野風(峯風型駆逐艦)単語

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野風(峯風型駆逐艦)とは、大日本帝國海軍が建造・運用した峯駆逐艦13番艦である。1922年3月31日工。支那事変大東亜戦争に参加した。1945年2月20日、カムラン湾で潜水艦パーゴの雷撃を受けて沈没

概要

大日本帝國海軍が建造した「史上初の」純産一等駆逐艦。艦名の野は「野に吹く」が由来。

今までの日本駆逐艦イギリス式の設計をベースに改良を重ねていたが、仮想敵アメリカ巡洋戦艦が33ノットをえる高速性を発揮するとの情報を得たため、太平洋の荒波下に耐えられるだけの波性と敵力艦を捕捉出来る高速性の確保が最優先事項となった。しかしイギリス式設計では太平洋の荒波に耐えられず要を満たせない。ここにきて帝國海軍師匠イギリスの下を離れ、自力での新駆逐艦開発を迫られたのである。このような背景で新設計されたのが峯駆逐艦だった。

先んじて建造された樅二等駆逐艦の設計を基礎とし、波性を強化するべく樅駆逐艦同様に艦首楼甲を艦の直前でカットしてウェルデッキを設け、ここに魚雷発射管を設置して、甲を越えてきた波を受け止められるようにし、首楼甲波が打ち込んできた際の対応策として舷側に丸みを付け、艦体中心部に移動して波の直撃を避けられるよう工夫。この設計は第一次世界大戦前のドイツ海軍雷艇S90以降に採用していた方式である。または全て一段高い位置に配置した上で防楯を装備。これらの改装により、これまでの駆逐艦較して航洋性が大きく向上した。

高速性を発揮すべく、日本ではまだ産化されていないパーソンズインパルスリアクション・ギアード・タービンを搭載。これにより計画速力の39ノットを実現した。航続距離も、14ノットで3600里と艦隊随伴駆逐艦として満足に足る性を獲得し、峯駆逐艦は成功と言っても過言ではなかった。ところがパーソンズ式は、日本の技術力では手に余るもので、各艦とも試中や工直後にかけてタービンが折損するなどの機故障が多発、外産のタービンは信用ならないとして、帝國海軍産の艦本式タービン開発に乗り出した。

は、3番と4番の間に2番連装魚雷発射管と3番連装魚雷発射管を配置し、2つの魚雷発射管の間に後部マストを設置したため、及び魚雷発射管の統一揮や給弾が困難になる問題を抱えていた。これを解決すべく後期に建造された野、波、沼の3隻は後部マストを後方に移し、3番と4番背中合わせになるよう配置を改正。この設計変更は成功を収め、現場からの評判も良かったため、後続の神風型睦月型魚雷をなるべく離す野式配置が採用された。

駆逐艦は峯、澤島風、矢、羽秋風、夕太刀、帆、波、野、沼の計15隻が建造。設計変更により野、沼、波は従来の峯と異なる艦となり、改峯、もしくは野と呼ばれる事もあるが、帝國海軍は3隻とも峯に分類しているため、改峯や野称ではない。

排水量1215トン、全長102.6m、全幅8.9m、出力3万8500力、最大速力39ノット、乗員148名。兵装は三年式45口径12cm単装4門、6.5mm単装機2丁、六年式53cm連装水上発射管3基、一号機雷16個。艦隊決戦眼を置く峯は対潜装備を持っておらず、次級の神風型でようやく搭載されている。

艦歴

開戦まで

1918年策定の八六艦隊案において建造が決定、1921年4月16日に舞海軍で起工、10月1日に進し、12月9日、舞内に装員事務所を設置して事務を開始、そして1922年3月31日工を果たす。工と同時に横須賀鎮守府に編入され、姉妹艦波、沼、第一駆逐艦(後の神)と第1駆逐隊を編制。北洋漁場の権利を巡って対立するソ連の脅威から、北海道及び千島列島方面の交通を保護する任に就く。

