野風(峯風型駆逐艦)とは、大日本帝國海軍が建造・運用した峯風型駆逐艦13番艦である。1922年3月31日竣工。支那事変と大東亜戦争に参加した。1945年2月20日、カムラン湾で米潜水艦パーゴの雷撃を受けて沈没。
概要
大日本帝國海軍が建造した「史上初の」純国産一等駆逐艦。艦名の野風は「野に吹く風」が由来。
今までの日本駆逐艦はイギリス式の設計をベースに改良を重ねていたが、仮想敵アメリカの巡洋戦艦が33ノットを超える高速性を発揮するとの情報を得たため、太平洋の荒波下に耐えられるだけの凌波性と敵主力艦を捕捉出来る高速性能の確保が最優先事項となった。しかしイギリス式設計では太平洋の荒波に耐えられず要求性能を満たせない。ここにきて帝國海軍は師匠イギリスの下を離れ、自力での新型駆逐艦開発を迫られたのである。このような背景で新設計されたのが峯風型駆逐艦だった。
先んじて建造された樅型二等駆逐艦の設計を基礎とし、凌波性を強化するべく樅型駆逐艦同様に艦首楼甲板を艦橋の直前でカットしてウェルデッキを設け、ここに魚雷発射管を設置して、甲板を越えてきた波を受け止められるようにし、船首楼甲板に青波が打ち込んできた際の対応策として舷側に丸みを付け、艦橋も船体中心部に移動して波の直撃を避けられるよう工夫。この設計は第一次世界大戦前のドイツ海軍が水雷艇S90以降に採用していた方式である。また主砲は全て一段高い位置に配置した上で防楯を装備。これらの改装により、これまでの駆逐艦と比較して航洋性が大きく向上した。
高速性能を発揮すべく、日本ではまだ国産化されていないパーソンズ式インパルス・リアクション・ギアード・タービンを搭載。これにより計画速力の39ノットを実現した。航続距離も、14ノットで3600海里と艦隊随伴型駆逐艦として満足に足る性能を獲得し、峯風型駆逐艦は成功と言っても過言ではなかった。ところがパーソンズ式は、日本の技術力では手に余るもので、各艦とも公試中や竣工直後にかけてタービン翼が折損するなどの主機故障が多発、外国産のタービンは信用ならないとして、帝國海軍は国産の艦本式タービン開発に乗り出した。
峯風型は、3番主砲と4番主砲の間に2番連装魚雷発射管と3番連装魚雷発射管を配置し、2つの魚雷発射管の間に後部マストを設置したため、主砲及び魚雷発射管の統一指揮や給弾が困難になる問題を抱えていた。これを解決すべく後期に建造された野風、波風、沼風の3隻は後部マストを後方に移し、3番主砲と4番主砲が背中合わせになるよう配置を改正。この設計変更は成功を収め、現場からの評判も良かったため、後続の神風型や睦月型も魚雷と主砲をなるべく離す野風式配置が採用された。
峯風型駆逐艦は峯風、澤風、沖風、島風、灘風、矢風、羽風、汐風、秋風、夕風、太刀風、帆風、波風、野風、沼風の計15隻が建造。設計変更により野風、沼風、波風は従来の峯風型と異なる艦型となり、改峯風型、もしくは野風型と呼ばれる事もあるが、帝國海軍は3隻とも峯風型に分類しているため、改峯風型や野風型は公称ではない。
要目は排水量1215トン、全長102.6m、全幅8.9m、出力3万8500馬力、最大速力39ノット、乗員148名。兵装は三年式45口径12cm単装砲4門、6.5mm単装機銃2丁、六年式53cm連装水上発射管3基、一号機雷16個。艦隊決戦に主眼を置く峯風型は対潜装備を持っておらず、次級の神風型でようやく搭載されている。
艦歴
開戦まで
1918年策定の八六艦隊案において建造が決定、1921年4月16日に舞鶴海軍工廠で起工、10月1日に進水し、12月9日、舞鶴工廠内に艤装員事務所を設置して事務を開始、そして1922年3月31日に無事竣工を果たす。竣工と同時に横須賀鎮守府に編入され、姉妹艦波風、沼風、第一駆逐艦(後の神風)と第1駆逐隊を編制。北洋漁場の権利を巡って対立するソ連の脅威から、北海道及び千島列島方面の海上交通を保護する任に就く。
