東欧の歴史とは、東ヨーロッパの歴史である。本項では東欧の通史を要点毎に記載したい。
前史 古代ローマ帝国まで
前史時代の東欧に当たる地域は、ギリシャなどの地中海沿岸、中央アジアに続く草原地域、西方から延びるヨーロッパ平原、北方の森林地帯が広がっていた。紀元四千年ごろから、黒海北岸にいた印欧語族が東西に拡大し、現在の東欧地域にも広がり始める。最初にギリシア語派が南下、その北バルカン半島から北方森林地帯にかけてバルト語族やスラブ語族がフィン・ウゴルゴ族を押しのけ拡大する。草原にはスキタイなどのイラン語派の遊牧民族が住んでいた。
地中海世界でローマ帝国が台頭すると、西暦14年ごろに現セルビアにあたるバルカン半島北西部が、117年にウクライナ南端(クリミア半島)やブルガリア、そしてルーマニアがその領土となった。これらの地域は古典ギリシアをもとに研磨されたローマ文化により文明化していき、ことに上流階級は学問の多くをギリシャに学んだ。
東欧が独自の文化圏を形成し始めるのは、ローマ帝国が東西に分割統治された後のことだった。
西ローマ帝国が476年に滅亡すると、東ローマ帝国が唯一の「ローマ帝国」として欧州を先導する。そんな折、6世紀になるとスラブ人が東ローマ帝国領であるバルカン半島に南下・定住、セルビアやブルガリアの原形を生む。
ビザンツ帝国と東欧世界の形成
- 詳細は『東ローマ帝国』を参照
東ローマ帝国は7世紀のヘラクレイオスの治世を境にギリシア化したが(もっとも古代ローマ帝国自体、ギリシア文化の色合いが強いが)、それゆえに古代ローマ帝国から明確に変質した(以下、ギリシア化したローマ帝国をビザンツ帝国と表記する)。皇帝が政教ともに統治するビザンツ帝国のもとで、東欧はギリシア正教の布教によりキリスト教化された。
ビザンツ帝国が726年から聖像を否定的にとらえはじめると、布教の際にマリア像などを使用する西欧の顰蹙を買い、結果的に東欧は独自の路線をいく形となる。この西欧との軋轢は、800年にカール大帝が「ローマ皇帝」として戴冠し、ビザンツ帝国を「ローマ帝国」と認めず、西欧自らが新たに「ローマ帝国」を再現・自称したことに繋がった(神聖ローマ帝国の原形)。962年、西欧にてオットー1世がこれまた「ローマ皇帝」として戴冠すると、欧州の東西分裂は決定的となった。
キエフ公国
ビザンツ帝国の権威が低下していく一方で、9世紀ごろにはスウェーデン系ノルマン人(ヴァリャーグ)がノヴゴロド国、そしてキエフ公国を建国し、現地のスラヴ人と同化、ウクライナやロシア、ベラルーシの原形を作った。とくにキエフ公国はウラディミル1世の代で領土が拡大し、またビザンツ帝国からギリシア正教を受け入れた。さらにはビザンツ帝国風の専制君主制をも受容したため、ウクライナ・ロシア地域は西欧とは異なる東欧圏の国となった。なお、ビザンツ帝国・キエフ公国ともに、農民の農奴化と貴族の大土地所有に、その社会的特徴が見られる。
ビザンツ帝国の最盛期
ビザンツ帝国はバシレイオス2世(在位:976年 - 1025年)の治世期に、最大級の繁栄を見せた。
ついに長年の宿敵であった第一次ブルガリア帝国を滅ぼし、バルカン半島を完全に統一したのである。その領域は東はアルメニアやシリアから西はイタリア南部まで、北はドナウ川から南は地中海の島々にまで至る。しかも驚くべきことに、それら領域のどこであれ、常に平和で安定していた。
首都コンスタンティノポリスは西欧諸国とアジア諸国の、また北の黒海と南の地中海の中継地として十字を切るように発展し、都内は黄金に輝く壮麗さを誇ったという。国庫にもその繁栄は現れていた。すなわち、金銀財宝をこれ以上しまいきれないからと、国庫を拡大工事したのである。
まさしくこの時代、東地中海世界はビザンツ帝国のもと平和を享受していた。
