澤風(峯風型駆逐艦)とは、大日本帝國海軍が建造・運用した峯風型駆逐艦2番艦である。1920年3月16日竣工。大東亜戦争中は旧式艦ながら対潜掃討、護衛任務、練習駆逐艦など多種多様な任務に臨んだ。
概要
大日本帝國海軍が建造した「史上初の」純国産一等駆逐艦。艦名の澤風は「沢に吹き渡る風」が由来。沢とは山の斜面等を流れる短い川の事で、西日本では谷と呼んだり、富山県や新潟県では谷と沢が混在している地域がある。
今までの日本駆逐艦はイギリス式の設計をベースに改良を重ねていたが、仮想敵アメリカの巡洋戦艦が33ノットを超える高速性を発揮するとの情報を得たため、太平洋の荒波下に耐えられるだけの凌波性と敵主力艦を捕捉出来る高速性能の確保が最優先事項となった。このような背景で設計されたのが峯風型駆逐艦である。
凌波性を強化するべく樅型駆逐艦同様に艦首楼甲板を艦橋の直前でカットしてウェルデッキを設け、ここに魚雷発射管を設置して、甲板を越えてきた波を受け止められるようにし、船首楼甲板に青波が打ち込んできた際の対応策として舷側に丸みを付け、艦橋も船体中心部に移動して波の直撃を避けられるよう工夫。この設計は第一次世界大戦前のドイツ海軍が水雷艇S90以降に採用していた方式である。また主砲は全て一段高い位置に配置した上で防楯を装備。これらの改装により、これまでの駆逐艦と比較して航洋性が大きく向上した。
高速性能を発揮すべく、日本ではまだ国産化されていないパーソンズ式インパルス・リアクション・ギアード・タービンを搭載。これにより計画速力の39ノットを実現した。航続距離も、14ノットで3600海里と艦隊随伴型駆逐艦として満足に足る性能を獲得し、峯風型駆逐艦は成功と言っても過言ではなかった。ところがパーソンズ式は、日本の技術力では手に余るもので、各艦とも公試中や竣工直後にかけてタービン翼が折損するなどの主機故障が多発、外国産のタービンは信用ならないとして、帝國海軍は国産の艦本式タービン開発に乗り出した。
峯風型駆逐艦は峯風、澤風、沖風、島風、灘風、矢風、羽風、汐風、秋風、夕風、太刀風、帆風、波風、野風、沼風の計15隻が建造。1番艦は峯風だが、起工・進水・竣工いずれも澤風が最も早く、この事から澤風型という呼称も散見される。また澤風は大東亜戦争に参加した一等駆逐艦の中では最古参である。
要目は排水量1215トン、全長102.6m、全幅8.9m、出力3万8500馬力、最大速力39ノット、乗員148名。兵装は三年式45口径12cm単装砲4門、6.5mm単装機銃2丁、六年式53cm連装水上発射管3基、一号機雷16個。
艦歴
開戦前
八六艦隊案において建造が決定。1917年8月15日に澤風と命名、続く8月23日に類別等級制定が行われて一等駆逐艦となり、1918年1月7日に三菱造船長崎造船所で起工、1919年1月7日、佐世保鎮守府長官・財部彪中将命名の下に進水し、2月26日より予行運転のため長崎を出港。
ところが前級の江風型より採用されているパーソンズ式インパルス・リアクション・ギアード・タービンはとんでもないじゃじゃ馬であった。全力公試のためタービンの回転数を上げていたところ、右舷高圧タービンに振動を確認、炭素パッキン部分の焼損が見られたため予行を中止して長崎へ帰投。開放検査の結果、右舷高圧タービンの動翼が多数脱落、タービン軸の屈曲、左右の高圧タービンと低圧タービンにも損傷が認められるという重大故障が発覚した。同じタービンを搭載した姉妹艦でもタービン翼折損などの主機故障が多発している。
災難に見舞われながらも、1920年3月16日、無事竣工を果たして海軍に引き渡された。翌日、本籍地の横須賀を目指して長崎を出港。5月29日、1番艦峯風の竣工に伴い、澤風、峯風、矢風、沖風の4隻で第2駆逐隊を編制し、第2艦隊第2水雷戦隊に編入される。