1924年7月25日、日露戦争でロシアから鹵獲した戦艦肥前(元レトヴィザン)を撃沈処分すべく、豊後水道にて戦艦長門、陸奥、金剛、比叡、駆逐艦野風、波風、沼風、第一駆逐艦による射撃訓練を実施、帝國海軍の主力艦艇が見守る中、肥前は標的艦となって撃沈された。
1928年12月4日、神戸沖で行われた御大礼特別観艦式に参列。野風は第三列に伍した。
1929年12月14日、横須賀工廠に入渠し、沼風や波風とともに主推力軸承改造工事を受ける。
1932年1月27日13時25分、第1駆逐隊は館山湾を出港。横須賀へ入港する際に陣形変換運動をしていたのだが、15時29分、3番艦野風の右舷が4番艦波風の左舷側艦首に接触、2隻とも2月1日に横須賀工廠で入渠修理を受ける。損傷は意外と大きく、推進軸にも若干の屈折が見られた。
峯風型の艦齢的に、この頃までが現役でいられる限界であり、以降は最高速力も34~35ノット程度しか出せなくなるなど、老朽化が徐々に加速していった。
1933年3月3日深夜、岩手県釜石町(現在の釜石市)の東方200kmを震源とするマグニチュード8.1の大地震が発生、揺れによる被害こそ少なかったものの津波の被害が甚大であり、死者1522名と行方不明者1542名を出す。震災当時、野風は横須賀軍港に所在。僚艦の神風、沼風、第6駆逐隊の雷、電とともに同日午後出港し、翌4日早朝に岩手県の盛(現在の大船渡市)へ到着、救難作業を行った。3月6日、敷設艦厳島が釜石に到着、野風は同艦より支援物資を受け取って翌日宮城県女川に輸送している。
11月15日、第1駆逐隊は大湊要港部部隊に編入。大湊を拠点として北方警備に従事する。
1934年3月16日、北洋海域で活動する第1駆逐隊のために、横須賀工廠で防寒設備の搭載工事が行われた。ようやく極寒での活動に適した設備が手に入った訳である。就役から10年以上が経過したので、1936年1月15日から4月10日にかけて、大湊要港部にて第1駆逐隊4隻は性能改善工事を受け、艦齢の延伸を図った。
1937年8月13日に生起した第二次上海事変をきっかけに支那事変が勃発。日中間で宣戦布告無き戦争が始まった。1938年以降、野風は北支及び中支方面の沿岸作戦に参加する。
1940年10月11日、横浜沖で挙行された紀元2600年特別観艦式に参列、野風は第五列に伍した。
開戦直前の1941年12月1日、機密大湊警備府命令作第6号により野風は大湊要港部隊千島防備部隊に所属、駆逐艦神風、沼風、波風、海防艦石垣、特設砲艦数隻とともに北海道や千島方面での哨戒任務が命じられた。12月3日には大湊警備府司令長官が各級指揮官に訓示を行い、翌4日、千島防備部隊は大湊を出撃、12月7日深夜に幌筵島乙前湾の配置へ就いた。ここで野風は運命の開戦を迎える。
大東亜戦争
1941年
1941年12月8日に大東亜戦争が勃発。12月12日、野風、神風、波風は最初の哨戒任務に出発、乙前湾・武蔵湾間の海域を遊弋する。
遠く離れたハワイでは真珠湾攻撃が行われ、東南アジアではマレーとフィリピンに対する上陸作戦が、中部太平洋ではウェーク、グアム、ギルバート諸島に対する上陸作戦が開始されるなど、各地で連合軍との戦闘が始まっていたが、主戦場から遠く離れた北東海域は至って平穏だった。実際12月27日に沼風が幌筵方面でソ連船1隻を発見して尋問した程度である。
ただしアリューシャン方面は他には無い特殊な環境を持っていた。この辺りは浅瀬が多く、潮流も強いので、一定以上の速力を出しておかないと舵が効かなくなり、座礁や衝突の危険性が大幅に上がるのである。更に北方海域特有の気象現象としてよく濃霧が発生し、ひとたび発生すれば視界は限りなくゼロに近くなる。また海水温の低さから、乗船を撃沈されれば船員の殆どは凍死、九死に一生を得る見込みはまず無かった。敵艦だけでなく自然の猛威も襲い来る世界、それがアリューシャン方面の環境だった。
