伊30とは、大東亜戦争中に大日本帝國海軍が建造・運用した巡潜乙型11番艦である。1942年2月28日竣工。遣独潜水艦作戦の第一次訪独艦としてヨーロッパを目指した。往路は成功したものの、連絡の不徹底が原因で10月13日にシンガポール沖で触雷沈没。
艦歴
たゆたう深海の使者
1939年に策定された第四次海軍軍備充実計画(通称マル四計画)において、乙型一等潜水艦第143号艦の仮称で建造が決定。1419万円の建造予算が割り当てられる。
1939年6月7日に伊35の名称で呉海軍工廠にて起工。1940年9月17日に進水式を迎え、1941年10月31日に艤装員長として河野昌通少佐が着任。それから間もない11月1日に伊30へ改名する。開戦後の1942年2月5日に艤装員事務所を設置して事務作業を開始。完成が間近に迫った2月25日に乗組員を配置し、そして2月28日に竣工を果たした。呉鎮守府へ編入されるとともに第6艦隊付属に部署。本来艦長の座には艤装員長の河野少佐が就くべきなのだが直前に遠藤忍中佐へと変更されている。竣工後は瀬戸内海西部で慣熟訓練に従事。
1942年3月10日、短い訓練期間を終えて伊29と第14潜水隊へ編制。第14潜水隊は伊10(旗艦)、伊30、伊16、伊18、伊20、特設巡洋艦報国丸、愛国丸からなる第8潜水戦隊に編入され、インド洋方面を作戦区域に定める。翌11日18時30分、本州東方に出現した米機動部隊を索敵するため準備出来次第出撃を命じられ、3月12日に僚艦3隻とともに呉を出撃。東経160度線のL散開線まで進出するよう下令される。3月16日にL散開線に到着して索敵を行うも米機動部隊を発見出来ず、3月18日午前6時に帰投命令が下って3月20日に呉へ入港。次期作戦に備えて補給と整備を受ける。
3月27日、ベルリンのドイツ海軍総司令部は帝國海軍にインド洋での通商破壊作戦実施を要請。これを受けて3月31日に第14潜水隊は甲先遣支隊(第8潜水戦隊)に編入。水偵を持つ伊10と伊30は先行してアフリカ東岸の連合軍基地を航空偵察して有力艦艇がいる港湾を見つけ出し、伊16、伊18、伊20の3隻がその港湾に甲標的攻撃を仕掛けるのである。
4月6日、大海指77号により伊30は初の訪独潜水艦に指定され、暗号名モミを与えられると同時にアフリカ東岸の要地偵察を行った後、単身ヨーロッパへ赴く事が決まる。去る1940年、ドイツで行われた技術調査で射撃用レーダーウルツブルクの性能を目の当たりにした日本側は驚愕、そのウルツブルクの情報を入手するのも今回の訪独の目的だった。既に根回しを終えてウルツブルクの現物を譲渡してもらえるようドイツ海軍司令エーリッヒ・レーダー提督から承諾も出ていた。4月8日、ドイツへの返答として日本側は「アフリカ東岸へ潜水艦(第8潜水戦隊)を送る」と正式に回答した。
4月10日に伊30は呉を出港し、4月20日にインド洋を臨むペナン基地へと進出する。
アフリカ東岸での作戦行動
4月22日未明、愛国丸とともにペナンを出撃。4月27日に愛国丸から燃料補給を受け、4月30日にアラビア海へ到達した伊30は連合軍の基地を航空偵察する任務に就く。巡潜乙型には零式小型水上機が搭載されているのだ。
5月6日夜、闇夜に紛れてアデン港に近づいて零式水偵を発進、翌7日午前10時30分に「軽巡洋艦1隻、駆逐艦3隻、輸送船10隻在泊。湾口に防備施設無し」との報告を受けた。続いて5月8日夜にジブチの航空偵察を敢行するも対空射撃を受けて反転帰投。翌日午前10時20分に「商船6隻の停泊と市街地の点灯」を報告した。5月19日にザンジバルとダルエスサラームを航空偵察した後、水偵が着水した時にフロートを折損して飛行不能となり、以降は航空偵察が出来なくなる。機体そのものは揚収用デリックで回収された。ちなみに航空偵察を行った日本潜水艦は伊30を含めて10隻のみである。
5月20日にザンジバル港へ潜入して潜望鏡偵察。商船数隻が出入りしているのを確認した。翌21日にモンバサを潜望鏡偵察するが敵影はなく、東南方向に離脱する。伊30と伊10がもたらした情報によりマダガスカル島北端ディエゴスワレスが攻撃目標に定められ、甲標的攻撃を行う伊16、伊18、伊20に伝達。2隻はディエゴスワレスに対して更なる偵察を下令され、5月24日夜に伊30が潜望鏡偵察を、5月30日夜に伊10が航空偵察を実施して、戦艦や巡洋艦の停泊を確認。作戦判断に大いに役立った。
