1980年代とは、1980年から1989年のこと、またその時期を代表する事柄である。
概要
世界的には70年代においては米ソデタントにより一時東西対立が融和したが、1980年のソ連のアフガニスタン侵攻により激化する事により始まった。
しかしソ連の社会主義型経済構造の限界、ミハイル・ゴルバチョフ書記長の個人的力量とあいまった核軍縮交渉などの米ソ接近、1989年の東欧革命などにより、全体的には社会主義勢力の退潮という形で米ソ冷戦が終結へと向かっていき、1991年のソ連消滅によって冷戦は幕を閉じることとなる。
また西側諸国では、イギリスのマーガレット・サッチャー、アメリカのロナルド・レーガン、日本の中曽根康弘など、新保守主義が台頭し、現在まで続く自由主義経済・グローバリゼーションが本格化を見せる時期である。
またアメリカのドル体制の維持を目的としたプラザ合意は、日本においては急激な円高となったのを始めその後のアジア通貨危機の引き金を引くなど、金融による世界の一体化が加速していく一つのきっかけとなった。
アジアでは民主化運動が起きたり、NIESをはじめとした国が経済成長を遂げたりするアジアの時代の始まりを見せるものの、北朝鮮による大韓航空機爆破事件、中国で天安門事件が起きるなど、冷戦構造を温存した事件が起きたり、中東ではレバノン内戦、イラン・イラク戦争が長引くなど、国際政治は必ずしも安定したものを見せない時期でもある。
また原子力の平和利用としての原子力発電が普及していたが、チェルノブイリ原子力発電所事故により反原発運動が日本でも盛り上がり、広瀬隆の著書『東京に原発を!』はスローガンとしての役割も果たした。
日本においては、ちょうど昭和50年代後半から末期に当たる。
それぞれの年の記事も参照。
1980年 - 1981年 - 1982年 - 1983年 - 1984年 - 1985年 - 1986年 - 1987年 - 1988年 - 1989年
日本における1980年代
政治面
田中派支配の政治が中曽根康弘、竹下登といった首相選びという形で現れつつも、中曽根康弘内閣以降の流れが新保守主義・新自由主義的な改革路線へ動きを決定づける時期であった。
国内政策では臨調路線に基づく行政改革・税制改革・教育改革が推進され、電電公社・専売公社・国鉄といった三公社民営化が実現した。他、大型間接税導入をしようとするが失敗し、中曽根内閣は総辞職。
一般消費税導入は次の竹下登内閣で実現することになる。
自民党が都市部でも支持を集める中、中曽根康弘はそれまでの国土の均衡ある発展から大都市中心の開発、東京を国際金融情報都市として位置づけようとする。
これは地方自治体の反対を招く結果となるが、1986年の民活法、1987年のリゾート法によってそれぞれ都市開発と地方のリゾート開発を民間資本によって促すという玉虫色のものとして決着を見せる。
しかし官民共同の第三セクターが雨後の筍ほど増えることになり、中には夕張市のように破綻する自治体を生むなど必ずしも良い結果とはならなかった。
竹下登内閣時に打ち出されたふるさと創生事業も1億円が全市町村に配られたが、目ぼしい成果を生まないまま終わっている。山野が開発される中、農業人口は減る一途を辿り、食糧管理特別会計見直しや補助金カットと切り捨ての方向へ舵が切られる。
地方の共同体を支えた農業は衰退し、自然はリゾート開発により無くなる中、住民の中から反開発運動、そしてまちづくり運動が芽生えていく。
政治的事件としては当時竹下登内閣の下で発覚したリクルート事件(1988年)が国民から大バッシングを呼んだ。広く政界・官僚全体で未公開株を受け取っている事が判明。首相候補と言われた安倍晋太郎、宮沢喜一、渡辺美智雄も受け取っており、結果的に無傷であった宇野宗佑がポスト竹下として首相になっている。
その後宇野自身のスキャンダルにより、海部俊樹が首相になるが、続いて佐川急便事件、ゼネコン汚職事件、自民党副総裁金丸信の逮捕などが愛続き、選挙改革として小選挙区比例代表並立制導入や政治献金をこれまでの政治家個人中心から政党中心へと改める政党助成金設立、公職選挙法改正など現在の政治制度に続く流れを作る事になる。
また事件の中心となったリクルートが情報通信産業を主軸とした当時新興企業であったこと、創業者であり当時リクルートグループの会長であった江副浩正が中曽根政権当時、民活路線の中で様々な審議会委員の一人であったこと、未公開株譲渡という法の規制をくぐり抜けた仕組みを用いた事などは、時代の変化を象徴するものであり、類似点で言えば、ロッキード事件よりもその後のライブドア事件や小泉純一郎内閣の改革路線の中で出てきた竹中平蔵の方が多い。