1942年
1942年に入っても北東海域では平穏が続いていた。1月8日午前9時、新たに海防艦国後、八丈、石垣が千島防備部隊に編入され、第1駆逐隊は1番隊に部署する。2月26日午前11時30分、第1駆逐隊は国後を標的艦とした射撃訓練を実施。アリューシャン配備の米潜水艦はレーダーを持たない旧式のS級で占められており、濃霧に阻まれて思うように戦果が挙げられなかったので、時折通りがかるソ連船舶を臨検するのが、千島防備部隊唯一の役割と言えた。
しかし、4月に入ると北東海域でも米潜水艦の活動が活発化し始め、また4月18日にはドーリットル空襲が発生、千島防備部隊に第一警戒配備が下令され、第1駆逐隊が米機動部隊の捜索任務に参加している。このような事情から帝國海軍は「北東海域を通るソ連船がアメリカ軍に協力しているのでは?」と疑うようになり、ソ連船に対する処理が若干強硬な態度に変わった。
5月16日、大湊警備府と第5艦隊司令部は作戦打ち合わせを行い、5月20日に機密北方部隊命令作第24号を以ってアリューシャン作戦の軍隊区分が発令、第1駆逐隊は重巡那智率いる主隊に組み込まれ、千島防備部隊にはダッチハーバー空襲に向かう第2機動部隊の警戒補給及びコマンドルスキー諸島・アッツ間の哨戒任務を命じられる。来るべきアリューシャン作戦に備え、野風は大湊で準備を行った。
6月2日、隼鷹率いる第2機動部隊が幌筵を出撃、予定通り作戦が開始される。ところが本命のミッドウェー作戦が不成功に終わって作戦の軌道修正を強いられ、第2機動部隊はミッドウェー作戦部隊と合流するべく南下、アダック島の軍事施設攻撃は中止となり、代わりに6月7日にキスカ島を、翌8日にアッツ島を攻略。ほぼ無人島とはいえアメリカの領土を支配下に置いた。
アッツ、キスカともに元々は冬季までの一時占領に留める予定だったが、アメリカの領土を占領し続ける事で敵の士気に悪影響を与えられるとし、また一度撤退すれば再占領は困難なので、6月18日に長期占領へ変更、両島を維持する必要性から投入される艦艇が増加し、北東海域がにわかに慌ただしくなった。また日本軍のアリューシャン進出を契機にアメリカ軍は新型のガトー級潜水艦を続々と配備。野風は米潜水艦の脅威に曝されながらも哨戒任務を続ける。峯風型には応戦するための対潜装備が無かった。
7月24日、米潜水艦による択捉島砲撃を受けて現場に急行するも捕捉に失敗。翌25日に単冠湾へ帰投。
9月下旬より本州東岸沖における米潜水艦の跳梁が激化。9月27日に第六多聞丸、10月1日に東生丸、3日に金開丸、4日に節洋丸が立て続けに撃沈され、米潜の発見報告も相次いだ。10月7日、大本営は大海令第21号を以って、本州東岸の海上交通保護に関し、実施統制の一元化と護衛の強化を図るため、大湊警備府所属の野風と波風を横須賀鎮守府の作戦指揮下に編入。紀伊水道・東京湾口・北海道間の一貫護衛が行われた。
1943年
1943年2月19日、単独でアッツ島に向かっていた陸軍輸送船あかがね丸が、米重巡洋艦インディアナポリスら敵水上艦隊に撃沈される「あかがね丸事件」が発生。生存者はいなかった。これを機に帝國海軍は単独航行をやめて護送船団方式に切り替え、野風の護衛対象が一気に増加する。
5月4日、船団護衛中の大湊航空隊哨戒機が白糠灯台沖で米潜水艦を発見。野風、大湊航空隊、特設駆潜艇九竜丸、特設監視艇雄島丸、給油艦石廊が協同で連続攻撃を加え、爆雷53個と爆弾23発を投下。翌5日午前中まで多量の油の湧出を認めた。
5月12日、アッツ島にアメリカ軍が上陸。守備隊の勇戦むなしく5月29日にアッツは失陥した。アッツとアラスカに挟まれて退路を断たれたキスカ島守備隊約6000名を救うべく、6月から潜水艦による撤退作戦が始まったが、6月22日夜の伊7喪失時、機密文書が敵に渡った可能性が出たため、6000名中872名を救助したところで作戦中止、以降は軽快な水上艦艇を使った撤退作戦に切り替えられた。
