硫黄島の戦いとは、大東亜戦争末期の1945年2月19日から3月26日にかけて行われた日本軍守備隊vsアメリカ軍の戦闘である。激戦区の一つであり、戦闘自体はアメリカ軍が勝利して島を占領したものの、死傷者が日本側の戦死者を上回る数少ない例となった。
概要
日本軍の動き
戦場となった硫黄島は東京都小笠原諸島に所属する長径8.3km、短径4kmの島である。地中からは絶えず水蒸気や硫黄臭の煙が噴出し、湧き水の類は一切期待できない。雨が降ってもすぐに地中へ浸み込んでしまい、川も無いため雨水を貯めるしかなく、居住するには過酷な環境だった。とはいえ小笠原諸島の中では唯一平坦な部分が多く、飛行場の適地だった事から前々より日本軍は飛行場の建設に着手。1933年の海軍大演習で仮飛行場を作ったのを皮切りに軍事拠点の道を歩み始める。1937年には航空基地として機能するよう飛行場が拡張され、南西部に千島飛行場、中央に元山飛行場が設営された。いつ頃から人が住んでいたのかは不明だが、漁業や採鉱が主な産業であった。
大東亜戦争が始まると本土と戦場の中間に位置する戦略的拠点となり、第5艦隊の一部が通商保護を行った。1943年9月1日、米機動部隊による南鳥島攻撃が行われ、戦死者37名と地上施設の大半が壊滅する被害を受けた。外縁部とはいえ小笠原諸島が攻撃を受けた事は軍部を焦らせ、小笠原と硫黄島の防備増強を命じた。硫黄島の防衛は海軍が担当しており、横須賀鎮守府から派遣された施設部派遣隊約800名が既存の飛行場の拡張と北東部に新たな飛行場を設営していた。他の島嶼と同様に陸軍が防備する場合も考慮し、陸軍省は硫黄島に人員を派遣。歩兵と砲兵それぞれ1個大隊の投入が論じられていたようだ。
1944年2月5日、マーシャル諸島クェゼリンを失陥した日に大本営は小笠原方面への増援部隊輸送を決断。中国大陸や満州に展開している戦力から抽出し、続々と送り込んだ。3月20日から23日にかけて、硫黄島に第41、第67、第68要塞歩兵隊及び第7要塞山砲兵隊基幹の部隊が派遣。小笠原諸島が絶対国防圏に含まれたため、防備体制の構築が急がれた訳である。新たに編成された伊支隊4883名も硫黄島に送られた。しかし水質の悪さから多数の下痢患者が続出、たった一ヶ月で460名もの患者を出してしまった。雨水に頼らなければならない以上、常に水不足との戦いを強いられた。液体への渇望は、兵士に硫黄泉を飲ませるには十分すぎるほどだった。苦境の中、海軍の硫黄島警備隊は12cm砲3門、12cm高角砲4門、九六式25mm連装機銃6門の設置を行った。3月30日、伊支隊は硫黄島を7つの区画に分けて防衛陣地を構築する案を作った。侵入してきた敵艦艇を海上で撃破する防御方法を採用し、事前の艦砲射撃や爆撃で銃器類が破壊されないよう岩窟内に陣地を作る方針を固めた。硫黄島の急速な陣地構築を可能にするには、本土から資材を輸送する必要があった。そこで大本営はマリアナ諸島やトラックへの輸送と合わせた「松輸送」を開始。松輸送は重松と東松の二つに大別され、硫黄島方面は東松輸送と呼称された。横須賀を出発した輸送船団は物資集積地である父島で荷揚げし、小型舟艇を使って硫黄島に運び込まれた。
6月8日、1機の一式陸攻が硫黄島の飛行場に降り立った。中から現れたのは、第109師団長に任命された栗林忠道陸軍中将であった。以降、硫黄島の全戦力は彼の指揮下に置かれる事になった。栗林中将は部下と苦難をともにする事をモットーに掲げ、「父島に司令部を置くべき」という声を退けて自ら厳しい環境の硫黄島に着任。湯のみ一杯の水で顔を洗い、口をすすぎ、ヒゲを剃った。要塞化は順調に進んでいたが、戦況は
