ガンバ大阪(GAMBA OSAKA)とは、大阪府吹田市、茨木市、高槻市、豊中市、摂津市、池田市、箕面市を本拠地とするプロサッカークラブである。
概要
日本プロサッカーリーグ | |
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ガンバ大阪 | |
基本情報 | |
創設 | 1980年 |
クラブカラー | 青、黒 |
所属 | J1リーグ |
本拠地 | パナソニックスタジアム吹田【大阪府吹田市】 |
ホームタウン | 大阪府吹田市、 茨木市、高槻市、 豊中市、池田市、 摂津市、箕面市 |
前身クラブ | 松下電器産業サッカー部 |
プロサッカークラブテンプレート |
前身は松下電器産業(現:パナソニック)サッカー部で、1991年10月1日に運営会社を独立させJリーグに加盟。Jリーグ発足時より参加しているオリジナル10の一つである。
チーム名の「ガンバ」はイタリア語で「脚」という意味で、日本語の「頑張る」にも通じる名前として採用された。マスコットは松下進デザインの「ガンバボーイ」で、ゼウスの生まれ変わりという設定である。ガンバって勝利を勝ち取る元気なサッカーボーイであり、雷の形の闘志あふれるエネルギーをその手につかんでいる。
以前はホームスタジアムとして万博記念競技場を使用していたが、FIFAが定める国際規格を満たしておらず老朽化も進んでいたことで、2016年より新スタジアムである「パナソニックスタジアム吹田」を使用するようになった。
Jリーグ開幕当初は下位に低迷し、名古屋グランパス、浦和レッズとともにお荷物クラブと揶揄されていたが、2000年あたりから、ユース上がりの選手達の活躍もあり徐々に順位をあげてくる。そしてついに、2005年、リーグ戦を制覇し悲願の初タイトルをチームにもたらした。
その後、2007年のナビスコカップ優勝、2008年には天皇杯優勝とAFCチャンピオンズリーグ優勝の二冠を達成、2014年には国内タイトル三冠(リーグ戦、ナビスコ杯、天皇杯全てを優勝)を達成し、2015年には天皇杯連覇を達成。今ではJリーグ屈指の攻撃力を誇るチームとなっており、西日本ではもっとも多くのタイトルを獲得したチームである。
また、初代ユース監督であり、2008年まで育成・普及部長を務めた上野山信行の指導のもとクラブアカデミーがユースの大会で多くのタイトルを獲得しており、これまで宮本恒靖、稲本潤一、大黒将志、橋本英郎、二川孝広、家長昭博、宇佐美貴史、堂安律といった日本を代表する選手を輩出している。ちなみにユースには上がれなかったものの本田圭佑もガンバ大阪のジュニアユースの出身である。
2012年は吹田市に加え、茨木市、高槻市、豊中市を、2015年には池田市、摂津市、箕面市をホームタウンに加えることがそれぞれJリーグ理事会で承認された。同じ大阪府のチームであるセレッソ大阪が大阪市をホームタウンとしているのに対し、ガンバ大阪は北摂・北河内地域の14市3町を重点地域にしている。
歴史
近畿地方のチームで唯一のJリーグクラブとなることが内定し、1992年に前身である松下電器サッカー部を母体に「パナソニックガンバ大阪」と命名。
Jリーグ開幕となった1993年だったが、記念すべき最初の試合こそ勝利したものの、チームの成績は振るわず、年間成績7位で終える。高卒ルーキーの松波正信がハットトリックを決めるなど明るい話題もあったが、古参選手と釜本邦茂監督の確執が生じるなど問題を抱え、シーズンオフには大量の選手が解雇されることとなった。
1994年はエースでありチームの顔だった永島昭浩が釜本監督との対立によって移籍。磯貝洋光、松波、山口敏弘ら若手と旧ソ連代表トリオを中心としたが、前時代的ともいえる釜本の采配もあって潜在能力は高いはずのチームは力を出し切れず、7連敗を喫するなど最下位争いの常連に定着してしまい低迷。浦和レッズ、名古屋グランパスエイトと並んで「Jリーグのお荷物」と揶揄されるようになっていた。成績不振の席にを取る形でシーズン終了後、釜本は退任となる。
