伊30単語


ニコニコ動画で伊30の動画を見に行く
イサンジュウ
1.5万文字の記事
  • 1
  • 0pt
掲示板へ

伊30とは、大東亜戦争中に大日本帝國海軍が建造・運用した巡潜11番艦である。1942年2月28日工。遣独潜水艦作戦の第一次訪独艦としてヨーロッパした。10月13日シンガポールで触雷沈没

概要

巡潜とは、大日本帝國海軍の一等潜水艦である。

1936年ロンドン海軍軍縮条約から脱退した日本は、巡潜三ベース戦隊旗艦用の巡潜甲量産型の巡潜の二本柱で潜水艦戦力の拡充を図った。巡潜は甲から旗艦設備を撤去しつつ、若干の簡略化・小化を施して生産性を高め、また広い太平洋上で侵攻してくるアメリカ艦隊を捕捉するため、長大な航続距離水上機運用力を持つ。故に通商破壊航空偵察、輸送任務など多種多様な任務に従事する事が可だった。

ただし、甲より小化した弊魚雷搭載本数が18本から17本に減少、甲が持っていた九三式水中聴音機と九三式水中探信儀は装備しておらず、25mm連装機も1基のみに減らされている。更に量産型と言えど、完成させるには2年以上の時間が必要であり、戦時急造に向かないので戦争中期からは簡略化が進んだ巡潜改一、改二改へとバトンタッチしていく事となる。

それでも帝國海軍潜水艦最多の20隻が工、計画では32隻まで生産される予定だった。潜水艦が挙げた戦果のうち44は巡潜が占めている功労者の系でもある。

排水量2198トン、全長108.7m、全幅9.3m、喫5.14m、速力23.6ノット(水上)/8ノット(水中)、重774トン、乗員94名、安全潜航深度100m。兵装は95式魚雷17本、53cm魚雷発射管6門、40口径14cm単装1門、25mm連装機2基、零式偵察機1機。

艦歴

たゆたう深海の使者

1939年に策定された第四次海軍軍備充実計画(通称マル四計画)において、一等潜水艦143号艦の仮称で建造が決定。1419万円の建造予算が割り当てられる。

1939年6月7日35の名で海軍にて起工、1940年9月17日進水式を迎え、1941年10月31日装員長として河野少佐が着任、それから間もない11月1日伊30へ改名する。大東亜戦争戦後1942年2月5日装員事務所を設置して事務作業を開始、完成が間近に迫った2月25日に乗組員を配置し、そして2月28日工を果たした。初代艦長には遠藤中佐が着任。

工と同時にを出発し、瀬戸内海西部にて補給訓練や慣熟訓練に従事。1942年3月2日、短い訓練期間を終えてに入港、さっそく出撃するための準備を始める。3月10日姉妹伊29とともに第14潜隊を編成。

3月11日18時30分、本州東方に出現した機動部隊を索敵すべく、準備出来次第出撃を命じられ、翌12日に僚艦3隻とを出撃。東経160度線のL散開線まで進出するよう下される。3月16日、L散開線に到着して索敵を行うも機動部隊を発見出来ず、3月18日午前6時、帰投命が下って3月20日へと入港。次期作戦に備えて補給と整備を受ける。

3月27日ベルリンドイツ海軍部は帝國海軍インド洋での通商破壊作戦実施を要請。これを受けて3月31日、第14潜隊は伊10(旗艦)、伊1618、20、特設巡洋艦丸、愛国丸からなる甲先遣支隊(第8潜戦隊)に編入。水上偵察機を持つ伊30と伊10は先行し、アフリカ連合軍基地を航空偵察。有力艦艇がいた場合は伊1618、20の3隻がその港湾に甲標的攻撃を仕掛ける手はずとなっていた。

4月6日大海77号により伊30は初の訪独潜水艦定され、暗号モミを与えられて単身ヨーロッパへ赴く事が決まる。去る1940年ドイツで行われた技術調で、射撃レーダーウルブルクの性の当たりにした日本側は驚愕しており、そのウルブルクの情報を入手するのが今回の訪独の的だった。

作戦実行にあたり、軍潜水艦担当部の井祥二中佐ドイツ海軍電報で打ち合わせ、受け入れ港をドイツ占領下フランスロリアンに定、ウルブルクの現物を譲渡してもらえるよう、ドイツ海軍エーリッヒレーダー提督に根回しを行い、また伊30が到着するまでの間、フランス駐在の鈴木海軍技官がレーダー学校ウルブルクの技術を学ぶ事となった。これに伴い、遠藤艦長は密かに軍部に呼び出され、ロリアンまでの航行方法について詳細な説明を受けている。

