渡部昇一とは、英語文法史を専門とする英語学者であり、保守派の評論家である。上智大学名誉教授。
概要
1930年10月15日、山形県鶴岡市生まれ。
山形県立鶴岡南高等学校卒業、上智大学文学部英文学科卒業、上智大学大学院西洋文化研究科修士課程修了、ミュンスター大学大学院博士課程修了。ミュンスター大学哲学博士(Dr.Phil. 1958年)、同・名誉哲学博士(Dr.Phil.h.c. 1994年)。上智大学講師、助教授、教授を歴任して退職。上智大学より名誉教授の称号を受ける。
保守派の論客として活躍した。また、古書の蒐集家である。
2017年4月17日永眠、享年86歳。葬式には安倍晋三総理、麻生太郎副総理、稲田朋美防衛大臣(当時)が参列した。
自虐史観(日本は悪かった史観)と戦う
渡部昇一は1980年代から保守派の論客として活躍した。特に、自虐史観(日本は悪かった史観)と激しい論戦を繰り広げ、「日本は悪くなかった史観」の提唱者たちの中心的存在となった。
1982年の第一次教科書問題のときから朝日新聞・毎日新聞との対決姿勢を鮮明にしていた。1990年代になると自虐史観(日本は悪かった史観)が優勢になり、1993年の河野談話、1995年の村山談話など次々と政権中枢から謝罪の言葉が出されていたのだが、渡部昇一は多数の著書を出すなどして自虐史観(日本は悪かった史観)に猛反論を浴びせていく。
1980~90年代はインターネットも何もなく、左派マスコミの情報発信力が強烈だった。その左派マスコミに対して果敢に反撃する姿は保守派にとって英雄そのものだったといえる。
1998年に小林よしのりが『戦争論』を書いて「日本は悪くなかった史観」の後押しをしたのだが、この『戦争論』の中には渡部昇一の著書がいくつも引用されている。
「日本は悪くなかった史観」というと、小林よしのりとか「新しい歴史教科書をつくる会」を連想する人も多いだろうが、渡部昇一は彼らが保守派論壇に登場する前から保守派の中心人物だった。
このため、保守派の人から「自虐史観を論戦で破り続けて日本の名誉と尊厳と誇りを取り戻した保守派の英雄」と絶賛されることが多い。もちろん、左派の皆さんからは蛇蝎のごとく嫌われている。
共産主義や国家社会主義を批判する
渡部昇一は保守派の論客なので、共産主義を批判することに余念がなかった。
共産主義の何を批判したかというと、統制経済と、私有財産を否定したところである。
渡部昇一は1930年生まれで、戦中の学徒勤労動員を体験した世代である。学徒勤労動員とは、働き盛りの若い男が大量に軍隊に徴集されて世の中が総じて人手不足になったので、政府が学生を強制的に徴用し、軍需工場や農地などで働かせた政策のことである。学徒勤労動員で渡部昇一は田んぼの収穫や飛行場の建設などを手伝わされた。そんなに体が頑健ではない渡部昇一にとって、こうした肉体労働は非常に嫌な経験だったようである。
また、渡部昇一は戦中の配給制度を直に体験した。配給制度とは、国内が物資不足になったため政府が業界を統制し、自由な売買を禁止して、国民に必要なだけ物資を配った制度である。国民にとって、お金を出しても商品を買えない時代となった。政府に配給券を出してもらい、その配給券を握りしめて長い列に並び、そうしてやっと物資を手に入れる。渡部昇一の母親は商売をやっていた人なのだが、息子の昇一に対して「こんな政策をしているようでは、ダメだ」と言っていたという。
官僚が経済のすべてを牛耳る統制経済を嫌うようになった渡部昇一は、共産主義が統制経済を採用していることを知った。「戦前戦中の日本も、共産主義も、統制経済だからダメだ」と考えるようになった。
戦前の日本には国家社会主義という思想が流行っていた。特に、右翼や軍人たちの間で人気があった。そうした思想は資本家や金持ちを攻撃するものが多く、共産主義と類似点が多かった。共産主義も金持ちの存在を否定し、私有財産を否定する。
