角領への侵攻を執拗に繰り返した疑いがあったりする。
また浅井家の同盟者である織田信長は、六角家の同盟者である斎藤龍興への攻撃を続けた。
何にせよ上洛作戦において浅井家は六角家を倒し、近江西部も正式に管轄地に加えて屈指の有力大名となり、新政権の重要な支持者になった。
<朝倉家の不穏な動き>
朝倉家は長年に渡り六角家とは協力関係を続けていて、南近江の国人衆と太い人脈を築いており、他方で美濃の斎藤龍興とは友好関係を結んだ。
その朝倉家は、上洛作戦に参加しなかった。
どころか近江公方派の一員だった若狭武田家の当主(浅井久政の孫娘の婿)を越前に連れ去る謎の行動を取った。
新政権誕生後も、足利義昭と織田信長からの上洛要請をかわし続けた。
<浅井長政の外交政策>
近年の研究により、浅井長政が朝倉家を後ろ盾にしていた可能性が指摘されている。
長政は目まぐるしく変わる情勢の中で、父と祖父の怨敵だった朝倉家を味方に付けたというわけだ。
事実とすれば、久政譲りの巧みな外交である。
長政は六角義治とは緊張関係にあり、また将軍位を巡る足利家の争いでは六角家が近江公方派から離反。
六角家と組む東の斎藤家は織田信長から攻撃を受け続けていた。
父久政の当主時代とは違い、浅井家の周辺は不安定になっていた。
長政が朝倉家と組んだとすれば、この時点では理に適っていた。
そして長政は織田信長にも接近し織田家と縁組した。この時点では朝倉義景も織田信長も、将軍候補足利義秋を支持する近江公方派の一員だった。
1570年~1573年 信長包囲網と浅井家の滅亡
1570年、朝倉家の非協力と若狭国への介入にブチ切れた織田信長は、義昭政権の支持者に呼びかけて大軍を動員。
若狭国へ入り朝倉派を降伏させた後、越前へ侵攻した。
浅井家は長年朝倉家と同盟関係にあり、朝倉家を攻撃しないことを信長に約束させていた。
信長の背信行為に浅井家は怒ったが、信長の妹婿にして英邁な長政は信長との開戦に反対だった。
ところが隠居の久政がしゃしゃり出て、朝倉家との同盟継続を主張し、その強硬な主張に押されて長政は止む無く義兄との対決を決断した。
これが長政の妻お市の方と、娘たち浅井三姉妹の不幸の始まりだった・・・。
というのが浅井久政につきまとうイメージになっている。
だが久政は隠居した後も政務や外交に口出ししたというのは、後世の主に軍記物に記されたことである。
そもそも重臣たちは不甲斐ない久政を引き摺り下ろして英邁な浅井長政を当主に据えたことになっているのに、久政から完全に権力を奪わなかったとしたら、それは重臣たちの失態である。
あるいは浅井家と江北を繁栄に導いた久政の功績に重臣たちも遠慮したのだろうか。
<信長包囲網への参加と苦境>
真相はいずれにしても浅井長政は織田信長に敵対。
朝倉家を救援し、本願寺教団に近江美濃間の交通封鎖を要請して織田軍主力の帰還を妨害し、その間に美濃へ侵攻、と織田領の切り崩しを進めた。
嫌々ながら織田家と手を切ったにしては準備万端で手際も良すぎでは
しかし足利義昭と織田信長の支持者たちから反撃を受け、姉川の戦いで織田軍と決戦して敗北。
長政を支えた彼と同世代の重臣たちが多数討死した上、浅井領が逆に分断されてしまった。
浅井長政は次に朝倉義景と彼の大軍を呼び寄せ、比叡山・本願寺教団の軍勢と連携して近江西部へ侵攻、挽回を果たした。
しかし織田家との和睦交渉では信長からの扱いが朝倉家・延暦寺に比べて軽く、しかも信長は浅井領の割譲を要求。
幸い朝倉義景も延暦寺も信長に靡かず浅井家を裏切らなかった。
しかし和睦が間もなく破れて足利・織田軍との抗争が続くと、浅井長政は織田家の攻囲を受け続けた佐和山城への補給作戦を中止。
浅井家は同地と重臣の磯野家を奪われ、苦境が続いた。
