峯風(峯風型駆逐艦)とは、大日本帝國海軍が建造・運用した峯風型駆逐艦1番艦である。1920年5月29日竣工。老朽艦でありながら大東亜戦争に参加。1944年2月10日、バシー海峡にて米潜水艦ポーギーの雷撃を受けて沈没。
概要
大日本帝國海軍が建造した史上初の純国産一等駆逐艦。艦名は「峰に吹く風」を意味する。
今までの日本駆逐艦はイギリス式の設計をベースに改良を重ねていたが、仮想敵アメリカの巡洋戦艦が33ノットを超える高速性を発揮するとの情報を得たため、太平洋の荒波下に耐えられるだけの凌波性と、敵主力艦を捕捉出来る高速性能の確保が最優先事項となった。しかし今までのイギリス式設計では太平洋の荒波に耐えられず要求性能を達成できない。ここにきて帝國海軍は師匠イギリスの下を離れて、自力での新型駆逐艦開発を迫られたのである。このような背景で新設計されたのが峯風型駆逐艦だった。
第一次世界大戦後、帝國海軍はドイツから賠償艦として得た駆逐艦5隻を徹底研究。先んじて建造された樅型二等駆逐艦の設計を基礎とし、凌波性を強化するべく樅型駆逐艦同様に艦首楼甲板を艦橋の直前でカットしてウェルデッキを設け、ここに魚雷発射管を設置して、甲板を越えてきた波を受け止められるようにし、船首楼甲板に青波が打ち込んできた際の対応策として舷側に丸みを付け、艦橋も船体中心部に移動して波の直撃を避けられるよう工夫。この設計は第一次世界大戦前のドイツ海軍が水雷艇S90以降に採用していた方式である。また主砲は全て一段高い位置に配置した上で防楯を装備。これらの改装により、これまでの駆逐艦と比較して航洋性が大きく向上した。
艦首はスプーン・バウと呼ばれる日本艦独特の形状を採用。これは洋上決戦用に開発した一号機雷(連系機雷)に自軍の艦が引っかからないようにするための対策だった。
高速性能を発揮すべく、日本ではまだ国産化されていないパーソンズ式インパルス・リアクション・ギアード・タービンを搭載し、谷風型と比較して機関出力が13%向上、計画速力の39ノットを実現した。航続距離も、14ノットで3600海里と艦隊随伴型駆逐艦として満足に足る性能を獲得し、峯風型駆逐艦は成功と言っても過言ではなかった。実際、当時の列強各国は、峯風型に比肩しうる駆逐艦を持っていなかったと言われるほど、高性能を有していたのである。計画では天城型巡洋戦艦の護衛を務めるはずだったが、関東大震災の影響で天城型の建造が中止されたため実現していない。
しかしパーソンズ式は、日本の技術力では手に余るもので、各艦とも公試中や竣工直後にかけてタービン翼が折損するなどの主機故障が多発、外国産のタービンは信用ならないとして、帝國海軍は国産の艦本式タービン開発に乗り出した。また燃料消費の多さも無視できない問題であった。
峯風型駆逐艦は峯風、澤風、沖風、島風、灘風、矢風、羽風、汐風、秋風、夕風、太刀風、帆風、波風、野風、沼風の計15隻が建造された。計画上の1番艦は峯風だが、起工・進水・竣工いずれも2番艦澤風の方が早く、この事から澤風型と呼称する場合もある。ちなみに峯風は、大東亜戦争に参加した駆逐艦の中では2番目に古い一等駆逐艦であり、一応駆逐艦籍にいたものの、とても最前線の任務には耐えられないため、後方海域での船団護衛に従事している。
要目は排水量1215トン、全長102.6m、全幅8.9m、出力3万8500馬力、最大速力39ノット、乗員148名。兵装は三年式45口径12cm単装砲4門、6.5mm単装機銃2丁、六年式53cm連装水上発射管3基、一号機雷16個。
艦歴
開戦前
1917年度八四艦隊案において峯風型駆逐艦9隻の建造が決定。1917年8月15日に峯風と命名、次いで8月23日、類別等級指定により一等駆逐艦に類別され、軍備補充費を投じて1918年4月20日に舞鶴海軍工廠で起工、1919年2月8日、進水するとともに艤装員事務所を設置、そして1920年5月29日に無事竣工を果たした。
