峯風(峯風型駆逐艦)単語

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峯風(峯風型駆逐艦)とは、大日本帝國海軍が建造・運用した峯駆逐艦1番艦である。1920年5月29日工。老朽艦でありながら大東亜戦争に参加。1944年2月10日、バシー峡にて潜水艦ポーギーの雷撃を受けて沈没

概要

大日本帝國海軍が建造した史上初の産一等駆逐艦。艦名は「峰に吹く」を意味する。

今までの日本駆逐艦イギリス式の設計をベースに改良を重ねていたが、仮想敵アメリカ巡洋戦艦が33ノットをえる高速性を発揮するとの情報を得たため、太平洋の荒波下に耐えられるだけの波性と、敵力艦を捕捉出来る高速性の確保が最優先事項となった。しかし今までのイギリス式設計では太平洋の荒波に耐えられず要を達成できない。ここにきて帝國海軍師匠イギリスの下を離れて、自力での新駆逐艦開発を迫られたのである。このような背景で新設計されたのが峯駆逐艦だった。

第一次世界大戦後、帝國海軍ドイツから賠償艦として得た駆逐艦5隻を研究。先んじて建造された樅二等駆逐艦の設計を基礎とし、波性を強化するべく樅駆逐艦同様に艦首楼甲を艦の直前でカットしてウェルデッキを設け、ここに魚雷発射管を設置して、甲を越えてきた波を受け止められるようにし、首楼甲波が打ち込んできた際の対応策として舷側に丸みを付け、艦体中心部に移動して波の直撃を避けられるよう工夫。この設計は第一次世界大戦前のドイツ海軍雷艇S90以降に採用していた方式である。または全て一段高い位置に配置した上で防楯を装備。これらの改装により、これまでの駆逐艦較して航洋性が大きく向上した。

艦首スプーンバウと呼ばれる日本艦独特の形状を採用。これは洋上決戦用に開発した一号機雷(連系機雷)に自軍の艦が引っかからないようにするための対策だった。

高速性を発揮すべく、日本ではまだ産化されていないパーソンズインパルスリアクション・ギアード・タービンを搭載し、谷風較して機関出力が13向上、計画速力の39ノットを実現した。航続距離も、14ノットで3600里と艦隊随伴駆逐艦として満足に足る性を獲得し、峯駆逐艦は成功と言っても過言ではなかった。実際、当時の列強各は、峯しう駆逐艦を持っていなかったと言われるほど、高性を有していたのである。計画では天城巡洋戦艦の護衛を務めるはずだったが、関東大震災天城の建造が中止されたため実現していない。

しかしパーソンズ式は、日本の技術力では手に余るもので、各艦とも試中や工直後にかけてタービンが折損するなどの機故障が多発、外産のタービンは信用ならないとして、帝國海軍産の艦本式タービン開発に乗り出した。また燃料消費の多さも無視できない問題であった。

駆逐艦は峯、澤島風、矢、羽秋風、夕太刀、帆、波、野、沼の計15隻が建造された。計画上の1番艦は峯だが、起工・進工いずれも2番艦澤の方がく、この事から澤と呼称する場合もある。ちなみに峯は、大東亜戦争に参加した駆逐艦の中では2番に古い一等駆逐艦であり、一応駆逐艦籍にいたものの、とても最前線の任務には耐えられないため、後方域での団護衛に従事している。

排水量1215トン、全長102.6m、全幅8.9m、出力3万8500力、最大速力39ノット、乗員148名。兵装は三年式45口径12cm単装4門、6.5mm単装機2丁、六年式53cm連装水上発射管3基、一号機雷16個。

艦歴

開戦前

1917年度八四艦隊案において峯駆逐艦9隻の建造が決定。1917年8月15日に峯と命名、次いで8月23日、類別等級定により一等駆逐艦に類別され、軍備補充費を投じて1918年4月20日に舞海軍で起工、1919年2月8日、進するとともに装員事務所を設置、そして1920年5月29日工を果たした。