ポーランド地域の変遷
ポーランド地域はミェシュコ1世(在位:963年 - 992年)の代でローマ教会からキリスト教カトリックを受容し、ビザンツ帝国を宗主としない、ローマ教会と神聖ローマ帝国による西欧文化圏に編入された。
東欧にあって西欧文化圏に位置するポーランドであるが、当初は神聖ローマ帝国の属国(ポーランド公国)として安政を維持していた。ところがポーランド公国はやがて神聖ローマ帝国との溝を深め、ボレスワフ1世(在位:992年 - 1025年)の代では現ウクライナにまで領域を拡大し、ポーランド王国として独立した(1025年)。
王国として国際的に承認されるまで、ポーランドはボヘミア公国(現チェコ)の侵攻に遭っていたが、1037年からは首尾良くそれを跳ね除ける。ちょうど、王国は安定した時代を謳歌し始めていたのである。
新興国の受難
ところがカジミェシュ1世が没した1058年以降、ポーランド王国は内乱期に突入した。神聖ローマ皇帝とローマ教皇が叙任権闘争に揺れる1076年、その叙任権闘争をポーランド王位に結びつけ即位する者が現れたが、諸侯がこれに反し乱を起こす。
この内乱を鎮めようやく国内を統一できたのが1106年、ボレスワフ3世(在位:1102年 - 1138年)によってであった。当時のポーランド軍は神聖ローマ帝国の軍にも勝り、東ドイツ地域にまで領土を拡大していた。しかしボレスワフ3世亡き後、ポーランドは再び不統一性を露わにし、諸侯の誰もが利潤を求め奪い合う状態となる。また君主の諸侯への妥協も年々増していき、これが国家不統一に拍車をかけた。
1241年、このような状況下にあるポーランドへ、追い撃ちとなる存在が現れた。モンゴル帝国である。モンゴルの襲来によりポーランドは著しく弱体化したが、さらに、神聖ローマ帝国から安住の地を求めるドイツ人らが急遽押し寄せ(東方植民)、ポーランドはより混沌を極めていくのだった。
モンゴル帝国
さて、主題を正教圏の国々に戻すが、大土地所有者の貴族らが自立傾向にあったのはビザンツ帝国もキエフ公国も同じであった。が、キエフ公国におけるそれはとくに著しかった。キエフ公国内では諸侯が多数分立したが、13世紀、そこを突いたのがバトゥ率いるモンゴル帝国の軍であった。分裂し弱体化したキエフ公国はまもなくモンゴル軍に圧倒されると、南ロシアには新たにキプチャク=ハン国が成立した。モンゴルによるウクライナ・ロシア支配はその後およそ240年間も続くが、これが有名な「タタールのくびき」である。
モンゴル帝国の襲来はキエフ公国に限らず、中欧にあったポーランドやハンガリーもまた襲撃されていた。西欧諸国はこれに対抗すべく教皇を中心に十字軍を結成して対抗したが、モンゴル軍の前に死体の山を築くこととなった。モンゴル帝国のハーン位を巡る争いが辛うじて、ポーランドやハンガリー、そして西欧をくびきから逃した。
一方、ビザンツ帝国にとっては幸運であった。モンゴル軍はオリエント地域にも襲来していたからである。オリエントにあったセルジューク朝やその後裔のルーム・セルジューク朝と言ったイスラム勢力にビザンツ帝国は長らく押され続けていた。それらの主要な国家がモンゴル帝国によって滅亡させられるか、弱体化させられた。モンゴル帝国がユーラシアに築き上げた巨大な交易ネットワークから得た富もあり、ビザンツ帝国は今しばらくの安息を得る。
ポーランドの栄光
モンゴル軍が襲来して間もない13世紀中ごろ、ポーランド内では、十字軍による迫害から逃れてきたユダヤ人たちが移住してきていた。といっても彼らユダヤ人たちは、東方植民されたドイツ人らと同様、友好的で包括的なポーランド社会によく馴染んだ。とくにユダヤ人の活躍は次第にポーランド発展の礎ともなった。
