瑞鳳(空母)とは、大日本帝國海軍が建造・運用した潜水母艦改造空母である。1940年12月27日改装完了。小型空母ながら第一線で活躍し、太平洋を縦横無尽に駆け巡った武勲艦。1944年10月25日にエンガノ岬沖海戦で航空攻撃を受けて沈没。
瑞鳳型航空母艦1番艦(祥鳳型航空母艦2番艦とも)。最初から空母として建造された訳ではなく、原型は剣埼型高速給油艦高崎で、そこから潜水母艦を経由して軽空母に転身した変わり種。元々は剣埼型高速給油艦高崎として建造されていたが、第二次世界大戦の勃発で空母に設計変更し、小型空母として就役する。ミッドウェー海戦、南太平洋海戦、マリアナ沖海戦、レイテ沖海戦など多くの主要な海戦に参加しており、小型空母ながら第1航空戦隊に属したり、南太平洋海戦では敵攻撃隊14機を壊滅させてホーネットの撃沈に貢献し、ラバウル航空戦で敵機25機を撃墜するといった赫々たる戦果を残している。
前身の潜水母艦時代から空母改装を見越した設計をしていたため改装工事自体は円滑に進み、また商船改造空母と違って軍艦として生まれたので速力にも優れた艦隊随伴の攻撃型空母と成り得た。船体は潜水母艦のものを流用しているが羅針盤艦橋は撤去されて平甲板型となった。代わりに操舵室を改造して新たな羅針盤艦橋とし、その後ろに伝令所、作戦室兼海図室、無線電話室等が設置された。右舷側には予備艦橋を、左舷側には戦闘艦橋と防空指揮所を設置。格納庫は潜水母艦の時点で保有しており、艦橋との連絡用に上部構造物とウェルデッキを新造した。着艦制動装置は呉式二号五型射出機を持ち、艦載機収容用の起倒式クレーンは後部昇降機左舷甲板上に1基設置された。艦首には強いシアとフレアを持つ。要目は全長205.5m、全幅18m、排水量1万1200トン、最大速力28ノット、重油2320トン、乗員792名。射撃統制装置として94式高射装置2基と機銃射撃指揮装置2基を搭載。搭載機は零戦21機(全て常用)と十四試艦攻9機(うち補用3機)の計30機。武装は12.7cm高角砲4基と25mm連装機銃4基。
ロンドン海軍軍縮条約で仮想敵の米英に対し不利な制限を課せられた大日本帝國は、有事の際にごく短期間で小型空母に改装できる条約制限外の艦をあらかじめ建造しておく事にした。その一環で剣埼と高崎の建造計画が決定。基本設計や諸性能をまとめ、1933年6月4日に軍令部長から海軍大臣に提出された。
1934年11月5日、特務艦高崎と命名。1935年6月20日に横須賀海軍工廠で起工し、1936年6月19日に進水した。船体は大鯨に準じるはずだったが、建造中に発生した第四艦隊事件により復元性に難がある事が判明。新規に設計すると同時に船体補強工事を実施。進水式は迎えたものの、横須賀工廠が他の工事で多忙になり船台で放置される。1937年にロンドン条約が失効したので、主機関の増載、前後昇降機の搭載、飛行甲板と上部格納庫区画の設置等の設計変更を行って性能の向上を図る。すると様々な物資の積載に適する事が分かったため、同年夏頃に潜水母艦への変更が決定。年末の艦本技術会議で承認された。1938年9月15日に潜水母艦へと設計変更。これは有事の際に空母へ改装する事を見越した判断によるものだった。計画では一一号一〇型四基及び一一号二型四基の複動式無気噴射ディーゼル8基を搭載した世界初のディーゼル推進機関空母として完成させる予定だった。艤装工事が約80%進んだところで第二次世界大戦が勃発。仮想敵のアメリカが第二次ビンソン計画で空母の増強を始めたため、これに対抗すべく剣埼型の空母改装が決定。今度は空母へ改装される事になり1939年9月8日より改装工事を開始。本来であれば2ヶ月ほどで終わるはずだったが、先に就役した剣埼のディーゼル機関が故障続発で全力発揮すら出来ない欠陥品だと露呈。同じ機関を持っていた高崎はロ号艦本式重油専燃機関への換装を余儀なくされ、設計変更も手伝って大規模な工事となってしまう。
1940年1月より艤装工事が始まり、11月16日から18日にかけて岩井袋・小浜間で全力公試を実施。極めて良好な結果を残した。12月15日に軍艦瑞鳳と命名され、12月27日に改装工事が完了。佐世保鎮守府に編入された。実に起工から5年半が経過していた。突然の設計変更が祟り、速力が計画より低下してしまっている。
1940年12月29日、横須賀を出発して本籍地の佐世保に回航。12月31日に入港した。
1941年2月20日に大分航空隊飛行長兼教官の長岡村基春中佐が乗り込み、3月24日まで第12連合航空隊の着艦訓練に協力。3月26日に艦戦16機と艦攻12機を搭載し、4月10日を以って第1艦隊第3航空戦隊に編入。4月21日に佐世保を出港し、佐伯湾で訓練に従事。戦争の足音が大きくなる中、ひたすら鍛錬を続けた。6月31日に横須賀へ帰港。7月6日に出港し、再び佐伯方面で訓練。8月28日、横須賀に帰投。10月12日、航空機輸送の目的で佐世保を出港。初めての外洋航海に出た。翌13日、瑞鳳は第11航空艦隊の指揮下に入り、10月14日に高雄へ寄港。しばらく現地に留まる。11月5日に第1艦隊へ転属し、翌6日出港。11月9日に佐世保へ帰投した。11月15日から25日にかけて佐世保工廠で入渠整備。出渠後の11月29日に柱島へ回航。竣工から1年程度の瑞鳳は錬度未熟と判断され、劈頭の南方作戦や蘭印作戦には参加できなかった。12月5日、徳山に寄港して燃料補給を行い、翌日柱島泊地へ戻った。
1941年12月7日深夜、真珠湾攻撃に向かった南雲機動部隊の帰国を援護すべく、戦艦長門率いる艦隊に加わって出港。翌8日午前8時30分、豊後水道を通過して外洋に進出した。瑞鳳には12機の九七式艦攻と16機の九六式艦戦が搭載されており、艦隊の対潜と対空を担った。被弾した空母があれば長門や扶桑が曳航する手はずだったが、開戦日の昼食時に「機動部隊は全艦無傷」との情報が入った。12月10日朝、瑞鳳艦載機が硫黄島方面で敵潜水艦の航跡らしきものを確認したが、敵襲は無かった。
