累進課税(progressive tax)とは、税額を算出する上で基礎となる課税対象が増えるほど、より高い税率を課する課税方式のことをいう。
2020年現在の日本において、所得税、相続税、贈与税に採用されている。
所得税の累進課税 最低税率5%、最高税率45%の7段階。
相続税の累進課税 最低税率10%、最高税率55%の8段階。
贈与税の累進課税 最低税率10%、最高税率55%の8段階。
超過累進課税
単純累進課税と超過累進課税の比較
累進課税には単純累進課税と超過累進課税の2種類があり、2020年現在の日本においては超過累進課税が採用されている。
単純累進課税とは、課税標準が一定額を超えた場合に、その全体に対して、高い税率を適用するものである。
一方で超過累進課税は、課税標準が一定額を超えた場合に、その超えた金額に対してのみ、高い税率を適用するものである。
単純累進課税は、税率のちょうど境目の所得がある場合には納税額が極端に増加してしまうという欠点がある。超過累進課税なら、税率のちょうど境目の所得がある場合の納税額の増加を緩やかにさせることができる。
日本の所得税の計算その1 超過累進課税の定義通りに計算する
2015年(平成27年)以降の日本の所得税は次のようになっている。
まず個人の収入を捕捉する。次に収入から必要経費を引いて総所得を算出する。そして総所得から所得控除を引いて課税所得金額を算出する。所得控除には社会保険料控除や生命保険料控除とか地震保険料控除など様々な種類がある。
課税所得金額を算出したら次の表を見る。
課税所得金額の分割 | 税率 | 最大でどれだけの金額になるか |
195万円以下の部分 | 5% | 195万円 |
195万円を超えて330万円以下の部分 | 10% | 135万円 |
330万円を超えて695万円以下の部分 | 20% | 365万円 |
695万円を超えて900万円以下の部分 | 23% | 205万円 |
900万円を超えて1800万円以下の部分 | 33% | 900万円 |
1800万円を超えて4000万円以下の部分 | 40% | 2200万円 |
4000万円を超える部分 | 45% |
※参考資料・・・国税庁『所得税の税率』
課税所得金額が4200万円の人なら、「195万円以下の部分」に195万円が入り、「195万円を超えて330万円以下の部分」に135万円が入り、「330万円を超えて695万円以下の部分」に365万円が入り、「695万円を超えて900万円以下の部分」に205万円が入り、「900万円を超えて1800万円以下の部分」に900万円が入り、「1800万円を超えて4000万円以下の部分」に2200万円が入り、「4000万円を超える部分」に4200-4000で200万円が入る。
ゆえに、課税所得金額が4200万円の人は、次のように計算する。195万円×0.05+135万円×0.10+365万円×0.20+205万円×0.23+900万円×0.33+2200万円×0.40+200万円×0.45=1410万4000円
課税所得金額が4200万円の人は1410万4000円の所得税がかかる。
日本の所得税の計算その2 国税庁が考えた「控除額」を利用する
上記のように金額を分割していちいち計算するのはすこし面倒である。計算の手間を省くため日本の国税庁は「控除額」というのを用意している。
課税所得金額を算出したら次の表を見て該当する項目を見る。
課税所得金額 | 税率 | 控除額 |
195万円以下 | 5% | 0円 |
195万円を超え、330万円以下 | 10% | 97,500円 |
330万円を超え、695万円以下 | 20% | 427,500円 |
695万円を超え、900万円以下 | 23% | 636,000円 |
900万円を超え、1800万円以下 | 33% | 1,536,000円 |
1800万円を超え、4000万円以下 | 40% | 2,796,000円 |
4000万円を超える | 45% | 4,796,000円 |
課税所得金額が4200万円の人なら、一番下を見て「4200万円×0.45=1890万円」と計算し、「1890万円ー479万6000円=1410万4000円」と引き算する。この1410万4000円が所得税の金額になる。
計算して、超過累進課税の変動を確かめてみる
先ほども述べたように、日本が採用している超過累進課税は税率が変わる境界線近くの課税所得金額を持っている人にとってさほど大きく納税額が変化しない制度になっている。
課税所得金額が4000万円の人の所得税額は1320万4000円で、課税所得金額が4001万円の人の所得税額は1320万8500円であり、わずか4500円しか変わらない。このように超過累進課税だと税率の境界線でも納税額が大きく変動しない。
仮に「単純累進課税を採用し、課税所得金額が4000万円以下なら40%、課税所得金額が4000万円を超えるなら45%」という制度だったとしたら、課税所得金額4000万の人は納税額1600万円で、課税所得金額4001万の人は納税額1800万4500円となり、課税所得金額がたった1万円増えるだけで200万円ほども多く課税されてしまう。
表計算ソフトで納税額や実効税率を計算するときの数式
エクセルやオープンオフィスといった表計算ソフトを使って納税額や実効税率を計算したいなら、次の表に書かれている数式を使う。A2のセルに課税所得金額を入れるものとする。
課税所得金額 | 納税額を求める数式 | 実効税率を求める数式 |
195万円以下である場合 | =A2*0.05 | =100*A2*0.05/A2 |
195万円を超えて330万円以下である場合 | =A2*0.1-97500 | =100*(A2*0.1-97500)/A2 |
330万円を超えて695万円以下である場合 | =A2*0.2-427500 | =100*(A2*0.2-427500)/A2 |
695万円を超えて900万円以下である場合 | =A2*0.23-636000 | =100*(A2*0.23-636000)/A2 |
900万円を超えて1800万円以下である場合 | =A2*0.33-1536000 | =100*(A2*0.33-1536000)/A2 |