5月31日深夜、伊16と伊20から甲標的が発進。全ての甲標的が失われたが戦艦ラミリーズと油槽船ブリティッシュロイヤルティを大破着底させる戦果を挙げた。
6月2日、伊16、伊18、伊20の3隻がモザンビーク海峡で通商破壊作戦に転じ、これに呼応して伊30も6月5日よりマダガスカル島東岸で通商破壊を開始、報国丸と愛国丸はモザンビーク海峡南方で狩りを始めた。モザンビーク海峡は北アフリカ戦線の連合軍にとって重要な補給路であり、したがって多数の船舶が往来する良質な狩り場であったが、マダガスカル東岸は全くと言って良いほど獲物が通らず、伊30は貧乏くじを引かされる形となった。6月17日、マダガスカル南東約250海里の合流地点に潜水艦4隻が集結し、翌日サント・メリー岬南東200海里で報国丸と愛国丸から補給を受ける。
ここからドイツ占領下フランスを目指す事になった伊30は報国丸より譲渡用の零式水上偵察機、九一式航空魚雷の設計図(ドイツ側が熱望する酸素魚雷の譲渡を日本が拒否したためその代用)、八九式魚雷の現物、空母の設計図といった兵器類を受け取り、またドイツ国内で不足している雲母840kg、シェラック660kg、生ゴムなどの資源を積載。軍事機密のため九五式酸素魚雷を降ろして八九式魚雷を装備している。
遣独潜水艦作戦
6月18日、伊30は引き続き通商破壊を行う僚艦と別れて単身苦難の訪独の旅へ出発。航海中は第6艦隊直属となり、第6艦隊からの通信をシンガポールの第10通信隊が伊30へ中継する形を取る一方、連合軍に位置を特定されないよう伊30側は無線封鎖を行った。つまり伊30は返事が出来ず、その弊害で第6艦隊も伊30の正確な位置が掴めないのである。
訪独するにあたって最初の難所は喜望峰一帯のローリングフォーティーズであった。南緯40度線を中心に東西約1600km、南北約320kmに渡って一年中天候が荒れている暴風圏で、常に40mを超える西向きの風が吹きつける過酷なる海域。しかし、喜望峰付近から飛来する南アフリカ空軍の哨戒機を回避出来る南方500海里へ迂回するとなると、どうしても暴風圏に入らなければならない。乗組員の記録には「艦は木の葉のように翻弄された。波は艦首を超えて艦橋に激突し、海水がハッチから艦内に滝のように流れ込んだ。艦橋の分厚いフロントガラスも波の力でいつの間にか流失し、見張り員はロープで体を縛り付けて、ずぶ濡れになって2時間の当直を耐えた」とある。
6月25日、排気口より流入した海水がエンジンのピストンを破壊して航行不能に陥り、強風と大波によって漂流させられる。漂流中は横揺れが45度に達し、真横になる間隔を覚えながら見る見るうちに東へと流されていく。機関科員たちは激しい揺れの中、総出でピストンを抜き取って分解修理を行い、組み立ててエンジンを再始動させる。ところが翌日になると同様の理由でエンジンが停止してしまうため、これを大西洋に脱出するまで繰り返した。6月30日、喜望峰沖300海里へ向かっている途上で敵商船を発見・雷撃するも不成功に終わる。また同日中に南アフリカ空軍の哨戒機に発見されたが無傷で振り切った。
7月15日に暴風圏を突破して南大西洋へ到達。ここまで来るともう波は穏やかだった。しかし大西洋は連合軍が厳重な航空哨戒を行っており、7月21日、レーダー装備の敵哨戒機に警戒するよう第6艦隊から通信が入っている。
8月2日、アゾレス諸島の敵哨戒圏内にて突如出現したイギリス軍機から爆撃を受けるが、幸い甲板の板が剥がれる程度の被害で済む。この日、日本側は伊30に「桜」というコードネームを、ドイツ側は「U-Kirschblüte(キルシュブルーテ。桜の意味)」のコードネームを付けた。スペインのオルテガル岬沖でドイツ空軍のユンカースJu88爆撃機8機が出迎えて上空援護を開始。去る7月17日、U-751がこの近くで航空攻撃を受けて沈没しており、ここから先は危険地帯そのものであった。