ハワイ作戦の成功と機動部隊が帰路についた事も分かり、支援の必要が無くなったため、12月11日に小笠原諸島沖で反転。翌12日16時、艦載機が潜望鏡と多量の油膜を発見したため爆弾1発を投下している。そして12月13日に柱島へ帰投した。その後は内地防空のため、しばらく待機する。
1942年2月12日、第11航空艦隊用の零戦を輸送する任務を受ける。翌13日に柱島を出港し、横須賀にて零戦を積載。2月17日、駆逐艦時雨と白露に護衛されて出港。東南アジアには未だ連合軍が健在だったが、道中何事も無く2月22日にダバオへ到着。積み荷を降ろし、3月2日に柱島へ帰投した。4月1日、第1艦隊附属となる。4月18日、ドゥーリットル空襲が発生。瀬戸内海西部で待機していた瑞鳳は三日月ともども出撃命令が下り、外側哨区の対潜掃討を行いつつ主隊に合流するよう命じられた。逃げる敵艦隊を追って本土の東方沖まで進出したが、敵情を得なかったため4月23日に呉へ帰投した。
しばらくはのんびりする予定だったが、祥鳳の沈没により5月8日にミッドウェー作戦への参加が決定。第2艦隊の近藤信竹中将率いる攻略部隊主隊に配属される。これに伴って九六式艦戦6機、零戦6機、九七式艦攻12機を搭載。瑞鳳には敵艦隊の撃滅とキュア島及びミッドウェー島の攻略、潜水艦基地と水上機基地の設営任務が与えられた。瀬戸内海西部に回航され、猛特訓を開始した。瑞鳳は岩国航空隊から航空機を借り、錬度を高めた。攻略部隊は訓練時間の短さから部隊訓練すらままならない有り様だったが、長らく瀬戸内海に留まっていた瑞鳳だけは、しっかりと訓練する事が出来た。
5月29日午前5時、旗艦愛宕率いる第2艦隊の一員として柱島を出撃。6月4日、第16掃海隊や船団部隊がミッドウェー島の航空兵力に発見される。これを受けて第2艦隊司令部は空襲を予見したが、翌5日の朝を迎えても敵機は飛来しなかった。ところが午前7時50分、先鋒を務めている3隻の空母が被弾大破したという絶望的な報せが届いた。近藤中将は味方機動部隊の支援を決断し、ミッドウェー島の勢力圏へと突撃。28ノットの速力で北東に舳先を向けた。21時、近藤中将は瑞鳳に艦攻と艦戦の出撃準備を行うよう命令。近海に潜む敵空母の索敵を行うためだった。索敵では大破漂流中の飛龍とヨークタウン型空母を発見したが、敵の機動部隊は確認されなかった。22時、山本五十六長官からミッドウェー作戦の断念と兵力の集結命令を受けた。既に我が方には正規空母は無く、敵には4隻の空母と島の航空兵力があった。加えて各部隊は敵の勢力圏内に広く散在しており、夜明けを迎えれば無数の敵機が殺到してボコボコにされるのは間違いなかった。空母はまだ瑞鳳と鳳翔が残っていたが、どちらも旧式機しか載せておらず、圧倒的優勢な敵空母4隻と戦うにはあまりにも無力だった。近藤中将は反転を命じ、本隊との合流を目指した。
6月6日午後、敵艦上機とB-17が襲撃してきたが、悪天候に阻まれて被害は皆無だった。だが敵艦上機の出現から、敵空母に追われている事が露わになる。また敵の索敵機も出現し、15時に瑞鳳艦載機が追い払った。ミッドウェー作戦中止に伴い、戦力に余裕が生じた敵はアリューシャン列島を攻撃中の別働隊を襲う可能性が出てきた。そこで山本長官は20時20分、瑞鳳や金剛型戦艦2隻、重巡2隻、水上機母艦神川丸等を北方方面に送る事を決断。しかし燃料不足の懸念があったため、移動は燃料補給後となった。6月7日午前0時15分、敵空母と艦載機に追われている最上と三隈を救うべく、護衛の駆逐艦とともに分派。千歳や日進も瑞鳳に協力し、戦闘準備を開始する。最上と三隈はウェーキ島の味方哨戒圏に向けて逃走しており、瑞鳳は基地航空隊と協同で敵を粉砕しようと考えた。ところが6月8日、最上は無事に第2艦隊と合流、三隈は力闘むなしく沈没したとの情報が入り、作戦中止。翌9日正午、予定通り北方に向かい、細萱長官の指揮下に入った。6月20日までアリューシャン方面で活動し、大湊に帰投した。7月2日と3日に淡路沖で運転公試を実施。7月12日、大分沖へと回航し、搭載機を発進させて飛行場に向かわせて同日中に出港。翌13日に佐世保へ入港した。アリューシャン方面での功績により、山本五十六大将から感状を賜った。
ミッドウェー海戦で空母4隻を失った帝國海軍は、7月14日に艦隊の再編成を実施。新たに第3艦隊を編制し、全ての空母を所属させて指揮系統の統一化を行った。瑞鳳は正規空母翔鶴や瑞鶴と第3艦隊第1航空戦隊へと転属。今まで正規空母のみで編制されていた栄光の第1航空戦隊に、小型改造空母の瑞鳳が所属する事になったのである。艦戦21機と艦攻6機を搭載し、7月20日に佐世保工廠で整備を受ける。
8月7日、ソロモン諸島ガダルカナル島と対岸のツラギ島にアメリカ軍数万が奇襲上陸。ソロモン戦線が形成された。これに伴って訓練中の各空母は急遽出撃が決まったのだが、就役から日が浅い瑞鳳は8月12日に第1航空戦隊から外され、第2航空戦隊へ転属。代わりに龍驤が加えられた。8月25日に佐世保を出港、翌日柱島泊地に移動する。しかし、悪化し続ける戦況は瑞鳳を前線へと追い立てようとしていた。第二次ソロモン海戦により、瑞鳳の代わりに進出した龍驤が沈没してしまう。大鯨は空母改装の途上にあり、千歳と千代田は工事の着手にすら至っておらず、鳳翔は既に練習空母化。商船を改造した大鷹型では実戦に耐えられない。即座に戦える空母が瑞鳳しかいなくなってしまったため、龍驤の穴埋めをすべく急遽ソロモン方面進出が決定。