1800万円を超えて4000万円以下である場合 | =A2*0.4-2796000 | =100*(A2*0.4-2796000)/A2 |
4000万円を超える場合 | =A2*0.45-4796000 | =100*(A2*0.45-4796000)/A2 |
上記の方法は、課税所得金額によって用いる数式を変えねばならず少し煩雑である。課税所得金額を入れるだけで納税額や実効税率を計算したいなら次の数式を使う。
エクセルを使っている人が、A2のセルに課税所得金額を入れている場合、納税額の数式は「=MIN(A2,1950000)*0.05+MIN(MAX(A2-1950000,0),1350000)*0.1+MIN(MAX(A2-3300000,0),3650000)*0.2+MIN(MAX(A2-6950000,0),2050000)*0.23+MIN(MAX(A2-9000000,0),9000000)*0.33+MIN(MAX(A2-18000000,0),22000000)*0.4+MAX(A2-40000000,0)*0.45」となり、実効税率の数式は「=100*(MIN(A2,1950000)*0.05+MIN(MAX(A2-1950000,0),1350000)*0.1+MIN(MAX(A2-3300000,0),3650000)*0.2+MIN(MAX(A2-6950000,0),2050000)*0.23+MIN(MAX(A2-9000000,0),9000000)*0.33+MIN(MAX(A2-18000000,0),22000000)*0.4+MAX(A2-40000000,0)*0.45)/A2」となる。
オープンオフィスを使っている人が、A2のセルに課税所得金額を入れている場合、納税額の数式は「=MIN(A2;1950000)*0.05+MIN(MAX(A2-1950000;0);1350000)*0.1+MIN(MAX(A2-3300000;0);3650000)*0.2+MIN(MAX(A2-6950000;0);2050000)*0.23+MIN(MAX(A2-9000000;0);9000000)*0.33+MIN(MAX(A2-18000000;0);22000000)*0.4+MAX(A2-40000000;0)*0.45」となり、実効税率の数式は「=100*(MIN(A2;1950000)*0.05+MIN(MAX(A2-1950000;0);1350000)*0.1+MIN(MAX(A2-3300000;0);3650000)*0.2+MIN(MAX(A2-6950000;0);2050000)*0.23+MIN(MAX(A2-9000000;0);9000000)*0.33+MIN(MAX(A2-18000000;0);22000000)*0.4+MAX(A2-40000000;0)*0.45)/A2」となる。
※MAX関数やMIN関数の数式について、エクセルは「,(カンマ)」を使いオープンオフィスは「;(セミコロン)」を使っている。両者の違いはそれだけである。
意外に低い実効税率
所得税について慣れてない人が先ほどの国税庁の表を見ると、「課税所得金額が4200万円の人の実効税率は45%で課税所得金額が1億円の人の実効税率も45%なのか」と考えがちだが、実際はそうなっていない。
課税所得金額 | 実効税率 |
4001万円 | 33.01% |
5000万円 | 35.41% |
1億円 | 40.20% |
5億円 | 44.04% |
10億円 | 44.52% |
30億円 | 44.84% |
500億円 | 44.99% |
以上のように4000万円という境界に近づくほど実効税率が下がるようになっている。そしてどれだけ課税所得金額が高くても45%には到達しない。
課税所得金額と実効税率の幅は、次のようになっている。
課税所得金額 | 実効税率の幅 | 国税庁の表の税率 |
195万円以下である場合 | すべて5.00% | 5% |
196万円以上330万円以下である場合 | 5.03% ~ 7.05% | 10% |
331万円以上695万円以下である場合 | 7.08% ~ 13.85% | 20% |
696万円以上900万円以下である場合 | 13.86% ~ 15.93% | 23% |
901万円以上1800万円以下である場合 | 15.95% ~ 24.47% | 33% |
1801万円以上4000万円以下である場合 | 24.48% ~ 33.01% | 40% |
4001万円以上の場合 | 33.01% ~ 44.999・・・% | 45% |
※課税所得金額を1万円刻みにして計算した。
所得税累進課税の歴史
世界各国で所得税の累進課税が導入されている。
本項ではアメリカ合衆国・イギリス・日本の所得税累進課税の歴史について紹介する。
この3国はいくつかの点で共通している。第一次世界大戦や世界恐慌や第二次世界大戦の際に累進課税が強化され、1980年頃から新自由主義(市場原理主義)が政治の世界で流行してから累進課税が弱体化された。
アメリカ合衆国
アメリカ合衆国で所得税累進課税が導入されたのは1913年のことで第一次世界大戦の1年前のことである。ウッドロウ・ウィルソン大統領の署名を経て成立した1913年歳入法で最高税率は7%と決められた。
1917年4月6日に米国はドイツに宣戦布告し第一次世界大戦に参戦した。これに合わせて所得税累進課税が一気に強化された。1916年は最高税率15%で、1917年には最高税率67%に上がり、1918年には最高税率77%になっている。
第一次世界大戦が終わると次第に最高税率が下げられ、好景気のまっただ中だった1925年には最高税率25%にまで下がっている。
1929年に世界恐慌が起こり1933年にフランクリン・ルーズヴェルトが大統領に就任し、ニューディール政策を開始した。累進課税の強化が同時に行われ、1931年まで最高税率25%だったが、1932年のハーバート・フーヴァー大統領最終年に最高税率63%になり、1936年には最高税率79%になった。
1941年に米国は日本とドイツに宣戦布告し第二次世界大戦に参戦した。1942年には最高税率88%、1944年には最高税率94%に達した。
