小笠原満男(おがさわら みつお、1979年4月5日 - )とは、日本の元サッカー選手である。
元サッカー日本代表。
現役時代のポジションはMF。173cm72kg。利き足は右足。
岩手県盛岡市出身。小野伸二や稲本潤一、遠藤保仁らと同じ日本サッカーの「黄金世代」の一人であり、1999年のFIFAワールドユース選手権の準優勝メンバー。高いテクニックを駆使したゲームメーカーであり、現役時代は パス、シュートにおける多彩なキックを使い分けて攻撃陣をリードしていた。
現役生活の20年間をずっと鹿島アントラーズに所属していたレジェンドであり、クラブのバンディエラ。イタリアのクラブにレンタル移籍していた1年間以外はずっと鹿島でプレーしていた。同期入団の中田浩二、本山雅志、曽ヶ端準と鹿島の中心として君臨。2000年の三冠獲得を含め、多くのタイトル獲得に貢献。「常勝・鹿島のシンボル」とも言われている。
日本代表には2002年にデビュー。中田英寿や中村俊輔の影に隠れてクラブほど華やかなキャリアを過ごせなかったものの、FIFAワールドカップに二度出場。ジーコJAPANの時代には2006 FIFAワールドカップアジア最終予選では空中分解の危機にあったチームを救うゴールを決めている。
2011年の東日本大震災で地元・岩手県が大きな被害に遭った際は、積極的に被災地を訪れ支援活動を行ない、東北地方におけるサッカー復興のために、東北人魂を持つJ選手の会を立ち上げる。
岩手県盛岡市に生まれ、地元の社会人サッカーチームでプレーしていた父親の影響もあってか物心ついたときからサッカーボールを蹴っていた。小学3年生のときに地元の太田東サッカー少年団に入団し、本格的にサッカーを始める。6年生になるとキャプテンを任され、第15回全日本少年サッカー大会に出場している。当時のポジションはFWで、持ち味のスピードを活かしてドリブルでガンガン仕掛けていくタイプの選手だった。
中学生になると、盛岡市立大宮中学校に進学しサッカー部に入部。この頃に自分でゴールを決めるよりもパスを出してアシストするほうに喜びを感じるようになり、パサータイプのMFに転向。すでに「東北の星」としてその才能は注目を集めていた。中学3年の時、U-16日本代表に選ばれ小野伸二や稲本潤一、高原直泰らとの出会いを果たす。
高校生になると、岩手県立大船渡高等学校のサッカー部に所属。斎藤重信監督の家で下宿生活を送りながらサッカーの練習に励んでいた。岩手県の名門である盛岡商業ではなく大船渡高校を選んだのは、盛岡商業を名門校へと成長させた斎藤監督が大船渡高校に転勤していたというのが理由だった。親よりも厳しかったという斎藤監督のもとで実力を伸ばした小笠原だったが、同年代の天才・小野伸二の存在は大きかったようで、彼を見て上には上がいることを痛感させられたと述べている。
全国高校サッカー選手権大会には2年生時と3年生時の二度出場。“東北のファンタジスタ”と言われ、超高校級のMFとして注目をされた。1997年の第76回大会ではベスト16進出の原動力となり大会優秀選手に選出される。大会後は高校選抜の一員として第58回ベリンツォーナ国際ユース大会等に出場。
1998年、高校卒業後にJリーグの鹿島アントラーズに入団。同期には本山雅志、中田浩二、曽ヶ端準、山口武士、中村祥朗といった世代別のアンダー代表に名を連ねる有望株が揃っていた。その中でも注目度の高かった小笠原は4月15日のガンバ大阪戦でJリーグデビューを果たす。しかし、ビスマルクらJリーグ屈指のタレントを揃えた鹿島ではなかなか試合に出場できず、プロ1年目はリーグ戦5試合のみの出場に終わる。
プロ2年目となった1999年は徐々に出場機会が増えるようになり、5月5日のジュビロ磐田戦ではヘディングシュートによってJリーグ初ゴールを記録。この年チームが不振に陥っていたこともあって若手にもチャンスが与えられるようになり、15試合に出場して4得点という成績になった。
