早鞆(給油艦)とは、大日本帝國海軍が建造・運用した隠戸型給油艦2番艦である。1924年5月18日竣工。終戦時中破状態で残存、イギリスに接収され、1946年に海没処分された。
概要
艦名の由来は関門海峡東部に位置する早鞆瀬戸から。早鞆瀬戸は古来より潮流の激しい場所として知られ、また平家が滅亡を迎えた壇ノ浦の戦いの舞台でもある。
隠戸型は知床型給油艦の小改良型にあたる。海軍大国イギリスより輸入した給油艦野間を参考にし、上甲板中央や艦尾甲板に給油管を受け渡しするデリック・ポストとデリック・ブームを設置、艦内には便乗者用の居住区画、補給用真水タンクが設けられた。また帝國海軍が初めて多数建造した給油艦だからか商船式の設計となっている。知床型との差異は、船体構造の改正、デリック設備の補強、円缶から宮原式水管缶に換装した程度で、基本性能や艦型に大きな違いは無い。
八八艦隊計画で激増が予想される石油需要を確保するべく、産油地から内地へ石油を輸送するのが知床型・隠戸型の主任務なのだが、平時での運用を想定している上、八八艦隊計画艦は巡航速力が14ノットなので、それに合わせて12ノット程度の出力しか与えられず、後発の民間高速タンカーや洲崎型給油艦などと比較すると、どうしても性能が見劣りしてしまう。
それでも開戦時、帝國海軍は自前の給油艦をたったの9隻しか保有していなかったため、旧式なのを承知で強引に使わざるを得なかった。故に最前線への投入は殆どなく、主に東南アジアなどの後方拠点間で輸送任務に励む。
余談だが、早鞆の漢字が読めない人が多かったのか、戦時日誌の表紙にはわざわざ振り仮名が振られている。
要目は排水量6988トン、全長143.48m、全幅17.68m、出力5524馬力、最大速力15.5ノット、石油搭載量8000トン、石炭搭載量1350トン、乗員157名。兵装は50口径14cm単装砲2基と40口径8cm単装高角砲2基のみ。
艦歴
開戦前
八八艦隊計画により1921年に呉海軍工廠へ発注。1922年1月21日、給油艦1隻建造の訓令が出され、2月4日に特務艦早鞆と命名される。そして3月14日呉工廠で起工、12月4日に進水するが、ワシントン海軍軍縮条約の発効に伴って廃艦作業が発生、人手不足により建造工事が遅延してしまう。また軍縮条約で廃艦となった巡洋戦艦伊吹から機関を流用。
1924年4月26日より5月17日まで広島湾で公試運転を実施。起工から2年以上の月日をかけて5月18日にようやく竣工を果たし、佐世保鎮守府に編入。建造費は316万7279円であった。
知床型と隠戸型の任務は北アメリカ方面と内地を往来して石油を輸送する事だった。当時アメリカは世界最大の産油国で、日本は輸入量のうち81.1%をアメリカに頼っていたのだ。このため相手国を無駄に刺激しないよう武装は全て取り外しているが、極秘ながら諜報任務も帯びており、給油艦に不釣り合いな一流の艦長や傍受電信員、時には軍令部の情報担当部員まで配置して、アメリカの内懐を探ろうとした事も。
1924年5月29日、最初の石油輸送に従事すべく佐世保を出港。原速12ノットでサンフランシスコへと向かう。ところが6月11日21時45分、主機械が破損して佐世保へ引き返すという、いかにも幸先の悪いスタートを切ってしまう。6月19日になってようやくサンフランシスコまで辿り着いた。
11月7日から1925年1月31日まで主機械低圧気筒後面柱の艦内修理工事に従事。2月26日、日露条約批准交換によって日露は国交を回復。燃料不足に悩み続ける帝國海軍は、関係改善を機に、北樺太東北端オハの油田から重油を輸送する事とし、新年度の重油輸送計画で早鞆と神威を新たにオハ行き航路へ加える事とした。4月16日、サンフランシスコ出港の際に桟橋のボラードを破壊してしまい損害賠償として85ドルを支払う。
1926年11月29日、類別等級制定によって種別:特務艦、類別:運送艦、艦型:隠戸型給油艦に定められた。