このため、「国家社会主義も共産主義も、私有財産や金持ちを否定する点で全く同じである」と渡部昇一は論断し、2つともまとめて批判するようになっていった。
市場原理主義(グローバリズム)を信奉する
統制経済や「私有財産を否定する社会思想」を敵視する渡部昇一は、自然と市場原理主義(新自由主義)やグローバリズムに傾倒するようになった。
市場原理主義とは、国家が経済に介入することを徹底的に減らし、政府の機能をできる限り削減し、『小さな政府』にして、国営企業を片っ端から民営化し、民間の活力を大事にしようという経済思想である。自由競争を促進して競争原理を導入すればすべてが良くなる、と主張する。
グローバリズムとは、国家の規制を緩和して、ヒト・モノ・カネの移動を自由化することにより競争原理を導入し、ビジネスチャンスを広げる思想のことをいう。自由貿易をとにかく尊重し、保護貿易や関税を徹底的に嫌う。
市場原理主義とグローバリズムは『規制緩和』『小さな政府』『自由競争、自由貿易』という点でほぼ同一の思想であると言える。
1990年代後半の日本は、大蔵省の不祥事が発覚するなどのスキャンダルもあり、行政組織をスリム化して『小さな政府』を目指そうという気運が広がっていた。実際に、2001年になって中央省庁再編が行われ、省庁の数が減らされた。そんな時代に、渡部昇一は著書でひたすら市場原理主義やグローバリズムを賛美する文章を書くようになったのである。
渡部昇一が信奉する経済学者というとフリードリッヒ・ハイエクである。この人は市場原理主義の中心人物の1人とされている。ハイエクを賛美する本も書くようになった。
渡部昇一の市場原理主義(グローバリズム)賞賛には、いくつか特色があるので、それを挙げていきたい。
金持ち性善説
渡部昇一は『金持ち性善説』を唱える。共産主義や国家社会主義が『金持ち性悪説』を掲げて私有財産制度を否定してきたので、その反動で、金持ち性善説を繰り返し書くようになった。
これまでの日本においては「金持ち性悪説」が信じられていた。金持ちは放っておくと、何を企むか分からない。金持ちがいるから貧乏人が虐げられる・・・・・・ このような発想から脱して、われわれは「金持ち性善説」に立つべきではないだろうか。
『まさしく歴史は繰りかえす』166ページ
渡部昇一は「金持ち性善説」を勧め、貧しい学生のため奨学金を創設したり、ベンチャービジネスを自らの私有財産で支援したりする金持ちの存在を紹介している。政府が支援するときは煩雑な書類手続きが必要で時間がかかるのだが、大富豪が私有財産をポンと払うときは煩雑な書類手続きなど不要でスピーディーである。そういう、世のため人のため役に立つ金持ちの存在を増やすことが大事だと論じている。
実際には、『金持ち性善説(すべての金持ちは善良である)』も、『金持ち性悪説(すべての金持ちは邪悪である)』も、間違っている。「善良そのものの金持ちもいるし、欲深で悪い金持ちもいる」というのが正しい姿である。私財をなげうって治水の事業に打ち込んだ金原明善のような至善の金持ちもいるし、従業員を解雇しつつ業績を良化させて社長の地位を確保して地中海に「shachou(シャチョウ)」という名の豪華クルーザーを浮かべさせていたカルロス・ゴーンという金持ちもいる。金持ちを疑いすぎるのも問題だし、金持ちを信用しすぎるのもダメである。
渡部昇一は、極端な思想を否定しつつ、極端な思想を肯定したということになる。
所得税のフラットタックス
かなり極端な思想である『金持ち性善説』を信じる渡部昇一が主張したのは、所得税の累進課税を廃止すること、すなわちフラットタックスの導入だった。すべての人の所得税率を10%にせよ、と何度も論じていた。
このフラットタックスも、非常に極端な税制である。渡部昇一は極端から極端へと走る傾向がある。