悪化の一途を辿っていた。アメリカ軍がサイパンに上陸した6月15日、硫黄島への初の空襲が行われた。また増援部隊が到着すればするほど水不足の問題は深刻化。井戸を掘らせても、出てくるのは塩分と硫黄分が混じった硫黄泉であり飲用に適さない。無理に飲めば下痢になってしまう。貯水タンクの中ではボウフラが元気良く泳ぎまわり、大変不衛生だった。当初は水際防御による迎撃を考えていたが、栗林中将はこれに反対。6月20日、伊支隊の厚地隊長に対して「敵をわざと上陸させ、火器の射程距離に収めてから攻撃する」という新たな指示を与えた。3日後、さっそく厚地隊長は水際陣地構築作業を一時中止し、後方に新たな陣地を構築するよう設営隊に命じた。だがこれは敵を無傷を上陸させ、飛行場をみすみす渡す事になるため陸軍からの反対意見が特に強く、説得に苦労した。強固に反対していた混成第2旅団長の大須賀應少将と堀静一参謀長を更迭して反対意見を退け、何とか栗林中将の意見が通った。6月24日、米艦載機が硫黄島に襲来。基地航空隊と上空で激戦を演じた。
7月7日にサイパンが陥落すると、いよいよ次の攻略目標は小笠原諸島だと大本営は悟った。特に戦略的価値の高い硫黄島には必ず敵が来る。さっそく大本営は小笠原兵団を新編し、その団長に栗林中将を据えて第109師団長と兼任させた。また大本営は敵の小笠原来攻を8月から9月と予想し、現地の守備隊に決戦準備を促した。サイパンで一般人が辿った悲惨な運命を鑑み、栗林中将は硫黄島在住の民間人を全員内地に帰還
させるよう計らった。ただ軍属だった約230名は残留した。帝國陸海軍は「伊号輸送作戦」を以って硫黄島に物資を輸送し続けていたが、近海には敵の潜水艦が出現し、数々の輸送艦が撃沈された。サイパン陥落後は本土侵攻を見越して米艦隊が小笠原諸島方面に出現、8月4日のスカベンジャー作戦によって多数の駆逐艦及び輸送艦が血祭りに上げられてしまった。10月28日、大本営はマリアナ諸島に進出してきたB-29が本土を爆撃する可能性が高いと判断。硫黄島を中継地としてサイパンを攻撃する作戦を開始した。11月2日、浜松基地から飛来した九七式重爆9機が硫黄島に着陸し、燃料補給をしてサイパン島に飛び立っていった。以降、12月26日まで攻撃が行われた。未帰還機多数を出す大損害を負ったが、アメリカ軍にも重大な被害を与える事に成功。硫黄島の厄介さに気づき、B-29の一部を硫黄島に振り分けて爆撃した。1944年12月23日より硫黄島では洞窟式交通路の構築を開始。敵の艦砲射撃が及ばない地下に連絡通路を作り始めた。作業は約3ヶ月で完了すると見積もられていたが、その前にアメリカ軍の上陸が始まったため摺鉢山と元山飛行場を結ぶ連絡通路が未完であった。これはかなり致命的だった。
マリアナ諸島から飛び立ったB-29は日本本土を盛んに爆撃していたが、硫黄島の東を通過すれば京浜地区、西を通過すれば中京と阪神地区が目標とある程度目算を立てる事が出来た。アメリカ軍は執拗に硫黄島を爆撃したが、地下壕のおかげで兵力や物資への被害は最小限に抑えられた。1945年1月末、通信傍受により連合艦隊司令部は太平洋方面での敵軍艦艇がこれまでになく活発化している事を察知。大規模な作戦に備え、ウルシー方面で補給や修理を行っていると判断した。2月に入るとフィリピン方面の通信量が減り、代わりに小笠原方面、沖縄、台湾への通信量が増加。間もなく同方面に侵攻してくると考え、2月13日にそれぞれの守備隊に警戒を命じた。
1945年2月19日に上陸を受けた時点で食糧は4ヶ月分、水の使用量は1人1日3リットルで飲料水は水筒1本分、総兵力2万2786名。このうち野菜と清水不足で栄養失調やパラチフスになる者が20%に上った。
アメリカ軍の動き
1944年7月7日、サイパンを奪取したアメリカ軍はB-29の発進基地を獲得。日本本土全域を爆撃圏内へ収める事に成功した。ところがマリアナからでは護衛戦闘機の航続距離が足りず、日本軍戦闘機の迎撃でB-29に少なくない損害が発生。被弾すれば約2400km先のマリアナまでは到底帰れず、海上へ不時着水しなければならない。この事はパイロットの士気を極端に低くしていた。これを受けて8月12日、首都ワシントンに置かれている統合戦争計画委員会は硫黄島攻略作戦を統合計画幕僚会議に提出、認可された。硫黄島を獲得すれば護衛戦闘機が付随する事が出来、海上に不時着水を強いられたパイロットも潜水艦によって容易に救助する事が出来る。