春日(装甲巡洋艦)単語

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春日(装甲巡洋艦)とは、大日本帝國海軍が運用した春日装甲巡洋艦1番艦である。1904年1月7日工。日露戦争第一次世界大戦大東亜戦争を駆け抜け、1945年7月18日横須賀襲で大破着底した。

概要

元々はイタリアで10隻建造されたジュゼッペ・ガリバルディ級装甲巡洋艦リヴァダヴィア。艦名は奈良県春日山に由来、春日の名を冠するのは本艦で2代目

戦艦エマニュエレ・フィリベルト級を参考に、艦形を小化し、装甲を減じた代わりに速力を増加させている。艦首には体当たりによる敵艦撃沈を企図した鋭利な衝を備える。イタリア海軍でもアームストロング社に一任してあったため、イギリス製のを装備した。

春日日進日本海軍初となる、淡緑色のホットベネジアン底塗料を採用。これは付着生物が多い地中海に適した塗料で、実際イギリス海軍地中海艦隊も採用、日本回航後に調したところ、発錆と付着生物の少なさが確認され、以降連合艦隊力艦にホットベネジアン底塗料が採用されるようになったという。

イタリア式の設計は日本海軍では前例がく、中央に一本檣、その前後に煙突という独特な見たは山と呼ばれ、異を放っていた。春日最大の特徴は大仰を誇る25.4cm。具体的な数字は不明だが連合艦隊最大の射程距離を出せたという。春日日進姉妹艦ではあるものの装備が若干異なり、日進は強力な20.3cm連装速射春日より1基多めに搭載、代わりに25.4cm単装を装備していない特徴がある。

六六艦隊計画において、装甲巡洋艦6隻のうち4隻がイギリスに、1隻がドイツに、残り1隻がフランス発注・建造されているが、イタリア製の春日日進ロシアに売却されないよう急遽購入した経緯から、全に想定外の加入だった(購入予算も衆議院が解散されていたので予算の裏付けが出来ず、勅裁による予算外支出で強引に支払ったほど)。こうして飛び入り参加で日露戦争に参加するのだった。

春日には連合艦隊最大と名高い射程距離があり、旅順閉塞作戦では敵の要塞の射程圏外より一方的撃出来た事から、立てこもるロシア艦隊に心理的恐怖を与えたという。また戦や日本海戦、樺太占領作戦に参加し、戦艦インペラトールニコライ1世やドイツインダストリー拿捕の戦果を挙げた。

だが、イギリス製が流となりつつあった帝國海軍にとってイタリア製の春日は何とも使いづらく、そもそもイタリア艦は地中海での運用を想定していて、太平洋の荒波に耐えられるような設計をしていなかった事も手伝って、功績を挙げたにも関わらず戦争後は練習艦になった。

排水量7700トン、全長111.8m、全幅18.71m、出力1万3500力、最大速力20ノット、乗組員562名。兵装は25.4cm単装1基、20.3cm連装速射1基、15.2cm単装速射14基、アームストロング7.6cm単装速射8基、オチキス4.7cm単装機6基、マキシム7.7mm機関銃2丁、45.7cm水中魚雷発射管単装4基。

戦歴

購入までの経緯

日清戦争後、日本ロシアの関係は急速に悪化し、大日本帝國海軍は戦力の拡充を迫られていた。この頃はまだ自で建艦出来ない事から、日本は戦力増強のため中立の買収を図る事となり、最初に補に挙がったのはチリ海軍向けにアームストロング社が建造中のコンスティトシオン戦艦2隻だったが交渉がまとまらず、更にロシアが2隻を購入しようとしてきたため、日本と同盟を結んでいるイギリスが先んじて購入する一幕があった。

その後、アルゼンチンチリとの内紛を背景に、2隻の軍艦イタリアアンサルド社に発注ジェノバ所でジュゼッペ・ガリバルディ級装甲巡洋艦リヴァダヴィアレノの建造が進められていたが、イギリスの仲裁で内紛が終結し、この2隻は不要になってしまう。ベトベテル海軍大臣の勧めでアンサルド社は日本政府に購入の打診を行い、日本政府としても当時世界最高の仰を誇る2隻の購入には前向きだったが、こちらもロシアが購入意欲を見せており、イギリスを通じてその情報を得た山本兵衛海軍大臣は購入を決意、首尾よく交渉がまとまった。

購入の打診から契約を結ぶまで僅か2週間程度の即断即決であり、ブスサンズ社を仲介して1903年12月30日に1493万7390円で2隻を購入。こうして1904年1月1日、リヴァダヴィアは春日、モレノ日進と命名され、イタリアから日本に回航する事となった。