1923年8月25日に第2駆逐隊は横須賀を出港。遼東半島沖で連合艦隊と演習に臨む。ところが9月1日午前11時58分、関東大震災が発生して帝都とその一帯が壊滅。奇跡的に破壊を免れた船橋送信所が15時に被害状況を伝えてきた。事態を知った連合艦隊は直ちに出港準備を開始、翌2日16時より準備の整った駆逐艦と軽巡が裏長山泊地を次々に出港し、9月5日午前10時、門司港にて救援物資を満載した澤風、峯風、沖風の3隻が被災地に向けて出発、9月6日から30日にかけて東京湾で救難任務に従事している。
1925年6月2日15時に澤風は根室を出港。翌3日未明、択捉島単冠湾で待機中の司令駆逐艦峯風と合流し、沖風から重油の補給を受けたのち、澤風と沖風は単縦陣を組んでカムチャッカへの移動を開始するが、同日午前4時10分、濃霧による視界不良で、単冠湾口東方にある程越岬の岩礁に乗り上げてしまう。艦首部に甚大な被害とキールの折損が発生した。
手すきの要員を後甲板に集合させるとともに、両舷機を同時または交互に後進全速にして離礁を試み、艦底部に160cmの破孔を作りながらもどうにか脱出に成功、満身創痍の体を引きずりつつ最寄りの函館船渠に移動。だが函館船渠には駆逐艦用の修理資材が少なかったため、補強工事のみを行って横須賀に回航されている。
1927年12月1日、第2駆逐隊は大湊要港部に所属。カムチャッカ半島付近の北洋漁場は、その権益を巡ってソ連と対立状態にあり、操業中の日本漁船が銃撃を受けたり、あるいは拿捕・抑留される事件がたびたび起きていた。ソ連の嫌がらせに対抗すべく第2駆逐隊は4隻を交互に派遣して目を光らせる。1928年3月1日に第2駆逐隊のカムチャッカ方面派遣が決定。今年もソ連に対する警戒任務に従事した。12月4日、横浜沖で挙行された御大礼特別観艦式に参列。澤風は第二列に伍した。ちなみに澤風が観艦式に参加したのは今回が最初で最後である。
1930年12月1日、第2駆逐隊は連合艦隊第1航空戦隊に転属、空母赤城の直衛を務めるとともに、不時着水した機から搭乗員を救助する通称トンボ釣りに従事。
1932年1月、満州事変への反発で上海では反日感情が上昇し、日本人僧侶5名が殺害される事態にまで発展。日本総領事は上海市長呉鉄成に対し全ての反日団体の解散、賠償金の支払い、反日扇動の停止を求めたが、中国側の意見と板挟みになってしまい市長は優柔不断に陥っていた。不穏な空気に包まれる中、1月20日に横須賀工廠で沖風と飛行機吊揚装置の設置工事を実施。
そして1月28日未明、海軍陸戦隊2500名と中国国民党軍第19路軍2個師団が本格的な交戦を開始。1月29日、澤風は横須賀を出港、2月2日に第1航空戦隊と第3戦隊は、先んじて上海方面で活動中の第3艦隊に臨時編入となり、僚艦とともに上海沖へと集結、揚子江方面で諸作戦を行って陸戦隊の戦闘を支援した。2月26日、杭州の筧橋飛行場で迎撃に上がった中華民国軍機に撃墜され、銭塘江へ落ちた加賀所属十三式艦攻2機から搭乗員6名を救助。
陸軍の増援5万名が上陸し、退路を断たれる危険に陥った第19路軍は、3月1日、停戦に応じる姿勢を見せ、3月3日に現地での停戦が成立、イギリスの仲介で3月24日より和平交渉が行われ、5月5日に成立した停戦協定を以って第一次上海事変は終結する。
1933年6月21日、澤風、沖風、峯風、矢風の4隻は横須賀工廠で軽質油格納所の新設工事を受けた。8月16日、澤風は駆逐艦深雪、白雪、初雪とともに給油艦鳴戸に横付けして194トンの給油を実施。