1928年2月4日、佐世保に向かうべく徳山を出港。自らの艦名の由来となった早鞆瀬戸の潮流が最も弱まる時間帯を狙い、防水扉及び防水蓋を閉めた上で総員を狭水道通過配置に就かせ、艦長自ら操艦して同日22時に関門海峡入口の部埼に到達、原速力10ノットを以って早鞆瀬戸の突破を試みる。45分後、無事に難所の突破に成功して田ノ首南方に抜けた。
だがその直後、北西約2000m先の航路付近に大型帆船1隻がいるのを確認、早鞆とその帆船は同航だが、針路の違いで徐々に左舷艦首へと近づきつつあり、このままでは衝突すると判断した早鞆は23時23分に機械を停止、何とか帆船をかわそうとしたが、2分後、大山鼻灯台北方の浅瀬に乗り上げてしまう。自力離礁しようと後進全速をかけるも船体はピクリともしなかった。やむなく23時57分に機械停止。艦内各部の検査を行ったところ、幸運にも大きな損傷は見受けられなかった。翌朝の高潮に合わせて離礁する事にし、今晩の脱出は断念、ひとまず艦尾東方へ錨を降ろして夜を明かす。
2月5日午前4時40分、東京サルベージ会社の曳船那須丸が到着。午前8時3分より曳航作業を開始するも、潮流により早鞆の艦尾が右に振れ、那須丸の曳索が切断、しかしこの艦尾旋回を利用して午前8時40分に自力離礁、大山鼻灯台沖700mの地点で仮泊した。佐世保入港後の詳査では艦底に竹ぼうきで掃いたような痕跡が見つかった程度で特に異常は無かったという。この件について2月8日に査問会が開かれている。
3月31日、大阪朝日新聞は、早鞆の横田春平機関特務中尉が苦心三年の研究を経て、油水分離装置を完成させたと報じる。これにより、今までは捨てるしかなく、環境汚染にも繋がっていた艦底の油もしっかり回収出来るようになり、岡田海軍大臣は彼に賞金を贈って功績を表彰するとともに、分離装置を各艦に配備するとした。12月9日より佐世保工廠に入渠して石炭庫防熱装置の新設工事を行う。
外国からの石油輸送任務に従事していた給油艦は早鞆を含めて僅か10隻足らず。1924年10月30日就役の鳴戸以来、1隻も増えていなかったのだ。加えて艦隊演習、特別任務、修理、内地間輸送などの別任務もあり、常に石油輸送出来る状態ではなかった。無論海軍としても給油艦不足を認識し、以前より年度計画で給油艦の増産を考えていたが、艦艇増強の理由から議会の協賛を得られず計画が廃案続きとなって、給油艦を増やせずにいた。結局隠戸型の後輩は1939年のマル四計画まで待たなければならなかった。
極東アジアに暗雲が立ち込めつつあった1937年2月4日、「種子島田ノ脇鼻付近で座礁した宝洋丸から重油約3500トンを回収して徳山に輸送せよ」との命令が早鞆に下る。2月6日、佐世保軍需部より投射銃1基と附属具一式、木製防舷物、重油舵管20本と浮標10組を借り受け、翌7日13時に佐世保を出発、2月8日午後12時30分、種子島へ到着して田ノ脇鼻南方に投錨し、宝洋丸の救難作業を開始。現場では既に第二鷹取丸と祐捷丸がいて宝洋丸の救難は彼らとの共同作業となる。ところが悪天候に阻まれて作業は難航、一時志布志湾への退避を強いられる。また悪天候がもたらす時化は宝洋丸の状態をも悪化させた。
万策が尽きた2月14日21時、早鞆は重油の回収を諦めて徳山に引き返す決断を下すも、佐世保鎮守府長官から「宝洋丸の状態が確定するまで漂泊を続けよ」との指示を受け、引き続き僚船と絶望的な救難作業を続行。2月19日、危険を冒して快速丸が宝洋丸に横付けして重油1030トンを移載、次に早鞆の右舷側へ横付けして重油を移した。回収出来たのはこの1030トンだけだった。
5月12日、早鞆は佐世保を出港、載油のためタラカン及びマニラ方面に向かう。マニラには、1918年に発生したスペイン風邪のパンデミックで亡くなった軍艦矢矧の乗組員48名が、郊外の英国墓地サンピドロ・マガチに分骨埋葬され慰霊碑も建立されていたが、都市計画の変更で段階的にマニラ南墓地へ移転させる事になり、墓守を務める現地の日本人会は入港した早鞆の水井静治艦長に、計画を説明するとともに移転費用補助の要望を海軍省へ伝言するよう依頼した。翌年、海軍省の補助を得て慰霊碑はバレンズエラ市の日本人墓地に移された。