6月25日、大海指第254号に基づいて第1駆逐隊の駆逐艦2隻を第5艦隊の指揮下へ入れる事になり、大湊警備府は野風と波風を指定、第1水雷戦隊が挑むキスカ島撤退作戦の支援に回った。そして撤退作戦は1隻の喪失艦も出さずに見事成功。7月31日に撤収部隊は解散となり各々原隊に復帰した。
8月5日午前9時39分、千島方面根拠地隊が新編され、北東方面艦隊の指揮下に編入、8月10日に第1駆逐隊も千島方面根拠地隊へ編入された。もぬけの殻となったキスカを8月15日、アメリカ軍が占領してアリューシャン戦線は消滅。前線が後退した北東海域はよりアメリカ軍の圧力を受けるようになる。8月22日午前6時から1時間、8月4日15時から16時30分まで、第281海軍航空隊が野風の対潜直衛警戒を実施。
この頃の米潜水艦の被害は津軽海峡や宗谷海峡に集中しており、北千島方面の被害は若干落ち着いていた。
9月1日から12日まで大湊で入渠整備と補給に従事。9月13日策定の絶対国防圏に千島列島が含まれた事で、同方面の防備が急速に進められるようになり、加えて大本営が「千島方面に対する連合軍の攻略企図は来春以後の算が大きい」と判断、前線が後退した後も北東海域には多くの輸送船団が往来し、第1駆逐隊はその護衛任務に忙殺される。
10月1日、小樽発幌筵行きの石川丸を護衛、10月3日に幌筵まで送り届けた。続いて10月10日に輸送船3隻を野風単独で護衛して小樽を出港、10月13日に片岡湾へ到着した後、10月15日15時、今度は小樽行きの東照丸、函館行きの山東丸、昌宝丸からなる船団を護衛して湾内を出発し、小樽まで護衛任務に従事する。10月26日、幌筵にて野風の4番主砲を取り外すよう訓令が下り、この時に爆雷を搭載した可能性がある。
11月3日から8日にかけて、幌筵発小樽行きの正島丸、北洋丸、第5海洋丸を護衛。
その後、酷使した船体を整備するべく、11月24日から12月20日まで大湊で入渠修理、更に12月21日からは函館で大規模修理を実施しており、長らく戦線を離脱している。野風が修理中の12月18日、姉妹艦の沼風が米潜グレイバックの雷撃で沈没。座乗していた駆逐隊司令・渡辺保正大佐も戦死した。この影響で第1駆逐隊は3隻編制(野風、波風、神風)となる。
1944年
1944年2月6日にようやく出渠。2月16日より船団護衛任務へと復帰した。
3月17日午前3時38分、野風と波風は北海道厚岸湾を出港、3日前、雷撃で駆逐艦白雲と日蓮丸を撃沈した米潜水艦トートグの捜索を行うが、捕捉に失敗してしまう。一時的とはいえ波風が南西方面の船団護衛に抽出された事で、野風の護衛任務は更に過酷さを増し、4月3日~10日の大湊・幌筵間の航海では輸送船4隻を、帰路は輸送船3隻をたった1隻で護衛しなければならない状況にまで陥っている。
5月に入ると北東海域に霧が発生し始めるとともに米潜水艦の被害が増大。千島方面に向かう部隊は青森あるいは小樽などで待機中、遭難訓練を行ったり、部隊によっては防寒救命胴衣を着て真冬の海に飛び込む訓練をも実施し、少しでも漂流中の生存率を上げようとした。もはや一航海一航海が決死行の様相を呈していたのである。
5月3日朝、歩兵第130連隊第3大隊主力約700名を乗せた陸軍輸送船伏見丸が単冠湾を出発。護衛には野風が付いた。ところが午前11時30分、得撫島南端を航行中、突如濃霧から4本の雷跡が伸びてきて、魚雷2本が伏見丸に命中。乗員が大発動艇や救命胴衣、筏で脱出を図ったところ、浮上した米潜が満員の大発目掛けて機銃掃射を仕掛けてきた。幸い未だ持ち場についていた船舶砲兵隊員が砲撃を加えて潜航退避させている。被雷から12分後、伏見丸は船首を空に掲げながら沈没。下手人はレーダー探知で雷撃を仕掛けてきたトートグであった。野風は対潜掃討に務めたものの、濃霧で視界が極端に悪かったためトートグを取り逃がし、海面に浮いていた陸兵248名と船員30名を救助。
