遠藤航(えんどう わたる、1993年2月9日 - )とは、神奈川県横浜市戸塚区出身のプロサッカー選手である。
イングランド・プレミアリーグのリヴァプールFC所属。サッカー日本代表。
178cm75kg。ポジションはDFとMFで複数の守備的なポジションをこなすユーティリティプレイヤー。利き足は右足。
概要
湘南ベルマーレの下部組織で育ち、高校3年生のときにJリーグデビューを果たす。浦和レッズ時代の2017年にはAFCチャンピオンズリーグで優勝。2018年から海外でプレーするようになり、2019-20シーズンからドイツのVfBシュトゥットガルトに移籍。2021-22シーズンからはキャプテンを任されるなど、チームにとって代えの効かない中心選手となり、チームを残留の危機から救う活躍を見せる。
2023-24シーズンからはプレミアリーグの強豪リヴァプールFCに移籍。アンカータイプの中盤が不在という状況の中、クロップ監督の信頼を得る圧巻のパフォーマンスを披露。加入時は懐疑的だった地元のメディアやファンを手に平返しさせている。
日本代表では、U-19代表、U-23代表ではキャプテンを務め、2015年8月にフル代表デビュー。森保一監督が日本代表監督に就任して以降は不動のボランチとして活躍している。FIFAワールドカップには、2018年のロシア大会のメンバーに選出されたが出場機会は得られなかったが、2022年カタール大会では主力として出場し、日本のベスト16進出に貢献。第二次森保政権では日本代表のキャプテンに選ばれる。
オリンピックには2016年のリオデジャネイロオリンピックと2021年の東京オリンピック(オーバーエイジ枠)に2大会連続で出場。
若手時代は守備のユーティリティプレイヤーだったが、海外に移籍してからはボランチで固定されている。ドイツ・ブンデスリーガで2シーズン連続でデュエル(相手との1対1の守備)の勝利数が1位を記録。体格の優る相手に身体をぶつけられても動じないボディバランスと、鋭い寄せでボールを奪い続ける姿から「デュエル王」と呼ばれるようになる。守備的MFとしてはワールドクラスの実力の持ち主とも言われ、世界最高峰のプレミアリーグでも十分やってのけるだけのポテンシャルを持っている。
経歴
生い立ち
横浜市戸塚区で3人兄弟の長男として生まれる。元々父親がサッカーをやっていた影響もあり幼稚園の頃から公園で父と一緒にサッカーボールを蹴っていた。また、地元のJリーグチームである横浜マリノスのファンだったこともあり、よく試合の観戦に訪れていた。
小学1年生のときに地元の南戸塚SCに入り、本格的にサッカーを始めることになる。全国大会を目指すような強豪ではなく、サッカーを楽しむための街クラブであったが、父親もコーチとしてチームに参加していたため、実質父親からサッカーを学んでいた。この頃、FWからGKまで全部のポジションを経験している。小学3年生のときにはクーバー・コーチング・サッカースクールというサッカー塾にも入り、様々な技術を習得している。とはいえ、幼少のから特別な才能を見せていたわけではなく、平凡な選手でとても将来プロになれそうな選手ではなかった。小学校6年生の時、横浜F・マリノスのジュニアユースの入団テストを受けるが、落選している。ちなみにこのときの入団テストは後に代表でチームメイトとなる伊東純也も受けていたが、こちらも落選している。
中学の頃は、公立校である地元の南戸塚中学校でサッカーを続けていた。当時のポジションはトップ下だったが、中学2年生のときにDFに転向。このコンバートが今後のサッカー人生を左右するターニングポイントとなった。部員には初心者が多く、とても恵まれた環境ではなかったが、愚痴をこぼさず人一倍の努力を重ねたことで頭角を現すようになり、3年生になると神奈川県選抜に選出。また、夏ごろに何度か湘南ベルマーレユースの練習に参加したとき、当時ユースチームの監督だった曺貴裁の目にとまり、オファーを受ける。
湘南ベルマーレ
高校進学と同時に湘南ベルマーレのユースに入団。ここで劇的な飛躍を遂げることになる。試合には1年生のときから出場しており、2年生のときに、神奈川県少年選抜のキャプテンとして、国体優勝を経験。この国体での活躍が評価され、アンダー世代の日本代表にも選ばれるようになる。
2010年に2種登録選手として登録され、9月18日のJ1第23節川崎フロンターレ戦で高校3年生にしてJリーグデビューをスタメンで飾っている。しかし、この試合では6失点を許しての大敗となり、DFとしてはほろ苦い経験となった。12月4日の第34節アルビレックス新潟戦において初ゴールを決めている。