欧州各地に駐在する武官をジェノバにかき集めて回航部隊を編制。春日の回航責任者となったのは、欧州事情を学ぶ的でドイツに駐在し、後に首相となって大東亜戦争終戦工作に奔走する鈴木貫太郎中佐である。彼は1903年末、海軍大臣からいきなり「イタリアへ行け」「艦を受け取って日本に回航せよ」と命じられ、1904年1月4日ジェノバ所へ到着、そして本より「1月8日には出港せよ」との命が下る。

しかし、日本政府が2隻を購入した情報は当然ロシアも入手しており、駐ロシア使が装作業を密かに監視、更にフランスチュニジアのビゼルタに艦艇を集結させ、隙あらば奪取しようとも考えていた。


1904年1月7日春日日進工。イギリス海軍ベテランリー備中佐が春日の臨時艦長を務め、帝國海軍士官4名を監督官として乗艦。翌8日、アルゼンチン海軍のドメック・ガルシア大佐が代表となり、松尾海軍総監との間で正式な引き渡し式を行い、1月9日ジェノバを出港して日本す。

本土回航を急いだからか航行中にも春日装工事が進められていた他、アルゼンチン海軍向けのな内装ごと持っていったらしく、士官室にはピアノが置かれていた。

回航の途上、ロシア艦隊は日露開戦となれば即座に攻撃出来るよう、ビゼルタに待機させていた艦艇を使って春日日進の2隻を追尾してきた。これを受けてイギリス海軍は、回航を請け負ったアームストロング社員を護衛する名マルタより装甲巡洋艦キングアルフレッドを出撃させ、春日日向を先導。ロシア艦は手出しが出来なくなった。

1月14日、給炭的でスエズ運河の出入り口であるポートサイドへ寄港した際、同じく給炭を待つロシア防護巡洋艦オーロラと出くわすも、イギリスの機転で先に日本艦から補給する事になり、包囲網からの脱出に成功した。ここでリー備中佐が退艦。以降は鈴木中佐揮で日本す。

艦長となった鈴木中佐は、艦内にいるイギリス人とイタリア人に「もしロシアの艦隊が現れたら君たちはどうする?」と尋ねたところ、全員が「火を以って戦う」と答えたため、満足した鈴木中佐が「それでは日本に帰ったら皆の給料を倍にしよう」と、返したエピソードがある。

スエズを抜けた先のアラビア半島アデンで技師や職工を降ろし、インド洋のセイロンコロンボ手前でロシア艦隊も追跡を断念して撤収、追っ手がいなくなったのを見届けたキングアルフレッドは「日露間の交渉は切迫しており、晩開戦は免れない模様。良き航を祈る」と打診し、去っていった。寄港する先々で乗組員を補充していたので一時期春日には8ヶ人間が乗務していたとか。

2月2日シンガポールに寄港、途中日進とはぐれて入港が遅れたが、日露戦争戦後2月16日横須賀まで事辿り着いた。護衛してくれたイギリス艦隊は大歓迎を受け、春日日進の増強は臣民から熱狂的に支持され、士気高揚にまで繋がったという。困難な回航を事成功させた鈴木中佐は日公園での歓迎会を終えた後、宮中で明治天皇と拝謁して日勲章を授与され、その足で海軍省に赴いて、約束通り回航に携わったイギリス人とイタリア人の給料を倍にした。

既にロシアとの戦端が開かれていたので第3艦隊に所属して即座に参戦。

日露戦争

1904年4月11日、旅順港閉塞作戦中の第1艦隊第1部隊を掩護するべく横須賀を出港。4月15日春日は25.4mcの最大射程を活かし、要塞の射程圏外である半島西部ピジョン湾から9.5km先の旅順要塞を一方的撃、港で立てこもるロシア旅順艦隊に大きな心理的恐怖を与えた。が、戦艦の半分ほどしかない春日日進は、に波がかぶさって射撃困難になるトラブルも少なくなかった。

5月6日、日寝食を忘れて突貫工事を行って春日完成させたアンサルド社、回航に協力したアームストロング社の会長及び幹部9名に日本政府から勲章が贈られた。

5月15日帝國海軍は旅順に敷設された機雷で戦艦初瀬と八を失う大打撃を受ける。更に同日未明、春日による視界不良で二等巡洋艦吉野と衝突事故を起こし、春日に装備された衝のせいで吉野が転覆・沈没してしまい、318名の死者を出す大惨事を招いた。この事故を機に帝國海軍の衝の撤を決めたとか。

6隻しかない戦艦を一挙に2隻も失う事はまさに痛撃の一語に尽きた。自での建造力が日本は今あるだけの艦艇が総戦力なのに対し、ロシアは工フル稼働させればこれまでの損を補える上、数の上でも日本側を圧倒しているのだから。損失を補うべく東郷平八郎大将春日日進を戦列に加える。春日日進の両艦は長大な射程距離を持っていたため、戦艦と同一行動を取る事が出来たのだ。