2000年になると、監督に就任したトニーニョ・セレーゾが積極的に世代交代を推し進めていたこともあって本山、中田と共にレギュラーに定着。定位置は右の攻撃的MFとなったが、物おじしないプレーで攻撃陣をリード。J1第1ステージ最終節ではハーフライン付近から放ったシュートが、クロスバーに当たるという場面があった。横浜F・マリノスとのチャンピオンシップ第2戦の試合中にビスマルクとフリーキックのキッカーを巡って揉め、名良橋晃の説得によりビスマルクがキッカーを譲る一幕があったものの、チャンピオンシップのMVPに選ばれる活躍で鹿島の3度目のJリーグ制覇に貢献。さらにこの年の天皇杯決勝でも清水エスパルスを相手に先制ゴールと延長でのVゴールを決める2ゴールの活躍でタイトルをもたらすと共に決勝のMVPも獲得。21歳ながらJリーグ、ナビスコカップ、天皇杯の三冠獲得の原動力となる。
2001年からは背番号を「8」に変更。5月の柏レイソル戦で左肘を骨折するものの8月に復帰し、チャンピオンシップ第2戦のジュビロ磐田戦においては、延長戦10分にVゴールとなる直接FKを決めてリーグ連覇に貢献し、2年連続でチャンピオンシップMVPを獲得。この年、Jリーグベストイレブンに初選出され、以後2005年まで連続で選出される。
前年を最後にビスマルクが退団したことから、2002年シーズンからはこれまで以上に責任がかかることになる。リーグ戦は絶好調の磐田を止められず3連覇を逃したが、ナビスコカップでは決勝の浦和レッズ戦ではチームを優勝に導く決勝ゴールを決め、大会のMVPを獲得。
2003年はA3チャンピオンズカップ2003を制して初代王者となるが、黄金時代を築いた主力の衰えや退団もあってチームは過渡期を迎えるようになる。シーズン終盤、当時ゲームキャプテンを務めていた秋田豊から、「全部背負ってみろ」とキャプテンマークを託された。これ以降、柳沢敦が主将に就任するまで、小笠原がゲームキャプテンを務めることになった。
2005年、海外移籍へと気持ちが傾いていたこともあり、シーズン途中にイタリア・セリエAのレッチェからのオファーを受け移籍を志願したが、優勝争いをしている最中ということもあり、クラブがオファーを断り破談に終わる。交渉が決裂した直後の第19節サンフレッチェ広島戦はメンバー外となった。第24節ヴィッセル神戸戦では初めてボランチとしてスタメン出場。このシーズンはMFながら11得点と自己最多得点記録を大幅に更新。キャリアを通して唯一二桁得点を記録したシーズンとなった。
2006年7月15日にカシマサッカースタジアムで開催されたJリーグオールスターサッカーに、史上最多得票で選出。内田篤人ら新たな世代が台頭する中、シーズン途中に念願だった海外移籍が決定する。
2006年8月、イタリア・セリエAのFCメッシーナへの10か月間の期限付き移籍が決定。9月20日の対レッジーナ戦において後半8分から途中交代で出場しセリエAデビューを果たす。10月21日のエンポリFC戦ではセリエA初ゴールをマーク。しかし、その後は出場機会に恵まれなくなりシーズンを通してわずか6試合の出場に終わる。チームもこの年に最下位でセリエBに降格したこともあり、レンタル期間は終了し退団。結果的に初の海外挑戦は失敗となったが、イタリアに順応するために守備の技術を磨き、一つ下がり目の位置でプレーするようになったことから、のちの彼のキャリアに大きな影響を及ぼすこととなった。
2007年7月、レンタル期間終了により鹿島アントラーズに復帰。過去に背負った8番を野沢拓也が付けていたため、背番号は40を選択。以降、残りのキャリアはこの40番を付け続けることになる。チームに復帰した小笠原はボランチとしてプレーするようになり、イタリアで培った守備意識の高さを還元。復帰後のチームはわずか2敗しかしておらず、6シーズンぶりとなるリーグ優勝を果たす。
2008年シーズンよりチームのキャプテンに就任。なお、AFCチャンピオンズリーグ2008では、規定により30を超える背番号が認められないため、かつて本田泰人が背負っていた背番号「6」を着けて出場していた。4月2日のアルビレックス新潟戦で、日本及びイタリアリーグ通算10シーズン連続得点を達成。 9月20日の柏レイソル戦で左膝半月板損傷及び前十字靱帯を損傷し、全治10ヶ月という怪我を負う。自身のキャリアでは初めての大怪我であり、一時は引退を考える程だったが、手術後はチームを盛り上げるために異例の早い時期でのピッチ内リハビリを開始し、シーズン終盤の優勝争いでは、ホペイロにベンチ外メンバーのユニフォームを試合会場に持ってきてもらうように頼み、試合開始前の円陣に全員がユニフォームを着て参加するよう呼びかけるなど、ピッチ外から鹿島のリーグ連覇を支えた。