1995年にはジークフリート・ヘルト、1996年にはヨジップ・クゼといずれも欧州の監督を招聘するも、チームの成績が大きく変わることはなく、浦和や名古屋がチームの強化に成功したのを尻目に4年連続でのシーズン負け越しとなる。磯貝や松波も期待したほどは伸びず、袋小路に迷い込んでいた。
停滞したチームの流れを変える一人の男が1997年にやってくる。パリ・サンジェルマンの下部組織出身であるカメルーン代表のパトリック・エムボマは規格外の身体能力でゴールを量産し、Jリーグを掻き回す存在となる。また、ユース出身で早くから逸材と称されていた宮本恒靖、稲本潤一も台頭。当時17歳だった稲本はJリーグの最年少試合記録を更新している。「浪速の黒豹」というあだ名が定着するほど人気選手となったエムボマはこの年28試合25得点の活躍で得点王を獲得。チームは2ndステージで2位に入り、年間順位も4位と過去最高の成績を残した。
1998年は退任したクゼの後任にフレデリック・アントネッティが就任することとなったが、欧州のシーズン終了後の来日という契約になり、フリードリッヒ・コンシリアコーチが指揮を執ることに。こうした歪な指揮系統が影響したのかチームは再び低迷。頼みのエムボマは7月にセリエAへ移籍。アントネッティ就任後も流れは変わらず、年間15位と低迷する。
1999年も成績は振るわず、1stステージ終了後にアントネッティは退任。2ndステージから早野宏史が監督に就任する。若い選手の多いこの頃のチームはなかなか安定した戦いをできずにいたが、2000年の2ndステージになると稲本を中心に若い選手たちが躍動。開幕から5連勝を飾り、鹿島アントラーズとの優勝争いを繰り広げる。しかし、当時黄金時代にあった鹿島、磐田との直接対決に敗れ、4位に留まる。
2001年に遠藤保仁と山口智が加入。ニーノ・ブーレの活躍もあって1stステージは5位に入る。しかし、2ndステージでは夏にアーセナルFCへ移籍した稲本の穴を埋めることができず、チームは低迷。第8節でC大阪との大阪ダービーに敗れると、早野は辞任。コーチから昇格した竹本一彦が後任となるが、チームは浮上することなく11位で終了。年間順位は7位。
2002年、西野朗が監督に就任。外国人の獲得をこれまでの欧州中心からブラジル中心へと方針を変え、ゲームメーカーの遠藤保仁を中心とした攻撃型のチームを作ろうとする。1stステージでは4位、2ndステージではジュビロ磐田と優勝を争い、2位という好成績を残す。年間順位も3位と過去最高の成績を残し、後に訪れる黄金期の到来を予感させるシーズンとなった。
2003年は躍進を遂げた前年とは打って変わって不振に陥ってしまう。年間で7度アディショナルタイムで失点を喫するなど勝負弱さが目立ち、失った勝点が積み重なった結果、一時は残留争いに加わるほどだった。結局この年は4年ぶりに負け越しとなった。
この年、クラブのOBであり1996年の試合中の事故から脳腫瘍に罹患し治療を続けていた今藤幸治が4月17日に死去する。
2004年はフェルナンジーニョとシジクレイというJリーグでも実績のある外国人を獲得し、戦力を大幅にアップさせる。この年、ユース出身の大黒将志が日本人最多となる20得点を挙げ、2種登録選手の家長昭博がデビューしゴールを決めるなど、戦力の底上げがなされる。成績面でも1stステージ、2ndステージ共に優勝争いに加わり、年間3位という好成績を残す。
そして、西野体制4年目となる2005年、藤ヶ谷陽介とアラウージョを獲得。序盤戦は開幕6試合でわずか1勝と苦戦するが、当初は連携面で苦労していたアラウージョがフィットするようになるとチームは上昇気流に乗るようになる。
シーズン中盤戦からアラウージョ、大黒将志、フェルナンジーニョが絶妙なコンビネーションを披露するようになり、J1屈指の攻撃力を発揮するようになる。第22節でついに首位に立ち、ナビスコカップでは初の決勝進出を果たすが、PK戦でジェフユナイテッド千葉にPK戦で敗れ、初タイトルを逃す。