先に工していた2番艦澤と第2艦隊第2戦隊隷下に第2駆逐隊を新編。続いて7月19日就役の矢8月17日就役のを第2駆逐隊に加え、4隻体制となる。

ところが峯に搭載されたパーソンズインパルスリアクション・ギアード・タービンは大変問題児であった。とにかく故障や事故が多かったのだ。当然峯も例外ではなく、12月機が故障、1921年8月より機改修工事を行っているが、1922年6月に再び機が故障してしまった。

1923年9月1日午前11時58分、相模湾北西部を震とする関東大震災が発生し、神奈川県東京府(当時)、茨城県千葉県静岡県東部の広範囲が壊滅。15時奇跡的に被害を免れた船橋送信所が半島演習中の連合艦隊被害状況を知らせた。事態の深刻さを悟った連合艦隊は直ちに演習を中止して出港準備を開始。準備が整った駆逐艦軽巡洋艦が逐次裏長山泊地を出発していった。9月5日午前10時、門港で救援物資を満載した峯、澤被災地に向けて出港、物資揚陸後は東京湾で救難作業に従事する。

1927年2月6日午前9時御大喪儀儀礼艦として大を出港、小樽に向けて回航していたところ、低気圧来襲に伴う猛吹雪に見舞われ、20時59分、左舷艦首側から奥尻峡の暗礁に乗り上げて擱座してしまう。21時40分、両舷機後進全速をかけて何とか離礁に成功、大要港部の示により函館渠で修理を実施した。峯の災難はこれだけに留まらず、7月21日22時27分、函館港内で峯所属の内火艇伊達丸が衝突し、内火艇が転覆、加納美佐雄機関大尉以下6名が死亡する事故が発生している。

12月1日、第2駆逐隊は大要港部に所属。カムチャッカ半島付近の北洋漁場は、その権益を巡ってソ連と対立状態にあり、操業中の日本撃を受けたり、あるいは拿捕・抑留される事件がたびたび起きていた。ソ連嫌がらせに対抗すべく第2駆逐隊は4隻を交互に派遣してらせる。1928年3月1日、第2駆逐隊カムチャッカ方面派遣が決定。本年もソ連に対する警任務に従事した。

1928年12月4日横浜で挙行された御大礼特別観艦式に参加。峯は第二列に加わった。

1930年11月20日、第2駆逐隊連合艦隊第1航空戦隊に編入、不時着機から搭乗員を救助するトンボ釣りを行う。この頃になると、艦齢的に峯工時の性を発揮出来なくなり、最大速力も34~35ノットに低下、24ノット以上で走航するには海軍大臣の許可が必要になるほどだった。老朽化ゆえに空母の直衛任務へと回された訳である。


1932年1月初旬、満州事変への反発で上海では反日感情が上昇。1月9日上海新聞社こと民日報が桜田門事件の記事に「不幸にも天皇が生き残ってしまった」と書いた事で現地の在留邦人が激怒、また1月18日には日本人僧侶5名が殺される事態にまで発展。日本総領事は上海市長成に対し全ての反日団体の解散、賠償金の支払い、反日扇動の停止をめたが、中国側の意見と挟みになってしまい、市長優柔不断に陥っていた。

帝國海軍上海抗議するべく、空母2隻、巡洋艦2隻、駆逐艦12隻、陸戦隊925名を近派遣。これにより市長日本側が提示した要を全てみかけたが、反対する中国人役所を襲撃。中国当局は日本人を含む全ての外国人に租界へ避難するよう示。中国国民党を率いる蒋介石総統は、当局の通達に従って前線の第19路軍2個師団に後退命を出したが、その部隊は命に従わず、1月28日未明、勝手に海軍戦隊2500名を襲撃して90名以上の死者を出してしまう。これがきっかけで本格的な交戦が始まった(第一次上海事変)。