8月5日午前8時、合流地点にてM級掃海艇8隻と機雷原啓開船が護衛に参加。空と海から護衛を受けながら難所ビスケー湾を進む。イギリス本国の眼前にある立地上、ビスケー湾にはレーダーを持った敵機が大量に目を光らせており、極力潜航して進まなければならなかった。実際1ヶ月前にロリアンへ帰投中だったU-502が湾内で沈められている。
そして8月6日に最大のUボート基地を有するロリアン軍港へ到着。乗組員は艦内で身だしなみを整えたのち第一種軍装に着替えて舷側に整列、それを岸壁に並んだ沢山の人が熱烈に歓迎、ドイツ海軍軍楽隊が奏でる君が代に彼らは涙を禁じ得なかった。こうして伊30は初めてヨーロッパに到達した潜水艦となった。
フランスでの歓待
ブイに係留された後、遠藤艦長と乗組員は陸上で待っていたフランス車に乗ってU-67の甲板上へ移動。そこでエーリッヒ・レーダー提督やカール・デーニッツ提督、占領軍司令シェルツェ大将、駐独海軍武官の横井忠雄大佐などの重鎮に歓待され、岸壁にはUボート乗組員、兵士、看護師、女性、民間人が整列して伊30の入港を歓迎している。同日中に旧フランス海軍工廠の大広間で伊30乗組員向けの公式挨拶と晩餐会を実施。日独下士官の中には海軍の古い慣習に従って帽子のバンドを交換する者もいたという。伊30乗組員はUボートに乗る事を許可され、興味深そうに写真を撮りまくった。一方でドイツ人乗組員が伊30を見学する事は許されなかった。
遠藤艦長以下士官4名はベルリンに移動してアドルフ・ヒトラー総統と謁見、ホワイトクロス勲章を授与された。約100名の乗組員は二手に分かれて1日間だけパリを観光。エッフェル塔や凱旋門、シャンデリゼ通りで楽しむ。乗組員がキャバレー「リド」に立ち寄ると、演奏者がそれまで奏でていた音楽を止め、軍艦行進曲を演奏してくれた。何やらパリ市内では軍艦行進曲の旋律が流行っていたらしい。
観光を終えると潜水艦乗組員の休養地であるシャトーネフへと案内され、Uボート本部があるピエールフォン城に2泊して羽を伸ばす。その後はドイツ水兵と騎馬戦や棒倒し、海水浴を堪能した。ドイツ側は「日本人は茶が好き」という情報から紅茶を提供していたが、日本人乗組員はそれをあまり好まずコーヒーばかり飲んでいたという(紅茶ではなく緑茶が好きと気付いたのは後の事だったらしい)。
この時、伊30側からインド洋の対潜警戒がガバガバという情報がドイツ側にもたらされ、後のモンスーン戦隊結成の一因となっている。
ドイツ向けの積み荷を降ろした伊30はケロマンブンカーに入って整備。まず最初にドイツ海軍関係者を驚かせたのは、信じられないほどの巨体であった。あまりの大きさにブンカー内に入りきらず艦尾がはみ出ていたとか。大西洋の海面色に紛れやすいようUボートと同じ明るい灰色に塗装した他、九六式25mm連装機銃をエリコン20mm四連装機銃に換装、新たに電波探知器メトックスを装備した。また、伊30を調査したドイツ海軍の専門家が「太鼓を叩きながら歩いているようなもの」とエンジンの騒音の大きさを指摘し、ドイツ側の厚意で主機や補機の台座に防振ゴムを設置するなどの防音工事を施している。
フロートを折損していた零式水偵は修理されてドイツ側に譲渡。試験飛行の様子を撮影し、フランスの基地に日本海軍航空機が存在する証拠映像として連合軍の撹乱に使用した。
伊30の調査記録はドイツ海軍のカール・デーニッツ提督とエーリヒ・レーダー提督のもとへ届けられた。その秘密報告書によると「艦内の衛生設備がない」「機械が旧式」「潜航深度が100m程度と浅い」「操縦性の悪さ」「急速潜航秒時の遅さ」「非常に高い騒音レベル」などの欠点が書き連ねられていた。これでは旧式のソナーにも捕まってしまうとして、ドイツ側は日本に潜水艦建造の専門家を送って技術交流を加速させる事を決めた。
帰り道
8月22日、ウルツブルグレーダーの現物とその設計図、キールで訓練を受けたレーダー専門家日本人技術者1名、潜水艦用魚雷方位盤、エニグマ暗号機50台、100万円相当の工業用ダイヤモンド、G7a航空魚雷5本、G7e電気魚雷3本などを積載してロリアンを出港。試験潜航を装っての出港だったため入港時と比べて簡素な見送りだけだった。艦内には乗組員が個々にパリで購入したお土産、ドイツ側から贈られたカメラ、洋服、腕時計も一緒に積載されていた。翌日護衛の独掃海艇と別れて帰国の途に就く。