リーグ戦では優勝争いが佳境に入ったシーズン終盤戦になって失速。第33節終了時点でC大阪に抜かれ、2位に後退する。それでも、最終節で川崎に勝利し、勝点1差の首位だったC大阪がFC東京と引き分けたため、クラブ創設以来初タイトルであり、また関西のチームとして初となるJ1リーグ優勝を果たす。
この年、33得点とゴールを量産したアラウージョは得点王とリーグMVPのダブル受賞を果たし、アラウージョ、大黒、遠藤の3人が二桁得点を記録した攻撃陣は驚異の破壊力を見せつけた。そして、1993年のJリーグ開幕からずっと在籍していた「ミスター・ガンバ」松波正信が優勝を見届けて現役を引退する。
2006年は優勝の原動力となったアラウージョと大黒の2トップが揃って退団するが、穴埋めとしてマグノ・アウベスと播戸竜二を補強。さらに明神智和、加地亮という代表クラスの選手も獲得する大型補強をおこなう。
遠藤保仁、二川孝広。橋本英郎、明神智和で構成された中盤は抜群のパスワークで相手を圧倒し続け、「黄金の中盤」と称され、G大阪=パスサッカーのイメージを定着させることになる。
リーグ戦は最終節前で浦和に勝点3差の2位であったが、最終節の浦和との直接対決に2-3で敗れ、リーグ連覇はならなかった。天皇杯でも初の決勝進出を果たしたが、またも浦和に敗れ準優勝と魅力的なサッカーを披露しながらあと一歩で無冠に終わる。
2007年は開幕前のゼロックススーパーカップで三度浦和とタイトルを賭けて戦い、今度は4-0で勝利しタイトルを手にする。リーグ戦では2年連続で3位に終わったものの、ナビスコカップでは二度目の決勝進出を果たすと、川崎フロンターレをくだして初優勝を遂げる。
2008年は二度目の出場となったACLで勝ち上がり、準決勝では浦和との初のJリーグ勢同士の対決を制し、ファイナルへと進出。11月12日のアデレード・ユナイテッドとの決勝では、2試合トータルで5-0と圧勝し、クラブ史上初となるアジア王者の座に就く。ACL史上3クラブ目の無敗での優勝、そして、史上初のアウェー全勝での優勝であった。遠藤保仁が大会MVPを受賞。また、AFCよりアジア年間最優秀クラブ賞を受賞し、西野朗がアジア年間最優秀監督賞を受賞した。
一方、ACLとの兼ね合いもあって公式戦を過去最多の61試合をこなす過密日程となってしまい、シーズン中盤に播戸、遠藤が相次いで体調を崩して離脱したことも重なり、リーグ戦では優勝争いから早々と脱落し8位に終わる。
12月にはFIFAクラブワールドカップ2008に出場。準々決勝で再びアデレード・ユナイテッドと戦い勝利すると、準決勝でイングランドの名門マンチェスター・ユナイテッドと対戦。世界の強豪相手にも持ち前の攻撃的なサッカーで立ち向かい、壮絶な打ち合いの末に3-5で敗れる。この試合で遠藤保仁が世界的名GKエドウィン・ファン・デルサールを相手に得意のコロコロPKを決めたシーンは語り草となっている。3位決定戦ではパチューカ相手に勝利し、世界3位となった。
さらにこの年の天皇杯でも選手たちは疲労困憊の中で決勝まで勝ち進む。決勝では柏を相手に延長戦の末に1-0で勝利し、G大阪として初優勝、前身の松下電器時代の1990年度大会以来18年ぶり2度目の優勝を果たす。これにより、国内3大タイトルを全て獲得した5つ目のクラブとなった。
2009年は新戦力が期待を裏切り、レアンドロが7月にカタールへ移籍してしまったこともあって低迷。一時は首位と勝ち点差19が離れ、優勝は絶望的と思われた。しかし、後半戦はACLで敗退したことによって日程面が緩和されたこともあり復調。最終的には優勝争いに顔を出し3位でシーズンを終える。一方、天皇杯では2年連続で決勝まで駒を進めると、決勝の名古屋グランパス戦では遠藤の2ゴール1アシストの活躍もあって4-1と快勝し、歴代7チーム目となる天皇杯連覇を達成。
