東方昭和伝第一部単語

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東方昭和伝第一部とは、eleven制作動画東方昭和伝』の第一部である。「動乱序曲編」。

 要するに、昭和という時代は、日本を取り巻く環境がどんどん悪くなっていく、際情勢が動し始めた時にスタートしたのである。それにはどんどん悪化しつつある状況にどう対応するべきか、問題をどう処理すべきか、 これが日本の至上命題であり、最も解決を急がされる問題として突きつけられた。ここから昭和が始まるのである。

なできごと ≫ 昭和開幕 昭和融恐慌 国民党中国統一 第16回衆議院総選挙(初の男性普通選挙) 作霖爆殺事件(満州某重大事件) 世界大恐慌 解禁 ロンドン海軍軍縮会議 統帥権干犯問題 浜口総理大臣狙撃事件 三月事件(陸軍クーデタ未遂事件)

出演

≪ 役名・肩書き・演者 肩書きは原則として作中の現職。元職は特記のみ ≫

宮中

政治家

官僚

陸軍

海軍

要人

民間活動家

※そのほかモブ役として、森近霖之助(文官)こーりん小物魂魄妖忌(偉そうな軍人)高木社長(随時)

用語解説

元老 (げんろう)

 明治期において多大な貢献のあった重臣に対し、特に与えられた称号。元勲。大正時代戦前昭和期においては、天皇の諮問により内閣総理大臣を奏薦する権限を持っていた。大正13年に松方正義が死去すると、一の存命者となった西園寺望が、昭和政界最大のキーパーソンとなった。

  出身 経歴
伊藤博文 長州 第1・5・7・10代内閣総理大臣 枢密院議長 公爵 1909年(明治42年)
黒田清隆 薩摩 第2代内閣総理大臣 伯爵 陸軍中将 1900年(明治33年)
山縣有朋 長州 第3・9代内閣総理大臣 公爵 元帥陸軍大将 1922年(大正11年)
松方正義 薩摩 第4・6代内閣総理大臣 大蔵大臣 公爵 1924年(大正13年)
井上  長州 外務大臣 大蔵大臣 内務大臣 侯爵 1915年(大正4年)
西郷 薩摩 海軍大臣 侯爵 元帥海軍大将  ※西郷隆盛 1902年(明治35年)
大山  薩摩 陸軍大臣 参謀総長 公爵 元帥陸軍大将 1916年(大正5年)
 太郎 長州 第11・13・15代内閣総理大臣 陸軍大臣 公爵 陸軍大将  1913年(大正2年)
西園寺 公家(清 第12・14代内閣総理大臣 公爵 1940年昭和15年

政友会 (せいゆうかい 立憲政友会

 元老・伊藤博文が設立した、大正戦前昭和の大政党大正時代には西園寺や原敬らを擁し、明治以来の薩摩長州政治に対する、議会政治の旗手として活躍。1918年(大正7年)、外務・陸軍海軍大臣以外を政友会党員とする原敬内閣をもって、本格的政党内閣の時代をスタートさせた。しかし原の暗殺後は党内抗争に明け暮れるようになり、軍人出身の田中義一(陸軍大将)を党首に迎えて以後、単なる守旧の色を濃くする。

総裁 在任 首相
伊藤博文 1900年(明治33年)9月 ~ 1903年(明治36年)7月 1900.10 ~ 1901.5(第4次内閣
西園寺 1903年(明治36年)7月 ~ 1914年(大正3年)6月 1906.1 ~ 1908.7(第1次内閣
1911.8 ~ 1912.12(第2次内閣
原 敬 1914年(大正3年)6月 ~ 1921年(大正10年)11月 1918.9 ~ 1921.11
高橋是清 1921年(大正10年)11月1925年(大正14年)5月 1921.11 ~ 1922.6
田中義一 1925年(大正14年)5月1929年昭和4年7月 1927.4 ~ 1929.7
犬養 毅 1929年昭和4年7月1932年昭和7年5月 1931.12 ~ 1932.5
鈴木三郎 1932年昭和7年5月1937年昭和12年2月 なし
代行
委員
鳩山一郎
前田
三土忠造
中島知久
1937年昭和12年2月1939年昭和14年4月 なし
正統派 久原房之助 1939年昭和14年5月1940年昭和15年7月 なし
革新 中島知久 1939年昭和14年4月1940年昭和15年7月 なし

政党 (みんせいとう 立憲民政党

 戦前昭和の大政党。もとは元老・桂太郎が、政友会に対抗して設立した立同志会。のちに政会と名をめ、さらに政友会から分裂・離党した諸勢(「政友本党」など)を吸収して、昭和の二大政党のひとつとなった。政策的には普通選挙制度をするなど、左リベラル。また幣原喜重郎外相に代表される、・対中融和のいわゆる「幣原外交」を推進した。