最高税率が90%を超える状況は1963年まで延々と続き、1964年になってついに最高税率77%に下げられた。1965年には最高税率70%となり、これが1981年まで続く。
1981年に就任したロナルド・レーガン大統領は新自由主義(市場原理主義)の信奉者で、累進課税を否定する思想の持ち主だった。彼の任期中の1988年には最高税率が28%にまで下げられている。
1991年のジョージ・ブッシュ(父)政権の時に最高税率が31%になり、ビル・クリントン政権の1993年には最高税率39.6%になった。ジョージ・ブッシュ(子)政権の2003年には最高税率35%に下げられ、バラク・オバマ政権の2013年に最高税率39.6%へ上げられた。ドナルド・トランプ政権の2018年に最高税率37%に引き下げられている。
1981年以降の歴代政権による所得税累進課税の最高税率の変動は2021年12月31日の時点で次のようになっている。共和党大統領の4人中3人が税率を下げ、民主党大統領の3人中2人が税率を上げている。
時代 | 大統領 | 所属政党 | 最高税率の変化 |
1981年~1989年 | ロナルド・レーガン | 共和党 | 70%→28% |
1989年~1993年 | ジョージ・ブッシュ(父) | 共和党 | 28%→31% |
1993年~2001年 | ビル・クリントン | 民主党 | 31%→39.6% |
2001年~2009年 | ジョージ・ブッシュ(子) | 共和党 | 39.6%→35% |
2009年~2017年 | バラク・オバマ | 民主党 | 35%→39.6% |
2017年~2021年 | ドナルド・トランプ | 共和党 | 39.6%→37% |
2021年~ | ジョー・バイデン | 民主党 |
※この項の資料・・・Federal Individual Income Tax Rates History - Tax Foundation、Income tax in the United States
※トマ・ピケティの『21世紀の資本』の521ページに最高所得税率のグラフが載っている。「ピケティ 最高所得税率」で画像検索するとそのグラフを見ることができる。上記の記述はピケティのグラフと少し異なっている。
イギリス
イギリスで所得税累進課税が導入されたのは1909年のことで、最高税率は8%だった。当時の首相はアスキスで大蔵大臣はロイド・ジョージだった。このときの予算案は人民予算といい、「貧困と不平等との戦争をするための集金です」「貧困に対する宣戦布告をします」というロイド・ジョージの発言で有名である。
第一次世界大戦が終結したのが1918年11月11日だが、その後の1920年に最高税率60%へ到達している。
第二次世界大戦の欧州戦線が始まったのが1939年で、その年にイギリスはドイツに宣戦布告しているが、1939年に最高税率83%、1940年に最高税率90%、1941年に最高税率98%と順調に引き上げている。最高税率98%は1952年まで続いた。
1953年~1954年が最高税率95%、1955年~1958年まで最高税率93%で、1959年~1964年が最高税率89%。ここから下がっていくと思ったら別にそんなことはなく、1965年~1970年は最高税率91%に上がっている。
1966年にビートルズはTaxman(税務署員)という楽曲を発表している。歌詞は、検索すると出てくる(検索例)。世界的ロックスターになってレコードがバカ売れしたがその収入の多くが税務署に直行していたのでこの楽曲を書いた。
1971年~1972年は最高税率89%で、1973年は最高税率90%となり、1974年から1978年は最高税率98%にまで引き上げられた。
1979年に首相となったのがマーガレット・サッチャーで、新自由主義(市場原理主義)の信奉者である彼女は「金持ちを貧乏にすることはできても、貧乏人を金持ちにすることはできない(The poor will not become rich even if the rich are made poor.)」という発言をして[1]、新自由主義者からの支持を受けつつ累進課税の弱体化を進め、最高税率を40%にまで引き下げた。
2020年現在の最高税率は45%である。
※この項の資料・・・金持ち国の最高限界税率 1900-2013
日本
1887年(明治20年)に所得税法を公布・施行して所得税が導入された。このときすでに累進課税の形式で、最高税率3%だった。
1899年(明治32年)に最高税率5.5%となった。
1913年(大正2年)には、それまでの単純累進課税を廃して超過累進課税を導入し、最高税率は22%となった。同時期のイギリスは最高税率8%でアメリカ合衆国は最高税率7%であり、その2国と比べると高めの税率となっていた。
日中戦争が始まったのが1937年(昭和12年)で、第二次世界大戦の一部とされる太平洋戦争が始まったのが1941年(昭和16年)である。そのさなかの1940年(昭和15年)に所得税法が大きく改正され、最高税率65%となった。終戦直後の1947年(昭和22年)には最高税率85%となった。
1949年(昭和24年)にGHQがシャウプ勧告を出し、1950年(昭和25年)にはその勧告を受けて所得税の最高税率を55%に引き下げると同時に、最高税率3%の富裕税を創設した。
1953年(昭和28年)には富裕税が廃止され、所得税の最高税率を65%に引き上げた。
所得税累進課税の歴史は1974年(昭和49年)から語られることが多い。所得税と、所得税によく似ている住民税の最高税率を表にすると以下のようになる。
最高税率の合計 | 所得税の最高税率 | 住民税の最高税率 | |
1974年(昭和49年) | 93% | 75% | 18% |
1984年(昭和59年) | 88% | 70% | 18% |
1987年(昭和62年) | 78% | 60% | 18% |
1988年(昭和63年) | 76% | 60% | 16% |
1989年(平成元年) | 65% | 50% | 15% |
1999年(平成11年) | 50% | 37% | 13% |
2007年(平成19年) | 50% | 40% | 10% |
