韓国併合とは日本史、韓国史において韓国を日本の統治下においたこと。日韓併合、朝鮮併合ともいう。
概要
1910年に日本の寺内正毅と大韓帝国(当時)の李完用との間で条約が締結され、1945年まで統治が続いた。併合したことで大韓帝国の国民である朝鮮人たちは全て大日本帝国の支配下である日本人ということになり、国外向けには朝鮮民族の日本人という扱いで国内ではもっぱら朝鮮人として扱われた。
併合に至った背景
日清戦争で日本が当時の中国である清から獲得した遼東半島の権利がフランス、ドイツ、ロシアの三国干渉によって放棄させられ、その後の義和団事件でロシアが中国東北部、当時の満州に居座り、当時の大韓帝国と積極的に外交をして近代化を支援するようになり、大韓帝国とロシアの関係が緊密になっていくことに日本は危機感を覚えた。日清戦争では下関条約で清に対し朝鮮の独立を認めるように定めており、当時の李氏朝鮮は大韓帝国と名を変えて独立国となったが、その大韓帝国が日本の思うようにならなかったのと、ロシアの台頭から大韓帝国がロシア側についてしまうことを防ぐために、いっそのこと大韓帝国を日本領にしてしまおうという考えが強まった。
併合への流れ
韓国併合までの流れは日露戦争前のロシアとの外交交渉まで遡ることになる。もともと朝鮮半島がロシアの南下政策での目標になったのと、日本は明治時代初期から朝鮮半島を侵略しようという考えがあって、当時の主流であった帝国主義における日本とロシア両国の対立が発端なのである。
明治6年政変~西南戦争
日本が朝鮮を侵略する構想は当初は征韓論と呼ばれ、板垣退助が西郷隆盛に話を持ち掛けたのが最初である。板垣退助と言えば自由民権運動の白髭の優しそうな爺さんのイメージだが、実は幕末の戊辰戦争から明治初期まではバリバリの武闘派だったのである(;´Д`)
明治新政府内でも朝鮮は侵略する考えは参議の間で少なからずあったが、侵略する時期を巡って明治新政府内で大揉めになり、その対立から政府内が真っ二つに割れたほどで明治6年政変と呼ばれる。結局、明治6年の段階では日本の国力はあまりにも脆弱で、しかも当時は戊辰戦争直後で明治政府は極度の財政難に陥っていて朝鮮半島を侵略する余裕など無かったことから征韓論はいったんは政府内で成立しながらも、岩倉具視や大久保利通らのロビー工作によって明治天皇への働きかけで全部ひっくり返されてしまい、それに失望した西郷隆盛や江藤新平、副島種臣、板垣退助は明治政府を去り、江藤新平と西郷隆盛は士族の反乱を起こしてしまうほどの大問題になった。
日清戦争後
しかし日清戦争で日本が清に勝つと国内では大日本帝国の発展と隆盛で大いに沸きかえり、政府内でも欧米列強に追いつけ追い越せの掛け声で対外政策を大幅に転換して積極的に中国大陸に打って出ようと考えるようになる。そこで当時は南下政策で中国東北部の満州と朝鮮半島に目をつけていたロシアと利害がぶつかり、両国は満州と朝鮮の扱いを巡って急速に対立することになる。
当初は伊藤博文や井上馨は粘り強くロシアと交渉して満州をロシア、朝鮮半島を日本で切り分けて植民地にする日露協商を考えていたが、小村寿太郎や山県有朋、大隈重信、桂太郎らが交渉が難航する日露協商の干渉に先んじて日英同盟を成立させ、ロシアはこの動きに急速に硬化して日露協商は頓挫、日本とロシアの衝突は避けられない形になる。
この当時の朝鮮は大韓帝国となっていたが、独立国とはいっても弱小国で近代化途上にあり、半ば日本とロシアの駆け引きに揺り動かされる立場であった。大韓帝国になる前から朝鮮は日本から日米通商修好条約と同じ内容で関税自主権が無く治外法権を強いられる不平等条約を結ばされて日本に嫌悪感を抱いており、一方で親交的でふんだんに近代化支援をしてくれたロシアには次第に友好的になって行っていた。大韓帝国としてはより国益になる方の味方に就くのが唯一にして最大の外交戦略であったが、この2大強者の決着がついてしまえば話は別であり、非常にもろい状況で国力を伸ばしていくしかないのが実情であった。
日露戦争後