伏見丸沈没を受け、重巡那智の艦長渋谷紫郎大佐は自身の日記に「危険を冒し、かつ既に濃霧発生して船団の連絡至難、此間に処し北洋護衛に当る駆逐艦、掃海艇、海防艦等の酸苦の勤務は衷心感謝に堪へさる所なり……」と綴っており、如何に北洋での護衛任務が困難であるかを物語っている。
米潜水艦の跳梁は留まるところを知らず、5月31日から6月11日にかけて8隻が立て続けに撃沈され、北東海域でも船舶不足をきたして小型機帆船や漁船といった、小型船も輸送に投じなければならなくなった。
アメリカ軍の通信状況から、7月下旬頃、空母を含む有力艦隊がハワイを出撃・北上した事が分かり、千島と北海道への攻撃意図があるとして、8月3日から甲作戦第一法用意が発令。千島方面根拠地隊より片岡湾在泊中の野風、八丈、快鳳丸、第78号駆潜艇に対して「特令あるまで毎日午前2時から午前5時まで原速即時待機」と命じられる。間もなく敵機動部隊来襲の可能性が下がったからか、8月5日に海防艦八丈と片岡湾発小樽行きのキ503船団を護衛して湾内を出発した。
9月8日20時頃、択捉島南方で米潜水艦シールの雷撃を受けて波風が艦尾切断の重傷を負う。野風と神風、海防艦八丈は救難のため直ちに出撃し、神風に曳航される波風を八丈と協同で護衛、9月13日に小樽まで護送した後、船団護衛任務に従事した。今回の被害で波風も第1駆逐隊より離脱。野風と神風だけとなってしまう。9月28日、片岡湾を出発する明石丸を護衛して出港、津軽海峡西口まで護衛した後、小樽に回航して次の命令を待つ。
12月25日発令の戦時編制で第1駆逐隊は連合艦隊附属となり、翌26日、内地・シンガポール間の船団護衛を担う第31戦隊へ転属、これは深刻な護衛兵力不足から、旧式艦で占められる第1駆逐隊まで引っ張り出さなければならない過酷な背景によるものだった。また老朽艦と言えど30ノットを発揮できる駆逐艦は非常に希少であり、遊ばせておくには勿体ないと上層部は考えたのだろう。同時に連合艦隊から内地で訓練するよう命じられる。
1945年
1945年1月13日、野風は長く活動した北東海域に別れを告げて大湊を出港。呉に回航される。神風ともども改修工事を受けて22号水上電探改四を新たに装備、戦艦大和と軽巡矢矧を目標とした夜間訓練を実施では、見張り員よりも早く2隻を捕捉する良好な結果を残している。1月19日、神風とともに伊13を標的とした対潜訓練に従事、1月22日には柱島方面で訓練を実施し、練度の底上げを図った。
1月26日午前8時、駆逐艦神風、海防艦久米、昭南、第25号、第53号とともに、シンガポール行きのヒ91船団を護衛して門司を出撃。野風は船団の先頭に占位する。米潜が襲撃しづらい浅瀬が多く、また味方の援護を受けやすい大陸接岸航路を通るべく、まずは朝鮮半島西岸に向かい、それから黄海を西進していく。
だが南シナ海の危険度は北東海域とは比較にならないものだった。去る1月12日、南シナ海にまで侵入してきた米機動部隊の空襲で、インドシナ沖を航行していた戦闘艦13隻と船舶33隻がまとめて撃沈される事態が発生、これは南方航路閉鎖が秒読み段階である事を如実に示しており、大本営は本土・南方要域間の交通確保が絶望的だと思い知った。このような危険な場所をヒ91船団は進んでいるのだ。
1月27日夜、小黒山西方200kmの黄海上で米潜水艦ポンポンがヒ91船団を捕捉し、僚艦のスペードフィッシュに通報、2隻で追跡を開始する。まずポンポンが2回に渡って船団へ近づこうとしたが、護衛艦艇2隻に阻まれて足止めを喰らう。翌28日午前2時、船団後方でポンポンが足止めされている間にスペードフィッシュがヒ91船団に迫り、雷撃で特設運送艦讃岐丸と海防艦久米を一挙に撃沈、他の海防艦が反撃の爆雷を投下し、野風と神風は生存者の救助にあたった。2隻は生存者を退艦させるべく船団より離脱、鎮海に到着したのち彼らを降ろした。