停泊中、伊30の艦内に特殊な積み荷が大量に搬入される。いずれも厳重に密封されていて如何に重要な貨物であるかを静かに物語っていた。これら積み荷の正体を知っているのは遠藤艦長だけだった。4月10日に伊30はを出港し、4月20日インド洋を臨むペナン基地へと進出する。

アフリカ東岸での作戦行動

4月22日未明、ペナンを出撃。もやが掛かるスマトを左舷方向に見ながらベンガル湾方面へ進んでいく。やがて艦後方のマレー半島の陸地が線の向こう側にした。

インド洋を西進する伊30。これからアフリカ東海作戦を行うのだが、その作戦には関係と思われるの積み荷の存在が、艦内の空気を奇妙なものにしていた。またインドからアフリカに渡る図だけでなく、何故か喜望峰、アフリカ西フランス沿を網羅した大西洋方面の図も積み込まれており、乗組員たちの疑問は深まるばかりであった。

遠藤艦長は積み荷について固く口を閉ざしていたものの、これらの状況から、乗組員の間で「ドイツに赴くのではないか?」「厳重に密封された積み荷はドイツへ輸送する重要物資では?」といった噂が流れ始める。だがアフリカでの作戦が近づくにつれて乗組員の疑問は裏の片隅へと追いやられていった。

厳重警を行いながら進むも、機く、そこには大海原のうねりがあるだけだった。イギリス軍の拠点があるセイロン南方間潜航して大きく回し、4月30日アラビアまで進出。同日中電連絡が入り、後続の特設巡洋艦愛国丸、報丸、伊10を始めとする大潜水艦がペナンを出撃して、作戦域に向かった事を知る。

伊30は連合軍の基地を航空偵察するべく、潜航と浮上を繰り返しながらアデン湾方面に向かう。アラビア半島アフリカ大陸の間にあるアデン湾、そのに位置するアデン港はイギリス海軍の重要基地であり、有力艦艇の在泊が予想されていた。


5月6日、闇に紛れてアデン港へ近づいた伊30は零式偵を発進、港湾付近から港内まで入念に偵察し、翌7日午前10時30分に「軽巡洋艦1隻、駆逐艦3隻、輸送10隻在泊。湾口に防備施設し」との報告を受け、予定通りに帰投、偵を手く揚収すると急いで港口を脱出した。

続いて5月8日、潜航しながらアデンの対にあるジブチ軍港に侵入、港口で浮上し、再び偵を放って港内の航空偵察を敢行する。しかし停泊中の軍艦数隻から対射撃を受けて反転帰投。翌に再度偵察を行い、午前10時20分に「商6隻の停泊と地の点」を伊30へ報告する。

大本営海軍部から石崎大佐宛てに「マダガスカル北端ディエゴワレス軍港にイギリスの有力艦が集結している」との報が入った。これを受けて石崎大佐は伊30に対し、アフリカに沿って南下しつつ重要基地の偵察を続行せよ、と命じる。しかし、上はしい荒に見舞われ、浪に揉まれた艦体は不気味み音を上げるとともに、航行の自由に制限を課せられ、故障発生の報告が次々と寄せられた。

そのような過酷な環境下においても伊30は任務を遂行。5月19日ザンジバルダルエスサラームを航空偵察し、商2隻の停泊を確認したものの、敵艦艇の存在は認められず、偵は母艦の上へと戻って来た。上は大荒れで、とても着できるような状態ではなかったが、敵機または敵艦の来襲が予期されたため強行着を行い、浪でフロートの支柱が折損、機体が傾き始めた。すぐに搭乗員2名は救助され、機体も揚収用デリックで回収されたものの、以降は航空偵察が出来なくなってしまう。波間に漂うフロートは敵に鹵獲されるのを防ぐべく機掃射で沈めた。

5月20日ザンジバル港の深くに潜入して潜望偵察、「ザンジバルには出入り商毎日数隻あり。間は航を点じ、哨戒機及び艦艇を認めず」と石崎が座乗する伊10へ打電する。翌21日、モンバサへ潜入したのち潜望偵察を行うも、敵艦艇は発見出来ず、港内で潜航したまま次のを待った。同じ日、石崎より暗号電報が入電、解読してみると「ディエゴワレスに敵艦艇在泊の算大と予想されるので、至急、同軍港方面に急航せよ」とあったので、直ちにモンバサを離れて東南方向に離脱する。

5月24日、伊30はディエゴワレスを潜望偵察。

5月29日に伊30を含む大潜水艦マダガスカル北方の洋上で集結。伊30からの報告を統括した結果、石崎アフリカ東海イギリス艦艇の姿は認められず、大本営情報通り、ディエゴワレスに敵艦隊が集結していると判断。その伊10偵を放ってディエゴワレス航空偵察したところ、イギリス戦艦ほか多くの艦艇の在泊が確認された。こうして特殊潜航艇の攻撃標はディエゴワレスに定められた。