2015年(平成27年) | 55% | 45% | 10% |
アメリカ合衆国とイギリスで新自由主義(市場原理主義)が流行し、1980年代の終わりにずいぶんと所得税の最高税率が低くなった。それと同じ時代の日本は1988年まで合計最高税率76%を維持していた。アメリカ・イギリスの動きに即座に追従していたわけではない。
※この項の資料・・・日本税理士会連合会の大学生向け講義用テキスト、財務省資料、『累進課税制度に関する一考察』杉田芳雄、所得税Wikipedia記事
所得税累進課税を導入する理由
所得税における累進課税を導入するときの理由は、以下のものが挙げられる。
職場の管理職の人の労働意欲を適度に削減し、職場において管理職の人が非・管理職の人に対して長時間労働を強要することを防止する
企業や官公庁といった職場には、管理職と非・管理職という2種類の人が存在する。一般には、管理職の人が高額所得を得て、非・管理職の人が低額所得を得る。
所得税累進課税を導入すると、高額所得を得ることが多い管理職の人の所得税率が上昇して、「仕事に夢中になって働けば働くほど税務署にお金を取り上げられる」という状況になる。管理職の人にとって「仕事に人生を捧げるのがバカバカしい」といった程度に労働意欲が低下し、管理職の人が仕事中毒(ワーカホリック)になることを抑制できる。
管理職の人が仕事中毒になったら、その人の部下となる非・管理職の人にとって大変な苦痛となる。管理職の人が「もっと働け、成果を出せ、1年365日働け」などと苛烈なムチを部下に振るうようになり、部下を長時間労働に付き合わせるようになる。
仕事中毒の上司をもつ人は、その上司から長時間労働を強要されることで、うつ病や睡眠障害などのメンタルヘルスになる危険も増えるし、過労死をする危険も増える。さらには、余暇が減り、非婚者なら婚活する気力が失われるし、既婚者なら家庭崩壊や離婚の危険が増える。非婚率が増大し、少子化が加速し、人口が減少し、地域社会が消滅し、国家にとって大損害となる。
以上のように、所得税累進課税の意義の1つは、「職場の管理職の人の仕事中毒(ワーカホリック)を抑制し、周囲の部下に長時間労働という害をまき散らすことを防ぐこと」である。
ちなみに低額所得の非・管理職が仕事中毒になっても、その人は周囲に対して人事権を持っていないので周囲に対して長時間労働を強要することがなく、周囲に害をまき散らさない。このため、低額所得の非・管理職は、ある程度の仕事中毒になっても構わない。それゆえ所得税累進課税を導入した際でも、低額所得の非・管理職への税率を低く維持しておく。
「職場の下っ端が仕事中毒になったとしても、周囲に長時間労働を強要せず、周囲に害をまき散らさない。一方で職場の上司が仕事中毒になったら大変で、周囲に長時間労働を強要して、周囲に害をまき散らす」と指摘しているのは経済学者の大竹文雄であり、『競争と公平感』という著書の180~183ページで論じている。同氏はアメリカ合衆国の経済学者のダニエル・ハマメッシュとジョエル・スレムロッドの『The Economics of Wokaholism』という論文を引用している。そのハマメッシュ・スレムロッド論文には「所得税の累進課税で仕事中毒を抑制できる」という記述がある。
本項目の論法は、他者加害原理を基礎にしている。税金を取り立てて財産権という基本的人権を否定するときは、他者加害原理を基礎として論理を構築するのが望ましい。
高額所得の人の労働意欲を適度に削減し、高額所得の人の健康や家庭円満を維持する
世の中には仕事を多くこなして高額所得を得る人がいる。企業や官公庁といった職場の中なら、管理職が高額所得を得ることが一般的である。職場らしい職場に加入せずに個人的な才能を発揮して高額所得を得る人もおり、「個人競技のスポーツ選手」や「ピンで売れっ子になる芸能人[2]」や漫画家やイラストレーターや「ネットを通じて金融市場に参入する個人投資家」が代表的である。
所得税累進課税を導入すると、高額所得の人の所得税率が上昇して、「仕事に夢中になって働けば働くほど税務署にお金を取り上げられる」という状況になる。高額所得の人にとって「仕事に人生を捧げるのがバカバカしい」といった程度に労働意欲が低下し、高額所得の人が仕事中毒(ワーカホリック)になることを抑制できる。
高額所得の人が仕事中毒になって「働けば働くほど稼げる」と信じ込んで狂ったように働くと、うつ病や睡眠障害などのメンタルヘルスになり、しまいには過労死してしまう。
高額所得の人が仕事中毒になると、長時間労働が普通のことになり、余暇が減少する。高額所得の人が未婚であるなら婚活する気力をなくすし、高額所得の人が既婚であるなら家庭不和・家庭崩壊・離婚・子どもの不良化といった危機に直面することになる。高額所得の人が家庭を顧みないことで家庭が崩壊し、家庭内暴力が起こり、子供が不良になるという悲劇もしばしば聞かれる。有名な例はアメリカ合衆国のドナルド・トランプ政権で国防長官代行を務めたパトリック・シャナハンである(記事)。
累進課税を組み込むと高額所得の人も「働き過ぎず家庭に帰る時間を作ろう」と思うようになる。高額所得を得るような人は優秀な人なので、そういう優秀な人が家庭を大事にして子供とふれあい次世代の人材を育成することは、国家・地域の発展に直結するであろう。
以上のように、所得税累進課税の意義の1つは、「高額所得の人の仕事中毒(ワーカホリック)を抑制し、その人の健康や家庭円満を維持すること」である。
ちなみに、高額所得の人には仕事の依頼が殺到しやすいので、高額所得の人が仕事中毒になると仕事中毒が深刻化しやすい。その一方で、低額所得の人には仕事の依頼が殺到しにくいので、低額所得の人が仕事中毒になっても仕事中毒が深刻化しにくい。このため、低額所得の人は、ある程度の仕事中毒になっても構わない。それゆえ所得税累進課税を導入した際でも、低額所得の人への税率を低く維持しておく。
本項目の論法は、「ある人が自分の健康と自己決定権を回復不可能なほど永続的に害することを防ぐため、ある人から基本的人権の一部を取り上げる」という論法になっていて、未成年から酒やたばこを没収する時と同じ論法になっている。こういう論理を限定されたパターナリスチックな制約という。