2010年は大きな補強をおこなわなかったことが裏目に出てしまい、シーズン開幕から公式戦6試合未勝利と不調に陥る。しかし、後半戦に入ると新戦力のイ・グノの活躍、平井将生の覚醒、まだ高校生だった天才・宇佐美貴史の台頭によって巻き返しに成功し、2位に入る。
2011年は開幕から得点源として活躍していたアドリアーノがカタールへ移籍、宇佐美もバイエルン・ミュンヘンに移籍する危機を迎える。しかし、後半戦に入ると新戦力のラフィーニャが穴を埋める活躍を見せたことで戦力低下の影響を薄め、守備の不安定さが目に付いたが、肉を切らせて骨を立つ戦いぶりで優勝争いを演じる。だが、第29節で名古屋に大敗し、最終節まで可能性を残しながらも3位に終わり、2年連続での無冠となる。
シーズン終了後、2002年から10年もの間、監督を務めてきた西野朗が退任。クラブ側がマンネリ化し始めていた西野体制に見切りを付ける格好となった。
2012年、新監督にはジョゼ・カルロス・セホーンが就任した(実質的にはヘッドコーチの呂比須ワグナーとの二頭体制)。しかし2012年シーズンは序盤から低迷し、リーグ戦ではクラブ史上初となる開幕3連敗、公式戦5連敗を喫する最悪のスタートとなってしまう。結局、リーグ戦第3節終了後の3月26日にセホーン監督及び呂比須コーチは解任され、コーチの松波正信が監督に就任した。
第6節の川崎F戦で今季初勝利を挙げたものの、5月~7月の11試合で最下位の札幌から奪った1勝にとどまるなど、結果を出すことができなかった。ACLもグループリーグで敗退し、終盤は降格争いに巻き込まれる事となった。降格圏の16位で迎えた最終節で磐田に敗れ、クラブ史上初のJ2降格が決まった。
シーズン得点はリーグ1位の67ながら、リーグワースト2位の65失点が大きく響く形となった。なお、オリジナル10のJ2降格は5クラブ目(J1リーグ制覇後の降格は東京V(2005)に続き2クラブ目)。
初めてのJ2、2013年シーズンは監督に長谷川健太を迎え、ヴィッセル神戸と激しい首位争いを重ね、残り3試合を残してJ1への自動昇格条件である2位以内を確定させ、2014年シーズンは再びJ1に戻る事になった。最終的には2試合を残してJ2優勝も決めた。
総得点99点は2位のヴィッセル神戸(78得点)を大きく上回るJ2トップの数字。なお、J1優勝とJ2優勝の両方を達成したのは史上3クラブ目だが、先にJ1優勝を達成してからJ2優勝を達成したのはガンバが史上初であった。
J1復帰直後となる2014年シーズンはエース・宇佐美貴史をケガで欠いてのスタートとなり、攻撃力不足からシーズン開幕から降格圏に低迷。ブラジルW杯中断前には16位、首位浦和とは勝ち点で14もの差が開いていた。
しかし、リーグ再開後は宇佐美の復帰、パトリックの加入により攻撃陣に厚みが増したこともあり、5連勝・7連勝で一気に優勝戦線に参戦。第32節の首位浦和との天王山を後半終了間際の2得点で勝ちきると、翌33節には得失点差で遂に首位に立つこととなった。最終34節は守りを固められた最下位徳島相手にスコアレスドローとなるものの、優勝の可能性があった浦和・鹿島が共に敗れたため、2005年以来9年ぶり2回目のリーグ制覇を達成した。遠藤保仁がJリーグ年間最優秀選手賞を受賞。
リーグ戦と並行して行われたナビスコカップも2点差からの逆転でサンフレッチェ広島を下し、2007年以来7年ぶり2回目の優勝。リーグ優勝翌週に行われた天皇杯決勝も、J1昇格で勢いに乗るモンテディオ山形を下し、2009年以来の優勝。2000年の鹿島アントラーズ以来となる国内タイトル三冠を達成した。
2015年は開幕前のゼロックススーパーカップを制覇したものの、ACLとの過密日程の兼ね合いから選手はコンディションの維持に苦しみ、1stステージは4位に終わる。ナビスコカップでは2年連続で決勝に進出するが、やはり過密日程の影響からパフォーマンスが落ち、鹿島に完敗して連覇を逃す。
ACLでは開幕2連敗という苦しいスタートとなったが、そこから巻き返しに成功しグループステージを首位で突破。準決勝まで進出するが、準決勝で広州恒大に敗れる。