日露戦争で日本がロシアに勝つと日本は大韓帝国を日本のものにしようと急速に働きかけを強めて行った。ポーツマス条約で日本とロシアの間でかわした取り決めではあくまで『大韓帝国の指導権』であり主権は侵害しないはずであったが、日本は指導権という言葉を意図的に拡大解釈して事実上の植民地化を図る外交工作を繰り広げていく。この行動はポーツマス条約の取り決めをホゴにしたも同然であり、このことで日露交渉に尽力したアメリカのセオドア・ルーズベルト大統領は日本のアジア侵略と見なして不信感を持ち始め、ロシアをはじめ中国を分割して植民地化していたイギリス、フランス、ドイツも日本の進出に警戒心を持ち始める。帝国主義の国際情勢では仕方がないことであるが、これが欧米列強との対立の始まりなのである。
第1次日韓協約
まず1904年に第1次日韓協約が取り交わされ、これで日本は韓国に対する政治顧問権を獲得、大韓帝国の政治中枢に大日本帝国が派遣する役人が顧問になり、実質的に大韓帝国の政治を大日本帝国の都合が良いように牛耳るようになる。もっともこのころは日露戦争中で日本がロシアに負ければホゴになる協約であった。
第2次日韓協約
日本が日露戦争に勝ってポーツマス条約で指導権を得たことで本格的な干渉が始まった。
今回の協約で大韓帝国は大日本帝国の承認なしで外国との条約や協定を結べなくなった。つまり国の主権である外交権が日本のものとなり外交における独立を日本に奪われたことになる。
次に大韓帝国内に大日本帝国の統監府を置いて韓国の政治を日本が監督する体制を作ることになった。これで韓国は政治を日本の監督下に置かれることになり、実質的な日本の間接統治ということになる。
この協約は韓国にしてみれば日本に国を奪われるのも同然である。ただでさえ日清戦争と日露戦争で日本軍に乗り込まれて戦場になって散々に国土を荒らされた経緯もあることから大韓帝国では反日感情が高まっており、韓国は国民の排日運動が起きて韓国政府も抵抗した。しかし日本側は特使の伊藤博文が日本軍を大量動員して韓国政府の宮殿を日本軍で包囲して周辺を武力鎮圧するという強引な手法で強制的に協約を結ばせた。漢城の宮廷内は日本軍に完全に占領され、日本軍に取り囲まれたなかでの異常な雰囲気のなかでの調印となり、調印した5人の閣僚のうちの1人は拒否して閣僚を辞職すると申し出たが、伊藤博文は拒むなら殺すと脅したため、泣く泣く調印を行った。(この第2次日韓協約で調印した韓国政府の5人の閣僚は韓国では売国奴となっている。)
ハーグ密使事件
第2次日韓協約で日本に完全な敵意を持った韓国は1907年にオランダのハーグで行われていた平和式典に秘密裏に外交官を送り、日本の強引極まりないやり方で行われた第2次日韓協約の不当性を訴えた訴状を送った。結果的にはポーツマス条約の大韓帝国の指導権の扱いで大日本帝国の言い分を欧米列強が認めたため、この大韓帝国の望みは打ち砕かれた。世界史に残る有名なハーグ密使事件である。
第3次日韓協約
この大韓帝国の抵抗に激怒した伊藤博文は統監府の日本軍を動員して韓国政府のある漢城に乗り込み、大韓帝国の皇帝の退位を要求し、拒むなら日本が韓国に宣戦布告すると迫った。この1件で大韓帝国は皇帝が退位、当時の大韓帝国の皇帝である高宗帝は退位し、息子に皇位を譲った。
伊藤博文は皇帝が退位すると即座に第3次日韓協約を結ばせ、大韓帝国軍を解散させた。これで外交権も軍隊も失ったことで韓国は完全に主権を失い、もはや名ばかりの帝国でしかなくなってしまった。一方の日本は韓国の保護国化を完全なものとし、伊藤博文が当初から主張していた大韓帝国の保護国化が実現した。
義兵闘争
第3次日韓協約で軍を解体された大韓帝国軍は日本の度重なる横暴に激怒し、解体された韓国軍のメンバーに日本の侵略に対して立ち上がった韓国の民衆らと結託して韓国義兵軍を結成した。
日本統監府は日本政府に軍の派遣を要請し、本土から日本軍を大量に動員して鎮圧を行い、3ヶ月にわたる大規模戦闘が行われると義兵闘争は朝鮮半島全土に広がり、国家規模での闘争が行われる。この義兵闘争は1910年まで2年半続き、この闘争で韓国人は1万7千人が殺され3万7千人が負傷した。日本では戦後まで闘争の事実は伏せられ、政府指導の下で韓国賛同のうえで円滑に保護国化が行われたと報道したため戦後まで韓国が日本に抵抗し続けたことは知らず、当時の韓国人が併合を喜んだと勘違いしている人が少なくない。
保護国から併合へ
