アハト……いえ、「はち」です。
うん、提督が言いやすいなら、もう「はっちゃん」でもいいよ。うん。
伊8(い8)とは、大日本帝国海軍所属の巡潜3型(伊七型)潜水艦2番艦「伊8」をモデルにした、ブラウザゲーム「艦隊これくしょん~艦これ~」に登場する魔法少女艦娘(かんむす)である。
主な通称は「はっちゃん」。
2013年11月に行われた秋のイベントにて新規実装された艦娘。潜水艦娘としては伊168、伊58に続いて、イクこと伊19と同時実装となった。イクは事前にビジュアルが発表されていたが伊8はイベントでの実装が初のお目見え。潜水艦娘では初の金髪&眼鏡っ子で、「艦これ」全体を通して(事前に公表されていた「武蔵」に続いて)6人目の眼鏡っ子となり、「これで眼鏡っ子艦隊が組める!」と全国の眼鏡スキー提督を狂喜乱舞させた。
ちなみに中破すると眼鏡が外れるため、一粒で二度美味しい。
とはいえ、彼女の配布は鬼畜マップであった(中には最終面より難易度が高いという提督もいた)イベント4面のクリア報酬のため、イベント期間中は彼女を手に入れようと頑張る提督達で阿鼻叫喚の様相を呈した。
また、彼女は実装時点で潜水艦娘では最高レア度の金レア(伊19、伊58が銀レア、伊168がコモン)のため、建造・ドロップに落ちてきてもそれなりの難易度では無いかと恐れられていた。
レア度という点では、後のアルペジオイベントでイベントクリア報酬として実装された伊401がホロレアと潜水艦娘最高レア度を更新したが、同イベントでは伊19はドロップが実装されるも(同イベント終了後は通常海域5-4で正式実装)、はっちゃんはイベントでもドロップが実装されなかったため、伊401共々「一提督に一人だけ」な状態が続いていた。
そして翌2014年1月29日のアップデートで、めでたく通常建造(大型艦建造にあらず)に追加されたことがアナウンスされた。しかし伊168や伊58と違って、アナウンス当初は通常海域では一切ドロップせず、入手経路は通常建造のみだった。そのため先のイベントで伊8を手に入れられなかった提督や、伊8を多数保有したい提督がこぞって建造に走ったが、潜水艦の建造率はとにかく低く、連敗数を山のように重ねる提督が続出。今でこそ伊8を保有する提督は増えているが、出ないと嘆く提督も多い。もし手に入れられたのなら大切に育てておこう。
そんな中、2014年3月14日に行われたアップデートで1-5が追加。その1-5のボスドロップで伊8が出る事が判明(道中では一切出ない)。これでようやく通常海域でもドロップするようになった。1-5はルート固定が出来る事から比較的掘りやすい海域であり、猛者は伊8に会うため幾度と無くボスに挑んだ。ちなみに同海域では、長らく入手不可であった伊19もドロップするようになっている。
ただし伊8のボスドロップは司令部(提督)レベルが80以上である事が条件となっており、それ以下のレベルではドロップしない。要注意。
潜水艦娘は、艦名が「伊xx」のためか、皆、自分でニックネームを名乗っているが、「伊8」の場合、自分では「ハチ」と名乗っている。が、呼びにくいなら「はっちゃん」でいいよ、と本人も言っているので、提督達には「はっちゃん」と呼ばれる事が多いようだ。また、ごく一部の提督達からは、本人の台詞にもあるドイツ語の8の読みから、「アハトん」と呼ばれているとも。
その服装はイクと同じく体にはスク水のみだが、頭に帽子をちょこんと乗せ、足は白いサイハイソックスを着用している俗に言うスク水ニーソである(本人は、スク水だけではなく、他のみんなのような制服も着たいらしい)。
本好きらしく、周囲には本が何冊も転がっている。が、はっちゃんの左にある本から魚雷を召喚しているように見える。ゲーム画面では確認できないが、「艦娘型録」の中破絵を見ると魚雷を召喚していた本の背表紙に「Oxygen Torpedo(酸素魚雷)」と書いてあるので、実ははっちゃんは魔法少女なのではないか、という説が一部の提督から上がっている。
また、抱えた本はドイツから持ち帰ってきた提供品らしく、表紙に電波探知機「Metox」・背表紙にSボート用のダイムラー・ベンツ製ディーゼルエンジン「MB501」の名前が書かれている。
お胸の前に本を抱えるようなポーズなのでそのままでは判らないが、中破絵を見る限り、イクさんにも負けない立派なものをお持ちのようである。まぁ、はっちゃんは話し方が大変知的で割と大人びてるせいか、イクさんのような変なタグを付けられることはなさそうだが。
あと、特徴として、セリフにやたらとドイツ語が混じる。同じようにロシア語が混じる「響」は、後にソ連に賠償艦として引き渡されたという史実からだが、はっちゃんのドイツ語は、史実の項にあるとおりドイツへの旅を成功させた唯一の潜水艦というところから来ていると思われる。はっちゃんが本好きなのも、ここから来ている?