高校卒業後の2011年にトップチームに昇格し湘南とプロ契約を結ぶ。神奈川大学人間学部に入学しているが、中退している。前年度にチームは降格していたためJ2での戦いとなったが、開幕戦からCBとしてスタメンで起用されると、そのまま主力に定着。実質プロ1年目の18歳にして34試合に出場とU-20日本代表の活動でチームを離れていた期間以外はシーズンをフル稼働することに。しかし、最後まで調子が上がらなかったチームは14位と低迷し昇格争いに加われないままシーズンを終える。
2012年からはユース時代の恩師である曺貴裁が監督に就任し、19歳にしてチームのキャプテンを任される。背番号も「3」に変更され、3バックの中央でディフェンスリーダーの役割を任され、PKのキッカーも任されるなど曺監督からの大きな信頼を得る。本業である守備のみならず、最終ラインからの縦パスで攻撃のスタート地点としての役割も担い、さらにはDFながら7得点をあげるなど攻守に活躍しJ1昇格に貢献。
2013年1月に高校の同級生だった一般人女性と結婚。しかし、2月に肉離れによって長期離脱し、J1でのデビューは大幅に遅れることになる。8月になって復帰した後、チームは一時的に巻き返すが、11月になって再び怪我によってチームを離脱。湘南は1年でJ2に降格することになる。
前年度の反省から肉体改造を図って臨んだ2014年は、その効果もあってシーズンを通して大きな怪我もなくフル稼働。チームはJ2リーグ開幕から14連勝と破竹の勢いを見せ、連勝が途切れた後も21試合負けなしという快進撃を続ける。キャプテンの永木亮太と共にチームのリーダー的な選手となった中で38試合に出場と1年間をタフに戦い抜き、勝ち点101というぶっちぎりでのJ1昇格とJ2リーグ優勝に貢献する。オフには浦和レッズからのオファーを受けるが、湘南に残留することを決意する。残留の背景には、永木とのファミレスでの6時間に及ぶ話し合いがあったという。
2年ぶりにJ1のピッチに立つこととなった2015年も、最終ラインから攻守両面でチームを引っ張る。曺監督の作りあげた「湘南スタイル」(ミスを割り切りアグレッシブにトライする攻守一体の堅守速攻)はチーム全体に浸透し、前年のJ2で見せた戦いぶりをそのまま継続させることでJ1残留という目標を大きく上回る8位という成績を残す。湘南で不動のCBという地位を築き、J1で湘南を上位に進出させるという目標も達成した遠藤の気持ちは新しい挑戦へと傾いていた。
浦和レッズ
2015年12月23日浦和レッズへの完全移籍を発表。5チームから獲得オファーが届いていたが、浦和からは前年もオファーを受けていたこともあり、2年越しでの移籍実現となった。背番号は「6」。2016年シーズン序盤からミハイロ・ペトロヴィッチ監督の戦術に適応し、3バックの中央に定着。10月5日には、YBCルヴァンカップ決勝のガンバ大阪戦にフル出場し、PK戦では5人目のキッカーとして成功し、プロ入り初タイトルを獲得。J1リーグ年間王者には後一歩のところで届かなかったものの、この年年間勝ち点1位だったチームに貢献した。
2017年は、4月1日のJ1第5節ヴィッセル神戸戦で移籍後初得点を記録。この年のJリーグではチームは低迷。7月にペトロヴィッチ監督が解任となり堀孝史監督に交代となると4バックが採用され、ボランチや右SBとして出場する機会が増える。11月19日と11月25日のAFCチャンピオンズリーグ(ACL)決勝では、2試合とも右SBとしてフル出場し、アル・ヒラルの猛攻に耐え抜き、浦和の10年ぶり2度目となるアジア制覇に貢献。12月には、UAEで開催されたFIFAクラブワールドカップ2017にも出場している。
2018年もチームが苦戦する中で2得点を記録するなど奮闘するが、ワールドカップ後の7月にベルギーへ移籍するため退団が決定。7月22日のセレッソ大阪戦が日本でのラストマッチとなる。
シント=トロイデン
2018年7月21日、ベルギー ジュピラー・プロ・リーグのシント=トロイデンVVへ完全移籍。背番号は「33」。チームには、同じ日本人の冨安健洋、鎌田大地らが所属していた。8月5日の第2節KRCヘンクとのダービーマッチで初出場を果たすと、その試合で初得点を決め、上々の海外デビューとなる。浦和や代表では便利屋として起用されることが多かったが、STVVでは自身が希望するボランチのポジションでほぼ固定され、レギュラーとして活躍。2019年1月にアジアカップに出場した際に左太ももを負傷した影響で公式戦出場試合数は19試合にとどまったが、チームの過去最高成績となる7位フィニッシュに貢献。