1924年7月25日日露戦争ロシアから鹵獲した戦艦肥前(元レトヴィザン)を撃沈処分すべく、豊後にて戦艦長門陸奥金剛比叡駆逐艦、波、沼、第一駆逐艦による射撃訓練を実施、帝國海軍力艦艇が見守る中、肥前は標的艦となって撃沈された。

1928年12月4日神戸で行われた御大礼特別観艦式に参列。野は第三列にした。

1929年12月14日横須賀に入渠し、沼や波とともに推力軸承改造工事を受ける。

1930年10月26日の特別大演習観艦式には第二列で参加。

1932年1月27日13時25分、第1駆逐隊は館山湾を出港。横須賀へ入港する際に形変換運動をしていたのだが、15時29分、3番艦野の右舷が4番艦波の左舷側艦首に接触、2隻とも2月1日横須賀で入渠修理を受ける。損傷は意外と大きく、推進軸にも若干屈折が見られた。

の艦齢的に、この頃までが現役でいられる限界であり、以降は最高速力も34~35ノット程度しか出せなくなるなど、老朽化が徐々に加速していった。

1933年3月3日深夜岩手県釜石町(現在釜石市)の東方200kmを震とするマグニチュード8.1の大地震が発生、揺れによる被害こそ少なかったものの津波被害が甚大であり、死者1522名と行方不明者1542名を出す。震災当時、野横須賀軍港に所在。僚艦の神、沼、第6駆逐隊の雷、電とともに同日午後出港し、翌4日岩手県の盛(現在大船渡市)へ到着、救難作業を行った。3月6日、敷設艦厳島が釜石に到着、野は同艦より支援物資を受け取って翌日宮城県に輸送している。

11月15日第1駆逐隊は大要港部部隊に編入。大拠点として北方警備に従事する。

1934年3月16日、北洋域で活動する第1駆逐隊のために、横須賀で防寒設備の搭載工事が行われた。ようやく極寒での活動に適した設備が手に入った訳である。就役から10年以上が経過したので、1936年1月15日から4月10日にかけて、大要港部にて第1駆逐隊4隻は性改善工事を受け、艦齢の延伸を図った。

1937年8月13日に生起した第二次上海事変をきっかけに支那事変が勃発。日中間で宣戦布告戦争が始まった。1938年以降、野は北支及び中支方面の沿作戦に参加する。

1940年10月11日横浜で挙行された紀元2600年特別観艦式に参列、野は第五列にした。

開戦直前の1941年12月1日、機密大湊警備府作第6号により野は大要港部隊千島防備部隊に所属、駆逐艦、沼、波海防艦石垣、特設砲艦数隻とともに北海道千島方面での任務が命じられた。12月3日には大湊警備府長官が各級指揮官に訓示を行い、翌4日、千島防備部隊は大を出撃、12月7日深夜前湾の配置へ就いた。ここで野運命の開戦を迎える。

大東亜戦争

1941年

1941年12月8日大東亜戦争が勃発。12月12日、野、神、波は最初の任務に出発、前湾・武蔵湾間の域を遊する。

遠く離れたハワイでは真珠湾攻撃が行われ、東南アジアではマレーフィリピンに対する上陸作戦が、中部太平洋ではウェーク、グアムギルバートに対する上陸作戦が開始されるなど、各地で連合軍との戦闘が始まっていたが、戦場から遠く離れた北東海域は至って穏だった。実際12月27日に沼筵方面でソ連1隻を発見して尋問した程度である。

ただしアリューシャン方面は他にはい特殊な環境を持っていた。この辺りは浅瀬が多く、潮流も強いので、一定以上の速力を出しておかないとが効かなくなり、座礁や衝突の危険性が大幅に上がるのである。更に北方域特有の気現象としてよく濃霧が発生し、ひとたび発生すれば視界は限りなくゼロに近くなる。また温の低さから、乗を撃沈されれば員のどは凍死、九死に一生を得る見込みはまずかった。敵艦だけでなく自然の猛威も襲い来る世界、それがアリューシャン方面の環境だった。

