ルイス・フィーゴ単語


ニコニコ動画でルイス・フィーゴの動画を見に行く
ルイスフィーゴ
9.8千文字の記事
  • 0
  • 0pt
掲示板へ

ルイス・フィーゴLuís Filipe Madeira Caeiro Figo、1972年11月4日 - )とは、ポルトガルの元サッカー選手である。元サッカーポルトガル代表

現役時代のポジションMFウイング、攻撃的MF)。180cm75kg。利き足は右足。

概要

ポルトガルリスボン出身。ポルトガル黄金世代の代表的な選手であり、2000年バロンドール2001年FIFA最優秀選手賞を受賞。サイドラインを直線的に切り裂く破壊力と、キレ味鋭い切り返しでDFを置き去りにしたドリブラーとして一時代を築き、創造性とキックの精度、得点力の高さも持ち合わせ、ポルトガル史上最高の選手の一人とも言われている。

1995年よりFCバルセロナの中心選手として活躍していたが、2000年ライバルクラブであるレアル・マドリードへ禁断の移籍を果たし、銀河系軍団の一員となる。この移籍劇は大きな物議を醸し、バルササポーターからは「裏切り者」として罵られ、移籍後のカンプノウでのエル・クラシコでは「の頭」が投げつけられるしい憎悪を向けられたことは有名な話である。レアル・マドリードでは2001-02シーズンUEFAチャンピオンズリーグ優勝を果たし、キャリアの晩年期にはインテル・ミラノプレー

ポルトガル代表には1991年FIFAワールドユース選手権優勝を果たし、その直後に18歳フル代表にデビュー黄金世代の中核としてEURO2000ではベスト4入りを果たし、2006 FIFAワールドカップではキャプテンとしてベスト4進出に貢献。長らく低迷していた代表を世界の強豪国までに押し上げた功労者でもあり、127試合32得点という成績を残している。フィーゴが背負っていた代表の背番号7はその後、クリスティアーノ・ロナウドへと受け継がれた。

経歴

生い立ち~スポルティング

1972年11月4日ポルトガル南部にあるアレンテージョで生まれる。幼少期はアルマダの労働者階級の地区で育ち、その後リスボンへ移住して労働者地区で育つ。一人息子だった彼は当初は医者したほど学業優秀だったが、小さい頃からストリートサッカーに熱中していた。

12歳となった1984年リスボンの名門スポルティングCPアカデミーに入団。あまりの学業の優秀さから、入団する際の同意書には「サッカーに専念すること」という内容が含まれていたという逸話があり、その同意書通りに学業よりサッカーに専念するようになり、ユースのフットサルチームで足技を磨いていた。フットサルの経験は彼のキャリアにとって大きく役立ち、天才的なドリブルスキルによってポルトガル黄金世代の中心といえる存在となっていた。

1989-90シーズンスポルティングCPトップチームに招集されると、1990年4月2日マリティモ戦で17歳でのプリメイラ・リーガデビューを飾る。プロ1年リーグ戦3試合に出場している。

1991-92シーズンから本格的に試合に出場するようになりレギュラーの座を掴むと、1991年12月7日トーレンセ戦でトップチームでの初ゴール記録する。その後も才を発揮し、スポルティングの力として定着。1993-94シーズンには公式戦42試合11得点記録し、1994年プリメイラ・リーガ最優秀選手に選出される。

1994-95シーズンチームのタッサ・デ・ポルトガル優勝に貢献。1995年ポルトガル最優秀選手に選ばれる。この頃、マヌエル・ルイ・コスタやパウロソウザ、フェルナンド・コウトといった黄金世代の仲間たちが次々とイタリアセリエAに移籍して活躍しており、ユヴェントスFCパルマFCが獲得に興味を示す。ところが、ユヴェントスとの仮契約を結んだ後に、より好条件を提示したパルマ契約したことで二重契約の状態となってしまい、イタリアサッカー連盟から「2年間、イタリアでのプレーを禁止」を申し渡されてしまう。

バルセロナ

1995年スペインリーガ・エスパニョーラFCバルセロナへ移籍することが発表される。この頃のバルサは「エルドリームチーム」が崩壊していた時期にあり、ヨハン・クライフ監督は若きフィーゴの才を付け、ミカエル・ラウドルップの後継者として獲得を熱望したのだった。加入1年の1995-96シーズンから右ウイングレギュラーの座を掴むと、性のドリブルですぐにバルササポーターの心を掴み、低迷期に差し掛かっていたチーム希望となる。しかし2シーズン連続でタイトルを逃したクライフ監督は、リーグ戦終了を待たずに解任となってしまう。