、澤、矢軽巡那珂阿武隈由良とともに空母加賀鳳翔を護衛して内地を出撃。この編制が世界史上初の機動部隊とする意見がある。1月31日から2月1日にかけて揚子江方面に到着し、艦載機による航空作戦を開始。峯は2隻の空母支援を行う。上海派遣された艦艇は補助艦艇を含めると50隻にも及んだため、揮系統の一本化を図るべく、2月2日に臨時編制の第3艦隊に編入、峯は長江方面で諸作戦を行って陸戦隊戦闘支援した。

陸軍の増援5万が上海に上陸し、退路を断たれる危険に陥った第19路軍は3月1日、停戦に応じる姿勢を見せ、3月3日に現地での停戦が成立、イギリスの仲介で3月24日から和交渉が行われ、5月5日に成立した停戦協定を以って第一次上海事変は終結するのだった。

1933年6月21日、峯、澤、矢の4隻は横須賀で軽質格納所の新設工事を受ける。

1935年4月10日に第2駆逐隊が解隊。以降は航空隊附属の救難艦及び練習艦として活動した。

支那事変

1937年8月13日に生起した第二次上海事変により支那事変が勃発。中華民国と干を交える陸軍支援するべく華北中沿で各種作戦を行う。

1938年5月、徐州の占領に成功した陸軍は揚子江沿いに部隊を進め、失陥した南を脱出して口を臨時首都とした中国国民党軍の追撃を実施。攻略戦を助けるため、とともに内地・上海・揚子江間を往来して軍需物資の輸送に従事、時には陸上の敵地へ撃を加える任務も行っていた。揚子江には国民党軍が敷設した機雷があるので、横須賀出発前にと掃ワイヤーを引っって機雷を除去する掃訓練を受けていた。

一度に運ぶ弾薬の量はとても多かった。それだけ中国大陸での作戦がかなり進展している拠だろう。前進拠点となっている南には陸戦隊や糧食も輸送した。一応南日本軍の占領下にあるが、南上海間にはまだまだ国民党軍が潜んでおり、揚子江で一晩明かす時は見りが欠かせない。何が起こるか分からないからだ。

口に向かって進撃中の陸軍部隊が敵の頑強な抵抗に遭った。南到着後、現地に停泊していた第3艦隊旗艦出雲と協同で敵地に艦砲射撃を加える事になり、峯出雲に率いられて出撃、撫地区に辿り着いた2隻は出雲からのに基づいて、揚子江南沿いの敵艦砲射撃を加えた。3隻の地を揺さぶり、雷となって辺りを圧する。敵側の反撃は一方的撃となった。

撃開始から20分ほどで「射ち方やめ」の号がかかった。どうやら耐えかねた国民党軍が遁走を始めたらしい。その後、下流からやってきた千鳥型水雷艇2隻と合流、更に上流へと向かう出雲の護衛は雷艇がするという事で、峯は撫から引き返していった。佐世保帰投の翌日、口を含む武漢三鎮陥落の報が届いた。

1939年1月20日木更津航空隊、鹿航空隊、峯を以って第1連合航空隊を編制。

3月上旬、就役したばかりの新水上機母艦瑞穂志布志湾で合流、青島方面に向かう瑞穂を峯が護衛する。中、敵艦が襲撃してきたという想定で、2隻は瑞穂の周囲を走りながら煙幕り巡らしたり、あるいは対潜訓練を重ねながら、3月12日青島まで送り届けた。同地には重巡古鷹足柄軽巡球磨が停泊しており、帰路はこの巡洋艦群を護衛して出発、血の滲むような猛特訓をど休みなくこなし、3月18日吹雪が舞う鹿児島まで帰投。

1940年5月1日に峯支那方面艦隊の揮下に編入、これに伴って5月5日佐世保を出港。上海で補給と整備を行ったのち、揚子江部隊下流警隊に加わって陸軍戦闘支援、乗組員から陸戦隊を編制して揚陸、機雷処分、移動、示威宣撫臨検などに従事した。次いで5月20日から作戦(H作戦)に参加、21日に太関を、22日に坆に艦砲射撃を行い、同地付近の国民党軍に甚大な被害を与えた事で、制圧に大きな貢献を果たした。