9月1日、呉を出発して前線基地トラック諸島に向かう。9月6日に入港し、9月10日に早速トラックを出撃。敵艦隊が遊弋する危険なソロモン方面で活動した。9月23日に帰投した後、第6航空隊のラバウル進出に協力するため、2日後に出港。9月29日に横須賀へ入港して第6航空隊の人員や兵器を収容、10月1日に再出発する。道中の10月6日、熊野の艦載機が瑞鳳を「正体不明の空母」と報告し、トラック基地に緊張が走る一幕があったが、幸い攻撃は無かった。10月8日にトラックへと到着し、第6航空隊を揚陸した。
苛烈化する戦局は、瑞鳳に休む間を与えなかった。ガダルカナル島の陸軍第17軍の総攻撃に呼応して海軍も支援する事になり、10月11日にトラック出撃。旗艦翔鶴に率いられ、多数の護衛艦艇に囲まれながらガダルカナル島近海へと向かった。10月14日深夜より哨戒機を発進させ、母艦上空の警備に当たらせる。10月20日、ガダルカナル島東方で燃料補給。敵機動部隊もガ島近海に進出してきており、互いに位置を探りあった。
10月26日午前2時43分、瑞鳳は索敵機として艦攻5機を出撃。その僅か7分後、月明かりを利用して索敵を行っていたPBYカタリナ飛行艇が出現。敵機は低空を飛行しており、雲を抜けたら突然日本艦隊と遭遇したものと思われる。慌てた敵機は急いで小型爆弾4発を投下し、飛び去っていった。爆弾は瑞鶴の右舷3000mに落下、被害は皆無だった。しかし敵機に発見された事で空襲は避けられない事態となり、速力を上げるとともに航路を変更。瑞鳳の見張り員は対空警戒を厳にして敵機の襲来に備える。午前3時20分に艦戦3機を直掩機として上げた。いつ敵艦発見の報が入っても良いように、飛行甲板上には発進準備を整えた航空機が整然と並べられた。今の間に乗組員は朝食を取り、それが終わると「総員戦闘配置」の号令が下った。午前4時17分、瑞鳳の索敵機がB-17と遭遇したが戦闘は生起せず。午前4時50分、翔鶴の索敵機がサンタクルーズ島北方100海里に敵機動部隊を発見した事で南太平洋海戦が生起。待望の報告を受けて瑞鳳は直掩機を更に2機増やすとともに、午前5時20分に第一次制空隊(零戦9機)を、その10分後に触接機の艦攻1機を出撃させた。迅速な出撃であり、あっと言う間に飛行甲板から航空機が無くなった。入れ替わるように第二次攻撃隊の発艦準備が始まり、艦爆が昇降機に乗って飛行甲板に姿を現した。整備員が機体を手押しして所定の位置まで運んでいく。早送りしているかのような早業で爆弾を搭載し、エンジンを始動させる。一方、艦内から出された不用品や可燃物を次々に海上へ投棄して火災対策とする。
しかし午前6時12分、索敵のドーントレス2機が瑞鳳を急襲。瑞鳳はおろか、周囲の護衛艦艇や直掩機すら気付いておらず、完全な奇襲となった。飛行甲板には発艦作業中の第二次攻撃隊がずらりと並べられており、あわや大惨事かと思われた。だが、幸運にも500ポンド爆弾1発は航空機が無い艦尾に直撃。直径1mの破孔が生じ、その下方各部が損傷。付近の高角砲や機銃群も破壊されたが、幸い誘爆は起こらなかった。瑞鳳は発光信号を送って無事を伝えたが、中破。発艦が困難になった。
午前6時40分、先に出撃した第一次攻撃隊とエンタープライズ攻撃隊14機(F4Fグラマン6機、ドーントレス8機)が遭遇。両軍とも最初は無視していたが、瑞鳳所属の零戦9機が反転して敵機を攻撃。指揮官機を含む敵攻撃隊を全て撃墜する戦果を挙げたが、零戦4機が撃墜。残った5機も弾切れで護衛任務に追随出来なくなり、帰投。零戦は12機に減少した。生き残った機は瑞鶴に着艦した。午前7時過ぎ、敵空母の攻撃隊が日本艦隊に到達。激しい攻撃を受け、瑞鳳の飛行甲板に爆弾が直撃。着艦をも不可能になる。敵機の攻撃が戦艦比叡や霧島、重巡筑摩、空母翔鶴などに分散したため、撃沈された艦は無かった。午前8時30分、瑞鳳所属の九七式艦攻が敵艦隊の触接を開始。30分後に消息を絶った。午前11時15分、航行不能に陥った敵空母ホーネットにトドメを刺すべく、どうにか九九式艦爆2機、九七式艦攻6機、零戦5機を発進させる。13時25分、5機が被弾しつつも九七式艦攻がホーネットに爆弾2発を命中させ、大火災を生じさせた。その後、アメリカ軍はホーネットの曳航を諦めて放棄した。戦闘が終結しつつあった10月27日18時、駆逐艦電と磯波に護衛されて離脱。10月28日にトラックへ帰投し、応急修理を受ける。この南太平洋海戦で瑞鳳航空隊は18機を撃墜し、6機を喪失している。
11月2日、本土で修理を受けるべくトラックを出港。同じく海戦で大破した翔鶴と筑摩も随伴し、護衛には第4駆逐隊がついた。11月7日に佐世保へ到着し、11月29日から12月16日まで佐世保工廠で修理。修理ついでに改装も行われ、上甲板室両舷に25mm三連装機銃を1基ずつ増備。後方両舷にも1基ずつ装備された。中央の連装機銃は三連装に改められ、更に1基ずつ追加。隠顕式探照灯1基を撤去して代わりに21号電探を、左舷側マストに13号電探を新たに装備した。
1943年に入ると、瑞鳳は飛行甲板を艦首近くまで約15m延伸。支柱を一組追加する工事を受けた。1月17日、呉を出発してトラック諸島に進出する。1月29日、ガダルカナル島撤退作戦を支援する前進航空部隊に編入。そして1月31日にトラックを出撃し、隼鷹とともにガダルカナル島北方で活動。敵の目を引き付ける囮役をこなし、撤退作戦を支援した。撤収は見事成功し、2月7日に作戦終了。2月9日にトラックへと戻り、しばらく泊地に停泊する。2月18日に九七式艦攻8機と零戦20機をウェワクに派遣。2月26日、九七式艦攻が敵潜水艦の影を探知して60kg対潜爆弾2発を投下したが、逃げられている。3月1日、派遣した九七式艦攻8機がトラックに帰投。