13世紀はまた分裂やモンゴルの襲来など、ポーランドにとっては負の一面でもあったが、これも14世紀にもなると、回復の兆しへと変化する。1320年、ハンガリーの援助により即位したヴワディスワフ1世(在位:1320年 - 1333年)の手により、ポーランドは再び統一された王国として復権する。
この流れは彼の息子のカジミェシュ3世(「ポーランド唯一の大王」、在位:1333年 - 1370年)にも受け継がれ、ポーランドの対外的地位を高めるに至った。さらに、大王はクラクフに大学を設立し、ヨーロッパ最重要の文化都市とした。14世紀はまさにポーランド絶頂期への前段階だったのである。
ポーランド・リトアニア連合
1385年から1569年の間、ポーランド王国はヤギェウォ朝の下リトアニア大公国と同盟し、ポーランド・リトアニア連合としてヨーロッパ最大の繁栄を見せた。
1410年にはドイツ騎士団に大勝し、十字軍から決定的な優位を獲得。さらにその数十年間の間にボヘミアとハンガリーをも領土とし、その領域を東欧どころか中欧にまで拡大させた。
1526年にはオスマン帝国と対峙し、モハーチの戦いによりハンガリーを喪失、また1547年に戴冠したイヴァン4世が率いるモスクワ大公国の脅威にも曝されるようになり、国防上の懸念がなされたが、ポーランドの黄金期は健在であった。ヤギェウォ朝が断絶すると共和政に移行した。この共和政はポーランドは黄金の時代をもたらした。選挙権を持つ貴族は王国の地位の確立と維持に貢献した。また、当時の西欧は人口が増加し、穀物をより多く求めたが、これが穀物を大量に抱えるポーランドにとって何よりも吉報であった。まもなく共和国は欧州最大の穀物供給地となり、非常に潤った国庫に歓喜することとなる。
オスマン帝国
1299年にアナトリア半島西端、すなわちビザンツ帝国の右隣にテュルク(トルコ)系のオスマン・ベイがオスマン朝を開いた。オスマン朝は周辺国を統合しつつ、次第にビザンツ帝国やバルカン諸国を圧しはじめる。1393年には第二次ブルガリア帝国を滅ぼし、続く1394年にはセルビアを臣従させた。これによりオスマン朝は帝国的性質を強め、オスマン帝国として東欧に君臨し始める。ティムール帝国に敗北したため、一時的に弱体化した。それにとともに、ハンガリー王国を含むバルカン諸国は猛烈な抵抗を行った。しかし、1453年にはメフメト2世はビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルを陥落させ、そのままビザンツ帝国を滅亡させた。
古代より続いた「ローマ帝国」、すなわちビザンツ帝国が滅亡したことは当時にして衝撃的だった。オスマン帝国はその後も拡大し続け、15世紀中にギリシア、エーゲ海沿岸、アルバニア、セルビア、ボスニアを次々と征服し、クリミア・ハン国を属国として、ワラキア、モルダビアを臣従させた。この帝国の領域は欧州にとどまらず、16世紀には、アナトリア、アルメニア、メソポタミア、シリア、ヒジャーズ、エジプト、トリポリ、チュニジア、アルジェリアとアジア、アフリカにもその勢力を拡大。旧ビザンツ帝国領を継承・昇華させた。1526年にはハンガリーを奪い、中欧にも進出。全盛期を築き上げる。
ロシアの成立
- 詳細は『ロシア帝国』を参照
モンゴル帝国にオスマン帝国と、東欧にはビザンツ帝国時代とは一転して黄色人種(モンゴロイド)を出自とする遊牧国家が割拠していった。
しかし、15世紀ごろには商業都市モスクワを軸とするモスクワ大公国が台頭する。イヴァン3世の時代にもなると東北ロシアを統一し、モンゴルによる支配から脱し、逆にモンゴル帝国の末裔である草原の遊牧民族国家を次々と吸収していく。こうして自信をつけて行った大公国は徐々にキエフ公国の後継を自認し始める。またイヴァン3世はビザンツ帝国最後の皇帝の姪と婚姻し、ギリシャ正教を亡きビザンツ帝国から継承していることから、「(東)ローマ帝国の後継者」を自称、ツァーリ(王あるいは皇帝)と号した。モスクワ大公国はその後も発展していき、雷帝ことイヴァン4世の時代には正式にツァーリを称号として名乗り、ロシア・ツァーリ国が成立。農奴制の強化と中央集権化が推し進められた。