この年の全国高校サッカー選手権大会のイメージキャラクターに選ばれ、CM出演や雑誌へのコメントなどのPRに努めた。
2009年開幕前からリハビリに取り組み、キャンプ初日から主力組で練習を開始。3月7日のJリーグ開幕戦の対浦和レッズ戦において、2-0でリードしている後半41分から途中出場、168日ぶりの復帰を果たす。以降はスタメンに復帰すると、リーグ戦とACLの二足の草鞋を履く過密日程の中でフル稼働。シーズン途中からは長年の盟友である中田浩二とダブルボランチを形成するようになり、チームに安定感をもたらす。結果、鹿島は史上初となるJリーグ3連覇を達成。攻守両面における大活躍、精神的支柱としてのリーダーシップが高く評価され、4年ぶりのJリーグベストイレブンとJリーグ最優秀選手賞を受賞。さらに、全国のサッカー担当記者の投票により決められる2009年度の日本年間最優秀選手賞(フットボーラー・オブ・ザ・イヤー)を初受賞。
2010年シーズンは31歳となったものの公式戦40試合出場と前年以上にフル稼働する。しかしチームは内田とイ・ジョンスが移籍した影響で後半戦に失速、4連覇を逃す。一方、天皇杯では決勝で清水エスパルスを下し、3年ぶり4回目の優勝を飾る。
2011年開幕直後の3月11日、東日本大震災によって地元の岩手が甚大な被害を受け、クラブもクラブハウスが大きく損壊したことでしばらく活動休止となる被害を受ける。この震災で大きなショックを受け、人生観が大きく変わる程の出来事となったが、3月18日から5日間東日本大震災の被害を受けた地元岩手で支援活動を行い、3月29日サッカー復興支援チャリティーマッチ、日本代表対Jリーグ選抜にJリーグ選抜として出場。以降も積極的に被災地を訪れ支援活動を行う。5月31日東北地方におけるサッカー復興のために、東北人魂を持つJ選手の会を立ち上げる。だが、復興の象徴として扱われるようになったこともあってコンディションを崩し、調子を落としたシーズンとなった。
2012年からは高卒2年目の柴崎岳とボランチを組むようになり、より守備的な役割を担うようになる。2012年7月14日対セレッソ大阪戦では、およそ6年ぶりとなるFKからの直接ゴールを決めている。柴崎の他にも大迫勇也、植田直通、昌子源ら有望な若手が台頭してくる中で小笠原の存在感は増していき、文字通りチームの大黒柱となっていた。ベテランとなりながらも毎年公式戦35試合以上に出場していたことから「鉄人」と呼ばれるようになる。
2014年8月23日の清水エスパルス戦では、J1新記録となるリーグ戦16シーズン連続得点を達成。2015年10月31日のナビスコカップ決勝セレッソ大阪戦ではキャプテンとしてフル出場し、CKからカイオの先制ゴールをアシストし、完封勝利による史上最多6回目のタイトル獲得に貢献。36歳にして史上最年長となる大会MVPを獲得する。
2016年は堅守が光り、1stステージを制覇。シーズン途中に石井正忠監督と金崎夢生が衝突するという事件が起こり、難しいチームマネージメントを強いられながらも沈みかけていたうまくチームをまとめあげる。浦和レッズと争うこととなったチャンピオンシップでは、柴崎が負傷を抱える中で2試合にスタメンとして出場。鹿島の7年ぶり8回目のJリーグ制覇に貢献する。FIFAクラブワールドカップにも出場し、決勝ではクリスティアーノ・ロナウドを擁するレアル・マドリードと対戦。準優勝という快挙を達成している。さらには2017年元旦の天皇杯決勝川崎フロンターレ戦にも試合終盤まで出場し、二冠達成に貢献。プロに入って初めて無得点に終わったが、公式戦40試合に出場と「鉄人」ぶりを発揮し、充実したシーズンを過ごす。
2017年4月16日、第7節のベガルタ仙台戦でJ1通算500試合を達成。ただこの年から怪我とコンディション不良によって出場時間が減るようになる。