先に竣工していた2番艦澤風と第2艦隊第2水雷戦隊隷下に第2駆逐隊を新編。続いて7月19日就役の矢風、8月17日就役の沖風を第2駆逐隊に加え、4隻体制となる。
ところが峯風型に搭載されたパーソンズ式インパルス・リアクション・ギアード・タービンは大変問題児であった。とにかく故障や事故が多かったのだ。当然峯風も例外ではなく、12月に主機が故障、1921年8月より主機改修工事を行っているが、1922年6月に再び主機が故障してしまった。
1923年9月1日午前11時58分、相模湾北西部を震源とする関東大震災が発生し、神奈川県、東京府(当時)、茨城県、千葉県、静岡県東部の広範囲が壊滅。15時、奇跡的に被害を免れた船橋送信所が遼東半島沖で演習中の連合艦隊に被害状況を知らせた。事態の深刻さを悟った連合艦隊は直ちに演習を中止して出港準備を開始。準備が整った駆逐艦と軽巡洋艦が逐次裏長山泊地を出発していった。9月5日午前10時、門司港で救援物資を満載した峯風、澤風、沖風が被災地に向けて出港、物資揚陸後は東京湾で救難作業に従事する。
1927年2月6日午前9時、御大喪儀儀礼艦として大湊を出港、小樽に向けて回航していたところ、低気圧来襲に伴う猛吹雪に見舞われ、20時59分、左舷艦首側から奥尻海峡の暗礁に乗り上げて擱座してしまう。21時40分、両舷機後進全速をかけて何とか離礁に成功、大湊要港部の指示により函館船渠で修理を実施した。峯風の災難はこれだけに留まらず、7月21日22時27分、函館港内で峯風所属の内火艇と伊達丸が衝突し、内火艇が転覆、加納美佐雄機関大尉以下6名が死亡する事故が発生している。
12月1日、第2駆逐隊は大湊要港部に所属。カムチャッカ半島付近の北洋漁場は、その権益を巡ってソ連と対立状態にあり、操業中の日本漁船が銃撃を受けたり、あるいは拿捕・抑留される事件がたびたび起きていた。ソ連の嫌がらせに対抗すべく第2駆逐隊は4隻を交互に派遣して目を光らせる。1928年3月1日、第2駆逐隊のカムチャッカ方面派遣が決定。本年もソ連に対する警戒任務に従事した。
1928年12月4日、横浜沖で挙行された御大礼特別観艦式に参加。峯風は第二列に加わった。
1930年11月20日、第2駆逐隊は連合艦隊第1航空戦隊に編入、不時着機から搭乗員を救助するトンボ釣りを行う。この頃になると、艦齢的に峯風型は竣工時の性能を発揮出来なくなり、最大速力も34~35ノットに低下、24ノット以上で走航するには海軍大臣の許可が必要になるほどだった。老朽化ゆえに空母の直衛任務へと回された訳である。
1932年1月初旬、満州事変への反発で上海では反日感情が上昇。1月9日、上海の新聞社こと民國日報が桜田門事件の記事に「不幸にも天皇が生き残ってしまった」と書いた事で現地の在留邦人が激怒、また1月18日には日本人僧侶5名が殺害される事態にまで発展。日本総領事は上海市長呉鉄成に対し全ての反日団体の解散、賠償金の支払い、反日扇動の停止を求めたが、中国側の意見と板挟みになってしまい、市長は優柔不断に陥っていた。
帝國海軍は上海市に抗議するべく、空母2隻、巡洋艦2隻、駆逐艦12隻、陸戦隊925名を近海に派遣。これにより市長は日本側が提示した要求を全て呑みかけたが、反対する中国人が市役所を襲撃。中国当局は日本人を含む全ての外国人に租界へ避難するよう指示。中国国民党を率いる蒋介石総統は、当局の通達に従って前線の第19路軍2個師団に後退命令を出したが、その部隊は命令に従わず、1月28日未明、勝手に海軍陸戦隊2500名を襲撃して90名以上の死者を出してしまう。これがきっかけで本格的な交戦が始まった(第一次上海事変)。