然し、余りに早い中央集権化はロシアに混乱を呼んだ。イヴァン4世の死後、西欧が大航海時代や宗教改革、オスマン帝国との対立に一喜一憂している間、ロシアは後継者争いの動乱期にあった。これを平定したのがフョードル・ニキーチチ・ロマノフであり、そのため彼の息子ミハイル・ロマノフは1613年に正統なツァーリとなる。これがロシアの300年王朝、ロマノフ朝の成立であった。
当初、ロマノフ朝は微弱な権力基盤に悩まされた。また、絶頂期を迎えていたポーランド・リトアニア共和国やスウェーデンの攻撃にしばしばさらされた。共和国にはスモレンスクを奪われ、スウェーデンには海への出口カレリアやイングリアを取られた。しかし、幸運だったのは、共和国とスウェーデンは激しく争っていたことだった。
ポーランド、オスマン帝国、スウェーデンの弱体化、ロシアの躍進
共和国ではこの時期に新大陸からの農産物によって、主要な商品であった食料が売れなくなり始め、黄金期を支えた貴族層が経済難から没落、大貴族達が権力闘争を行い始めた。そうした中で、バルト帝国として全盛期を迎えていたスウェーデン王国は、バルト海沿岸部を手に入れるべく、共和国内部の勢力と結びついて、共和国を時に軍事的に圧倒した。
これにロシアは便乗した。1667年には、ドニエプル川以東のウクライナを割譲させることに成功した。この間にも、シベリアを東に征服し、領土がついには太平洋に達した。
オスマン帝国も弱体化をしていた。第二次ウィーン包囲が失敗すると、1699年ついにハンガリーをハプスブルク家に割譲した。オスマン帝国の拡大はここに止まったのである。同時期にオスマン帝国との国境紛争を抱えていたロシアも優勢の内に講和を進められた。
また、スウェーデンのバルト海覇権にもガタが来た。スウェーデンの繁栄はスウェーデンの技術の先進性と君主の軍事能力、バルト海の海上優勢だった。スウェーデンは巧みに周辺国を圧倒したが、その結果全方位に敵を抱え込むこととなった。元々、スウェーデンは共和国やロシアと比べれば、遙かに少ない人口であったが、こうした中で、ついに外交的にも財政的にも、そして軍事的にも限界が来たのである。
5代君主ピョートル1世が近代化政策を進めると、ザクセンやデンマークと共に反スウェーデン同盟を結成。大北方戦争が始まった。この大北方戦争に勝利した結果、東欧にロシアを圧倒する国家は一つも無くなっていた。1721年、彼は「インペラートル(皇帝)」として承認を受け、ロシア皇帝となった。こうしてロシア帝国は成立したのだった。
激動の近代
西欧に軸を置くオーストリアや事実上ロシアの保護国となっていたポーランドを除き、東欧はオスマン帝国とロシア帝国の支配に二元化されていた。興味深いのは二国ともに「東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の継承者」を自任していることであり、ある意味で東欧は再び東ローマ帝国が統治する時代となったのである。
しかしオーストリア帝国やオスマン帝国による多民族支配は限界を見せ始め、ロシア帝国の農民の農奴化も臨界点を迎えつつあった。これがフランス革命、そしてナポレオン・ボナパルトの登場によって「市民階級の台頭」という風に煽られ、より顕著なものとなる。すでに時代は近代に入っていた。