シュトゥットガルト
2019年8月13日ドイツ・ツヴァイテリーガ(2部)のVfBシュトゥットガルトへの期限付き移籍が発表される。背番号は湘南時代と同じ「3」。加入当初はチームからの評価は低く、加入後9試合連続で出場機会を与えられず、11月3日第12節のSGディナモ・ドレスデン戦でようやく初出場を果たす。11月24日の第14節カールスルーエ戦で初スタメンを飾ると、この試合でMOM級の活躍を見せたことでボランチとしてレギュラーに定着するようになる。遠藤が中盤で起用されるようになってから前半戦燻っていたチームの成績も浮上する。この活躍が認められ、2020年4月28日にシーズン終了を待たずに完全移籍への移行が発表される。5月28日の第28節には、昇格を争うハンブルガーSVとの直接対決で移籍後初ゴールを決め、チームを2位に浮上させる。このままチームは2位でシーズンを終え、1シーズンでの1部復帰に貢献する。この活躍が認められ、キッカー誌が選出するツヴァイテリーガ年間ベストイレブンにチームから唯一選出される。
ブンデスリーガでの戦いとなった2020-2021シーズンも開幕から不動のボランチとしてチームの心臓としての重要な役割を果たす。開幕から5試合でのデュエルでの勝利回数は101回を記録し、2位以下に大きく差を付けてのリーグトップの数字を叩き出し、中心選手として欠かせない存在となる。2021年2月27日のブンデスリーガ第23節シャルケ04戦では、ブンデスリーガ初ゴールを含む2ゴール2アシストの大活躍を見せチームの大勝に貢献。この試合では11.2kmという走行距離も記録しており、同じ節で2ゴールを決めたロベルト・レヴァンドフスキを抑えてキッカー誌が選出する第23節のMVPに選出される。累積警告で出場停止となった最終節以外の全試合にスタメンで出場し、昇格組ながら9位と健闘したチームの中心として活躍。年間でのデュエルの勝率はリーグ1位となり、大きな飛躍の1年となった。
2021-2022シーズンからはキャプテンに任命される。開幕戦のグロイター・ヒュルト戦では東京オリンピックから合流4日で出場し、前半36分にチームのシーズン第一号となるゴールを決めている。代表との過密日程の影響も心配される中、一列前のインサイドハーフで起用されたことでパス出しでの貢献が増え、低迷するチームにあって欠かせない存在であり続ける。2021年の代表戦も含めた公式戦でのスタメン出場数は56試合となった。2022年2月25日第24節ホッフェンハイム戦、第25節ボルシア・メンヘングラッドバッハ戦ではリーグ戦2試合連続ゴールを記録。厳しい残留争いに巻き込まれたチームは残留が決まらないまま最終節を迎えることになる。5月13日の最終節ケルン戦では、1-1のまま試合は終盤に差し掛かり、このままでは入れ替え戦を戦わなければならない状況となるが、試合終了間際のCKで伊藤洋輝がフリックしたボールをダイビングヘッドでゴールに押し込み、起死回生の決勝ゴールを決める。結果、順位は15位に浮上し、大逆転での残留を決めるというクラブのレジェンドとして扱われるレベルの救世主となる。ちなみにシーズンにおけるチームの最初と最後のゴールを記録することにもなった。また、デュエルでの勝率は2シーズン連続でリーグ1位を記録している。
2022-23シーズンでは、2022年8月13日の第2節ヘルタ・ブレーメン戦で豪快なミドルシュートを叩き込み、シーズン初ゴールを記録する。個人としてはインサイドハーフを主戦場に髙いデュエル勝利数を記録し、攻撃面でも奮闘していたがチームはまたもや残留の危機に直面。二度監督が交代するほど迷走するチームにあって不動のレギュラーとしてプレー。残留のかかった正念場となった第33節マインツ戦では1ゴール1アシストの活躍で勝利に貢献する。その後、チームは入れ替え戦まで回るが、ハンブルガーSV相手に勝利し、前年同様に辛うじて残留を果たす。デュエル王3連覇は逃したが、5ゴール5アシストと攻撃面では工場を見せた。
リヴァプール
2023年8月18日、イングランド・プレミアリーグのリヴァプールFCに移籍することが発表される。契約期間は4年、背番号はシュトゥットガルト時代と同じく「3」となる。移籍金は1600万ポンド(約30億円)と報じられている。
