カール・グスタフ・マンネルヘイムとはフィンランドの軍人、第6代大統領である。
概要
マンネルヘイムは生涯に6つの戦争をくぐり抜けた歴戦の軍人で、総司令としてソ連の侵略と戦い、大統領として苦難の外交を展開しフィンランドの国難を乗り切りった人物である。その功績からフィンランド国民の選ぶ偉大な人物で堂々の1位を獲得し、現代フィンランドの父と呼ばれている。
若き日には帝政ロシアの兵士として日露戦争と第一次世界大戦で騎兵隊を指揮し、またスパイとしてロシアと中国の国境紛争地帯を視察していたこともあった。1917年にロシア革命が勃発するとマンネルヘイムは故郷に戻り、生まれたばかりの国軍を率いてフィンランド赤軍やボルシェビキ軍と戦った。同時期のヨーロッパでは大国が解体され多くの独立国が生まれたが、ハンガリーのホルティやポーランドのピウスツキ、トルコのムスタファケマル等と異なり、マンネルヘイムは政治に背を向け軍事独裁を行うことはなかった。
1939年にソ連のスターリンがフィンランドの独立を脅かした時、マンネルヘイムは最高指揮官として冬戦争(1939~40)、継続戦争(1941~44)を戦い抜き、1944年に大統領に就任すると今度はナチドイツとのラップランド戦争(1944~45)に尽力した。マンネルヘイムは第二次世界大戦の複雑怪奇な欧州情勢の中で難しいソ連交渉を成し遂げ、フィンランドを亡国の危機から救うことに成功している。
若き日
マンネルヘイムは7人兄弟の3番目の子としてフィンランドのトゥルク・ポリ州に生まれた。フィンランドは18世紀にピョートル大帝がサンクトペテルブルクを建設して以来、バルト海の覇権争いにおいて重要な位置を占めており、東西のロシア、スウェーデン両大国から圧迫を受けていた。マンネルヘイムが生まれた時代のフィンランドもロシア領でありフィンランド大公国と名乗っていた。マンネルヘイムの幼少期はあまり幸福なものではなかった。父親は破産し愛人と一緒にパリへ夜逃げし、母親は心臓発作で死去したため兄弟は離散し、マンネルヘイムは母方の親戚に引き取られた。
しかしマンネルヘイムは学校ではあばれ者で「向こう見ず」とあだ名されたほどであった。一つ目の学校は窓ガラスを破壊し退学、二つ目の学校は無断欠席で退学とやりたい放題。その後ロシアの士官学校を志し、1年間コサックの下で働きながらロシア語を学んだ後に入学資格を得ている。その地でマンネルヘイムは騎兵を操る喜びに目覚める。卒業後はフィンランドに戻らずロシアに止まり、その黒い軍服と馬具から「死のフザール」と呼ばれる騎兵隊に入隊した。
その後のマンネルヘイムは代母の伝手を使ってサンクトペテルブルクの宮廷に出仕することが叶った。マンネルヘイムは背が高くハンサムでしかも有能とあって貴顕の集まるサロンでも注目を浴び「騎士」とあだ名された。しかしニコライ2世が即位するとロシアとフィンランドの関係は悪化し、マンネルヘイムの兄弟達は反ロシア的として国外追放の憂き目にあった。出世していたマンネルヘイムにも不運が襲い、ウマの蹴りで膝を砕かれ最前線に立つことはもはや出来ないと診断されてしまう。妻とも不仲が続き別居状態に陥った(後に離婚)。
日露戦争
19世紀から20世紀初頭にかけロシアは東に触手を伸ばし、満州や朝鮮半島の覇権を巡って清や日本と衝突していた。1904年に日露戦争が勃発すると騎兵隊の指揮官となっていたマンネルヘイムは最前線への出征を自ら希望した。37歳になっていたマンネルヘイムはそれまでポーランドで多少軍隊生活を経験した程度でまともな戦闘経験がなかったため、過酷な東アジアの戦場に赴くことに家族は大反対していた。彼が従軍を希望した理由には、経済的に苦境に陥っていたマンネルヘイムが極東の地に軍功を求めたのと同時に、私生活への疲れから希死念慮も持っていたと彼の友人が語っている。
マンネルヘイムはロシア総司令官クロポトキンの指揮下で日帝陸軍と戦った。密偵任務を任されると勇敢さと勤勉を発揮し軍内で出世していった。だが彼は心中で、ロシアの指揮官の無能さに不満も覚えていた。そして事実ロシアは劣勢に立たされ、日本に敗北することとなる。後にマンネルヘイムは日本軍の戦術を評価する一方で、ロシアの軍隊は硬直的だったと回顧している。更にマンネルヘイムは「満州での戦いは、戦争はもはや軍隊だけのものでなく国家全体に関わるものであることをはっきり示している」と指摘している。