7月4日から9月2日にかけて揚子江部隊中流警隊に部署。9月5日付で支那方面艦隊の揮下を離れ、9月14日佐世保へ帰投、9月15日から10月2日まで工体・機関・兵装の改修整備を受ける。そして10月11日横浜で行われた紀元二千六百年特別観艦式に参加、峯空母の直衛任務を務めていたからか、赤城飛龍蒼龍する第一列に加わっている。

11月15日より第11航空艦隊附属駆逐艦として爆撃及び雷撃訓練、艦隊諸訓練、演習、あるいは単独訓練に従事。

1941年5月31日に第11航空艦隊から除かれる。開戦の足音が迫りつつある9月15日、峯は第32駆逐隊(朝顔、刈萱)と鎮警備府部隊対馬部隊に編入。対馬峡の安全確保、北支航路の保全、ソ連船舶通航監視等を任務とし、また峯はどの駆逐隊に属していないため単独での所属となった。

ちなみに峯は未だ多くが駆逐艦籍とはいえ旧式も良いところであり、開戦前の時点で島風哨戒艇に格下げ、澤は一時退役が検討されるなど老朽化がしく、いずれも最前線ではなく団護衛や対潜掃討といった後方任務に回されている。

大東亜戦争

1941年

1941年12月8日大東亜戦争が勃発。開戦時、護衛作戦に従事出来る兵力は旧式駆逐艦16隻、雷艇12隻、掃海艇19隻、海防艦4隻、敷設艦4隻であった。

12月13日午前7時30分に鎮を出発して最初の任務に就く。区の対馬峡は鎮警備府部隊が最も重視する場所であり、峯の任務は大変意義のあるものと言えた。

1942年

1942年1月3日午前6時、峯は関釜航路(下関・釜山間)の任務に就き、後から敷設艇巨済と第32駆逐隊応援に駆け付けた。中の1月9日午前3時、若宮防備衛所が敵潜らしき推進音を探知したため、峯が現場に急行、対潜警を行うも敵情を得られなかったので、午前7時に捜索を打ち切った。1月12日正午朝風と交代する形で撤1月15日に鎮へ帰投した。

2月8日より任務を再開。2月21日午前9時30分、陸軍輸送昭久号が潜の雷撃を受けて沈没。これを受けて鎮警備府は、峯と巨済を遭難現場に派遣し、佐世保鎮守府部隊と協力して潜の撃滅と生存者の救助を命じる。2月24日に救難作業了。

3月13日佐世保鎮守府信電作第46号により、シンガポールに配備する陸軍第18師団補充員と、フィリピン配備の独立守備隊計500名を乗せた陸軍輸送3隻の護衛命が下り、護衛兵力として峯砲艦河北丸が割り当てられた。3月17日15時、夕映丸、もんとりる丸、サマラン丸を護衛して博多湾を出発、3月21日まで護送したところで測や長山丸と護衛を交代する。

4月10日佐世保鎮守府籍になるとともに、佐世保防備戦隊へ転属。また同日付で第1及び第2上護衛隊が設置され、各鎮守府、各警備府、支那方面艦隊は上護衛隊の担当区域外で団護衛任務を行うよう示が下る。4月12日佐世保を出港し、佐世保任務を実施。

5月7日正午、特設砲艦北京丸とともに輸送5隻を護衛して門を出港。護衛対の1隻、陸軍輸送大洋丸には南方開発要員派遣の第一便として軍人34名、ジャワ島スマトに向かう熟練作業員、技術者、専門など1010名が乗していた。輸送は単縦組を組み、その先頭を大洋丸が進んでいく。団に老朽が混じっていたせいで速力9ノットしか出せず、また玄界を西進中、しい北東の暴に巻き込まれて更に速力が低下してしまう。

翌8日19時北京丸が「敵潜水艦出現、警を厳重とし戦準備」と信号を放つ。それから45分後、長崎県男女南西約170kmで、大洋丸が潜水艦レナディアの雷撃を受けて20時40分に沈没潜水艦が遊する危険なにも関わらずは果敢に生存者の救助を行った。