基本的人権を制限する際には他者加害原理を基礎とすべきであるが、「限定されたパターナリスチックな制約」の論理なら例外的に採用される。
危険な仕事を他人に押しつけつつ安全地帯に引きこもって金儲けする行為を懲罰する
所得税累進課税を課すことで国内にて金儲けをすることが懲罰される。
このことが支持されるのは戦時中である。大規模に人員を動員する総力戦が行われるとき、戦場に行って命を捧げることを他人にやらせつつ国内の安全地帯で工場を操業して金儲けすることを政府としては何としても抑制したい。また、総力戦のなかで徴兵に応じた人々もそうした政府の懲罰的租税を支持することになる。
こうした考え方を戦時補償論という。ケネス・シーヴとデヴィッド・スタサヴェージが『金持ち課税』という共同著書でそう呼んでいる。
戦争中は戦場で軍隊が激しく物品を消費するので、国内では供給不足気味になり、「作れば売れる」という状況になる。国内の安全地帯で工場を操業すれば簡単に金持ちになれる状況であり、累進課税という抑制がないのなら誰もが「戦場になど行かず、国内の安全地帯で工場を操業しよう」と考えるようになる。
第一次世界大戦や第二次世界大戦で世界各国の所得税累進課税が劇的に強化された。ゆえにこの考え方は極めて高い説得力がある。
新型コロナウィルス(COVID-19)が蔓延するコロナ禍の最中の2020年7月13日に、ミリオネアズ・フォー・ヒューマニティー(Millionaires for Humanity)に所属する世界の大富豪83人が「我々に課税してほしい」と公開書簡を出した(記事)。新型コロナウィルスとの戦いを医療関係者に任せて安全地帯で金儲けすることに心苦しさを感じたものと思われる。コロナ禍は第一次世界大戦に匹敵する戦争だということだろう。
総力戦の戦争に参加して戦場に送り込まれて辛い思いをした人物は、戦時補償論を支持する傾向にあるようである。アメリカ合衆国において、第二次世界大戦を戦場で過ごした人物が大統領の座に座っている間は所得税の累進課税の最高税率が70%以上に保たれていた。
アメリカ合衆国で所得税の最高税率を70%から28%にまで引き下げたのはロナルド・レーガンだが、この人は第二次世界大戦の戦場に送られていない。ロナルド・レーガンは徴兵されたが、アメリカ陸軍航空軍の第1映画部隊に所属し、アメリカ合衆国の本土に残留してプロパガンダ映画や訓練用映画を製作していた。第二次世界大戦においてアメリカ合衆国の本土は全く空襲されなかった。
税金を取り立てて財産権という基本的人権を否定するときは、他者加害原理を基礎とするのが望ましい。危険な仕事を他人に押しつけつつ安全地帯に引きこもって金儲けする行為というのは、直接的に他者に対して危害を加えるわけではないが、他者が危害に晒されることを意図的に放置する行為であり、「間接的に他者に危害を加える行為」と言われやすい行為である。このため他者加害原理を適用されやすい。
権力者の暴走を食い止め、多くの人に広く薄く富が分配されるようにする
累進課税を廃止する税制というと一律課税(フラットタックス)である。
この制度を続けると一部の権力を持つ人のみが得をする傾向が増える。一部の人が金持ちになり、その他大勢の所得が減っていく現象が起こる。
法人税が一律30%で所得税を一律10%にした国の中に、ある中小企業があった。3億円の税引前当期純利益が発生する見通しと、「益金算入額と損金不算入額の合計額」から「益金不算入額と損金算入額の合計額」を引いた額が0となり法人所得が3億円になる見通しが立った。
社長は「自分の役員賞与を増やしてしまおう」と思い、役員賞与を2億1000円増やした。これで税引前当期純利益が9000万円になった。
役員賞与は損金不算入なので法人所得は3億円のままとなり法人税が9000万円かかる。このため税引前当期純利益を9000万円残しておけば、税引後当期純利益が0円となる。
社員たちから文句が出たが、権力で黙らせた。社長の報酬は、定期的にもらう1000万円に2億1000万円が加えられて2億2000万円になったので、10%の2200万円だけを所得税で払い、1億9800万円を手にした[3]。
これが一律課税を採用した場合の一例となる。権力を握りしめたごく一部の人が得をする。その他大勢は会社の利益が出ても恩恵にあずかれず、本来受け取るべき収入が減るのと同じになる。その他大勢の従業員たちの財産権(所有権)を緩やかに否定しているのである。
法人税が一律30%で所得税を一律10%にした国の中に、ある中小企業があった。3億円の税引前当期純利益が発生する見通しと、「益金算入額と損金不算入額の合計額」から「益金不算入額と損金算入額の合計額」を引いた額が0となり法人所得が3億円になる見通しが立った。
社長は「自分の役員賞与を増やしてしまおう」と思い、役員賞与を2億1000万円増やそうとした。しかし、そうすると社長の報酬が定期的にもらう1000万円に2億1000万円が加えられて2億2000万円になるので、そこに累進課税で80%の所得税がかかり、4400万円しか社長の手元に残らないことが分かった。
社長は「こんな馬鹿なことは、やめよう」と思い、安月給の社員たちの賞与を少しずつ増やすことにした。
3億円をすべて社員たちの賞与にして、税引前当期純利益を0円にした。従業員への賞与は損金算入なので法人所得が0円となり、法人税が掛からなくなって節税となった。税引後当期純利益も0円となった。
社員たちに配られた賞与はさしたる巨額ではなかったので所得税の累進課税があまり掛からず、社員たちの手元に多くの額が残った。
こちらが累進課税採用の一例であり、累進課税の良さを示している。累進課税を採用すると、権力者の暴走を自然に食い止めて広く多くの人に富が行き渡るようになる。
政府にとっては「上流階級の大金持ちが少しだけ存在して、下流階級の貧乏人が多く存在する」という状態よりも「それなりに金を持っている中流階級が多く存在する」という状態の方が治安の面でも教育の面でも圧倒的に望ましい。
また、「上流階級の金持ちが少しだけ存在して、下流階級の貧乏人が多く存在する」という状態だと内需(国内の需要)が小さくなり、「それなりに金を持っている中流階級が多く存在する」という状態だと内需が大きくなる。
