伊30とは、大東亜戦争中に大日本帝國海軍が建造・運用した巡潜乙型11番艦である。1942年2月28日竣工。遣独潜水艦作戦の第一次訪独艦としてヨーロッパを目指した。10月13日にシンガポール沖で触雷沈没。
概要
1936年、ロンドン海軍軍縮条約から脱退した日本は、巡潜三型をベースに戦隊旗艦用の巡潜甲型と量産型の巡潜乙型の二本柱で潜水艦戦力の拡充を図った。巡潜乙型は甲型から旗艦設備を撤去しつつ、若干の簡略化・小型化を施して生産性を高め、また広い太平洋上で侵攻してくるアメリカ艦隊を捕捉するため、長大な航続距離と水上機運用能力を持つ。故に通商破壊、航空偵察、輸送任務など多種多様な任務に従事する事が可能だった。
ただし、甲型より小型化した弊害で魚雷搭載本数が18本から17本に減少、甲型が持っていた九三式水中聴音機と九三式水中探信儀は装備しておらず、25mm連装機銃も1基のみに減らされている。更に量産型と言えど、乙型を完成させるには2年以上の時間が必要であり、戦時急造に向かないので戦争中期からは簡略化が進んだ巡潜乙型改一、改二、丙型改へとバトンタッチしていく事となる。
それでも乙型は帝國海軍潜水艦最多の20隻が竣工、計画では32隻まで生産される予定だった。潜水艦が挙げた戦果のうち44%は巡潜乙型が占めている功労者の家系でもある。
要目は排水量2198トン、全長108.7m、全幅9.3m、喫水5.14m、速力23.6ノット(水上)/8ノット(水中)、重油774トン、乗員94名、安全潜航深度100m。兵装は95式魚雷17本、53cm魚雷発射管6門、40口径14cm単装砲1門、25mm連装機銃2基、零式小型偵察機1機。
艦歴
たゆたう深海の使者
1939年に策定された第四次海軍軍備充実計画(通称マル四計画)において、乙型一等潜水艦第143号艦の仮称で建造が決定。1419万円の建造予算が割り当てられる。
1939年6月7日、伊35の名で呉海軍工廠にて起工、1940年9月17日に進水式を迎え、1941年10月31日に艤装員長として河野昌通少佐が着任、それから間もない11月1日に伊30へ改名する。大東亜戦争開戦後の1942年2月5日、艤装員事務所を設置して事務作業を開始、完成が間近に迫った2月25日に乗組員を配置し、そして2月28日に無事竣工を果たした。初代艦長には遠藤忍中佐が着任。
竣工と同時に呉工廠を出発し、瀬戸内海西部にて補給訓練や慣熟訓練に従事。1942年3月2日、短い訓練期間を終えて呉に入港、さっそく出撃するための準備を始める。3月10日に姉妹艦伊29とともに第14潜水隊を編成。
3月11日18時30分、本州東方に出現した米機動部隊を索敵すべく、準備出来次第出撃を命じられ、翌12日に僚艦3隻と呉を出撃。東経160度線のL散開線まで進出するよう下令される。3月16日、L散開線に到着して索敵を行うも米機動部隊を発見出来ず、3月18日午前6時、帰投命令が下って3月20日に呉へと入港。次期作戦に備えて補給と整備を受ける。
3月27日、ベルリンのドイツ海軍総司令部は帝國海軍にインド洋での通商破壊作戦実施を要請。これを受けて3月31日、第14潜水隊は伊10(旗艦)、伊16、伊18、伊20、特設巡洋艦報国丸、愛国丸からなる甲先遣支隊(第8潜水戦隊)に編入。水上偵察機を持つ伊30と伊10は先行し、アフリカ東岸の連合軍基地を航空偵察。有力艦艇がいた場合は伊16、伊18、伊20の3隻がその港湾に甲標的攻撃を仕掛ける手はずとなっていた。
4月6日、大海指77号により伊30は初の訪独潜水艦に指定され、暗号名モミを与えられて単身ヨーロッパへ赴く事が決まる。去る1940年、ドイツで行われた技術調査で、射撃用レーダーウルツブルクの性能を目の当たりにした日本側は驚愕しており、そのウルツブルクの情報を入手するのが今回の訪独の目的だった。
作戦実行にあたり、軍令部潜水艦担当部の井浦祥二中佐がドイツ海軍と電報で打ち合わせ、受け入れ港をドイツ占領下フランスのロリアンに指定、ウルツブルクの現物を譲渡してもらえるよう、ドイツ海軍司令エーリッヒ・レーダー提督に根回しを行い、また伊30が到着するまでの間、フランス駐在の鈴木親太海軍技官がレーダー学校でウルツブルクの技術を学ぶ事となった。これに伴い、遠藤艦長は密かに軍令部に呼び出され、ロリアンまでの航行方法について詳細な説明を受けている。