フラットタックスの問題点に関しては、累進課税の記事に書かれているので、それを参照されたい。
トリクルダウン
渡部昇一は、世の中に金持ちを増やせばトリクルダウン(金持ちから貧しい人へ富がじわじわと流れていく現象)が発生すると熱心に説いていた。
アメリカの放送局が作ったドキュメンタリーを見ていつも驚かされることだが、アメリカではかわいそうな人の代表である10台で子どもを産んだ黒人のシングル・マザーであっても、日本の一般的サラリーマンが暮らしているよりも広い家に住んでいることが少なくない。
国土の広さが違うのだから当然だという意見もあるかもしれない。だが良質の住宅がふんだんに供給されているのは、やはり金持ちがたくさんいる国だからこそ可能なのである。富を蓄えた人がたくさん現れれば、そのカネで借家を作る人もたくさん現れるのだと見るべきではないだろうか。
『日本の生き筋』138ページ
経済を語る有識者の多くは、「トリクルダウンなど発生しない」と言う人が多いようである。
金持ち優遇の税制にすればユダヤ人大富豪が日本に移住してくると主張
渡部昇一は「アメリカ合衆国が繁栄したのは、ユダヤ人富豪を受け入れてユダヤ人の知恵や能力を借りたからである」と考えていた。
このため、「日本の税制を金持ち優遇にして、ユダヤ人富豪を誘致しよう」といった思想を持っており、いくつかの著書でそう述べている。(『まさしく歴史は繰りかえす』130ページ、『対論「所得税一律革命」』249ページ)
現実には、ユダヤ人富豪の皆さんが日本に住む可能性は非常に低いと思われる。日本で最も便利な場所は東京だが、東京は災害に対して世界で最も脆弱な都市であると保険会社たちが認識しているからである。
イギリスに本拠地を置くロイズという世界最大の保険企業は、「東京が世界で最もリスクの高い都市」としている(検索するとその手の記事が多数ヒットする)。
ユダヤ人の得意分野の1つは保険業である。もちろん、保険企業が発表する情報にも敏感に反応する。そんなユダヤ人の方々が、わざわざ東京に移住してくれるわけがないだろう。
官僚より民間の商人の方が賢くて優秀、と民尊官卑の主張をする
戦時中の学徒勤労動員と配給制度のせいで、渡部昇一は政府の権力に対して不信と憎悪を抱くようになったらしい。
権力を持った官僚よりも民間の商人の方がずっと賢い、という思想を何度も著書で披露している。
要するに、商業が人間を利口にするんですね。一方、権力はめったに人間を利口にしないものです。(中略)商業というものは歴史的にしばしばおとしめられたりするのだけれども、自由の基であり、人間を賢くする基なのでしょうね。
『人生を楽しむコツ』41ページ
それでなくても官僚の側のレベルは民間と比べて低くなってきています。(中略) 昔は民度よりも官度が高かった。いまはあらゆる面で民度の方が高いのです。昔は官にでも勤めないかぎりは、ほんの例外以外は外国なんか見ることもできなかった。いまは皆が見ている。民のほうが入り込んで見ています。外国で商売やっている人もいるわけですから、この人たちの知識は、それはもう、官とは比べものにならないくらいレベルが高い。
『対論「所得税一律革命」』152ページ
渡部昇一は、官僚を批判する文章を様々な著書で熱心に書いていたのだが、そのときの批判は常に「すべての官僚は頭が悪くて愚かである」という論調だった。
「頭が悪くて国家を破滅に導く官僚もいるし、頭が良くて国家を興隆させる官僚もいる」というのが現実であろうが、渡部昇一はそういう言い方をしなかった。「民間の商人=頭が良くて質が良い、官僚=頭が悪くて質が悪い」という民尊官卑の観念をしっかりと構築しており、その観念を表現していた。
渡部昇一の、様々な官僚を十把一絡げ(じっぱひとからげ)にして痛烈な批判を浴びせる様子は、職業差別そのものといえる。