日露戦争での敗北はロシア軍の士気を著しく低下させ、ロシア各地で革命を発生させていた。再発した膝の古傷を摩りながら西へと戻るマンネルヘイムは立ち寄る駅々で「自由」というバナーが掲げられているのを目撃している。彼がサンクトペテルブルクに戻る頃には革命は鎮圧されていたが、ツァーリはより民主的な憲法を制定することを約束させられていた。その後マンネルヘイムは休暇を与えられ、故郷フィンランドに帰国した。この時期、ロシア革命の影響でニコライ2世はフィンランドへの圧力を弱めていたため、フィンランドは短い自由改革を楽しむことができた。
アジアへの冒険
1906年にマンネルヘイムはフランス人考古学者ポール・ペリオと共に中央アジアから中国までのロシア国境を偵察する任務を授かった。表向きは学術調査であったが、裏の目的は緊迫する中国との戦争に備え、近代化著しいと噂のある中国軍の実情を調査することにあった。しかし更にその裏ではマンネルヘイムはトルキスタンから極東への未知の旅路に胸踊らせ、フィンランドの学者に相談までしていた。マンネルヘイムのことを「語学力に乏しく学術的な能力もない」と厭わしく思っていた同行者のペリオとは旅の途中で物別れになってしまったが、マンネルヘイムは長旅の果てに北京に到達することに成功した。
中国に着いたマンネルヘイムは中国の軍政改革の噂がかなり誇張されたものであることに気づき、同時に現地で日本の植民地支配がすでに始まっていることを知った。マンネルヘイムはダライ・ラマとも謁見し、1週間ほどではあるが日本にも立ち寄っている。北京までの総距離14000キロにものぼる大冒険は6巻の報告書として纏められた。それはあくまで軍事的偵察の目的であったが、後に彼はこの素材を使ってきちんとした人類学的研究として編纂しなおしフィンランドで出版している。これは彼が単なる名目でなく熱心に冒険家としての務めを果たしていたことを悠然に物語っている。
皇帝ニコライ2世はマンネルヘイムの冒険に興味をそそられ、彼を召喚してその物語に熱心に耳を傾けた。当初20分だけの予定が1時間を超えるほどにその冒険譚は皇帝の関心を奪った。皇帝の寵を得たマンネルヘイムは一躍出世を果たしてロシア領ポーランドの指揮官になった。彼は職責を果たすため日露戦争で培った経験を生かし現地の軍隊を改革した。当時のポーランドは反ロシア感情が強く、ポーランド貴族と懇ろになっていたマンネルヘイムをロシア秘密警察は頻繁に告発していたがサンクトペテルブルクの皇帝はマンネルヘイムの忠誠心を疑うことはなく、意に介すことはなかった。しかし実のところマンネルヘイムは胸中でロシアのフィンランド自治の弾圧を不満にも思っていた。
第一次世界大戦とフィンランドの独立
1914年6月、ドイツでリューマチの療養していたマンネルヘイムの耳にサラエボ事件の一報が届けられた。オーストリアがセルビアに宣戦布告したことにより各国は軍事同盟に則り第一次世界大戦が始まった。秘密指令を受けたマンネルヘイムはすぐさまポーランドに戻り、オーストリア=ハンガリー帝国との一戦に向かった。ヨーロッパが初めて経験する総力戦は、向こう見ずなマンネルヘイムをしてすらそのあまりの犠牲者の多さに行動に慎みを与えたとされる。また第一次世界大戦は、開戦当初は機関銃が余り配備されていなかったため、マンネルヘイムが好んだ騎兵サーベル攻撃が有効性を持った最後の戦いともなった。マンネルヘイムはポーランド戦線だけでなく協商国ルーマニアを助けるために600kmの遠征も行なっている。
戦局がやや落ち着いた頃に彼がペトログラード(開戦後サンクトペテルブルクから改名された)を訪れると、彼は首都に再び革命の気運が高まっていることを肌で感じた。たびたび革命軍に逮捕されそうになりながらもマンネルヘイムがロマノフ皇帝との謁見を済ました2ヶ月後にニコライ2世は革命軍の圧力によって退位させられロシア帝国は滅ぶ。マンネルヘイムは1905年の第一革命の頃から革命派を疎んでおり此度の行動も裏切りとしか彼の目には映らなかった。その気配を察されたのか、マンネルヘイムは反革命的であると見なされ予備役への追い落としを通告された。
