この記事では、自転車ロードレースにおけるドーピング事件について解説とともに列挙する。
まず、これを見て欲しい。
この表が何を意味しているか分かるだろうか。
世界最高の自転車競技、ツール・ド・フランス。
その1996年から15年間の総合トップ10の選手たちにまつわる表なのだが…
| 年 | 優勝 | 2位 | 3位 | 4位 | 5位 | 6位 | 7位 | 8位 | 9位 | 10位 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1996年 | ||||||||||
| 1997年 | ||||||||||
| 1998年 | ||||||||||
| 1999年 | ||||||||||
| 2000年 | ||||||||||
| 2001年 | ||||||||||
| 2002年 | ||||||||||
| 2003年 | ||||||||||
| 2004年 | ※ | |||||||||
| 2005年 | ||||||||||
| 2006年 | ※ | |||||||||
| 2007年 | ||||||||||
| 2008年 | ||||||||||
| 2009年 | ※ | |||||||||
| 2010年 |
記事タイトルから察せてしまう方も多いだろうが、
実は色のついているのは、ドーピングしたことのある選手の順位である。
- 黒で塗られているのは、ドーピングが認められ成績を剥奪された選手。
- 赤で塗られているのは、選手キャリアの中でドーピングによる制裁を受けたことがある選手。
- 黄色は、制裁を受けたことはなかったが後にドーピングをしていたことを認めている選手。
- ※印は同一人物で、ドーピング疑惑の捜査の途中で、慈善団体への多額の寄付と引き換えに捜査を打ち切って貰った選手である。
……多くねぇ?
つまり、1996年-2010年の15年間で、ツール・ド・フランスの総合優勝者(繰り上げを含まない)のうちドーピングがシロなのは2008年の覇者[1]たった一人である。
2005年に至っては、総合トップ10のうち、3人が成績剝奪、5人が制裁を受けたことがあり、シロなのは2人[2][3]だけ。
もちろん、赤や黄色は「現役中一度でも」ドーピングをしたことがある選手であるから、ツール・ド・フランスのこの成績をお薬で得たとは限らないのだが、そういう問題ではないことは明らかだろう。
たった15年前まで、ロードレースはドーピング天国だった
自転車競技におけるドーピング問題は非常に根深い。どれくらい根深いかというと、「どれくらい根深いか」の説明のために挙げる例を何にしようか多すぎて困るほどである。箇条書きでいくつか挙げるなら、
- 史上初めてドーピングが原因で競技中に死亡した選手は自転車選手[4]。
- オリンピックの競技中にドーピングが原因で死亡した現状唯一の選手も自転車選手[5]。
- 癌でチームに見放されるも復活し、ロードレース競技で最高のレースであるツール・ド・フランスで史上最多7連覇を飾り「癌で苦しむ人たちの希望の星」と称えられた選手がいたが、その功績はすべてドーピングによるものだった。
- 1990年代から2000年代の選手は、クリーンだったらそれだけで評価される。ドーピング選手だらけの中でクリーンでも淘汰されなかったから。
といった具合。かつての自転車ロードレース界がいかにドーピングまみれだったかが理解できるのではないだろうか。
2020年代の今となってはさすがにドーピングは息を潜めつつあるが、このトラウマは根深く、ちょっと強い選手ならドーピング疑惑はいわゆる有名税のようなもので、受けて当然という扱いである。
歴史
前史
ドーピング自体が禁止されていなかった時代は、あまりドーピングの身体への有害さが意識されなかった時代でもある。禁止どころか、厳しいレースを生き抜くために必要だとさえ考えられていたのである。これにはそもそも依存性や副作用のない痛み止めや疲労回復手段そのものが乏しかったという技術の発達の問題が背景にあるため、現代とはあまりにも状況が違うことは念頭に置いておかなければならない。