峯風、澤風、矢風は軽巡那珂、阿武隈、由良とともに空母加賀と鳳翔を護衛して内地を出撃。この編制が世界史上初の機動部隊とする意見がある。1月31日から2月1日にかけて揚子江方面に到着し、艦載機による航空作戦を開始。峯風は2隻の空母の支援を行う。上海沖に派遣された艦艇は補助艦艇を含めると50隻にも及んだため、指揮系統の一本化を図るべく、2月2日に臨時編制の第3艦隊に編入、峯風は長江方面で諸作戦を行って陸戦隊の戦闘を支援した。
陸軍の増援5万が上海に上陸し、退路を断たれる危険に陥った第19路軍は3月1日、停戦に応じる姿勢を見せ、3月3日に現地での停戦が成立、イギリスの仲介で3月24日から和平交渉が行われ、5月5日に成立した停戦協定を以って第一次上海事変は終結するのだった。
1933年6月21日、峯風、沖風、澤風、矢風の4隻は横須賀工廠で軽質油格納所の新設工事を受ける。
1935年4月10日に第2駆逐隊が解隊。以降は航空隊附属の救難艦及び練習艦として活動した。
支那事変
1937年8月13日に生起した第二次上海事変により支那事変が勃発。中華民国と干戈を交える帝國陸軍を支援するべく華北・華中沿岸で各種作戦を行う。
1938年5月、徐州の占領に成功した陸軍は揚子江沿いに部隊を進め、失陥した南京を脱出して漢口を臨時首都とした中国国民党軍の追撃を実施。漢口攻略戦を助けるため、沖風とともに内地・上海・揚子江間を往来して軍需物資の輸送に従事、時には陸上の敵陣地へ砲撃を加える任務も行っていた。揚子江には国民党軍が敷設した機雷があるので、横須賀出発前に沖風と掃海用ワイヤーを引っ張って機雷を除去する掃海訓練を受けていた。
一度に運ぶ弾薬の量はとても多かった。それだけ中国大陸での作戦がかなり進展している証拠だろう。前進拠点となっている南京には陸戦隊や糧食も輸送した。一応南京は日本軍の占領下にあるが、南京・上海間にはまだまだ国民党軍が潜んでおり、揚子江で一晩明かす時は見張りが欠かせない。何が起こるか分からないからだ。
漢口に向かって進撃中の陸軍部隊が敵の頑強な抵抗に遭った。南京到着後、現地に停泊していた第3艦隊旗艦出雲と協同で敵陣地に艦砲射撃を加える事になり、峯風と沖風は出雲に率いられて出撃、撫湖地区に辿り着いた2隻は出雲からの指令に基づいて、揚子江南岸沿いの敵陣に艦砲射撃を加えた。3隻の砲声は天地を揺さぶり、百雷となって辺りを圧する。敵側の反撃は無く一方的な砲撃となった。
砲撃開始から20分ほどで「射ち方やめ」の号令がかかった。どうやら耐えかねた国民党軍が遁走を始めたらしい。その後、下流からやってきた千鳥型水雷艇2隻と合流、更に上流へと向かう出雲の護衛は水雷艇がするという事で、峯風と沖風は撫湖から引き返していった。佐世保帰投の翌日、漢口を含む武漢三鎮陥落の報が届いた。
1939年1月20日、木更津航空隊、鹿屋航空隊、峯風、沖風を以って第1連合航空隊を編制。
3月上旬、就役したばかりの新型水上機母艦瑞穂と志布志湾で合流、青島方面に向かう瑞穂を峯風と沖風が護衛する。道中、敵艦が襲撃してきたという想定で、2隻は瑞穂の周囲を走りながら煙幕を張り巡らしたり、あるいは対潜訓練を重ねながら、3月12日に無事青島まで送り届けた。同地には重巡古鷹、足柄、軽巡球磨が停泊しており、帰路はこの巡洋艦群を護衛して出発、血の滲むような猛特訓を殆ど休みなくこなし、3月18日、桜吹雪が舞う鹿児島まで帰投。
1940年5月1日に峯風は支那方面艦隊の指揮下に編入、これに伴って5月5日に佐世保を出港。上海で補給と整備を行ったのち、揚子江部隊下流警戒隊に加わって陸軍の戦闘支援、乗組員から陸戦隊を編制して揚陸、機雷処分、移動哨戒、示威宣撫戒克臨検などに従事した。次いで5月20日から湖東作戦(H作戦)に参加、21日に太平関を、22日に張家坆に艦砲射撃を行い、同地付近の国民党軍に甚大な被害を与えた事で、制圧に大きな貢献を果たした。