39歳となった2018年は途中出場から試合をクローズすることが多くなっていた。AFCアジアカップ2018では、チームは決勝でペルセポリスを破り、初のアジア王者を戴冠。決勝の2試合では出場機会は訪れなかったが、セレモニーでは、ゲームキャプテンであった昌子源がトロフィーを受け取るも、小笠原に最初にトロフィーを掲げる役を譲っている。12月22日のFIFAクラブワールドカップ2018の3位決定戦リーベル・プレート戦で後半31分に内田篤人に代わって出場。これが現役での最後の公式戦となった。
12月26日、21年間の現役生活を引退することを表明。鹿島のレジェンドはこうしてキャリアの幕を閉じるのだった。
現役引退後、鹿島のアカデミー・テクニカル・アドバイザーに就任。
2019年10月24日に開催されたJリーグ理事会において同年開催のJリーグアウォーズでJリーグ功労選手賞の授与が決定。
1995年にU-17日本代表に選出されるが、小野伸二らタレントの揃っていた中盤でポジションを獲得することはできず、FIFA U-17世界選手権のメンバーからは外れている。
1998年よりU-19日本代表として小野、稲本、高原ら黄金世代の一人として戦うようになる。10月にタイで開催されたAFCユース選手権1998ではレギュラーにはなれず、3試合のみの出場となったが、2得点を決めるなど存在感は発揮していた。
1999年4月にはナイジェリアで開催されたFIFAワールドユース選手権にU-20代表として出場。稲本の負傷もあって小野と共にゲームメイクを担う攻撃的MFとして決勝までの全7試合にスタメンで出場。グループリーグ第2戦のアメリカ戦ではチームの3点目を決めている。決勝でスペインに敗れたものの、世界大会準優勝という歴史的快挙を成し遂げた「ゴールデンエイジ」の一角として名を残すことになる。
U-22日本代表では立ち上げ時には選出されていたが、フィリップ・トルシエ監督からプレー中におけるコミュニケーションの乏しさを指摘され、1999年9月にスタメン出場した韓国との親善試合を最後に招集外となった。
それでも鹿島の中心選手として成長したことがトルシエ監督から認められ、2002年3月21日のウクライナとの親善試合でフル代表デビューを果たす。しかし、同年代の小野、稲本、中田浩二が代表で地位を確立していたのと比べ、小笠原は中田英寿の控えという立ち位置だった。2002 FIFAワールドカップ 日韓大会のメンバーにも選出されるが、試合に出場したのは第3戦チュニジア戦の6分間のみとなった。
2002年ワールドカップ後、鹿島時代の恩師といえるジーコが監督に就任し代表メンバーの常連となっていたが、やはり「黄金のカルテット」と言われたスター選手たちの控えという立場で、海外組が招集できない国内組だけ招集のときのみ試合に出場するという時期が続いていた。2004年2月7日のマレーシア戦で代表初ゴールを決める。ところが、その直後の2月9日、茨城県鹿嶋市で行われていた代表合宿中に、他7人の選手と共に無断外出してキャバクラで飲食し、問題を起こしていたことが発覚。ジーコ監督からは「裏切り行為と感じた」として代表を外される。
その後代表に復帰し、2004年7月に中国で開催されたAFCアジアカップ2004に出場。しかしジーコ監督からの信頼を完全に回復できてはおらず、第2戦のタイ戦と準決勝のバーレーン戦の2試合に後半から出場したのみとなった。
2005年2月9日、2006 FIFAワールドカップ アジア最終予選の初戦となったホームの北朝鮮戦では開始3分に鮮やかなFKからの直接ゴールを決める。その後、チームに合流した中田英寿がボランチにコンバートされたこともあり、中村俊輔と共に攻撃的MFとしてゲームメイクを任されるようになる。第2戦でイランに敗れ、チームの空中分解が囁かれるようになり、重要な一戦となった6月3日のアウェイのバーレーン戦では中村俊輔のダイレクトパスに反応すると、DFをかわしてのミドルシュートを決め、ワールドカップ出場を大きく引き寄せる重要な勝利をもたらす。
2006年2月18日の国際親善試合フィンランド戦ではハーフウエーライン手前から推定60メートルクラスの超ロングシュートを決める。