1935年4月1日に第三予備駆逐艦となる。横須賀海軍航空隊の拡充に伴い、機能分散のため千葉県館山市に新設された館山海軍航空隊附属の練習艦として各種飛行訓練や救難作業に協力する。実験部隊的な要素が強い横須賀航空隊に対し、館山航空隊は実戦に特化しており、若鷹たちは澤風の胸を借りて練度を高めていった。7月17日に舷窓遮光蓋の新設工事を受ける。
予定では1938年末に老朽化のため退役する予定だったが支那事変勃発に伴って取り止めとなる。
1939年1月1日、横須賀工廠にて通信及び航空機救難用練習艦への改造工事に着手。4月1日から11月14日にかけて横須賀海軍航空隊の練習艦となる。1940年11月15日の戦時編制で横須賀鎮守府部隊に編入。
開戦直前の1941年9月1日、館山航空隊附属の練習艦に復帰。既に竣工から21年以上が経過した超老朽艦だったため各種進攻作戦には投じられなかったようだ。12月6日に横須賀鎮守府部隊航空部隊へ部署。内地所在の戦力は軍艦4隻、駆逐艦14隻、潜水艦4隻、海防艦3隻、駆潜艇8隻、敷設艇11隻、哨戒艇2隻など。このうちの1隻として澤風は運命の開戦を迎える。
大東亜戦争
1941年
1941年12月8日午前3時22分、真珠湾攻撃を行った南雲機動部隊の艦載機より「トラトラトラ(我奇襲に成功せり)」の電文を受信、この時を以って大東亜戦争が開戦し、館山航空隊の指揮の下で、潜水母艦駒橋とともに指定海域の警戒任務を開始する。同日午前7時40分、常用航路付近で警備中、洲崎南方にてギリシャ貨物船ヴァレンチン(4713トン)を拿捕、18時30分に館山まで回航する戦果を挙げた。ヴァレンチンは後に泰丸と改名されている。
12月29日午前9時5分、若津丸が浮上中の敵潜水艦を発見。横須賀鎮守府は澤風に現場への急行と敵潜の掃討撃滅を命令、続いて館山航空隊に澤風との協力を指示し、東京湾防備部隊には、第52号及び第53号駆潜特務艇を派遣するよう命じた。
1942年
1942年1月7日午前7時55分、伊豆半島南岸神子元島灯台沖で、米潜水艦ポラックの雷撃を受けて特設給炭船第一雲海丸が大破航行不能に陥ったため、13時に澤風は横須賀を出撃、他にも救難船こうせい丸、栗橋、雑役船第七横須賀も現場に向かった。
17時15分、最も優れた高速性を持っていた澤風が最初に到着。第一雲海丸の状況を確認した。どうやら第2船倉左舷前部に命中した魚雷により、船橋から前が折れて15度の傾斜で海中に垂れ下がり、その影響でスクリューが露出して航行不能になっているようだ。確認している間に第一雲海丸の生存者は特設運送船明天丸への移乗を完了。
第一雲海丸の船体は放棄されたが、水密機構は未だ機能しており、機関部も無傷だった事から、すぐに沈没する可能性は低いと考えられた。しかし洋上での強制排水は困難な上、次第に海上が荒れてきたので、澤風の曳航で波が穏やかな場所に移動、そこで海没した船首部分を切断しようとする意見が挙がったが、澤風の曳航能力ではとても不可能であった。その後、救難作業を断念。横須賀航空隊の爆撃で撃沈処分となる。
1月9日午前4時40分、八幡埼東南東を航行していた帝安丸がポラックの雷撃で沈没。ボートに乗って脱出したイタリア人乗組員30名と無線技士1名を救助している。
3月4日からは館山を拠点に東京湾口で対潜哨戒任務に従事。3月7日16時15分、室蘭から東京に向かっていた特設運搬艦朝日山丸が、塩屋埼沖南方で米潜水艦グレナディアーの雷撃を受けて小破、幸い沈没に至るほどの致命傷にはならなかった。被雷の報を聞いた横須賀鎮守府は館山所在の澤風を派遣。翌8日午前2時10分、勝浦沖で朝日山丸と合流して横須賀まで護送する。