その後ロシア革命はボルシェビキがケレンスキー政権を転覆し、より混沌を極めていくこととなった。マンネルヘイムは多くのロシア政府高官と会見したが、ボルシェビキに刃向かう腹づもりは誰もないと気付かされた。後にマンネルヘイムは「大国が無力に倒れ、解体の激痛の中にある」と述べている。一方で、宗主国ロシアの混乱はその支配に喘いでいた小国にとっては自治を取り戻す好機であった。故郷フィンランド大公国は1917年に独立を宣言した。マンネルヘイムは公式にロシア軍を辞め、新独立国フィンランドの市民となると決意し、ヘルシンキへと帰国した。
フィンランド内乱
20世紀に入ってからロシアはフィンランドへの圧力を強めており、その反動としてフィンランド人はロシアへの反感を強め独立運動が活発になっていた。ロシア革命に乗じてフィンランドは独立を宣言するも帝政ロシアに続くボルシェビキ政権はフィンランドへの宗主権の継続を求めて、フィンランド国内で赤軍を組織し混乱を扇動した。ソ連を後ろ盾とする赤軍に対抗し、非社会主義者系の政党はドイツとスウェーデンを後ろ盾とした。フィンランドで最も経験豊富な軍人としてマンネルヘイムは国民軍創生への協力を要請されたが、彼はロシア色が濃くドイツへの嫌悪感を隠していなかったので一部から批判も受けていた。マンネルヘイムは幕僚にロシア人やスウェーデン人を重用していたためこの批判も故なしのことではなかったが、本人は周辺大国の介入を嫌悪しフィンランドの独立を強く主張していた。
1918年1月にカレリアでついに白軍と赤軍の間で内乱が勃発した。カレリアはフィンランドの工業地帯で国家経済の根幹であると同時にマンネルヘイムが後半生をかけて死守しようとした運命の地である。フィンランド政府はすぐにボルシェビキに中立を守るように通達をし、内乱がソ連との戦争に発展することを防ごうと努めた。ソ連は直接的な大規模軍事行動に移すことはなかったが赤軍の輜重を援助し、間接的にフィンランド内乱に介入してきた。冷戦戦争の典型的な形をフィンランドは先んじて経験することになったのである。
この内乱でマンネルヘイムは白軍の司令として赤軍と戦った。赤軍は数は多いものの練兵が足りなかった。白軍も同じく農民の寄せ集めであったが援軍のドイツ将校達によって鍛え上げられ、徐々に立派な兵士となっていった。タンペレの戦いにおいて白軍が大勝すると大勢は決する。マンネルヘイムはヴィボルグに後退した赤軍に追い打ちをかけこれを降伏させ内乱を終結に導いた。しかし内乱が終わるとマンネルヘイムは一転し政府高官から疎んじられるようになってしまう。というのも、長い外国生活でフィンランド語すら覚束なくなっていた彼はロシアやスウェーデンに傾倒しすぎていると見なされたのだ。そのためマンネルヘイムはフィンランドの政治家になる道を断たれ、スウェーデンへ旅立っていった。
翻弄されるマンネルヘイム
ストックホルムから追放されたマンネルヘイムだがその名望は衰えず、彼も期待に応えてフィンランドのために働いた。イギリスなどの協商国はドイツと同盟しているフィンランドを脅威に感じ、またフランスはフィンランドがドイツ人を王に推戴したことに憤慨していた。マンネルヘイムは欧州各地を巡りこれらの不安・不平を宥め、また戦争の惨禍で飢餓に陥っている母国のために食料援助を要請していた。その後マンネルヘイムはフィンランドに帰ったのだが、彼の主張した軍備の維持は受け入れられず、軍内のロシア人兵士とドイツ人将校との確執は深まったままであった。国政選挙で左派の社会民主党が政権を握ると、彼らはかつて内乱で苦渋を舐めさせられたマンネルヘイムに、戦中収容所で捕虜を多数を殺したとして「虐殺人」のレッテルを貼りつけた。
煩わしい世事から距離を取ろうとマンネルヘイムは政界を引退したがフィンランド市民達が彼を放っておくはずもなく、多くの寄付金が彼の元に届けられた。マンネルヘイムはスウェーデンの友人からは銀行の重役に推薦され、また慈善事業や人文活動に携わることも多かった。だがそんな平和な生活にマンネルヘイムはすぐさま飽きがきた。デンマークの王子が継承権を放棄してフランス外人部隊に参加しモロッコに旅立ったというニュースを聞いた時にマンネルヘイムは感銘を受け、これに続こうと実際にフランス政府に打診までした。これは彼の高齢を理由に断られたが、マンネルヘイムはどこまでいっても軍人ということを大いに示していた。