余談だが、伊8は、非常に、ゆったりとした、喋り方を、する。その口調は、戦場カメラマンの、渡部陽一を、髣髴させる、かも、しれない。
他の巡潜型潜水艦娘と同様に、Lv50で潜水空母に改造できる。イムヤェ……
伊8の実装以来4年以上音沙汰がなかったが、2017年12月22日のオンメンテナンスにてクリスマス限定グラフィックが実装された。ショボン氏が担当した艦娘の限定グラフィックがゲーム内に実装されたのはこれが初めてであった。
運営と関係が切れてしまっていたのではないかとまで噂されていた為、提督らはこれに歓喜・安堵し、さらなるショボン担当艦の限定グラフィックを期待したが、再び数年間放置されることになっている。
巡潜3型潜水艦は、日本帝国海軍の巡潜型としては初の純国産潜水艦である(今まではドイツ人技師が製作したU142型潜水艦を手本に建造していた)。潜水艦隊の旗艦として設計されたため通信機能と居住性が強化され、1万馬力の機関により海大型に匹敵する水上速力23ノットを獲得した。さらに水上偵察機1機の搭載も可能であった。
装備面でも手直しが施され、上部円筒部には53センチ魚雷発射管2門が、下部円筒部には魚雷発射管が4門装備され、合わせて6発もの魚雷が一度に発射可能となっている。その代わり後部の魚雷発射管は廃止された。搭載できる魚雷は全部で20発。そして日本の潜水艦では初めて40口径11式14センチ連装平射砲が搭載された。従来の潜水艦に搭載されていたのはどれも単装砲であり、連装砲を搭載したのは伊8が初である。しかし以降の潜水艦ではまた単装砲へと戻された。機銃は93式12ミリ連装機銃2丁を装備し、それぞれ司令塔前部と後部に備え付けられた。その後、ドイツからの贈り物で20ミリ4連装対空機銃も加えられ、潜水艦としては破格の火力を有するようになった。
上甲板の司令塔も大型化され、前部が天蓋付きの艦橋、後部が見張所兼測距所となっている。
その巡潜3型潜水艦2番艦として、「伊8」は1938年12月5日(15日の説もあり)、川崎造船所で竣工。以後、横須賀鎮守府に籍を置くことになる。姉に1番艦「伊7」がいたが、1943年6月の第一次キスカ島撤退作戦の過程で喪失。先立たされた。
1941年11月11日、開戦の気運が高まる中、潜水母艦「大鯨」より将旗を移掲し第六艦隊第三潜水戦隊の旗艦となった伊8は大分県佐伯湾を出航。真珠湾攻撃を支援すべく、外洋に出る。途中、補給のため20日にクェゼリンへ寄港した。クェゼリンに到達するまで乗組員にはハワイ作戦の事は伝えられておらず、ここでようやく作戦の意図が伝えられた。これにより乗組員の士気は大いに盛り上がったという。
指揮下の伊71と伊73にはラハイナ泊地の偵察、伊74にはニイハウ島付近で不時着した味方機の回収が命じられ、旗艦の伊8には担当海域の哨戒を命じられた。24日、伊8はクェゼリンを出港。真珠湾へと向かっていった。
1941年12月8日、大東亜戦争開戦。真珠湾攻撃の後詰めとしてオアフ島まで進出。真珠湾の近くに配備された第三潜水戦隊であったが、9日に僚艦(伊69)が防潜網に引っかかり、自爆まで考えるも寸前で奇跡的に脱出、伊70は敵情報告後に消息不明、伊68は爆雷攻撃を受けて損傷するなど指揮下の潜水艦に次々と損害が発生する。
そして第三潜水戦隊はジョンストン、パルミラ、キングマンリースに対し偵察および砲撃を行う。18日に帰還命令が下され、21日にクェゼリンへと到着。