7月4日から9月2日にかけて揚子江部隊中流警戒隊に部署。9月5日付で支那方面艦隊の指揮下を離れ、9月14日に佐世保へ帰投、9月15日から10月2日まで工廠で船体・機関・兵装の改修整備を受ける。そして10月11日、横浜港沖で行われた紀元二千六百年特別観艦式に参加、峯風は空母の直衛任務を務めていたからか、赤城、飛龍、蒼龍が伍する第一列に加わっている。
11月15日より第11航空艦隊附属駆逐艦として爆撃及び雷撃訓練、艦隊諸訓練、演習、あるいは単独訓練に従事。
1941年5月31日に第11航空艦隊から除かれる。開戦の足音が迫りつつある9月15日、峯風は第32駆逐隊(朝顔、芙蓉、刈萱)と鎮海警備府部隊対馬海峡部隊に編入。対馬海峡の安全確保、北支航路の保全、ソ連船舶通航監視等を任務とし、また峯風はどの駆逐隊に属していないため単独での所属となった。
ちなみに峯風型は未だ多くが駆逐艦籍とはいえ旧式も良いところであり、開戦前の時点で灘風と島風が哨戒艇に格下げ、澤風や沖風は一時退役が検討されるなど老朽化が激しく、いずれも最前線ではなく船団護衛や対潜掃討といった後方任務に回されている。
大東亜戦争
1941年
1941年12月8日に大東亜戦争が勃発。開戦時、護衛作戦に従事出来る兵力は旧式駆逐艦16隻、水雷艇12隻、掃海艇19隻、海防艦4隻、敷設艦4隻であった。
12月13日午前7時30分に鎮海を出発して最初の哨戒任務に就く。哨区の対馬海峡は鎮海警備府部隊が最も重視する場所であり、峯風の任務は大変意義のあるものと言えた。
1942年
1942年1月3日午前6時、峯風は関釜航路(下関・釜山間)の哨戒任務に就き、後から敷設艇巨済と第32駆逐隊が応援に駆け付けた。哨戒中の1月9日午前3時、若宮防備衛所が敵潜らしき推進音を探知したため、峯風が現場に急行、対潜警戒を行うも敵情を得られなかったので、午前7時に捜索を打ち切った。1月12日正午に朝風と交代する形で撤哨、1月15日に鎮海へ帰投した。
2月8日より哨戒任務を再開。2月21日午前9時30分、陸軍輸送船昭久号が米潜の雷撃を受けて沈没。これを受けて鎮海警備府は、峯風と巨済を遭難現場に派遣し、佐世保鎮守府部隊と協力して米潜の撃滅と生存者の救助を命じる。2月24日に救難作業完了。
3月13日、佐世保鎮守府信電令作第46号により、シンガポールに配備する陸軍第18師団補充員と、フィリピン配備の独立守備隊計500名を乗せた陸軍輸送船3隻の護衛命令が下り、護衛兵力として峯風と砲艦河北丸が割り当てられた。3月17日15時、夕映丸、もんとりゐる丸、サマラン丸を護衛して博多湾を出発、3月21日に馬公まで護送したところで測天や長壽山丸と護衛を交代する。
4月10日、佐世保鎮守府籍になるとともに、佐世保防備戦隊へ転属。また同日付で第1及び第2海上護衛隊が設置され、各鎮守府、各警備府、支那方面艦隊は海上護衛隊の担当区域外で船団護衛任務を行うよう指示が下る。4月12日、佐世保を出港し、佐世保近海で哨戒任務を実施。
5月7日正午、特設砲艦北京丸とともに輸送船5隻を護衛して門司を出港。護衛対象の1隻、陸軍輸送船大洋丸には南方開発要員派遣の第一便として軍人34名、ジャワ島やスマトラ島に向かう熟練作業員、技術者、専門家など1010名が乗船していた。輸送船は単縦組を組み、その先頭を大洋丸が進んでいく。船団に老朽船が混じっていたせいで速力9ノットしか出せず、また玄界灘を西進中、激しい北東の暴風に巻き込まれて更に速力が低下してしまう。
翌8日19時、北京丸が「敵潜水艦出現、警戒を厳重とし砲戦準備」と信号を放つ。それから45分後、長崎県男女群島女島南西約170kmで、大洋丸が米潜水艦グレナディアの雷撃を受けて20時40分に沈没。米潜水艦が遊弋する危険な海域にも関わらず峯風は果敢に生存者の救助を行った。