加入決定からわずか1日後の8月19日、プレミアリーグ第2節ボーンマス戦でベンチ入りすると、退場者が出て10人となった後半18分という難しい時間帯に投入され、念願のプレミアリーグデビューを果たす。しかし、チーム戦術にフィットできずにいたことで満足な出場機会を得られず、アンカーの控えという立場になっていた。10月26日、UEFAヨーロッパリーグ グループステージ第3節トゥールーズFC戦で移籍後初ゴールを記録する。その後もカップ戦が主戦場という立場が続き、チームにもフィットできず苦戦が続いていた。そんな中、12月3日の第14節フラムFC戦で投入から4分後にミドルシュートを決め、プレミアリーグ初ゴールを記録。しかもチームを敗戦から救う値千金の同点ゴールとなった。その後、出場機会が増え、12月16日に迎えた第18節アーセナルとの首位攻防戦では高いスタッツを残し、これまで酷評してきた英国メディアから高評価を得る。12月の公式戦ではチームで唯一公式戦7試合連続でフル出場しており、リヴァプールのリーグ首位での折り返しに貢献。クラブの月間最優秀選手にも選出される。アジアカップのために1か月ほどチームを離れた後もスタメンで出場し続けて評価を高めると、2024年2月25日のカラバオカップ決勝でも120分間をフル出場し、チェルシーを完封。海外に移籍してから初のタイトルを獲得する。3月10日のプレミアリーグ第28節マンチェスター・シティとの首位攻防戦でも高いパフォーマンスを見せ、ケヴィン・デ・ブライネに仕事をさせなかったうえに交代に追い込む働きを見せ、大一番でのサポーターが選ぶMOMに選出され、さらにプレミアリーグ公式による週間ベストイレブンにも選出される。終盤戦はさすがに過密日程の疲労からコンディションを落としたが、それでも最後までクロップ監督からの信頼を失うことなく、激動のプレミアリーグ1年目を終える。
2024-25シーズンは退任したクロップ監督の後任となったアルネ・スロット新監督の求めるボランチ像にプレースタイルが合わず、開幕からチーム内での序列が大幅に低下してしまう。
日本代表
湘南ユースに所属していた時代から各年代のアンダー代表に選出されており、2010年には飛び級でU-19日本代表に選出され、10月に開催されたAFC U-19選手権2010に出場。チーム最年少ながらCBとしてレギュラーを掴んでいたが、準々決勝の韓国戦では守備崩壊に起因してしまい、U-20W杯出場権を逃す。2012年にもAFC U-19選手権2019に出場。今度はキャプテンを任されるが、準々決勝でイラクに敗れ、またもやU-20W杯出場はならなかった。
2014年には、リオデジャネイロ五輪出場を目標とするU-21日本代表のメンバーに選出され、9月に韓国の仁川で開催された第17回アジア競技大会にキャプテンとして出場。ディフェンスリーダーとしてチームをまとめあげたが、準々決勝で韓国に敗れている。以降も手倉森誠監督率いる五輪代表のキャプテンを務める。
2015年8月に開催されたEAFF東アジアカップに出場する日本代表に初めて選出される。8月2日の北朝鮮戦でフル代表デビューを飾り、チーム事情もあって慣れない右SBでの起用となったが3試合にフル出場。その後もレギュラー獲得とはならないまでも、ヴァヒド・ハリルホジッチ監督から守備のユーティリティプレイヤーとして評価され、五輪代表のスケジュールの合間に代表に呼ばれていた。
2016年1月にカタールで開催されたAFC U-23アジア選手権2016に出場。主にボランチとして、グループリーグ第3戦を除く5試合にフル出場。決勝で韓国を破り、優勝とともにリオデジャネイロ五輪出場権獲得に貢献。8月に開催されたリオデジャネイロオリンピックにもU-23代表のキャプテンとして選出され、3試合全てにフル出場。初戦のナイジェリア戦で5失点して敗れた後、チームの守備を立て直すが、グループリーグ敗退となる。
2018年6月にロシアで開催された2018 FIFAワールドカップの日本代表メンバー23名の中に選ばれるが、出場機会は無く、ベンチでチームを見守ることとなった。