3月2日にカビエンへ艦載機を派遣。その後、瑞鳳航空隊はラエに補給と増援を送る81号作戦の支援に参加。3月3日午前5時15分、輸送船団がビディアス海峡へ差し掛かった頃に少数のB-25が襲来。これを機にビスマルク海海戦が生起した。敵基地ポートモレスビーに近いこの海域は完全に敵の制空圏内だった。攻撃開始から2時間後に遅れて瑞鳳所属の零戦15機が駆けつけたが、P-38とP-40の相手をするのが精一杯で船団を守れず、輸送船8隻と駆逐艦4隻を沈められてしまった。4月2日、空母艦載機を陸上の基地に派出する「い」号作戦に参加。ラバウルに零戦21機を派遣し、ガ島やポートモレスビー方面の敵艦船攻撃に投入。18機の敵機を撃墜する戦果を挙げたが、受けた損害も大きかった。4月16日、作戦終了に伴って帰投。2日後にトラック在泊中の瑞鳳のもとへ戻ってきた。とりわけ艦爆の被害が甚大で、3割が撃墜。被弾機を含むと6割に上った。瑞鳳と瑞鶴は生き残った機体や搭乗員を第2航空戦隊(隼鷹、飛鷹)に譲渡し、航空隊再建のため内地へ帰投する事になった。5月3日、瑞鶴や軽巡阿賀野、駆逐艦雪風とトラックを出発。5月8日午前6時に沖ノ島で仮泊し、5月9日に佐世保へ帰投する。
5月12日、アメリカ軍がアッツ島への上陸を開始。救援作戦に備えるため、5月16日に佐世保を出発し、横須賀に入港。出撃待機を命じられる。ところが5月30日にアッツ島守備隊が玉砕してしまったため、救援作戦は中止。6月2日に佐世保へと戻り、6月7日から15日にかけて佐世保工廠で整備を受ける。6月18日、佐世保を出港して瀬戸内海西部へ回航。岩国と徳山を往来する。7月9日、海軍陸戦隊や軍需品輸送のため呉を出港。八島泊地で翔鶴や瑞鶴等と合流し、7月15日にトラックへ進出した。7月19日よりブラウン島への輸送任務に従事し、7月25日にトラックへ帰投。8月29日から9月3日までカビエンに航空隊を供出し、基地周辺の索敵や防空任務に従事した。
9月17日、敵艦隊との艦隊決戦を挑むためZ号作戦が発令。旗艦瑞鶴に率いられて第3艦隊が出撃していった。瑞鳳は参加しない予定だったが、9月20日に敵空母襲来の報を受けて駆逐艦野分と舞風の護衛を伴って緊急出撃。翌21日に瑞鶴と合流し、基地用のレーダーがある前進拠点ブラウン島に入港した。ところが敵空母はハワイに引き揚げてしまい、作戦中止。9月23日にトラックへ帰投した。10月17日、再び敵艦隊を撃滅すべく出撃。2時間遅れて第1航空戦隊の零戦87機、九九式艦爆45機、九七式艦攻40機、二式艦偵6機の計178機が出撃。瑞鳳、翔鶴、瑞鶴にそれぞれ着艦した。トラック島周辺には敵潜が跋扈している事から24ノットで突破し、のちに15ノットに減速。3隻の空母を中心に輪形陣を組んだ。しかし10月17日、ハワイを偵察した伊36潜から敵艦隊の在泊が確認され、またしても空振り。それでも進撃を続け、10月19日にブラウン島へ到着。古賀連合艦隊司令長官の提案によりウェーク島方面で待ち伏せる事になり、10月23日に出港。瑞鶴から索敵機が飛び立ち、周辺を捜索したが艦影は認められず。やむなく引き返し、10月26日にトラック泊地へ戻った。
10月27日、アメリカ軍がモノ島に上陸。ソロモン諸島北部でも攻勢を掛けてきた。迎撃を担う第11航空艦隊は134機程度しか持っていなかったため、翌日「ろ」号作戦が発動。翔鶴、瑞鶴、瑞鳳の艦載機も派出される事になり、可動機は370機に増加した。11月1日14時、トラックから瑞鳳航空隊の零戦18機と艦攻8機が離陸。ラバウルのラクナイ東飛行場に着陸した。P-38、P-39、F4F、F4Uなど撃墜35機(不確実10機含む)の戦果を挙げるが、のちに生起したブーゲンビル島沖航空戦で8名の戦死者を出している。11月5日、整備を行うべくトラックを出発。道中の11月7日、連合艦隊電令作第789号により兵力輸送が命じられた。11月10日から16日まで横須賀で整備を受ける。その間の11月12日に「ろ」号作戦は終了。艦載機はトラックに引き揚げた。トラック泊地にはソロモン諸島や東部ニューギニアから後退してきた人員や便乗者、報道班、交代要員などが集結しており、彼らを帰国させるためにすぐさま出港。11月21日にトラック泊地へ到着し、便乗者を収容する。瑞鳳同様に商船改造空母雲鷹、冲鷹にも便乗者が乗艦。3隻の空母を重巡洋艦摩耶、駆逐艦曙、漣、潮、浦風が護衛する事になった。11月30日に船団は出港。トラック北水道を単縦陣で通過し、外洋では潜水艦を警戒して20ノットで之字運動を行った。しかし船団がトラックを出発する際に打った通信が敵軍に傍受され、航海予定が筒抜けになってしまう。さっそく米潜スケートから雲鷹が雷撃を受けたが、幸い命中せず。12月1日付で瑞鳳から航空隊が削除され、艦載機を失う。12月3日夜、八丈島東方に差し掛かった頃、米潜水艦ガンネルとセイルフィッシュにレーダーで捕捉される。この方面には季節外れの台風が北東に進んでおり、雨風が次第に強くなり始めた。予定の航路を遵守するため迂回はせず、そのまま暴風圏に突入。暴風雨と暴浪が船団を揺さぶり、視界も悪くなった。やむなく摩耶からの発光信号で18ノットに減速。そこへセイルフィッシュが接近し、4本の魚雷が伸びてきた。12月4日午前4時、伴走者の冲鷹に魚雷が命中して落伍。護衛として浦風が残り、他の艦艇は急いで海域からの離脱を図った。この日のうちに瑞鳳は横須賀へ辿りつく事が出来たが、冲鷹は戻ってこなかった。
「ろ」号作戦により、投入した航空機の70%が壊滅。搭乗員も363名中181名が戦死する事態に陥った。早急な補給が求められ、瑞鳳は航空機と軍需品の輸送任務のためトラック・本土間を何度も往復する事に。12月12日、横須賀を出港。トラック方面に向かっていた翌13日、母島乾崎近海で敵潜が確認されたため駆逐艦満潮が爆雷16個を投下している。12月17日に無事トラックへ到着した。12月19日、連合艦隊電令第864号により商船改造空母雲鷹、駆逐艦浜風ともども横須賀への回航命令を受ける。12月24日にトラックを出発し、12月29日に横須賀へ帰着した。