呉停泊中、伊30の艦内に特殊な積み荷が大量に搬入される。いずれも厳重に密封されていて如何に重要な貨物であるかを静かに物語っていた。これら積み荷の正体を知っているのは遠藤艦長だけだった。4月10日に伊30は呉を出港し、4月20日、インド洋を臨むペナン基地へと進出する。
アフリカ東岸での作戦行動
4月22日未明、ペナンを出撃。朝もやが掛かるスマトラ島を左舷方向に見ながらベンガル湾方面へ進んでいく。やがて艦後方のマレー半島の陸地が水平線の向こう側に没した。
インド洋を西進する伊30。これからアフリカ東海岸で作戦を行うのだが、その作戦には無関係と思われる謎の積み荷の存在が、艦内の空気を奇妙なものにしていた。またインドからアフリカ東岸に渡る海図だけでなく、何故か喜望峰、アフリカ西岸、フランス沿岸を網羅した大西洋方面の海図も積み込まれており、乗組員たちの疑問は深まるばかりであった。
遠藤艦長は積み荷について固く口を閉ざしていたものの、これらの状況から、乗組員の間で「ドイツに赴くのではないか?」「厳重に密封された積み荷はドイツへ輸送する重要物資では?」といった噂が流れ始める。だがアフリカ東岸での作戦が近づくにつれて乗組員の疑問は脳裏の片隅へと追いやられていった。
厳重警戒を行いながら進むも、機影や船影は無く、そこには大海原のうねりがあるだけだった。イギリス軍の拠点があるセイロン島の南方を昼間潜航して大きく迂回し、4月30日にアラビア海まで進出。同日中に無電連絡が入り、後続の特設巡洋艦愛国丸、報国丸、伊10を始めとする大型潜水艦がペナンを出撃して、作戦海域に向かった事を知る。
伊30は連合軍の基地を航空偵察するべく、潜航と浮上を繰り返しながらアデン湾方面に向かう。アラビア半島とアフリカ大陸の間にあるアデン湾、その奥に位置するアデン港はイギリス海軍の重要基地であり、有力艦艇の在泊が予想されていた。
5月6日夜、闇夜に紛れてアデン港へ近づいた伊30は零式水偵を発進、港湾付近から港内まで入念に偵察し、翌7日午前10時30分に「軽巡洋艦1隻、駆逐艦3隻、輸送船10隻在泊。湾口に防備施設無し」との報告を受け、予定通りに帰投、水偵を手早く揚収すると急いで港口を脱出した。
続いて5月8日夜、潜航しながらアデンの対岸にあるジブチ軍港に侵入、港口で浮上し、再び水偵を放って港内の航空偵察を敢行する。しかし停泊中の軍艦数隻から対空射撃を受けて反転帰投。翌朝に再度偵察を行い、午前10時20分に「商船6隻の停泊と市街地の点灯」を伊30へ報告する。
大本営海軍部から司令・石崎昇大佐宛てに「マダガスカル島北端ディエゴスワレス軍港にイギリスの有力艦船が集結している」との報が入った。これを受けて石崎大佐は伊30に対し、アフリカ東岸に沿って南下しつつ重要基地の偵察を続行せよ、と命じる。しかし、海上は激しい荒天に見舞われ、激浪に揉まれた艦体は不気味な軋み音を上げるとともに、航行の自由に制限を課せられ、故障発生の報告が次々と寄せられた。
そのような過酷な環境下においても伊30は任務を遂行。5月19日にザンジバルとダルエスサラームを航空偵察し、商船2隻の停泊を確認したものの、敵艦艇の存在は認められず、水偵は母艦の上空へと戻って来た。海上は大荒れで、とても着水できるような状態ではなかったが、敵機または敵艦の来襲が予期されたため強行着水を行い、激浪でフロートの支柱が折損、機体が傾き始めた。すぐに搭乗員2名は救助され、機体も揚収用デリックで回収されたものの、以降は航空偵察が出来なくなってしまう。波間に漂うフロートは敵に鹵獲されるのを防ぐべく機銃掃射で沈めた。
5月20日、ザンジバル港の奥深くに潜入して潜望鏡偵察、「ザンジバルには出入り商船毎日数隻あり。夜間は航海灯を点じ、哨戒機及び艦艇を認めず」と石崎司令が座乗する伊10へ打電する。翌21日、モンバサへ潜入したのち潜望鏡偵察を行うも、敵艦艇は発見出来ず、港内で潜航したまま次の指令を待った。同じ日、石崎司令より暗号電報が入電、解読してみると「ディエゴスワレスに敵艦艇在泊の公算大と予想されるので、至急、同軍港方面に急航せよ」とあったので、直ちにモンバサを離れて東南方向に離脱する。
5月29日に伊30を含む大型潜水艦がマダガスカル島北方の洋上で集結。伊30からの報告を統括した結果、石崎司令はアフリカ東海岸にイギリス艦艇の姿は認められず、大本営の情報通り、ディエゴスワレスに敵艦隊が集結していると判断。その夜、伊10が水偵を放ってディエゴスワレスを航空偵察したところ、イギリス戦艦ほか多くの艦艇の在泊が確認された。こうして特殊潜航艇の攻撃目標はディエゴスワレスに定められた。