7月27日春日日進は長距離撃により、旅順からの脱出を図ったロシア戦艦1隻と巡洋艦数隻を港に押し返した。

8月10日に生起した戦では、旅順からウラジオトクへの脱出を試みたロシア艦隊と交戦、しかし戦列の後方にいたであまり戦局に寄与出来なかった。この戦で春日は3発の命中弾を受けて乗組員11名が負傷したものの致命傷には至らなかった。戦闘後、日進とともにロシア艦隊が撤退した旅順要塞を撃して圧力をかけた。

1905年3月28日、鎮港外にてドイツインダストリー船舶書類不備及びスパイ容疑により拿捕。後に板橋丸と改名された。


旅順艦隊とウラジオトク艦隊を撃破され、追い詰められたロシア軍欧州より最強と名高いバルチック艦隊を極東に回航。5月27日午前2時45分、九州西方にて仮装巡洋艦信濃丸がバルチック艦隊を発見、これを連合艦隊が迎撃した事で日本海戦が生起する。春日は戦列の5番艦にして参戦。

14時10分、バルチック艦隊の先頭にいた戦艦オスリャービャが撃を開始するが、濃霧で両軍とも大した損傷は与えられなかった。数々の戦を経て、翌28日午前10時頃、リアンクール岩礁付近で生き残ったロシア艦隊を捕捉、数で劣る連合艦隊被害を最小限に抑えるべく春日による長距離撃を試み、距離9100mから戦艦インペラトールニコライ1世を撃。3回の一斉射で煙突に命中弾を与えるとインペラトールニコライ1世は降した。後に拿捕されて戦艦壱岐となっている。

戦でロシア軍の心のよりどころだったバルチック艦隊はほぼ壊滅、この決定的大勝利によりポーツマス講和条約へのが切り開かれるのだった。続く7月21日より行われた樺太占領作戦では第3艦隊にして参加。2個旅団で編成された樺太遠征軍の上陸を援護して、7月31日に現地のロシア軍を降させた。そして8月10日より日露講和会議(ポーツマス条約)が開始。

1905年9月5日日露戦争は終結し、日本は苦しい戦いを勝利と呼べる形で終わらせた。10月23日勝利を祝う東京湾凱旋観艦式横浜で行われ、春日は名だたる力艦や駆逐艦等とともに参列した。1908年11月18日神戸で挙行された大演習観艦式にも参加している。

1910年6月アルゼンチンでは建100周年を迎えて祝賀ムードに包まれていた。春日日進ロシアではなく日本に売ってくれたアルゼンチンに恩返しをするべく、春日の中に置いてあったピアノを、アルゼンチン派遣する装甲巡洋艦生駒に積載して、アルゼンチン海軍に返還した。現在首都ブエノスアイレスの北側にある海軍博物館軍艦旗ともどもピアノが展示されている。

1911年9月2日戦争中に拿捕した魚雷補給艦を護衛してウラジオトクに向かい、ロシアに返還。日露戦争では戦果を挙げた春日日進の2隻であったが、イギリス式が流の帝國海軍においてイタリア式設計はとても使いづらかったらしく、戦後は一線から外して練習任務に充てられるようになった。

第一次世界大戦

1913年8月頃、にて、通をより一層良好なものにするべく煙突2本の改造工事を実施、それと同時に線電信室通装置の改正、兵員烹炊室とマストの改造雷頭庫及び爆発庫注装置新設なども行った。

1914年初頭に春日オーバーホールを受け、損耗がしかったボイラー12基を産の艦本式機関に換装。7月28日欧州第一次世界大戦が勃発。戦場から遠く離れていた極東アジアは至って穏だったが、同盟イギリスからの要請を受け、巡洋戦艦伊吹巡洋艦筑摩と南遣艦隊に編成、8月よりアモイ、フィリピンインド洋、南シナドイツ巡洋艦エムデンの追跡任務に従事しつつ、ドイツ植民地帝国の艦艇やドイツに対する警を行った。姉妹艦の日進に至っては地中海にまで長駆している。

1915年12月4日横浜御大礼特別観艦式に第1艦隊第3戦隊の一員として参加。

1917年3月ドイツ通商破壊ウルフインド洋に侵入、イギリス海軍本部は日本オーストラリアに増援を要請し、春日4月から5月にかけてセイロンコロンボ・フリーマントル間で通商保護を実施。11月までシンガポール拠点に活動した。

1918年1月13日オランダ領東インドバン峡にて座礁。6月になってようやく離礁に成功してシンガポール修理を受ける。11月11日ドイツが降した事で第一次世界大戦は終結した。

戦間期

1921年9月1日日露戦争時の力艦は海防艦に類別され、春日も一等海防艦となる。9月16日、ウラジオトク港外のアスコルド峡を航行していた三笠濃霧により座礁。春日が救難作業を行って何とかウラジオトクまで送り届けた。1922年9月にはシベリア出兵の一環で沿州警備に参加するとともに兵士と物資の輸送任務に就く。

