天下統一の概念について
「天下」という概念はもともと中国から来ています。日本では飛鳥時代、奈良時代に朧げながら使われてましたが、その後平安時代になり廃れ、鎌倉時代、源頼朝が「天下の草創」と語ったことから、武家政権の中では天下という言葉が重要視されてきました。
では、「天下」とはなんなのか?と書きますが、これはWikipediaや歴史用語では
「為政者及び支配者の支配領域」であり、これは日本よりも本家中国の中国史のほうがわかりやすいでしょう。
そして「天下統一」とはなんなのか?それは「支配領域における政局を正統な地位で一本化する」ことであり、
こちらも日本より本家中国の中国史の方がわかりやすいかと思われます。
天下統一≠全国制覇、日本統一の根拠 (日本国領土の変遷)
これは歴史研究において、散々言われておりますが、「天下」というものは「日本全国」というものではありません。これはなぜかと言われると「日本という国の領域は、時代によって変わる」という大きな理由があるからです。これは日本史を年表で見るとすぐわかります。(全て検索すると出ます)
- 3世紀頃:中国、三国志における「魏志倭人伝」にて、「今使訳通ずる所三十国」と記される。
- 7世紀頃:ヤマト王権と呼ばれる巨大な政権が出来上がる。天智天皇が礎を築き、天武天皇が「日本」という国号を定める
- 8世紀頃:朝廷の大伴旅人により、「隼人」と呼ばれる組織の反乱が鎮圧され、彼らの根拠地である九州南部にまで朝廷の影響力が広がる
- 9世紀頃:阿弖流為と呼ばれる人物が朝廷と戦い、敗れて降伏。東北地方の一部が朝廷に帰順
- 10世紀頃:延久蝦夷合戦が起き、源頼俊の活躍で朝廷の勢力範囲が下北半島・津軽半島(現青森県)にまで及ぶ
- 12世紀頃:源頼朝が東国を中心に武家政権(鎌倉幕府)を築き、「天下の草創」と語る。
- 13世紀頃:鎌倉幕府執権の北条義時を中心とした幕府軍が、朝廷軍を破り、武家政権が全国体制へ
- 13世紀頃:モンゴル系国家である「元」が日本を攻め、対馬・壱岐などを一時的に占領。北条時宗が対応
- 14世紀頃:南北朝の動乱。朝廷が2つに分かれて対立。足利義満が南北朝合一。室町幕府が確立。
- 15世紀頃:蝦夷にてアイヌ人と和人(朝廷側)が戦う。武田信広(蠣崎信広)の活躍により、蝦夷に勢力を伸ばす
- 15世紀頃:樺太を支配するアイヌ人が、武田信広に朝貢し、儀礼的ながら臣従。
- 16世紀頃:室町幕府が滅亡し、織田信長、豊臣秀吉が天下を統一する
- 16世紀頃:豊臣秀吉が唐入りを行う。加藤清正らの活躍により、朝鮮半島の大部分を占領。
- 16世紀頃:秀吉が死去。日本軍が撤退し、朝鮮半島が日本の支配から離れる
- 17世紀頃:関ヶ原の戦いにより、徳川家康が江戸幕府を開き、豊臣氏を滅ぼして天下を統一
- 17世紀頃:薩摩藩主である島津忠恒の主導により、琉球征伐が行われ、琉球王国が日本の支配下へ
- 17世紀頃:アイヌ人のシャクシャインらが松前藩と戦うも敗北。蝦夷における朝廷幕府支配が決定的に
- 19世紀頃:江戸幕府を滅ぼした明治政府のもと、琉球処分が行われ、沖縄本島などが「日本領」へ
- 19世紀頃:樺太千島交換条約により、樺太が「ロシア領」となり、新たに千島列島が「日本領」となる
- 19世紀頃:西郷隆盛らが明治政府などに反乱し、九州などを席巻するが、明治政府に敗れて自刃
- 19世紀頃:日清戦争が発生し、講和条約の結果「遼東半島」「澎湖諸島」などが日本領へ
- 19世紀頃:三国干渉(ロシア・フランス・ドイツ)により、遼東半島が日本の支配から離れる