5月31日深夜、伊16と伊20から甲標的が発進し、最終的に全ての甲標的が失われたが、英戦艦ラミリーズと油槽船ブリティッシュロイヤルティを大破着底させる戦果を挙げる。
甲標的攻撃後は通商破壊戦が予定されており、石崎司令は連合軍の補給港があるモザンビーク海峡を狩り場に設定、更に南緯10度から26度に渡る海域を四分割し、伊10、伊16、伊18、伊20を配置、伊30はマダガスカル島東方、愛国丸と報国丸はモザンビーク海峡南方で通商破壊を行う。同海峡にはインド、アラビア半島、アフリカ東部に軍需物資を送る連合軍商船が多数往来し、それでいて枢軸国海軍の威力が及ばない海域であるため、護衛兵力は無く、夜間も警戒態勢を取っていないなど完全に油断し切っていた。
6月5日より伊30も単独でマダガスカル島東方を遊弋するが、航路から外れていたせいか、1隻の船影も発見出来ず。他の艦が大戦果を挙げている中で唯一伊30のみ何ら戦果を挙げられなかった。
6月17日、マダガスカル南東約250海里の合流地点に潜水艦5隻が集結、翌日サント・メリー岬南東200海里で報国丸と愛国丸から補給を受ける。石崎司令は第二次通商破壊を行うと命じるが、その作戦計画から伊30が除外されていた。何故なら単艦で重要任務に就く――すなわちドイツ占領下フランスを目指す事になっていたからだ。乗組員の「ドイツに赴く」という予想は見事的中していた訳である。
報国丸が伊30に接近し、太い給油パイプを伸ばして重油タンクを満杯にするとともに、譲渡用の零式水上偵察機、九一式航空魚雷の設計図(ドイツ側が熱望する酸素魚雷の譲渡を日本が拒否したためその代用)、八九式魚雷の現物、空母の設計図といった兵器類を受け取り、またドイツ国内で不足している雲母840kg、シェラック660kg、生ゴムなどの資源を積載。軍事機密のため九五式酸素魚雷を降ろして八九式魚雷を装備している。
遣独潜水艦作戦
6月18日、燃料と糧食の補給を完了した伊30は僚艦と別れて南西方向に舳先を向ける。石崎司令が座乗する伊10からは「幸運を祈る」の信号が送られてきた。こうして伊30は単身苦難の訪独の旅へ出発。
極めて重要な任務のため航海中は第6艦隊直轄となり、ケープタウン沖到着までは第6艦隊からの通信を、シンガポールの第10通信隊が伊30へ中継する。今回の作戦では「トーゴー」と呼ばれる特殊な暗号を使用、伊30の呼び出し符号も数種類制定した他、連合軍に位置を特定されないよう伊30側が厳重な無線封鎖を実施するなど、無線傍受対策を万全とするが、これにより第6艦隊は伊30の正確な位置が掴めなくなった。
今回の任務の成功率は極めて低かった。道中にはイギリス海空軍が支配する海域があり、優れたレーダー、水中聴音機、ソナーによる対潜警戒網が敷かれ、もしその網にすなどられようものなら、たちまち爆弾や爆雷を投じられて海の底へ送られてしまうだろう。加えて立ちはだかるのは敵兵力だけではない。
訪独するにあたって最初の難関は喜望峰一帯のローリングフォーティーズであった。南緯40度線を中心に東西約1600km、南北約320kmに渡って一年中天候が荒れている暴風圏で、常に40mを超える西向きの風が吹きつける過酷なる海域。しかし、喜望峰付近から飛来する南アフリカ空軍の哨戒機を避けようと、南方500海里へ迂回するとなると、どうしても暴風圏に入らなければならない。
乗組員の記録には「艦は木の葉のように翻弄された。波は艦首を超えて艦橋に激突し、海水がハッチから艦内に滝のように流れ込んだ。艦橋の分厚いフロントガラスも波の力でいつの間にか流失し、見張り員はロープで体を縛り付けて、ずぶ濡れになって2時間の当直を耐えた」とある。艦橋に大波が激突するたび、艦内では今にも圧壊するのではないかと思わせるほどの振動が発生したという。あまりの自然の暴威に危険を感じた遠藤艦長は、水深30mまで潜航するよう命じ、海中で天候の回復を待ったが、5時間後に浮上しても全く好転しなかった。
6月25日、排気口より流入した海水がエンジンのピストンを破壊して航行不能に陥り、強風と大波によって漂流させられる。漂流中は横揺れが45度に達し、真横になる間隔を覚えながら見る見るうちに東へと流されていく。機関科員たちは激しい揺れの中、総出でピストンを抜き取って分解修理を行い、組み立てて、エンジンを再始動させるが、翌日になると同様の理由でエンジンが停止してしまうため、これを大西洋に脱出するまで繰り返した。