1944年1月4日、航空機輸送のため雲鷹とともに横須賀を出港。護衛として駆逐艦電と雷が伴走した。1月9日にトラックへ到着し、2隻の空母から零式水上偵察機4機、零式観測機8機、二式水上戦闘機6機、天山艦攻7機の計25機が降ろされた。1月15日の連合艦隊電令作第898号ですぐに横須賀への帰投を命じられ、1月18日に雲鷹とトラックを出発。今回の護衛は豪勢で、軽巡洋艦能代、駆逐艦早波、若葉、初霜が付けられた。ところがトラックから空母が出港したとの情報を得たアメリカ軍は、サイパン東方で活動していた潜水艦ハリバット、タリビー、ハダックを刺客として送り込んできた。1月19日午前10時37分、ハダックから雷撃を受け、雲鷹が被雷。無事だった瑞鳳は若葉に付き添われながら離脱した。1月22日、浦賀沖で横須賀防備隊が瑞鳳の前路哨戒を行ってくれた。翌日の1月23日、横須賀へと入港した。
1月29日、トラックへの輸送任務のため出港。この日に瑞鳳は千歳と千代田からなる第3航空戦隊に配属された。2月3日にトラックへ到着し、2月10日に出港。2月15日黎明、大阪警備府が小松島航空隊を派遣して瑞鳳の対潜及び上空援護に充ててくれた。この日、最後の艦長である杉浦矩郎大佐が着任。6日間の航海を経て、2月16日に呉へ入港した。2月23日より相生造船所に入渠し、3月10日まで整備を受ける。翌日呉に回航し、次なる輸送任務のため、3月22日に横須賀へ入港。空母龍鳳と航空機輸送を担当する事となり、駆逐艦山雲、初霜、雪風が護衛に加わった。元々は龍鳳の艦長が総指揮を執る予定だったが、出港の直前で人事異動による交代があったため急遽瑞鳳が総指揮を執った。3月29日、横須賀を出港。道中でサイパン行きの龍鳳、初霜と別れ、雪風と山雲を率いて瑞鳳はグアムに向かった。4月1日、目的地のグアムへ到着。物資を積み降ろす。4月3日に出港し、4月8日に呉へ帰投した。対空兵装の増強が施され、25mm機銃を42門装備。
5月11日、「あ」号作戦に参加するため佐伯湾を出港。戦艦武蔵、空母千歳、千代田、龍鳳、飛鷹、隼鷹等とともに燃料が豊富なタウイタウイ泊地へ向かった。途中で沖縄の中城湾に寄港し、護衛の駆逐艦に燃料補給。その日のうちに出港した。セレベス海や南シナ海では米潜水艦の跋扈が激しかったが幸い襲撃は無く、5月16日にタウイタウイ泊地に入港。ミンダナオ島サンボアンガの南西に位置するタウイタウイは、呉設営隊によって先月整備されたばかりの泊地であった。潜水艦が侵入できない浅い水深や防御、産油地タラカンに程近い立地から燃料に困らない利点を持つ。第1機動艦隊の総勢がこの泊地に集結していたが、湾内に航空機を発着艦させられる広さは無かった。また泊地内は無風の日が多く、訓練に向いていない欠点を抱えている。しかし湾外からボルネオ島間の海域では米潜水艦が跳梁跋扈しており、外へ出ようものなら雷撃される恐れがあった。対潜掃討に向かった駆逐艦も次々に撃沈されてしまうなど、訓練に大きな悪影響を与えた。6月11日午後12時30分、給油艦鶴見に横付けして燃料補給を受ける。
6月13日、空母15隻と戦艦8隻からなるアメリカの大艦隊がマリアナ諸島に来襲。要衝サイパンに激しい艦砲射撃と空襲が行われ、アスリート飛行場に駐機していた航空機34機が全て破壊された。間もなくサイパン上陸が始まった事で、決戦用意が発令。午前9時にタウイタウイ泊地を出発し、より決戦海域に近い前進拠点のギマラスへ向かう。空母9隻、戦艦5隻、重巡11隻、軽巡2隻、駆逐艦29隻、給油船6隻の計62隻が総兵力であった。瑞鳳の左右2000mには戦艦大和と武蔵が護衛につく。午前10時に米潜レッドフィンに発見され、周囲の敵潜水艦が集まりだしたが、小沢艦隊は徹底した無線封鎖を実施。このためアメリカ艦隊は暗号解析でも小沢艦隊の動向を掴めずにいた。翌14日16時30分、ギマラス泊地へ到着。玄洋丸とあづさ丸が夜通しで燃料補給を行い、艦隊に重油1万800トンが送油された。
6月15日午前7時、旗艦大鳳に率いられて抜錨。17分後に「あ」号作戦が発動。瑞鳳が所属する第3航空戦隊は本隊の約100海里前方に展開する前衛部隊に配備され、艦の先鋒を務めた。護衛として第32駆逐隊の玉波、浜波、藤波が随伴。北東方向に舳先を向けて進撃する。ミンドロ島南方で米潜シーホースに発見され、午前11時には敵の沿岸監視員に「機動部隊発見」の通信を打たれた。対する日本側は第3連合通信隊が強力な通信妨害を実施し、報告が届くのを遅らせている。やがて小沢艦隊はサンベルナルジノ海峡に差し掛かった。大小様々な艦艇が一列縦列を組み、敵潜が潜んでいるであろう危険な海峡を通過する。日没が迫った17時30分に海峡を突破、いよいよ太平洋に出た。外洋に出た途端に波が荒くなり、艦を揺さぶる。艦隊は夜間警戒航行隊形を取る。18時45分、米潜フライングフィッシュが艦隊発見の報を打ったが、追跡に失敗して見失った。20時20分、通信傍受によって小沢艦隊側も敵潜の存在に気付いた。6月16日早朝、灰色の雲の下で瑞鳳は発着艦訓練を実施。泊地で出来なかった分を少しでも取り戻そうとした。15時30分、渾作戦から戻ってきた戦艦大和、武蔵、重巡妙高、軽巡能代、駆逐艦島風、沖波等が合流。夜になってから給油が行われたが、雨や灯火管制で作業が難航。不断の努力により夜明けには完了した。6月17日15時30分、針路60度に変針して速力20ノットで進撃再開。6月18日午前5時、サイパンの西方700海里に到達。航空戦第三戦法第二法に従って索敵機14機を発進させた。この日は終始索敵に徹し、14時45分から15時40分までの間に三群に分かれて行動中の敵機動部隊を発見。高い索敵能力を見せ付けたが、夕刻になりつつあったため、今日の攻撃は見送られた。敵の目を欺く目的で、日没前に針路を北へ変更。日没後に南へ変針して決戦体勢を整えた。