総裁 在任 首相
政会)
(1)
加藤高明 1916年(大正5年)10月1926年大正15年1月 1924.6 ~ 1926.1
政会)
(2)
若槻礼次郎 1926年大正15年1月1927年昭和2年6月 1926.1 ~ 1927.4(第1次内閣
浜口雄幸 1927年昭和2年6月1931年昭和6年4月 1929.7 ~ 1931.4
若槻礼次郎 1931年昭和6年4月1934年昭和9年11月 1931.4 ~ 1931.12(第2次内閣
町田忠治 1934年昭和9年11月1940年昭和15年7月 なし

枢密院 (すうみついん)

 天皇直属の顧問機関。政界・官界の長老たちが所属し、内閣議会からあがってきた政策・法律の最終審議にあたった。言うまでもなく守旧の牙であり、特に軍部や警察右翼しかった平沼騏一郎が副議長・議長だった大正15年昭和14年は、民主主義的・反軍的な政策と、ことごとく衝突した。

議長 在任 副議長
15 男爵 倉富雄三郎 1926年大正15年4月1934年昭和9年5月 平沼騏一郎
16 男爵 一木喜徳郎 1934年昭和9年5月1936年昭和11年3月 平沼騏一郎
17 男爵 平沼騏一郎 1936年昭和11年3月1939年昭和14年1月 荒井太郎(~1938.1)
原 嘉
18 公爵 近衛文麿 1939年昭和14年1月1940年昭和15年6月 原 嘉
19 男爵 原 嘉 1940年昭和15年6月1944年昭和19年8月 鈴木貫太郎
20 男爵 鈴木貫太郎 1944年昭和19年8月1945年昭和20年4月 清水 澄
21 男爵 平沼騏一郎 1945年昭和20年4月12月 清水 澄
22 男爵 鈴木貫太郎 1945年昭和20年12月1946年昭和21年6月 清水 澄
23 清水 澄 1946年昭和21年6月1947年昭和22年5月 潮 恵之

参謀本部 (さんぼうほんぶ)
部  (ぐんれいぶ 海軍部)

 軍組織のひとつ。軍機のうち、作戦・用兵をつかさどる。陸軍が参謀本部で、海軍は軍部。長官は「参謀総長」および「海軍部長(のちに軍部総長)」。天皇に直属し、戦争時には「大本営」を構成して軍の揮命に当たった。政治にたずさわる陸軍省や海軍省にべて純な「軍人」が集まり、しばしば強硬軍事論の発信となった。

参謀総長 在任
12 大将 鈴木荘六 1926年大正15年3月1930年昭和5年2月
13 大将 金谷範三 1930年昭和5年2月1931年昭和6年12月
14 元帥大将 閑院宮載仁 1931年昭和12年6月1940年昭和15年10月
15 元帥大将 杉山 1940年昭和15年10月1944年昭和19年2月
16 大将 東条英機 1944年昭和19年2月7月
17 大将 梅津美治郎 1944年昭和19年7月1945年昭和20年11月

部総長
(1933.10まで軍部長
在任
12 大将 鈴木貫太郎 1924年(大正14年)4月1929年昭和4年1月
13 大将 加藤寛治 1929年昭和4年1月1930年昭和5年6月
14 大将 谷口 1930年昭和5年6月1932年昭和7年2月
15 元帥大将 伏見宮博恭王 1932年昭和7年2月1941年昭和16年4月
16 元帥大将 永野修身 1941年大正16年)4月1944年昭和19年2月
17 大将 嶋田太郎 1944年昭和19年2月8月
18 大将 及川志郎 1944年昭和19年8月1945年昭和20年5月
19 大将 豊田副武 1945年昭和20年5月11月

満州 (まんしゅう 満洲

 いわゆる中国東北部。中国最後の王清王朝の故郷。奉省(遼寧省)・吉省・江省の3つの省で構成されることから「東三省」(とうさんしょう)と呼ばれることもある。中国本土、ロシアソ連)、日本朝鮮含む)3勢が交錯する地域であり、日本は他の2勢への対抗上、日露戦争以来この地域の確保を切望していた。

北伐 (ほくばつ)

 中国国民党蒋介石)による、中国軍事行動大正昭和初期の中国中華民国)は、北京の中央政府が有名実化し、各地に軍閥と呼ばれる軍事があって衝突を繰り広げていた。国民党軍は中国最南端の広州から発して各地の軍閥を倒し、日本支援を受ける北京作霖の軍閥を討伐しようとしていた。