大韓帝国の保護国化が完全なものになると、もう韓国は日本に併合して日本にしてしまおうという考えが急速に強まる。特に日露戦争で主導的な役割を果たした山県有朋、桂太郎、寺内正毅らは韓国を併合して日本の一部にすることで朝鮮の植民地化を完全なものにしようと考えた。
一方の伊藤博文は保護国化が終わって大韓帝国が名ばかりの保護国になった以上は併合は必要ないという考えであった。併合して日本領にしてしまうことでポーツマス条約を完全に踏みにじってしまい欧米列強への反発が強まることを恐れたことが実情である。最後まで伊藤博文は韓国の併合に反対だったのだが、中国東北部の南満州鉄道のハルビン駅で韓国義勇兵のメンバーであった安重根が汽車から降りた伊藤博文を狙撃した。銃弾は3発が命中し伊藤博文はまもなく息絶えて死亡。伊藤博文は死ぬ間際、自分を撃ったのが朝鮮人と知り「バカなやつだ」と嘯いたという。
この伊藤博文の死で日本政府は韓国の併合へと一気に傾き、もはや名ばかりとなっていた大韓帝国も併合に賛同、日韓併合条約が結ばれて大韓帝国は大日本帝国に編入されて併合が完了した。この併合が欧米列強を刺激しないように日本はアメリカと協定して韓国支配の承認の見返りにフィリピン支配を承認、イギリスには第2次日英同盟でイギリスのインド支配を承認する引き換えに韓国支配を承認させているため、大韓帝国の併合はスンナリと行われた。
この韓国併合で日本政府は漢城を京城と改め、日本総督府を置いた。総督府は日本軍の陸海軍大将が就任することになり、初代総督は韓国併合に大きく働きかけた寺内正毅が就任した。寺内は韓国併合がかなった喜びもあって次のような短歌を謡っている。
『小早川 加藤小西が 世にあらば 今宵の月を いかに見るらむ』
訳)小早川秀秋、加藤清正、小西行長が今の時代に生きていたなら、今宵の月を見てどう思うだろう。
この3人は豊臣秀吉が行った朝鮮出兵の主力メンバーで、結果的に朝鮮征伐に失敗して帰国している。そのことを踏まえて日本の朝鮮植民地化を大いに喜び誇っていたことになる。
政策
朝鮮総督府はまず、当時奴隷身分であった白丁の解放を行い、日本と同じ平民とした。姓を名乗らせ学校に行けるようにした。また学校制度を整備し学校の数を併合前の40倍に増やした。言語教育も行なわれた。当時、ハングル文字も大して普及しておらず漢文漢字に比べて劣る扱いを受けていたが、ハングル文字による教育で識字率を大きく伸ばした。また、インフラも整備し併合以前は遅れた国家だった韓国を発展させていった。
このように韓国併合後の朝鮮は目覚ましい発展を遂げて人口は倍増して住民の平均寿命も伸びたのは事実であるが、これは朝鮮を日本化させて併合を既成事実にするための政策であり、こういった植民地への莫大な投資はイギリス、フランス、アメリカ、ロシア、ドイツも行っていることで、こうやって植民地宗主国の投資によって発展させることで住民を満足させて反乱を防ぎ、反乱に乗じた他国からの介入を防ぐ植民地の囲い込みが目的であった。現に朝鮮総督府の指導方法はイギリスの英領インド政策が参考である。
これらの日本からの莫大な投資は朝鮮に植民した日本人のためのものであり、実際に朝鮮では義務教育は日本出身者にしか適用されず、朝鮮で創立した学校は日本人用と朝鮮人用で区別され、日本の義務教育制度も、日本人にのみ適用された。朝鮮人は朝鮮学校に行って学習することになり、成績優秀な者が日本学校への入校を許されたり、本土の学校への留学を許可される形で、日本人と朝鮮人は併合して同じ大日本帝国の国民でありながら区別されたものであった。この区別が無くなるのは皇民化教育が行われる日中戦争の時代からである。
在日韓国人と在満韓国人
韓国が日本に併合されると日本総督府は韓国人から税金を取るため日本同様の地租改正を行った。韓国にある農地の持ち主をハッキリさせることで農民から漏れることなく税金を取るために、農地の所有者や耕作者を誰であるか、韓国人に申告させて税を取るのである。もちろん明治初期の地租改正と同様に地価は政府側が勝手に決めるため地価は高く設定されて高い税を納めさせられることになる。