6月19日未明、マリアナ沖海戦に参加。アメリカ軍が索敵に失敗した一方、小沢艦隊は成功。また捕虜を尋問した結果、アメリカ艦隊の陣容も事細かに明白となった。先制攻撃を仕掛けるべく、各空母から盛んに索敵機が飛び立っていた。午前4時15分、瑞鳳からも索敵機が発進。千代田や重巡の分と合わせて14機が投入された。そして午前6時34分に敵艦隊発見の報が入り、他の空母に先立って第3航空戦隊は午前7時45分に艦載機を発進。爆戦43機、天山7機、零戦14機からなる計64機の第一次攻撃隊が飛び去った。この攻撃隊は最初に発見された敵艦隊(7イ)に向かった。
第3航空戦隊がいる前衛艦隊のもとへ敵味方不明機49機が接近。高雄から4発の照明弾が放たれたが、反応を示さずに接近を続ける。瑞鳳は敵と断定し、上空4000mを通過した時に12.7cm連装高角砲で指向射撃を開始。他の艦艇も戦艦、巡洋艦、駆逐艦の順に対空射撃を行った。正体は後方の第2航空戦隊から発進した攻撃隊で、事前に通過を知らされていなかった事から同士討ちを演じてしまう。味方機だと見抜いていた戦艦武蔵は「友軍機を誤射するは遺憾なり」と電信、大和からは「味方機の誤り、撃ち方やめ」と発光信号が送られてきた。味方機がバンクした事で同士討ちは止まったが、すっかり編隊が乱れてしまい、彗星艦爆数機が引き返した。
まず最初に敵艦隊の頭上へ到達したのは、第3航空戦隊の攻撃隊であった。7イの上空に到達し、突撃陣形を作るために編隊を組み直す。ところが午前9時35分、レーダーによって接近を察知していたF6Fグラマンの大群に襲撃される。急ぎ戦爆隊は敵空母へ、零戦隊はF6Fに挑みかかった。戦爆隊はミネアポリスに至近弾を、戦艦サウスダコタに1発の命中弾を与えた。零戦隊も奮戦し、6機撃墜(1機不確実)の戦果を挙げたが、その代償に戦爆31機、天山2機、零戦8機を喪失。64機中41機を失う大打撃を受け、第3航空戦隊の稼動機は半数以下の49機になってしまった。瑞鳳、千歳、千代田は前衛にいる関係上、帰投する航空機が真っ先に辿りつく空母だったため、3隻とも収容作業に忙殺された。中には本隊や乙部隊から出撃した航空機も混じっていて、損傷や燃料不足で本隊まで帰り着けない機の受け皿を果たした。辛くも生還した第一次攻撃隊を再編し、19機を第二次攻撃隊として出撃させようとしたが、結局間に合わなかった。14時頃、後方の本隊では敵潜の雷撃を受けた翔鶴が沈没。同様に魚雷を受けた旗艦大鳳も火だるまと化し、虫の息となっていた。小沢中将は羽黒を臨時旗艦に指定。一度西方へ退避する事に。
6月20日早朝、小沢艦隊は一箇所に集結。午前7時までに補給部隊が合流し、燃料補給を開始。正午頃、小沢中将以下司令部要員が瑞鶴に移乗し、将旗を掲げる。正午頃、瑞鳳は3機の索敵機を発進させて東方を捜索したが、敵艦隊を発見するには至らなかった。15時20分、敵の哨戒機らしきものが触接してきたため、小沢中将は全航空機に攻撃を下令。瑞鳳でも発艦準備が進められた。16時15分、敵艦上機20機が東方約200海里を西進中との報告が入った。間もなく敵の空襲が始まる事を意味していたが、未だ補給作業が終わっておらず、艦隊には給油船が随伴していた。そして17時30分、216機の敵機が出現。いよいよ敵の逆襲が始まった。北西に退避している小沢艦隊は殿と本隊の位置が逆転しており、本来なら盾になるはずの戦艦部隊や第3航空戦隊が敵機から遠い後方にいる状態となっていた。敵機襲来に際し、急速回頭して本来の陣形に戻ろうとするが、間に合わない。第3航空戦隊の上空にはたまたま戦爆12機、天山2機、零戦4機が待機しており、迅速な迎撃が行えた。しかし多勢に無勢で、F6Fグラマン2機とTBFアベンジャー9機を撃墜したが、戦爆7機と零戦1機が撃墜。零戦3機が大破した。瑞鳳、千歳、千代田の3隻は激しい攻撃に曝され、回避運動を取る。瑞鳳には戦艦武蔵が援護に回った。千代田が被弾中破する被害を受けたものの、幸い沈没艦は無かった。18時10分頃、熾烈な空襲は終わった。マリアナ沖海戦で大型空母3隻と400機以上の航空機、700名の搭乗員を失った事で小沢艦隊は事実上戦闘能力を喪失。それでも敢闘精神旺盛な小沢中将は前衛部隊に夜戦を命じたが、6月21日午前7時45分に連合艦隊司令部から「あ」号作戦の中止を命じられ、戦力建て直しのため沖縄の中城湾に向かった。この日の午後から瑞鳳は索敵機を放ち、後ろから執拗に追いかけてきているアメリカ艦隊の捕捉に務めた。出撃させた索敵機のうち、1機が夕刻になっても帰らなかった。杉浦艦長は飛行甲板上で「探照灯用意」の号令を下した。敵に見つかる危険を冒してでも、索敵機を収容しようという優しさだったが、ついに帰還しなかった。何とか敵を振り切り、6月22日13時頃に中城湾へ寄港。戦死者の移乗や駆逐艦への燃料補給を行い、翌日出発。荒天の玄界灘を突破し、6月24日夕刻に柱島に到着した。
小沢艦隊が呉や柱島に到着した日、硫黄島に敵艦載機約60機が襲来。硫黄島が空襲を受けた事は海軍上層部を動揺させ、硫黄島来攻の予兆だと戦慄した。7月3日に二度目の空襲が、その翌日には巡洋艦群による艦砲射撃が行われた。以降はパッタリと攻撃が止まったため杞憂だと判明したが、もしもの時に備えて反撃戦力として瑞鳳、千歳、千代田を手元に残しておく事にした。マリアナ沖海戦の戦訓を活かし、生き残っていた空母には徹底的な難燃対策と対空兵装の強化が行われた。瑞鳳の対空機銃は更に増やされ、計68基に。また実用化されたばかりの12cm28連装噴進砲8基を新たに装備した。燃えやすい油性塗料は全て剥がされ、アートメタルペイントに変更。大鳳沈没の戦訓からガソリン庫の周りを鉄筋コンクリートで囲み、気化ガス対策として格納庫の通風機能も大幅に強化された。他にも格納庫の前後端に開口部を設け、風通しを良くした。燃えやすい調度品は全て陸揚げ、個人の私物はトランク1個分までに限定するなど居住性を犠牲にして高い防火能力を獲得。