ちなみに、渡部昇一は人種差別に対して敏感に反応していた。第二次世界大戦の前の国際社会は人種差別が横行していた、日本は人種差別に屈しなかった、などと書いていて、人種差別を問題視する意識をとても強く持っていた。
ところが、渡部昇一は、「職業差別すべきではない」という意識をあまり強く持っていなかったようである。
不況下の財政支出を批判し、緊縮財政を志向する
渡部昇一は、口を開けば「民間の商人の方が官僚よりも優秀」と言う人である。このため、ことあるごとに政府支出を削減すべきだとか、民営化すべきだとか、そういうことをいう。とにかく、緊縮財政が大好きである。
規制緩和と民営化(政府支出削減)を徹底して『小さな政府』を実現したマーガレット・サッチャーを絶賛していた。
渡部昇一が緊縮財政路線をどれだけ愛しているかは、次の発言でもよく分かるだろう。
リクルートがあれだけ発展したら、労働基準局はなくすか、縮小してもいいのです。
『自由をいかに守るか ハイエクを読み直す』194ページ
ご存じのように、労働基準局はサービス残業を強要したりパワハラをしてくるブラック企業を取り締まる立場の役所で、労働者にとっては最後の頼みの綱といった存在である。渡部昇一は、「私企業のリクルート社があるんだから、労働基準局を縮小してもいい」という。
不況の中では政府が財政支出をしていくことが有効だとされている。その代表は1930年代アメリカ合衆国のニューディール政策であり、代表的な提唱者はケインズである。渡部昇一はその手の政策を毛嫌いしており、次のような発言をしている。
日本政府は、不況対策と称してこれまで公共事業に巨額の国費を投じてきたわけだが、それがいささかも景気浮揚に寄与していないのは誰の目にも明らかなことではなかったか。
『日本の生き筋』23ページ ※1999年7月出版の本
このような事情があったから、どこの国でも経済政策は自由主義から社会主義にシフトしていくことになった。アメリカで民主党出身のフランクリン・ルーズベルト大統領が、1933年(昭和8)、「ニュー・ディール政策」を行ったのも、その一例である。これは、社会福祉を導入する一方で、公共事業を行うことによって、景気を立て直そうとする試みであった。今までは、経済の自助作用にまかせていたが、これからは政府主導で経済を動かすというのだから、社会主義的な色彩が強い。
(中略)当時、ニュー・ディール政策を共産主義と非難したアメリカ人が少なくなかったが、その印象はある程度正しかったと思われる。
『かくて昭和史は甦る』217ページ
国債を発行して財政支出を増やして積極財政をすると「政府が経済に関与しているから共産主義だ」と叩くのが渡部昇一である。
自由貿易で平和が訪れると主張
渡部昇一は市場原理主義者なので、自由貿易の信奉者である。
自由貿易で世界平和が訪れる、という思想を持っていた。『かくて歴史は始まる』の191ページで「自由貿易こそが戦争を防ぐ」という題名を書き、そして、次のような文章を書いている。
アメリカやイギリスがブロック経済に入らず、自由貿易が続けられていたならば、日本が戦争に乗り出すことは、けっしてなかったであろう。
今も昔も、日本は資源がなく、貿易なしには成り立たない産業国家である。自由貿易は、その相手国と友好的でなければ続けられるものではない。それもあって、満州事変までの日本は対外的に協調路線を採っていた。ところが、いったんブロック経済が始まり、貿易の途(みち)が危機に曝されるならば、まず生存する方策を考え出さざるをえない。平和的な貿易ができなくなれば、戦争を歓迎する人間が現れてくる。
『かくて歴史は始まる』192ページ
実際の世界史では、貿易が盛んな国同士が激しい戦争に突入することがあった。自由貿易が確実に戦争を防いでくれるわけではないようである。