また硫黄島にあるレーダーはB-29の編隊をいち早く探知して本土に通報したり、同島から飛び立った重爆がサイパンのアスリート飛行場を爆撃していくなどアメリカ軍にとって目の上のコブでもあった。予定では1945年4月15日とされていたが、同時攻略目標を台湾から沖縄に変更したり、幕僚会議による調整で日付が1月19日に前倒しとなる。そして10月9日、ニミッツ大将はスミス海兵中将宛に硫黄島の攻略作戦を命令。作戦名はデタッチメント(孤立)とされ、作戦準備に取り掛かった。ところがルソン島リンガエン湾上陸が1944年12月15日から翌1945年1月9日に延期されたシワ寄せを受け、硫黄島攻略も1ヶ月遅れて2月19日となった。
投入戦力は第3、第4、第5海兵師団やアメリカ陸軍兵11万1308名。硫黄島守備隊の5倍以上である。デタッチメント作戦を支援する後方要員を含めると25万以上であった。上陸作戦を第58任務部隊の第1から第5戦隊(空母11隻、軽空母5隻、戦艦8隻、重巡6隻、軽巡9隻、駆逐艦79隻)と輸送船43隻、大型戦車揚陸艇63隻、中型戦車揚陸艇31隻など800隻を超える艦船が支援する。
1944年12月初旬、アメリカ軍は潜水艦スピアフィッシュ等を近海に忍ばせて硫黄島の防備状態を調査。兵力を1万3000から1万4000名と見積もるなど、日本側の防御体制を盛んに調べ続けた。硫黄島攻撃の意図を悟られないようアメリカ側は「台湾攻撃」という偽情報を流したが、日本軍は騙されなかった。だが攻撃の矛先が硫黄島か沖縄かについて、かなり悩ませたという。上陸作戦に備え、12月8日よりB-24やB-25による爆撃を開始。この日から上陸作戦の日まで1日も欠かす事無く毎日爆撃が行われた。艦艇による艦砲射撃も計画されたが、大半がフィリピン方面に振り分けられていたので、大西洋から遥々回航する必要があった。パナマ運河を通過した戦艦が到着するまでの間、重巡ペンサコラ、ソルトレークシティ、チェスターが砲撃を加えた。
1945年2月12日、アメリカ艦隊はウルシー環礁からマリアナ方面に移動。硫黄島攻略に向けた予行練習を実施したのち、2月14日にテニアンとサイパンから出撃した。そして2月16日朝、硫黄島近海への展開を完了。空母ウェーク・アイランドから偵察機が飛び立ち、砲撃目標を艦隊に通報しようとしたが、雲が低く垂れ込めていたため島の全容を把握できず失敗。それでも砲撃と空襲が行われ、硫黄島守備隊は22名の戦死者と負傷者2名を出した。守備隊は地下壕の中でじっと息を潜めており、反撃は無かった。このため抵抗らしい抵抗と言えば、浜松基地から出撃してきた第6航空軍飛行第3戦隊の重爆2機が攻撃をしてきた事くらいだった。この日、ターナー海軍中将はサイパン沖合いで停泊する旗艦エルドラド艦上にて公式記者会見を開き、世界各国から派遣された特派員70名以上が詰め掛けた。ターナー中将は「硫黄島こそは世界中の他のいかなる要塞にも遜色なく配備されていて、これに匹敵するのはジブラルタルくらいであろう。我が軍は艦船の喪失も、それから軍隊の喪失も予期している。ただし我々は必ず敵軍の拠点を攻略する」と意気込みを語った。アメリカ軍では短期で決着がつくと予想しており、ハリー・シュミット水陸両用軍団司令官は10日で、一部の参謀は5日で攻略できると考えていた。
2月17日、硫黄島を攻囲する戦艦6隻、重巡4隻、軽巡1隻、砲艦や駆逐艦など100隻以上が本格的な艦砲射撃を開始。それまで太平洋戦線で使用された全弾量に匹敵する砲弾が硫黄島に叩き込まれ、山頂の4分の1が吹き飛ばされて摺鉢山が変形した。同日、護衛駆逐艦ブレスマンから水中防御撤去のためダイバーが派遣される。このうち1名が、日本兵に発見・銃撃されて死亡した。翌18日も艦砲射撃が行われ、12cm水平砲台8門全てを破壊。同時に95名の行方不明者を出し、硫黄島守備隊に痛撃を与えた。この日の日本側の応戦は激しく、島に接近した米重巡洋艦ペンサコラは6回の攻撃を受けて乗員17名が死亡。ダイバーが12隻の小型船に分乗して水中防御施設の撤去に向かうも、激しい攻撃で引き返さざるを得なかった。また駆逐艦ロイツェは直撃弾を喰らい、乗員6名が死亡した。更に空からは父島から飛来した天山艦攻2機と陸軍の重爆2機が米輸送船団に夜襲を仕掛けた。このうち3機が対空砲火で撃墜されたが、先述のブレスマンに命中弾を与えて40名の戦死者を出した。