1996-97シーズンブラジル怪物ロナウドチームに加入。圧倒的なスプリント力と得点力で世界中を震撼させたロナウドだったが、彼にチャンスを供給していたのがフィーゴだった。ボビー・ロブソン監督が「戦術はロナウド」と明言したチームにあってフィーゴとロナウドコンビは数々のチャンスを生み出し、ファンを熱狂させた。チームリーガタイトルこそ逃したものの、UEFAカップウィナーズカップとコパ・デルレイ優勝の二冠を達成。

ロナウドは1年でチームを去ったが、1997-98シーズンルイス・ファン・ハール監督が就任しリバウドやルイス・エンリケが加入。新監督の戦術にも素フィットし、天才的なドリブルから数多くのアシスト記録し、バルサの右サイドは彼の聖域と化していた。このシーズンバルサリーガ優勝とコパ・デルレイ優勝内二冠を達成。フィーゴにとってはキャリアで初のリーグ優勝となった。

1998-99シーズンバルサファン・ハール監督によってさらにオランダ色を強めるが、チームの攻撃力を支えていたのは、リバウドのチャンスメークと得点力、そして右サイドで好機を生み出すフィーゴのドリブルリーダーシップだった。パトリッククライファート、リバウドと共に3トップを形成すると当時のリーガの歴代最多アシスト記録し、リーガ連覇を達成。ドリームチーム以降のバルセロナシンボルとして支持を得るようになる。

1999-00シーズンシャビカルレス・プジョルといった下部組織出身の若手が台頭するようになり、リーダーとしての存在がさらにクローズアップされるようになる。この年はキャリアハイとなる9ゴール記録しており、アシストのみならずゴールでも貢献していた。しかし、オランダ人選手を優遇するファン・ハール監督のやり方にクラブ内で不満が募るようになり、チームの成績は振るわず冠に終わる。クラブシンボル的存在となっていたフィーゴだったが、世界中を驚かせる決断を下すのだった。

レアル・マドリード

2000年7月バルセロナライバルチームであるレアル・マドリードに、6000万ユーロの金額で電撃移籍することが発表され、全世界衝撃が走る。レアル・マドリード会長に就任したフロレンティーノ・ペレスが「フィーゴを獲得する」を約し、バルサへ多大な金額が動いたことで歴史的な禁断の移籍が成立。これに対し、激怒したバルササポーターが、フィーゴ自身が経営するバルセロナ内の日本料理店を破壊するという騒動にまで発展する。そのバルササポーターの怒りが爆発したのが、10月21日カンプノウで開催されたエル・クラシコだった。ユニフォームピッチに立ったフィーゴに対して「裏切り者」「守銭奴」の罵が浴びせられ、「守銭奴」フィーゴの顔を印刷した100億ペセタ(移籍金)のニセ札が投げ込まれた。そのような騒動の中でもフィーゴはバルサ時代と変わらない高いレベルプレーを見せ続け、移籍1年2000-01シーズンリーガ優勝を果たし、2001年FIFA最優秀選手賞にも選出される。

2001-02シーズンはフィーゴの6000万ユーロの移籍金を大きく抜いた7750万ユーロジネディーヌ・ジダンが加入。これによりマドリーは右はフィーゴとミチェル・サルガド、左はジダンロベルト・カルロスという左右でタイプの異なる強力なスカッドが完成する。このシーズンリーガでは怪で離脱した時期があり、バルセロナとの二度のクラシコは負傷と出場停止によって欠場している。一方、UEFAチャンピオンズリーグでは決勝のバイヤー・レヴァークーゼン戦をジダン伝説ボレーシュートによって勝利し、30歳にして初のビッグイヤーを戴冠。

2002-03シーズンバルサ時代のチームメイトであるロナウドが加入。当時よりも運動量が落ちたロナウドだったが、それでも右サイドからチャンスを作り出すことで彼のゴールアシストしていた。一方、バルササポーターは「裏切られた」憎しみを忘れておらず、2002年11月23日カンプノウのクラシコではバルササポーターからしい抗議ブーイング、侮辱を受け、CKを蹴る際にはウイスキーゴミペットボトル、さらには子の頭までが投げつけられる異常事態となった。審判試合を中断せざるを得ず、フィーゴがCKを蹴る際は警備員が厳重にガードするという異様な光景が繰り広げられた。12月3日日本で開催されたトヨタカップではオリンアコスを破ってクラブ世界一タイトルを獲得。リーガではキャリア初となる二桁得点を達成し、チームの2シーズンぶりの優勝に貢献している。