しかし義兵闘争などを通じて極度に反日感情が高まっていた韓国人は申請をボイコットして日本政府の土地政策には応じなかった。このため日本政府は申告が無かった土地を全て政府の国有地としたため、韓国の農地のうち10%あまりが日本の国有地になり、本土からやってきた日本人に払い下げられて結局は農民の財産であった農地は奪われてしまった。
農地を失った韓国の農民たちは日本人による朝鮮支配を嫌って朝鮮を脱出して中国東北部の満州に移り住んで農業を始めたり、三井をはじめとする日本の財閥がやってきて炭鉱労働者を募集した際に財閥の甘い誘いに乗って日本に渡ったりした。満州に渡った韓国人は現地の中国人と農地や利水を巡って争うようになり、後の満州事変の引き金になる。一方の日本に渡った韓国人は九州や北海道の炭鉱で現地の日本人労働者と共に炭鉱労働に従事することになる。炭鉱労働はタコ部屋もいいところで労働条件は極めて劣悪で炭鉱労働者は自暴自棄になって博打やケンカが絶えず、たびたび炭鉱の所有者に対して反乱を起こすほど荒れた労働環境であったが、韓国人は朝鮮半島での労働がよほど過酷だったのか、こんな環境でも耐えて真面目に働き日本人の炭鉱労働者を驚かせた。次第に炭鉱での韓国人への差別は無くなっていき、韓国人は日本の環境に適応して馴染んでいき、後の北九州の在日韓国人の先祖になった。
併合の評価
韓国では日韓併合を日本による侵略だったとみなす声も大きいがそもそも韓国がまともに自立できる国であれば併合されなかったし、合併も当時韓国側から持ちかけられたこともあり、日本を責めるのも変な話であると言える。一部の旧近鉄ファンが近鉄側が自滅し合併を持ちかけたのにもかかわらずオリックスや宮内オーナーを逆恨みしてるようなもんですね。
しかし韓国側の立場に立ってみれば韓国併合で大韓帝国の名は消滅して世界地図からも消えてしまい、国旗も失って国民は日本人とされて朝鮮民族と名乗れなくなって日本民族に吸収され、最終的には民族そのものが消えてしまうのである。
日本が中国の一省になり日本は中華人民共和国日本省となり、日本は世界地図から消えて日の丸の国旗も無くなり、我々日本国民は日本人を名乗れなくなり中国人として生きていくことになる。しかし中国は日本人を中国化させるため、日本に対して莫大な投資を行いインフラを整備して教育を拡充し、貧困層への手厚い支援を行って日本人をより豊かにした。中国による日本併合で日本人は幸せになったのである。
このような中国による日本併合が行われて日本人が喜ぶかは甚だ疑問である(´・ω・`)
一進会
日本が韓国併合を目指して大韓帝国への干渉を始めると、大韓帝国の朝鮮人は日本の侵略と見なして急速に反日世論が高まり、第2次日韓協約で日本軍が派遣されたときにはソウルで激しい反日暴動が起きた。
そんななかで日本の保護国化に賛同して親日を示していた団体があった。一新会という政治結社である。
「日本は日清戦争で莫大な費用と多数の人命を費やし韓国を独立させてくれた。また日露戦争では日本の損害は甲午の二十倍を出しながらも、韓国がロシアの口に飲み込まれる肉になるのを助け、東洋全体の平和を維持した。韓国はこれに感謝もせず、あちこちの国にすがり、外交権が奪われ、保護条約に至ったのは、我々が招いたのである。第三次日韓協約(丁未条約)、ハーグ密使事件も我々が招いたのである。今後どのような危険が訪れるかも分からないが、これも我々が招いたことである。我が国の皇帝陛下と日本天皇陛下に懇願し、朝鮮人も日本人と同じ一等国民の待遇を享受して、政府と社会を発展させようではないか」 「一進会の声明」より
一進会とは第2次日韓協約で日本統監府が置かれた際に韓国で誕生した政治結社で、日本の政治介入を賛同して日本の支援で朝鮮は発展すると謳った親日政治団体である。もちろんこの団体の裏には日本統監府と日本軍がバックについており、当時は韓国内は民衆を中心に反日感情に沸きかえっていて何度も暴動や闘争が起きていたにもかかわらず、一進会は韓国人から大して襲撃もされずに統監府からも干渉を受けていない。
しかし日本の保護国化に大いに貢献したにもかかわらず、韓国併合が完了すると一進会は日本総督府によって解散命令を出されて解散させられてしまう。要は韓国併合までの宣伝部長として利用されていただけだったのである。
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