ロシアW杯後の日本代表では、代表を引退した長谷部誠に代わるボランチのレギュラーとして一歩リードしている。2019年1月に開催されたAFCアジアカップ2019では、負傷のため初戦を欠場したものの、グループリーグ第2戦のオマーン戦からスタメンで出場。柴崎岳のパートナーとして、守備の役割に比重を置いてプレーしていた。しかし、準決勝のイラン戦で左太ももを痛めて後半15分に交代となり、決勝は試合に出場できず、ベンチからチームの敗戦を見届けた。2019年10月10日カタールW杯アジア2次予選のモンゴル戦で代表初ゴールを決める。
2020年10月におこなわれたオランダ遠征では、ボランチとしてコートジボワール戦に出場。吉田麻也、冨安健洋と共に中央で堅い守備を披露し、完封勝利に貢献する。11月12日のパナマ戦では後半開始から投入され、前半は停滞していた日本のリズムを改善させる大車輪の働きを見せ、決勝ゴールのPKを呼び込む縦パスを入れるなど勝利の立役者となる。2021年3月25日の韓国戦でも、守田英正とのボランチコンビで攻守に渡って中盤を支配し、後半38分にはセットプレーから代表2得点目となるヘディングシュートによるゴールを決め、3-0の快勝に貢献。この試合のMOMに推す声も多く寄せられた。
2021年5月20日、東京オリンピックに出場するU-24日本代表にオーバーエイジ枠として選出され、唯一前回リオデジャネイロ大会に続いての2大会連続での出場となる。持ち前のボール奪取力を駆使し、田中碧とのボランチコンビは日本の心臓として攻守両面で機能し、ベスト4進出の立役者となる。しかし、中二日で5試合という過密日程の中でフル出場を続けたため、疲労困憊の状態で出場した3位決定戦のメキシコ戦では自身のミスもあって3失点に絡んでしまう。
2021年9月からの2022 FIFAワールドカップアジア最終予選でもチームの中心となり、フォーメーションが4-3-3に変更になってからはアンカーとしてプレー。吉田麻也が負傷で欠場した中国とサウジアラビアとのホーム2連戦では代わりにキャプテンを務めた。最終予選では、消化試合となったベトナム戦以外の9試合にスタメンとして出場し、チームの主軸としての立ち位置を不動のものとした。
2022年11月にカタールで開催された2022 FIFAワールドカップでは、直前のブンデスリーガの試合で脳震盪を起こし出場が危ぶまれたが、グループリーグ第1戦のドイツ戦にはフル出場し、ドーハの歓喜と称される歴史的勝利に貢献。第2戦のコスタリカ戦にもフル出場するが、この試合で右膝を負傷。一時は欠場濃厚と見られたが、驚異的な回復を見せて第3戦のスペイン戦では途中出場してクローザー役をこなし、歴史的勝利の逃げ切りに一躍買う。ラウンド16のクロアチア戦でスタメンに復帰し、120分間を戦い抜き、試合中「デュエル王」にふさわしいスタッツを記録するが、チームはPK戦で敗れる。
2023年6月より日本代表のキャプテンに任命される。2024年1月にはキャプテンとして初のビッグタイトルがかかったカタール開催のAFCアジアカップ2023ではフィールドプレイヤーとしては唯一全試合にフル出場。第2戦のイラク戦では2点ビハインドの場面で一矢を報いるゴールを決める。チームは守備の不安定さを露呈しながらも準々決勝まで進出するが、イラク戦では後半に守勢に回って劣勢が続き、試合終了間際にPKを与えて敗戦。優勝候補の大本命と言われながらも不本意な結末を迎える。
2024年9月5日、2026 FIFAワールドカップ アジア最終予選初戦の中国戦ではCKからチームの先制ゴールを決めている。
個人成績
シーズン | 国 | クラブ | リーグ | 試合 | 得点 |
---|---|---|---|---|---|
2010 | 湘南ベルマーレ | J1リーグ | 6 | 1 | |
2011 | 湘南ベルマーレ | J2リーグ | 34 | 1 | |
2012 | 湘南ベルマーレ | J2リーグ | 32 | 7 | |
2013 | 湘南ベルマーレ | J1リーグ | 17 | 3 | |
2014 | 湘南ベルマーレ | J2リーグ | 38 | 7 | |
2015 | 湘南ベルマーレ | J1リーグ | 31 | 4 | |
2016 | 浦和レッズ | J1リーグ | 27 | 0 | |
2017 | 浦和レッズ | J1リーグ | 30 | 3 | |
2018 | 浦和レッズ | J1リーグ | 16 | 2 | |
2018-19 | シント=トロイデンVV | ジュピラー・プロ・リーグ | 17 | 2 | |
2019-20 | シント=トロイデンVV | ジュピラー・プロ・リーグ | 3 | 0 | |
