松田直樹(まつだ なおき、1977年3月14日-2011年8月4日)とは、日本の元サッカー選手である。
元サッカー日本代表。
現役時代のポジションはDF(CB)。183cm78kg。利き足は右足。
群馬県桐生市相生町出身。圧倒的な身体能力武器とした闘志あふれるディフェンスで相手FWを封じ込める日本を代表するセンターバック。DFながら確かな足元の技術でも注目される存在だった。負けず嫌いな性格が災いしてイエローカードを貰いやすく、歯に衣着せぬ言動から監督と衝突することもあったが、そのファイティングスピリッツはサポーターからカリスマ的な支持を受け、多くの人々から愛される人物だった。
高校時代からアンダーカテゴリーの代表を経験し、中田英寿らと共に各カテゴリーの世界大会を経験。1996年アトランタオリンピックでブラジルを破った「マイアミの奇跡」のメンバーでもある。
前橋育英高校卒業後に横浜マリノスに入団すると、高卒ながらルーキーシーズンからスタメンを獲得。3度に渡るリーグ優勝を経験する等長年チームに貢献した。また日本代表としても、トルシエジャパンのレギュラーとして2002 FIFAワールドカップでのベスト16進出に貢献。「ミスターマリノス」と称され、自他共に認めるマリノスのバンディエラであったが、2010年に戦力外通告を受け、横浜F・マリノスを退団し、JFLの松本山雅FCへと移籍した。
松本山雅をJリーグに昇格させるという目標を掲げ、新天地で精力的にプレーしていたが、2011年8月2日午前、練習中に突然倒れ、心肺停止の状態で病院に搬送された。その後心肺機能は微弱ながら回復するも、多くの人の祈りも空しく8月4日午後1時6分頃に死去。病名は急性心筋梗塞。34歳の若さであった。
1977年3月14日、群馬県桐生市で生まれる。姉と兄がいる3人兄弟の末っ子であり、兄の影響で小学1年生のときからサッカーを始める。他にも野球・バドミントン・水泳・ラグビーと様々なスポーツに挑戦するが、負けず嫌いの性格からどうしても一番になれないサッカーに夢中になり、本来は小学3年生からでなければ入れない地元の天沼FCに特例で入団。
中学生になると桐生市立中学に入学し、迷わずサッカー部に入部。当時のポジションはFWだったが、2年生のときまではベンチ入りするのがやっとという状態で、入部当初は小学校の頃よりも大きいサイズのボールを遠くに蹴ることに苦労し、ボール拾いをやらされたこともあった。それでもサッカーに対する情熱だけは誰にも負けないという自負があった。一方、学校に行くのが億劫で、1時間目が終わる頃にようやく布団から出て、のんびりと登校していたことがほとんどだったという。3年生になると全国大会で活躍するようになり、世代別代表の合宿に招集されるなど注目される存在となっていく。
高校時代は名門である前橋育英高校サッカー部に入部。進学直前に前橋育英の山田耕介監督の推薦を受けたU-15日本代表監督の小嶺忠敏の指導によってFWからDFにコンバートされる。前橋育英でもDFとしてプレーするようになり、山田監督の指導によってヘディングの技術が向上し、元来のスピードと身体能力の高さも相まって超高校級のDFと評価されるようになる。3年生時の第73回全国高校選手権では群馬県大会決勝で宿敵の前橋商業を破り、全国大会出場を果たす。選手権では2回戦で鹿児島実業高校に敗れたものの、Jリーグ全12クラブのうち10クラブからオファーが届くという争奪戦が繰り広げられた。
高校卒業後の1995年にJリーグの横浜マリノスに入団。当時の監督だったホルヘ・ソラーリからポテンシャルの高さを高く評価され、3月18日、開幕戦となった鹿島アントラーズ戦で高卒ルーキーながらもスタメンに抜擢され、早くもプロデビューを果たす。井原正巳、小村徳男といった日本代表CBと共にディフェンスラインを組み、粗削りながらも物おじしない激しい守備を披露。5月にソラーリ監督が退任し、早野宏史が後任となってからは控えに回ることが多くなるが、1stステージ優勝に貢献。9月30日、2ndステージ第13節名古屋グランパスエイト戦でJリーグ初ゴールを決める。ヴェルディ川崎とのJリーグチャンピオンシップでは2試合ともにスタメンで出場し、三浦知良を見事に完封。プロ1年目にしてマリノスの初のJリーグ制覇に大きく貢献する。