2006年6月、2006 FIFAワールドカップ ドイツ大会のメンバーに選出される。自身にとって2度目のワールドカップは初戦は出場機会が無かったが、第2戦のクロアチア戦からスタメンに復帰しフル出場。第3戦のブラジル戦もスタメンで出場したが、ブラジルに翻弄されて後半11分に中田浩二と交代になる。結局、日本は1勝もできないまま敗退となり、爪痕を残せずに終了。
その後のイビチャ・オシム監督の日本代表では全く招集されなくなり、岡田武史監督に代わったた2010年2月2日、キリンチャレンジカップ・対ベネズエラ戦にて1321日ぶりの日本代表復帰を果たす。Jリーグで好調を維持していたことから待望論も多かったが、結局代表に定着はできず。2010 FIFAワールドカップでは予備登録メンバーに選出されるに留まった。
シーズン | 国 | クラブ | リーグ | 試合 | 得点 |
---|---|---|---|---|---|
1998 | ![]() |
鹿島アントラーズ | Jリーグ | 5 | 0 |
1999 | ![]() |
鹿島アントラーズ | J1リーグ | 15 | 4 |
2000 | ![]() |
鹿島アントラーズ | J1リーグ | 28 | 3 |
2001 | ![]() |
鹿島アントラーズ | J1リーグ | 24 | 7 |
2002 | ![]() |
鹿島アントラーズ | J1リーグ | 27 | 4 |
2003 | ![]() |
鹿島アントラーズ | J1リーグ | 27 | 7 |
2004 | ![]() |
鹿島アントラーズ | J1リーグ | 28 | 7 |
2005 | ![]() |
鹿島アントラーズ | J1リーグ | 30 | 11 |
2006 | ![]() |
鹿島アントラーズ | J1リーグ | 20 | 3 |
2006-07 | ![]() |
メッシーナ | セリエA | 6 | 1 |
2007 | ![]() |
鹿島アントラーズ | J1リーグ | 14 | 4 |
2008 | ![]() |
鹿島アントラーズ | J1リーグ | 24 | 5 |
2009 | ![]() |
鹿島アントラーズ | J1リーグ | 32 | 3 |
2010 | ![]() |
鹿島アントラーズ | J1リーグ | 33 | 3 |
2011 | ![]() |
鹿島アントラーズ | J1リーグ | 31 | 1 |
2012 | ![]() |
鹿島アントラーズ | J1リーグ | 31 | 2 |
2013 | ![]() |
鹿島アントラーズ | J1リーグ | 33 | 2 |
2014 | ![]() |
鹿島アントラーズ | J1リーグ | 33 | 2 |
2015 | ![]() |
鹿島アントラーズ | J1リーグ | 29 | 1 |
2016 | ![]() |
鹿島アントラーズ | J1リーグ | 30 | 0 |
2017 | ![]() |
鹿島アントラーズ | J1リーグ | 17 | 0 |
2018 | ![]() |
鹿島アントラーズ | J1リーグ | 14 | 0 |
Jリーグ屈指のゲームメーカーであり、90分のゲームの中の変化、行く、抑える、堪えるという判断力に優れている。 パス、シュートにおける多彩なキックを使い分けて攻撃を司る。
プレースキックの精度も高く、直接FKによるJリーグでの通算得点13点は歴代4位タイであり、2005年には年間直接FKゴール数歴代3位の4本の直接フリーキックを挙げている。
高さはないが、体幹の強さを生かして周囲の激しいプレスを跳ね除けるボールキープ力、そしてボール奪取能力に優れている。
若い頃は攻撃を作りながら自らゴールも狙う攻撃的な選手だったが、メッシーナでプレーし帰国して以降は守備意識が大幅に向上し、攻守両面で貢献するボランチにプレースタイルを変更。
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最終更新:2025/03/25(火) 07:00
最終更新:2025/03/25(火) 07:00
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