2003-04シーズンに解任されたビセンテ・デルボス監督の後任としてU-20代表時代の恩師であるカルロス・ケイロス監督に就任。に同じ右サイド戦場とするデイヴィッド・ベッカムが加入したことでポジション争いが注されたが、右サイドポジションは譲らず、ベッカムセンターハーフでの起用がメインとなった。個人としては前年より得点数こそ減ったが、高いパフォーマンスで最高のシーズンと言える内容だった。しかし、チームフェルナンド・イエロクロード・マケレレを放出したことで守備のバランスが崩れてしまい冠に終わる。

5シーズンとなった2004-05シーズンになると銀河系軍団は衰退しており、監督交代が相次ぐ混迷したシーズンとなった。前半戦はこれまで通り右サイド戦場としていたが、年明けにトーマス・グラベセンが加入してからはベッカムが右サイドに移り、スポルティング時代以来となるトップ下へコンバートされる。だが、徐々にヴァンデルレイ・ルシェンブル監督との確執からスタメン出場が減するようになり、レアル・マドリードでの居場所を失っていた。

インテル

2005年8月、10年間を過ごしたスペインを後にし、イタリアセリエAインテル・ミラノへ移籍する。移籍1年は中盤の右サイド戦場とし、34試合に出場。33歳となったもののキレはまだまだ健在で、ベテランとしてチームを牽引。当時のセリエAは「カルチョスキャンダル」に揺れ、ライバルACミランユベントスがペナルティで大きなダメージを受ける中、傷だったインテルが繰り上げ優勝となった。

2006-07シーズントップ下での起用が多くなるが、年齢の問題もあってスタメンから外れる試合も見られるようになったが、与えられた仕事を黙々とこなし、経験豊富ベテランとして要所でいぶし銀の働きを見せていた。チームは新加入のズラタン・イブラヒモビッチの活躍もあってスクデットを獲得。2006年12月サウジプレミアリーグの強アル・イテハドへのレンタル移籍が取り沙汰され、シーズン終了後の移籍が正式に発表されたが、クラブ側の契約内容不履行を理由に移籍は消滅。

2007-08シーズンは右太もも離れによって欠場が多く、この頃から出場時間が減ったこともあってロベルト・マンチーニ監督との関係も悪化していた。「来シーズンマンチーニが残るなら移籍する」という旨の発言をしていたこともあり去就が注されたが、マンチーニ監督が退任したことでクラブとの1年間の契約延長に合意する。

2008-09シーズンは新監督となったジョゼ・モウリーニョから「若手の南役」として期待を寄せられる。流石全盛期のようなドリブルのキレは失ったものの、高い技術をいかしたキープ力、高精度のキック経験値などが重要視されていて、それを駆使してチームに貢献していた。インテルで4シーズン連続でのスクデットを獲得すると、2009年5月に36歳での現役引退を表明。現役最後の試合となった5月31日アタランタBC戦ではハビエル・サネッティの計らいによりキャプテンマークを巻いて出場した。

ポルトガル代表

1988年U-16ポルトガル代表に選出。1989年5月デンマークで開催されたUEFA U-16欧州選手権では中心選手としてポルトガルの初優勝に貢献している。
1991年6月にはカルロス・ケイロス監督率いるU-20ポルトガル代表メンバーとして自開催のFIFAワールドユース選手権1991に出場。マヌエル・ルイ・コスタと共に攻撃の中心として躍動し、ポルトガルを大会連覇に導く。
このようにフィーゴ、ルイ・コスタを中心にフェルナンド・コウト、ジョアンピントら有望選手がったこの世代は、ポルトガルの将来を担う「ゴールデン・ジェネレーション黄金世代)」と呼ばれ期待されるのだった。

1991年10月フル代表に初めて招集されると10月16日ルクセンブルクとの試合で19歳でのポルトガル代表デビューを飾る。1992年11月11日ブルガリアとの試合では代表初ゴール記録し、若くして代表のレギュラーを獲得。しかし、当時のポルトガルは低迷期にあり、EURO92、1994 FIFAワールドカップは予選敗退となり、際大会に出場することはできなかった。