2ndステージも優勝争いからは脱落するが、最終節で年間3位に滑り込み、この年のチャンピオンシップに出場。準決勝では年間2位の浦和を相手に下剋上に成功するが、決勝では年間1位の広島に敗れてしまう。
天皇杯では、準決勝でJ1王者広島を相手にリベンジに成功し決勝進出。決勝では浦和を相手にパトリックの2ゴールで勝利し、2008年・2009年大会以来となる天皇杯連覇を飾った。
2016年よりホームスタジアムとしてパナソニックスタジアム吹田を使用。ACLではグループステージ未勝利のまま敗退となり、3年連続で決勝まで進んだルヴァンカップでも決勝でPK戦の末に浦和に敗れ準優勝に終わる。結局この年は無冠に終わった。
2017年もACLでは2年連続グループステージ最下位で敗退。9月7日に長谷川健太監督の退任が発表されると、その後はクラブワースト記録となる13試合未勝利のままシーズンを終え、リーグ戦10位という不本意な成績に終わる。
2018年、ライバルチームのC大阪の監督を歴任したレヴィー・クルピを監督に招聘。しかし、リーグ戦では開幕3連敗を皮切りに一時は最下位にまで転落するほど低迷。その後も降格の危機に直面するほど低迷したことから7月にクルピ監督を解任し、U-23監督であり、クラブレジェンドの宮本恒靖が監督に就任する。9月以降チーム状態は上向き、クラブタイ記録の9連勝を記録。最終的に9位でJ1残留を果たす。
2019年も序盤で大きく躓き、一時はJ2自動降格圏まで順位を下げる。しかし、宮本監督はクラブのアイコンである遠藤をスタメンから外すことを決断し、若手を積極的に起用。さらに宇佐美貴史とパトリックがチームに復帰したことも追い風になり、前年同様に後半戦の巻き返しに成功。最終的に7位でシーズンを終える。
2020年リーグ戦では好調なスタートを切り、堅守からパトリックの高さを生かしたシンプルなサッカーで手堅く勝ち点を稼いでいく。この年の7月、20年間チームに在籍し、多くのタイトルをもたらした遠藤保仁がジュビロ磐田へ移籍。チームは一時失速したものの、終盤に入ると12試合負けなしと盛り返し、最終的には川崎の独走を許したものの、久々の上位進出となる2位でシーズンを終える。また、変則開催となった天皇杯では、決勝に進出するが川崎に敗れ、無冠となる。
2021年開幕戦消化後、新型コロナウィルスの感染がチーム関係者複数に発生し3月9日から3月23日にかけてトップチーム活動の休止を余儀なくされたことで低迷。リーグ戦10試合消化時点で1勝4分5敗の暫定18位、得点数も3という深刻な状況だったことから宮本監督を解任し、松波正信が後任となる。しかし、3年ぶりに出場したACLではグループリーグ敗退となり、シーズンを通して2度の4連敗を喫するなど低迷。それでも、最終的には13位に入り、J2降格という最悪の結果だけは免れる。
2022年は大分で革新的なサッカーを見せていた片野坂知宏が監督に就任。リーグ戦前半こそ勝ち点を稼いでいたが、エースの宇佐美が大怪我を負って長期離脱したことでチームは低迷。負けを重ねたことで監督が本来目指していたサッカーも見えなくなり、またも残留争いに巻き込まれることに。9月に入り降格圏に沈んだことで、片野坂監督を解任し、松田浩が監督に就任。監督交代後は何とか白星が先行し、最終節で辛くもJ1残留を決める。降格圏の清水との勝ち点差はわずか3だった。
2023年は徳島の監督だったスペイン人のダニエル・ポヤトスが監督に就任。開幕から6試合未勝利と苦しいスタートとなり、第10節から第14節まで5連敗を喫し一時は最下位にまで転落。第15節の新潟戦ではサポーターが一部サポーターが応援を拒否する異常な事態になる。この出来事の後、チームは8勝1分1敗と急速に盛り返し、一時は残留争いを抜け出したことでポヤトス監督の続投も発表される。しかし、シーズン終盤に入って再び攻守にちぐはぐなサッカーを見せるようになり、7連敗のままシーズンを終えてしまう。最終順位は通常の年ならばJ2に降格していた16位、失点数はリーグワーストタイを記録している。