左派系でもこの時期大きな変化を迎えている。政府主導の国鉄民営化や国労解体は、労働運動全体の再編と相まっていた。
1980年代初頭まで、日本の労働組合は、総評(日本社会党)、同盟(民社党)、中立労連(日本社会党)、新産別(日本社会党)に分かれて、総評が全組織労働者数の36%にあたる450万人を擁する最大の組織であった。
ところが80年代初頭に入り、以前から労使協調路線を取る民間企業組合中心の同盟が音頭を取り、労働組合全体の再編・統一が図られていく。この中で官公労労組中心の総評は排除されていく。
そして1987年全日本民間労働組合連合会(連合)が発足する。1989年までに総評系労組も取り込み、組合員800万人の巨大統一労組となっていく。他の社会党系労組も88年までには解散している。
これに反発した共産党系労組は全国労働組合総連合(全労連)を結成、旧総評幹部を中心としたメンバーは全国労働組合連絡協議会(全労協)を設立するが、どちらも限定的な規模しか維持できていない。
経済面
第一次オイルショック以前のような10%近い高度経済成長はないものの、第二次オイルショック(1979年)以後も4%成長を達成し、アメリカ、イギリス、ドイツ、オーストラリアなど先進国各国は軒並みマイナス成長を記録する中、日本経済は安定成長期と呼ばれるように基本的に堅調な推移を見せる。
1979年に発刊されたエズラ・ヴォーゲルによる『ジャパン・アズ・ナンバーワン』は、80年代を表象する書籍となり、日本型経営が欧米で模範とされた時代でもあり、日本人自身もバブル経済崩壊まで自分達をエンパワーメントするフレーズとして用いた。
アメリカを中心としたG5がまとめたプラザ合意(1985年)で、海外旅行が「半額セール」と呼ばれるほど結果的に円高ドル安が進行した。円高不況が危惧されたが、実質的な金融引締めとインフレ率低迷、その後の公定歩合引き下げが相まって全体的にはプラスに働き、結果的には日本経済は回復していく。
しかしこの時の金余りが、株・土地投機に流れてバブル景気(1987年~1991年)へ突入していく。「日本一国でアメリカ全土が買える」とまで言われるほどの強力な経済大国となっていた。
1989年12月30日(1989年大納会)には日経平均株価が3万8915円と史上最高値を記録した。
しかし、この時のツケが1990年代以降日本を苦しめていく。
金余りは、国内だけでなく海外へも向き、円の価値が十数年で3倍にも達したことも相まって、アジアへの直接投資が本格化していく。
年間海外直接投資は、1985年の122億ドルから1989年の675億ドルへ急伸した。このアジアへの直接投資は具体的な国は少しずつ変わりながらもバブル崩壊後も続き、現在までの長期トレンドとなっている。
円高は日本製品の価格競争力を下落させ、NIESをはじめとしたアジアにとっては自国の工業生産を増大させ、1984年から86年までで対日輸出額は、97億ドルから139億ドルと43%増加させた。
アジアの成長の場は、NIESからASEANへ、そして中国・ベトナムへと変遷していく。
バブル景気といった好景気は人手不足も産み、1990年の出入国管理法改正による日系ブラジル人の大幅受け入れに代表されるように、経済移民が日本で本格化していく端緒となっていく。
日本経済全体としては成長期であるが、足元では「一億総中流」と言われた中間層が崩壊していく過渡期でもあった。
1980年村上泰亮が発表した「新中間大衆」は、そのタイトルとは裏腹に、経済、政治、文化(学歴)が非構造的になり、ホワイトカラーとブルーカラーの境界の曖昧化、所得逆転現象など、「中」意識は全体で高まる一方、実態としての中間層は喪失、格差社会化へと舵を切ったと分析している。
これには反論もあったものの、小沢雅子の『新「階層消費」の時代』において、購買行動の階級差、男女間格差、地方間格差、産業・企業別格差の拡大を指摘や、橘木俊詔の『日本の経済格差』、佐藤俊樹の『不平等社会日本』など後続の研究が示している通り、格差社会の顕在化が現れた時代でもある。
象徴的な意味では、1986年に労働者派遣法が成立。当時は業種が特定されていたが、なし崩し的に業種が拡大されていき、1999年には原則自由化されている。
また第二次ベビーブーム以降減り続けていた合計特殊出生率は丙午で出産抑制が起きた1966年以来初めて1.57と過去最低を記録し、1.57ショックとして盛んに論じられた。以降も日本は少子高齢化社会へと突き進んでいく。
文化面