1942年

1942年に入っても北東海域では穏が続いていた。1月8日午前9時、新たに海防艦後、八丈、石垣千島防備部隊に編入され、第1駆逐隊は1番隊に部署する。2月26日午前11時30分、第1駆逐隊後を標的艦とした射撃訓練を実施。アリューシャン配備の潜水艦レーダーを持たない旧式のS級で占められており、濃霧に阻まれて思うように戦果が挙げられなかったので、時折通りがかるソ連船舶を臨検するのが、千島防備部隊一の役割と言えた。

しかし、4月に入ると北東海域でも潜水艦の活動が活発化し始め、また4月18日にはドーリットル空襲が発生、千島防備部隊に第一警配備が下され、第1駆逐隊機動部隊の捜索任務に参加している。このような事情から帝國海軍は「北東海域を通るソ連アメリカ軍に協力しているのでは?」と疑うようになり、ソ連に対する処理が若干強硬な態度に変わった。

5月16日大湊警備府と第5艦隊部は作戦打ち合わせを行い、5月20日に機密北方部隊作第24号を以ってアリューシャン作戦の軍隊区分が発第1駆逐隊重巡那智率いる隊に組み込まれ、千島防備部隊にはダッチハバー襲に向かう第2機動部隊の警補給及びコマンドスキー・アッツ間の任務を命じられる。来るべきアリューシャン作戦に備え、野は大で準備を行った。

6月2日隼鷹率いる第2機動部隊筵を出撃、予定通り作戦が開始される。ところが本命のミッドウェー作戦が不成功に終わって作戦の軌修正を強いられ、第2機動部隊はミッドウェー作戦部隊と合流するべく南下、アダック軍事施設攻撃は中止となり、代わりに6月7日キスカ島を、翌8日にアッツ島攻略。ほぼ無人島とはいえアメリカの領土を支配下に置いた。

アッツ、キスカともに元々は季までの一時占領に留める予定だったが、アメリカの領土を占領し続ける事で敵の士気に悪を与えられるとし、また一度撤退すれば再占領は困難なので、6月18日に長期占領へ変更、両を維持する必要性から投入される艦艇が増加し、北東海域がにわかに慌ただしくなった。また日本軍アリューシャン進出を契機にアメリカ軍は新ガトー級潜水艦を続々と配備。野潜水艦の脅威に曝されながらも任務を続ける。峯には応戦するための対潜装備がかった。

7月24日潜水艦による択捉島撃を受けて現場に急行するも捕捉に失敗。翌25日に単冠湾へ帰投。

9月下旬より本州における潜水艦の跳梁が化。9月27日に第六多聞丸、10月1日に東生丸、3日に金開丸、4日に節洋丸が立て続けに撃沈され、潜の発見報告も相次いだ。10月7日大本営大海第21号を以って、本州交通保護に関し、実施統制の一元化と護衛の強化を図るため、大湊警備府所属の野と波横須賀鎮守府作戦揮下に編入。紀伊東京湾口・北海道間の一貫護衛が行われた。

1943年

1943年2月19日、単独でアッツ島に向かっていた陸軍輸送あかがね丸が、重巡洋艦インディアナポリスら敵水上艦隊に撃沈される「あかがね丸事件」が発生。生存者はいなかった。これを機に帝國海軍は単独航行をやめて護送団方式に切り替え、野の護衛対一気に増加する。

5月4日団護衛中の大航空哨戒機灯台潜水艦を発見。野、大航空隊、特設駆潜艇丸、特設監視艇雄丸、給油艦石廊が協同で連続攻撃を加え、爆雷53個と爆弾23発を投下。翌5日午前中まで多量のの湧出を認めた。

5月12日アッツ島アメリカ軍が上陸。守備隊の勇戦むなしく5月29日にアッツは失陥した。アッツとアラスカに挟まれて退路を断たれたキスカ島守備隊約6000名を救うべく、6月から潜水艦による撤退作戦が始まったが、6月22日7喪失時、機密文書が敵に渡った可性が出たため、6000名中872名を救助したところで作戦中止、以降は軽快な水上艦艇を使った撤退作戦に切り替えられた。