EURO96予選になると黄金世代が軒並みチームの中心として定着し、自身も予選で3ゴール記録グループを首位で通過し、1986 FIFAワールドカップ以来の舞台出場を勝ち取る。

1996年6月イングランドで開催されたEURO96で際大会でのデビューを果たすと、中盤で頻繁なポジションチェンジとパスを駆使する美しいサッカーで注を集める。グループリーグ第3戦のクロアチア戦では先制ゴールを決め、グループ首位での突破に貢献する。準々決勝では得点力不足からチェコに敗れたが、大会全4試合に出場し、若き黄金世代の中でも独特のドリブルきを放ち、高く評価された。

1996年9月からスタートした1998 FIFAワールドカップ欧州予選では3ゴール記録するが、ドイツウクライナと同居したグループであと一歩及ばず、予選敗退となる。

2000年6月オランダベルギーで開催されたEURO2000に出場。黄金世代が年齢的にピークに差し掛かり、各選手が所属クラブで成果を挙げていたこともあって民からの期待値はこれまで以上に高かった。グループリーグ初戦のイングランド戦は2点をリードされる苦しい試合展開となるが、前半22分にドリブルで中央を突破し快なミドルシュートを決める。このフィーゴのゴールが反撃の呼びとなり、ポルトガル逆転で初戦勝利を飾る。すると、続くルーマニア戦を引き分け、第3戦はドイツを相手にセルジオ・コンセイソンのハットトリックで快勝。「死のグループ」とも言われたグループAを見事首位で突破する。準々決勝のトルコ戦ではヌーノ・ゴメスの2ゴールをいずれもアシストし、チームベスト4へと導く。準決勝ではジネディーヌ・ジダン擁する世界王者フランスに延長戦の末に敗れたが、この大会で見せたパフォーマンスは強インパクトを残し、イングランド戦とトルコ戦の2試合MOMに選出、さらに2000年バロンドールに選出されている

2001年8月15日モルドバとの試合では代表で初のハットトリックを達成。2002 FIFAワールドカップ欧州予選では9試合6ゴール記録し、1986年大会以来となる本大会出場権獲得をもたらす。

2002年6月日本韓国で開催された2002 FIFAワールドカップに出場。30歳になり初めてのワールドカップを迎えることになる。「黄金世代」が円熟期を迎えたチーム優勝補の一にも挙げられたが、グループリーグ初戦でアメリカに敗れ躓くと、第2戦のポーランド戦に勝利したものの、第3戦では共催韓国を相手に2人の退場者を出し敗戦。フィーゴも含め力は疲労と怪でコンディション不良により実力を出し切れないままグループリーグ敗退となった。

2004年2月18日イングランドとの試合で代表通算100試合出場を達成。2004年6月には自開催のEURO2004に出場。ところがグループリーグ初戦のギリシャ戦によもやの敗北を喫すると、ルイスフェリペ・スコラーリ監督は思い切った世代交代を断行し、長年の盟友であるルイ・コスタやフェルナンド・コウトがレギュラーを剥奪されてしまう。黄金世代でただ一人レギュラーの座を確保したフィーゴは新世代の旗手であるクリスティアーノ・ロナウドと共にチームを牽引し、決勝まで辿り着く。ところが開幕戦に続いて顔を合わせたギリシャの前にまたしても敗れ、あと一歩のところでタイトルを逃す。そしてこの大会を最後に黄金世代の全員が代表引退を表明する。

だが、ワールドカップを勝ち抜くにはベテランの力が必要だと考えていたスコラーリ監督から復帰要請を受け、2006 FIFAワールドカップ欧州予選の終盤に代表へ復帰。さらに代表のキャプテンに任命される。

2006年6月ドイツで開催された2006 FIFAワールドカップにはチーム最年長のキャプテンとして出場。若いクリスティアーノ・ロナウドが注される中、初戦のアンゴラ戦ではドリブル突破からペドロ・パウレタのゴールアシストし、MOMを獲得するなど健在ぶりをアピールチームグループリーグを全勝で突破し、決勝トーナメントではGKリカルドの活躍もあってオランダイングランドを撃破。準決勝ではチームメイトジダンがいるフランスと対戦するが、全盛期を彷彿とさせるパフォーマンスを見せたジダンのPKの1点に泣き、敗退。3位決定戦のドイツ戦には出場せず、これが最後の代表での試合となった。最後の大舞台ポルトガル1966年以来となるベスト4進出に導き、大会後に代表を引退