6月30日、ダーバン南方で南アフリカ空軍の哨戒機に発見されたが無傷で振り切った。
乾燥野菜と缶詰めを副食にしていたので、ビタミン補給剤としてエビオスが食卓に置かれていた。清水は大変貴重なので、飲料水は制限され、洗濯はもちろん、体を満足に洗う事すら出来ないため、やむなくアルコールで体を拭うのだが、皮膚は垢で厚く覆われて擦っても擦っても無限に垢が湧いてくる。特に機関科は油と汗で汚れて異様な体臭を纏っていた。
7月15日に暴風圏を突破して南大西洋へ到達。ここまで来るともう波は穏やかだった。だが自然の猛威と入れ替わるように今度は連合軍の航空哨戒が立ちはだかる。先月だけで13隻のUボートが大西洋で失われているのだ。7月21日、「レーダー装備の敵哨戒機に警戒せよ」「帰航の出港前日は20日以降」という旨の通信が第6艦隊から入った。
ケープタウン沖を通過してからはドイツ海軍本部電信所と直接交信。依然として伊30は受信するのみで応答は一切出来なかった。アフリカ西岸を北上していく伊30。夜明けと薄暮の2回、航海長佐々木惇夫中尉と砲術長兼通信長竹内剱一少尉が天測を行って艦の位置を計測する。敵艦船への攻撃は禁じられているので、ただひたすらフランスに向かうだけの航海が続き、当直で見張りに立つ者以外は陽光を浴びられず、食事以外で時間の経過を知るすべは無かった。
明け方、赤道を北上通過している時にトビウオの群れが伊30とぶつかり、すかさず乗組員が甲板上へ打ち上がったトビウオをバケツがいっぱいになるまで回収。それから4~5日間は全員分の刺身と塩焼きが食膳を飾った。缶詰生活に飽き飽きしていた乗組員たちから大歓迎されたという。
7月中旬頃、アセンション島西方で見張り員が船影を発見。急いで潜望鏡を向けてみると、船腹に記された標識で、連合軍の非戦闘員交換船である事が判明した。発見されるのを防ぐべく遠藤艦長は潜航を命じる。下旬には地中海の入り口にあたるジブラルタル西方を北上。ここまで来ると乗組員の間にも安堵の色が広がり始めた。
間もなく伊30は危険海域に差し掛かった。アゾレス諸島にはイギリス軍の航空基地が設けられ、そこから飛び立つ哨戒機が厳重な警戒を絶え間なく行っており、本来であれば日中は潜航して進まなければならないのだが、ローリングフォーティーズで2週間も浪費した関係上、遅れを取り戻すべく危険を承知で水上航行を敢行。
8月1日、アゾレス諸島の敵哨戒圏内にて、見張り員が接近してくる敵機を発見、艦長は直ちに急速潜航を命じ、伊30は迅速に海底深く潜り込んだ。敵機は伊30を見失ったらしく、遠くから爆雷の炸裂音が聴こえてきた。日没後に安全を確認して浮上。ドイツ側からの無線通信によると、イギリス軍機はレーダーで艦影を捉え、激烈に攻撃を仕掛けてくるらしい。哨戒機に発見された以上、間もなく伊30は激しい攻撃に曝されるだろう。この日、日本側は伊30に「桜」というコードネームを、ドイツ側は「U-Kirschblüte(キルシュブルーテ。桜の意味)」のコードネームを付けた。
翌2日正午頃、東方の雲の切れ目から黒点が徐々に大きくなりつつあるのを発見。即座に急速潜航を意味するブザーが艦内に鳴り響いた。しかし敵機の速度は予想以上に速く、艦が沈み切る前に爆弾が投下され、それが至近弾となって伊30の巨体を揺り動かす。「前部魚雷発射管室浸水」が報告されるも後の確認で誤りと判明した。遠藤艦長は責任者を叱責したが、深い安堵感からか苦笑交じりだったという。実際の被害は甲板の板が剥がれる程度のものだった。
フランスに近づくという事は敵国イギリスに近づく事も意味する。このためアゾレス諸島北東200海里沖からは常時潜航して進む。針路はスペイン領北端、平均速力7ノット、慎重に海の中を泳ぐ伊30のもとにドイツ駐在海軍武官から機密電が入り、目的地ロリアンまでの航路を詳細に指示してきた。それによると「オルテガル岬沖合いの水深100mの海域を通過してビスケー湾に入り、湾内で待機中のドイツ海軍と合流せよ」との事だった。また「応援に来てくれるドイツ空軍のユンカースJu88爆撃機8機は、敵味方識別の目的で、伊30を発見した際、Ju88は機上から信号拳銃を発射するため、対する伊30は艦橋上の昇降短波マストに軍艦旗を掲げて応答するように」「イギリス軍機による哨戒が活発化しているので合流地点までは完全に潜航して航進せよ」とも添えられている。