プロ2年目となった1996年はアトランタオリンピック代表の活動によってチームを離れることが多く、オリンピック後は怪我もあって欠場が続き、シーズンの半分ほどとなる16試合の出場となった。
1997年の1stステージは調子を落としてスタメンから外れることもあったが、2ndステージはワールドカップ予選のためチームを離れた井原、小村の抜けた穴を埋める働きを見せる。1998年は右膝の半月板を損傷した影響で1stステージはスタメンで出場したのはわずか3試合となり、ワールドカップの中断期間中に初の手術を受ける。10月に復帰後はレギュラーに返り咲く。
チーム名が横浜F・マリノスに変更となった1999年から後のトレードマークともなった背番号3に変更。J1リーグ開幕戦からレギュラーとして出場するも、1stステージ第5節清水エスパルス戦でイエローカード2枚を提示されて退場となる。この年は大きな怪我なくコンスタントに出場したが、チームは好不調の波があり、無冠に終わる。シーズン終了後、「ミスターマリノス」と呼ばれた井原が退団となり、新たなディフェンスリーダーとして重責を負うこととなる。
2000年はオズワルド・アルディレス監督の就任で攻撃的なスタイルとなったチームを最終ラインで支え、若きリーダーとしてチームを鼓舞する。5月6日J1リーグ1stステージ第11節京都パープルサンガ戦、5月13日第12節アビスパ福岡戦では2試合連続ゴールを記録。中村俊輔を擁する攻撃陣の活躍もあり、1stステージ優勝を果たす。シーズン2度の退場を経験したが、チームへの貢献度は高かった。チャンピオンシップでは鹿島相手に3失点を喫して敗れるが、この年のJリーグアウォーズでは初めてJリーグベストイレブンに選出される。
2001年は前年に好調だった攻撃陣が不振に陥り、一時はJ2リーグ降格の危機に立たされるほど低迷するが、貧打の前線を川口能活、小村と共にカバーし、リーグ3位の44失点に抑えるなど奮闘。一方、10月27日のJリーグヤマザキナビスコカップ決勝では強力な攻撃陣を擁するジュビロ磐田を120分間無失点に抑え、1995年以来となるタイトル獲得に貢献する。
2002年は開幕戦の浦和レッズ戦で退場となるが、出場停止明けとなったJ1リーグ1stステージ第3節FC東京戦以降は新加入となった中澤佑二とのコンビで堅牢な守備を構築する。1stステージでは開幕から13戦無敗を記録し、一時は首位に立ったが、最終的に2位に終わる。守備陣はシーズンを通して安定しており、リーグ最少失点となる27失点と健闘し、自身2度目となるJリーグベストイレブンに選出。
岡田武史監督が就任した2003年はチームのキャプテンに任命される。1stステージでは中澤とのコンビで前年同様にソリッドな守備を披露し、3年ぶりのステージ優勝を果たす。2ndステージでは膝の負傷に悩まされ、1か月の欠場から復帰後すぐに再発させてさらに1か月欠場。11月29日、2ndステージ最終節では首位のジュビロ磐田戦に満身創痍の状態で出場し、勝利に貢献。この結果、逆転での両ステージ制覇を達成し、プロ1年目以来となるJリーグ優勝を成し遂げ、キャプテンとしてシャーレを掲げる。
2004年は中澤、河合竜二と共に3バックを形成することとなり、1stステージではリーグ最少の13失点という堅守によって史上初となる3ステージ連続優勝を果たす。2ndステージでの優勝は逃したものの、チャンピオンシップでは浦和レッズを相手に2試合で1失点に抑え、PK戦を制してのJリーグ連覇を達成。ちなみにこの年は総警告数11、退場1回と例年以上にカードを貰っている。
2005年は中澤にキャプテンを譲ることになる。この年は怪我人の多さもあってこれまで築いてきた堅守に綻びが見えていた。
再びキャプテンに就任した2006年はこれまでよりも得点面での貢献が目立ち、4月の公式戦では3ゴールを記録するなど、キャリアハイとなる公式戦7ゴールを記録。この年のオフにはクラブからの複数年契約のオファーを拒否し単年契約としたことで移籍の噂が出るようになる。