その後の1942年1月、アメリカ西海岸の偵察任務や通商破壊を行うためクェゼリンを出撃。サンフランシスコ西方からシアトル付近まで遊弋したが会敵できず、3月に内地へ帰還した。1942年5月6日には、マーシャル諸島のルオット島(日本軍が占領していた)付近で浮上航行していた伊8は、哨戒中の千歳航空隊(味方機)に誤爆されて行動不能になり、呉まで修理に戻る羽目に。修理中、伊8は第六潜水戦隊へ編入される。
9月に修理を終えて呉を出航後は、南太平洋海戦の支援に当たった。10月20日、姉の伊7とともに甲潜水艦隊を編成し、ガダルカナル島の陸軍総攻撃に合わせて米軍の動静を監視した。そして米艦隊を追跡し雷撃を行ったが、重巡1隻に損傷を与えただけで撃沈には至らなかった。
その後、伊8はガダルカナル島へモグラ輸送(鼠輸送の潜水艦版)の任務に就き、12月26日にガダルカナル島へ物資21トンを揚陸している。モグラ輸送は1月末まで続けられたが、米軍の待ち伏せを受けるようになってからは損害が出るようになり中止となった。モグラ輸送を終えた伊8は南太平洋を偵察・砲撃任務であちこち動き回った。1943年1月23日にはガダルカナル島撤退作戦の支援をするため浮上、米軍の支配下に置かれていたカントン島を砲撃している。
そんな「伊8」の最大の見せ場となったのは、遣独潜水艦作戦の第二次遣独艦としての任務だった。
遣独潜水艦作戦というのは、字の通りドイツと潜水艦で物資のやりとりをしよう、という作戦である。折しも状況は独ソ戦の開戦によりシベリア鉄道経由が使えなくなり、さらに日米開戦によって海路も使用不能になったため、それじゃ潜水艦でやろうか、という無謀な作戦だった。
そのルートはというと、日本からマラッカ海峡を抜けてインド洋に出て、そこからアフリカを南回りで回って大西洋に出て、そこから北上してフランス(当時はドイツが占領中)の港に至る、というもの。
伊8が選ばれた理由は、元々伊8は潜水艦隊の旗艦を務める潜水艦として設計された大型艦だからであった。今回、伊8に与えられた任務はヒトラーが帝國海軍に無償譲渡するUボート2隻のうち、1隻(U1224)をドイツまで取りに行く事であった。(譲渡されたもう1隻の方のU511はドイツ海軍の手によって1943年7月に呉まで回航された)。
帝國海軍に引き渡されたU1224をドイツから日本まで回航するため回航要員を伊8に便乗させる事になったのだが、これは並みの大きさの潜水艦には狭すぎて不可能だった。大型艦の伊8も、魚雷発射管室に回航要員を乗せるスペースを作り、予備魚雷を降ろすなどの工事を呉工廠で行って、ようやく伊8乗員100人と回航要員約60人が乗れるようになった。他にも食糧や必需品が載せられ、艦内はぎゅうぎゅう詰めだったという。元々伊8の定員は80人であり、倍の160人が乗れば鮨詰めは不可避であった。
ドイツ側からは、コードネームとしてフレッツィアの名で呼ばれた。
当初は潜水母艦日枝丸から補給を受ける予定だったが、発見される危険性を鑑み伊10からの補給となった。潜水艦同士の補給作業は前例が無かったため事前に訓練が行われた。
また通信長が行った打ち合わせで、ケープタウンまでは東京からシンガポール経由で通信を行い、大西洋からはドイツ海軍本部電信所と直接通信する事が決定。
譲渡したU511とU1224を手本に、通商破壊に特化した潜水艦を量産して欲しかったヒトラーであったが日本の工業力では量産できないうえ、鋼材も足りず、魚雷の寸法も合わない事から単なる研究の材料にしかならなかった。