おもなタイトル
国内タイトル
- J1リーグ:2回
2005年、2014年 - 天皇杯:4回
2008年、2009年、2014年、2015年 - Jリーグカップ:2回
2007年、2014年 - J2リーグ:1回
2013年 - スーパーカップ:2回
2007年、2015年
国際タイトル
個人タイトル
2023年の所属選手
背番号 | Pos. | 国籍 | 選手名 | 生年月日 | 加入年 | 前所属 | 備考 |
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- | 監督 | ダニエル・ポヤトス | 1972.1.10 | 2023 | 徳島ヴォルティス 監督 | ||
1 | GK | 東口順昭 | 1986.5.12 | 2014 | アルビレックス新潟 | 【H】 | |
2 | DF | 福岡将太 | 1995.10.24 | 2022 | 徳島ヴォルティス | ||
3 | DF | 半田陸 | 2002.1.1 | 2023 | モンテディオ山形 | ||
4 | DF | 黒川圭介 | 1997.4.13 | 2019 | 関西大学 | ||
5 | DF | 三浦弦太 | 1995.3.1 | 2017 | 清水エスパルス | ||
6 | MF | ネタ・ラヴィ | 1996.8.25 | 2023 | マッカビ・ハイファFC | ||
7 | FW | 宇佐美貴史(C) | 1992.5.6 | 2019 | フォルトゥナ・デュッセルドルフ | 【H】 | |
8 | FW | 食野亮太郎 | 1998.6.18 | 2022 | GDエストリル・プライア | 【H】 | |
9 | MF | 山田康太 | 1999.7.10 | 2024 | 柏レイソル | 【完】 | |
10 | MF | 倉田秋 | 1988.11.26 | 2007 | セレッソ大阪 | 【H】 | |
11 | FW | イッサム・ジェバリ | 1991.12.25 | 2023 | オーデンセBK | ||
13 | FW | 坂本一彩 | 2003.8.26 | 2022 | ファジアーノ岡山 | 【復】【H】 | |
14 | MF | 福田湧矢 | 1999.4.4 | 2018 | 東福岡高校 | 【H】 | |
15 | MF | 岸本武流 | 1997.7.16 | 2024 | 清水エスパルス | 【完】 | |
16 | MF | 鈴木徳真 | 1997.3.12 | 2024 | セレッソ大阪 | 【完】 | |
17 | FW | 山下諒也 | 1997.10.19 | 2024 | 横浜FC | 【完】 | |
19 | DF | 今野息吹 | 2001.5.10 | 2022 | 法政大学 | 【卒】 | |
20 | DF | 中谷進之介 | 1996.3.24 | 2024 | 名古屋グランパス | 【完】 | |
22 | GK | 一森純 | 1991.7.2 | 2020 | 横浜F・マリノス | 【復】 | |
23 | MF | タワン | 1996.6.23 | 2023 | ジュベントゥージ | ||
24 | MF | 江川湧清 | 2000.10.24 | 2023 | V・ファーレン長崎 | ||
25 | GK | 石川慧 | 1992.9.30 | 2020 | サガン鳥栖 | ||
27 | MF | 美藤倫 | 2002.2.12 | 2023 | 関西学院大学 | 【卒】 | |
28 | DF | 坂圭祐 | 1995.5.7 | 2024 | 大分トリニータ | 【完】 | |
31 | GK | 張奥林 | 2005.4.25 | 2023 | ガンバ大阪ユース | 【昇】【H】 | |
33 | DF | 中野伸哉 | 2003.8.17 | 2023 | サガン鳥栖 | 【完】 | |