米機動部隊が南鳥島を空襲した事を受け、3月11日に澤風は警戒部隊主隊へ編入、翌12日に館山を出撃し、ウェーク島北方に再出現した米機動部隊に対する邀撃及び首都防空体勢を取る。しかし以降は敵情を得ず、3月14日17時よりタンカー厳島丸の護衛任務を開始、父島まで護送したのち3月17日に伊勢湾へ帰投。3月31日に館山まで戻った。
4月17日、三宅島東方でソ連船セルゲイ・キロフを拿捕。翌日伊東に連行した。
9月下旬より本州東岸における米潜水艦の跳梁が激化。9月27日に第六多聞丸、10月1日に東生丸、3日に金開丸、4日に節洋丸が立て続けに沈没し、米潜の発見報告も相次いだ。10月7日、大本営は大海令第21号を以って、本州東岸の海上交通保護に関し、実施統制の一元化と護衛の強化を図るため、澤風は横鎮海面防備部隊直接護衛部隊に編入、紀伊水道・東京湾口・北海道間の一貫護衛が行われた。11月8日に横須賀へ帰投、横須賀工廠で改修工事を受ける。
12月13日、横須賀を出港した澤風は室蘭行きの船団を護送、12月21日からは東京湾で対潜哨戒を行う。
1943年
1943年1月6日、横浜より出港してきたシンガポール行きの第三図南丸を第二海堡付近から護衛開始、翌7日正午に護衛を終了した。3月31日から5月29日にかけて横須賀工廠で入渠整備。
6月23日未明、神子元島沖にて、澤風が護衛する水上機輸送船団を米潜水艦ハーダーがレーダー探知し、発射された魚雷4本のうち1本が特設運送艦相良丸に命中、大破航行不能へと追いやられる。直ちに澤風による曳航を開始、また同日中に、トラック諸島から横須賀へと戦艦武蔵を護送し終えた駆逐艦若月、玉波が応援に駆け付け、その甲斐あって澤風は相良丸を天竜川河口掛塚灯台南西へ座礁させる事に成功する。ただ座礁の衝撃で船体が折損してしまった。しかし7月4日、相良丸は米潜ポンパーノの攻撃を受け、魚雷2本が命中、更に激浪にも翻弄されて船体の維持は困難を極めた。
8月24日早朝、澤風は水雷艇千鳥、第25号掃海艇、第27号掃海艇とともに横須賀を出撃。午前8時50分、掛塚灯台沖に到着し、座礁中の相良丸を狙う米潜水艦に対して爆雷攻撃を行った。しかし損傷の大きさから9月1日付で相良丸の復旧を断念。船体放棄されてしまう。
9月9日未明、横浜から函館に向かっている輸送船団をハーダーがレーダーで捕捉、犬吠埼東南東11kmで魚雷3本を発射し、うち1本が輸送船甲陽丸に直撃する。魚雷こそ不発だったが命中の衝撃で船体に亀裂が入り、14時に甲陽丸は放棄。15時、澤風が救援に駆け付けて曳航作業を行うも、16時17分に甲陽丸は沈没してしまった。
10月4日から8日にかけて函館発横須賀行きの船団を護衛。10月26日、駆逐艦浜風とともに、瀬戸内海西部に回航される商船改造空母飛鷹を護衛して横須賀を出発、翌27日に無事目的地まで辿り着いて任務を完了する。
1944年
1月14日、横須賀鎮守府は機密横鎮電令作第27号を発令、特設砲艦でりい丸に徹底的な対潜装備を施した上で、八丈島方面で囮とし、誘引された米潜水艦を撃沈するという乙作戦を企図した。翌15日正午、でりい丸は第50号駆潜艇を伴って横須賀を出撃した。ところが、対潜装備を持っていたにも関わらず、付近に潜んでいたソードフィッシュを発見出来なかったばかりか、御蔵島近海で雷撃まで喰らって前部喪失の重傷を負ってしまう。
1月16日午前8時、でりい丸被雷の報を聞いた澤風と第23号掃海艇が合流。この時には既にでりい丸は沈没していて中村敏雄艦長以下43名のみが護衛艦艇に救助されていた。4時間後、でりい丸の代わりに第50号駆潜艇を旗艦とし、澤風は昏睡状態から目を覚ました中村艦長の指揮を受けて囮任務を続行、横須賀基地航空隊や館山航空隊も捜索に加わって下手人のソードフィッシュを探し求める。