ビスケー湾の入り口にあたるスペインのオルテガル岬沖に到達。少し遡ること7月17日、U-751が付近で航空攻撃を受けて撃沈されており、ここから先も危険地帯と言えた。
オルテガル岬沖を抜けて最後の難関ビスケー湾に差し掛かった。ここを抜けられればゴールのフランスなのだが、敵国イギリスの眼前にある立地上、湾内にはレーダーを持った大量の敵機が目を光らせ、更にイギリス軍はリー・ライトと呼ばれる強力なサーチライトを開発、バッテリー充電のため、夜間に水上航行するUボートへの的確な攻撃手段を獲得していた。実際伊30到着の1ヶ月前にロリアンへ帰投中だったU-502がリー・ライトで沈められている。したがって極力潜航して進まなければならなかった。
8月5日午前8時、時計の針が定刻を指したため伊30はゆっくりと海面に向けて浮上を開始、しかしここはイギリス軍が哨戒を行っているビスケー湾内、もし間違った場所で浮上すれば、すぐさま敵機が突っ込んでくる事だろう。艦内の緊張が極度に高まる中、潜望鏡を伸ばして上空の様子を探ってみたところ、レンズの中いっぱいに澄み切った朝の青空が広がっていた。程なくして遠藤艦長が飛行するJu88爆撃機を発見。打ち合わせ通り、機上から閃光が放たれ、その光が尾を引いて落下していくのが見えた。艦内では歓声が沸き上がった。
艦が完全浮上すると直ちに軍艦旗が掲げられる。付近の洋上にはM級掃海艇8隻の姿も見え、白波を立てながら高速でこちらに向かってきている。掃海艇は伊30の前方に5隻、後方に3隻という整然とした陣形を組み、その上空をJu88が旋回、あっと言う間に立体的な護衛陣が完成した。ロリアンに向けて移動していると前方に1隻の小型船を発見。その小型船は伊30に横付けすると、駐独大使館付海軍武官首席補佐官・渓口泰麿中佐と水先案内人役のドイツ軍士官が移乗、遠藤艦長は瞳を涙で濡らしながら渓口中佐と固い握手を交わし、渓口中佐の通訳を介してドイツ軍士官とも挨拶を交わした。
ロリアン軍港に近づくにつれ、想像を絶した防御施設の全容が明らかになっていく。渓口中佐の説明によると、イギリス本土基地から出撃した敵爆撃機は1時間以内で飛来し、連日のように港の防御施設を始め、出入港する艦に激しい銃爆撃を仕掛けているのだという。つまり、ロリアンはドイツ軍の重要な海軍基地であると同時に、戦場でもあったのだ。伊30の横ではドイツ空軍の大型機が海面すれすれを飛行し、装備した環状の電磁石でイギリス軍が湾口に敷設した機雷を掃海している。乗組員は戦慄した。今航行している海域は機雷に覆われている事が分かったからだ。いつのまにか前方に機雷原啓開船がいて、体を張って前路の掃海してくれていた。
入港を直前に控えた艦内では、大急ぎでヒゲ剃りや散髪を行って身だしなみを整えるが、4ヶ月間も風呂に入れていないため、臭いだけはどうしようもなかったらしい。
そして8月6日、1ヶ月半以上の航海を経て最大のUボート基地を有するロリアン軍港へ到着。乗組員たちは紺色の第一種軍装に着替えて舷側に整列し、岸壁に並んだ沢山の人からの熱烈な歓迎を受けながら、ゆっくりと桟橋の方へと向かっていく。特にドイツ海軍軍楽隊が奏でる君が代に彼らは涙を禁じ得なかった。苦労したのは乗組員だけではない。過酷な道のりを経た伊30もまた、黒い塗装がボロボロに剥がれ落ち、赤さびが浮いた、とても5ヵ月ほど前に竣工した新造艦とは思えない「老いた」状態だった。
フランスでの歓待
廃船を利用した桟橋に係留された後、遠藤艦長と乗組員は陸上で待っていたフランス車に乗ってU-67の甲板上へ移動。そこではエーリッヒ・レーダー提督やカール・デーニッツ提督、占領軍司令オットー・シェルツェ海軍大将、駐独海軍武官の横井忠雄大佐などの重鎮が待っていて、全乗組員が見守る中、遠藤艦長は彼らと固い握手を交わした。
岸壁にはUボート乗組員、兵士、看護師、女性、民間人が整列して伊30の入港を歓迎し、成功したUボートの艦長には花束を贈る伝統に従い、遠藤艦長もまた魅力的な若い女性から花束を受け取った。その後、士官一同は桟橋から上陸して軍艦行進曲を奏でる軍楽隊を閲兵。伊30到着の様子を撮った写真はドイツのコブレンツ連邦公文書館に収められている。
同日中に旧フランス海軍工廠の大広間で、伊30乗組員向けの公式挨拶と晩餐会を実施。日独下士官の中には海軍の古い慣習に従って帽子のバンドを交換する者もいたという。伊30乗組員はUボートに乗る事を許可され、興味深そうに写真を撮りまくった一方、ドイツ人乗組員には伊30の見学を許されなかった。