海兵隊を指揮するシュミット少将は10日間の準備砲撃を求めていたが、支援艦隊司令のブランディ少将は艦に弾薬を補給する時間が無いと考えており、彼の要請を突っぱねた。後にシュミット少将は9日間の準備砲撃を求めたがこれも突っぱねられ、結局3日だけの砲撃に留まった。この事は海兵隊員に強い不安と不信感を与え、戦後「艦砲射撃の欠如が海兵隊員の命を犠牲にした」と不満を述べている。アメリカ軍は地下に張り巡らされた通路の存在を知らず、事前砲撃で守備隊は殆ど死に絶えたと思っていたという。
硫黄島の戦い
死体で埋め尽くされる海岸線
上陸日である1945年2月19日も熾烈な準備砲撃が加えられた。まず午前6時40分に戦艦と巡洋艦による砲撃が行われ、9500発のロケット弾が発射された。午前7時30分からは砲艦も加わった。午前8時5分、艦砲射撃を止めて120機による航空攻撃を実施し、上陸地点とその周辺を爆撃。最後に再び艦砲射撃を行い、午前8時30分にいよいよアメリカ軍が上陸を始めた。午前9時2分、海兵隊上陸部隊第1波を乗せた水陸両用装甲車約500輌と上陸用舟艇250隻が硫黄島の南海岸に上陸開始。海岸左翼に第5海兵師団、右翼に第4海兵師団が上陸し、硫黄島南東部に続々と米兵が集結していくが、日本軍守備隊は不気味な沈黙を保つ。せいぜい2、3個の地雷が発見された程度であり、抵抗らしい抵抗は殆ど無かった。このため米兵は事前の艦砲射撃により日本兵は全滅したのではないかと思い始めた。
午前9時30分、9000名の米兵と物資が上陸したところで一斉に砲火が浴びせられた。独立歩兵第309大隊による想像以上の砲撃にアメリカ軍は混乱、海岸は海兵隊員の死体で埋め尽くされ、この光景をタイムライフの特派員ロバート・シャーロッドは「地獄の悪夢」と形容した。午前10時5分までに戦車16輌を揚陸させたが、意外と柔らかい砂浜のせいで前進は困難だった。何とか這い上がると対戦車地雷が爆発し、150m前進するだけで3輌が破壊された。中でも鬼神の如き活躍をしたのが中村貞雄少尉であった。彼は一式機動47mm速射砲で水陸両用車を20両を破壊。上陸を試みた戦車揚陸艇3隻も破壊せしめた。海岸には無残に破壊された装甲車やトラック、海兵隊員の死体で埋め尽くされていたが、これを片付けようとブルドーザーや起重機が上陸。中村少尉はブルドーザーに狙いを定め、1台を破壊した。その直後、中村少尉がいるトーチカは集中砲火を浴びて粉砕され、彼もまた戦死したのだった。まだ後方との連絡が生きていたため中村少尉の奮戦ぶりは司令部に報告され、父島経由で大本営にも伝わった。敢闘を称え、二階級特進の申請が出されたという。栗林中将も敢闘を全軍に布告し、感状を贈った。午前11時30分に水際陣地を突破されたが、正午からは四式噴進弾の一斉射撃が行われ、海岸線にいた米兵を吹き飛ばした。命中精度は悪いものの飛来音や爆発音の大きさや殺傷能力の高さから米兵のパニックを誘い、海岸は一層の混乱に陥った。摺鉢山からも残存火器を用いた射撃が行われ、アメリカ軍は海岸線で釘付けになった。海兵隊員2400名が戦死し、浜辺は死傷者で埋め尽くされた。立ちはだかるトーチカを火炎放射器と手榴弾で潰して回るアメリカ軍だったが、地下通路で各所が繋がれているため制圧してもすぐに別の日本兵が駆けつけて機関銃が火を噴いた。油断していた海兵隊員は突然息を吹き返した機関銃に蜂の巣にされ、多くが砂浜に斃れた。それでも海兵隊は上陸を強行し、3万の兵力と200輌の戦車を揚陸させて海岸堡を確保。西海岸へと進出した事で南西端の摺鉢山が孤立。連絡通路が未完のため、撤退する事すら叶わなくなる。
日没後、アメリカ軍は万歳突撃を警戒し、洋上に展開する艦隊から照明弾が盛んに放たれたが、洞窟から出てきた少数の日本兵が襲ってくる程度だった。また英語が堪能な日本兵は負傷した海兵隊員を装い、衛生兵をおびき出す作戦も行っていたという。深夜、第23連隊第1大隊の司令部が直撃弾を受け、パース中佐と参謀のフレッド・C・エバハート大尉が戦死した。