15時20分、でりい丸沈没地点から南西約10km先に味方機が敵潜を発見して爆撃、即座に澤風、第50号駆潜艇、第23号掃海艇も現場に急行し、15時55分より澤風も対潜制圧に参加、海面に油膜らしきものが漂っているのが確認された。更に航空機による爆撃に加え、澤風12個、第23号掃海艇8個、第50号駆潜艇10個の計30個の爆雷を投下するなど徹底的な攻撃を行い、17時51分、日没と同時に水中爆発音と火煙を伴う大きな水柱が発生。その後も海面が暗くなるまで攻撃を継続、攻撃地点からは油膜と大量の気泡が湧き出ている。
このような経緯から敵潜水艦撃沈確実と判断。間もなく近海で敵潜出現の報が入ったため、澤風は補給を受けるべく横須賀に帰投、第50号駆潜艇と第23号掃海艇が攻撃に向かい、そのまま囮部隊は解散となった。しかしアメリカ軍側の公式記録に該当艦は無く、囮部隊が撃沈したのは一体何だったのかは未だ判然としていない。
2月4日、陸軍第52師団第2梯団を乗せた輸送船団を護衛して横須賀を出港、絶対国防圏に指定されたトラック諸島に増援部隊を送り届ける。トラックには内地のような優れた港湾施設が無く、環礁内は荷揚げ待ちの輸送船でひしめき合っていたという。これが澤風唯一の遠出であった。
トラック島空襲による根拠地壊滅を受けて連合艦隊はマリアナ諸島での決戦方針に切り替え、大本営もマリアナ・中西部カロリン諸島の線まで絶対国防圏を後退、これに伴って3月3日、最前線となったマリアナ諸島やトラックなどに増援を送る松輸送の実施が決定した。
4月9日発令の機密横鎮電令作第281号により、澤風は乙直接護衛部隊に編入され、姉妹艦帆風、海防艦三宅、第6号、第20号掃海艇、第28号掃海艇等と東松六号船団の護衛に協力する事に。4月15日朝、輸送船18隻と護衛艦艇12隻からなる東松六号船団が横須賀を出発、東京湾を出るまで護衛を行った。ちなみに本船団は1隻の喪失も出す事なく全て目的地に到達している。
4月30日、三重県南部の尾鷲に入港。紀伊水道を往来する輸送船団の護衛任務に就く。5月2日、今度は駆逐艦旗風、水雷艇鵯、千鳥、第25号掃海艇、第27号掃海艇、第48号駆潜艇、第50号駆潜艇、長運丸とともに甲直接護衛部隊を編制。東京湾北航路及び同西航路の船団直接護衛、特命船団の直接護衛、敵潜の掃討、被害船舶の救難を横須賀鎮守府より命じられた。
第三海上護衛隊
5月20日、本州南岸における船舶被害増大に対処すべく、東京湾・紀伊水道間の海上交通線の確保を任務とした第三海上護衛隊が発足、澤風も同部隊に編入されて串本を拠点に活動する。ただ、第三海上護衛隊の大半は漁船改造の特設艦艇で占められ、駆逐艦は澤風のみと、少兵力と言わざるを得ない陣容であった。
5月26日、澤風と敷設艇成生は、紀州部隊から来た艦船6隻と協力して江須崎沖の対潜掃討を実施。5月28日には澤風単独で室戸岬沖の対潜掃討を行っている。第三海上護衛隊には防空監視哨や船舶などから敵潜の発見報告が寄せられ、船団護衛をこなしながら対潜警戒に奔走。
6月7日、澤風に司令官の中邑元司少将が座乗、将旗を掲げて旗艦となる。その後、巡視艦として尾鷲経由で浜島に向かい、現地の浜島基地派遣隊と伊勢湾部隊を巡視、翌8日に鳥羽へと入港した。そして6月10日に串本へ到着した際に中邑少将が退艦して巡視完了。串本航空隊に将旗が掲げられた。6月14日、澤風、第14号駆潜艇、成生の3隻は、ヒ67船団に加入すべく門司に向かう途上の特設運送船護国丸の特別護衛を実施、6月28日は柱島から木更津に向かっている軽巡大淀の回航を援護した。
7月12日、阿波丸に対して特別護衛を実施。続いて7月17日に第14号駆潜艇と陸軍輸送船能代丸の特別護衛を実施する。8月26日、名古屋発大阪行きの特設運送船大隆丸に対して特別護衛を実施。献身的に任務をこなしていく。