硫黄島の防備が殆ど進んでいなかった事から、瑞鳳には小笠原諸島方面に向かう輸送船団の援護が命じられた。7月22日、柱島を出港。徳山で給油を受け、第931海軍航空隊の艦攻12機を搭載。道中で小松島航空隊の対潜哨戒や第251号駆潜艇の護衛を受けながら、7月26日に横須賀へ寄港した。ここで九七式艦攻12機と呉に輸送する軍需品を積載。
7月29日、瑞鳳は護衛に駆逐艦山雲、野分、秋月、初月を伴って出撃。父島に向かう第3729船団の対潜哨戒を担った。敵潜水艦が探知される一幕があったものの、九七式艦攻が睨みを利かせていた影響か雷撃は無かった。だが、瑞鳳の存在が敵艦隊を招いてしまう形となる。第3729船団は8月1日に父島へ、翌2日に硫黄島へ到着して輸送に成功。輸送成功を見届けた瑞鳳は護衛を伴って帰路につき、8月3日に呉に帰投した。ところが8月4日、瑞鳳撃沈を狙ったアメリカ軍がスカベンジャー作戦を開始。第58.1任務群と第58.3任務群が父島と硫黄島を空襲し、在泊艦艇や航行中の船団に大きな損害が出た。事前に帰投していた瑞鳳には危害は及ばなかった。
8月19日から28日にかけて入渠整備を受け、出渠後の8月30日、瀬戸内海西部へ回航して訓練を行う。9月18日から翌日まで、伊157潜と呂109潜による襲撃訓練の標的艦を務めた。10月1日に大分へ回航し、旗流信号教練、飛行機隊襲撃訓練、応急操舵訓練、応急舵曳航訓練を実施。10月6日から八島泊地で応急舵曳航訓練を行う。10月10日、米機動部隊が沖縄諸島、台湾、フィリピンに対して大規模な空襲を行い、損耗した現地の航空隊の補給に第653航空隊が充てられたため、空母艦載機の大半が取り上げられる形となってしまった。この事に小沢中将は抗議したが、連合艦隊は「今後の作戦に空母は使用しない」と返答した。10月11日、瑞鳳は再び大分沖で猛訓練を行う。
10月17日、アメリカ軍がレイテ湾スルアン島に上陸。翌18日、豊田副武大将は捷一号作戦を発令した。作戦に参加しないはずの空母も実働部隊に加えられ、瑞鳳は瑞鶴、千歳、千代田とともに敵機を釣り上げる囮役となり、小沢中将率いる艦隊へ編入。生還を期さない絶望的な作戦に臨む事となった。10月19日朝から大分基地で食糧、酒保品、機材、弾薬、飲料水を大量に積載し、呉から来た給油艦より最後の燃料補給を受ける。13時、小沢中将は旗艦となった瑞鶴に各級指揮官を集め、作戦の打ち合わせを実施。夕刻までに全艦が出撃準備を整えた。夜には第653航空隊基地要員が乗艦。便乗者の中には報道班の姿もあった。
10月20日午前8時、曇天のもと4隻の空母は抜錨。航空機収容のため伊予灘に向かう。午前10時31分、全航空機(零戦12機、天山艦攻3機、九七式艦攻3機)を収容完了。空母へ着艦できるだけの力量を持った搭乗員が不足し、第653航空隊を取り上げられた事もあって4隻合わせても108機の航空機しか無かった。18時、小沢艦隊は豊後水道を出発。二度と目にする事が出来ない故国の情景を背に、闇夜の海を駆けた。旗艦瑞鶴、瑞鳳、千歳、千代田、戦艦伊勢、日向、軽巡大淀、多摩、五十鈴、駆逐艦秋月、初月、霜月、桑、槙、杉、桐が艦隊の全戦力であった。囮艦隊という役割上、主力である栗田艦隊よりも先に敵に見つかる必要があるため、小沢艦隊では盛んに偽電を打って目立つ行動を取った。10月22日午前5時18分、見張り員が艦首右方向に雷跡を確認。緊急回避を行うと同時に総員戦闘配置につく。護衛艦艇が爆雷投射を行う中、午前8時57分に瑞鳳は天山2機を対潜哨戒機として発進。しかし敵影が確認できなかったため、午前9時58分に収容する。13時15分から軽巡多摩に、15時40分から駆逐艦桐に曳航給油を行った。10月23日午前6時、台湾の東方に差し掛かった。ここまで敵襲は無く、平穏な航海が続いていた。だが午前10時頃、パラワン水道で重巡摩耶と愛宕が撃沈されたとの緊急電が入った。夕刻、小沢艦隊は全艦隊に対して明朝の予定位置を通達。味方に位置を教えるとともに、敵に傍受される事を願った。杉浦艦長は、明日の決戦に備えて準備を万端にしておくよう命じた。
10月24日午前6時、小沢艦隊は予定地点に到着。「索敵機用意、整備科配置につけ」との号令が艦内スピーカーから流され、整備員たちはラッタルを上って格納庫に急ぐ。整備兵曹の指示で九七式艦攻が昇降機に載せられ、飛行甲板に上げられた。空はまだ暗く、完全には明け切っていない。併走する旗艦瑞鶴の艦橋から点滅信号が送られてくる。それを合図にエンジンが始動し、轟音が鳴り響く。まず最初に4機の索敵機が発進した。午前9時、瑞鳳から索敵機10機が飛び立ち、南西に飛び去る。午前11時5分、「敵部隊見ゆ。空母4隻、戦艦2隻、その他多数」との報告が入った。小沢中将は先制攻撃の機会と捉え、攻撃命令が発せられる。飛行甲板には既に航空機が並べられ、搭乗員がそれぞれの愛機のもとへ駆け寄ると見事な身のこなしで搭乗した。飛行長は飛行甲板に残り、杉浦艦長から発進命令を受領。1機ずつ発艦していく。午前11時45分、瑞鶴にZ旗が掲揚。午前11時52分、瑞鳳から艦戦8機、天山4機、艦戦特2機が発進し、4隻の空母から計76機の航空機が飛び立った。これが帝國海軍史上最後の攻撃隊となった。行き先は陸上基地だったが、道中でグラマンの大群に迎撃され、3機のみが母艦に戻ってきた。16時17分、340度方向に敵の偵察機が出現。決して近寄らず、遠巻きに小沢艦隊を観察していた。30分後に対空射撃を行って追い払った。ついに囮の役割が果たされた訳である。16時49分に全戦闘機第一待機が下された。18時13分、連合艦隊司令部より「天佑を確信し、全軍突撃せよ」との電文が入った。