摺鉢山を巡る攻防戦
2月20日午前8時30分、小雨が降る中、アメリカ軍は摺鉢山を攻略するグループと北方の日本軍陣地に向かうグループとで二手に分かれた。艦砲射撃約4000発と艦載機のべ360機が進撃を支援する。摺鉢山守備隊は重火器を以って応戦、戦車の支援を受けられなかった海兵隊は全く前進できない事態に陥った。B中隊長のドウェイン・E・ミヤーズ大尉はピストルだけで単身トーチカに襲撃をかける勇敢さを見せたが、彼も重傷を負った。他にも小隊長リチャード・H・サンドバーグ中尉やロッホC中隊長といった隊長クラスの重傷者が相次ぎ、後送されている。午前10時35分、出血を強いられながらも海兵隊は西海岸に到達。摺鉢山守備隊と本隊は分断されてしまった。午前11時になってようやく戦車隊が到着し、M3自走75mm砲4輌や37mm対戦車砲12門とともにトーチカと洞窟陣地を攻撃。摺鉢山守備隊は重火器の大半を失い、洞窟内に押し込められた。正午には千島飛行場が占領されて北方の日本軍陣地との連絡が絶たれ、同時に伊支隊々長の厚地大佐が戦車砲の直撃を受けて戦死した。だが摺鉢山守備隊の戦意は一向に衰えず、上陸した海兵隊の被害は大きくなる一方だった。特に第28連隊第1大隊の被害は酷く、予備の第3大隊に出動要請を出した。ところが第3大隊は上陸時に凄まじい損害を受け、上陸済みの第1及び第2大隊以上に損耗した。苦戦する第28連隊を救うべく、アメリカ軍は第5戦車大隊C中隊のシャーマンM4戦車14輌を上陸させる事にしたが、海岸で日本軍の猛攻を受けて僅か6輌のみが前線に到着。そのうち4輌は砲撃で破壊されてしまっている。夕方までにアメリカ軍は160名が死亡、日本軍は約1700名中900名が死亡した。
2月21日の朝は天候が悪化。小型艇では転覆の恐れがあったので、アメリカ軍は大型揚陸艇以外での補給を断念した。午前8時25分、米軍機40機が摺鉢山に対して爆撃を開始。海兵隊と対峙している日本軍の防衛線を攻撃した。攻撃が終わると第1大隊と第3大隊が進撃を始め、三方向から侵攻。トーチカからの攻撃を受けながら戦線を前進させた。この日も日本側の反撃は凄まじく、第28連隊は34名の戦死者と153名の負傷者を出して75%を損耗。投入した戦車7輌も5輌が破壊された。翌22日は寒冷前線が硫黄島を通過したため風雨が激しかったが、地上の戦闘は衰えなかった。海兵隊は戦車を前面に押し立てて進撃、これを日本軍の速射砲第12大隊が迎撃した。戦車数輌を撃破したものの、大隊は壊滅。他の戦線でも前面に立つ戦車が集中攻撃を受け、上陸からたったの3日で全戦車98輌中25%が破壊される大損害をこうむった。海兵隊は地下壕の出入り口7つを砲撃で破壊・崩落させ、削岩機で開けた穴から火炎放射を浴びせる事で中の日本兵を焼却。あるいは黄燐を注入して窒息死させた。守備隊側はこれを「馬乗り戦法」と呼んで忌み嫌った。この馬乗り戦法は摺鉢山守備隊の戦力を急速に減退させ、2月22日夕刻の時点で陸海軍合わせて300名にまで激減した。一方で火炎放射器を持った兵の損耗率も非常に高かった。92%の死傷率を出し、一時は訓練を受けた兵がいなくなるほどだった。
そして2月23日は摺鉢山最後の日となった。摺鉢山守備隊の抵抗が無くなったため、海兵隊第28連隊は登攀を開始。先行した偵察隊が「頂上に敵なし」と報告したので、輸送船シゾーラから持ってきた星条旗を掲げる事にした。午後12時12分、頂上に星条旗が立てられた。フォレスタル海軍長官はスミス中将に対し、「摺鉢山にあの星条旗が掲げられた事は、海兵隊が今後500年健在である事を意味している」と述べた。当時アメリカ軍内では海兵隊不要論があり、フォレスタル海軍長官の言葉はそれに対する反論であった。写真隊員のルイス・R・ロウェリー軍曹が星条旗を写真に撮った瞬間、頂上付近の洞窟から2名の日本兵が突撃。1人が星条旗を日本刀で叩き斬り、もう1人がロウェリー軍曹に手榴弾を投げつけた。彼は15m下まで転がり落ち、カメラを破損したがフィルムは無事だった。