日華事変勃発後
1937年7月7日に盧溝橋事件が勃発。中華民国内の治安が劇的に悪化し始めた。これを受けて7月29日14時、第2艦隊は早鞆に「佐世保にありて重油を満載し、その他必要なる作戦準備を整うべし」と指示、北支作戦に備えて佐世保で待機する。
次いで8月13日に第二次上海事変が勃発、日華は宣戦布告無き武力衝突に突入した。ドイツ製最新鋭武器を持つ中国国民党軍3万を前に、苦戦を強いられる上海陸戦隊4000名を支援すべく、内地所在の艦艇は直ちに出撃して艦砲射撃及び増援輸送に従事。8月20日から27日まで、10月29日から11月6日まで早鞆は中支方面で補給任務に従事する。
1938年1月3日からは馬公を拠点に南支方面で活動。しかし平時から戦時へ移行した事で燃料消費量が増大、加えて、アメリカとの関係悪化でいつまで石油を輸入出来るか分からなくなり、少しでも石油備蓄量を増やすべく3月10日に佐世保を出港、北アメリカ方面へ向かった。
1940年1月5日、海軍省配属の在務特務艦となる。年内はタラカン、マニラ、オハ、北アメリカと内地をひたすら往復して燃料を運び続けた。12月11日午後、サンフランシスコを出港した早鞆は同日夜に給油艦石廊と遭遇し、信号による挨拶を交わしていると、目下演習中のアメリカ海軍艦艇に発見され、「何をしているか、船名を知らせ」と問いかけてきたので、石廊艦長の猪口敏平大佐が「お前は何だ」と返信、するとアメリカ艦艇が何も答えず姿を消してしまったというエピソードがある。
知床型と隠戸型は開戦までに合計388航海を行い、概算石油輸送量は約300万トンに到達。開戦時の帝國海軍の石油備蓄量は約600万トンなので実に半分を両級の給油艦が輸送した事になる。
1941年8月21日に徳山を出港、オハで燃料を積載して9月9日に徳山へ帰投。これが早鞆にとって最後の平時運航となった。10月31日付で早鞆は高橋伊望中将率いる第3艦隊附属となる。次いで11月5日、ルソン島南東端レガスピーの攻略を目指す比島部隊第4急襲隊へ編入され、久保九次少将の指揮下に入る。比島部隊には早鞆、玄洋丸、第二図南丸の給油艦3隻が配備。早鞆が最も小柄であった。
11月28日、早鞆、神龍丸、山福丸は第1設営隊を乗せて佐世保を出港、12月5日、前進基地のパラオへ進出して開戦の時を待つ。早鞆は第2護衛隊に部署し、いくしま丸、妙見丸、蒼鷹、哨戒艇2隻、漁船5隻をまとめる指揮艦を務める。レガスピーは比島東岸の物資集散、海上交通の中心地で、また首都マニラとの間には鉄道が通じる軍事的要衝であり、開戦前から陸海軍に着目されていた。したがってフィリピン攻略作戦全体で見てもレガスピーの攻略は極めて重要な意味を持つ。
大東亜戦争
1941年
大東亜戦争開戦日の1941年12月8日午前8時、第4急襲隊、輸送船団、敷設隊、第11航空戦隊はパラオを出撃。
12月11日午前4時に早鞆が敵潜水艦を発見、蒼鷹と第34号哨戒艇が爆雷攻撃を加えたものの効果は不明であった。同日中に第4急襲隊所属の駆逐艦は早鞆から燃料補給を受ける。翌12日午前2時45分、第1梯団より出発した攻略部隊がビガ海岸への上陸を開始、第2梯団は午前10時40分から攻略部隊の上陸を開始、現地を守備する米比軍は既に退却していたらしく、抵抗と言えば敵重爆や戦闘機による船舶への攻撃があった程度である。12月14日午前9時、泊地上空に敵重爆2機が出現、早鞆は至近弾を受けて軽微な損傷を負う。
12月16日午前10時47分、レガスピー灯台北東3500mで停泊中の第35号哨戒艇の舳先と早鞆の右舷後甲板が接触、幸い双方とも軽微な損傷で済む。同日午後に早鞆は第35号哨戒艇に糧食を補給した。12月19日18時、レガスピーの攻略完了に伴い、早鞆は蒼鷹、いくしま丸、第21掃海隊第1小隊を率いて泊地を出発、ラモン湾上陸船団を護衛するため北上を開始する。