10月14日午前10時から15時40分まで再び第三海上護衛隊の旗艦となる。10月18日から翌日にかけて、第14号駆潜艇、第十昭和丸、第二京仁丸、第十八播州丸、第46号哨戒艇と神通川丸の護衛を行う。澤風らは護衛を切り上げたが、第46号哨戒艇と新たに加わった和風丸は20日以降も護衛を続けた。
11月29日、尾鷲港で停泊中の澤風に、伊勢防備隊から「紀伊半島の潮岬沖にいる空母信濃の曳航及び護衛協力」の指示が下される。信濃は呉回航中に米潜水艦アーチャーフィッシュから雷撃を受け、浸水で航行不能に陥っていたのだ。澤風、第14号駆潜艇、水雷艇千鳥で即席の救難隊を結成。しかし同日午前10時57分に信濃は力尽きて沈没。翌30日午前8時、第三海上護衛隊は信濃を撃沈した米潜水艦の徹底的攻撃撃滅を命令、総力を挙げて近海の対潜掃討を行ったものの、アーチャーフィッシュの捕捉には至らなかった。
12月15日に横須賀鎮守府部隊へ転属。これを受けて12月17日に串本を出港、翌18日横須賀へ入港し、対潜学校練習艦となる。12月25日より対潜学校教官の富田正止大尉が艦長に就任する。
1945年
対潜実験艦になる澤風
1945年2月4日から横須賀工廠で対潜実験艦になるための改造工事に着手。艦尾の第4砲塔以外の全主砲と魚雷発射管を全て撤去、1番砲塔跡に15cm9連装対潜噴進砲を、艦橋に22号水上電探を装備し、25mm連装機銃4基と同単装機銃4丁を増設、爆雷を16個から36個に追加、前部マストを三脚型に改装するなどの大掛かりな改修を受け、澤風の形状は大きく変貌した。
硫黄島への上陸作戦を目前に控えたアメリカ海軍は、関東地方周辺の航空基地と航空機工場を攻撃して海兵隊の上陸を支援しようと考え、2月16日、米第58任務部隊の艦載機が横須賀を含む関東地方の軍事施設を空襲。翌17日には八次に渡って関東や東海地方の軍事施設及び軍需工場を攻撃した(ジャンボリー作戦)。苛烈な空襲下にあったが幸い澤風に被害は無かった。3月18日に工事を終えて出渠。そして3月23日、横須賀を出港して実験艦としての役割を果たす。
4月15日に第三海上護衛隊が解隊されたため横須賀鎮守府直轄となる。B-29の機雷敷設が激化した事で、往来船舶が比較的安全な日本海側ルートを使うようになり、護衛対象がいなくなってしまったのだ。
5月5日、横須賀に司令部を置く第1特攻戦隊の襲撃訓練目標艦に指定。震洋や海竜などの標的に使用された。7月15日に澤風自身も第1特攻戦隊に編入され、海竜36艇、回天26基、震洋300艇、魚雷艇18隻とともに、浦賀水道・相模湾・駿河湾・遠州灘の線を防衛する。
ジャンボリー作戦で十分な戦果を挙げられなかった横須賀に再度攻撃を行うべく、7月18日15時30分、米英合同機動部隊が横須賀に対する最大の空襲を仕掛け、軍港内の艦艇、特に戦艦長門を集中的に攻撃。未完成駆逐艦八重桜、伊372、第28号魚雷艇、特設電線敷設船春島丸などが撃沈されているが、この地獄を澤風は生き抜く。
8月15日、数々の空襲を受けながらも無傷で終戦を迎えた。ただし老朽化で行動不能状態だったという。生き残った駆逐艦41隻のうち健在だったのは澤風を含む僅か30隻だけだった。9月15日除籍。
戦後
軍艦防波堤澤風
未曾有の大戦争は終わった。しかし生産設備の軍需転用、戦災による焼失、肥料の供給不足、徴兵による労働力不足、復員兵や邦人が外地より帰還して流入人口の増加、冷害と風水害が引き起こす40年来の大凶作など、様々な要因で終戦直後の日本では食糧が致命的に足りておらず、このままでは餓死者1000万人を出す可能性すらあった。