第一次世界大戦の直前、イギリスとドイツの間の貿易はとても盛んで、ドイツにとってイギリスが最大の貿易相手国であり、イギリスにとってドイツは第二の貿易相手国だった。中野剛志が『富国と強兵』の342ページでそのことを指摘している。ちなみに中野剛志は、ピーター・リバーマンの『Trading with the Enemy: Security and Relative Economic Gains』という論文を引用している。
市場原理主義と共産主義の類似性に気付かない
市場原理主義と共産主義は、意外なことによく似ている。
市場原理主義は自由競争が極限まで盛んになり、ごく一部の権力者が大部分の富を独占し、権力を持たないその他大勢は富をじわじわと収奪される格好になる。市場原理主義が全世界を席巻したことにより、世界のわずか1%の超富裕層の資産は、残り99%の資産より多くなった。
共産主義も似たようなもので、権力を持つごく一部の特権階級が大部分の富を独占し、権力を持たない労働者たちは配給の列に何時間も並ぶ生活になる。共産国だった時代のルーマニアにはニコラエ・チャウシェスクという独裁者がいたが、その奥さんのエレナが贅沢三昧の生活をしたことが分かっている。ソ連にもノーメンクラトゥーラという少数の特権階級があり、彼ら専用の百貨店も存在した。共産国のなかで贅沢三昧の暮らしをした特権階級を共産貴族という。
市場原理主義というと、嫉妬心を煽ることで有名である。とくに、「法律・制度・規制・権力によって守られた存在」に対する嫉妬心を煽り続け、それを原動力としている。公務員、農家、労働組合、正社員といった存在を既得権益と呼び、「既得権益を許さない、規制緩和せよ、小さな政府を目指せ」と主張する市場原理主義者は多い。
共産主義も全く同じで、嫉妬心を煽る。金持ち・資産家に対する嫉妬心が、共産主義の原動力である。そのため、私有財産制度を否定することになる。
市場原理主義は、一種の救世主思想といえる。「国土が荒廃しそうになったら都合良く救世主が現れてくれるはずだ」という期待感が全ての基礎になっている。政府の予算を徹底的に減らし、政府を弱体化させ、補助金を減らすと国土が荒廃するかもしれないが大丈夫、どこからともなく金満の大企業や大富豪がやってきて、雇用を創出し豊かな地域を作ってくれる・・・と語る傾向にある。
共産主義も非常によく似ていて、国内の金持ちを徹底的に攻撃し、国内から金持ちを一掃すると国土が荒廃するかもしれないが大丈夫、どこからともなく全知全能の指導者(独裁者)がやってきて、国の官僚機構を完璧に統制して豊かな国を作り出してくれる・・・というのが、共産主義の物語である。
渡部昇一は、共産主義と国家社会主義の類似性に気付くことができたが、共産主義と市場原理主義の類似性には気付くことができなかったようである。
移民について、否定論を書いたり黙殺したりする
グローバリズムの弊害の代表例は、貧しい国々から豊かな国へ移民が流入して治安悪化することである。実際に、2010年代のヨーロッパには大量の移民が流入しており治安が悪化している。移民がテロを引き起こした例も多い。
グローバリズムを信奉する人にとって「移民が流入して治安悪化したらどうするんだ」というのは永遠の課題である。
1990年の渡部昇一は、移民について否定的な態度を示していた。この発言をした時はまだソ連も一応存在しており、グローバリズムもさほど広まっていなかった。
しかし、現在では、円高状況が定着し、個人あたりのGNPがアメリカを1割以上も上回るようになり、近隣の貧しい国から、労働者がどっと押し寄せてきている。人手不足に悩む中小企業や建築業界は、もっと入れてくれと悲鳴を上げている。あるいは、お嫁さんの来ない農村では、そういった国からお嫁さんをもらいたいと、わざわざ村長が行って、人身売買まがいのことをやったりする例もある。しかし、ここで日本は断乎入れないと決断すべきだと、私は考えている。
