鎧(よろい)とは、敵の攻撃から身を守るために着る防具である。
ホラー漫画などでは、古びた洋館で夜中に動いたりする。
古代ギリシア時代の初期、ギリシアの兵士は10円玉の素材でおなじみ青銅でできた鎧を着ていた。頭のてっぺんからつま先まで全身青銅でかためていたのである。
しかし歩兵の彼らにとってその重すぎる鎧は不便なものであった。そこで、革やリネン(麻)でできた鎧が発明されていった。
古代ギリシアにおいて防具は全部実費で揃えるものだったため、最初は防具なんて高価なものを使う兵士と言ったら貴族の職業だった。しかし防具がだんだん安価になっていったため平民出身兵士がぞくぞくと活躍し、戦闘で活躍した平民が貴族と政治面での対等な発言権を求めたために古代ギリシアは貴族の政治から民主主義になっていった…というのはまた別の話。
時代は流れて中世ヨーロッパ、中世初期の鎧は動物の革に鉄製の輪っかを縫い込んだ重量15~20kgの「チェイン・アーマー」が主流だった。その後鎧の軽量化大作戦が始まり、その中で14世紀あたりに全身を覆い隠す甲冑が使われ始めた。夜の洋館で突然動きだすアレである。甲冑は時代を追うとだんだん「身分証明」みたいな形式的なものになり、第一線で活躍する兵士よりは指揮官や貴族に着られるようになっていく。
しかし銃の登場により甲冑の立場は一変。どう足掻いても重い・(装甲が)薄い・動きにくいの三拍子の一つが必ずくっ付いてくる甲冑は機敏さを要求される戦場からの撤退を余儀なくされる。
かつて武勇をふるったオスマントルコも甲冑とは行かずとも同じようなつくりの鎧を着ていたため、銃が登場するまでは強かった。
だって銃撃に耐えられるくらい装甲を厚くすれば重すぎてその場から動く事が出来なくなるし、動きやすく軽いものにすれば装甲が薄くなって一発で銃弾が貫通するんだから仕方ないね。
そんなわけで16世紀あたりで全身を包む甲冑とそのユーザーである騎士はセットで衰退していった。それに代わるように槍や火器で戦う歩兵の時代が訪れ、その後17世紀中盤には兜に胸あてのみの兵士が火器を持って戦場を駆け回る事になる。
中国では神代から防具開発を行っており、多くの国や民族を取り込んで来たという歴史的な理由からバリエーションに富む。
昔から戦争と平和が短いサイクルで回っていた中国では、戦のたびにより強い鎧が考案されていった。
初期の鎧は牛皮が主流で、高級品としてサイの革も使われていた。
その後春秋・戦国時代には青銅や鉄でできた鎧が開発されているが、やはり革の鎧は根強い人気を誇っていた。ちなみに西方ではラクダの革、海岸付近ではサメの革、南方ではゾウの革など地域の特色が出ているものもある。
中国の鎧は西洋のように「鋳造で1枚の鉄板から作る式」ではなく「カードの様な形に切った革や鉄板を貼り合わせる式」をとっていた。その接合には主に革ひもを使用するが、それだと戦闘中に切られてしまうので、その後柔軟性が不要な部分については鉄のくぎでの接合がされるようになった。
金属製の鎧については最初こそ青銅オンリーで作られていたが、紀元前5世紀あたりには全て鉄製へ移行された。指導者等の権力者については権力誇示の為に金の鎧を着ていた。
10世紀、宋の時代になると中国版甲冑の様な全身鎧「歩人甲」(ほじんこう)の重装歩兵と馬に鎧を着せた重装騎兵がぶつかりあうようになった。
が、16世紀末、明末期から清初期になると火器が登場。上の西洋の項にあるような理由で重装は衰退、軽装での銃火器合戦が主流になった。
中国ではかなり早くから鎧に漆を塗る事が行われていた。漆を塗ると雨などにさらされても防水作用で腐食しにくくなり、強度も増すことを中国人は早くから知っていたようだ。
極東の島国は、鎧においても独自の進化を遂げていった。
日本で一番古い鎧とされるのは弥生時代の遺跡から発掘された「短甲」(たんこう)。革や木製である。このころの攻撃は革や木で対応できる程度の衝撃であったという。
4世紀になると大陸との交流が活発になり鎧も進化を遂げる。朝鮮半島経由で伝わった騎兵用鎧「挂甲」(けいこう)などがそれである。挂甲はカード状の素材をつなぎ合わせたチャイニーズスタイルアーマーである。日本人は短甲からそれらに鞍替えしたわけだが、しかしそれらはまだ大陸からの直輸入品に過ぎなかった。
時代が流れ「律令政治」の時代になると、鎧など武具は正倉院で厳重管理されることになった。正倉院には本格的軍事用として短甲が収められている。ここでも挂甲は宮廷警備員などに使われている。
「続日本書紀」によると、このあたりで材料が不足したため綿甲冑という綿製の甲冑が生まれている。そんな理由があったりしたので780年にはお上から「鎧はみんな革製にしなさい!」との命令が下る。
平安・鎌倉時代になると台頭してきた武士たちが使ったのが古き良き短甲・挂甲…じゃなくて「そんな古臭いの使えねえよ」と自分たちで新しい鎧を創作した。