需要というのは消費者から生産者に向けて「この商品がよい、あの商品はダメだ」「この商品のこの部分がよい、あの部分がダメだ」という情報を提供する行為であり、消費者が生産企業を教育・教導する行為であり、消費者が生産企業を成長させる行為である。このため、中流階級が増えて内需が拡大することで生産企業が成長する流れが生まれる。
企業経営者達にとって所得税累進課税は、「自分たちの財産を増やすことよりも、自分たちを慕ってくれる子分を増やすようにしろ」と政府に命じられているのと同じといえる。
また、所得税累進課税を弱体化させると、大企業の重役が高額報酬を得ることに精を出すようになり企業経営に集中しなくなる。経営雑誌に出て己の才能をアピールし、ロック歌手か俳優であるかのように振る舞って「カリスマ経営者」として褒められるように仕向け、自らを神格化させて高給を得ようとする。そういう姿はトマ・ピケティが『21世紀の資本』の532ページで、ポール・クルーグマンが『格差はつくられた』の101~104ページで、それぞれ指摘している。こういう現象も「権力者の暴走」と表現することができるだろう。
こうした考え方を格差是正とか格差縮小とか中間層創出ということが通例である。
所得再配分とか所得再分配ということもあるが、その言い方だと、政府が金持ちから徴税をしてその金を社会保障で貧乏人にばらまく現象だけを想起しがちである。
本項目において他者の財産権という基本的人権を制限するために使われている論理は、他者加害原理である場合と、「社会における多数派の利益を作り出すために基本的人権を制限する」という論理である場合の2種類が考えられる。
あるブラック企業があって、社員が平均的な水準よりも低い安月給で雇われていて社長が高額報酬を手にしているのなら、「社長が高額報酬を得ることにより、社員の経済的利益を喪失させ、社員に対して経済的な害を与えている」と表現できる。こういう企業に対して所得税累進課税を導入すると、社長に対する報酬が減って社員の給与が平均的な水準にまで回復することが期待できるから、「所得税累進課税は他者加害原理によって導入されている」と言うことができる。
あるホワイト企業があって、社員が平均的な水準以上の高額月給で雇われていて社長が高額報酬を手にしているのなら、「社長が高額報酬を得ることにより、社員の経済的利益を喪失させ、社員に対して経済的な害を与えている」とまでは表現できない。こういう企業に対して所得税累進課税を導入すると、社長に対する報酬が減って社員の給与がさらに増えることが期待できるから、「所得税累進課税は『社会における多数派の利益を作り出すために基本的人権を制限する』という原理によって導入されている」と言うことができる。
職場らしい職場に加入せずに個人的な才能を発揮して高額所得を得る人がおり、「個人競技のスポーツ選手」や「ピンで売れっ子になる芸能人」や漫画家やイラストレーターや「ネットを通じて金融市場に参入する個人投資家」が該当する。こういう人たちがボッタクリ価格で活動しているのなら、「個人的活躍をして高額報酬を得ることにより、周囲の人の経済的利益を喪失させ、周囲の人に対して経済的な害を与えている」と表現できる。こういう個人に対して所得税累進課税を導入すると、個人高額所得者の所得が減って、政府の活動によって周囲の人の利益が平均的な水準にまで回復することが期待できるから、「所得税累進課税は他者加害原理によって導入されている」と言うことができる。
職場らしい職場に加入せずに個人的な才能を発揮して高額所得を得る人がおり、「個人競技のスポーツ選手」や「ピンで売れっ子になる芸能人」や漫画家やイラストレーターや「ネットを通じて金融市場に参入する個人投資家」が該当する。こういう人たちが適正価格で活動しているのなら、「個人的活躍をして高額報酬を得ることにより、周囲の人の経済的利益を喪失させ、周囲の人に対して経済的な害を与えている」とまでは表現できない。こういう個人に対して所得税累進課税を導入すると、個人高額所得者の所得が減って、政府の活動によって周囲の人の利益が平均的な水準を超えて積み上がることが期待できるから、「所得税累進課税は『社会における多数派の利益を作り出すために基本的人権を制限する』によって導入されている」と言うことができる。
他者加害原理によって基本的人権を制限することは基本的人権の制限をするときに最も推奨される方法だが、「社会における多数派の利益を作り出すために基本的人権を制限する」という原理によって基本的人権を制限することは基本的人権の制限をするときにあまり推奨されない。
端的に言ってしまうと、「社会における多数派の利益を作り出すために基本的人権を制限する」という原理は、人を納得させるのが難しい論理である。
貴族や富裕層の出現と階級社会への移行を抑制し、人が人に気軽に話しかける平等社会を作りあげ、情報の流通を促進させて社会発展をもたらす
所得税累進課税や相続税累進課税や贈与税累進課税を廃止すると、富裕層とか貴族というものが出現し、階級社会になる。
階級社会の悪いところは、人が人に気軽に話しかける雰囲気が失われることである。
階級社会になると、上流階級のものは「下流階級の連中に話しかけると『あいつは下流階級の仲間だ』と思われて上流階級から追い出されてしまう」と考えて、下流階級に話しかけることをためらうようになる。下流階級のものは「上流階級の人は自分とは住む世界が違う」と考えて、上流階級に話しかけることをためらうようになる。人が人に気軽に話しかける雰囲気が失われ、人々が持つ表現の自由が制限され、情報の流通が阻害され、社会が発展せずに停滞してしまう。
所得税累進課税などを課税して富裕層や貴族の出現を防止して、平等社会にすると、人が人に気軽に話しかける雰囲気が維持され、人々が持つ表現の自由が尊重され、情報の流通が進み、社会が発展していく。
本項目において他者の財産権という基本的人権を制限するために使われている論理は、他者加害原理である。「階級社会の出現は人々の『表現の自由』を制限し、『情報提供権』を侵害し、人々に害を与える」という論理だからである。
逆進性の強い消費課税の補償にする
政府が徴収する税金には消費課税が多い。酒税、たばこ税、消費税などである。