北京丸の救難信号を受け、僚船の富津丸が現場に到着。翌朝には近くで操業していた漁船や長崎県水産試験場の調査船も集まって大規模な捜索を実施。悪天候下にも関わらず480名の生存者を救助した。しかし、大洋丸の沈没は死者817名を出し、日本海運史上に刻まれる大惨事と化した上、優秀な人材がまとめて失われたため占領地行政に大きな悪影響を及ぼしている。
9月2日正午、佐世保鎮守府第6特別陸戦隊が乗船する吾妻丸を、鷹島とともに護衛して佐世保を出港。船団の指揮は峯風艦長に委ねられた。翌日鷹島が反転帰投したため護衛は峯風だけになったものの、9月6日午後に無事サイパンへ到着、以降の護衛は第4艦隊に引き継がれた。
9月25日、輸送船8隻からなる沖輸送船団の編制が発令される。沖輸送船団は第1から第4船団に分かれており、峯風が護衛を担当する第4船団(はんぶるぐ丸、長興丸)は9月29日午前6時40分に佐伯を出発、サイパン近海にて水雷艇鳩、第31号哨戒艇と護衛を交代し、ここからは峯風と旗風の2隻が北緯14度線まで護衛を行った。献身的な護衛もあって第4船団は無事にラバウルまで辿り着いている。
11月12日に佐世保へ帰投、入渠整備と補給を受ける。それが終わると11月27日に佐世保を出港。以降は東シナ海にて伊万里湾・上海間を往来する輸送船団の護衛任務に従事。
1943年
1943年1月6日、特設砲艦東光丸、第二日章丸とともに奄美大島方面の哨戒任務を実施。1月10日から23日までの短期間で姉妹艦の沖風、第1号哨戒艇(元島風)、羽風が米潜水艦の雷撃で撃沈される。不吉なる一連の出来事は峯風の未来を暗示しているかのようだった。
3月8日、人員約1650名を乗せた特設運送船浅間丸を護衛して佐世保を出港。翌9日、高雄に向けて航行中、浅間丸が米潜水艦の雷撃を受けるが無事回避に成功、マニラ、バリクパパン、マカッサルを経由してシンガポールまで送り届けた。
4月12日午前6時に峯風は佐第5船団5隻を護衛して伊万里湾を出発。ところが予想以上に波が高く、小型船の光安丸と幸光丸の航行が困難だったため、峯風の判断により同日16時に富江へ一旦退避、波が収まった4月14日に再度出発し、4月16日午前10時、上海外港の呉淞へ入港した。帰路は支第5船団7隻を護衛する事になり、翌17日15時に呉淞を出発、ベルブイを経由したのち黄島付近で護衛を中止、4月19日18時20分に単艦富江へと帰投する。
5月11日15時、呉淞発の支第15船団3隻を護衛、黄島付近で富江行きの船団と別れ、5月13日午前8時に佐世保へと帰投。休む間もなく5月18日正午、伊万里湾から出発してきた佐第21船団(大圖丸、馬鞍山、御影丸、仏蘭西丸、鳳翔)と相崎瀬戸で合流。船団の上海行きを途中まで護衛した。5月20日正午上海着。
6月12日15時30分、輸送船7隻で編制されたシ208船団を護衛して伊万里湾を出港。何事もなく6月14日に揚子江河口へ到着する。
6月16日16時、モ606船団6隻、第33号駆潜特務艇と呉淞を出発、途中黄島へ寄港し、6月19日に目的地の六連まで護送した。同日午前8時25分頃、東シナ海を航行中のシ809船団が米潜ガンネルの襲撃を受けて常磐丸が沈没。船団は済州島に退避した。夜、対潜掃討中の特設砲艦香港丸がガンネルの雷撃で大破させられたため、佐世保鎮守府は峯風、水雷艇燕、敷設艇巨済、水上機を以って即席の対潜掃討部隊を結成、21時40分、巨済がガンネルと交戦して撃沈を報じる(ただしこれは誤報だった)。
6月24日、上海沖の花島山に向かうシ第414船団14隻を敷設艇鷹島と護衛して佐世保を出港、翌25日22時に峯風が護衛より離脱した事で、伴走者は鷹島だけとなる。