12月22日早朝、ラモン湾に向かう上陸船団と合流を果たした。そして12月24日午前1時30分に歩兵一個大隊がマウバンに、午前2時30分に歩兵第20連隊第1大隊がシャインに、その10分後に第16師団主力がアチモナン東方海岸に上陸。各上陸部隊は米比軍の激しい抵抗を受けたもののこれを排除して進撃。午前8時にはカバレット島とアラバット島の無線電信所を占領した。14時頃、米戦闘機十数機が泊地に来襲、護衛艦艇に反復銃撃を加えてきたが、幸い早鞆に被害は無かった。攻略作戦が順調に進んだので、12月28日に早鞆はラモンを出発して内地へと向かう。
12月29日、蘭印部隊東方攻略部隊附属部隊への異動を命じられ、セレベス東岸の攻略作戦に対する補給を下令される。
1942年
1942年1月16日、佐世保に帰投。工廠で修理を受けるとともに小防雷具及び展開器格納架台投入揚収装置を装備した。出撃準備を整えた早鞆は1月27日に佐世保を発ち、2月2日、占領したばかりのミンダナオ島ダバオへ移動、次いで2月7日に特設砲艦2隻の護衛を受けてダバオを出発、2月9日ホロ島南岸のパタ泊地へ進出する。2月12日、軽巡那珂と第2駆逐隊に燃料補給を実施。
2月19日18時、ス作戦輸送部隊に加わってパタ泊地を出撃。東ジャワ攻略船団と合流してオランダ軍の本丸・ジャワ島を目指すが、2月22日午前7時30分にス作戦輸送部隊より離脱、翌23日午前11時、バリクパパンに入港して軽巡那珂、駆逐艦海風、朝雲、峯雲、夏雲、急設網艦若鷹、掃海艇に補給を実施、伊21には真水とL1燃料油を補給した。補給完了後、蒼鷹や特設運送船興安丸、淀川丸の護衛を伴って2月24日午前7時17分出発、翌25日マカッサルへ到着し、姉妹艦鳴戸とともに第2水雷戦隊へ補給を実施する。
3月10日発令の戦時編制で第2南遣艦隊所属給油艦となる。第2南遣艦隊は占領した蘭印方面の治安維持が主任務である。
去る3月5日、大本営は連合艦隊司令部に対し、ニューギニア方面に残留するオランダ軍の掃討と要地占領を下令、3月11日より準備を始め、3月15日に西部ニューギニア戡定作戦(N作戦)を遂行するN攻略部隊が編制された。これを受けて早鞆は水雷艇友鶴の護衛を受けて3月20日ダバオを出発、3月24日にN攻略部隊の集結地となっているモルッカ諸島アンボンへ回航した。現地で第1号哨戒艇に補給を施す。
3月29日夜にN攻略部隊はアンボンを出撃し、連合軍の微弱な抵抗を排してブラ、ファクファク、バボ、ソロンを次々に攻略していく。作戦の進展に伴って4月4日に早鞆もハルマヘラ島ガネ湾に進出。そこで第1号哨戒艇に燃料を、特設砲艦大興丸には石炭を補給した。4月12日には占領したばかりのマクノワリへ進出。N攻略部隊は更にモミ、セルイ、ナビレ、サルミ、ホーランジアを占領。これを以ってN作戦は無事完了。4月23日に攻略部隊の編制は解かれた。補給任務を終えた早鞆は同日中にマクノワリを出発、5月5日にマカッサルへ到着し、小スンダ列島戡定作戦に参加したS作戦部隊に補給を行う。
6月6日、特設駆潜艇第二昭南丸の護衛を受け、特設砲艦億洋丸とともにマカッサルを出港、6月8日午前5時にケンダリーまで移動した。
8月21日にケンダリーを出発、アンボンへと向かう。しかし8月23日、アンボン港外南西にて、ティモール島北西海岸の調査や写真撮影を行っていた米潜水艦スキップジャックに発見・雷撃され、小破させられるも、何とかアンボンまで逃げ込んで難を逃れる。8月25日発令の戦時編制で早鞆は連合艦隊所属給油艦に指定。8月29日、特設運送船西安丸に曳航されてアンボンを出発、8月31日、スターリング湾に到着して応急修理を受ける。
10月21日、本格的な修理を受けるべくスターリング湾を出発。マカッサルを経由してシンガポールに向かった。11月1日午前10時30分、早鞆の回航を援護しようと特設砲艦長沙丸がシンガポールを出発、早鞆と合流したのち護衛を行い、11月5日17時15分に2隻はセレター軍港に到着、そして11月24日より第101工作部で入渠修理を開始する。