ナポレオンは1812年のロシア遠征(ロシア側では祖国戦争)以来失脚し、1815年のワーテルローの戦いにおいて決定的に転落する。これによりロシア帝国の国際的地位は高まるが、一方で、「市民階級の台頭」も抑えがたくなっていた。欧州はウィーン体制により旧体制、すなわち支配階級による統治体制を維持・回復しようと試みるが、すでに革命の風はもうすぐそこまで迫っていた。
オスマン帝国も他人事ではなかった。一連のナポレオン戦争によってバルカン半島の支配は動揺し、1805年にセルビアが、1821年にはギリシャが、それぞれ独立に向けて動き出した。また1830年にはムハンマド=アリーによりエジプトが半独立し、もはやオスマン帝国は「瀕死の病人」というレッテルを否定できないようになっていく。
オスマン帝国 VS ロシア帝国
ロシア帝国の悲願は「凍らぬ海」であった。極寒の帝国にとって、自由に世界へと航海できる海を確保することがいかに重大であったかは、想像に難くないだろう。近代に入りロシア帝国は農民の不満が爆発し、それを何らかの形で発散させる必要があったから、戦勝と不凍港の獲得でそれを帳消しにしたかった。国内の鬱憤を外へ向けるという点でも、凍らぬ海への戦い――すなわち「南下政策」は不可欠であった。
一方でオスマン帝国の目標は国家の再興、「名誉挽回」にあった。1829年には英仏とロシア帝国の介入によりギリシャの独立を許した。1831年からはエジプト=トルコ戦争で事実上の敗北を喫し、エジプトの半独立を認めざるを得なくなると、いよいよ領土の縮小が加速した。そこにロシア帝国の「南下政策」が登場、オスマン帝国が統治するバルカン半島に浸透し、それゆえかセルビアやブルガリアも独立傾向を露わにした。
国内の不満を外へ向けるべく、汎スラブ主義と称して同じスラブ人地域に干渉し「南下」を画策するロシア帝国。
相次ぐ離反の逆風に終止符を打つべく、ふたたび世界帝国として「名誉挽回」を目指すオスマン帝国。
この没落しゆく二国は、もはや他者と干渉しあうか、あるいは下すことでしか生き残れなかった。
クリミア戦争
1831年から起こったエジプト=トルコ戦争において、ロシア帝国はオスマン帝国を援助する代わりに、黒海から地中海へと繋がるダーダネルス・ボスフォラス海峡を要求した。「南下政策」の故である。しかしロシア帝国の拡大を恐れた大英帝国の干渉によりこれは実現し得なかった。
1853年、ロシア帝国がオスマン帝国内のギリシア正教徒の保護を理由に、オスマン領のイェルサレムの管理権を要求、そして侵入した(もちろんこれも南下政策の一環である)。クリミア戦争の勃発である。
大英帝国とフランス帝国はやはりロシア帝国の暴走を恐れ、翌年戦争に介入、オスマン側につく。もはやクリミア戦争はオスマン帝国とロシア帝国の生き残りをかけた戦いにとどまらず、ヨーロッパ全土に影響しかねない列強間の争いとなってしまったのである。
現ウクライナ南端に位置するクリミア半島、そこのセバストポリ要塞を巡って激戦が繰り広げられたが、サルデーニャ王国が英仏とオスマン帝国に味方したことにより、1855年9月11日、ロシア帝国の敗北をもって終結した。
分立する東欧
戦後1856年、コンスタンティノープル(イスタンブール)に隣接する、黒海と地中海を結ぶダーダネルス・ボスフォラス両海峡の通航が禁止され、黒海は中立の海となった(パリ条約)。これにより南下政策は大きく頓挫し、また戦争による疲弊もあわさったため、ロシア帝国は著しく弱体化した。
オスマン帝国もまた大きく打撃を受けた。戦後の疲弊もそうだが、なにより「他国の助けなしには戦勝できない」ことが改めて明るみとなったからである。「瀕死の病人」という不名誉極まりない渾名を覆すことなど到底かなわず、むしろ、帝国の弱体化がバルカン諸国の独立を一層煽っただけだった。