また、違法でないということは手段としてアリということでもあり、ドーピングを後ろめたいものだと考えること自体が非常に珍しい発想だった。例えば、第二次世界大戦直後の最強ライダーで、グランツールを7勝して「チャンピオンの中のチャンピオン」と呼ばれたファウスト・コッピは、インタビューで「自転車選手がアンフェタミンを使っていないと思ってる奴らとは、サイクリングについて話す価値が無い」と言い切っている。
しかし、そういった薬の乱用がもたらす悪影響はしばしば表沙汰になった。
- 1955年のツール・ド・フランスでは、フランス人ライダーのジャン・マレジャックが山の上り坂で倒れたが、彼はこの時、死体のようなやつれた白い顔に凍えるような汗をかき、意識を失い地面に倒れているにもかかわらず足は空中でペダルをこぐ動作をし続け、救急車の中で意識を取り戻すと半狂乱になりながら自転車をよこせと叫ぶなど、だれがどう見てもラリッている状態だった。
- 上記のようにオリンピック中に選手が死亡した1960年には、ツール・ド・フランスでも薬物にまつわる事件があった。フランス人ライダーのロジェ・リヴィエールは、下り坂を高速で滑走していたところカーブを曲がり切れず崖に落下し、一生を車椅子で過ごさねばならないほどのケガを負い引退した。彼は当初ブレーキが利かなかったとしてチームのメカニックを非難したが、すぐに鎮痛剤パルフィウムの過剰摂取により手がマヒしてブレーキをかけられなかったことが明らかになった。
違法化
そんな中、ツール・ド・フランスのドクターであったピエール・デュマの尽力によりドーピングの危険性が認知され始め、1965年にフランスで初めての反ドーピング法が可決され、パフォーマンス向上薬の使用が禁止となる。これを受けツール・ド・フランスでも翌1966年からドーピング検査が始まったのだが……。
- まず大会運営自体は検査に関与せず、検査の主体はフランス政府だった。
- そのため、陽性となっても罰金こそあれレースには一切のペナルティがなかった。
- 選手自身の故意を証明できなければ無罪だった(=マネージャーが黙って入れたという言い訳が出来た)
などの問題があったこと、何よりパフォーマンス向上薬の禁止は個人の自由の侵害であるとほとんどの選手が考えていたことにより、「ドーピング検査=政府による弾圧」という構図が出来上がってしまい、多くの選手が検査を拒否した。その中核にいたのが当時最強のライダーで、1961年から1964年までツール・ド・フランス4連覇を飾ったジャック・アンクティルだった。彼は、「自転車選手が水だけで走れると思うのは愚か者だけだ」と公然と薬物使用を認め、反ドーピング法にも強く反対していた。一方、彼の強力なライバルとして知られたレイモン・プリドールは逆に検査を歓迎しており、ツール・ド・フランスでのドーピング検査を最初に受けた人物でもある。プリドールらが検査を受けた翌日、検査に反対する選手達は抗議の一環としてレースをゆっくりしか走らない事実上のストライキを実行した。プリドールはストライキに参加せず後方でストライキを見守るだけだったが、これによって彼は仲間からの信頼を損なったという。[6]
しかし、そういった選手間の雰囲気をよそに、世間のドーピングに対する忌避感は強まっていくことで、選手たちも襟を正さざるを得なくなっていく。そのきっかけになったのが、トム・シンプソン事件だった。
1965年の世界選手権の覇者で、現在で言うモニュメントも3勝するなどして当時のイギリスのリーダーであったトム・シンプソンが、1967年のツール・ド・フランス第13ステージ、難所モン・ヴァントゥーの登りでジグザグにフラつき出したかと思うと転倒、帰らぬ人になってしまったのである。死因については様々な憶測が上がり、契約に関する問題で精神的に追い込まれていたことや、猛暑による熱射病などとされたが、後に体内からアンフェタミンとアルコールが検出され、ドーピングも含めたあらゆる要素が組み合わさって致命的な原因になってしまったのだった。イギリスの英雄の死は非常に大きなショックを与え、倒れた地点の近くに建てられた記念碑には今も巡礼者が絶えないほか、ドーピングによる悪影響を多くの人がはっきりと認識するようになっていった。
その後、ドーピングへの規制は強まる……が、それで選手たちがドーピングをやめるかというとそんなことはなかった。検査に引っ掛からない新薬を探し、尿検査は他人の尿でごまかす。厳しくなる検査を何とかして乗り切ろう、という、いたちごっこの時代が始まっていくのである。