5月31日深夜伊1620から甲標的が発進し、最終的に全ての甲標的が失われたが、戦艦ミリーズとブリティッシュロイヤルティを大破着底させる戦果を挙げる。


甲標的攻撃後は通商破壊戦が予定されており、石崎連合軍の補給港があるモザンビーク峡を狩り場に設定、更に南緯10度から26度に渡る域を四分割し、伊10伊1618、20を配置、伊30はマダガスカル東方愛国丸と報丸はモザンビーク南方通商破壊を行う。同峡にはインドアラビア半島アフリカ東部に軍需物資を送る連合軍商が多数往来し、それでいて枢軸国海軍の威力が及ばない域であるため、護衛兵力はく、間も警態勢を取っていないなど全に油断し切っていた。

6月5日より伊30も単独でマダガスカル東方を遊するが、航路から外れていたせいか、1隻のも発見出来ず。他の艦が大戦果を挙げている中で一伊30のみ何ら戦果を挙げられなかった。

6月17日マダガスカル南東約250里の合流地点に潜水艦5隻が集結、翌日サントメリー南東200里で報丸と愛国丸から補給を受ける。石崎は第二次通商破壊を行うと命じるが、その作戦計画から伊30が除外されていた。何故なら単艦で重要任務に就く――すなわちドイツ占領下フランスす事になっていたからだ。乗組員の「ドイツに赴く」という予想は見事的中していた訳である。

丸が伊30に接近し、太い給油パイプを伸ばして重タンクを満杯にするとともに、譲渡用の零式水上偵察機、九一式航空魚雷の設計図(ドイツ側が熱望する酸素魚雷の譲渡を日本が拒否したためその代用)、八九式魚雷の現物、空母の設計図といった兵器類を受け取り、またドイツ内で不足している雲母840kg、シェラック660kg、生ゴムなどの資を積載。軍事機密のため九五式酸素魚雷を降ろして八九式魚雷を装備している。

遣独潜水艦作戦

6月18日、燃料と糧食の補給を了した伊30は僚艦と別れて南西方向に舳先を向ける。石崎が座乗する伊10からは「幸運を祈る」の信号が送られてきた。こうして伊30は単身苦難の訪独の旅へ出発。

極めて重要な任務のため航中は第6艦隊直轄となり、ケープタウン到着までは第6艦隊からの通信を、シンガポールの第10通信隊が伊30へ中継する。今回の作戦では「トーゴー」と呼ばれる特殊な暗号を使用、伊30の呼び出し符号も数種類制定した他、連合軍に位置を特定されないよう伊30側が厳重な線封鎖を実施するなど、線傍受対策を万全とするが、これにより第6艦隊は伊30の正確な位置が掴めなくなった。

今回の任務の成功率は極めて低かった。中にはイギリス空軍が支配する域があり、優れたレーダー水中聴音機、ソナーによる対潜警網が敷かれ、もしその網にすなどられようものなら、たちまち爆弾爆雷を投じられての底へ送られてしまうだろう。加えて立ちはだかるのは敵兵力だけではない。

訪独するにあたって最初の難関は喜望峰一帯のローリングフォーティーズであった。南緯40度線を中心に東西約1600km、南北約320kmに渡って一年中天が荒れている暴圏で、常に40mをえる西向きのが吹きつける過酷なる域。しかし、喜望峰付近から飛来する南アフリカ空軍哨戒機を避けようと、南方500里へ回するとなると、どうしても暴圏に入らなければならない。

乗組員の記録には「艦は木の葉のように翻弄された。波は艦首えて艦突し、がハッチから艦内にのように流れ込んだ。艦の分厚いフロントガラスも波の力でいつの間にか流失し、見り員はロープで体を縛り付けて、ずぶ濡れになって2時間の当直を耐えた」とある。艦に大波が突するたび、艦内では今にも圧壊するのではないかと思わせるほどの振動が発生したという。あまりの自然の暴威に危険を感じた遠藤艦長は、深30mまで潜航するよう命じ、中で回復を待ったが、5時間後に浮上しても全く好転しなかった。

6月25日、排気口より流入したエンジンピストンを破壊して航行不能に陥り、強と大波によって漂流させられる。漂流中は横揺れが45度に達し、横になる間隔を覚えながら見る見るうちに東へと流されていく。機関科員たちはしい揺れの中、総出でピストンを抜き取って分解修理を行い、組み立てて、エンジンを再始動させるが、翌日になると同様の理由でエンジンが停止してしまうため、これを大西洋に脱出するまで繰り返した。