ロリアンは、イギリス空軍基地から僅か1時間程度の距離しか離れていない最前線基地であり、上空には阻害気球、港内には防潜網を張り巡らし、空襲からUボートを守るため厚さ7mの鉄筋コンクリートで作られた巨大ブンカーを多数擁していた。ブンカーは格納庫と工廠を兼ねている上、試運転可能な水深と数隻のUボートが並べられる広さがあり、その完璧な防御体制と運用は日本海軍関係者を唸らせた。
ドイツ向けの積み荷を降ろした伊30はケロマンブンカーに入って整備。まず最初にドイツ海軍関係者が驚いたのは、信じられないほどの巨体であった。あまりの大きさにブンカー内へ入りきらず艦尾がはみ出ていたとか。
遠藤艦長以下士官4名はアドルフ・ヒトラー総統の招待を受け、飛行機でベルリンに移動し、政府高官やヒトラー総統と謁見。日独連絡路を切り開いた功績でホワイトクロス勲章を授与された。約100名の乗組員は二手に分かれて急行列車でパリに移動、1日間だけ観光する時間が与えられ、案内役のコッホ少尉を連れてエッフェル塔や凱旋門、シャンデリゼ通りで楽しむ。乗組員がキャバレー「リド」に立ち寄ると、演奏者がそれまで奏でていた音楽を止め、軍艦行進曲を演奏してくれた。何やらパリ市内では軍艦行進曲の旋律が流行っていたらしい。市内の治安も良好で、腰の短剣以外は何も装備せずに心行くまで観光を楽しめたという。夜はリッツホテルに宿泊した。
観光を終えると、潜水艦乗組員の休養地であるシャトーネフへと案内され、Uボート本部があるピエールフォン城に2泊して羽を伸ばす。その後はドイツ水兵と騎馬戦、棒倒し、海水浴を堪能した。ドイツ側は「日本人は茶が好き」という情報をもとに紅茶を提供していたが、日本人乗組員はそれをあまり好まずコーヒーばかり飲んでいたという(紅茶ではなく緑茶が好きと気付いたのは後の事だったらしい)。
また伊30側から「インド洋における連合軍の対潜警戒がガバガバ」との情報がドイツ側にもたらされた。この情報が後にモンスーン戦隊結成のきっかけとなる。
乗組員が休暇を楽しんでいる頃、伊30から積み荷が降ろされ、海軍武官を通じてドイツ側に譲渡された。フロートを折損した零式水偵も本国の許可を得て一緒に贈られる事となり、ドイツ海軍を大いに喜ばせた。
一方、連合軍は、ビスケー湾を航行している伊30を二度哨戒機で発見し、またフランスにて活動中のレジスタンスが通報したのもあって、ロリアンに伊30がいる事を把握。イギリスのロンドン放送が「日本の潜水艦がドイツの軍港に到着している」と報じた。
内地出発前、軍令部より「伊30はドイツ側に見学せしめ差し支え無し」との指示を受けていたため、遠藤艦長はドイツ海軍潜水艦関係者を艦内に招いて見学させ、現地のドイツ海軍士官や潜水艦専門家が技術調査を開始。彼らは「太鼓を叩きながら歩いているようなもの」とエンジンの騒音の大きさを指摘。艦長は最新鋭艦を悪く言われて顔をしかめたものの、彼がUボートを視察した際、確かにエンジンその他騒音が少なく、床などにも足音を消すような特殊な配慮が払われている事を知り、納得せざるを得なかった。
ドイツ側の厚意で主機や補機の台座に防振ゴムを設置するなどの防音工事を実施、九六式25mm連装機銃をエリコン20mm四連装機銃に換装した他、Uボートに搭載され始めたばかりの電波探知器メトックス・ビスケー・クロスを艦橋に装備。これはリー・ライト対策用に開発された新兵器で、木枠にワイヤーを巻き付けただけの急造品アンテナでメトックスを固定していた。また、太平洋での運用を想定して伊30には黒色の塗装が施されていたが、大西洋では却って目立つという事で、大西洋の海面色に紛れやすいようUボートと同じ明るい灰色に塗り替えている。8月20日工事完了。
工事と並行して、日本へ持ち帰るウルツブルグレーダーの現物とその設計図、キールで訓練を受けたレーダー専門家・鈴木親太技手、潜水艦用魚雷方位盤、エニグマ暗号機50台、100万円相当の工業用ダイヤモンド、G7a航空魚雷5本、G7e電気魚雷3本、対戦車砲、射撃管制装置、20mm高射砲などを積載。この中で最も重要な積み荷だったのはエニグマ暗号機と工業用ダイヤモンドとされる。艦内には乗組員が個々にパリで購入したお土産、ドイツ側から贈られたカメラ、洋服、腕時計も一緒に積載されていた。