ところがそうした消費課税は逆進性が強く、貧乏な人の所得に占める納税額の割合が高くて、豊かな人の所得に占める納税額の割合が低い。貧乏な人には厳しい負担となり、豊かな人には軽い負担となる。
このため所得税で累進課税を導入して、消費課税の逆進性を埋め合わせる。こういう考え方をケネス・シーヴとデヴィッド・スタサヴェージが『金持ち課税』という共同著書で「平時における補償論」と呼んでいる。
本項目において他者の財産権という基本的人権を制限するために使われている論理は、「社会における多数派の利益を作り出すために基本的人権を制限する」という論理である。
消費課税だけで財政を組みつつ、政府が十分に活動できるように消費課税の税率を高くすると、貧困層の負担が重くなる。このため「消費課税の重さで貧困層に経済的損害が与えられている」と表現できる。とはいえ、富裕層のみに参政権を認める社会ではなくてすべての階層の国民に参政権を認める社会なら「富裕層が消費課税を重くして貧困層に経済的損害を与えている。富裕層が貧困層に経済的損害を与えている」とまでは表現できない。こういう状態を変化させるため所得税累進課税を導入するとき「所得税累進課税は他者加害原理によって導入されている」と言うことができない。「『社会における多数派である貧困層の利益を作り出すために、富裕層の基本的人権を制限する』という論理で所得税累進課税を導入した」と言うしかない。
消費課税だけで財政を組みつつ、消費課税の税率を低いままにして、政府が十分に活動できないようにすると、「政府の支援を受ける人々」の負担が重くなる。このため「『政府の支援を受ける人々』に経済的損害が与えられている」と表現できる。とはいえ、富裕層のみに参政権を認める社会ではなくてすべての階層の国民に参政権を認める社会なら「富裕層が『政府の支援を受ける人々』に経済的損害を与えている」とまでは表現できない。こういう状態を変化させるため所得税累進課税を導入するとき「所得税累進課税は他者加害原理によって導入されている」と言うことができない。「『社会における多数派である“政府の支援を受ける人々”の利益を作り出すために、富裕層の基本的人権を制限する』という論理で所得税累進課税を導入した」と言うしかない。
自動安定化装置(ビルトイン・スタビライザー)にする
好景気になってインフレが進むと高所得者層が増えるのだが、高所得者層ほど税率が高くなるので消費意欲が適度に沈静化する。累進課税を設定しておくだけで過度のインフレを自動的に阻止することができるので、累進課税のことを自動安定化装置(ビルトイン・スタビライザー)と呼ぶことがある。
本項目において他者の財産権という基本的人権を制限するために使われている論理は、「社会における多数派の利益を作り出すために基本的人権を制限する」という論理である。
「累進課税型所得税を組み込まないと、好景気になったときに激しいインフレになり、通貨価値が下がって、金銭債権を多く持つ人が損をする」というのが本項目における主張である。
しかし、「インフレは富裕層の行動だけで発生する」とまでは表現できない。
このため「累進課税型所得税を組み込まないと、好景気になったときに激しいインフレになり、通貨価値が下がって、金銭債権を多く持つ人が損をする」と主張しつつ所得税累進課税を導入するとき、「所得税累進課税は他者加害原理によって導入されている」と言うことが難しい。「『社会における多数派である“金銭債権を多く持つ人”の利益を作り出すために、富裕層の基本的人権を制限する』という論理で所得税累進課税を導入した」と言うしかない。
それぞれの導入理由の比較
これまでに挙げた導入理由を比較すると、次のようになる。
他者加害原理 | 限定されたパターナリスチックな制約 | 社会における多数派の利益を作り出す | |
1.職場の管理職の人の労働意欲を適度に削減し、職場において管理職の人が非・管理職の人に対して長時間労働を強要することを防止する | ○ | × | × |
2.高額所得の人の労働意欲を適度に削減し、高額所得の人の健康や家庭円満を維持する | × | ○ | × |
3.危険な仕事を他人に押しつけつつ安全地帯に引きこもって金儲けする行為を懲罰する | ○ | × | × |
4.権力者の暴走を食い止め、多くの人に広く薄く富が分配されるようにする | △ | × | △ |
5.階級社会になって人々の『表現の自由』が制限されることを防ぐ | ○ | × | × |
6.逆進性の強い消費課税の補償にする | × | × | ○ |
7.自動安定化装置(ビルトイン・スタビライザー)にする | × | × | ○ |
「基本的人権を制限するときに最も基礎とすべきであるのが他者加害原理である。また、基本的人権を制限するときに『限定されたパターナリスチックな制約』を基礎とすることも例外的に認められる」と憲法の教科書で説かれている。1.と2.と3.と5.は他者加害原理や「限定されたパターナリスチックな制約」を基礎としていて、法学の要請を満たしている。
4.は他者加害原理を基礎とすることもあり、「社会における多数派の利益を作り出す」という原理を基礎とすることもある。「社会における多数派の利益を作り出す」という原理は憲法の教科書で推奨されておらず、人々を納得させるのが難しい論理である。4.は経済学に詳しい人たちの論議で頻出する論理だが、法学の要請を完全に満たしているとは言えない。
6.と7.は「社会における多数派の利益を作り出す」という原理を基礎としている。この原理は憲法の教科書で推奨されておらず、人々を納得させるのが難しい論理である。6.と7.は経済学に詳しい人たちの論議で頻出する論理だが、法学の要請を満たしているとは言えない。
所得税累進課税に反対する声
所得税の累進課税に反対する声は多く発せられている。そのうち有力なものを3つ紹介したい。
労働意欲を失わせ、経済が衰退する
「所得税の累進課税で『働けば働くほどお金が手に入って努力が報われる』という気運が損なわれ、労働意欲が減退してインセンティブ(刺激)が消滅し、だれも頑張らなくなって社会が停滞し国家経済が衰退する」と論ずる声は多く聞かれる。
1960年代や1970年代の英国の経済的な停滞は英国病と呼ばれたが、「英国病は所得税の累進課税が強かったからだ」と論じられることもある。