1923年9月1日午前11時58分、関東大震災が発生して東京方面が壊滅状態に陥った。震災発生時、大に停泊していた春日海軍から救助活動を命じられ、青森県から供出された様々な救援物資を満載、翌2日15時に出港していった。その後、東京湾に到着した春日横浜市内の治安維持のため、軽巡五十鈴とともに陸戦隊派遣している。

ワシントン海軍軍縮条約戦艦が次々に艦となる中、1925年12月1日、浮き校舎となった特務艦富士の代艦として運用術練習艦になり、幸運にも春日艦を免れる。

1926年6月15日神戸から横浜に向かう途上、伊豆半島で暴に巻き込まれて岩に衝突、難破したエラマン汽株式会社所属の汽ティオブ・ネープルスの救助活動を行い、助けられた乗組員2名が春日の勇敢さを称えた事で、ジョージ5世より金製メダルを授与される。11月横須賀停泊中の春日より乗組員300名が上陸し、葉山一色海岸にて、大正天皇が療養する葉山御用邸に向かって、癒祈願を行った。

1928年3月15日、艦の両舷部分に艦長休憩室、士官休憩室学生休憩室を増設。というのも、以前より艦長や航長用の休憩所がく勤務上不便というがあり、これを受けての改装工事であった。この工事で艦が大幅に拡大しているような見たとなった。7月27日、艦隊演習中に悪に投げ出された第六航空の乗組員を救助。12月4日横浜で行われた御大礼特別観艦式において、第二列にして参加。

1933年8月25日横浜で挙行された大演習観艦式に第一列として参加。


1934年1月15日15時2月14日に発生する皆既日食を観測するため、40名の科学者を乗せて横浜を出港。停泊中のフランス軍艦と21発の礼を交わしつつ、防波を越えて太平洋へと躍り出た。軍艦一般人を便乗させるのは異例中の異例であった。

八丈島の東を通過。夕方頃からが出始め、23時頃にはしいに発展、これに伴って艦内の動揺もしくなり、っすぐに歩けないほどのローリングピッチングに加え、前後甲を波頭が大きく越えていく。近くに低気圧が三つもあるらしい。

1月18日15時より兵が剣道柔道力などの試合を実施、やる事がない科学者たちは退屈しのぎに観戦していた。翌19日午前1時に北緯23度線半の北回帰線を通過、これより先は熱帯であり、甲に灼熱の太陽が照り付ける。日にちが経つにつれて暑さによる過酷さが増していくが、中何事もなく、1月23日夕刻に的地のカロリンローソップへ到着、環礁外で瑞鳳丸が荒波に揉まれながら春日を出迎えてくれた。幸い恵まれ閃光スペクトル、内部コロナの観測及び日食全経過の映画などに成功した。3月3日横須賀に帰投。

4月1日より海軍学校練習艦となる。

1935年4月1日姉妹艦の日進が除籍。10月9日大和戦艦用の46cm弾を実験中、艦底に命中した1発が原因で浸が止まらなくなり、転覆沈没した。1936年10月29日神戸の大演習特別観艦式にて東第一列にして参加。春日観艦式参列は今回で最後となる。

大東亜戦争と最期

1941年12月8日大東亜戦争が勃発。運命の開戦を横須賀で迎えた。戦闘力を有していると言っても、工から37年も経過している春日がまともに戦えるはずがなく、1942年1月16日に20cm撤去の訓が出され(4月18日ドーリットル空襲時はまだが残っていた)、7月1日には吾妻、浅間とともに軍艦籍より除籍、練習特務艦に類別変更される。ちなみに春日三笠から取り外された15cm計6門が、マーシャル諸島ウォッジェ環礁を守備する第64警備隊に提供されているが、1944年2月クェゼリンの戦いアメリカ軍に破壊された。

戦争中は浮き兵舎として使われた一方、艦務実習の場としても活用されていたようで、海軍に入ったばかりの新兵は春日教育を受けたのち、配属先の艦に各々散っていった。

1945年7月18日15時30分、機動部隊が放った敵艦上機の第一波が横須賀に出現したのを皮切りに、延べ500機以上による執拗なまでの波状攻撃が始まった(横須賀襲)。春日戦艦長門の左舷後部に係留されており、長門への攻撃が集中した結果、巻き添えを喰らう形で春日も被弾し、浸が原因で大破着底してしまった。終戦後の11月30日に除籍となる。

1948年8月に残骸が引き揚げられて浦賀船渠によって解体。

大正10年に降ろされた15.2cmのうち、1門が鳥取県西伯大山町所子安置されている。かつては近くに20cm榴弾演習弾もあったが戦時中の金属類回収で持っていかれたらしい。

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