12月26日に撮影された写真によると船体に特殊な迷彩が施されているのが分かる。
1943年
1943年8月17日、最後の艦長となる長谷部喜蔵大佐が着任。
早鞆が入渠している間に戦局は著しく悪化。9月8日にイタリアが降伏して枢軸陣営より脱落、加えて南東方面では連合軍の猛攻を防ぎ切れず、ラバウルが次第に孤立化、同時にダンピール海峡方面も失陥が現実味を帯び、インド洋においてはイギリス東洋艦隊が息を吹き返しつつあった。
9月12日シンガポールを出港。戦線復帰した早鞆は東南アジア方面で燃料輸送任務に臨む。
9月24日に河川砲艦唐津とバリクパパンを出港、航行中の9月27日、トラックからパラオに向かっている第7272船団と合流し、駆逐艦朝凪の護衛を受ける。翌28日、早鞆を護衛していた唐津は九七式艦攻とともにパナイ島近海で米潜シスコを撃沈する戦果を挙げた。道中何事も無く10月1日14時25分に船団とパラオへ入港。
10月8日午前9時8分、哨戒中の米潜水艦キングフィッシュは、水平線上より立ち昇る煙を発見して西方への移動を開始、午後12時10分、駆逐艦朝凪に護衛されている早鞆を発見し、ヴァーノン・L・ローランス艦長は「日本丸型」と推定、南下する早鞆を一晩中追跡し続けた。翌9日午前5時20分、スールー海サバ州ラビアン岬沖にて、距離約1240mから魚雷4本を発射、うち1本が早鞆の機関室に命中して航行不能に陥ってしまう。護衛を務める朝凪は素早く反応して周囲を必死に探し始めた。キングフィッシュは距離を取りつつ潜航して息を潜める。
手負いの早鞆にトドメを刺そうとキングフィッシュは潜望鏡深度にまで浮上。ローレンス艦長が潜望鏡を覗いてみると、早鞆が「船尾より沈没している様子」を確認、トドメを刺すまでもなく沈没するだろうと考えた彼は海域から離脱した。しかしこの判断は誤っていた。浸水こそ激しかったが早鞆は沈まなかったのである。22時31分、確認のためキングフィッシュがラビアン岬南方約10海里を訪れるも、その時には既に早鞆は去っており、姿が見えないという事でローレンス艦長は沈没を確信したという。一方の早鞆はマカッサルより緊急出動してきたタグボートによって、10月12日にタラカンまで曳航。現地で応急修理を受ける。
12月17日、官房艦機密第6258号により運送艦迷彩塗装の訓令が下る。続いて12月30日に軽巡鬼怒の曳航でタラカンを出発。
1944年
1944年1月8日シンガポールに入港。第101工作部へ入渠して修理を受けるも、キングフィッシュの雷撃で破壊された機関が完全には直らず、3月11日に修理中止、戦闘航海に支障が出ると判断されたため、以降は石油輸送任務より外されて、連合艦隊の諸艦艇に対する補給活動に専念。
3月12日、曳航されてシンガポールを出発、3月14日に南方100海里のリンガ泊地へ到着して連合艦隊の浮き石油貯蔵庫となる。同時に早鞆艦長の長谷部喜蔵大佐が宇垣纏中将の下へ表敬訪問した。3月25日にはシンガポールの第3艦隊司令部が駆逐艦に便乗してリンガへ進出、空母翔鶴に将旗を掲げ、就役したばかりの装甲空母大鳳が4月5日、修理改装を終えた戦艦大和が5月1日がリンガに到着。続々と戦力が集まりつつあった。5月16日、小沢治三郎中将率いる第1機動艦隊は、より決戦海域に近いタウイタウイ泊地へ移動すべくリンガを出発、主力艦艇を出払った事で5月31日、救難船兼曳船来島丸に曳航される形でリンガを発ち、6月1日シンガポールに移動して第101工作部で修理を受ける。
後に生起したマリアナ沖海戦は虎の子の大型空母3隻と航空機300機以上を失う大敗に終わり、小沢機動部隊は一度内地まで後退。だが、内地の燃料事情は訓練用すら事欠くほど逼迫していたため、半ば追い立てられる形で、7月8日、第2艦隊の主力がリンガへ向けて出発、再びリンガに艦艇が集結するようになり、早鞆は再び来島丸の曳航で、7月12日リンガへと舞い戻る。別行動中の艦艇も8月中に合流した。