その後フィンランドで右派の反動化が始まった。マンネルヘイムはかつての戦友達も参加するこの保守運動に共感しながらも、暴力化する右派達を見て公然と参加することを躊躇っていた。その後、左派政権は右派との和解のポーズとしてマンネルヘイムを国防軍のトップにつけることを提示する。かつて面と向かって「虐殺者」と罵倒してきた左派から今度は「英雄」と扱われることに困惑するも、彼は国内の騒擾を抑えるためにこれを受けた。軍の責任者となったマンネルヘイムは、第一次世界大戦以来の欧州各国の軍拡競争を踏まえてフィンランドも軍備増強することを主張する。一度はこの提案は受け入れられるも後に政権交代が起きて1943年までにフィンランド軍を近代化するという彼の計画は頓挫した。フィンランド軍の軍備の拙さは冬戦争のソ連侵攻の際に最悪の形でフィンランド人を後悔させることとなった。
冬戦争
→冬戦争
フィンランドにとりソ連は極めて現実的な脅威であった。小国フィンランドは他国と同盟してソ連の圧力に対抗する必要があった。問題はその相手である。エーランド島を巡る領土問題からスウェーデンも必ずしも信頼できる同盟者とは言い難かった。ポーランドは等しくソ連の脅威を共有できるため軍事同盟が組めるが、リトアニア、エストニア、ラトビアのバルト三国はソ連に近すぎため厳しい。イギリスやフランスとは良好な関係を保っているが、マンネルヘイムは両大国がバルト海の問題についてどれだけ真剣になっているか怪しく思っていた。そんなフィンランドの心配を他所に30年代にかけてドイツでナチスが台頭し、ヨーロッパ大陸でも事態は風雲急を告げていた。イギリスがソ連も含んだ対独包囲網を敷こうとするがフィンランドとその周辺諸国の反応は鈍かった。各国は軍事同盟に乗じてソ連が内政干渉してくるのを危惧したためである。1939年9月、ドイツがポーランドに侵攻し第二次世界大戦が開始される。
混沌を増していく国際情勢の中でソ連はフィンランドに東カレリアの割譲を申し入れたきた。マンネルヘイムは止む無しとして受諾を提案したがフィンランド政府はこれを拒否した。バランスを取るためにフィンランドはドイツとの不可侵条約を否決し中立をアピールするが、スターリンの目にはもはやフィンランドは敵性国家にしか映らなかった。マンネルヘイムは戦争準備の時間を稼ぐためにソ連の妥協的な条件を飲もうとしたが、フィンランドでは彼の弱腰外交は評判が悪かった。さらにフィンランド政府は予算の都合からフィンランド軍の2/3しか動員させなかった。マンネルヘイムはこれに激怒し、大統領に辞表を提出する騒ぎにまで発展した。1939年11月マイニロにてソ連軍が自作自演の砲撃を行い、これをフィンランド軍の攻撃であるとして冬戦争が勃発した。
フィンランドは総司令マンネルヘイムの下でマンネルヘイム線と呼ばれる防衛線を敷きよく戦った。膨大な兵数と最新の兵器を持ちながらソ連軍は油断し、国を守る決意を固めたフィンランド人の前に次々敗れていった。スターリンの粛清によってソ連軍が麻痺状態に陥っていたこともフィンランドを助けた。しかしソ連も次第に油断を捨て本腰を入れ始める。そうなれば多勢に無勢、兵器の質の違いもあって徐々にフィンランドは劣勢になっていった。マンネルヘイムは開戦当初からフィンランドの独立が維持できれば御の字という認識であった。スターリンも戦争を長引かせイギリスを介入させることは避けたいと感じており、1940年3月に和平が結ばれた。独立は守れれど、その被害は甚大であった。フィンランドの死者数24,923人。フィンランドは65,000km2の領土を失った。
ヒトラーとの同盟、継続戦争
→継続戦争