「伊8」は1943年6月1日、ドイツから無償譲渡され帝國海軍籍となったU1224こと「呂第501潜水艦」の回航要員と薬品キニーネを搭載して呉を出航。佐伯湾に仮泊した後、ペナンに向かうはずだったがメインタンク破損という事故に見舞われ、急遽シンガポールへ寄港する事に。そこで船体の整備を行い、22日出港。続いて6月24日にペナンへ入港。実は、この時まで伊8乗員はドイツに行く事を知らされておらず、ペナン到着後に内野艦長から説明があった。
伊8の艦内は乗員100人とU1224の回航要員60人でごった返していた。少しでも人数を減らすべく航空機のパイロット数名をペナンで降ろした。代わりにドイツへの土産として生ゴムや錫などの南方産の資源を搭載。そしてマラッカ海峡を通り、日本と敵勢力圏の境目であるインド洋へ進出。通商破壊のためインド洋に展開していた伊10より2回洋上補給を受ける。伊10と別れた翌日、悲劇が起きる。乗員の上等水兵が熱帯性マラリアに罹患して高熱を出し、同乗していた軍医3人の尽力もむなしく死亡してしまったのだ。7月8日、上等水兵の死体は水葬された。
伊8は西進を続け、喜望峰を回って北上を開始する。喜望峰周辺は一年中天候が荒れている難所であり、伊8は暴風雨の中を航行した。激しい波に何度も打ち付けられたため、艦内では故障が相次ぎ、上構側板が波にさらわれて流失するという事故まで発生したが応急修理により持ちこたえた。また付近にはイギリス軍の哨戒線があり、ドイツ側から「少なくとも哨戒圏から500キロ離れて迂回せよ」との助言があった。伊8はこの助言に従って大きく迂回、無事にイギリスの目から逃れた。7月18日から21日にかけて伊8は暴風圏を航行。あまりの揺れに、さすがの乗組員も気持ち悪くなったようだ。
苦難の旅路を進む伊8は、大西洋に辿り着く。ここまで来ると最早波は穏やかだった。この間に伊8は故障箇所を修理した。しかし在独海軍武官から、大西洋ではイギリス軍が厳戒態勢を敷いているとの通信が入る。
7月24日、ドイツ側との連絡が取れるようになった。2日後、伊8は大西洋の敵情をドイツに通報。
8月1日に当初の予定通りUボートと会合する事になったのだが、ドイツ側の準備の遅れで20日に延期された。これには伊8の乗員も肩を落としてガッカリした。同時に入港先をロリアンからブレストに変更するようドイツ側から要請を受けた。この変更はイギリス軍に感付かれたからであった。
8月20日、今度は予定通りにアゾレス諸島西方でU161と会合。レーダー逆探知装置を受け取り、連絡将校ヤーン少尉と操作員2人が伊8に移乗した。伊8の内野艦長は、お礼にコーヒーが入った一斗缶をU161に贈る。ドイツ国内でコーヒーが不足していたドイツ人はこの贈り物に大層喜び、U161艦長から感謝状を賜ったそうな。
ヨーロッパ大陸に近づくにつれ、連合国軍の哨戒が厳しくなってきたがU161から貰った逆探知装置のおかげで見つかる事無く航行できた。伊8にも同じような逆探知装置が搭載されていたが、ドイツ製のと比べて大きく劣った性能だったため、内野艦長は「こんな劣悪な装置をドイツ関係者に見られたら日本の恥」と考えて、密かに解体、隠してしまった。
8月30日、ドイツから伊8を護衛する部隊が送られ、ビスケイ湾で合流する事が決まった。護衛の最新鋭魚雷艇3隻との合流を果たし、彼らに守られながらブレスト軍港を目指す。途中でドイツ空軍も護衛に加わり、翌日の31日、ついに旅の終着点フランス・ブレスト軍港に到着。Uボートブンカーの上に立った市民たちが一斉に手を振り、ドイツ海軍の軍楽隊からラッパで君が代とドイツの歌が奏でられた。暖かな歓迎に、伊8甲板上で整列する乗組員たちは涙を禁じえなかった。伊8の乗員は内野艦長に導かれて乗りこんできた西部管区海軍長官クランケ提督の閲兵を受け、祝辞を受けた。他にも駐独海軍武官の横井少将や在独日本海軍代表委員の阿部中佐などドイツ駐在の日本人も出迎えてくれた。呉出航から実に66日間が経過していた。その間、一切入浴および洗濯が出来なかった乗員の下着は、醤油が染みたような色になっていたという。誰もが青ざめた顔色をしており、ずっと洗髪も出来なかったので激しい痒みに耐えられず掻き毟る者も多かった。内野艦長の答辞が終わった後、彼らは祝宴に参加した。