1572年になると明智光秀の近江西部侵攻作戦により、浅井家の古くからの支持者も多い近江高島郡まで織田軍に侵食されていった。
これらの個々の作戦に浅井久政が関与したということは軍記物にも記されていないのだが、「金ケ崎の時に浅井久政が余計な口出しをしなければ・・・」というわけで浅井家の苦境も久政の悪いイメージに繋がってしまった。
<< 浅井久政の活動 >>
浅井家が危機に陥った時期、久政は浅井傘下の各地の武家に書状を出して励まし、彼らの協力に感謝し、彼らを浅井家に繋ぎ止めていた。
苦境の浅井家と息子を助けるために、働いたのである。
<朝倉家の書状>
1572年、越前の朝倉義景は浅井長政と共闘する一方で、朽木家に書状を出した。
その内容は、
1.敦賀の防衛戦に参加してくれてありがとう。おかげで守り通せました。
2.浅井久政殿と長政殿は、真の仲間。
3.皆で力を合わせて織田信長を打ち倒そう。
金ケ崎で織田軍に味方した朽木家は、敦賀の戦では朝倉家に味方した。
1572年終わり頃から、朽木家が支持する将軍足利義昭が織田信長を見限り、信長包囲網に参戦したためである。
浅井家が持ち堪えている間に、朝倉義景は武田信玄を信長包囲網に引き込み、美濃で織田軍と決戦する一大作戦の準備を進めていた。
ところが越前西部の敦賀に織田軍が侵攻するほど、朝倉家も追い詰められていた。
隣国若狭は織田家の丹羽長秀がすでに制圧、織田家に従う若狭衆が敦賀へ侵攻。
若狭に続いて敦賀まで織田軍に押さえられてしまったら、浅井家も日本海へのアクセスを妨げられてしまう一大事だった。
ここで重要なのは、朝倉義景が浅井久政の名前を出していることである。
朝倉義景にとって浅井久政は、単なる隠居ではなかったのだ。
「やっぱり金ケ崎の時の浅井家の決断は(ry 」とも考えられるが、信長包囲網が始まるまで朝倉義景が浅井父子を助けた形跡はなく、そもそも浅井家は朝倉家の盟友だった六角家を殴り倒した武家である。
この書状に久政の名前が出ているのは、彼が浅井家を支えるほどの、引いては包囲網を支えるほどの働きをしていて、朝倉義景はそのことに感謝していた、ことを示している。
<武田家の書状>
朝倉義景の作戦に乗った武田信玄は、朝倉家が味方に引き込んだ美濃(織田家の本拠地)の国人衆と連絡を取っていた。
その国人に武田家が宛てた手紙があり、その内容は、
1.生き残りを賭けて織田家と対決する
2.朝倉殿、浅井久政殿、長政殿、皆々と力を合わせて戦う
3.その時のために準備を進めておいてください
織田領を隔てて離れていた武田家から見ても、久政は単なる隠居ではなかったのだ。
<最期>
1573年、織田信長は朝倉家を滅ぼし、次いで浅井家の小谷城に総攻撃を開始。
浅井久政は浅井軍の籠城戦に参加。防衛拠点の一つ「小丸」を守った。
小丸―京極丸―本丸(浅井長政)
ただし久政は信長包囲網の時期に軍事作戦や諸大名との交渉に参加した形跡がなく、お飾りの守将だった可能性がある。
京極丸は織田軍の木下秀吉(豊臣秀吉)の部隊から攻撃を受けて陥落。木下勢は続いて小丸を攻撃。
浅井久政は側近と共に切腹し、従者たちは久政に殉じた。
<久政の死後>
京極丸・小丸の陥落により、小谷城本丸も間もなく陥落ーーとはならず、浅井長政はその後一週間ほど、武家当主として最期の務めを行った。
浅井家に味方した人々の今後のために、彼らの功績を記した感状を書いて与えたのだ。
久政時代に浅井家に従ったとみられる片桐直貞、高宮宗久らは、敗北必至のこの期に及んでも浅井家を支持して戦い続けていた。
浅井長政は先代からの忠臣たちに感謝し、彼らを小谷城から退去させた後に自害した。
関連項目
- 3
- 0pt