この脆弱化していくオスマン帝国による、東欧の支配にとどめを刺したのがセルビアで、1878年にセルビア王国として独立すると、同年ルーマニアも独立、ブルガリアも1908年に独立し、その他のバルカン諸国も相次いで離反した。
世界大戦期
20世紀の東欧は、ロシア帝国とオーストリア=ハンガリー帝国、そして独立後のバルカン諸国に大きく分類できる。ここで厄介なのがオーストリア=ハンガリー帝国で、クロアチアやスロバキアなどのスラブ人地域を内包していながら、必ずしも多数ではないドイツ人がそれを統治するという、時代とは逆行した体制をとっていた。
先のオスマン帝国に見られるように、このような多民族支配には限界が付きものである。そしてそこには宗教上の混沌も存在するということを、過去にクリミア戦争が証明していた。
ロシア革命
1914年、ボスニアのサラエボにてオーストリアの皇太子夫妻が銃殺されると、オーストリア側はスラヴ系民族をおさえる好機とみて、ドイツ帝国と結託し、7月末にセルビアへ宣戦した。ドイツ・オーストリア側には汚名返上を図るオスマン帝国も加わるが、対してロシア帝国は同じスラヴ人国家であるセルビアの側に立ち、たちまち戦争の規模は拡大していった。第一次世界大戦の勃発である。
ポーランド、ルーマニア、セルビアは同盟国側(ドイツ・オーストリア・オスマン)に占領されたが、1917年、ロシア帝国は戦争どころではなかった。というのも革命の真っただ中にあったからである。
3月8日帝都ペトログラードでは民衆が平和を訴え、あるいは大規模なデモやストライキを起こしていた。これに軍隊も同調すると、革命の波はロシア帝国全域に広がった。労働者を代表とする兵士たちはソヴィエトと称して革命を推進、結果、ロシア皇帝ニコライ2世の廃位とロマノフ朝の終焉をもって、ロシア帝国は解体された。
第一次世界大戦もまた、1918年11月11日、今は亡きロシア帝国を含む連合国側(英仏伊希露葡)の事実上の勝利により、また新たに誕生したドイツ共和国との休戦協定により終結した。
第一次戦後の東欧
第一次世界大戦が終わる頃には、世界地図が大きく塗り替えられた。
東欧もその例外ではない。北から順に、フィンランド、エストニア・ラトビア・リトアニアのバルト三国、ポーランド、チェコスロバキアにハンガリーなど、ながらく他国の領土とされていた多くの国が独立した。またバルカン半島では、ルーマニアが領土を拡大し、セルビア一帯はユーゴスラビアと改名したほか、アルバニアが独立した。
こうして第一次世界大戦後は、オーストリア=ハンガリー帝国とオスマン帝国が解体され、多くの国が誕生したのである。オスマン帝国はトルコ共和国にとって代わり、多民族支配の国から「トルコ人の国家」として軌道を修正したのだった。
ロシア帝国亡きあとのロシアでは、いわずもがな、ソビエト連邦が成立していた。
ナチス=ドイツの拡大
1938年3月、新たにナチス労働党による国家となったドイツは、民族統合を理由にオーストリアを統合した。同年9月、ドイツは、ドイツ人が多く住むチェコスロバキアのズデーテン地方の割譲を要求。チェコスロバキア代表を会議に参加させない状態で、英仏独伊の四カ国で話し合い、チェコスロバキアからズデーテン地方を奪い取った。ヒトラードイツの領土欲はそこで収まらず、翌39年にはチェコスロバキア解体を強行し属国とした。
またポーランドに対しても、ダンツィヒの返還と東プロイセンへの陸路を要求した。この影響でイタリア王国はアルバニアを併合、東欧は着実に蝕まれていった。
ようやく独立し得たポーランドとしては、ナチス=ドイツの要求などのめる筈がなかった。というわけでドイツ側の要求を拒否するが、ドイツはソ連と独ソ不可侵条約を結び、後顧の憂いを断つと、9月1日にポーランド侵攻を開始。これに脅威を感じた英仏はドイツに宣戦、かくして第二次世界大戦が始まった。