大西洋を突破すると今度は喜望峰に差し掛かる。往路では難所として立ちはだかったローリングフォーティズも帰り道は西向きの風が追い風となり、速力を上げて順調に突き進んで9月22日に喜望峰を突破。9月25日、ドイツのプロパガンダ放送は「日本の潜水艦が大西洋で活動するUボート戦隊に加わった」と偽情報を流し、大本営は「伊30がヨーロッパの訪問に成功した」と発表。また伊30の訪独は9月30日のドイツ週間ニュースで国内にも報道され、当時の映像が現在も残っている。
道中何事もなく、48日間の航海と1万4000海里を経て10月8日未明にペナン基地へ到着。燃料補給を受ける。ここで兵備局長の保科善四郎少将が司令部で使用するためのエニグマ暗号機10台をシンガポールに揚陸するよう命令。この命令は保科少将の独断であり、伊30は本来予定に無いシンガポールへ寄港する事になるも、この独断が後に最悪の事態を招いてしまう。
そうとは知らずに10月11日夕刻にペナンの南水道を出港。航行中にシンガポールの第10根拠地隊から暗号電文を受信。しかし伊30が持っていた暗号表は古くて解読出来ず、内容を窺い知る事が出来なかった。
最期
1942年10月13日夜、シンガポール沖へ到着。水先案内人を第10根拠地隊に派遣するよう求めようとしたものの、暗号表の問題で連絡が取れなかったため、やむなく単独で港の入り口を目指す事に。この時、長旅の疲れと味方の港に辿り着いて緊張の糸が切れたからか乗組員全員が注意散漫となっていたようで、ケッペル商港へ入った時に舷側に沈没船のマストがある事に気付かずギリギリのところで回避したり、誤って陸軍の錨地に投錨してしまったりしていた。
同日午前9時30分にどうにか停泊。上陸した遠藤艦長を第1南遣艦隊司令・大河内傳七中将や上級将校ら高官が出迎え、10台のエニグマ暗号機を揚陸。ロリアン出港から消息が掴めなかった伊30が無事にシンガポールまで辿り着いたと分かり軍令部は安堵したという。遠藤艦長が大川内中将や第10根拠地隊の面々と会食を取っている間、航海士がシンガポール周辺の機雷掃海海域を示した海図を受け取る。
そして16時に「出港用意、錨揚げ」の号令が下り、16時9分にシンガポールを出発……その僅か東方3海里でイギリス軍が敷設した機雷に触れて沈没してしまう。入港時は偶然満潮だったため機雷の上を通過しただけで済んだが、出港時は干潮だったのである。下士官13名が死亡したが遠藤艦長と乗組員96名は無事救助されている。遣独潜水艦作戦の成功を目前にして発生した触雷事故は、艦もろとも機密兵器を多く失う結果となり、海軍を失望させてしまった。
沈没から一週間が経過した10月20日、佐世保工廠(第101工作部とも)から300名が派遣され、水深37mに沈没した伊30から積み荷の回収を図る。遠藤艦長もその作業に協力した。その結果、13名の遺体と積み荷の大部分を引き揚げる事に成功。このうちエリコン20mm機関銃200丁や潜水艦用方位盤、工業用ダイヤモンド等は使用可能で、回収されたレーダーの設計図は日本陸軍の超短波警戒機乙タチ24号の基礎となり、1943年末より運用を開始している。
しかし肝心なウルツブルクレーダーや設計図、エニグマ暗号機40台、電波測定装置とその設計図は破壊されて使用不能であった。艦自体の引き揚げは現地の作業能力を超えるため断念。その後開かれた査問会では遠藤艦長の責任が問われたものの、予定に無い兵備局の寄港指示などが考慮され、最終的に軍令部からの指示で不問に付された。積み荷の回収が行われた日、第14潜水隊から除かれて第4予備潜水艦となる。1943年2月15日、日本政府はベルリンに「伊30に積載されていた40台のエニグマ暗号機が失われた」と報告。
1944年4月15日除籍。生き残った遠藤艦長は地上勤務を断って前線に立つ事を希望し、伊43の艤装員長に就任(伊43が撃沈された時に彼も戦死)。1959年8月から1960年2月にかけて北星船舶工業株式会社が伊30の残骸を引き揚げて解体。回収された遺骨は無言の帰国をした。
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