伊8の修理と物資の積載が済むまでの間、乗員に休息が与えられた。数日間パリで宿泊した者もいれば、陸路でベルリンを訪問した者、中には有名なデーニッツ提督と面会した者もいた。一緒に運んできた回航員もパリを見物し、束の間の休息を楽しんだ。しかしその間にも戦局は悪化し、伊8訪独中にイタリアが降伏している。
伊8はブレスト軍港で長旅のダメージを修復。艦橋後方にドイツ製20ミリ4連装機銃を載せ、ドイツからの贈り物である爆撃照準機、電波探信儀、電波探知機、魚雷艇用主機など56種類もの物品を搭載した。去年に訪独した伊30の時は乗組員一人一人に餞別が贈られたが、今回はワイン一箱だけであった。
10月5日、潜行試験を装ってブレスト港を出港。任務を終えて帰国する在独海軍武官藤井少将以下10人と、ドイツ軍人4人が便乗した。26日に赤道を南下。途中で偵察機に発見され爆弾を投下される危機に見舞われたが、かろうじて回避し振り切った。帰路は追い風だったため航海は順調に進み、難所の喜望峰も往路より楽に突破できた。インド洋に入り、シンガポールを目指している伊8に大本営から通信が入る。内容は「11月13日、伊34がペナン沖で敵潜に撃沈されたためマラッカ海峡通過の際は十分注意せよ」というものだった。これを受けて伊8はスンダ海峡に迂回する航路を取り、無事12月5日にシンガポールへ到着。ここで便乗者は降り、空路で日本を目指した。12月21日、呉に帰港した。
ちなみにU1224改め呂第501潜水艦は伊8が運んできた回航要員60人により、1944年2月にキール軍港を出航。呉を目指したが、途中で米海軍駆逐艦の新兵器「ヘッジホッグ」(多数の爆雷を海中に投じ、一個でも反応・起爆したら残りの爆雷も連鎖的に爆発する新型爆雷)を受け撃沈。日本にたどり着くことは無かった。
遣独潜水艦作戦は、合計5回行われたが、完全に往復に成功したのはこの第2次の「伊8」ただ一度だけで、残りの4回のうち2回は往路で、2回は復路で沈んでいる[1]。
このとき、図鑑で本人が言っているようにドイツからUボート「U1224」を貰っている。というか、より正確に言うと、このUボートを回航するための日本人乗組員をドイツまで届けることが、「伊8」の目的の一つである。
また、本人の台詞「持ち帰った、20mm連装機銃が火を噴くわ」にある"2cm Flakvierling38"(20ミリ4連装対空機銃/現在艦これには未登場)も、このときにドイツからプレゼントとして「伊8」の後甲板に装備してもらった。
余談ながら、このとき必殺の酸素魚雷もドイツに渡したのだが、ドイツの方では興味を示さなかったという[2]。
伊8がドイツから持ち帰った品々は、ただちに呉軍港へと揚陸された。積載していた56種類の物品のうち、帝國海軍が興味を示したのはダイムラーベンツ社製魚雷艇用高速エンジンMB-501であった。このエンジンは三菱工業丸子工場に運び込まれ、解体と同時に徹底調査された。その結果、日本の技術力では到底複製が出来ないと判断され、ドイツの技術力の高さに驚かされるとともに、歴然とした技術格差に愕然したという。