6月25日大海254号に基づいて第1駆逐隊駆逐艦2隻を第5艦隊の揮下へ入れる事になり、大湊警備府は野と波定、第1戦隊が挑むキスカ島撤退作戦支援に回った。そして撤退作戦は1隻の喪失艦も出さずに見事成功。7月31日に撤収部隊は解散となり各々原隊に復帰した。

8月5日午前9時39分、千島方面根拠地隊が新編され、北東方面艦隊の揮下に編入、8月10日第1駆逐隊千島方面根拠地隊へ編入された。もぬけの殻となったキスカを8月15日アメリカ軍が占領してアリューシャン戦線は消滅。前線が後退した北東海域はよりアメリカ軍の圧力を受けるようになる。8月22日午前6時から1時間、8月4日15時から16時30分まで、第281海軍航空隊が野の対潜直衛警を実施。

この頃の潜水艦被害津軽海峡宗谷峡に集中しており、北千島方面の被害若干落ち着いていた。

9月1日から12日まで大で入渠整備と補給に従事。9月13日策定の絶対国防圏千島列島が含まれた事で、同方面の防備が急速に進められるようになり、加えて大本営が「千島方面に対する連合軍の攻略企図は来以後の算が大きい」と判断、前線が後退した後も北東海域には多くの輸送団が往来し、第1駆逐隊はその護衛任務に忙殺される。

10月1日小樽筵行きの石川丸を護衛、10月3日筵まで送り届けた。続いて10月10日に輸送3隻を野単独で護衛して小樽を出港、10月13日片岡湾へ到着した後、10月15日15時、今度は小樽行きの東照丸、函館行きの山東丸、宝丸からなる団を護衛して湾内を出発し、小樽まで護衛任務に従事する。10月26日筵にて野の4番を取り外すよう訓が下り、この時に爆雷を搭載した可性がある。

11月3日から8日にかけて、筵発小樽行きの正丸、北洋丸、第5海洋丸を護衛。

その後、酷使した体を整備するべく、11月24日から12月20日まで大で入渠修理、更に12月21日からは函館で大規模修理を実施しており、長らく戦線を離脱している。野修理中の12月18日姉妹艦の沼グレイバックの雷撃で沈没。座乗していた駆逐隊渡辺保正大佐も戦死した。この第1駆逐隊は3隻編制(野、波、神)となる。

1944年

1944年2月6日にようやく出渠。2月16日より団護衛任務へと復帰した。

3月17日午前3時38分、野と波北海道厚岸湾を出港、3日前、雷撃で駆逐艦日蓮丸を撃沈した潜水艦トートグの捜索を行うが、捕捉に失敗してしまう。一時的とはいえ波が南西方面の団護衛に抽出された事で、野の護衛任務は更に過酷さを増し、4月3日~10日の大筵間の航では輸送4隻を、帰路は輸送3隻をたった1隻で護衛しなければならない状況にまで陥っている。

5月に入ると北東海域にが発生し始めるとともに潜水艦被害が増大。千島方面に向かう部隊青森あるいは小樽などで待機中、遭難訓練を行ったり、部隊によっては防寒救命胴衣を着てに飛び込む訓練をも実施し、少しでも漂流中の生存率を上げようとした。もはや一航一航が決死行の様相を呈していたのである。

5月3日歩兵130連隊第3大隊力約700名を乗せた陸軍輸送伏見丸が単冠湾を出発。護衛には野が付いた。ところが午前11時30分、得撫南端を航行中、突如濃霧から4本の雷跡が伸びてきて、魚雷2本が伏見丸に命中。乗員が大発動艇や救命胴衣、筏で脱出を図ったところ、浮上した潜が満員の大発掛けて機掃射を仕掛けてきた。幸い未だ持ち場についていた船舶砲兵隊員が撃を加えて潜航退避させている。被雷から12分後、伏見丸は首をに掲げながら沈没。下手人はレーダー探知で雷撃を仕掛けてきたトートグであった。野は対潜掃討に務めたものの、濃霧で視界が極端に悪かったためトートグを取り逃がし、面に浮いていた陸兵248名と員30名を救助。