(中略)今後、この傾向が進むなら、大は製造業から小はサービス業に至るまで、日本に進出するたとえば韓国系や台湾系などの企業は、増加の一途をたどることだろう。そうなると、そういった企業では、日本語を一言も知らない密入国者でも勤まるようになる。そういう形で外国人労働者が流入すると、社会の中に悪質なゲットー(スラム街)ができるのは、アメリカやイギリス、ドイツが既に経験ずみのことである。
『日はまだ昇る』144ページ
1991年12月にソ連が崩壊し、共産主義国が次々と資本主義国になった。そのためアメリカ一極の国際情勢になり、グローバリズムが進むことになった。その世相のなかで渡部昇一は市場原理主義への傾倒を強めていき、『まさしく歴史は繰りかえす』『日本の生き筋』『対論「所得税一律革命」』でグローバリズムと市場原理主義を全面的に信奉する文章を書くことになる。そして、そういう本の中では移民流入に伴う治安悪化のリスクについて全く語っていない。黙殺としか言いようのない態度を取っている。
移民をどうするのか、というのは政治の論客にとって最重要のテーマである。政治を語る論客なら、主張を一貫させてほしいものだ。それなのに渡部昇一は否定論を書いてみたり、あるいは黙殺したりと、態度をコロコロ変えている。
さらに時が進んで2008年になった。そうなると、渡部昇一はまた移民否定論を書き始めた。
少子高齢化が問題になって久しいが、この問題の深刻さを議論する際に必ず付随して出てくるのが、移民や難民を積極的に受け入れればいいではないかという意見である。しかし、現在の日本が、多くの移民や難民を受け入れることに、私は大いなる疑問を感じている。
というのも、繰り返し述べているような戦後レジームに毒されている今の日本に、移民や難民を受け入れるだけの力があるだろうかという思いが生じるからだ。移民や難民を受け入れるには、受け入れ側に確固としたアイデンティティーが確立していることが必須の条件なのである。(中略)
現在、私が危ういと感じているのはヨーロッパ諸国だ。アイデンティティーが危うくなりかけているように見えるのである。キリスト教国にイスラム圏の人々が流れ込んで、あるレベルになったらどうなるのか。十字軍の逆のことが起こっているのではないか。「ローマ教皇は何をしているのか」という批判の本を書いたイタリア人女性もいる。(中略)
さて日本はどうか。もしアメリカなどの国から、積極的に移民、難民を受け入れてはどうかとの提案があったとしたら、我々が一番にしなければいけないことは、アメリカで追いやられたインディアンに思いを馳せることだ。なぜならば、日本人は、言ってみればアメリカインディアンの立場に立っているのである。(中略)
日本は、そういうわけで、島国であることが幸いして、日本独自の文明圏を築いてきた。少なくとも、戦前までは、それを守ってきたのである。ところが敗戦と敗戦処理のまずさゆえに、戦後レジームを六〇有余年も引きずっている国になってしまった。
しかも、それに追い打ちをかけているのがグローバリゼーションの嵐だ。(中略)
しかし、アメリカの企業モラルの低さを嘆いていてもことは解決しない。グローバル化が、アメリカの基準が世界の基準になるという形で進んでいるのだから、これからもグローバル化の波をかぶる危険性は大いにあると思わなければならない。
また、こうしたグローバル化を、これ幸いとばかりに利用しようという人たちもいる。彼らは、日本の伝統的価値と結びついた国民意識の構築の必要性を説かれると必ず、グローバル化を引き合いに出す。戦前の国家主義復古を叫ぶものだと弾劾したあげく、グローバル化が進展して国境が低くなり地球が一つになろうとしているときに、何を言い出すのかと嘲笑するのである。時代錯誤も甚だしいというわけだ。彼らの言い分を聞いていると、そのうち国家というものがなくなってしまうような勢いである。こうした思想は共産主義のものだが、共産主義を採用している国のほとんどは、国家社会主義である。