北京丸の救難信号を受け、僚の富丸が現場に到着。翌には近くで操業していた漁長崎県試験場の調も集まって大規模な捜索を実施。悪にも関わらず480名の生存者を救助した。しかし、大洋丸の沈没は死者817名を出し、日本海運史上に刻まれる大惨事と化した上、優秀な人材がまとめて失われたため占領地行政に大きな悪を及ぼしている。

9月2日正午佐世保鎮守府第6特別陸戦隊が乗する吾妻丸を、とともに護衛して佐世保を出港。団の揮は峯艦長に委ねられた。翌日反転帰投したため護衛は峯だけになったものの、9月6日午後にサイパンへ到着、以降の護衛は第4艦隊に引き継がれた。

9月25日、輸送8隻からなる輸送団の編制が発される。輸送団は第1から第4団に分かれており、峯が護衛を担当する第4団(はんぶるぐ丸、長丸)は9月29日午前6時40分に佐伯を出発、サイパンにて雷艇、第31号哨戒艇と護衛を交代し、ここからは峯と旗の2隻が北緯14度線まで護衛を行った。献身的な護衛もあって第4団は事にラバウルまで辿り着いている。

11月12日佐世保へ帰投、入渠整備と補給を受ける。それが終わると11月27日佐世保を出港。以降は東シナにて万里湾・上海間を往来する輸送団の護衛任務に従事。

1943年

1943年1月6日、特設砲艦丸、第二日章丸とともに奄美大島方面の任務を実施。1月10日から23日までの短期間で姉妹艦の、第1号哨戒艇(元島風)、羽潜水艦の雷撃で撃沈される。不吉なる一連の出来事は峯未来を暗示しているかのようだった。

3月8日、人員約1650名を乗せた特設運送浅間丸を護衛して佐世保を出港。翌9日、高雄に向けて航行中、浅間丸が潜水艦の雷撃を受けるが事回避に成功、マニラ、バリクパパン、マカサルを経由してシンガポールまで送り届けた。

4月12日午前6時に峯は佐第5団5隻を護衛して万里湾を出発。ところが予想以上に波が高く、小安丸と幸丸の航行が困難だったため、峯の判断により同日16時に富江へ一旦退避、波が収まった4月14日に再度出発し、4月16日午前10時上海外港の淞へ入港した。帰路は支第5団7隻を護衛する事になり、翌17日15時淞を出発、ベルブイを経由したのち付近で護衛を中止、4月19日18時20分に単艦富江へと帰投する。

5月11日15時淞発の支第15団3隻を護衛、付近で富江行きの団と別れ、5月13日午前8時佐世保へと帰投。休む間もなく5月18日正午万里湾から出発してきた佐第21団(大丸、山、御影丸、仏蘭西丸、鳳翔)と相崎瀬戸で合流。団の上海行きを途中まで護衛した。5月20日正午上海着。

6月12日15時30分、輸送7隻で編制されたシ208団を護衛して万里湾を出港。何事もなく6月14日に揚子江河口へ到着する。

6月16日16時、モ606団6隻、第33号駆潜特務艇と淞を出発、途中へ寄港し、6月19日的地の六連まで護送した。同日午前8時25分頃、東シナを航行中のシ809団が潜ガンネルの襲撃を受けて常磐丸が沈没団は済州島に退避した。、対潜掃討中の特設砲艦香港丸がガンネルの雷撃で大破させられたため、佐世保鎮守府は峯雷艇、敷設艇巨済、水上機を以って即席の対潜掃討部隊を結成、21時40分、巨済がガンネルと交戦して撃沈を報じる(ただしこれは誤報だった)。