6月30日、ダーバン南方南アフリカ空軍哨戒機に発見されたが傷で振り切った。

野菜缶詰めを副食にしていたので、ビタミン補給剤としてエビオス食卓に置かれていた。清水は大変重なので、飲料は制限され、洗濯はもちろん、体を満足に洗う事すら出来ないため、やむなくアルコールで体を拭うのだが、皮膚はで厚く覆われて擦っても擦っても無限が湧いてくる。特に機関科はで汚れて異様な体臭をっていた。


7月15日に暴圏を突破して南大西洋へ到達。ここまで来るともう波は穏やかだった。だが自然の猛威と入れ替わるように今度は連合軍の航空が立ちはだかる。先だけで13隻のUボート大西洋で失われているのだ。7月21日、「レーダー装備の敵哨戒機に警せよ」「帰航の出港前日は20日以降」という旨の通信が第6艦隊から入った。

ケープタウン通過してからはドイツ海軍本部電信所と直接交信。依然として伊30は受信するのみで応答は一切出来なかった。アフリカ西北上していく伊30。明けと薄暮の2回、航佐々木中尉砲術長兼通信長竹内少尉測を行って艦の位置を計測する。敵艦への攻撃は禁じられているので、ただひたすらフランスに向かうだけの航が続き、当直で見りに立つ者以外は陽を浴びられず、食事以外で時間の経過を知るすべはかった。

明け方、北上通過している時にトビウオの群れが伊30とぶつかり、すかさず乗組員が甲上へ打ち上がったトビウオバケツがいっぱいになるまで回収。それから4~5日間は全員分の刺身焼きが食を飾った。缶詰生活に飽き飽きしていた乗組員たちから大歓迎されたという。

7月中旬頃、アセンション西方で見り員がを発見。急いで潜望を向けてみると、に記された標識で、連合軍の非戦闘員交換である事が判明した。発見されるのを防ぐべく遠藤艦長は潜航を命じる。下旬には地中海の入り口にあたるジブラルタル西方北上。ここまで来ると乗組員の間にも安堵の色が広がり始めた。

間もなく伊30は危険域に差し掛かった。アゾレスにはイギリス軍の航空基地が設けられ、そこから飛び立つ哨戒機が厳重な警を絶え間なく行っており、本来であれば日中は潜航して進まなければならないのだが、ローリングフォーティーズで2週間も浪費した関係上、遅れを取り戻すべく危険を承知で水上航行を敢行。

8月1日、アゾレスの敵圏内にて、見り員が接近してくる敵機を発見、艦長は直ちに急速潜航を命じ、伊30は速に海底深く潜り込んだ。敵機は伊30を見失ったらしく、遠くから爆雷の炸裂音が聴こえてきた。日後に安全を確認して浮上。ドイツ側からの線通信によると、イギリス軍機はレーダーで艦を捉え、に攻撃を仕掛けてくるらしい。哨戒機に発見された以上、間もなく伊30はしい攻撃に曝されるだろう。この日、日本側は伊30に「」というコードネームを、ドイツ側は「U-Kirschblüte(キルシュブルーテ。の意味)」のコードネームを付けた。

翌2日正午頃、東方の切れから黒点が徐々に大きくなりつつあるのを発見。即座に急速潜航を意味するブザーが艦内に鳴りいた。しかし敵機の速度は予想以上に速く、艦が沈み切る前に爆弾が投下され、それが至近弾となって伊30の巨体を揺り動かす。「前部魚雷発射管室浸」が報告されるも後の確認で誤りと判明した。遠藤艦長は責任者を叱責したが、深い安堵感からか苦笑交じりだったという。実際の被害は甲が剥がれる程度のものだった。

フランスに近づくという事は敵国イギリスに近づく事も意味する。このためアゾレス北東200からは常時潜航して進む。針路はスペイン領北端、均速力7ノット、慎重にの中を泳ぐ伊30のもとにドイツ駐在海軍武官から機密電が入り、的地ロリアンまでの航路を詳細に示してきた。それによると「オルテガ合いの100mの域を通過してビスケー湾に入り、湾内で待機中のドイツ海軍と合流せよ」との事だった。また「応援に来てくれるドイツ空軍ユンカースJu88爆撃機8機は、敵味方識別の的で、伊30を発見した際、Ju88は機上から信号拳銃を発射するため、対する伊30は艦上の昇降短波マストに軍艦旗を掲げて応答するように」「イギリス軍機によるが活発化しているので合流地点までは全に潜航して航進せよ」とも添えられている。