その後、年が変わって1944年。「伊8」はインド洋での通商破壊作戦に従事するべく、2月21日に呉を出港。3月上旬にペナンへ進出する。インド洋にて商船4隻(26,949トン)を撃沈する。この通商破壊作戦中、伊8の有泉艦長は撃沈したアメリカ商船ジーン・ニコレットの乗組員を銃撃・殺傷するという国際法に違反する行為を2度に渡って行った。これにより戦後、伊8の元艦長3人が軍事裁判に掛けられてしまう。
※乗組員の殺傷についてはドイツ側から「人的被害を狙ってほしい」という要請があった事と、その要請を受け入れた海軍上層部から殺傷の命令が伊8に下っていた事が米国の弁護士によって判明。国際法違反事件当時の艦長だった有泉龍之助大佐は終戦後横須賀へ帰投中の8月29日に米潜水艦セグンドに拿捕された際伊401艦内で自決しており、責任を負う人物が不在という事で、国際法違反という重罪にも関わらず処刑された者は一人もいなかった。また有泉艦長自身は陛下からお預かりした赤子である兵卒達にこのような不名誉な行いをさせられるかと要請に反対していたと当時の副官が戦後の軍事裁判に於いて証言している。
通商破壊を終えた伊8は8月9日に横須賀に帰投し、修理を受ける。
1945年3月、アメリカ軍は沖縄へと侵攻。18日、電令作第四十七号が発せられ、大分県佐伯湾に駐留していた呂号潜水艦3隻(呂41、呂49、呂51)と伊8で甲潜水部隊を編成。呂号潜水艦は同日中に出撃したが、伊8は潜望鏡の故障で遅れて20日に佐伯港から出撃。当初は九州南部の海域に配備され、米機動部隊の攻撃を命じられたが戦果は無かった。そこで次に甲潜水部隊は南西諸島南東へ向かうよう命令が下された。
しかし伊8は3月28日の報告を最後に消息を絶った。
その最後は、アメリカ軍の資料等で後に明らかになる。
3月30日の深夜、米駆逐艦「ストックトン」は、アメリカ軍の集合予定地点に艦影をレーダーで捕らえ、無線で話し掛けたが応答が無かった。その場に急行した「ストックトン」が見たのは、急速潜行しようとしていた潜水艦の姿だった。
直ちに「ストックトン」は爆雷攻撃を開始、さらに後から加わった駆逐艦「モリソン」と共に猛攻を加えた。
爆雷で損傷した潜水艦は、潜行を続けられずに浮上。それが「ストックトン」の800m後方と余りに至近距離だったため、「モリソン」は水平砲撃という、およそ潜水艦攻撃には使わない方法まで使っている。
こうして、駆逐艦2隻がかりの猛攻を受け続け、潜水艦の船体には命中弾で穴が開き、全甲板ははぎ取られ、艦橋は爆発によって粉砕されるという凄絶な姿となり、ついに3月31日の午前4時過ぎに艦尾から沈没。生存者は機銃砲要員として甲板上にいたため生き残り、米軍の捕虜となった1名を除き、128名が戦死した。
その捕虜も、尋問で艦名を聞かれると、「貴様の艦が沈められたとして、貴様は自分の艦名を公言するのか」と返答し、それ以上何も答えなかったため、その潜水艦が「伊8」であると確認されたのは、戦後になって日本側の記録と付き合わせるまで判らなかった。
ちなみに甲潜水部隊はいずれも戦没しており、全滅。
1945年8月10日、除籍。
2013年 秋イベント「決戦!鉄底海峡を抜けて!」 新規実装艦娘 |
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最終更新:2024/11/08(金) 20:00
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