伊30の調査記録はドイツ海軍のカール・デーニッツ提督とエーリヒ・レーダー提督のもとへ届けられた。その秘密報告書によると「艦内の衛生設備がない」「機械が旧式」「潜航深度が100m程度と浅い」「操縦性の悪さ」「急速潜航秒時の遅さ」「非常に高い騒音レベル」などの欠点が書き連ねられていた。これでは旧式のソナーにも捕まってしまうとして、ドイツ側は日本に潜水艦建造の専門家を送って、技術交流を加速させる事を決めた。
ちなみに贈られた零式水偵は、試験飛行の様子を撮影し、フランスの基地に日本海軍航空機が存在する証拠映像として連合軍の撹乱に使用されている。
帰路
8月22日の日没が迫ると慌ただしく出港準備が始まり、伊30がブンカー外へと引き出されていく。港内に出るとエンジンを始動させて動き出し、ドイツ軍機の援護を受けながら湾口に移動、そしてロリアン出港と同時に潜航してビスケー湾を進む。連合軍に気取られないよう試験潜航を装っての出港だったため入港時と比べて簡素な見送りだけだった。
この日の気象条件は極めて悪く、出発は延期になると思われていたが、ドイツ側の忠告により予定通りの出発となる。というのも、イギリス軍はレーダーを駆使してドイツ艦船を1隻も漏らさず撃沈しようと狙っており、それを避けるには荒天の日の夜陰に紛れて、一気に突破するのが望ましかったのである。
潜航したまま無事にビスケー湾を突破。Uボートの場合だと航続距離の都合上、ビスケー湾を潜航したまま突破するのは不可能だが、大型で速力に余裕のある伊30には潜航突破が可能であった。アゾレス諸島北方を潜航状態で大きく迂回した後、水上航行に移行して南下を始める。
大西洋ではメトックスは威力を発揮、敵機の攻撃を受けずに大西洋も突破し、喜望峰に差し掛かる。往路では難所として立ちはだかったローリングフォーティズも、帰り道は西向きの風が追い風となり、速力を上げて順調に突き進んで、9月22日に喜望峰を突破。つつがなくインド洋に入った。
9月25日、ドイツのプロパガンダ放送は「日本の潜水艦が大西洋で活動するUボート戦隊に加わった」と偽情報を流し、大本営も「伊30がヨーロッパの訪問に成功した」と発表。翌26日付の朝日新聞には「帝國海軍・大西洋上に出撃活躍 枢軸海軍と協同作戦行動 我が潜水艦・独基地に寄港」という見出しで記事を掲載。臣民にも知られるところとなった。また伊30の訪独は9月30日のドイツ週間ニュースで国内にも報道され、当時の映像が現在も残っている。
48日間の航海と1万4000海里を経て10月8日未明にペナン基地へ到着。燃料補給を受ける。ここで兵備局長の保科善四郎少将が、司令部で使用するためのエニグマ暗号機10台をシンガポールに揚陸するよう命令。この命令は保科少将の独断であり、伊30は本来予定に無いシンガポールへ寄港する事になるも、この独断が後に最悪の事態を招いてしまう。
そうとは知らずに10月11日夕刻にペナンの南水道を出港。航行中、シンガポールの第10根拠地隊から暗号電文を受信するが、伊30が持っていた暗号表は古くて解読出来ず(伊30が用いていた暗号表が特殊で解読出来なかったとも)、内容を窺い知る事が出来なかった。
日付が変わって間もない10月13日夜、マラッカ海峡を通ってシンガポール沖へ到着。水先案内人を第10根拠地隊に派遣するよう求めようとしたものの、暗号表の問題で連絡が取れなかったため、やむなく単独で港の入り口を目指す。この時、長旅の疲れと味方の港に辿り着いて緊張の糸が切れたからか、乗組員全員が注意散漫となっていたようで、ケッペル商港へ入った時に舷側に沈没船のマストがある事に気付かず、ギリギリのところで回避したり、誤って陸軍の錨地に投錨してしまったりしていた。
同日午前9時30分にどうにか停泊。上陸した遠藤艦長を第1南遣艦隊司令・大河内傳七中将や上級将校ら高官が出迎え、命令通り10台のエニグマ暗号機を揚陸。ロリアン出港から消息が掴めなかった伊30が無事にシンガポールまで辿り着いたと分かり軍令部は安堵したという。遠藤艦長が大川内中将や第10根拠地隊の面々と会食を取っている間、航海士がシンガポール周辺の機雷掃海海域を示した海図を受け取る。
最期
1942年10月13日16時に「出港用意、錨揚げ」の号令が下り、16時9分に呉へ向けてシンガポールを出発……その僅か東方3海里で、港湾防御用に敢えて撤去しなかったイギリス軍の機雷に触れてしまう。入港時は偶然満潮だったため機雷の上を通過しただけで済んだが、出港時は干潮だったのである。