それが「胴丸」(どうまる)と「大鎧」(おおよろい)である。もっぱら革製であったが(胴体及び左半身や頭部は鋼片で補強してある)刀剣や薙刀は勿論のこと、特に時代劇とは違い矢に強くよほどの強弓を除けば十分な防御性能があった。また源氏や平氏をはじめとする有力武士たちが貴族文化をまねて大鎧に装飾を行ったという。
ちなみに胴丸はかつて「腹巻」(はらまき)と呼ばれていたが、今では右引き合わせ方式のものを胴丸、背面引き合わせ方式のものを腹巻というように区別がなされている。
その後大鎧と胴丸のハーフ、胴丸鎧が発明されたがこれについては絵巻物にちょろっと描かれている程度で特に記録がない。
鎌倉時代末期には小学校の歴史の教科書でもおなじみの元寇があった。そしてそれに続くように起きた南北朝の乱。これらが鎧に大きな変化を与えたといわれているが定かではない。まあこの頃から鎧が変化し始めたのは確かである。
この頃から城郭の熾烈なる攻防や戦闘の大規模化の関係で身分の高い者も馬より徒歩にならざるを得なくなり、戦法も訓練に時間がかかる弓矢より薙刀大太刀や金棒などを使い力で押す戦法が採られるようになってきた。
つまり、鎧は一層の防御力を必要としていた。対弓箭用、騎乗用の大鎧は廃れ始め、代わりに徒歩戦に向いた下級武士の鎧、胴丸が脚光を浴びてきた。弓矢では大鎧の隙間は気にならなかったもののこの時代になると白兵戦の比率が増えそれらの隙間を狙われることが多くなり隙間を埋める防具(小具足)が充実していく。
室町時代になると胴丸や腹巻の需要がさらに増え、それらの職人の地位は向上。鍛冶師自身の名前を鎧に刻み広く流通させるなんて事があった。
16世紀半ば、南蛮から鉄砲が伝わったりあの有名な3人の武将が活躍し始めると、胴丸の様式を用いてさらに防御力を高めた「当世具足」(とうせいぐそく)という甲冑史上最高という鎧が生まれた。これはとにかくパーツが多かったり地域によってデザインが違ったりするのが特徴。
これに少し遅れて、西洋から「南蛮胴」(なんばんどう)なるものが輸入されてきた…が、西洋人向け商品の直輸入物だったため日本人の体形には合っていなかった。しばらくするとメイドインジャパンの南蛮胴、「和製南蛮胴」が開発された。胸がグラマラス盛り上がったつくりの為「鳩胸胴」(はとむねどう)とも。
江戸時代中期にもなると、同時代で世界トップレベルの平和を誇る都市だけあって鎧の出番は非常に少なくなっていった。そしてそのまま幕末まで行くと、もう防具は完全西洋仕様になっていた。つまり甲冑はもう用済みになったわけである。この頃から甲冑は美術・観賞用になった。
上述の通り、銃器の台頭と機動戦の発達により、鉄板等で身体を多い尽くす鎧は衰退し、繊維を高い密度で織り込む事で弾丸を絡げ取めるような構造とし、形は胴部を集中して防護するチョッキ状にした、いわゆる「ボディーアーマー」タイプの物に鉄帽がスタンダードとなっていった。
これらは高性能の物でも、有効射程距離からの9mmパラベラム弾や.45ACP弾等の強装拳銃弾で貫かれてしまい、小銃弾や至近距離の砲弾の破片等はほぼ考慮していない物だったが、あるかないかでは死傷率にかなりの差があったようである。
そして、1970年代に米国の化学企業「デュポン社」が高強度のポリマー繊維「ケブラー」(タイヤや光ファイバー、アスベストの代用品としても使われている)を開発すると、強装の拳銃弾にも対応が可能となり、80年代以降はセラミックやチタンの軽量高性能防弾プレートも開発され、高性能の物では30口径クラスの小銃弾を止める事も可能となった。
なお、ここでの「対応」「止める」とはあくまで「人体への弾丸の侵入を防ぎ、各規格の定めるレベルまで衝撃を緩和する」事であり、その威力を「無効化」する事は(アーマーに対し極めて低威力の弾丸や遠距離で威力の落ちた弾丸を受けたような場合以外は)不可能で、着弾の衝撃はアーマーやプレートを貫き、文字通り人体を殴りつける。
この衝撃は内臓破裂や骨折を引き起こすのに十分なものであり、戦闘力の維持はもちろん、生命の保証もされるわけではない。特に創作作品でたまにある、衣服の下に違和感無くベストを着込み「カスが効かねぇんだよ(無敵)」と言うような展開はほぼ無理である。
また、着弾の際に繊維系のアーマーは解け、プレートは割れてしまい急激にその性能を落としていく為、多数発の被弾では生存率の向上も期待できなくなってしまう。
そして、機動性確保の都合上、腕や脚を守る事は難しい。腕や脚に臓器は無いが、動脈に被弾すれば出血性ショックにより短時間で死亡する事もありうるし、7.62mmNATO弾クラスの弾薬なら人間の手足をもぐ程の威力がある。そこまで保護した強固なアーマーも無くはないが、当然その分機動性は損なわれるので被弾率は上昇してしまう。