戦後マンネルヘイムはソ連の更なる侵攻をくじくためノルウェイ、スウェーデンと同盟を結んだ。ソ連はバルト三国と併合し、東ルーマニアも掌握するなど領土拡張の欲望を隠す気もなかった。そしてついにソ連は冬戦争の和平条約を破る要求をフィンランドに突きつけてきた。一方、欧州大陸ではナチス・ドイツがフランスを陥落させ、次にソ連への侵攻を図っていた。皮肉にも冬戦争でのフィンランドの奮闘はヒトラーに「ソ連恐るるに足らず」の印象を植え付けていたのである。マンネルヘイムはゲーリングから個人的な手紙を受け取り、ドイツ軍のフィンランド通過許可を求められた。イギリスとフランスは頼りにならないことを感じ、マンネルヘイムは「最悪」の中から最も最悪でない選択肢としてヒトラーと握手することを決意した。
ナチスとの同盟は必然的にその戦争にフィンランドが巻き込まれることが想定された。ドイツは対ソ戦争(バルバロッサ作戦)におけるフィンランドの役割とスカンジナビア半島北部のラップランドでのドイツ軍の活動をフィンランドに通達してきた。1941年6月にはフィンランド軍の部分動員が始まる。人類史上最悪の戦争となる独ソ戦の開始がフィンランドに告げられたのはその開始の前日であった。ソ芬戦争の第二幕、継続戦争が勃発する。フィンランドは「この戦争は冬戦争の"継続"であり欧州大戦とは無関係である」と宣言したが、ヒトラーが「ドイツとフィンランドは並び立つ」と大々的に喧伝したためフィンランドは完全に枢軸国と見なされてしまう。
マンネルヘイムは主に南のカレリアで戦うことになり、北部はドイツ軍に任せることとなった。彼の指揮下にもドイツ兵が組み込まれたが、装備も練度も格段に上である海外兵士を扱うことは好ましいものではなかった。フィンランドの目的は冬戦争で失った領土の回復であったが、ドイツの目的はレニングラード(ペトログラードから改名)陥落であり、この戦略目標の齟齬が後々に響いてくることになる。戦争が進みフィンランドがかつての領土を奪還するとそれ以上の進出を認めないフィンランド政府と、更なる攻撃を求めるドイツの間でマンネルヘイムは板挟みとなった。政府は戦争に人手が取られ産業と農業に壊滅的な影響が出ているとして部分的に兵士を回収し始めた。
平和と自治を目指して
国の独立を守るために戦争に巻き込まれたフィンランドに対してイギリスとアメリカは同情的であった。マンネルヘイムはチャーチルから送られてきた手紙に対して「戦争は必要であるが、フィンランドはイギリスと争うつもりはない」と返答している。後にイギリスはソ連の圧力を受けてフィンランドに宣戦布告をするが、軍事行動に移ることはなかった。マンネルヘイムはアメリカにも「フィンランドは予見しうる未来においてこれ以上の攻撃は企図していない」と述べている。一方でフィンランドは冬を凌ぐためにドイツから175,000トンの穀物の輸入を請求しておりドイツの要求を無下にすることもできなかった。しかしそれでもフィンランドは徐々にドイツと手を切ろうと画策し始めた。フィンランドはドイツを「同盟国」でなく「戦友」と表現するようになり、ヒトラーがマンネルヘイムの75歳の誕生日を祝おうと訪芬した折には「戦争中にふさわしくない」と会談を回避しようともしている。
ドイツ軍のスターリングラード戦線での敗退を完全な潮目とみなし、フィンランドは戦争から離脱するために全力を傾け始めた。アメリカ大統領もフィンランドの離脱を助けると申し出てくれていた。フィンランドの外相はベルリンに赴いてドイツ兵の撤兵を直談判しようとするが、ヒトラーの性格をよく知るマンネルヘイムは状況を悪化させるだけだと反対した。彼の予想は当たりドイツは態度を硬化させ正式なフィンランド=ドイツ同盟に調印を迫った。フィンランドがこれにを渋ると、ドイツはフィンランドへの食料輸出を停止してしまった。そもそもフィンランドがドイツと同盟したのはソ連の脅威に対抗するためである。ドイツとの関係を断てばソ連がフィンランドの併合を目論むことは目に見えていた。事実フィンランドと同じ立場にあったハンガリーとルーマニアは和平の結果ソ連に占領されてしまっている。
攻勢に転じたソ連軍はドイツ兵を押し返しフィンランドに進出を今まさに狙っているのである。ソ連の要求は国境線を冬戦争後に戻すことを前提として、ドイツ兵のフィンランドの地で拘束しろとまで迫った。その条件は飲めないと4月に交渉は行き詰まる。やはりフィンランドはドイツと共にソ連と戦い続けるほかに選択肢はない。フィンランド大統領リュティはドイツのリッベントロップとの間に、ソ連と個別に和平を結ばないことを規定する条約に調印した。この条約は施行されることはなかったがアメリカはこれを理由にフィンランドとの外交関係を絶ってしまう。ソ連の攻撃は激化を続け、1944年7月の最初の11日間で戦争での死者数が18,000人から32,000人に激増している。