40 | FW | 唐山翔自 | 2002.9.21 | 2019 | 水戸ホーリーホック | 【H】 | |
41 | MF | 中村仁郎 | 2003.8.23 | 2022 | ガンバ大阪ユース | 【H】 | |
46 | DF | 松田陸 | 1991.7.24 | 2024 | ヴァンフォーレ甲府 | 【完】 | |
47 | MF | ファン・アラーノ | 1996.9.2 | 2022 | 鹿島アントラーズ | ||
48 | MF | 石毛秀樹 | 1994.9.21 | 2022 | 清水エスパルス | ||
97 | FW | ウェルトン・フェリペ | 1997.8.6 | 2024 | PFCレフスキ・ソフィア | 【完】 | |
- | GK | 荒木琉偉 | 2007.10.4 | 2023 | ガンバ大阪ジュニアユース | 【2】【H】 | |
- | GK | ステイマンJ草太郎 | 2007.3.2 | 2023 | 長崎ドリームFCジュニアユース | 【2】【H】 |
※備考欄は【完】=完全移籍での加入、【レ】=レンタル移籍での加入、【復】=レンタル先からの復帰、【新】=新任の監督、【昇】=トップチーム昇格、【卒】=新卒での加入、【特】=特別指定選手、【2】=2種登録、【H】=ホームグロウン選手
過去に所属したおもな選手
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歴代監督
国籍 | 監督名 | 在任期間 | 備考 |
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釜本邦茂 | 1992年~1994年 | 松下電器時代の1991年から在任 | |
ジークフリート・ヘルト | 1995年~1995年12月 | ||
ヨジップ・クゼ | 1995年12月~1997年12月 | ||
フレドリック・コンシリア | 1997年12月~1998年 | ||
フレデリック・アントネッティ | 1998年5月~1999年6月 | ||
早野宏史 | 1999年6月~2001年10月 | ||
竹本一彦 | 2001年10月~12月 | ||
西野朗 | 2002年~2011年 | ・J1リーグ優勝(2005年) ・ナビスコカップ優勝(2007年) ・AFCチャンピオンズリーグ優勝(2008年) ・天皇杯優勝(2008年、2009年) |
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セホーン | 2012年~2012年3月 | ||
松波正信 | 2012年3月~2012年12月 | J2降格(2012年) | |
長谷川健太 | 2013年~2017年 | ・J2優勝&J1昇格(2013年) ・ナビスコカップ優勝(2014年) ・J1リーグ優勝(2014年) ・天皇杯優勝(2014年、2015年) |
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レヴィー・クルピ | 2018年~2018年7月 | ||
宮本恒靖 | 2018年7月~2021年5月 | ||
松波正信 | 2021年5月~2021年12月 | ||
片野坂知宏 | 2022年~2022年8月 | ||
松田浩 | 2022年8月~2022年12月 | ||
ダニエル・ポヤトス | 2023年~ |
サポーター問題
同じ府にあるセレッソ大阪とは、かなり仲が悪い(サポーターが)。2011年シーズン大阪ダービーの際、一部のガンバ大阪サポーターがセレッソに対し侮辱行為をしていたりしている。(関連動画にて)
他にも2012年シーズンの最終節、残留をかけてジュビロ磐田と対戦したが、2-1で敗退、降格が決定した。その際、ジュビロ磐田のホームであるヤマハスタジアムで座り込みを決行。退散するジュビロサポーター、選手、警備員、あろうことか磐田の吉野博行社長にさえ誹謗中傷の言葉を浴びせたなど、数多くの問題を起こしている。