シュトゥットガルト(loan) | ツヴァイテリーガ | 21 | 1 | ||
2020-21 | シュトゥットガルト | ブンデスリーガ | 33 | 3 | |
2021-22 | シュトゥットガルト | ブンデスリーガ | 33 | 4 | |
2022-23 | シュトゥットガルト | ブンデスリーガ | 33 | 5 | |
2023-24 | シュトゥットガルト | ブンデスリーガ | 0 | 0 | |
リヴァプール | プレミアリーグ | 29 | 1 | ||
2024-25 | リヴァプール | プレミアリーグ |
プレースタイル
ボランチ、センターバック、右サイドバックと様々なポジションをこなすことができる守備のユーティリティプレイヤーであるが、本人はボランチでの出場を希望しており、海外に移籍してからはボランチでの出場でほぼ固定されている。森保JAPANでは「チームの心臓」と呼ばれるほど重要な代えの利かない存在と言われている。
上背は高くないが、ヘディングが強く、フィジカルも強いためデュエルの強さが持ち味となっている。ボランチとしては、相手との間合いを詰めてボールを奪取するプレーと奪ったボールを確実に攻撃に繋ぐシンプルなプレーが特徴。長い距離の縦パスも得意としており、ビルドアップでも貢献できる。
弱点は、際立ってここが凄いという武器がないことで、そのため日本国内でプレーしていた頃は評価があまり高くなかった。しかし、シュトゥットガルト移籍後は、前述したデュエルの強さに磨きがかかり、より激しくボールを奪えるようになっている。しばしばカゼミーロやエンゴロ・カンテのような選手と言われるようになり、以前言われていた器用貧乏からは完全に脱却したと言える。
体格の優れた選手が多いブンデスリーガでもトップクラスのデュエルの強さを示しており、いつしか「デュエル王」「デュエル・マスター」という異名が付くようになる。
一方、ボールを保持したときのプレッシング耐性には課題があり、ボールロストやパスミスが目立つようになる。また、ビルドアップ能力が低いわけではないが、リヴァプールのようなトップチームのレベルではチームの穴とみなされ狙われてしまう。
プレミアリーグの公式サイトは「エンドウの最大の働きはルーズボールを拾い、効率的にポゼッションをやり直すところにある。さらに必要なタイミングで能動的にプレーができる」と評している。
人物・エピソード
湘南ベルマーレ時代に19歳でチームのキャプテンに就任するが、「嬉しかった」と感想を述べ、年上の選手にも怯むことなくリーダーシップを発揮し、ベテランの選手と口喧嘩したこともあった。
2013年1月30日に19歳の若さで結婚している。相手は高校時代の同級生で、大学進学後にアプローチし、交際することとなった。結婚後は、男の子3人、女の子1人の4人の子どもを授かっている。
2021-2022シーズンからシュトゥットガルトのキャプテンに就任した際、監督から打診されたのは東京オリンピック初戦の南アフリカ戦直後の国際電話だった。
浦和に所属していた頃、当時23歳ながら柏木陽介から「おじいちゃん」と呼ばれ、ハリルホジッチからは「おまえは40歳みたいだな」と言われるほど、冷静沈着で落ち着いたプレイヤーである。
海外に移籍してからはマウスピースを付けてプレーしているが、理由は「基本的には歯を守るというところ」だが、「自分のイメージとして、球際が強い、デュエルが強いというイメージが浸透しつつあるので、ファイターらしく見えるかな」というイメージ戦略の部分もあるという。製作費は、高級車が軽く買えるぐらいの金額にはなっているらしい。
リヴァプールに移籍が決まった当初はイングランドでは知られておらず、現地のメディアやサポーターから獲得に対して批判的な意見が渦巻いてた。当初はフィットするのに苦労したものの、次第に自分の存在価値を示すようになるとチームに欠かせない選手へと台頭し、酷評していたメディアやサポーターは手のひら返しで遠藤を称賛するのだった。
関連動画
関連書籍
- 「楽しい」から強くなれる プロサッカー選手になるために僕が大切にしてきたこと(2021年9月、ハーパー・コリンズジャパン)
- DUEL(デュエル) - 世界に勝つために「最適解」を探し続けろ -(2022年11月、ワニブックス)
関連項目
外部リンク
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