それに対する累進課税支持者の反論は「労働意欲の減退こそが累進課税の主目的だ」というものである。「労働意欲はエネルギーであると同時に麻薬である」と論じ、「労働意欲を適度に管理すべきであって累進課税は必要である」という風に反論していく。
また、「累進課税は低所得者・中所得者への税率が低いので彼らの労働意欲は十分に維持できるのであり、『だれも頑張らなくなる』ということは起こらない」と反論することになる。
人材の国外流出が発生する
「所得税の累進課税の最高税率が高すぎると最上位富裕層がことごとく国外へ移住してしまい、優秀な頭脳が失われてしまう」と論ずる声が多く聞かれる。
このことを頭脳流出(ブレイン・ドレイン Brain drain)という。1970年代のイギリスでは高額所得を獲得できるような人材が次々とアメリカ合衆国に逃げ出した。言うまでもなく英国とアメリカ合衆国の両方は英語を国語としているので、英国人は気軽にアメリカ合衆国へ移住できた。Tax exileという英語版Wikipedia記事には、1970年代頃に英国からアメリカ合衆国へ移住した人々の名前が載っている。1970年代のアメリカ合衆国も所得税の最高税率が70%で割と高めだったのだが、英国の所得税の最高税率は90%だったので、20%の差を求めて移住したことになる。
実際のところ、この主張こそが政治の世界で猛威を振るっていて所得税累進課税の弱体化という結果を生み出している。所得税累進課税の推進者も「累進課税を強化すると優秀な金持ちが国外流出する」という声を聞くとその途端におじけづいてしまうようである。
それに対して累進課税支持者はどのような反論をしていくべきであろうか。
「累進課税が弱い国に行くと、労働意欲を極限まで刺激して体を壊すまで働くことになってしまうだろう」「仕事中毒(ワーカホリック)が国外流出しても構わない」と強気な主張をする必要があるかもしれない。
「優秀な金持ちが国外流出することは確かに国家にとって損失だが、累進課税によって仕事中毒(ワーカホリック)が抑制されて得られる国家の利益の方が大きい」と論じて、「損して得取れ」の精神を持つべきだと主張することも考えられる。
共産主義(社会主義)と同じである
所得税の累進課税の最高税率が高いと、財産の没収といった様相を呈することになる。その様子はロシア革命のときに共産主義者が資産家の財産を没収していった光景と似ているので、「所得税の累進課税は共産主義だ」と主張する人が多い。
この主張をしていたのは渡部昇一で、多くの著書で繰り返し「所得税の累進課税は共産主義・社会主義の税制だ」と語っていた。
アメリカ合衆国でも「累進課税は共産主義」と語る声が多い(検索例)。共和党員にそういうことを言う人が多い。2016年アメリカ合衆国大統領選挙の共和党候補に名乗りを上げて2017年1月以降は住宅都市開発長官となったベン・カーソンは「累進課税は社会主義」とはっきり発言している(記事)。
実際は、所得税累進課税と共産主義(社会主義)はあまり関係がない。所得税累進課税を強化すると富裕層が消滅するが、その代わりに中間層が分厚くなる。中間層の人々が会社の株式を購入して所有し会社経営をすることはまったく邪魔していない。
一方で、共産主義(社会主義)は国内のすべての生産手段を国有化するという経済思想であり、つまり国内のすべての企業を国有化するものである。政府以外の誰にも「企業の株を購入して所有して会社経営をする」ということを許さない。
所得税の累進課税を敵視する新自由主義者
新自由主義(市場原理主義)の支持者の中には所得税の累進課税を敵視する人物が多く見られる。そのうちの1人が渡部昇一で、一律課税(フラットタックス)を主張していた。
新自由主義者の典型例である竹中平蔵やマーガレット・サッチャーは、人頭税を主張していた。人頭税というのは金持ちも貧乏人も全く同じ額の税金を納める制度であり、累進性が全くないどころか逆進性が極めて強い。
一律課税(フラットタックス)も人頭税も、税金の計算方法が非常に簡単で税務署の人員が少なくて済む。政府支出を削減して『小さな政府』を目指す新自由主義者にとっては政府の人数が少なくて済むという点で大きな魅力を感じるのだろう。
ちなみに、マーガレット・サッチャーは1990年に人頭税を無理矢理導入したが猛反発を浴び、それが原因で首相を辞任することになった。
金融課税と「1億円の壁」
2021年12月31日現在において、日本のキャピタルゲイン税(株式等譲渡益課税)やインカムゲイン税(株式等配当課税)は一律課税であり、一律で20.315%(所得税・復興特別所得税15.315%、住民税5%)となっており、累進課税が導入されていない。
そして高額所得者ほど株式譲渡や株式配当で得られる収入の割合が多い。このため申告納税者の所得税負担率を見てみると、所得金額が1億円までは所得税負担率が右肩上がりの累進課税となっているが、所得金額が1億円を超えると所得税負担額が右肩下がりになっている(記事)。このことを1億円の壁という。
2021年8月26日になって自民党総裁選挙に出馬した岸田文雄は、「キャピタルゲイン税(株式等譲渡益課税)やインカムゲイン税(株式等配当課税)の一律課税を見直す。1億円の壁を打破する」と発言し、9月29日になって総裁選に勝利して10月4日に首相へ就任したが、10月10日になって「金融課税について、当面、見直しをしない」という発言をした(記事)。
関連リンク
Wikipedia記事
論文
関連項目
脚注
- *所得税の累進課税は大金持ちを中流階級(小金持ち)にするだけで、大金持ちを貧乏にするわけではないので、マーガレット・サッチャーの「金持ちを貧乏にする」という表現は、非常に大袈裟な表現だといえる。しかし、こういう大袈裟に誇張した表現で人々の感情を煽るという手段は、政争の場においてしばしば有力な武器となる。
- *ピンで売れっ子になる芸能人は、1人で活躍する芸能人のこと。反対の概念は、グループに加入したりコンビを結成したりして活躍する芸能人である。
- *本来なら給与から各種の所得控除を引き、得られた課税所得金額に税率を掛けて税額を算出する。この例え話では話を簡単にするため「所得控除が一切ない」ということにする。
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