3時間後、斬られた星条旗より2倍も大きい新たな星条旗が運ばれ、再び掲げられた。硫黄島の戦いといえば星条旗を立てる場面が有名だが、それはこの場面を撮影したものだった。ちなみにこの星条旗も日本兵に引きずり下ろされ、夜間のうちに日章旗に変わっていた。昼間は星条旗が、夜間は日章旗が翻るというやり取りが一週間に渡って行われた。この時点で摺鉢山の洞窟には300名以上の日本軍将兵が生き残っていた。松下久彦少佐率いる残存部隊は米軍の包囲網を突破して混成第2旅団主力と合流する事を決意し、破壊された出入り口をこじ開けて23時頃から分散して北上。このうち約210名が道中で戦死し、僅か25名のみが玉名山付近の混成第2旅団主力と合流できた。この脱出劇に参加できなかった負傷者は5月13日まで生き残り、その後遺書をしたためて自殺した。こうして摺鉢山は陥落。摺鉢山の予想より早い失陥は硫黄島守備隊の防衛計画に大きな破綻を与え、アメリカ軍の北上を容易なものにしてしまった。しかしアメリカ軍も被害甚大であり、第4海兵師団のとある小隊では隊長が5人も入れ替わった。5人目の隊長となった少尉は着任早々戦死したが、小隊もまとめて全滅したため6人目は必要なかった。
硫黄島守備隊以外の日本軍の攻撃
アメリカ軍に攻囲された硫黄島を救うべく、日本本土からも様々な攻撃部隊が送り込まれた。
2月20日朝、村岡弘大尉率いる神風特別攻撃隊第2御楯隊が香取基地を発進。中継地の八丈島に向かったが、天候悪化により進出できたのは一部の機のみで残りは香取に引き返さざるを得なかった。翌21日朝、香取に引き返した機が発進し、午前8時45分から13時にかけて八丈島に着陸。燃料補給を受けた。総戦力は零戦9機、彗星11機、天山8機の計28機であった。護衛戦闘機の不足から一度に出撃させるのではなく、小出しに奇襲攻撃を仕掛ける方針が採られた。正午から第5波に分かれて逐次出撃し、硫黄島近海へ向かっていった。
2月21日16時50分、米空母サラトガでは艦載機が艦爆2機を撃墜したとの報告が入った。空は雲が垂れ込めており、奇襲を受けやすい状況だったため艦橋には緊張が走った。飛行甲板にいた15機の夜間戦闘機が発進準備をし始めたその瞬間、対空砲火が火を噴いた。16時59分、雲間から6機の特攻機が出現。先頭の2機は対空砲により炎に包まれたが、3機がサラトガに突入。幸い機関が無事だったため速力を25ノットに上げ、消火活動を実施。18時46分、更に5機の特攻機が出現し、4機は撃墜されたが、残り1機が投弾に成功。甲板に7.5mの大穴を開けられた。駐機していた36機を焼失し、3機が着艦不能となって海中投棄された。死者及び行方不明者は123名に上り、よろよろとエニウェトクへと後退していった。
だが護衛空母ビスマーク・シーは不運だった。硫黄島東方30kmにいたビスマーク・シーは戦線離脱したサラトガや他の空母の艦載機を一手に収容。飛行甲板はガソリンが残った航空機で溢れ返っていた。18時45分、特別攻撃隊第四波がト連送を放って米艦隊に突撃。1機がビスマーク・シーに突入し、ガソリンに引火して大爆発を引き起こした。発生した炎は22ノットの風に煽られて延焼し、完全に火だるまと化す。艦長ブラット大佐は総員退艦を命じたが、乗員218名が死亡。3時間燃え続けたすえ、ビスマーク・シーは沈没した。爆発の炎が巻き起こるさまは硫黄島の将兵も確認する事が出来、大いに戦意を盛り上げたと思われる。他にも防潜網敷設船ケオカックが突入を受け、死者17名と負傷者44名を出している。護衛空母ルンガ・ポイントと47号上陸用舟艇も特攻機に狙われたが、こちらの被害は無かった。
護衛の零戦隊も戦果確認のため出撃していたが、F6Fとの交戦で帰投できたのは3機だけだった。生還した零戦は250kg爆弾を装備して特攻機になる予定だったが、硫黄島守備隊の要望を受けて東海岸の機銃掃射に変更。翌日出撃するはずが荒天により中止となり、待機となった。ところが父島の飛行場を飛び立つ前に事故や墜落によって全滅した。