10月25日早朝、小沢艦隊は対空戦闘の準備に取り掛かっていた。上空には直掩機18機だけを残し、残余の機はニコルス飛行場に退避させた。午前6時49分、第四警戒航行序列に移行。午前7時13分、最も南にいた戦艦日向が270度方向170kmに2機の索敵機を確認。午前7時40分には瑞鶴と伊勢の電探も敵機の大群を捉え、瑞鳳艦内に対空戦闘用意が下令された。午前8時8分、左120度方向にて敵機170機を発見。大型双眼鏡を覗く見張り下士官が声を張り上げて報告する。上空を旋回していた18機の零戦が果敢に挑みかかったが、あっと言う間に突破されて小沢艦隊へと突進してきた。彼我の距離が2万mまで縮まると、射程の長い伊勢と日向が砲撃を始める。午前8時13分、瑞鳳は戦闘旗を掲げて速力24ノットに増速。最後の戦い、エンガノ岬沖海戦が幕を開けた。
午前8時25分、第一次空襲開始。護衛艦艇の対空砲火を掻い潜った急降下爆撃機が瑞鳳を襲い、対空射撃で迎え撃つ。挨拶代わりに放たれた爆弾2発を、急速に左へ旋回して回避する。その直後、右後方より雷撃機が迫ってきたため対空砲火を浴びせて撃退する。午前8時35分、発着甲板後部に250kg爆弾1発が命中。下部格納庫内で炸裂し、爆発の衝撃で飛行甲板が山なりに盛り上がる。格納庫はあっと言う間に火の海となった。後端にも命中したが、こちらは不発弾だった。直ちに応急隊員が出動し、消火ホースを何本も引いて消火活動に当たる。誘爆を防ぐため爆弾庫にも注水を開始する。3分もしないうちに3発の至近弾を立て続けに受け、舵を損傷。人力操舵に切り替える。午前8時55分、鎮火に成功した。5分後、左前方2kmを航行中の駆逐艦秋月が突如爆発。爆発音と衝撃波が瑞鳳まで届いた。午前9時10分頃、第一次空襲は終了。敵機は引き揚げていった。瑞鳳は被弾こそしていたが24ノットの維持が可能で、瑞鶴とともに北上。集中攻撃を受けた千歳は既に虫の息となっており、間もなく沈没。最初の喪失艦となった。
午前10時過ぎ、約40機の敵機が現れて第二次空襲が始まった。攻撃は旗艦瑞鶴に集中したため、幾ばくか余裕が出来た。噴進砲や高角砲による反撃により、被弾無しで切り抜ける事に成功した。しかし今度は千代田が集中攻撃を受け、艦隊から落伍した。瑞鶴の無線送信機とアンテナが破壊されたため、小沢中将は軽巡大淀に旗艦を移した。正午になると戦闘糧食が配られ、乗組員は間隙を縫って食事をとった。
午後12時50分、伊勢の電探が敵機の大群を探知。旗流信号で知らせてきた。残っている空母は瑞鶴と瑞鳳のみ。その2隻を包み込むかのように200機の敵機が四方から殺到した。第三次空襲の幕開けである。死に物狂いで対空機銃が火を噴くが、敵の勢いは止まらない。右へ左へ回避運動を取る中、13時17分に羅針盤艦橋直下に魚雷が直撃。その1分後には後部昇降機に60kg爆弾が命中する。13時30分までに至近弾7発、右舷後部に魚雷1本、170番ビーム付近舷側に爆弾1発を受けるという滅多打ち状態と化す。更に60発もの至近弾を受け、爆弾の破片が蒸気管を切断。右舷の機関室に浸水が発生する。13時50分、第二機関室が浸水で使用不能となり、12ノットに低下。間もなく第三次空襲は終わったが、浸水によって右舷へ13度傾斜。排水ポンプを稼動させたが、破孔から入ってくる海水を止められない。14時14分、左舷に大傾斜して沈没していく瑞鶴の姿が見えた。唯一の正規空母だった瑞鶴もやられた。後はもう瑞鳳しか残っていない。空襲が止まっている間に負傷者の処置や弾薬の整理が行われた。浸水は徐々に艦を蝕み、6ノットに低下。舵も効きにくくなってきた。14時30分、右前方より雷撃機が一列に並んで接近。回避しようにも、動きが鈍重で動けない。間もなく1本の魚雷が命中し、傾斜が20度に悪化する。14時45分までに全機関室が満水。15時、とうとう航行不能に陥った。更に15時5分、第四次空襲が始まってしまう。たちまち10発の至近弾を受け、更に魚雷1本が命中。傾斜が23度になる。「総員集合」の警笛が艦内に響き、傾斜が激しくなる飛行甲板に将兵が続々と集結。15時10分、全員整列する中、杉浦艦長の訓示に耳を傾けた。
「諸君、諸君は乗艦以来、最後まで実によくその任務を尽くしてくれた。艦長として最大の満足を感ずるとともに、感謝にたえない。改めて礼を言う。ただ惜しむらくは、ともに今日の戦いに臨みながら、再びここで相まみゆる事の出来ない幾多の英霊に、万感言い表せないものを覚える。今次の出撃に際して各員に申し述べたように、機動部隊の囮作戦により第2艦隊のレイテ湾突入を有利に導く事が出来た。我々は敗れたが、友軍の戦果報告を聞いて満足であった。しかし、戦いはこれで終わった訳ではない。戦争は長い。我々の任務はこれからである。諸君もどうか一層奮励し、次期の戦闘に参加して、御国のために頑張ってくれ。死んではならぬ、生きてくれ。切に諸君の奮闘を祈る。」
「艦長はただ今より、総員に退艦を命ずるとともに、軍艦旗を降ろす。」
君が代のラッパの音とともに軍艦旗が降ろされ、それを不動の姿勢で見守る。軍艦旗は士官の手で運ばれ、御真影を抱えた副長と一緒に左舷に繋がれたカッターへ乗艇。総員退艦命令に伴って将兵は次々に海へと飛び込んだ。間もなく煙突から海水が流れ込み、力尽きた瑞鳳の船体が真っ二つに折れる。艦はV字となり、艦首と艦尾を空に向けながら沈没。そして15時26分、その勇姿を海中に没した。杉浦艦長以下847名が駆逐艦桑に、98名が戦艦伊勢に救助された。開戦劈頭から末期まで駆け抜けてきた武勲艦の、壮絶なる最期の瞬間だった。
1978年3月20日、元乗組員の尽力により佐世保東山海軍墓地の東公園に航空母艦瑞鳳之碑が建立された。
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最終更新:2024/03/28(木) 21:00
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