伏見沈没を受け、重巡那智の艦長渋谷大佐は自身の日記に「危険を冒し、かつ既に濃霧発生して団の連絡至難、間に処し北洋護衛に当る駆逐艦掃海艇海防艦等の苦の勤務は衷心感謝に堪へさる所なり……」とっており、如何に北洋での護衛任務が困難であるかを物語っている。

潜水艦の跳梁は留まるところを知らず、5月31日から6月11日にかけて8隻が立て続けに撃沈され、北東海域でも船舶不足をきたして小帆船や漁といった、小も輸送に投じなければならなくなった。

アメリカ軍の通信状況から、7月下旬頃、空母を含む有力艦隊がハワイを出撃・北上した事が分かり、千島北海道への攻撃意図があるとして、8月3日から甲作戦第一法用意が発千島方面根拠地隊より片岡湾在泊中の野、八丈、快丸、第78号駆潜艇に対して「特あるまで毎日午前2時から午前5時まで原速即時待機」と命じられる。間もなく敵機動部隊来襲の可性が下がったからか、8月5日海防艦八丈と片岡湾発小樽行きのキ503団を護衛して湾内を出発した。

9月8日20時頃、択捉島南方潜水艦シールの雷撃を受けて波が艦尾切断の重傷を負う。野と神海防艦八丈は救難のため直ちに出撃し、神航される波を八丈と協同で護衛、9月13日小樽まで護送した後、団護衛任務に従事した。今回の被害で波第1駆逐隊より離脱。野と神だけとなってしまう。9月28日片岡湾を出発する明石丸を護衛して出港、津軽海峡西口まで護衛した後、小樽に回航して次の命を待つ。

12月21日、大で整備を受ける。

12月25日の戦時編制で第1駆逐隊連合艦隊附属となり、翌26日、内地・シンガポール間の団護衛を担う第31戦隊へ転属、これは深刻な護衛兵力不足から、旧式艦で占められる第1駆逐隊まで引っり出さなければならない過酷な背景によるものだった。また老朽艦と言えど30ノットを発揮できる駆逐艦は非常に希少であり、遊ばせておくには体ないと上層部は考えたのだろう。同時に連合艦隊から内地で訓練するよう命じられる。

1945年

1945年1月13日、野は長く活動した北東海域に別れを告げて大を出港。に回航される。神ともども改修工事を受けて22号水上電探改四を新たに装備、戦艦大和軽巡矢矧標とした間訓練を実施では、見り員よりもく2隻を捕捉する良好な結果を残している。1月19日、神とともに伊13を標的とした対潜訓練に従事、1月22日には柱方面で訓練を実施し、練度の底上げを図った。

1月26日午前8時駆逐艦海防艦久米、昭南、第25号、第53号とともに、シンガポール行きのヒ91団を護衛して門を出撃。野団の先頭に占位する。潜が襲撃しづらい浅瀬が多く、また味方の援護を受けやすい大陸航路を通るべく、まずは朝鮮半島西に向かい、それからを西進していく。

だが南シナの危険度は北東海域とは較にならないものだった。去る1月12日、南シナにまで侵入してきた機動部隊襲で、インドシナを航行していた戦闘艦13隻と船舶33隻がまとめて撃沈される事態が発生、これは南方航路閉鎖読み段階である事を如実に示しており、大本営は本土・南方要域間の交通確保が絶望的だと思い知った。このような危険な場所をヒ91団は進んでいるのだ。

1月27日、小西方200kmの上で潜水艦ポンポンがヒ91団を捕捉し、僚艦のスペードフィッシュ通報、2隻で追跡を開始する。まずポンポンが2回に渡って団へ近づこうとしたが、護衛艦艇2隻に阻まれて足止めを喰らう。翌28日午前2時団後方でポンポンが足止めされている間にスペードフィッシュがヒ91団に迫り、雷撃で特設運送艦讃岐丸と海防艦久米を一挙に撃沈、他の海防艦が反撃の爆雷を投下し、野と神生存者の救助にあたった。2隻は生存者を退艦させるべく団より離脱、鎮に到着したのち彼らを降ろした。