2007年はオフに骨片が右膝十字靭帯を圧迫し、手術を受けた影響で出遅れ、3月21日のナビスコカップ予選第1節大宮アルディージャ戦で復帰したものの、コンディション不良からレギュラーを外されてしまう。6月30日の第18節大分トリニータ戦でJリーグ通算300試合出場を果たすが、結局シーズンを通して安定した出場機会は与えられず、リーグ戦での出場はキャリアで初めて一桁台となってしまう。オフにはクラブから約60%の減俸という厳しい評価を受けるが、マリノス愛を貫きこれを受け入れ、契約を更改する。
2008年からチームの選手会長を2年間務める。また前年に上野良治が退団したためチーム最古参となる。河合が負傷離脱したことでボランチとしての起用がメインとなるが、これが思いのほかうまくいき、CBの前の第3のCBとして持ち前のセンスの良さでプレーの幅を広げる。6月には坊主頭にイメチェンするが、これがチームメイトのみならずチームスタッフや番記者にまで連鎖するという事態が起こる。31歳にして新たなチャレンジとなったが、レギュラーの座を取り戻し、久々にリーグ戦30試合に出場している。
2009年はシーズン前半戦は本職のセンターバックに戻り、3バックの一角として出場。チームが4バックに変更した後半戦はボランチでの出場がメインとなる。チームの成績は2年連続で中位となったが31試合に全てスタメンとして出場し、シーズンオフの契約更新では「引退までマリノスでプレーしたい」とコメントしたこともあって「ミスターマリノス」と呼ばれるようになっていた。
2010年は慢性的なケガを抱えていた右膝半月板の4度目の手術を行った影響で出遅れ、5月29日のナビスコカップ予選第2節湘南ベルマーレ戦がシーズン初出場となる。復帰後のJ1リーグでは出場機会が与えられずにいたが、シーズン初スタメンとなった8月7日第17節ベガルタ仙台戦で決勝ゴールを決める。以降はレギュラーの座を取り戻し、出場停止の1試合を除いて全試合ボランチとしてスタメンで出場。ところが、11月27日にクラブから戦力外通告を受けてしまう。15年間クラブに尽くしてきたバンディエラに対するフロントの非情な対応にサポーターが反発。最終節終了後のセレモニーでは、木村和司監督や社長挨拶がかき消されるほどの松田コールや、セレモニー後もスタジアムで約6時間に及ぶ座り込みなどの抗議をおこなう事態となった。退団セレモニーでは涙ながらに「俺、マジでサッカー好きなんすよ。マジでもっとサッカーやりたい。本当にサッカーって最高な所を見せたいのでこれからも続けさせてください。」とサポーターの心を打つコメントを残している。
Jリーグクラブや海外からのオファーもあったが、2011年1月9日JFLの松本山雅FCに移籍することが発表される。JFLクラブへの移籍というまさかの決定に驚きが広がったが、豊富な経験と高い個人能力をJリーグ入りを目指すチームで活かすことを選択する。マリノス時代と同じ背番号3をつけ、CBの主力として出場していたが、7月23日のJFL後期第4節Honda FC戦が現役最後の試合となる。そして運命の8月2日を迎えるのだった・・・・。
まだ中学生だった頃に小嶺忠敏監督率いるU-15日本代表に選出。1993年にはU-17日本代表として日本での開催となったFIFA U-17世界選手権1993に出場。チームメイトには後にフル代表で共に戦う中田英寿、宮本恒靖、戸田和幸がいた。大会ではCBのレギュラーとして全4試合に出場し、ベスト8進出に貢献。一方、準々決勝で敗れたナイジェリアのヌワンコ・カヌに歯が立たず、世界の壁を知る貴重な経験となった。
1995年にはカタールで開催されたFIFAワールドユース選手権に出場するU-20日本代表に選出。中田英寿と共に他のメンバーよりも下の世代からの飛び級でのメンバー入りとなったが、CBのレギュラーとして全4試合に出場し、ベスト8進出に貢献。グループリーグ第2戦ではスペインの至宝・ラウール・ゴンザレスとマッチアップしている。
1996年7月、U-23日本代表のメンバーとしてアトランタオリンピックに出場。グループリーグ初戦では優勝候補筆頭と呼ばれたブラジルのサヴィオをマンマークによって完封し、その後交代で出場した怪物・ロナウドも抑え、川口能活、鈴木秀人、田中誠と共にブラジルの強力な攻撃陣を相手にクリーンシートを達成し、「マイアミの奇跡」と呼ばれた歴史的大金星に貢献。第2戦ではU-17で煮え湯を飲まされたナイジェリアにまたもしてやられるが、3試合全てにフル出場。