この時代、ドーピングでよくあるのは、主に二種類。一つはよくイメージされる薬物のドーピングである。1970-80年代になると、コカインやモルヒネ、アンフェタミンといったドーピングじゃなくてもアウトなシロモノは流石に鳴りを潜め、代わりにステロイドの使用が流行。本来は体内で自然にされるホルモンを外部から摂取することで通常以上の筋合成を促すもので、陸上のベン・ジョンソンが使っていたドーピングでもある。
もう一つは、血液ドーピングである。これは薬物ではなく、あらかじめ抜いていた血を競技前に自分自身の体内に戻すことによって、赤血球の絶対量と濃度を増やし、酸素運搬能力の向上を狙うものであった。1985年になってIOCが禁止としたが、まだ技術が進んでおらず、検査方法が確立されていなかったため、爆発的に流行したとされる。
EPOの時代
1990年代に入り、規制と規制逃れのいたちごっこに、悪い意味で革命をもたらしたのがEPO、エリスロポエチンという物質だった。腎臓から分泌される糖タンパクであるEPOは、造血幹細胞が赤血球になるまでのプロセスに関わるいわゆる造血因子で、平たく言えば、EPOは赤血球を増加させる機能を持つということになる。
つまり、先述の血液ドーピング同様、合成EPOを外部から摂取することで、赤血球を増やす=筋肉への酸素運搬能力が向上するため持久力が高まる効果がある。厄介なのがEPOは体内で自然に生成され、その量は人によって異なること。つまりEPOや赤血球が異常に多いことが判明しても、「そういう体質」と言い張ってしまえる。[7]そして自然生成されたEPOと外部から摂取した合成EPOとの区別が非常に困難だったことである。このため多くの選手がEPOに手を出したが、赤血球濃度が増えるということは血漿の割合が減り、血液が粘度を増すということであるため、高血圧や血管が詰まるリスクがあった。一説によれば、1987年から1991年の間に18人ものヨーロッパのプロ自転車レーサーが死亡しており、それにEPOの副作用があったのではないかと言われている。
最も厄介なのが、先述の事情のために、EPOには有効な規制手段を打てなかった事である。つまり検査側としては手の出しようがなく、「ドーピングしてでも勝ちたいのか?」という倫理の問題に訴えることしかできなかった。しかもその倫理的な訴えも、「規制されていない以上、勝利の為なら使えるものは全て使って当然」という考えのもと多くの選手に使われていた当時の状況下では効果が無かった。
「自分もドーピングしなければ、ドーピングしている他選手たちに淘汰されるほかない」
もうそういう段階にまで至ってしまっていたのである。
この頃で悪名高いのが、ミケーレ・フェラーリというスポーツドクターだった。大学でスポーツ医学で博士号を取った彼は、トレーニングとパフォーマンスの関係を研究し、プロサイクリストのためのトレーニングプログラムの開発に心血を注いでいた。非常に多くのチームや選手にアドバイスを与えたことで知られていたが、EPOの検査陽性を回避するための専門知識が極めて豊富であり、彼の指導のもと多くの選手がバレないようなEPO使用を行っていた。
フェスティナ事件
1998年7月8日。ツール開幕を3日に控えたこの日、参加チームの一つであるフェスティナ・ロータスのトレーナーが運転するチーム車両が検問によって止められたところ、車のトランクからはEPO200回分、ヒト成長ホルモン80瓶、テストステロン160カプセルといった大量の薬物と注射器が発見された。レース自体で規制されていなくてもこれはフランスの法律に引っ掛かった。何より外部から摂取したものかわからないから規制が難しいだけであってこのようにモロバレの薬品と注射器の発見は流石にアウトだった。
フェスティナの監督は当初は選手たちが使用していたことを否定し、そのままツールは開幕。しかし警察がフェスティナのオフィスを家宅捜査した結果、薬物の使い方に関する詳細な手順などが書き込まれた書類(選手向け)が押収。監督も言い逃れできず、チームぐるみでのドーピング使用が露呈。ツール運営は事態を重く見てフェスティナの全選手を第6ステージをもって除外。これにより前年の世界選手権覇者ローラン・ブロシャールや前年まで山岳賞4連覇を達成していたリシャール・ヴィランクら9人がレースから除外された。