結論として、今も昔も「銃弾に当たったら(戦力として)終わり」ではあるが、生存率の面から見れば格段に向上していると言える。
その他にも治安対策向けの防刃チョッキ、爆弾テロ等に使用される対爆スーツ、剣道具なんかも「敵の攻撃から身を守る」事のできる立派な鎧と言える。
鎧というより装備システムだが、自衛隊が研究中の「先進個人装備システム(いわゆる自衛隊ガンダム)」等、アーマーに情報ネットワークを組み込んだ装備システムがかなり実用に近いレベルまで研究されている。
これは前線の各兵士、隊員の情報をカメラ、バイタルセンサー、GPS等によって司令部が管理し、指令を行い、前線ではその情報をヘルメットにマウントされたヘッドマウントディスプレイにより受信するというシステムである。
要はFPSのHUD、つまり「敵の装甲車を発見!→マップにその位置を表示→了解!」が現実になると言っても過言ではない。
現在のネックとしてその重量、バッテリーの稼働時間があり、その解決には更なる研究が必要とされている。
近未来、光学迷彩が当たり前になる時代が来るかもしれない。
光学迷彩とは物体を目で見えないようカモフラージュしたり透明化させる技術。現在マサチューセッツ工科大学や東京大学などで研究が進められており、例えばプロジェクターを使って白い衣類に背後の風景を映し出したりするもの等が研究されている。
また「パワードスーツ」というメトロイドチックなものも開発が進められている。これは名前の通り着ればまるで首を新調した直後のアンパンのように元気(筋力)百倍になる代物で、米軍には軍用の外骨格強化型パワードスーツが既にあるという。また、日本の茨城にはHAL(Hybrid Assistive Limb)という学校教材に載るほど有名なロボットスーツの量産体制が整っているという。
…前者は鎧の項で紹介するには強度不足な感が否めなくもないが。
ゲームでは前項で紹介した現実、または近未来に登場するであろう鎧のほかに普通の服や架空の素材から成る鎧も鎧の機能を果たしている作品が少なくない。ドラゴンクエストの布の服なんかがいい例である。そして強度はともかくゾンビに接触した程度の衝撃で壊れる魔界村の鎧も鎧である。
…ここをご覧になっている皆様におきましては絶対に現実世界でビキニアーマーやバニーガールコスチューム、ステテコ一丁なんかで敵と戦おうとしないでいただきますよう。
名前の通り「藤でできた鎧」。軽いし錆びないし通気性も抜群だが100%植物生まれのため当然焼けば燃える。三国志演義にも登場しているが焼かれている。
紙と布でできた鎧。17世紀まで中国で使われていた。発明当時は見た目の美しさも鎧に求められていたため、無骨な金属製よりもそのような要求にも応えられる造りであった。
古代ギリシアで使われていた鎧。亜麻(革とも言われる)で作られており、つくりは腰のあたりについたひもを後ろで結び、さらに肩についた帯をわきの前で止める…つまりエプロン。
馬に着せる鎧。日本には4世紀末から5世紀にかけて乗馬技術とともに大陸から輸入された。当初は装飾的要素が強かったが、合戦で馬を使用するようになると馬を射殺されたことによる落馬の危険性を回避するために防具として用いられるようになった。
首・胸・肩・背・腰・尾をくまなく覆う仕様になっていて、安土桃山時代には鳥の尾羽や豹や虎の皮で装飾したバージョンも出ている。
西洋では2世紀ごろにパルティア帝国(現・イラン)から使用が開始された。西洋の場合は上に乗っている騎兵と同じ装備(チェイン・メイルやスケール・アーマーなど)を馬にさせていて、ローマの一部ではカタフラクーテス(Cathaphractes ラテン語)と呼ばれていた。それから一旦馬鎧はローマ帝国とともに滅び、15世紀に騎士たちの馬上試合での攻撃から馬を保護するために復活した。
だいたい布製。手作りなことが多く、ヒロインからもらうことがよくある。二次元でこの鎧を左胸のあたりに仕込むと高確率で生存フラグが立つ。
実際にこれで助かった事例が複数存在する[1][2][3]。その他レパートリーとしてはZippo[4][5]や懐中時計なんかがある。
※ちなみに「鎧」を意味する英語「アーマー」には「armour」と「armor」の2種類の表記がある。意味に違いは無い。「armor」とつづるのはアメリカ式だが、「armour」は英語の御本家であるイギリス式らしい。ここでは主に「armour」の方を採用している。
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最終更新:2024/12/12(木) 22:00
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