ビスケー湾の入り口にあたるスペインオルテガに到達。少し遡ること7月17日、U-751が付近で航空攻撃を受けて撃沈されており、ここから先も危険地帯と言えた。

オルテガを抜けて最後の難関ビスケー湾に差し掛かった。ここを抜けられればゴールフランスなのだが、敵国イギリスの眼前にある立地上、湾内にはレーダーを持った大量の敵機がらせ、更にイギリス軍はリーライトと呼ばれる強力なサーチライト開発バッテリー充電のため、間に水上航行するUボートへの的確な攻撃手段を獲得していた。実際伊30到着の1ヶ前にロリアンへ帰投中だったU-502がリーライトで沈められている。したがって極力潜航して進まなければならなかった。

8月5日午前8時時計の針が定刻をしたため伊30はゆっくり面に向けて浮上を開始、しかしここはイギリス軍がを行っているビスケー湾内、もし間違った場所で浮上すれば、すぐさま敵機が突っ込んでくる事だろう。艦内の緊が極度に高まる中、潜望を伸ばして上の様子を探ってみたところ、レンズの中いっぱいに澄み切った青空が広がっていた。程なくして遠藤艦長が飛行するJu88爆撃機を発見。打ち合わせ通り、機上から閃光が放たれ、そのが尾を引いて落下していくのが見えた。艦内では歓が沸き上がった。

艦が全浮上すると直ちに軍艦旗が掲げられる。付近の洋上にはM級掃海艇8隻の姿も見え、波を立てながら高速でこちらに向かってきている。掃海艇は伊30の前方に5隻、後方に3隻という整然とした形を組み、その上をJu88が旋回、あっと言う間に立体的な護衛完成した。ロリアンに向けて移動していると前方に1隻の小を発見。その小は伊30に横付けすると、駐独大使館付海軍武官首席補佐官・渓口泰麿中佐水先案内人役のドイツ軍士官が移乗、遠藤艦長は瞳をで濡らしながら渓口中佐と固い握手を交わし、渓口中佐の通訳を介してドイツ軍士官とも挨拶を交わした。

ロリアン軍港に近づくにつれ、想像を絶した防御施設の全容が明らかになっていく。渓口中佐の説明によると、イギリス本土基地から出撃した敵爆撃機は1時間以内で飛来し、連日のように港の防御施設を始め、出入港する艦にしい爆撃を仕掛けているのだという。つまり、ロリアンはドイツ軍の重要な海軍基地であると同時に、戦場でもあったのだ。伊30の横ではドイツ空軍の大機が面すれすれを飛行し、装備した環状の電磁石イギリス軍が湾口に敷設した機雷を掃している。乗組員は戦慄した。今航行している域は機雷に覆われている事が分かったからだ。いつのまにか前方に機雷原啓開がいて、体をって前路の掃してくれていた。

入港を直前に控えた艦内では、大急ぎでヒゲ剃りや散を行って身だしなみを整えるが、4ヶ間も風呂に入れていないため、臭いだけはどうしようもなかったらしい。

そして8月6日、1ヶ半以上の航を経て最大のUボート基地を有するロリアン軍港へ到着。乗組員たちは紺色の第一種軍装に着替えて舷側に整列し、に並んだ沢山の人からの熱な歓迎を受けながら、ゆっくりと桟の方へと向かっていく。特にドイツ海軍軍楽隊が奏でる君が代に彼らはを禁じ得なかった。苦労したのは乗組員だけではない。過酷なのりを経た伊30もまた、塗装ボロボロに剥がれ落ち、さびが浮いた、とても5ヵほど前に工した新造艦とは思えない「老いた」状態だった。

こうして伊30は初めてヨーロッパに到達した潜水艦となった。

フランスでの歓待

を利用した桟係留された後、遠藤艦長と乗組員は陸上で待っていたフランスに乗ってU-67の甲上へ移動。そこではエーリッヒレーダー提督カール・デーニッツ提督、占領軍オットーシェルツェ海軍大将、駐独海軍武官の横井雄大佐などの重鎮が待っていて、全乗組員が見守る中、遠藤艦長は彼らと固い握手を交わした。

にはUボート乗組員、兵士看護師女性民間人が整列して伊30の入港を歓迎し、成功したUボートの艦長には花束を贈る伝統に従い、遠藤艦長もまた魅力的な若い女性から花束を受け取った。その後、士官一同は桟から上陸して軍艦行進曲を奏でる軍楽隊を閲兵。伊30到着の様子を撮った写真ドイツのコブレン連邦公文書館に収められている。

日中に旧フランス海軍大広間で、伊30乗組員向けの公式挨拶と晩餐会を実施。日独下士官の中には海軍の古い慣習に従って帽子バンドを交換する者もいたという。伊30乗組員はUボートに乗る事を許可され、興味深そうに写真を撮りまくった一方、ドイツ人乗組員には伊30の見学を許されなかった。