ポルトガル代表通算127試合32得点

個人成績

シーズン クラブ リーグ 試合 得点
1989-90 スポルティングCP プリメイラ・リーガ 3 0
1990-91 スポルティングCP プリメイラ・リーガ 0 0
1991-92 スポルティングCP プリメイラ・リーガ 34 1
1992-93 スポルティングCP プリメイラ・リーガ 32 0
1993-94 スポルティングCP プリメイラ・リーガ 31 8
1994-95 スポルティングCP プリメイラ・リーガ 29 7
1995-96 バルセロナ リーガ・エスパニョーラ 35 5
1996-97 バルセロナ リーガ・エスパニョーラ 36 4
1997-98 バルセロナ リーガ・エスパニョーラ 35 5
1998-99 バルセロナ リーガ・エスパニョーラ 34 7
1999-00 バルセロナ リーガ・エスパニョーラ 32 9
2000-01 レアル・マドリード リーガ・エスパニョーラ 34 9
2001-02 レアル・マドリード リーガ・エスパニョーラ 28 7
2002-03 レアル・マドリード リーガ・エスパニョーラ 33 10
2003-04 レアル・マドリード リーガ・エスパニョーラ 36 9
2004-05 レアル・マドリード リーガ・エスパニョーラ 33 3
2005-06 インテル セリエA 34 5
2006-07 インテル セリエA 32 2
2007-08 インテル セリエA 17 1
2008-09 インテル セリエA 22 1

引退後

引退後はインテル・ミラノの幹部に就任し、フロント入り。

2015年国際サッカー連盟FIFA会長選へ向けて、立補を表明していたが、選挙期間中に討論演説の機会を十分に与えられなかったとして立補を取り下げた。

2017年にはUEFAの経営顧問に就任し、現在コメンテーターとしても活躍している。

プレースタイル

卓越したドリブルキックセンスを組み合わせた、創造性あふれるファンタジスタ的なウインガークラブでは右ウイング戦場としていたが、黄金世代が健在だったころの代表では左サイド戦場だった。ポルトガル史上最高のドリブラーと評されているが、パスのセンスも高かったことからスピードが衰えた晩年期はトップ下としてプレーしている。

フィーゴのドリブルの特徴はシンプル重心移動とタイミングによって相手の裏を取ることであり、相手の重心を動かしたり、シザーズでタイミングズラすことで逆を取っていた。また、ボールタッチの際にいつでもストップできる、いつでも蹴れるところに置ける技術の高さがあるため、シザースとキックフェイント以外のフェイントは使用しなかった。

ドリブルで移動しながらも、ボールを自分の支配下に置いておける技術の高さも特徴的であり、常に自分のどん中にボールを置いてドリブルすることにより、ボールを見てドリブルをするのではなく相手とスペースを見てドリブルを仕掛けることができ、そこから正確なパスやシュートというプレー選択肢を多く持っていたことで相手は的を絞れないため多くのことを警しなければならず、分かっていてもドリブルで抜かれてしまう。

サイドプレーしているときは相手と並走しながら回転をかけた高速低クロスニアポストに送り込むのを得意としており、リーガで当時の歴代最多アシスト数を記録できたのもこのクロスの正確さによるものだった。わずかなスペースでもボールを合わせられる正確さもあり、間を繋げるようなパスからもアシスト記録していた。クロスだけでなく、左足でのカーブシュートインステップでの強シュートも得意であり、利き足と逆の左サイドプレーしていたときはカットインからのシュート武器となっていた。

また体格に恵まれており、ボディバランスが優れていたことから囲まれても当たり負けしないのも強みとなっていた。

人物・エピソード

関連動画

関連項目

関連記事

親記事

子記事

  • なし

兄弟記事

【スポンサーリンク】

  • 0
  • 0pt
記事編集 編集履歴を閲覧

ニコニ広告で宣伝された記事

この記事の掲示板に最近描かれたお絵カキコ

お絵カキコがありません

この記事の掲示板に最近投稿されたピコカキコ

ピコカキコがありません

ルイス・フィーゴ

まだ掲示板に書き込みがありません…以下のようなことを書き込んでもらえると嬉しいでーす!

  • 記事を編集した人の応援(応援されると喜びます)
  • 記事に追加して欲しい動画・商品・記述についての情報提供(具体的だと嬉しいです)
  • ルイス・フィーゴについての雑談(ダラダラとゆるい感じで)

書き込みを行うには、ニコニコのアカウントが必要です!


ニコニコニューストピックス