アメリカ軍の硫黄島上陸を受け、伊368潜、伊370潜、伊44潜からなる回天特別攻撃隊千早隊が結成。2月20日に伊368潜が、21日に伊370潜が、22日に伊44潜が順次大津島を出撃。硫黄島方面へと向かった。千早隊とは別に先行していた呂43潜も硫黄島海域に向かっている。2月26日黎明、伊370潜は米駆逐艦フィネガンに発見されてヘッジホッグ攻撃を受ける。午前10時頃に大量の気泡が発生し、重油と残骸が浮かんできた。これが伊370潜の最期であった。2月27日未明、米護衛空母アンツィオに伊368潜が捕捉され、執拗な攻撃を受けたすえに硫黄島西方24海里で撃沈された。証言によると既に回天の姿は無かったという。
伊44潜は敵泊地攻撃を目指していたが、2月27日朝に3隻の敵哨戒艇に発見されて47時間の潜航を強いられる。何とか離脱に成功して再度突入を試みたが、今度は対空レーダーがひっきりなしに反応。潜航しようにも硫黄島までまだ80kmあり、遠すぎる。川口艦長は突入を断念し、硫黄島海域から退避した。3月1日、伊44潜は硫黄島沖240kmから沖ノ大東島方面に向かうと第6艦隊司令部に通達。逃げ腰と捉えた三輪中将は回天攻撃の続行を命じたが、結局3月6日に帰投命令を出した。3月11日、伊44潜は帰投。千早隊は伊44潜を残して全滅し、伊44潜の川口艦長も更迭されてしまった。
追い詰められる硫黄島守備隊、被害甚大の海兵隊
2月24日、後詰めの海兵隊第9連隊が艦砲射撃と航空攻撃を経て上陸してきた。戦場は摺鉢山の山麓にある元山飛行場へと移りつつあり、第21連隊は戦車45輌以上を投じて飛行場の西側から侵攻。しかし高所を押さえていた日本軍の速射砲、高射砲、野砲から集中砲火を浴びて一時退却。正午頃に東側から侵攻し、東半分の制圧に成功した。翌25日、予想以上の大損害を受けた海兵隊は予備兵力である第3師団を投入。上陸を開始した。前線の海兵隊は西半分を制圧しようと準備砲撃の後に攻撃を加えてきた。日本側も速射砲で反撃し、シャーマン戦車6輌を射抜いて破壊したが、速射砲1門と機銃座4つが破壊された。さらに速射砲3門を破壊されるも、お返しにシャーマン3輌も破壊。17時過ぎ、第3師団の戦車が元山飛行場に出現。これを守備隊の歩兵第45連隊が迎え撃ち、9輌の戦車を破壊した。守備隊は敢闘したものの、夜までに飛行場の3分の2が制圧された。
2月27日午前8時、第3師団は攻撃を再開。600発の砲弾が元山砲台と海軍砲台に発射された後、海兵隊が突撃。正午頃に元山砲台を占領し、13時には海軍砲台も占領された。アメリカ軍は戦車11輌を失ったが、元山飛行場を占領。この日の戦闘で硫黄島守備隊は全戦力の半分を損耗した。前線の兵力は5分の1にまで減少、火砲と弾薬も約3分の1にまで減ってしまった。一刻も早く硫黄島が欲しいアメリカ軍は、占領した千島飛行場に観測機を着陸させたり、第133建設部隊による飛行場再建を急がせるなど急速に体勢を整えていった。東海岸には郵便局が、西海岸には200床を有する特別病院が開設された。スミス中将は新聞記者に向けて「あと2、3日ほどでこの島を取るつもりだ」と自信満々に語った。対する硫黄島守備隊は水不足が深刻化。決死隊を結成し、夜陰に隠れて水源地に水を汲みにいこうとしたが、警戒中の敵部隊と遭遇して誰一人帰ってこなかった。
2月28日、西竹一中佐率いる戦車第26連隊が洞窟陣地から出撃。逆襲を試みたが、反撃を受けて中戦車2輌と軽戦車8輌と80名を失った。3月1日にも同様に逆襲を仕掛けたが敗北して壊滅、戦車隊は解隊。残った戦車も駆動できなかったのでトーチカに転用され、乗員は歩兵になった。3月2日夜、水野庄八陸軍軍曹率いる10名が夜半斬り込みを実行。手始めに米軍の分哨を襲撃して壊滅させた。翌3日の昼間は息を殺して潜み、夜になってから襲撃を開始。海兵隊第5師団の通信所幕舎を爆砕して多数を死傷させ、更に前進。摺鉢山山麓にあるアメリカ軍の兵舎を急襲し、数個を爆砕してみせた。斬りこみ隊は2名の戦死者を出したものの、残りは本隊に復帰。超人じみた活躍を見せ付けた。栗林中将は彼らに感状を贈った。だが斬りこみ隊の活躍むなしく、3月4日の時点で硫黄島守備隊の各級指揮官は3分の2が戦死、残存兵力は4100名、主要兵器類の殆どが破壊されていた。この日、関東地方を爆撃したB-29が初めて硫黄島に不時着。B-29が着陸した瞬間を狙って迫撃砲と砲弾が飛んできたが、命中しなかった。12名の乗員は硫黄島に救われた事になるが、不運にも1名を除いて6週間後に全員戦死した。