7月上旬、北方より米潜水艦が日本海に侵入、そこから南下していると見られたため、佐世保方面海域に厳重警戒が求められる。7月18日、峯風は北九州発上海行きのシ801船団を護衛して出港、続いて7月20日、帰路はナ001船団を護衛して上海を出発、無事北九州まで護送したのだが、それから間もない7月26日、駆逐艦呉竹が護衛する陸軍輸送船音羽山丸が男女群島沖で雷撃を受け、翌27日にはモ505船団も雷撃を受けるなど、内地近海においても米潜の跳梁が増大。確実に危険度が増していた。
8月5日、北九州発のシ508船団を護衛して往路出港、8月13日、上海発のモ407船団を燕とともに護衛して帰路出港、米潜水艦が遊弋する危険な海域を突破して北九州まで帰投する。
9月に入ると米潜水艦の猛攻は更に激化。その凄まじさたるや、佐世保防備戦隊戦時日誌に「敵は全力を挙げて我が補給線遮断を企図しつつあり」と書かれるほど。9月1日、北九州発のシ103船団3隻を護衛、9月5日、帰路は上海発のナ503船団3隻を護衛して出発した。次は9月14日に上海行きのシ403船団を、9月21日に北九州行きのナ803船団を護衛。
10月は先月よりも米潜水艦の脅威が増大、数が増加した上に攻撃は執拗を極めた。実際この月だけで5隻の輸送船が撃沈されている。そのような過酷なる環境下で峯風は護衛任務をこなし続けた。10月27日から11月29日にかけて佐世保工廠で水測兵器装備工事を実施。
12月、米潜水艦の蠢動だけでなく、中国大陸に進出中の米航空兵力も不穏な動きを見せ始め、本土空襲に対する警戒を行わなければならなくなった。そんな中、12月15日より船団護衛任務に復帰。
1944年
1944年1月1日、モ102船団(2隻)と臨時船団(4隻)を護衛して上海を出発。東シナ海の米潜水艦が増勢されたのか、発見報告が増加の一途を辿る中、1隻の犠牲も出さずに何とか北九州まで護送する。この護衛任務を最後に東シナ海での任務を完了。
1月29日、海上護衛総部隊は佐世保鎮守府に対し、峯風と第38号哨戒艇を第1海上護衛隊の指揮下へ入れるよう命令、これに伴って2月1日に第1海上護衛隊に編入される。当初は第134船団、もしくは第135船団の護衛に充てられていたようだが、実際に割り当てられたのはモタ01船団であった。
2月4日14時、特設砲艦長白山丸とモタ01船団7隻を護衛して積雪の門司を出発。速力は船団に合わせて約10ノット、敵潜の襲撃を避けるため之字運動を行いながら、台湾方面に向けて南下していく。
最期
1944年2月10日未明、台湾南端のバシー海峡にて、米潜水艦ポーギーが2隻の護衛を伴うモタ01船団を発見。最初に放った魚雷3本は命中しなかった。
続いて午前4時15分、駆逐艦に2本、輸送船に3本の魚雷を発射し、峯風の左舷艦橋直下と後部にそれぞれ魚雷が命中、艦内では激震が走ると同時に室内灯が消失した。すかさず当直将校が「総員上甲板に上がれ」と号令を出す。この時には既に峯風の前部が海没、後部では乗組員がカッターを下ろす準備や、浮流物を海に投げ込むなどの、沈没に備えた作業を慌ただしく行っている。
暗がりの海の中から今泉艦長の「敵潜を撃て!」という大声が聞こえてきた。彼は被雷の衝撃で海に吹き飛ばされていたのだ。艦長の言う通り、左舷前方約500m先に浮上中の米潜が見える。今際の峯風にはもう反撃の術は無かったが長白山丸が砲撃を加えて追い払ってくれた。間もなく垂直になりながら艦は沈没。今泉艦長以下乗組員153名が戦死してしまった。
峯風と同じ雷撃でまるた丸も沈没。長白山丸が対潜掃討を行い、高雄からも特設掃海艇第三拓南丸が援護に駆け付けたものの、ポーギーの逃走を許している。
3月31日除籍。峯風は5番目に失われた峯風型駆逐艦であった。
関連項目
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