6月24日上海山に向かうシ第414団14隻を敷設艇と護衛して佐世保を出港、翌25日22時に峯が護衛より離脱した事で、伴走者はだけとなる。

7月上旬、北方より潜水艦日本海に侵入、そこから南下していると見られたため、佐世保方面域に厳重警められる。7月18日、峯北九州上海行きのシ801団を護衛して出港、続いて7月20日、帰路はナ001団を護衛して上海を出発、北九州まで護送したのだが、それから間もない7月26日駆逐艦が護衛する陸軍輸送音羽山丸が男女で雷撃を受け、翌27日にはモ505団も雷撃を受けるなど、内地近においても潜の跳梁が増大。確実に危険度が増していた。

8月5日北九州発のシ508団を護衛して往路出港、8月13日上海発のモ407団をとともに護衛して帰路出港、潜水艦が遊する危険な域を突破して北九州まで帰投する。

9月に入ると潜水艦の猛攻は更に化。その凄まじさたるや、佐世保防備戦隊戦時日誌に「敵は全力を挙げてが補給線遮断を企図しつつあり」と書かれるほど。9月1日北九州発のシ103団3隻を護衛、9月5日、帰路は上海発のナ503団3隻を護衛して出発した。次は9月14日上海行きのシ403団を、9月21日北九州行きのナ803団を護衛。

10月は先よりも潜水艦の脅威が増大、数が増加した上に攻撃は執拗を極めた。実際このだけで5隻の輸送が撃沈されている。そのような過酷なる環境下で峯は護衛任務をこなし続けた。10月27日から11月29日にかけて佐世保兵器装備工事を実施。

12月潜水艦の蠢動だけでなく、中国大陸に進出中の航空兵力も不穏な動きを見せ始め、本土襲に対する警を行わなければならなくなった。そんな中、12月15日より団護衛任務に復帰。

1944年

1944年1月1日、モ102団(2隻)と臨時団(4隻)を護衛して上海を出発。東シナ潜水艦が増勢されたのか、発見報告が増加の一途を辿る中、1隻の犠牲も出さずに何とか北九州まで護送する。この護衛任務を最後に東シナでの任務を了。

1月29日上護衛総部隊佐世保鎮守府に対し、峯と第38号哨戒艇を第1上護衛隊の揮下へ入れるよう命、これに伴って2月1日に第1上護衛隊に編入される。当初は第134団、もしくは第135団の護衛に充てられていたようだが、実際に割り当てられたのはモタ01団であった。

2月4日14時、特設砲艦白山丸とモタ01団7隻を護衛して積雪の門を出発。速力は団に合わせて約10ノット、敵潜の襲撃を避けるため之字運動を行いながら、台湾方面に向けて南下していく。

最期

1944年2月10日未明、台湾南端のバシー峡にて、潜水艦ポーギーが2隻の護衛を伴うモタ01団を発見。最初に放った魚雷3本は命中しなかった。

続いて午前4時15分、駆逐艦に2本、輸送に3本の魚雷を発射し、峯の左舷艦直下と後部にそれぞれ魚雷が命中、艦内では震が走ると同時に室内消失した。すかさず当直将校が「総員上甲に上がれ」と号を出す。この時には既に峯の前部が、後部では乗組員がカッターを下ろす準備や、浮流物をに投げ込むなどの、沈没に備えた作業を慌ただしく行っている。

暗がりのの中から今泉艦長の「敵潜を撃て!」という大が聞こえてきた。彼は被雷の衝撃に吹き飛ばされていたのだ。艦長の言う通り、左舷前方約500m先に浮上中の潜が見える。今際の峯にはもう反撃の術はかったが長白山丸が撃を加えて追い払ってくれた。間もなく垂直になりながら艦は沈没今泉艦長以下乗組員153名が戦死してしまった。

と同じ雷撃でまるた丸も沈没。長白山丸が対潜掃討を行い、高雄からも特設掃海艇第三拓南丸が援護に駆け付けたものの、ポーギーの逃走を許している。

3月31日除籍。峯は5番に失われた峯駆逐艦であった。

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峯風(峯風型駆逐艦)

1 ななしのよっしん
2025/07/13(日) 15:07:00 ID: 3fEOK+oGkJ
今日今日とて記事量産しまくっとりますな
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