2023年にはチームが最下位に転落するほど低迷したことに対する抗議で5月20日ホームの横浜F・マリノス戦でサポーター連合が応援のボイコットを宣言。しかし、あくまでサポーターグループの宣言であるため、試合中一般のサポーターからは連合の意思を無視して声援を送っていた。さらに試合後は選手たちとの対話をおこない、主将・宇佐美貴史が涙ながらに受け止め、和解するという一幕もあった。こういったサポーター連合の行為に対してはこの試合が吹田市の小学生の無料招待試合だったこともあって多くの批判が寄せられ、その後サポーター連合は一連のボイコット騒動を謝罪することとなった。
ガンバ大阪U-23
ガンバ大阪U-23とは、2016年から2020年までJ3リーグに参加していたガンバ大阪に所属する23歳以下の選手で構成されたセカンドチームである。
概要
かつて存在した日本のサッカーチーム | |
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ガンバ大阪U-23 | |
基本情報 | |
創設年 | 2016年 |
解散年 | 2020年 |
本拠地 | パナソニックスタジアム吹田【大阪府吹田市】 |
プロサッカークラブテンプレート |
クラブの強化本部は兼ねてよりセカンドチームを持ち、若手選手が試合経験が積める場を提供していきたいという構想を持っていたことから、2016年シーズンよりJ1・J2クラブの「U-23チーム」がJ3に参加することが発表された際に参加を表明。同時にこの年に完成した新スタジアムの稼働率を上げたいという思惑もあった。
チーム内の競争を促し、チーム全体のレベルアップ・強化に繋げることを目標に掲げ、トップチームとU-23チームの編成は合同を基本としつつも、練習の質を下げないためにトップチームのトレーニングに参加するU-23メンバーを限定し、そこに出場機会のなかった選手をU-23のメンバーとしてJ3の試合に出場させる方針をとっていた。
ホームスタジアムとしてはパナソニックスタジアム吹田をメインとしつつ、2015年までのホームスタジアムであった万博記念競技場も使用していた。
歴史
J3参戦初年度の2016年は實好礼忠が監督に就任。高校生である2種登録選手も積極的に起用し、順位こそ9位に終わったが、堂安律や初瀬亮がチームの中心として活躍。特に18歳の堂安は10得点を記録する活躍を見せた。
2017年からはトップチームと分けられるようになり、クラブレジェンドの宮本恒靖が監督に、山口智がヘッドコーチに就任。開幕戦では谷晃生が16歳3か月の若さでJリーグデビューを果たしたものの、大量失点を喫する試合が目立ち、シーズン20敗を喫するなど苦戦。17チーム中16位に終わる。
2018年は飛び級でプロ契約を交わした中村敬斗などが出場。7月に宮本監督がトップチームの監督に就任したため、實好が1年半ぶりに復帰。この年は初めて白星が黒星を上回り、6位という好成績を残す。
2019年はクラブOBの森下仁志が監督に就任。食野亮太郎が8試合8ゴールを記録、唐山翔自がJリーグ最年少ハットトリックを記録などのハイライトはあったが、この年トップチームが若手を積極的に引き入れたことでメンバー構成に苦慮し低迷。年間17位に終わる。
2020年はシーズン序盤は6連敗を喫するなど苦しんでいたが、後半戦にかけて少しずつ持ち直し、最終的に14位でを終える。この年を最後にJ3リーグでの参加を終了することになり、チームは解散となる。
歴代監督
国籍 | 監督名 | 在任期間 | 備考 |
---|---|---|---|
實好礼忠 | 2016年 | トップチームコーチと兼任 | |
宮本恒靖 | 2017年~2018年7月 | ||
實好礼忠 | 2018年7月~12月 | ||
森下仁志 | 2019年~2020年 |
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