東南アジアの各産油地より産出された燃料はシンガポールに集積され、次にシンガポールからリンガへ移送、ここで早鞆が燃料タンクの役割を果たす事で、リンガ泊地は燃料が十分に供給出来る数少ない拠点となっていたのだ。
リンガでは連合艦隊が言語を絶する猛特訓を繰り返していた。赤道に近い真夏の太陽はリンガ湾の海水を湯のように温め、周辺の砂浜は人間の歩行を阻むほどの熱を帯びる。艦隊は甲軍と乙軍の二手に分かれ、戦艦大和率いる甲軍は、リンガ湾内で待機する戦艦武蔵率いる乙軍に夜半殴り込みをかける、という想定で戦闘演習を実施。これはアメリカ軍に夜襲を仕掛ける基本戦略に基づく訓練だが、リンガでは日中の訓練が不可能なほど炎熱の世界だった事も影響している。
8月29日からは長谷部艦長が駆逐艦天津風の艦長を兼任。天津風はレッドフィンの雷撃で艦前部喪失の大損害を受け、サイゴンで応急修理を受けている最中であった。このため長谷部大佐が天津風に乗艦した事は一度も無かったりする。10月1日に特設運送船北上丸より生糧品を補給。
10月17日夜、アメリカ軍のレイテ湾口スルアン島上陸に伴い、いよいよ捷一号作戦が発令。それから間もない翌18日午前1時に連合艦隊はリンガを出撃していった。空っぽの泊地内に取り残された早鞆は10月23日にセレター軍港へ帰投。間もなく発生したレイテ沖海戦により連合艦隊は殆ど壊滅、生き残った戦艦は更なる損傷を避けるべく内地に後退する事となり、リンガでの補給任務を失ったため実質半退役。以降はシンガポールで浮きタンクとして使用される。
後方拠点だったシンガポールにも連合軍の魔手が伸び、11月5日午前6時44分、インドのカルカッタから出撃してきた53機のB-29がシンガポールを爆撃、早鞆には被害が出なかったものの、運送艦能登呂が大破着底、キングジョージ六世ドックが3ヶ月間使用不能になった。
1945年
1945年2月1日の軍隊区分で南西部隊附属西方部隊附属補給部隊に所属。同日午前10時33分より午後12時8分まで空襲警報が発令され、第20爆撃航空団所属の96機のB-29がセレター地区を狙って爆撃、入渠中の給油艦知床が浮きドックごと撃沈されている。早鞆は船体及び人員に被害無し。
爆撃は無くとも毎日のようにB-29が偵察に現れ、そのたびに警戒警報ないし空襲警報が発令。その中で2月15日まで二号缶、25日から26日まで三号缶の開放検査を行って内部清掃。専門性の高い定期切開試験は第101工作部に依頼した。2月10日、後任の森田友幸大尉が着任した事で、長谷部艦長は兼任中の天津風艦長から外される。2月28日には十数機のB-29が主要水道に磁気機雷を敷設。
4月1日には第4予備特務艦となる。今やシンガポールは内地との連絡を断たれ完全に孤立。航空燃料回収のため伊351が来訪したのを除けば、内地から来る艦船は絶無に等しかった。
7月15日より長谷部艦長は特設運送船愛天丸の船長に転任。孤立中のシンガポールから日本本土にガソリンを輸送するべく、大迂回して内地を目指す遠大な航海に臨むはずだったが、出港直前になって長谷部大佐が発病したので、早鞆艦長に留め置かれ、代わりに副官の久原正彦大尉が船長となった。
そして8月15日の終戦を中破状態で迎える。知床型・隠戸型で唯一生き残った艦となった。船体は進駐してきたイギリス軍に接収され、浮体式バルク貯蔵タンクとして再利用(異説では使用されなかったとも)、1946年に海没処分となり1947年5月3日除籍。
早鞆の名を引き継いだ艦に海上自衛隊のはやとも級掃海母艦1番艦はやともがある。前身は戦時中にアメリカ軍が就役させたLST511級戦車揚陸艦ハミルトン・カウンティ。1960年6月30日から1971年11月16日まで、第1掃海隊群の旗艦を務めた。1972年3月31日除籍。また海上保安庁にもはやともの名を冠した測量船が在籍していた。
関連項目
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