『ニューウェイブ』と呼ばれた時代の旗手たちが80年代初頭に現れ、その後『サブカル』と呼ばれた特有の大衆文化に結実されていく。
音楽ではYMOの登場、漫画では大友克洋が脚光を浴び始めたあたりがニューウェイブの始まり。また、漫才~お笑い第三世代ブームでお笑いが、スペースインベーダー~ファミコンブームでテレビゲームが、ヤマト~ガンダムブームでアニメが、それぞれ若者文化の一部として確立し認知されていった。いわば、現在のサブカルチャー全般はこの80年代に確立された各ジャンルがベースとなって発展していったといっても過言ではない。重要な時代である。
テレビ業界では、70年代に覇権を握っていたTBSからトップの座をフジテレビが奪った。
フジテレビは『楽しくなければテレビじゃない』というキャッチコピーを標榜し、「オレたちひょうきん族」「笑っていいとも!」など数々のヒット番組を連発して一躍人気を得た。現在に至るまでこの基本方針は変わっていない。
ドラマではトレンディドラマが生まれ、爆発的ヒットを果たす。ドラマの対象は家族からシングルへ移り、食卓からオシャレな路上やカフェへ、都市のイケてる男女の恋愛模様が中心となり、『金曜日の妻たちへ』(TBS,1983年)、『男女7人物語』(TBS,1986年)を経て、『東京ラブストーリー』(フジテレビ,1991年)、『ラブジェネレーション』(フジテレビ,1997年)と引き継がれていく。
その影響力は韓国や台湾など東アジアに波及し、日本のその後の文化波及の地盤となっていく。
また東京の流行スポットには常にテレビ局の存在、原宿=NHK、赤坂=TBS、六本木=テレ朝、汐留=日テレ、お台場=フジテレビ、があり、都市とメディアが相互関係的に表象の対象/主体となっていった。
音楽業界では、1980年代前半と後半で様相が異なる。80年代前半はアイドル歌謡全盛期。
1980年の山口百恵の引退と松田聖子のデビューに始まり、1982年デビュー組である中森明菜ら「花の82年組」の活躍で「ザ・ベストテン」「夜のヒットスタジオ」など歌番組も活況を呈した。
しかしこれらの音楽を嫌った層も少なからず居り、その受け皿として、ミュージッククリップの登場により注目された洋楽の人気も高まった。「ベストヒットUSA」など洋楽ミュージッククリップ紹介番組も数多く生まれている。
80年代後半になるといわゆる「バンドブーム」が到来する。70年代末から細々とではあるがインディーズで活動するロックバンドが現れ、80年代中頃からメジャーデビューするバンドも登場し始める。その頃から東京・原宿で当時行われていた歩行者天国で機材を持ち込んで演奏するバンドも登場し始め、「ホコ天バンド」と呼ばれるようになる。
これらの流れに目をつけ、TBSの深夜番組「三宅裕司のいかすバンド天国」で勝ち抜きバンド合戦を行ったところこれが大人気となり、「イカ天」「ホコ天」は流行語にまでなった。
社会面
青少年の犯罪が社会問題化していく。全体の傾向としては少年犯罪は減少傾向であったが、神奈川金属バット両親殺害事件や東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件(通称:宮崎勤事件)は、犯罪の脱社会化/内閉的な自己という点で注目を集める。
この傾向は神戸連続児童殺傷事件(通称:酒鬼薔薇聖斗事件)へ続き、家族崩壊から家族による過剰な包摂(=引きこもり現象)として、不登校児童問題へと関連して理解されるようになる。
また同時期発生した中野富士見中学いじめ自殺事件や女子高生コンクリート詰め殺人事件は学校社会の閉鎖性を印象づけた。岡田有希子の死は、そのファンの間で自殺を呼び、若者の自殺といった点と同時にメディア効果論の観点からも反響を呼んでいる。
80年代最後の年・1989年1月7日に昭和天皇が崩御。62年と”実質2週間の2年”(1926年12月25日からの1週間と1989年1月7日までの1週間を合わせたもの)に渡って続いた昭和が終わり、平成へ改元される。
「天皇の死」は、1988年9月19日の容態悪化が伝えられて以降、そのXデー、そして喪があけるまでの間、日本全体に暗い影を落とした。
天皇のイメージは世代間格差があり、戦前・戦中派に近いほど「自己の喪失」として語られるほど自分達の戦争体験や戦後体験に引きつけて語られることが多かった。
一方、若い人ほど「優しいおじいさん」といったイメージで語る人が多くなり、その死は「寂しい」「こんな所(皇居)に閉じ込められて可哀想」といった近親者を亡くしたかのような感があった。
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