ロリアンは、イギリス空軍基地から僅か1時間程度の距離しか離れていない最前線基地であり、上には阻気球、港内には防潜網をり巡らし、襲からUボートを守るため厚さ7mのコンクリートで作られた巨大ブンカーを多数擁していた。ブンカー格納庫と工を兼ねている上、試運転可深と数隻のUボートが並べられる広さがあり、その完璧な防御体制と運用は日本海軍関係者を唸らせた。

ドイツ向けの積み荷を降ろした伊30はケロマンブンカーに入って整備。まず最初にドイツ海軍関係者が驚いたのは、信じられないほどの巨体であった。あまりの大きさにブンカー内へ入りきらず艦尾がはみ出ていたとか。

遠藤艦長以下士官4名はアドルフ・ヒトラー総統の招待を受け、飛行機ベルリンに移動し、政府高官やヒトラー総統と謁見。日独連絡路を切り開いた功績でホワイトクロス勲章を授与された。約100名の乗組員は二手に分かれて急行列車パリに移動、1日間だけ観光する時間が与えられ、案内役のコッホ少尉を連れてエッフェル塔や凱旋門、シャンリゼ通りで楽しむ。乗組員がキャバレー「リド」に立ち寄ると、演奏者がそれまで奏でていた音楽を止め、軍艦行進曲演奏してくれた。何やらパリ内では軍艦行進曲の旋が流行っていたらしい。内の治安も良好で、の短以外は何も装備せずに心行くまで観光を楽しめたという。リッツホテルに宿泊した。

観光を終えると、潜水艦乗組員の休養地であるシャトーネフへと案内され、Uボート本部があるピエールフォンに2泊して羽を伸ばす。その後はドイツ兵と騎戦、棒倒し、海水浴を堪した。ドイツ側は「日本人が好き」という情報をもとに紅茶提供していたが、日本人乗組員はそれをあまり好まずコーヒーばかり飲んでいたという(紅茶ではなく緑茶が好きと気付いたのは後の事だったらしい)。

また伊30側から「インド洋における連合軍の対潜警ガバガバ」との情報ドイツ側にもたらされた。この情報が後にモンスーン戦隊結成のきっかけとなる。


乗組員が休暇を楽しんでいる頃、伊30から積み荷が降ろされ、海軍武官を通じてドイツ側に譲渡された。フロートを折損した零式偵も本許可を得て一緒に贈られる事となり、ドイツ海軍を大いに喜ばせた。

一方、連合軍は、ビスケー湾を航行している伊30を二度哨戒機で発見し、またフランスにて活動中のレジスタンス通報したのもあって、ロリアンに伊30がいる事を把握イギリスロンドン放送が「日本潜水艦ドイツの軍港に到着している」と報じた。

内地出発前、軍部より「伊30はドイツ側に見学せしめ差し支えし」との示を受けていたため、遠藤艦長はドイツ海軍潜水艦関係者を艦内に招いて見学させ、現地のドイツ海軍士官や潜水艦専門が技術調を開始。彼らは「太鼓を叩きながら歩いているようなもの」とエンジン騒音の大きさを摘。艦長は最新鋭艦を悪く言われて顔をしかめたものの、彼がUボートを視察した際、確かにエンジンその他騒音が少なく、床などにも足音を消すような特殊な配慮が払われている事を知り、納得せざるを得なかった。

ドイツ側の厚意で機や補機の台座に防振ゴムを設置するなどの防音工事を実施、九六式25mm連装機をエリコン20mm四連装機に換装した他、Uボートに搭載され始めたばかりの電波探知器メトックス・ビスケー・クロスを艦に装備。これはリーライト対策用に開発された新兵器で、木ワイヤーを巻き付けただけの急造品アンテナメトックスを固定していた。また、太平洋での運用を想定して伊30には黒色塗装が施されていたが、大西洋では却って立つという事で、大西洋の面色に紛れやすいようUボートと同じ明るい灰色に塗り替えている。8月20日工事了。

工事と並行して、日本へ持ち帰るウルブルグレーダーの現物とその設計図、キールで訓練を受けたレーダー専門鈴木太技手、潜水艦魚雷方位盤、エニグマ暗号機50台、100万円相当の工業用ダイヤモンドG7a航空魚雷5本、G7e電魚雷3本、対戦車射撃管制装置、20mm高射砲などを積載。この中で最も重要な積み荷だったのはエニグマ暗号機と工業用ダイヤモンドとされる。艦内には乗組員が個々にパリで購入したお土産ドイツ側から贈られたカメラ、洋腕時計も一緒に積載されていた。

伊30の調記録ドイツ海軍カール・デーニッツ提督エーリヒレーダー提督のもとへ届けられた。その秘密報告書によると「艦内の衛生設備がない」「機械が旧式」「潜航深度が100m程度と浅い」「操縦性の悪さ」「急速潜航時の遅さ」「非常に高い騒音レベル」などの欠点が書き連ねられていた。これでは旧式のソナーにも捕まってしまうとして、ドイツ側は日本潜水艦建造の専門を送って、技術交流を加速させる事を決めた。