- 20世紀頃:日露戦争が発生し、講和条約の結果、樺太の南半分などが「日本領」となる。
- 20世紀頃:満州事変、日中戦争などにより、中国の一部が「日本領」となる。
- 20世紀頃:第二次世界大戦、太平洋戦争により、東南アジアの一部地域が「日本領」となる。
- 20世紀頃:沖縄上陸により、沖縄本島などが日本の支配から離れる
- 20世紀頃:終戦により、樺太などが日本の支配から離れる
- 20世紀頃:サンフランシスコ平和条約により、朝鮮などが日本の支配から離れる
- 20世紀頃:北海道の千島列島がソビエト連邦に実効支配される
- 20世紀頃:島根県の竹島が大韓民国に実効支配される
- 20世紀頃:沖縄本島などが返還され「日本領」となる。
- 21世紀頃:現在
従わない者がいる≠天下統一ではない
これは実に簡単な話です。なぜなら「体制に従わない者がいない」国家は厳密には存在しないからです。現代日本では千島列島、竹島が日本の支配から離れ、沖縄では一部の人間が独立を持ちかけています。これをもって「日本という国は統一国家の体をなしていない」というのはただの頭のおかしい人です。
戦国時代に話を戻します。豊臣秀吉は1590年に天下を統一しました。しかしその後も反乱は起こっています。秀吉によって権益を奪われた人物達が反乱を起こし、それぞれ葛西・大崎一揆、梅北一揆、仙北一揆、九戸政実の乱と呼ばれる反乱を起こしました。そして秀吉の死後、関ヶ原の戦いと呼ばれる石田三成らを中心とする豊臣政権体制側への反乱が起きました。
では、これをもって「豊臣政権は天下を統一した中央政権ではない」と言えるのでしょうか。もちろん言えません。
これは大坂の陣や島原の乱が発生した徳川政権にも全く同じことがいえます。
さらに話を戻し、本来「天下統一」「天下」の語源となった中国に目を向けます。中国における統一王朝はそれぞれ「夏」「殷」「秦」「前漢」「後漢」「晋」「隋」「唐」「元」「清」などがあります。他にも明などが有名ですが、面倒なので同時代の中国周辺に他の王朝がない統一王朝に絞りました。ですが、これらの王朝の支配領域は全て違います。
例をあげれば強大とされる「元」ではチベット地区や高麗地区まで領域となっておりますが、後漢王朝はこれらの領域を支配できていません。しかし、これをもって「後漢は天下を統一できていない」というのは当然誤りです。ちなみに最初の統一王朝である秦の天下統一期間はわずか10年足らずです。もっというと前漢から簒奪した外戚の王莽が建てた新王朝は、最初期から反発や反乱が発生していましたが、天下統一を成し遂げた統一王朝です。
これら豊臣・徳川・ひいては日本中国の王朝の「天下」「統一」を考慮した上で、織田信長の天下統一を見た時、はたして上杉景勝を始めとする一部の反乱だけで「織田信長は天下統一できていない」と言えるのか、甚だ疑問であります。
敵対した当の上杉景勝自身、織田信長を「日ノ本六十余州」と表現している時点で、答えはでているのでは?
…就中景勝好時代出生、携弓箭、六拾余州以越後一国相支、遂一戦可令滅亡事、死後之思出、
景勝幅ニ者甚不相応候歟、若又出万死、於令一生者、日域無双之可為英雄歟、死生之面目、
歓悦天下之誉、人々其羨可為巨多歟、兼者常州之儀、頼朝已来承伝…
大事なのは、政権や勢力の支配強弱と天下の統一は全く別物ということである。信長の築いた政権は、確かに秀吉や家康が築いた政権よりも脆弱である。しかしそこから勝手に逆算して、その偉業まで消し去るのはあまりに配慮のない話ではなかろうか?