ラップランド戦争
1944年6月にノルマンディー上陸作戦が開始されドイツの劣勢は明らかになった。速やかにドイツと手を切らないとフィンランドは枢軸国の一員としてソ連に占領されてしまう。そこで同月に大統領のリュティはマンネルヘイムの元を訪れ、自分がナチスとの同盟の全責任を負って辞任するから、大統領の後を継いでほしいと彼に頼んだ。1943年1月の大統領選挙でもマンネルヘイムは大統領の地位を頑として拒否していたため再び固辞しようとするが、今度はリュティも断固とした態度で決断を迫った。その決意にマンネルヘイムも折れて彼は第6代フィンランド大統領となった。その後リュティは約束通りナチスとの同盟の責任を一身に受け戦犯として禁固刑の判決を受けている。
マンネルヘイムは政治家に転身してもなおソ連と戦い続けた。フィンランドの犠牲者数は6万人に膨らみ、ソ連もフィンランドは容易ならぬと感じ始めていた。思うように展開しない戦況に態度を軟化させたモスクワは和平の条件としてドイツとの関係破棄、およびドイツ兵の排除を提示した。マンネルヘイムはヒトラーに手切れの手紙を送り、ソ連と和平条約を結ぶことを決めた。1944年9月19日、カレリアの喪失、3億ドルの賠償金、フィンランドの港湾・空港等の使用許可など厳しい条件を受け入れつつもフィンランドは自治を保持したまま継続戦争を終結させることが出来た。ドイツとの関係断絶はフィンランド経済を崩壊させ飢餓が起こるのではと懸念されたが、マンネルヘイムは事前にスウェーデンから6ヶ月の援助の約束を取り付けることに成功していた。
しかしこれで全ての問題が解決したわけではない。なんといっても停戦条件にはフィンランドの国土からのドイツ兵の追放が含まれているのだ。こうしてフィンランドとドイツのラップランドでの戦争が始まった。劣勢となったドイツ兵はフィンランドと赤軍の同時攻撃を受けることとなる。しかしフィンランドには曲がりなりにも「戦友」であったドイツと戦う意思はなく、一応戦っているフリだけしてソ連や国際社会に「フィンランドは約束を守っている」という格好だけを見せていた。しかしやがてそんな嘘もばれ始め、ソ連の介入の中でドイツとフィンランドの本格的な戦闘が開始された。ドイツ軍の撤兵は徐々に進み、戦争がほぼほぼ終わりかけた12月31日、マンネルヘイムは総司令の座を降りた。1945年に入ってドイツの完全駆逐が宣言され、ラップランド戦争も終わりを迎えた。
マンネルヘイムの晩年
マンネルヘイムはソ連との停戦条件を監視するためにその後も大統領にあり続けた。しかし高齢になっていた彼の健康はますます悪化し、1945年9月には医者のアドバイスを受けて温暖な気候のポルトガルに療治に向かっている。十分な休養にも関わらず健康問題が好転することはなく、1946年3月に大統領の職を辞すことを政府に告げた。
長きに渡る仕事を終えたマンネルヘイムは余生のほとんどをキリクニエミの邸宅での私的な時間に充てていた。健康上の問題はしつこく付きまとい、彼はスイスの有名な医療施設を訪れ長い治療を受けることとなった。彼の地でマンネルヘイムは回顧録の執筆に励んでいた。彼は自身の回顧録を政治的なものだとみなしており、ドイツやソ連に関わるセンシティブな話題を避け、また母国の政治家への批判も好まなかった。
1951年1月27日。マンネルヘイムは激動の人生に終わりを告げ、永い眠りについた。享年83歳。死ぬまで母国フィンランドの未来を案じていた国の英雄の葬儀は国葬としてヘルシンキで営まれ、多くの参列者を呼んだが、ソ連の気分を害することを恐れて多くのフィンランドの政治家は参加しなかったとされる。
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関連項目
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