しかし事態はこれで終わらなかった。フェスティナの選手たちが除外された同日、今度は別のチーム、TVMチームのチーム車両から大量のEPOが押収されたと報道があり、これをきっかけにTVMの選手は深夜まで警察の捜査を受けながらレースを続けざるをえなくなったのである。
これによって他チームの選手もマスコミの取材攻勢に遭う。選手達は自分たちを犯罪者扱いするようなマスコミや警察に憤りを隠さず、世界ランキング一位に君臨するローラン・ジャラベールが中心となりストライキが勃発。TVMの選手が徹夜の取り調べを受けた翌日第17ステージでは、TVM選手を先頭に超スローペースで追走する抗議走行を行いレース中止になってしまう。それだけにとどまらず、ジャラベールと所属するチームオンセ、そしてこれに同調した4チームが抗議の意味を込めて大会から去った。
これだけではまだ終わらず、第18ステージ直前には山岳賞ジャージを着ていたロドルフォ・マッシが、ホテルの部屋からステロイドが見つかったために現行犯逮捕、レースから除外される。またTVMチームも結局この第18ステージをもってチーム全員が棄権した。最後の第21ステージが終わり、マルコ・パンターニがイタリア人として33年ぶりの総合優勝を飾ったころには、最初189人いた選手は96人にまで減っていた。
なお、ローラン・ジャラベールもマルコ・パンターニも、このときEPOを使用していたことが後に判明している。
ランス・アームストロング
そんな大事件のあった翌1999年のツールでは、ドーピングは鳴りを潜め、しかも自転車界にスターが舞い戻ってきた。USポスタルチームのエース、ランス・アームストロングである。1993年にわずか21歳で世界選手権を制覇して一躍注目を浴びながらも、1996年にステージ3の精巣癌、しかも肺や脳にまで転移している重度の物に侵されていることが判明。チームから見放され契約解除の憂き目にあうも奇跡的に回復し、癌より前にさえできなかったツール・ド・フランス総合優勝にまで上り詰めた、努力の人だった。この時、6分以上という大差を2位につけての優勝だったため、ドーピングを疑う声もあった。しかし、薬物検査の結果、彼が湿疹の治療に用いていたコルチコイドが引っかかってしまった[8]以外は一切の陽性判定が出なかったため、昨年の苦い記憶を吹き飛ばす新しくさわやかな風として、自転車界に新たな時代をもたらしたのだった。
彼はその後、これまで5人が達成していたツール・ド・フランス5勝に5連覇で並ぶと、最終的にその連覇を7(2005年)にまで伸ばし、ツール・ド・フランス総合7勝という、前人未到の輝かしい記録を打ち立て、これを花道に現役を退いた。
この7連覇はやはりほとんどが2位に大差をつけての圧勝であり、1勝目のときのように、常にドーピング疑惑の厳しい目を受け続けていた。
例えば、元自転車選手のスポーツジャーナリストだったポール・キメージは彼を「サイクリング界の癌」と呼んで憚らなかったし、癌以前からミケーレ・フェラーリとの接触があり、その時以降ドーピングを続けているのではないか、という声も多かった。実際フェラーリ博士との接触はかなりあったのだが、彼はドーピングを否定した。
2004年のツールの直前にはイギリスのサンデー・タイムス紙の記者がアームストロングのマッサージ師を務めていた女性にインタビューして作ったドーピングの告発本を出版。この女性には記者から5000ポンドの大金が送られており、我らがアームストロングは直ちに名誉毀損の訴訟を展開。UCIが彼を無実と結論付ける報告書を出したことで無事和解、サンデー・タイムス紙は謝罪文を掲載した。
多くのドーピングを疑う声はあったが、現に彼は「世界一検査を受けた」と自称するほど多くの薬物検査を受けたにもかかわらず、彼は違法薬物に陽性反応を示したことは無く、本人も
If you consider my situation: a guy who comes back from arguably, you know, a death sentence, why would I then enter into a sport and dope myself up and risk my life again? That's crazy. I would never do that. No. No way.