たちまち艦は前へ傾き、出港直後でハッチが全て開いていた弊害で海水が一気に流入、艦首を海中に突きこむ形で沈没していった。事故発生の急報が第1南遣艦隊と第10特別根拠地隊、両司令部に届くと色を失った。部員たちは狼狽しながらも、乗組員救助のため商港から多くの小型船舶を向かわせ、死亡した下士官13名を除く遠藤艦長以下乗組員96名は無事救助された。しかし乗組員たちは虚脱状態のまま海岸で膝を折っていた。無理もない。苦しみに満ちた大航海が成功で終わると喜んでいたのに一転して悲嘆の淵へと突き落とされたのだから。
遣独潜水艦作戦の成功を目前にして、発生した触雷事故は、艦もろとも機密兵器を多く失う結果となり、海軍を失望させてしまった。幸い港湾の近くだったので浅瀬に沈没しており、すぐさま積み荷のサルベージが試みられた。
沈没から一週間が経過した10月20日、佐世保工廠(シンガポールの第101工作部とも)から300名が派遣され、水深37mに沈没した伊30から積み荷の回収を図る。主要メンバーの中には沈没船引き揚げに関しては海軍屈指の権威だった玉崎坦造船中佐が参加していた。結果、13名の遺体と積み荷の大部分を引き揚げる事に成功。このうちエリコン20mm機関銃200丁や潜水艦用方位盤、工業用ダイヤモンド等は使用可能で、回収されたレーダーの設計図は日本陸軍の超短波警戒機乙タチ24号の基礎となり、1943年末より運用を開始している。
しかし肝心なウルツブルクレーダーや設計図、エニグマ暗号機40台、電波測定装置とその設計図は破壊されて使用不能であった。また艦自体の引き揚げは現地の作業能力を超えるため断念している。
引き揚げ作業には遠藤艦長も協力していたが、彼は艦を失った事や遣独潜水艦作戦を失敗させてしまった事に、大変責任を感じていたようで、協力中の様子は、第一南遣艦隊参謀に自決を予期させるものだったという。その後開かれた査問会では、遠藤艦長の責任が問われたものの、予定に無い兵備局の寄港指示などが考慮され、最終的に軍令部からの指示で不問に付された。1943年2月15日、日本政府はベルリンに「伊30に積載されていた40台のエニグマ暗号機が失われた」と報告した。
ウルツブルクの技術を学んだ鈴木技手は難を逃れて日本に帰国。しかし伊30の沈没を秘匿するためと、ウルツブルクは第二類最高機密に属する極秘事項であり、技手の身分だった彼には図面さえも教えられないという事で、帰国後は箝口令が敷かれて監禁されている。
生き残った遠藤艦長は地上勤務を断って前線に立つ事を希望し、伊43の艤装員長に就任。伊43が撃沈された時に彼も戦死している。戦後の1959年8月から1960年2月にかけて北星船舶工業株式会社が伊30の残骸を引き揚げて解体。回収された遺骨は無言の帰国をした。潜水艦関係者で構成される伊呂波会は「伊30の受け入れ態勢が不適切だった」と海軍の措置を批判している。
その後の影響
遣独潜水艦作戦成功直前に沈没してしまったのはまさに痛恨事であった。しかし同時に数々の影響も残した。
連合軍の警戒激化により、封鎖突破船の成功率が著しく低下する中、ドイツ海軍は封鎖突破船の代わりに高い隠密性を誇る潜水艦を使おうとしていたが、伊30がロリアンまで辿り着いた快挙は、その腹案の実現可能率を補強するものであった。1943年3月31日、駐独日本大使は「エーリヒ・フォン・マンシュタイン元帥が、封鎖突破船が多数沈没しているので、旧式の大型Uボートを改造して極東・ヨーロッパ間の軍需物資輸送に充てるべきだと提案した」と東京に報告している。
潜水艦による極東派遣案はイタリアにも波及し、1943年中期、伊号潜水艦と同じように大型だった、ボルドーのイタリア潜水艦9隻が東南アジアに向かうべく、逐次輸送用に改装された。このうちルイージ・トレッリは、伊30によるウルツブルク輸送が失敗に終わったため、テレフンケン社のハイリンヒ・フォーダス技官と日本陸軍の佐竹金次中佐を乗せて出発、目的地のシンガポールまで辿り着き、日本へウルツブルクレーダーの技術が伝達された。
またロモロ級潜水艦の開発計画がスタートしたのは伊30の訪独成功がきっかけと言っても良いだろう。
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関連項目
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