ティムールやアレキサンダー、ナポレオンを「築いた帝国(政権)がすぐに衰退したからその偉業は無意味」なんて評する人はまさかいないだろう。
天下静謐と織田信長・豊臣秀吉の天下
天下=畿内という発想は、16世紀においては半分正しく半分が誤りである。織田信長の中では畿内=天下だったのである。これは信長に限ったことではなく、当時の共通認識であったと歴史研究では金子氏らによって述べられている。殊に、織田信長の「天下布武」における天下は畿内を指し、畿内安寧をもって足利義昭とともに上洛した、というのは定説化されており、恐らく議論の余地はないだろう。そしてこれは、足利義昭の上洛をもって完遂されている。
しかし、その後織田信長は「天下布武」より先の「天下静謐」を志しはじめる。
まず、「天下静謐」のルーツは何か?概念的には諸説あるが、一般的には室町幕府初代将軍である足利尊氏の祈祷文がルーツとされている。ここで足利尊氏ははっきりと「天下静謐」を願ったのである。
さて、戦国時代で天下静謐となる文言が残された資料いくつかある。ここでは有名な2つを出すことにする。
永禄十三年(1570年) 織田信長から足利義昭へ 殿中御掟追加
「天下静謐」という文言は、足利尊氏から使われ、この概念と言葉が受け継がれて織田信長・豊臣秀吉に続いており、彼らの天下統一政策でも重要な認識としてあったことが明らかである。
織田信長が天下静謐という文言を使い始めたのは、永禄十三年(1570年)からであるとされている。この年、信長は三好義継や朝倉義景を始めとする、俗に言う信長包囲網と呼ばれる敵との戦いの最中であった。天下布武を標榜し、将軍権力を元に畿内安寧をはかる信長の構想は、転換を余儀なくされた。これが天下静謐の志を抱くきっかけになったと言われている。
しかし、天正元年(1573年)に、足利義昭と織田信長が本格対立し、信長が義昭を追放して幕府を滅ぼすという事件が起きる。これにより、織田信長は天下静謐の担い手である将軍を失ったのである。金子氏をはじめ、この時点あるいはその後に「信長の天下に対する概念が変わった」、すなわち、従来の天下=畿内の認識を改めることになった、とされている。
さて、ここで「天下静謐」の文言がある豊臣秀吉の惣無事令にも触れる。惣無事令とは、またの名を平和令とも言われ、大名間の私闘を禁じたものである。諸説はあるが秀吉の豊臣政権の確立、天下統一に大きく貢献したものであるとされている。
しかし、秀吉の惣無事令が最初に行われたのは多賀谷重経にあてた書状から、天正十二年(1584年)のこととされている。もちろん秀吉は、関白にもなっていなければ、豊臣政権もできていない。にも関わらず、秀吉は惣無事令を出したのである。
必然、気になるのは、秀吉が何をバックボーンとして惣無事令を出したかである。その根拠は、羽柴秀吉ではなく徳川家康の書状に記されている。
この書状は、徳川家康が惣無事令について初めて述べたものとして著名であるが、ここにおいて大事なのは、家康が織田家の体制の中にあること、そして織田信長が惣無事令を出して天下の安寧化を実行したということである。
必然、秀吉が天下統一政策において重要視した、惣無事令のバックボーンについても、当初は織田政権を背景にしたものであることが明らかとなっている。このあたりは秀吉家康の関東外交や惣無事令について詳しく書かれている宮川氏、谷口氏の歴史見解が詳しいと思われる。
織田信長の天下=畿内を中心としたものという説に関しては、当初は正しいものであったが、時代が進むに連れて誤ったものとなった、というのが現状に即しているだろう。このあたりは金子氏、桐野氏の歴史見解が詳しい。
そんなのおまえの「個人見解」だろ?
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そもそも天下=当時の日本(本州・九州・四国など)という概念は、豊臣秀吉本人が否定している。
秀吉の唐入り計画の書状や、亀井茲矩の官職(琉球守、台州守)は非常に有名な話。
当時は琉球や台州(台湾)だけではなく、朝鮮も日本の麾下という認識があった。
背景には朝鮮と対馬宗氏の丁未条約による誤解やすれ違いがあり、秀吉の唐入りが実行された
後も、それは続いていくことになった。このあたりは「やる夫が徳川家康になるようです」
その21話「沈みゆく日輪」が丁寧に書かれている。(宣伝)
秀吉も天下統一をしていない?