(私の状況を考えてみて欲しい。ほとんど死刑宣告を受けたようなところから生還した男、つまり私がまたスポーツの世界に戻って、どうしてドーピングで命を危険にさらそうとするだろうか? 馬鹿げてる。そんなことするはずがない。絶対に。)
──ランス・アームストロング、2005年のインタビューにて
というように、強くドーピングを否定していた。実際、彼は非常に高い評価を受け続け、スポーツ・イラストレイテッド誌のスポーツマン・オブザイヤーや、AP通信年間最優秀男性アスリート、ESPNのESPY賞最優秀男性アスリート、BBC年間最優秀スポーツ選手賞海外選手部門などを受賞。また、ランス・アームストロング財団を設立して世界のがん患者への支援を行った。ドーピングを疑う者たちが結局直接的な証拠を一つたりとも出せなかったこともあり、疑念の正体は、突然アメリカ人によってツール・ド・フランスの最多勝を持っていかれたヨーロッパ人の嫉妬と見る声もあった。
2006年のツール
さて、アームストロングがクリーンに業界を引っ張っているにもかかわらず、ロードレース界には未だEPOを筆頭にドーピングがはびこっていた。フェスティナ事件のあった1998年のツールで、別のチームが2004年になって新たに当時ドーピングをチームぐるみでしていたと判明したり、フェラーリ博士が有罪判決を受けたことで彼の指導を受けた者に捜査の手が伸び、何人かの選手はドーピングをしていたことが明るみになったり。
そんな中、アームストロング不在の2006年ツール開幕の1ヵ月前、スペインの警察が動いた。「オペラシオン・プエルト」、峠作戦と名付けられたそれは、リバティ・セグロス・ヴュルトチームでドクターを務めたエウフェミアーノ・フエンテスがライダーに対してドーピングを行っていることを明るみにするため家宅捜索の結果1000回分のステロイドや、数百個もの血液パックを筆頭に山ほどの証拠が出たため逮捕されたことに始まる、スペインの警察による大規模なドーピング摘発作戦だった。これを受け、ツール開幕前夜までに13人が出場できないという措置を下された。ヴュルトの9名全員[9]と、フエンテスとかかわりがあったとみられた4人である。この除外された13人には、昨年ツールの総合2位から5位までの4人が含まれており、引退した総合1位(アームストロング)を含め、大本命不在で始まったが、最終的にアームストロングの元チームメイトで次点の優勝候補とされていたフロイド・ランディスが優勝した……
……はずだったのだが、このランディス、終盤第17ステージの直後のドーピング検査で陽性が出ており、優勝が剥奪。2位に入ったオスカル・ペレイロが繰り上げ優勝となった。このような事態は1904年[10]以来約100年ぶりであり、薬物で優勝を取り消されたのはツール・ド・フランス史上初めてのことだった。また、この時除外された、個人的にフエンテスとかかわりがあった4人の一人であるヤン・ウルリッヒは、1997年のツール優勝者であり、アームストロングの7連覇中も3度2位に入る実力者だったのだが、この除外でチームを解雇され、拾ってくれる者もおらず引退を余儀なくされた。2000年シドニー五輪自転車ロードレース金メダリストでもある彼はドイツ人として初めてツール・ド・フランスを制し、ドイツでの自転車ブームの火付け役になった選手だが、このドーピングからの引退劇によって自らの手で自転車ブームを終わらせたとも言われている。
峠をこえて
「オペラシオン・プエルト」の捜査と法的手続きはグダグダとして進まず、法的な処罰に関しては多くの選手が処罰を免れるか、処分が軽微に留まった。[11]
また、現在もそうだが原則としてWADAの『世界アンチ・ドーピング規程』は、アンチ・ドーピング規則違反の「時効」を10年間と定めており、つまり10年以上前のドーピングに関しては告白しても制裁対象にならないため、この頃には1990年代のドーピング使用を告白する引退選手も現れた。[12]
しかしそれでも、サイクリング史上最大規模のドーピング摘発事件の一つとなった「オペラシオン・プエルト」の影響は大きく、WADAを中心により厳格なドーピング管理体制が整備されるきっかけとなり、スポーツ界全体のドーピング対策の強化を促す契機となった。