ソ連の侵攻と大戦の終結
- 詳細は『独ソ戦』を参照
ドイツ軍に蹂躙されるポーランドに対し、ソ連は侵攻を開始、まもなく独ソ間で分割占領した。ソ連は1940年にフィンランドから国境地帯を奪い、さらにバルト三国をも併合、ルーマニアの一部も獲得した。
ソ連と隣接するようになったドイツは、1941年6月に独ソ不可侵条約を破棄し、フィンランド・イタリア・ルーマニアとともにソ連に攻撃を開始した(独ソ戦)。当初ドイツ側はモスクワにまで迫る進撃を見せたが、結果的に戦局は逆転し、1945年にはソ連がドイツへと迫っていく。オーストリアの首都ウィーンはソ連に占領され、まもなくドイツのベルリンも占領された。5月7日のことだった。ドイツは無条件降伏し、ここにナチス=ドイツは完全に消滅、第二次世界大戦も日本軍の降伏により完全に終結した。
二度の大戦の結果、東欧はもちろん欧州そのものが大きく転落した。かつては世界の指導的位置にいた欧州も、とうとう世界の一地域にまで没落したのである。
冷戦から現代へ
戦後、ソ連はアメリカ合衆国と並ぶ超大国として世界に君臨した。次第に戦後の世界についてソ連とアメリカ合衆国は相互不信を深めていき、その結果、世界はソ連を盟主とする社会主義諸国(いわゆる「東側」)と、アメリカ合衆国を盟主とする資本主義諸国(いわゆる「西側」)とに分かれた。
ソ連に代表される東側諸国と、アメリカ合衆国が率いる西側諸国の境界線は、「東欧」をもってして克明に表れた。
東側諸国の西側に対する最前線が、そのものずばり東欧だった。東ドイツ、ポーランド、チェコスロバキア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、アルバニアが、ソ連の衛星国あるいは属国としてすぐ隣の西側に面していたのである。
ユーゴスラビア
セルビアを実質的な盟主とするユーゴスラビアは、非同盟運動を徹底し独自の路線を行っていた。とくにチトー政権下では多民族・多文化・多言語・多宗教の枠をある程度は越えた、安定した国家運営がなされていた。
しかし1980年にチトーが亡くなると、コソボの独立志向が高まり、他地域も次々と独立していった。2006年には最後に残ったモンテネグロさえも離別し、とうとうセルビアだけのセルビア共和国となる。ところがこのセルビアにおいても、2011年現在、イスラム教徒が多い南部のコソボが独自にユーロを流通させるなど、独立の意志を強めている。
ソ連の崩壊
1980年代に入ると、ソ連にも限界が生じていた。エストニア・ラトビア・リトアニアのバルト三国は独立の意思を表明し、また1989年にはベルリンの壁崩壊が見られた。くわえて1990年3月から7月の東欧諸国の選挙が行われたが、ほとんどの国で共産党が第一党から脱落した始末。
1991年12月8日、ソ連内部にてクーデターが起こり、それがバルト三国の独立を促した。またウクライナとベラルーシはソ連から独立することで同意、12月25日にソ連が完全消滅した。
ソ連の崩壊後、東欧諸国は次々と資本主義国となっていくが、この東欧の歴史や遺産あるいは遺恨は、現代へ密接に影響し、現在の世界情勢を形成していくこととなる。
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関連項目
- 東欧
- 東ローマ帝国
- 正教会
- キエフ大公国
- モンゴル帝国
- オスマン帝国
- ポーランド王国 / ポーランド
- モスクワ大公国
- スカンデルベグ
- ロシア帝国
- ユーゴスラビア
- ソ連
- ソ連崩壊
- 社会主義
- 歴史
- 世界史
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