『日本人の底力』45~53ページ ※この本の初版は2008年
移民否定論である。そしてなんと、グローバリズムを非難する文章を書いている。1998年頃はこの本で「グローバリズムは歴史の必然、国家や国境に頼らないユダヤ人を見習え」と書きまくっていたのに、ずいぶんとまた鮮やかな転向をしたものだ。
どうやら渡部昇一は、リーマンショックでグローバリズムや市場原理主義を懐疑するようになったらしい。
彼は「1929年に勃発した大恐慌は、スムート・ホーリー関税法という高率関税の法案がアメリカ下院を通過したからだ」とこの本の177ページで書いているし、「1991年のバブル崩壊は大蔵省の土田正顕が出した総量規制が原因だ」と論じている(谷沢永一との共著『誰が国賊か』に掲載されている)。このどちらも、政府の権力者が犯した失政により大不況が訪れたという説である。
その上で、渡部昇一は「民間の商人は、政府の役人よりもずっと賢い。彼らに任せておけばいい」という市場原理主義の立場を取っていた。
ところが、2007年のサブプライムローン問題と、それに伴う2008年のリーマンショックが起こった。これは、政府の権力者がほとんど何もしていないのに、民間の商人(銀行)が勝手にバブルを作って勝手に破裂させたものである。これを見て、渡部昇一も「民間の商人を信じすぎてはいけない、市場原理主義は疑わしい」と思うようになったのではないか。民間の商人の賢さを疑い、市場原理主義を疑い、グローバリズムを疑うようになったというわけである。
原因はどうであれ、あれだけ熱心に賞賛していたグローバリズムから転向したのは、渡部昇一の論客としての経歴に大きなキズを付けるものになったと言える。
反米保守であると同時に親米保守
渡部昇一というのは反米保守であると同時に親米保守である。
自虐史観(日本は悪かった史観)と戦って「日本は悪くなかった史観」を広めるときに、渡部昇一はアメリカ合衆国を非難した。東京裁判は戦勝国によるリンチである、原爆投下はホロコーストである、日米開戦の原因はアメリカの日系移民排斥と石油禁輸が原因である、などなど。こうした言動を見ていると、いかにもと言った反米保守であるように見える。
ところが、本来の渡部昇一は、明らかに親米保守である。
戦前の日本には幣原喜重郎という外交が得意の政治家がいて、総理大臣も務めていた。幣原喜重郎の外交を幣原外交というのだが、幣原外交はアメリカ・イギリスとの協調を重視する国際協調路線だった。幣原外交について渡部昇一は「幣原外交の線で行くべきだった(『まさしく歴史は繰りかえす』235ページ)」「日本が悲劇の路線に入りこんだのは、幣原外交を維持できなくなったからであることが分かる(日本史から見た日本人・昭和編169ページ)」と述べている。
日露戦争の直後に、アメリカ合衆国の鉄道王エドワード・ハリマンが来日して「南満州鉄道の経営に参加したい」と言ってきて、日本政府が合意しかかったところを小村寿太郎外務大臣に潰されたことがある。渡部昇一は「このハリマン構想が実現していれば良かった。米国もずっと日本の味方をしただろう」と論じている(『まさしく歴史は繰りかえす』225ページ、『かくて昭和史は甦る』194ページ))
また、先述のように渡部昇一は「商業は人を賢くさせる」「商業は自由そのもの」といって商業というものを肯定的に捉えており、その上で「アメリカとは、もともと商売・商業の国なのであり、商人が自分の仕事に誇りを持てる国なのだと、彼との付き合いを通じて私は実感した(『日はまだ昇る』172ページ)」と書いている。要するに、アメリカは商業が根付いた賢い国、と褒めているわけである。