なお、UCI(国際自転車競技連合)はというと、「オペラシオン・プエルト」の対応にかなり消極的であり、それどころか血液検査・DNA照合の明らかな引き延ばしを行った[13]。大規模スキャンダルが起きたにもかかわらず、責任の所在が不明瞭で、誰も本格的に処分されない状態に多くのファンが幻滅。「ドーピングを見逃している」「自浄能力が低い」といった印象を与え、UCIの信用を失墜させるきっかけとなった。
アームストロングの崩壊
そんな中、他の選手のドーピングを批判したり、クリーンなスポーツの重要性を訴える発言もしていたことから、「反ドーピングの顔」として自身を売り出していたアームストロングに、遂に本格的な捜査の手が迫っていた。そのきっかけは、元チームメイトのランディスが2010年にようやくドーピングを認めた際に、「アームストロングも含め、USポスタルのチームぐるみで行っていた」と内部告発したことだった。これを機に、元チームメイトや関係者が立て続けに閉ざされた口を開き始めた。
特に長年アームストロングの強力なアシストとして仕えていたタイラー・ハミルトン[14]ら関係者が2011年にテレビ番組の取材に語った内容が決定的な影響を与えた。その内容は、
- アームストロングがEPO、テストステロン、輸血を使用していたのを自分の目で見た
- アームストロングはチームにドーピングを奨励していた
- 自分(ハミルトン)を含めたチームぐるみでのドーピング方法の詳細
- アームストロングが総合優勝した2001年のツール・ド・スイスで彼がEPO陽性となったが、これをUCIが隠蔽した
というように、アームストロング含むチーム全体の組織的ドーピング、そして当時のUCIがその証拠を握りつぶしていた可能性など、一連のスキャンダルの核心に迫るものであった。放送後、アームストロング側は強く反発。CBSに対し謝罪と取り消しを要求したが、この放送がきっかけとなり、USADA(米国反ドーピング機関)による本格的な調査が加速していくことになる。
そして、2012年6月に、USADAは調査報告書を公開した。
The evidence shows beyond any doubt that the US Postal Service Pro Cycling Team ran the most sophisticated, professionalized and successful doping program that sport has ever seen.
(証拠は、USポスタルサービス・プロサイクリングチームが、スポーツがこれまで経験した中で最も巧妙で、最も組織的に管理され、最も成功したドーピング計画を運営していたことを、疑う余地なく示している。)
これによれば、USADAはアームストロングが1998年から2011年にかけてUSポスタルにおける組織的なドーピングを主導していたと断定。10月に完全公開された報告書は、11人の元チームメイトの証言をはじめとして本編200ページ、証拠集1000ページに及ぶ超膨大な物で、科学的分析・物的記録・証言が網羅された決定版であり、一連の行為を「スポーツ史上最も巧妙で、組織的で、成功したドーピング計画」と結論づけたものだった。これは、「反ドーピングの顔」「癌で苦しむ人たちの希望の星」であったアームストロングの名声を地の底に叩き落すのに十分すぎるほど詳細な報告書であった。
アームストロングは直ちに抗議したが早くも8月の時点で異議申し立てを取り下げ、それを受けたUSADAは彼に対し、競技からの永久追放と1998年8月以降の全成績の抹消を決定。ここまでまったく動かなかったUCIだが、過去にアームストロングから10万ドルの献金を受け取っていたことをUSADAにバラされた結果、ようやく重い腰を上げてUSADAの裁定を追認。ツール7連覇を含む、癌からの生還以降の全成績剥奪、永久出場停止処分を下した。
2013年1月17日に放映されたインタビュー番組で、とうとうアームストロングは、EPOを含む各種のパフォーマンス向上薬や血液ドーピング、薬物検査合格書類の偽造などを認め、ツールでの7回の優勝それぞれでドーピングが役立っていたと語った。
その後
アームストロング事件は、アームストロング個人の名声に留まらず、UCI、ひいては自転車ロードレースそのものの信用を粉々に破壊した。なんたって、発覚から10年以上経った2025年現在でさえ、
- もうドーピングの時代は終わって、反ドーピングが選手たちに共有されたんじゃ?