1月31日午前8時に基へ寄港。ここで駆逐艦天津風シンガポールに赴任する約50名の便乗者が2隻に分乗する。敵の勢力圏を通るので路は全て台湾止まりとなっており、便がくて立ち往生していたところを、たまたまシンガポール行きの2隻が寄港したため、一緒についていく事になった訳である。


2月8日15時シンガポール在泊の第4航空戦隊(伊勢日向)、軽巡大淀駆逐艦朝霜初霜完部隊を編制、燃料や物資の強行輸送を試みる北号作戦が発され、第1駆逐隊は基に留まって完部隊の内地帰投を支援するよう命じられる。2月10日23時台湾峡を通る予定の完部隊と合流すべく基を出発し、翌11日午前8時50分にへの移動を済ませる。

2月14日午前10時完部隊と合流。太平洋艦隊潜水艦チャールズ・A・ロックウッド中将は、完部隊がルソン峡を通るだろうと推測し、11隻の潜水艦を配置して待ち構えていたが、完部隊は裏をかいて台湾峡に向かったため、これらの配置は全て駄に終わってしまった。しかし敵潜の代わりに容赦のない荒波が完部隊を襲う。老朽艦の野と神は18ノットを出すのが精いっぱいであり、落しないように付いて行くだけでも命懸けだった。

午前11時30分、香港手前まで来たところで、ミンドロ基地より飛来したB-24及びB-25の一個連隊が出現。しかしが厚くて爆撃に適さなかったので、何もしないまま引き揚げていった。台湾峡入り口に差し掛かった頃、地上設置レーダー水中聴音機が艦集団を捕捉、一時は香港への退避も検討されたが、情報が不確実な上、香港に寄港すれば却って爆撃を受けやすくなると完部隊は判断、そのまま航行を続ける。間もなく形に切り替えて台湾峡に突入。小民間の集団と出くわした以外は特に何も起きなかった。

2月15日19時30分、台湾峡を抜けた先ので仮泊(悪に阻まれて部隊から落した説もある)、翌16日午前0時24分に第4航空戦隊部より護衛の終了を命じられ、新たに加わった駆逐艦と入れ替わるように完部隊を離脱、同日午前9時へ入港して補給を受ける。そして17時45分出発、予定通りシンガポールすべく13ノットの速力で南下していく。

その後、完部隊は1隻の損も出さずに事内地まで帰投。十死生の強行輸送を成し遂げた。

最期

1945年2月20日午前3時27分、インドシナのカムラン湾北東を神、野の順に航行中、潜水艦パーゴに発見され、発射された魚雷4本のうち1本が野の艦直下に命中して沈。この時の爆発は凄まじく、野の艦尾が引き裂かれて中を舞い、艦の下から少なくとも900m以上の高さにまで火柱が築かれ、1分間に渡って業火が艦体を燃やし尽くすなど、雷撃した側のパーゴ乗組員ですら今まで体験した事がいほどの、壮観な光景だったという。この光景真珠湾攻撃弾薬庫が誘爆した際の駆逐艦ショー爆発に似ていたため、パーゴ乗組員は非公式に「ショー復讐」としている。

爆雷20発を投じて反撃するもパーゴには逃げられた。午前10時15分、対潜攻撃を切り上げて生存者の捜索を開始、約16kmにわたって広がる膜を発見し、続いて波間を漂う生存者21名を救助した。その中には艦長の海老原太郎少佐も含まれる。彼は冷蔵庫を抱えながら漂流し、が減ったからと中身のを取り出して食べるという、なんとも快な人物だったとか。午前10時58分、神は野沈没を報告。潜水艦に撃沈された日本駆逐艦39隻のうち野は最後の撃沈艦となってしまった。

2月22日、神シンガポールに到着。ここで野生存者も退艦した。4月10日除籍。東郷神社内には第1駆逐隊の戦者慰霊のために奉納された石碑がある。

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