1998年11月にはフル代表と兼任となるフィリップ・トルシエ監督率いるU-21日本代表の立ち上げメンバーに選出されるが、試合への出場はなく、その後はしばらく招集されなくなる。1999年9月、シドニーオリンピックアジア最終予選壮行試合の韓国戦のメンバーとして1年ぶりに招集されるが、出場機会は与えられず、不満を露にし自ら代表を去ってしまう。
2000年2月、香港で開催されたカールスバーグカップに出場するフル代表のメンバーに選出。選出の背景には川口能活が松田とトルシエ監督を説得し、トルシエ監督が最後のチャンスを与える形で応じたといういきさつがあった。2月5日のメキシコ戦でフラット3の中央を務め、23歳での日本代表デビューを果たす。その後しばらくは3バックの中央で起用されていたが、戦術理解で上回る森岡隆三や宮本恒靖のほうがトルシエ監督の信頼を得ていた。
2000年9月、シドニーオリンピックに出場するU-23日本代表に選出され、2大会連続でのオリンピック出場を果たす。当初は控えCBという位置づけで最初の2試合は出場機会が無かったが、グループリーグ第3戦のブラジル戦で負傷した中田浩二に代わって途中出場すると、準々決勝のアメリカ戦では本職ではない左CBで120分間フル出場したが、PK戦の末に敗退。
2000年10月にはレバノンで開催されたAFCアジアカップ2000の日本代表に選出。初戦のサウジアラビア戦でスタメンを務めた第2戦以降は控えに回り出場機会は無かった。しかし準決勝の中国戦で中澤佑二に代わって3バックの右のスタメンとして起用されると、決勝のサウジアラビア戦でも引き続き起用され、日本の2大会ぶりの優勝に貢献。
2001年3月25日、サンドゥニでのフランスとの親善試合では初めてキャプテンマークを巻いて出場するが、フランスに5失点を許して完敗する苦い経験をする。6月に日本で開催されたFIFAコンフェデレーションズカップ2001では第2戦以降スタメンとして出場し、日本の準優勝に貢献。以降は調子を落とした中澤に代わって3バックの右のレギュラーに定着する。
2002年6月、日本と韓国の共同開催となった2002 FIFAワールドカップのメンバーに選出。初戦のベルギー戦では2失点を許したが、第2戦のロシア戦と第3戦のチュニジア戦では宮本、中田浩二と共に2試合連続での完封を果たし、日本の史上初となる決勝トーナメント進出に貢献。ラウンド16のトルコ戦ではセットプレーの1点に泣いて敗退し試合後に悔しさを見せたが、後にトルシエ監督から「キープレイヤーだった」と称され、4試合全てにフル出場した。
日韓ワールドカップ後にジーコ監督が就任してからは最初の2試合にスタメンで出場して以降は2年近く代表に招集されなくなってしまう。所属クラブの好調さを買われて2004年7月に代表に復帰し、中国で開催されたAFCアジアカップ2004のメンバーに入るが、出場したのは準々決勝のヨルダン戦の8分間のみとなり、悔しさから優勝メダルをスタッフにあげてしまう。
2005年1月29日のカザフスタン戦で代表初ゴールを決めるが、その後も控えという立場に変わりはなく、満足な出場機会を得られていなかった。3月25日、2006 FIFAワールドカップアジア最終予選第2戦イラン戦の試合後にジーコ監督が田中誠が出場停止だったので4バックに変更したという発言に対し不満を露わにし、3月30日の第3戦バーレーン戦ではメンバー外となった際にスタンド観戦という規則を破って無断帰宅してしまう。このことでジーコ監督との溝が決定的なものとなり、以降代表に呼ばれることはなかった。
2011年8月2日、松本山雅FCの練習中に突然倒れ、心肺停止の状態で信州大学医学部附属病院高度救命センターに緊急搬送される。病名は「急性心筋梗塞」だった。結局意識を取り戻すことはなく、2日後の8月4日午後1時6分に死去。享年34歳。
日本代表経験のある現役アスリートの早すぎる訃報は大きく取り上げられ、日本中にショックを与えるニュースとなった。