- 本人がドーピングを否定してるのに騒ぎ立てるのはどうなの?
- 検査で陰性なんだからシロでいいんじゃないの?
- 人を簡単にドーピング扱いしたら訴えられない?
という状態なのだ。ランス・アームストロングが自転車界にどれだけの影響を与えたかわかるだろう。
もともとドーピング問題に悩まされてきた歴史のあった自転車ロードレース界で、反ドーピングの旗振り役だった英雄さえドーピング常習者だったという衝撃と失望はあまりに大きく、ファンや一般市民の間で競技そのものへの不信感が高まり、アームストロングとは関係ない自転車チームであってもスポンサーの撤退の傾向がみられた。
UCIには隠蔽やもみ消しの疑惑や透明性の欠如への批判が付きまとい、会長を交代して第三者委員会による検証が行われた。ツール・ド・フランスも、その最多勝記録の剥奪によって「ロードレースで最も権威あるレース」から「ドーピングの祭典」へと印象は地に落ちた。
自転車ロードレース界はドーピング対策の強化と信頼回復が急務、至上命題となり、ドーピングへの決別、クリーン志向はようやく選手間で大々的に共有されるようになった。これと前後して、ドーピングに関して一切寛容の姿勢を取らないと公言しているチームスカイが大躍進を遂げたのも、印象の回復に寄与した。
2020年代となった今では、ほとんどドーピングスキャンダルが見られなくなっている。強いてあげれば、グランツールで総合2勝を含む6度の表彰台経験を持つコロンビアのナイロ・キンタナが、2022年のツール総合6位入賞の直後にWADAは禁止していないがUCIが副作用の観点から禁止している鎮痛剤トラマドールの陽性が出てこの成績を剥奪されているくらいか。この件では、キンタナの最盛期はもう過ぎていたこと、これを受けて過去にさかのぼった再検査で今回のみの検出だったこと、何よりトラマドールをWADAは禁止していない=ドーピングを犯したわけではないことから、2022年のツール成績剥奪以外の制裁は受けていない。
とはいえ、ドーピング天国の時代があった自転車ロードレースが抱えるトラウマは深く、先述の通り、ちょっと強い選手はドーピング疑惑を受けて当たり前の状態である。他のスポーツであれば、「○○はドーピングに違いない!」と根拠もないのに騒ぎ立てれば嫉妬か難癖か、なんにせよちょっとヤバい奴扱いされがちだが、自転車ロードレースでは別である。
最後に、2020年代最強の自転車選手であり、成績とパフォーマンスがすごいだけでドーピング疑惑を受け続けている[15]、タデイ・ポガチャル[16]の発言を紹介する。
Because of cycling before my time, in any sport, if someone is winning, there’s always jealousy and haters ... I tell you now, it's not worth it. Taking anything to risk your health is stupid.