さらには「日本は、アングロサクソン(アメリカ・イギリス)と手を組んだ方がいい。アングロサクソンと手を組んでいたときの日本はすべて上手くいっていた」とも語っている(『日本の生き筋』175ページ)
以上の発言から、やはり渡部昇一は親米保守だと結論付けるべきだろう。
渡部昇一を支持する政治家
渡部昇一を心の底から支持している政治家は少なくとも2人いる。安倍晋三総理と麻生太郎副総理である。
2017年4月17日に渡部昇一が他界した。そのとき、安倍晋三総理はFacebookでコメントし(記事)、葬儀にも参列している(記事)。
麻生太郎も葬儀に参列し、「(渡部昇一は)知性の巨匠だったと思う。左っぽい人が多かった中で、唯一の保守的な人だったんじゃないかな」とコメントしている(記事)。
安倍晋三総理と麻生太郎副総理の作り上げる安倍内閣の行動は、渡部昇一の主張とほぼ同じ動きをしている。謝罪外交をせず、中国・韓国に強気で接し、アメリカには親和的で、緊縮財政を延々と続けている。とくに、経済が停滞していても絶対に財政支出を増やそうとせず『小さな政府』を目指し続ける姿は、渡部昇一の経済理論そのものである。
宗教的立場
渡部昇一氏は、Wikipedia記事に記載されているように精神世界を重視しており、霊魂の実在性を信じている事を明言している。その主張に関する論考活動も行っており、「人は老いて死に、肉体は亡びても、魂は存在するのか?」「霊の研究 人生の探求」(後者は本山博氏との共著)などの著作もある。
その意味で物理主義や唯物論には批判的である。また、進化論にも批判を寄せている。これは、ダーウィンから連なる現在の進化論の多くは、進化のメカニズムについて、霊魂や創造者といった宗教的な言説を使わずに説明しようとするものであるため。ダーウィンと同時代の学者であり心霊主義(スピリチュアリズム)を支持した進化論者アルフレッド・ラッセル・ウォレスは評価している。
霊魂を重視して進化論をアグレッシブに批判するという渡部昇一氏の立場は、日本においてはいわゆる「新宗教」とも共通するものである。例えば新宗教「幸福の科学」の教義において、ダーウィンは人々を無神論に誘った事を無間地獄で反省しているとされる。海外では、イスラム教やキリスト教福音派などの主要宗教・宗派でも進化論を攻撃する立場を取っているが、日本ではいずれも宗教・宗派そのものの勢力が小さいため目立たない。
そういった共通点のためか、氏は幾つかの新宗教と積極的な交流を持っている。統一協会系の新聞紙「世界日報」や、幸福の科学系の月刊誌「ザ・リバティ」等に寄稿したこともあり、特に「世界日報」については25周年の際に「日本のクオリティ・ペーパー」と賞賛するメッセージを寄せている。
この項に関連していそうで関連していない少し関連している話
スイスから渡部昇一氏の孫娘の友人が遊びに来た際、彼女が日本語の挨拶などをしっかりわかっていることについて尋ねると、「日本の漫画を見て日本語を覚えた」「将来は漫画家になりたい」と答えられ、さらに「ブッダとイエスが一緒に日本を見て回る日本の漫画が大人気」との話を聞いたという。
これについて、江戸時代に開かれた道徳学派「石門心学」が心を磨くためならば儒教・仏教・神道どれでもよいとしていた事や、1928年に出版された「修養全集」第1巻の折り込みに釈迦・キリスト・孔子が静かに語り合う絵が載っていた事などと絡めて、神を相対化し共存させるような日本独自の哲学的立場ではないかと、好意的に考察している。
関連動画
渡部昇一に関するニコニコ動画の動画を紹介してください。(以前この項に紹介されていた動画は、著作権を侵害しているという申し立てによって削除されました。著作権を侵害していないものを紹介してください。)
関連項目
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