居留民 (きょりゅうみん)

 弱体化した清王朝が諸外と不等な条約を結ばされた結果、中国各地には、ほとんど外植民地であるかのような外国人居住地が発生し、多くの外国人が住んでいた。また1900年の「義和団事件」(中国民衆による排外動乱。清国政府も加担した)以後、日本をはじめとする各は、自民保護のため多くの軍隊を駐屯させていた。

支那 (しな)

 戦前日本における、中国に対する呼称。現在は使わないように、とされているが、歴史・学術用としてはこの限りでないとも。支那事変日中戦争はともかく、れっきとした固有名詞である「支那派遣軍」「参謀本部支那課」などを、わざわざ「中国派遣軍」「中国課」と言い換えるのは、かえって不当な変であるという見方もある。

人物評伝(キャスティングされていなくて文中登場回数の多い人物につき)

作霖 (ちょう さくりん 1875~1928)

 賊(盗賊あるいは民警団)から身を起こし、奉軍閥を率いて満洲の実効支配者にまで伸し上がった人物。関内(山関=万里の長城の内側。すなわち中国本土)の軍閥抗争にたびたび介入し、第2次奉直戦争勝利で(形式上の首都北京政府の実権を握り、大元帥を名乗った。ソ連が強かった南方革命に対して、作霖は欧の支持を受け、特に日本満洲中国本土から切り離すべく、大きな支援を行っていた。しかし関内の政局に積極的に介入しようとするとの思惑の違いが次第に大きくなり、関東軍による排除・満洲独立の陰謀を招くことになる。

牧野伸顕 (まきの のぶあき 1861~1949)

 薩摩出身。維新の元勲・大久保利通の二男。伊藤博文西園寺望の知遇を得、外務官僚から宮中に入り、大正10年(1921年)宮内大臣に就任。大正14年(1925年)内大臣へ転じ、英協調の中軸として西園寺とともに、政治家や軍部の強硬外交軍事導論とのしい抗争を繰り広げる。昭和天皇の信頼は絶大で、昭和10年1935年)に内大臣を退任する際、天皇を流して慰留したという。一方で上記のように反軍思想の持ちであったため、軍部や過激派からは常に生命を狙われていた。雪子吉田茂正妻であり、吉田もまた義牧野のもとで、官僚として協調外交・日戦争回避のために尽する。

加藤寛治 (かとう ひろはる 1870~1939)

 大正昭和期の海軍軍人。最終階級は大将。日戦争を勝ち抜くために「対7割の軍備」をする海軍強硬(艦隊)の領袖として、2度の海軍軍縮条約(1922・ワシントン、1930・ロンドン)でしく抵抗日露戦争英雄東郷平八郎を師と仰ぎ、皇族の伏見宮をも担いで、軍縮容認(条約)と争った。ただ加藤本人は単なる熱血で、その言動は側近の末次信正にされたものとも言われる。

伊東代治 いとう みよじ 1857~1934)

 明治以来の政治家伊藤博文の側近中の側近として、大日本帝国憲法の起作業に参画。伊藤内閣でも、大臣や書記官長の要職を歴任する。東京日日新聞(現・毎日新聞)の社長時代には、日清日露戦争政府擁護の方針を取った。明治32年(1899年)より枢密顧問官として枢密院で隠然たる勢を持ち、積極強硬外交して政府の欧協調外交と対立した。

関連動画

第一部の参考資料

井上寿一「昭和史の逆説」(新潮新書
岡崎「幣原喜重郎とその時代」(PHP文庫
勝田夫「重臣たちの昭和史(上)」(文芸春秋
河原敏明「昭和天皇とその時代」(文文庫
・重昭和の動乱(上)」(中公文庫)
ジョン・ダワー「吉田茂とその時代(上)」(中公文庫)
三郎「落日燃ゆ」(新潮文庫
久英「夕日将軍 小説石原莞爾」(河出文庫
鈴木一編「鈴木貫太郎自伝」(時事通信社
戸川佐武「昭和の宰相第1巻 犬養毅と青年将校」(講談社
豊田松岡洋右(上)」(新潮文庫
・半一利「昭和史」(社)
・半一利「戦う石橋湛山」(東洋経済
福田和也「昭和天皇 第三部 融恐慌と血盟団事件」(文芸春秋
福田和也「日本近代(下)」(新潮新書
福田和也「地ひらく 石原莞爾昭和」(文芸春秋
松本健一「評伝 北一輝 」(岩波書店
松本健一大川周明」(岩波現代文庫)
松本清張昭和史発掘 5」(文文庫

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