守備隊の最期
3月5日、アメリカ軍は再編成と補給のため攻撃を休止。束の間の休みとなった。翌6日より攻撃を再開し、132門の火砲が火を噴いた。3月7日に東山陣地を制圧。3月9日、生き残った混成第2旅団残存部隊500名は司令部と合流すべく脱出を図ったが、アメリカ軍に捕捉されて殲滅の憂き目に遭った。3月10日に海兵隊は東海岸まで到達し、硫黄島守備隊は北と東に分断される。3月14日、アメリカ軍は硫黄島全土を制圧したと宣言。第5海兵隊司令部では公式国旗掲揚が行われた。一方、硫黄島守備隊の歩兵第145連隊では隊長池田大佐の手で軍旗奉焼が行われた。翌15日に玉名山が陥落し、北部の守備隊は海岸線付近に追い詰められた。守備隊の兵力は約900名に減少。もはやこれまでと判断した栗林中将は大本営に向けて訣別電を打った。絶望的な戦況を見た木更津の第3航空艦隊司令部通信室の暗号員が平文で「硫黄島海軍守備隊頑張れ」と打電し、守備隊から「帝國海軍万歳、勝利を確信す」という最後の通信が届いた。
3月16日、アメリカ軍は北方の日本軍陣地の掃討を開始。18時頃までに本格的な戦闘は終了し、以降は掃討戦となった。3月17日午前0時、栗林中将は司令部洞窟内に全員を集め、コップ1杯の酒と恩賜のタバコ2本ずつを配った。3月21日、東部の守備隊を指揮していた西竹一中佐が自決。そして3月26日午前5時15分、栗林兵団の生き残り400名が最後の総攻撃を行い、西部の米海兵隊及び米陸軍航空隊の宿営地を襲撃。
米兵170名を殺傷したのち、元山・千島両飛行場に突入して玉砕。守備隊の組織的抵抗は終わった。栗林中将もこの突撃に参加していたが、開始してすぐに右大腿部に重傷を負い、司令部付曹長に背負われて前進。だが道中で「兵団長の屍を敵に渡してはならない」との最後の言葉を残して拳銃自殺した。アメリカ海兵隊戦史では「万歳突撃ではなく、最大の混乱と破壊を目的とした優秀な作戦」と評している。
その後
硫黄島守備隊の損害は戦死2万129名、捕虜1023名。アメリカ軍の損害は死傷者2万8686名(うち戦死者1万1375名)。洋上では護衛空母ビスマーク・シーとアベンジャー雷撃機20機、ワイルドキャット戦闘機20機、ヘルキャット31機を喪失した。避難が済んでいたため、民間人の犠牲者はゼロに抑えられた。戦死者の数は日本側の方が上だが、戦死者と負傷者を合わせた数はアメリカ軍の方が上という特異な結果となっている。訣別電に基づき、3月21日正午、大本営は守備隊の玉砕を3月17日と発表(実際に玉砕したのは3月26日)。硫黄島の戦いによりアメリカ国内では早期講和の機運が高まり、グルー国務次官とスチムソン陸軍長官が模索し始めている。やっとの思いで硫黄島を奪取したアメリカ軍は早速飛行場として活用。B-29に護衛戦闘機を付けられるようになり、B-29の被害は劇的に減少した。ただ硫黄島が担っていた早期警戒レーダーの役割は南のロタ島に引き継がれ、日本軍の迎撃体制への影響は少なかった。
戦後、硫黄島はアメリカの管理下に置かれたが、生き残った日本兵が潜伏し続けており、最後に降伏したのは1949年1月6日の事だった。1968年6月26日、小笠原諸島とともに返還されたが、火山活動と産業の成立条件が厳しい事から旧島民の帰島は未だに実現していない。1985年、硫黄島の戦いに参加した日米将兵が一堂に会し、初めて日米合同慰霊祭が行われた。以降、毎年開催されるようになり、南海岸に日米再開記念碑が建立された。平成の世になってからも遺骨収集が精力的に行われている。
この戦いを題材にした映画「硫黄島からの手紙」が2006年に放映され、飛躍的に知名度が高まった。
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