(僕の時代より前の自転車競技のせいで、どんなスポーツでも、誰かが勝てば、そこには常に嫉妬と憎悪がある。今はっきり言うけど、そんなことをする価値はないよ。自分の健康を危険にさらすようなことは、愚かだ。)
──タデイ・ポガチャル、2024年ツール・ド・フランス総合優勝後のインタビューで
これを、自転車競技そのものによるドーピングへの決別宣言と見てもよいし、先に引用したまだバレてなかった頃のアームストロングの主張そっくりととらえるのも自由である。筆者としては、自転車ロードレースがドーピング時代という悪夢を払拭して、新たな時代へ歩みを進めていることを、切に願うばかりである。
関連リンク
- 関係ないでは済まされない! 改めて知っておくべきアンチ・ドーピングの基礎知識|サイクルスポーツがお届けするスポーツ自転車総合情報サイト|cyclesports.jp
- 英語版Wikipediaの記事群
- ReasonedDecision.pdf
USADAによるアームストロング事件の調査報告書
関連項目
脚注
- *カルロス・サストレ。グランツールトップ10入りを15回も果たしたが、選手人生でただの一度も薬物陽性反応が出たことはなかった。
- *8位のカデル・エヴァンス。オーストラリア史上最高の自転車選手で、引退記念に彼の名を冠したレースが用意されたほど。このレースは今も存続している。
- *10位のオスカル・ペレイロ。翌2006年のツールで2位に入り、後に1位のドーピングが判明し繰り上げ総合優勝となった。なお自身も陽性になったのだが、喘息の治療薬が引っかかってしまったことが証明されたため無罪となった。
- *ただし異論がある。1886年にウェールズの選手がボルドー~パリのレース中に死亡したのが最古であるとIOCの記事にあるが、ボルドー~パリの初開催は1891年である。1896年にこの大会で2位に入ったウェールズのアーサー・リントンが大会の2か月後に死亡しており、それがドーピングの影響と指摘されており、それと混同されている可能性がある。
- *ヌット・イェンセン。1960年ローマ五輪でレース中転倒して死亡し、トレーナーの供述から興奮剤を使用していたことが明らかになった。
- *しかし、実績に反してアンクティルよりもプリドールのほうが国民の人気は高かった。これはアンクティルが苛烈な性格と、後述するシンプソン事件後もドーピングを擁護したことで嫌われ者だった側面が強い。当然フランス政府からの覚えもプリドールの方がめでたく、プリドールがレジオンドヌール勲章をもらっているにもかかわらず、史上最初のツール5勝の実績のあるアンクティルは受賞していない。
- *ただし、「体質」で誤魔化せるのにも限度があるため、どう考えてもおかしいほどにEPOが濃ければアウトであった。
- *ちなみに使っているという申請があってしかるべきだったが、うっかりしていなかった。うっかりなら仕方ないね!
- *オペラシオン・プエルトで捜査対象になったのはうち5名で、残る4人は関係なかったのだが、チームに必要な人数の下限を下回ったため出場できなくなった。
- *まだ第2回の創設期。総合1位のモーリス・ガランを含め上位4人が途中で電車ショートカットを使っていたことがバレたため、5位だったアンリ・コルネが繰り上げ優勝となった。
- *またフエンテスが「自転車以外の選手にもやった」と主張し国民の関心を引いたが、スペイン当局は自転車しか眼中になかったのかそちらが明らかになることはなかった。国技サッカーへの波及を恐れたからとされ、多くの批判を浴びた。
- *制裁逃れのために時効を待って告白するのは明らかにズルいのだが、むしろそれこそがWADAの狙いであり、「もう制裁対象ではないから正直に話せる」という環境を作っているフシがある。
- *例えば、「オペラシオン・プエルト」でやり玉に挙がった選手の中でもトップクラスだったアレハンドロ・バルベルデの検査と制裁が行われたのは2010年になってのことだった。
- *この証言と同時に、自身の2004年アテネ五輪金メダルをUSADA(米国反ドーピング機関)へ返還している
- *時期にもよるが、「Pogacar」の検索サジェストにはDopeとかDrugsとかがよく出る
- *フェスティナ事件より後の1998年9月に生まれている
親記事
子記事
- なし
兄弟記事
- 156
- 0pt