当時、松本山雅が使用していた松本市の梓川ふるさと公園のグラウンドにはAEDが設置されておらず、松田が倒れた後の措置が遅れた原因として取り上げられることとなった。日本サッカー協会は、2012年度よりJリーグだけでなく、JFL、Fリーグ、なでしこリーグにも試合や練習におけるAED常備を義務付けることを決め、他の競技でもAED普及の動きが急速に高まり、松田の突然の悲劇はスポーツ界のみならず一般社会においてもAEDへの関心が広まるきっかけとなった。
8月12日、15年間在籍していた横浜F・マリノスは松田の背番号だった3番を永久欠番とすることを決める。一方、松本山雅は3番を背負いたい選手が現れるのを待つとして永久欠番にはせず空き番となっていたが、横浜FM時代にチームメイトだった田中隼磨が2014年に松本に加入し背番号「3」を付けることとなった。
2019年には松田の姉である松田真紀氏を代表理事とし、横浜F・マリノス時代のチームメイトだった佐藤由紀彦、河合竜二、 天野貴史を理事とした「一般社団法人 松田直樹メモリアルNext Generation」を設立。サッカーを通して子どもたちが仲間や命の大切さを学び、大きな夢を育むことを目的とし、松田の功績を後世に伝えるとともにサッカーの普及の活動、AEDと心肺蘇生の一般普及の活動をおこなっている。
| シーズン | 国 | クラブ | リーグ | 試合 | 得点 |
|---|---|---|---|---|---|
| 1995 | 横浜マリノス | Jリーグ
|
33 | 1 | |
| 1996 | 横浜マリノス | Jリーグ
|
16 | 0 | |
| 1997 | 横浜マリノス | Jリーグ
|
31 | 2 | |
| 1998 | 横浜マリノス | Jリーグ
|
12 | 0 | |
| 1999 | 横浜F・マリノス | J1リーグ | 27 | 0 | |
| 2000 | 横浜F・マリノス | J1リーグ | 24 | 2 | |
| 2001 | 横浜F・マリノス | J1リーグ | 29 | 0 | |
| 2002 | 横浜F・マリノス | J1リーグ | 25 | 2 | |
| 2003 | 横浜F・マリノス | J1リーグ | 20 | 0 | |
| 2004 | 横浜F・マリノス | J1リーグ | 24 | 1 | |
| 2005 | 横浜F・マリノス | J1リーグ | 27 | 1 | |
| 2006 | 横浜F・マリノス | J1リーグ | 29 | 4 | |
| 2007 | 横浜F・マリノス | J1リーグ | 8 | 1 | |
| 2008 | 横浜F・マリノス | J1リーグ | 30 | 1 | |
| 2009 | 横浜F・マリノス | J1リーグ | 31 | 1 | |
| 2010 | 横浜F・マリノス | J1リーグ | 19 | 1 | |
| 2011 | 松本山雅 | JFL | 15 | 1 |
日本人離れしたフィジカルと高い技術、そして闘争心を兼ね備えた日本人でも歴代トップクラスのセンターバック。高さと当たり負けしない抜群の強さを兼ね備えたフィジカルに加え、鋭い読みとカバーリング、巧みなラインコントロールで相手を封じ、高精度のフィードやセットプレーなど積極的な攻撃も持ち味で、ポテンシャルは世界基準に達しているといわれていた。
スピード、フィジカル、ヘディング、カバーリング、キックとDFに求められる能力を高いレベルで持ち合わせ、派手に暴れ回りながら、必要とあれば自分のポジションから離れて相手アタッカーを激しいチャージで潰しにかかるスタイルだった。
感情を表に出した情熱的な対人守備のイメージが強いが、駆け引きを駆使したクレバーな守備も得意としており、リスク覚悟でオフサイドトラップを仕掛ける度胸もあった。
闘争心を前面に出すことが災いしてファウルが多く、イエローカードやレッドカードを貰うことも多かったのが弱点だった。納得できない判定に対して鬼の形相で主審に抗議し、カードを貰うことも多かった。
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