これは全くの逆である。秀吉がやっていないのは、天下統一ではなく日本統一という部分である。
当たり前だが信長も家康もやっていない。繰り返すが、天下というものは為政者の支配領域が及ぶ範囲の
ことであって、日本全土のことではないのである。ちなみに現代日本もやっていない。
現代日本では、日本の全領土を本州・北海道・四国・九州・沖縄とその付属領土とされており、この中には北海道の北方領土や島根県の竹島も含まれている。しかし、現在両領土は日本政府の支配下にない。竹島は大韓民国、北方領土はロシア連邦が実効支配している。
簡単に言えば、北方領土や竹島は「日本」には含まれるが、「天下」には含まれていない。(一応返還要求はしているが)
衛星国(衛星勢力)の概念
衛星国とは、宗主国(宗主勢力)に追従しながら、半独立で動く国家のことである。概念自体は似たような言葉で昔からあったが、1944年イギリスの首相チャーチルが「地球(宗主国)の周りを回る月(衛星国)」と擬えたことにより、今日一般的な概念となっている。
戦国時代に話を戻す。戦国時代、徳川家康は織田信長の衛星勢力であった。家康は独立した大名として地位を築き、織田信長と同盟関係を結びながらも、織田信長の軍事行動に協力し、その都度信長のために兵を率いて参陣している。晩年に行けば行くほど、信長と家康の関係は主君と家臣のそれに近い状態になったが、厳密には微妙に異なるのである。(ちなみに逆パターンが浅井長政と長宗我部元親である。)
しかし、この話は何も信長と家康の関係に限ったことではなく、戦国時代のみならずままあることであった。しかもどこからどこまでが衛星で、どこからどこまでが家臣というのは区分が非常に難しい。衛星国(勢力)は宗主国(宗主勢力)の力が弱くなると、離反したり独立したりした。逆に、宗主たる国や勢力のパワーが強いと衛星たる国や勢力が進んで傘下に入り、自らの地位保全や国益安堵と引き換えにすることがままあった。
モンゴル帝国などのように、勢力範囲が広がれば広がるほど、衛星勢力、衛星国家など、緩やかな支配体制が築かれることになるが、歴史研究などでは基本的に衛星国家や衛星勢力は宗主国家、宗主勢力の支配下として扱われることが多い。(ナポレオン研究が代表的である。)
天正十年(1582年)6月1日の織田信長の天下はどこからどこまでか?日本の歴史における天下統一政権と比べて実権に差はあるのか?ゲームやメディアの思い込みではなく歴史見解ではどうなっているのか?
俗説・講談を嫌う?
このユーザー記事で「通俗・講談を嫌いすぎている」という話が出たので、ついでにこれも記述しておく。正直、好き嫌いどうこう言われると、別に嫌いではない。モノによるといったところである。
例えば有名な俗説などでは「徳川家康、三方ヶ原でウンコを漏らす」などがある。徳川家康が武田信玄に三方ヶ原の戦いで敗れた際、恐怖した家康が焼き味噌を脱糞し、家臣に笑われたというもの。逃げる時にもタダ飯食ってババアに追われたなど、ユーモラスなエピソードは結構ある。
が、こういうエピソードはあくまでネタであり、またネタにならず他人が不快になるものもある、ということが結構ある。
こちらも例をあげる。永禄三年(1560年)、今川義元が織田信長を攻めた際、織田の弱兵を不甲斐なく思った今川義元は、既に勝ったと思い敵地ど真ん中の田楽狭間で宴を行った。付近の農民達が一様にこぞって歓迎し、酒や肴をガンガン今川兵に与え、すっかり酔っ払って油断した。そこを織田信長に突かれ、哀れ義元はマヌケにも織田の策略にかかって討死した。これが桶狭間の戦いだ、というものである。
こういった類の話はネタと言う名目で人物を卑下することがあり、扱いには注意が必要である。
ちなみに、俗説や講談の類の弊害については、現代社会の方がよくわかりやすい。ゴシップ誌の俗説によって著名人が風評被害を被るのは現代では常となっており、昨今ではまとめブログやSNSもあって、よりそういう話が拡散、鵜呑みにされやすくなった。
一応名前は伏せるが、某二刀流アスリートの俗話について「先輩の悪口を影で言っていた」とか「札幌の風俗街で女遊びをしていた」という与太話が拡散された時、その発信者が非常に多くの誹謗中傷を受けたということもある。
真偽の程や人格議論はともかくとして、当人は笑いやネタのつもりでも、他の人にとっては一方的な悪口や罵倒に見えるということは多々あり、特に人物評についてのネタは避けた方がいいというのが持論である。
対話を拒否するな
一応見た時に時間があれば返信してます(小声)
毎日その記事見ているわけではないのでその辺はご容赦ください
というか「遅えなコイツ何やってるんだよ」とか思った時は見てない時が多いので
勝手に書き換えちゃってください。こっちも違和感感じる部分は調べて書き加えます。
むしろ「これでいい?」「こうでいい?」と聞かれるとマジレス長文オッスオッスするので嫌なら聞かないでください。
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