ちなみに贈られた零式偵は、試験飛行の様子を撮し、フランスの基地に日本海軍航空機が存在する映像として連合軍の撹乱に使用されている。

帰路

8月22日の日が迫ると慌ただしく出港準備が始まり、伊30がブンカー外へと引き出されていく。港内に出るとエンジンを始動させて動き出し、ドイツ軍機の援護を受けながら湾口に移動、そしてロリアン出港と同時に潜航してビスケー湾を進む。連合軍に気取られないよう試験潜航を装っての出港だったため入港時とべて簡素な見送りだけだった。

この日の気条件は極めて悪く、出発は延期になると思われていたが、ドイツ側の忠告により予定通りの出発となる。というのも、イギリス軍はレーダーを駆使してドイツを1隻も漏らさず撃沈しようと狙っており、それを避けるには荒の日の陰に紛れて、一気に突破するのが望ましかったのである。

潜航したまま事にビスケー湾を突破。Uボートの場合だと航続距離の都合上、ビスケー湾を潜航したまま突破するのは不可能だが、大で速力に余裕のある伊30には潜航突破が可であった。アゾレス北方を潜航状態で大きく回した後、水上航行に移行して南下を始める。

大西洋ではメトックスは威力を発揮、敵機の攻撃を受けずに大西洋も突破し、喜望峰に差し掛かる。往路では難所として立ちはだかったローリングフォーティズも、帰り道は西向きのが追いとなり、速力を上げて順調に突き進んで、9月22日に喜望峰を突破。つつがなくインド洋に入った。

9月25日ドイツプロパガンダ放送は「日本潜水艦大西洋で活動するUボート戦隊に加わった」と偽情報を流し、大本営も「伊30がヨーロッパの訪問に成功した」と発表。翌26日付の朝日新聞には「帝國海軍大西洋上に出撃活躍 枢軸海軍と協同作戦行動 潜水艦・独基地に寄港」という見出しで記事を掲載。臣民にも知られるところとなった。また伊30の訪独は9月30日ドイツ週間ニュース内にも報道され、当時の映像現在も残っている。

48日間の航と1万4000里を経て10月8日未明にペナン基地へ到着。燃料補給を受ける。ここで兵備局長保科四郎少将が、部で使用するためのエニグマ暗号機10台をシンガポールに揚陸するよう命。この命保科少将の独断であり、伊30は本来予定にシンガポールへ寄港する事になるも、この独断が後に最悪の事態を招いてしまう。

そうとは知らずに10月11日夕刻にペナンの南を出港。航行中、シンガポールの第10根拠地隊から暗号電文を受信するが、伊30が持っていた暗号表は古くて解読出来ず(伊30が用いていた暗号表が特殊で解読出来なかったとも)、内容をい知る事が出来なかった。

日付が変わって間もない10月13日マラッカ峡を通ってシンガポールへ到着。水先案内人を第10根拠地隊に派遣するようめようとしたものの、暗号表の問題で連絡が取れなかったため、やむなく単独で港の入り口をす。この時、長旅の疲れと味方の港に辿り着いて緊の糸が切れたからか、乗組員全員が注意散漫となっていたようで、ケッペル商港へ入った時に舷側に沈没マストがある事に気付かず、ギリギリのところで回避したり、誤って陸軍の錨地に投錨してしまったりしていた。

同日午前9時30分にどうにか停泊。上陸した遠藤艦長を第1南遣艦隊大河内中将や上級将校ら高官が出迎え、命通り10台のエニグマ暗号機を揚陸。ロリアン出港から消息が掴めなかった伊30が事にシンガポールまで辿り着いたと分かり軍部は安堵したという。遠藤艦長が大川中将や第10根拠地隊の面々と会食を取っている間、航士がシンガポール周辺の機雷掃域を示した図を受け取る。

最期

1942年10月13日16時に「出港用意、錨揚げ」の号が下り、16時9分にへ向けてシンガポールを出発……その僅か東方3里で、港湾防御用に敢えて撤去しなかったイギリス軍の機雷に触れてしまう。入港時は偶然満潮だったため機雷の上を通過しただけで済んだが、出港時は干潮だったのである。

たちまち艦は前へ傾き、出港直後でハッチが全て開いていた弊一気に流入、艦首中に突きこむ形で沈没していった。事故発生の急報が第1南遣艦隊と第10特別根拠地隊、両部に届くと色を失った。部員たちは狽しながらも、乗組員救助のため商港から多くの小船舶を向かわせ、死亡した下士官13名を除く遠藤艦長以下乗組員96名は事救助された。しかし乗組員たちは虚脱状態のまま海岸で膝を折っていた。理もない。苦しみに満ちた大航が成功で終わると喜んでいたのに一転して悲嘆の淵へと突き落とされたのだから。