政府は食糧を確保するべく漁獲高を上げようと考えた。当時地方港湾には防波堤が無い港が多く、福島県いわき市の小名浜港もその一つだった。このため小規模な防波堤を作る事が急務となっていたが、終戦後はコンクリートや石材などの資材が不足していたので、GHQは小型廃艦を沈めて即席の防波堤を整備する方針を打ち出し、小名浜港には澤風と汐風が選出された。戦前、いわき市出身の艦長小野四郎少佐率いる澤風が小名浜港に入港した縁も選出に関係しているのだろう。
1948年、澤風は浦賀船渠で上部構造物を全て撤去し、海に浮かぶ、錨を下ろすといった必要最低限の能力だけを残して雑役船栗橋によって漁港市場前へ曳航、4月2日にコンクリートを注入して、日本で初めて戦闘艦を利用した沈没防波堤となる。8月25日には汐風も付近に沈設されている。こうして澤風は駆逐艦の艦歴を閉じた一方、今度は防波堤として臣民の生活を守っていくのだった。
ところが、「駆逐艦の艦底には数トンもの鉛が大量にある」という謎の噂が流れた事で、防波堤完成時から業者や盗掘者に狙われ、のこぎり、ハンマー、プラズマ切断機などで金目の物を次々に剥ぎ取られた上、艦内の配線も荒らされるなど好き放題されてしまう。複数回にわたって大規模な盗掘を受けたので艦内にもコンクリートを流し込むといった対策を実施。沈設から1年も経たない1949年2月頃、持ち上がった魚市場拡張計画の妨げになるので澤風防波堤の撤去が立案、踏んだり蹴ったりな澤風だったが、実際に撤去されたのは17年後だった。
1951年1月、小名浜港は重要要港の指定を受け、本格的な石炭輸送のため漁港整備が進められていく。それをコンクリートの中から澤風は見守っていた。澤風の名は後に海上保安庁のそよかぜ型(1代目)、ちよかぜ型(2代目)、すずかぜ型(3代目)、海上自衛隊のたちかぜ型ミサイル護衛艦3番艦に受け継がれている。
老艦の生き残りをかけた攻防
1965年10月に浮揚と解体工事を行われて澤風防波堤は撤去される。その際に250トンもの鉄材スクラップが発生、一時は競争入札にかけられるも、当時はまだ澤風の元乗組員が多く存命していたため、記録として一部を残したい声が上がり、他県の旧海軍出身者の陳情もあって、小名浜港を管理するいわき市の所管となって小名浜氏市民公民館前の屋外に設置された。
しかし、憩いの場に廃材スクラップが長年置かれている事に、澤風の歴史を知らない市民から苦情や批判が寄せられ、対処に困ったいわき市が15万円程度で古物商に売却しようとする。それに待ったをかけたのが偶然澤風と汐風を調査していた社団法人海洋学校調査部だった。
スクラップを永久保管すべく、地元の海友会を通じて元軍人の協力を取り付け、当時のいわき市長大和田弥一を説得して売却を取り下げさせ、三崎公園内の市有地に記念碑を建立する事で合意に至る。この時、蒸気タービンの他にも様々なスクラップが海友会に払い下げられているが、タービン以外の行方は不明らしい。
1973年11月3日に記念碑の除幕式が執り行われた。記念碑は東日本大震災の災禍からも逃れて現代に歴史を伝え続けている。何度も永久消失の危機に見舞われながらも、元軍人たちの尽力によって、澤風の蒸気タービンだけはかろうじて残されたのである。
また、小名浜まちづくり市民会議と福島ガイナックスがタッグを組み、澤風と汐風を擬人化した観光PRアニメーション『人力戦艦!?汐風・澤風』が3話まで制作されており、お土産ショップ「いわき・ら・ら・ミュウ」やYouTubeで放映中。市内のデザインマンホールにも絵柄が使用された。2024年4月28日からいわきマリンタワーなどでマンホールカードが無料配布されている。
関連項目
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