1月31日午前8時に基隆へ寄港。ここで駆逐艦天津風やシンガポールに赴任する約50名の便乗者が2隻に分乗する。敵の勢力圏を通るので空路は全て台湾止まりとなっており、便が無くて立ち往生していたところを、たまたまシンガポール行きの2隻が寄港したため、一緒についていく事になった訳である。
2月8日15時、シンガポール在泊の第4航空戦隊(伊勢、日向)、軽巡大淀、駆逐艦霞、朝霜、初霜で完部隊を編制、燃料や物資の強行輸送を試みる北号作戦が発令され、第1駆逐隊は基隆に留まって完部隊の内地帰投を支援するよう命じられる。2月10日23時、台湾海峡を通る予定の完部隊と合流すべく基隆を出発し、翌11日午前8時50分に馬公への移動を済ませる。
2月14日午前10時に完部隊と合流。米太平洋艦隊潜水艦総司令チャールズ・A・ロックウッド中将は、完部隊がルソン海峡を通るだろうと推測し、11隻の潜水艦を配置して待ち構えていたが、完部隊は裏をかいて台湾海峡に向かったため、これらの配置は全て無駄に終わってしまった。しかし敵潜の代わりに容赦のない荒波が完部隊を襲う。老朽艦の野風と神風は18ノットを出すのが精いっぱいであり、落伍しないように付いて行くだけでも命懸けだった。
午前11時30分、香港手前まで来たところで、ミンドロ基地より飛来したB-24及びB-25の一個連隊が出現。しかし雲が厚くて爆撃に適さなかったので、何もしないまま引き揚げていった。台湾海峡入り口に差し掛かった頃、地上設置レーダーや水中聴音機が艦船集団を捕捉、一時は香港への退避も検討されたが、情報が不確実な上、香港に寄港すれば却って爆撃を受けやすくなると完部隊は判断、そのまま航行を続ける。間もなく夜間陣形に切り替えて台湾海峡に突入。小型民間船の集団と出くわした以外は特に何も起きなかった。
2月15日19時30分、台湾海峡を抜けた先の馬祖島で仮泊(悪天候に阻まれて部隊から落伍した説もある)、翌16日午前0時24分に第4航空戦隊司令部より護衛の終了を命じられ、新たに加わった駆逐艦蓮や汐風と入れ替わるように完部隊を離脱、同日午前9時に馬公へ入港して補給を受ける。そして17時45分出発、予定通りシンガポールを目指すべく13ノットの速力で南下していく。
その後、完部隊は1隻の損害も出さずに無事内地まで帰投。十死零生の強行輸送を成し遂げた。
最期
1945年2月20日午前3時27分、インドシナのカムラン湾北東沖を神風、野風の順に航行中、米潜水艦パーゴに発見され、発射された魚雷4本のうち1本が野風の艦橋直下に命中して轟沈。この時の爆発は凄まじく、野風の艦尾が引き裂かれて中空を舞い、艦橋の下から少なくとも900m以上の高さにまで火柱が築かれ、1分間に渡って業火が艦体を燃やし尽くすなど、雷撃した側のパーゴ乗組員ですら今まで体験した事が無いほどの、壮観な光景だったという。この光景は真珠湾攻撃で弾薬庫が誘爆した際の駆逐艦ショーの爆発に似ていたため、パーゴ乗組員は非公式に「ショーの復讐」としている。
神風が爆雷20発を投じて反撃するもパーゴには逃げられた。午前10時15分、対潜攻撃を切り上げて生存者の捜索を開始、約16kmにわたって広がる油膜を発見し、続いて波間を漂う生存者21名を救助した。その中には艦長の海老原太郎少佐も含まれる。彼は冷蔵庫を抱えながら漂流し、腹が減ったからと中身の肉を取り出して食べるという、なんとも豪快な人物だったとか。午前10時58分、神風は野風の沈没を報告。米潜水艦に撃沈された日本駆逐艦39隻のうち野風は最後の撃沈艦となってしまった。
2月22日、神風はシンガポールに到着。ここで野風生存者も退艦した。4月10日除籍。東郷神社の境内には第1駆逐隊の戦没者慰霊のために奉納された石碑がある。
関連項目
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