遣独潜水艦作戦の成功を前にして、発生した触雷事故は、艦もろとも機密兵器を多く失う結果となり、海軍を失望させてしまった。幸い港湾の近くだったので浅瀬に沈没しており、すぐさま積み荷のサルベージが試みられた。

沈没から一週間が経過した10月20日佐世保(シンガポールの第101工作部とも)から300名が派遣され、深37mに沈没した伊30から積み荷の回収を図る。メンバーの中には沈没引き揚げに関しては海軍の権威だった玉崎坦造中佐が参加していた。結果、13名の遺体と積み荷の大部分を引き揚げる事に成功。このうちエリコン20mm機関銃200丁や潜水艦方位盤、工業用ダイヤモンド等は使用可で、回収されたレーダーの設計図は日本陸軍超短波タチ24号の基礎となり、1943年末より運用を開始している。

しかし肝心なウルブルレーダーや設計図、エニグマ暗号機40台、電波測定装置とその設計図は破壊されて使用不能であった。また艦自体の引き揚げは現地の作業力をえるため断念している。

引き揚げ作業には遠藤艦長も協力していたが、彼は艦を失った事や遣独潜水艦作戦を失敗させてしまった事に、大変責任を感じていたようで、協力中の様子は、第一南遣艦隊参謀に自決を予期させるものだったという。その後開かれた問会では、遠藤艦長の責任が問われたものの、予定にい兵備局の寄港示などが考慮され、最終的に軍部からの示で不問に付された。1943年2月15日日本政府ベルリンに「伊30に積載されていた40台のエニグマ暗号機が失われた」と報告した。

1944年4月15日除籍。

ウルブルクの技術を学んだ鈴木技手は難を逃れて日本に帰。しかし伊30の沈没を秘匿するためと、ウルブルクは第二類最高機密に属する極秘事項であり、技手の身分だった彼には図面さえも教えられないという事で、帰後は箝口が敷かれて監禁されている。

生き残った遠藤艦長は地上勤務を断って前線に立つ事を希望し、43の装員長に就任。43が撃沈された時に彼も戦死している。戦後1959年8月から1960年2月にかけて北船舶工業株式会社が伊30の残骸を引き揚げて解体。回収された遺言の帰をした。潜水艦関係者で構成される呂波会は「伊30の受け入れ態勢が不適切だった」と海軍の措置を批判している。

その後の影響

遣独潜水艦作戦成功直前に沈没してしまったのはまさに痛恨事であった。しかし同時に数々のも残した。

連合軍の警化により、封鎖突破の成功率が著しく低下する中、ドイツ海軍は封鎖突破の代わりに高い隠密性を誇る潜水艦を使おうとしていたが、伊30がロリアンまで辿り着いた快挙は、その腹案の実現可率を補強するものであった。1943年3月31日、駐独日本大使は「エーリヒ・フォン・マンシュタイ元帥が、封鎖突破が多数沈没しているので、旧式の大Uボート改造して極東・ヨーロッパ間の軍需物資輸送に充てるべきだと提案した」と東京に報告している。

潜水艦による極東派遣案はイタリアにも波及し、1943年中期、潜水艦と同じように大だった、ボルドーのイタリア潜水艦9隻が東南アジアに向かうべく、逐次輸送用に改装された。このうちルイージ・トレッリは、伊30によるウルブルク輸送が失敗に終わったため、テレフンケン社のハイリンヒ・フォーダス技官と日本陸軍佐竹金次中佐を乗せて出発、的地のシンガポールまで辿り着き、日本ウルブルレーダーの技術が伝達された。

またロモロ潜水艦開発計画がスタートしたのは伊30の訪独成功がきっかけと言っても良いだろう。

関連動画

関連項目

【スポンサーリンク】

  • 1
  • 0pt
記事編集 編集履歴を閲覧

ニコニ広告で宣伝された記事

ニコニコ大百科 (単) 記事と一緒に動画もおすすめ!
提供: s
もっと見る

この記事の掲示板に最近描かれたお絵カキコ

お絵カキコがありません

この記事の掲示板に最近投稿されたピコカキコ

ピコカキコがありません

伊30

1 ななしのよっしん
2023/11/22(水) 21:25:56 ID: IC+gZ8NyPT
伊30 ←とあるバス系統名かと思った(しったかぶりでごめん)

静岡県内を走る「伊豆30系統、・▼▼経由■■■営業所行き」とかはありそうな気がする。
👍
高評価
0
👎
低評価
0